11月1日(日曜日)
昨夜今朝の祇園・・・
ハロウィンなんか大嫌いだ~。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。ウワーン
騙された・・・ミニナースで生脚、挨拶したら後ろから下着が丸見えって
白いパンストはいてるし( ̄へ  ̄ 凸ケッ
普通のナースやしヾ(▼ヘ▼;)
ショックなので、歴史ですΣ\( ̄ー ̄;)ナンデヤネン
武田国信(彦太郎・治部少輔・大膳大夫・宗動)1442ー1490
信繁3子。若狭・丹後守護。
丹後守護は1471年6月ー1474年5月まで確認されている。
応仁の乱では兄信賢とともに東軍に属し、1470年6月3日西軍の美濃国守護土岐成頼の上洛に対抗するため、如意岳に布陣したが、同国守護代斎藤妙椿に攻められ敗走した。しかし、1471年5月21日西軍の越前朝倉孝景が東軍へ寝返り、これを援助するため、6月25日細川勝元は国信らを敦賀に発向させている。
1475年4月、山名政豊と細川政元の和睦の仲介役を務める。しかしこのときの和睦の条件の一つとして、武田氏が応仁の乱の最中に一色義直と戦って奪った丹後の所領を返還せよという条件があった。しかし、丹後に布陣していた国信の家臣逸見宗見らはこれを不満として一色勢と戦ったが結局同年9月15日、宗見が自殺するなど、武田軍は全滅した。和睦に参加した国信は援軍を丹後に送る事ができなかった。国信はこのとき、落胆して出家し、宗勲と号したという。
将軍義尚の六角討伐に出征した後、1489年若狭に下国した。
国信は文武両道に優れ、しばしば連歌や和歌の会を催している。
武田元綱
信繁4子。
http://ameblo.jp/katsuyori/theme3-10004426456.html#main 参照
月甫清光
信繁5子。建仁寺251世。
三条西実隆と親交が有った。武田元光を後見した。
延秀光賢
信繁6子。建仁寺286世。
次回は武田元信です