市川沙央の『ハンチバック』(文藝春秋)

―重度障害者の表象は何をもたらしたのかー

 

                   岡本勝人

 

 私たちは、あたかも生と死が相対的な次元であるように、健常者と障害者の境界も、相対的なものであることに気づいている。しかし、市川沙央の『ハンチバック』という障害者の表象の作品に触れると、現代の市民社会における福祉領域の、特に重度障害者のリアリティある表象空間に驚きの思いを禁ずることができない。

 「天涯孤独の無力なせむし(ハンチバック)の怪物である私」は、実際には「筋疾患先天性ミオパチー」による「症候性側彎症」および「人口呼吸器使用・電動車椅子当事者」である。主人公の釈華は、Webライターとして「コタツ記事」も書く重度障害者の女性作家としてえがかれている。「保存したWordPressのテキスト打ち込み画面を閉じ、私は両手で持っていたiPad miniを腹のタオルケットの上に置く」障害者の創作活動や日常生活、施設での会話や不自由な身体移動が、小窓から遠望するようにリアルに描かれている。「読者バリアフリー」を主張する主人公の使用アカウントには、「Buddhaであり釈華、釈華でありながら紗花である私が創り上げた妄想世界」として、「妊娠と中絶がしてみたい」「普通の人間の女のように」とある。

 主人公の生活は、「アン」シリーズで知られるイングルサイド(炉辺荘)というグループホームである。介護と看護関係者の出入りが忙しいマネージャやヘルパー、看護師などの地域福祉の拠点である。主人公は、コロナの関係で人手不足となり、異性入浴介助をしてもらうことになる。「日本では社会に障害者はいないことになっている」「障害者は性的な存在ではない」。絶対弱者の主人公が、弱者男性に金額を提示して、唾液とは違う味を口に受ける。「翌日の朝から熱が出てきて、(略)呼吸器の気道内圧アラームかひっきりなしにピッポパピペポと鳴った」私はInglesideの陶製の番犬ゴグとマゴグにじっと目を凝らす。そして生身の社会的な身体を持てない限界を感じた意思表示は、iPhoneを防水シーツに放り捨てることだった。「私はモナ・リザにはなれない。/私はせむし(ハンチバック)の怪物だから」。そしてBuddha=釈華=紗花は、旧約のエゼキエル書からゴグの寓話を象徴的に引用する。言葉と言葉が、フィクションとしてつながる。矜持と怨嗟の入り混じった実存としての多様性の物語から如来蔵的な存在への救済がかすかに透けてくる。

 小説のはじまりである大学生の紗花のハプニングバーのあらましと比較して、最終章は、みずからの存在と世界の表象を全て受け入れ、ノーマライゼーション(普通の生活と権利保障)の市民社会に溶けこむ生活感の認識が漂う。「私の紡いだ物語は、崩れ落ちていく家族の中で正気を保って生き残るための術だった。/彼女が紡ぐ物語が、この社会に彼女を存在させる術であるように」。

この小説は、福祉生活者の日常からの視線によるリアリズムである。と同時に、重度障害者によって再現されたイメージの表象文化論になっている。1980年代の後半から文化の表象表現に変化がおきた。諸力の交錯する現実は、あるように見える存在であるにしても、こちら側の行為の空間を変容させると、世界の生成は違ったように映し出されてくる。見えていた世界の構造は、まったく異なる世界になるのだ。

 作家の表象の根底には、「障害者表象」と「現実社会」の相互影響の思索がある。

 

                          (了)

 

(「みらいらん」最新号掲載予定)