1月5日(火曜日)
新春歴史第一段
武田元光(彦二郎・伊豆守・大膳大夫)1494ー1551
元信の2子。『甲斐信濃源氏綱要』では、母は畠山修理大夫義統の女とある。
1519年元信出家後若狭国守護となった。
1522年後瀬山に城を築き、その麓に館を構えた。
1527年2月元光は丹波における管領細川高国家臣の内紛により、丹波勢が京都に迫ったため、西七条桂川でこれと戦ったが、大敗し近江に逃れた。
1538年2月27日には丹後国加佐郡田辺に陣してた元光の家臣粟屋元隆が突然帰国し、同年7月17日、谷田寺で武田軍と戦った。元隆は丹後へ敗走したが、同年9月再び若狭へ乱入する気配をみせた。一方、弟武田中務少輔信孝も越前から元隆に呼応して若狭へ乱入する気配をみせたため、元光は幕府を通じて越前朝倉氏にこの制止を依頼している。これら一連の反乱は、粟屋元隆らが、信豊の家督相続に反対し、信孝を擁立しようと企てたと考えられる。妹は朝倉孝景の室。
潤甫周玉 1505ー1550
元信の3子。建仁寺282世。小浜栖雲寺の開山。
武田元度(中務少輔)
元信の4子。遠敷郡新保山城主か?『実隆公記』文亀2(1502)年6月20日条に「於若州小浜武田中務大輔、同子弥五郎等討死云々」とあり国一揆の襲撃を受けて、子の弥五郎と共に殺害された事が解る。年齢的に元光の兄、もしくは元信の弟の可能性大である。
武田元実(五郎)
元度の子。新保山城主。
内藤元是(伊豆守)
元信の5子。内藤氏を称した。
内藤重純(石見守)
元是の子。
武田信孝(中務少輔)
元信の子。元光の弟。1538年武田信豊が家督を継いだ年、粟屋元隆に擁立され叛乱を企てたが失敗し、元隆は丹波へ、信孝は越前へ去った。同年9月、元隆は細川氏被官の丹波勢を頼み、信孝は朝倉氏の合力を得て若狭へ乱入しようとしたが、幕府の停止命令により失敗した。
武田輝信(左兵衛佐)
『甲斐信濃源氏綱要』では元信の子としている。
1565年本国寺で討死と有る。将軍家相伴衆。足利義輝より偏諱を受ける。
春沢永恩
元信の子で潤甫周玉の弟という。建仁寺287世。
次は武田信豊です