自由な火
「長男が村上春樹にはまってくれて嬉しい」というポストをしましたが、それはもう本当に、言葉では言い表せないくらいの気持ちでして。
たぶん多くの人がそうであるように、私自身も村上作品のおかげで、10代、20代と自分を見つめる数多くの機会をいただきました。
自分自身の井戸を掘って掘って掘り下げて、なんとなく水脈(普遍的無意識)と呼べるようなところまで降りていけるような感覚。
そしてその水を両手でそっとすくって、現実の世界に少しだけ持ち帰ってこられるような感覚。それは確実に、私の核とでも呼べる部分の一雫になっている気がします。
これまで何度も読み返した作品もあれば、一度しか読み返していない作品も多くあります。
そんな中で、このワンシーンをどうしてももう一度読みたいのに作品名が思い出せない!!
という事態に長年苦しんできたのですが(おおげさ)、なんと本日ついに思い出すことができました。
それは「サラダ好きのライオン」というエッセイの中に収録されている
「秋をけりけり」というとても短い一編でした。
一部抜粋。
『高校生の頃、深夜机に向かって勉強(だかなんだか)をしていると、窓ガラスにこつんと小石があたって、ふと外を見ると、友達が手を振っていた。「海岸に行ってたき火でもしないか」というので、一緒に海岸まで歩いて行った。そして流木をいっぱい集めて火をつけ、とくに何を話すともなく、砂浜で何時間もその炎を二人で眺めていた。その頃にはまだ兵庫県芦屋市にもきれいな自然の砂浜があったし、たき火は何時間眺めても飽きなかった。』
そうこれ。
なぜかこの“深夜の海岸で、流れついた流木で焚き火をする“というシーンが胸に焼き付いて、この頃は人生で焚き火なんて一度もしたことがなかったのに、とにかく強烈で、苦しいくらいの憧れを抱いたことを覚えています。
そしてこの体験を元に作られたであろう
「神の子どもたちはみな踊る」から「アイロンのある風景」。
この話も、夕方になると顔全体が影で覆われたみたいに薄黒くなる40代の三宅さんと、それよりも若い2人の男女が、真冬の深夜に海に流れついた流木で焚き火をする話です。
一部抜粋。
『火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから、見ているほうの心次第で何にでも見える。順ちゃんが火を見ててひっそりとした気持ちになるとしたら、それは自分の中にあるひっそりとした気持ちがそこに映るからなんや。そういうの、わかるか?
でもどんな火でもそういうことが起こるかというと、そんなことはない。そういうことが起こるためには、火の方も自由やないとあかん。ガスストーブの火では、そんなことは起こらん。ライターの火でも起こらん。普通の焚き火でもまずあかん。火が自由になるためには、自由になる場所をうまいことこっちでこしらえたらなあかんねん。そしてそれは誰にでも簡単にできることやない』
今の私はキャンプ場で焚き火をするようになり、それはもちろん楽しいのですが、この三宅さんの語る「自由な火」とはちょっと違う。全然違う。
私がいくら焚き火をやっても、心の奥底でどこかで求める気持ちが消えないのは、きっとこの二つの作品のせいに違いない!ということに、今更ながら気がづきました。村上春樹、恐るべしー!笑
でも考えてみれば、私にとって村上春樹の作品は、まさしくこの深夜の海岸で行われる自由で不確かな火そのもののようなもの。ひっそりと、熱く燃え上がる。まるで何かの儀式のように。
「長男が村上春樹にはまってくれて嬉しい」というポストをしました。
それはもう本当に、言葉では言い表せないくらいの気持ちで。
言葉にすることは難しいけれど、この先たくさんの物語を読んだ長男と、いつか深夜の海岸で流木を集めて、2人で焚き火をしてみたいなと思う。
その時、君は何を思うんだろう。
その時、私は何を思うんだろう。
火はきっと、何時間眺めていても、飽きることはないんだろう。