「詩学」の意味する内在性について

 

書評『詩学講義−「詩のなかの私」から「二人称の詩学」へ』(川中子義勝・土曜美術社出版販売)

 

                               岡本勝人

 

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 本書を文学的に貫いているものは、「詩の自覚の歴史」からみた「詩のなかの私」から「二人称の詩学」への考察にあると思われる。

山本健吉には、『詩の自覚の歴史』という「遠き世の詩人たち」の万葉歌人を語る大著がある。その骨子は、「日本文学の歴史に寄せる私の興味に、一本の通ったものがあるとすれば、それは日本の詩の自覚の推移をたどることである」という同名のエッセイ「詩の自覚の歴史」(『古典と現代文学』所収)における書き出しにある。ここには、古典と現代文学を結ぶ「詩の自覚」を問題にする山本健吉がいる。

いっぽうで、先ごろ亡くなられた神品芳夫のドイツ文学にみる「自然詩の系譜」も、「自然詩の系譜は目立たないけれども執拗で、文学史の地底を這っている地下茎のようなものである」(『自然史の系譜 20世紀ドイツ詩の水脈』「序」)とあり、本著の論点をなすもうひとつの重要な柱であろう。著者の「自然詩の系譜」から「宗教詩の自然詩」を語り出す視点には、神品芳夫の研究する時代とは異なるもののドイツ文学を専門とする視点がある。

 

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 著者の語りの骨子には、歴史的な近代の構造への批判を展開する姿が見られる。「宗教詩」から「世俗詩」の生成する過程は、中世ライス(ラテン語)から自ら三十四篇の讃美歌を作ったルター(1483-1549)による宗教改革期のコラール(ドイツ語による衆讃歌)にみる「われわれ」という共同性から、「一人称」の「私」が優位をもつ時代として捉えられている。「宗教詩」から「世俗詩」への過程の中に生成した「私」という神に、現代詩の抱える問題があり、著者が考察するテーマがあるという強い主張である。神という存在から離脱してしまった現代人の「私」は、近代的な詩のありかたとそれに拮抗する「あなた=神への親和性」の「二人称」の存在に引き裂かれる。確かに「宗教詩」から「世俗詩」に至る時代の流れは、中世から近・現代へと詩の形式と内容の大衆化を経つつ変容してきたメルクマールであったが、それはキリスト者にとって、時代を経るにつれて失われたものの実感の認識があり、そうした思いは著者の中では近代に対する警鐘としての反近代的思考として機能している。ヘルダーリンやリルケやゲーテその他の詩人をはじめとするドイツ現代詩の緒作品を例に挙げながら、著者の日本の現代詩についての考えは、遡行的であり、両義的であり、貴重な現在性の差異の考察となっている。

こうした意味からすると、本著は著者の内面を律しているキリスト者としての宗教性としての聖なるものの問題が深く関わっている。文化の革新であったルネサンスとルターの大衆への視線をもつ聖書翻訳による宗教の革新運動以後、日本では近畿や北陸地方を中心とする一向一揆の時代にあたるが、ドイツでは宗教改革と対抗宗教改革の抗争がはじまる。プラハで聖書を翻訳したフス(1370頃-1415)とその後のフス戦争や農民指導者・トーマス・ミュンツァー(1490頃-1525)の社会変革によって発生した農民戦争や三十年戦争(1618-1648)を経て、ルター以後、バッハのカンタータでも知ることができる宗教詩人・ゲルハルトをはじめとする、詩の世俗化(生活詩化)が推進されていく。問題は、中世以降の宗教の「われわれ」から「一人称」による近代的な「私」の自覚によって、また他方で「自然・世界」の発見を駆動する詩が生成された事実とその事後性にあった。宗教者としての著者の立場からみれば、ここに現代詩のもつ顕著な特性もあれば、現代抒情詩のかかえた問題もある。

 詩における宗教性の問題と、宗教詩そのものを語る位相には、差異があるように思える。なぜならば、詩的な宗教感性と宗教詩そのものを目の前にする現代の庶民からすれば、神の存在は軽くなり、聖なるものに対する思いはどれほどリアリティがあるのかという現代人の煩悶がある。伝統の言葉ではもはや現代人の内面を語り得ないという、神よりも人間と社会への問いが世俗的な倫理となっていた。戦争をくぐり抜けたところで書かれた詩を戦後詩とすれば、戦後詩人の「荒地」派の詩人のエートスには、あきらかにキリスト教的感性が含まれていた。さらに現在に引き寄せて考えれば、前世紀の世紀末から今世紀にかけて、今後のテーマは宗教の時代であるという論調があった。じっさいに戦争や紛争と内乱、難民などの現実的な社会問題が起こると、現代社会の暗さに踏み迷っている姿を映し出す現象の映像には、宗教を原因とするものもあり、宗教の果たす役割の大きいことにあらためて認識させられる。

 

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 第二次大戦後、ナチズムとの関わり方への自己批判も含めてヘルダーリンとニーチェを継続して哲学として論じたハイデッガー(1889-1976)の存在があった。ハイデッガーは、神を失った近代社会には自由の中に人間を解き放してくれたという論拠もあれば、近代が夜の時代へと変貌し、故郷という人間の精神的なハイマートが失われていったことを問うている。

 ここで、ドイツ表現主義に惹かれた著者の心に強くこだましている背景が見える。それは、現代における危機神学としての宗教学的な問いである。「エレミア書」や「ヨブ記」に言及する著者は、キリスト教カソリックというより、内村鑑三(1861-1930)などの「聖書之研究」に親炙する日本的なプロテスタントの系譜に連なると思われる。表現主義以降、社会批判文学で取り上げられるミュンツァーの存在に似て、その批評精神こそが、現代人にとって、啓示宗教としての神の存在を問う「神議論的問い」であった。それは、危機にある現代人が引き受けている「苦難」や「死」や「生」の意味をあらためて聖書の比喩や寓意の中に問うことである。こうした「神への問い=ヨブの問い」(神義論)は、「われわれ」の詩から詩の中に発生した近代的「私」の独白や告白へとたどり着いた現代人が、もう一度、宗教的な共同性としての「われわれ」を取り戻すことができるかという問いを立てるとともに、ドイツ・コラールを中心とする讃美歌に込められた「二人称」としての聖なる「あなた」を呼び戻す鋭意に連関する。神と私が分断され、転倒する絶望(キルケゴール)となったとはいえ、言葉は「二人称」的な出来事である。なぜ、リルケやヘルダーリンや伊東静雄や宮沢賢治や内村鑑三の詩の考察を通じて、そうした詩の「二人称」的な呼びかけや「自然詩の発見」が、聖と俗の重層性の中に考察されなければならないのか。そこには、極東の自然風土をもつ日本(Far East)の独自の宗教的背景や現代の都会的なニヒリズムと世俗化のなかで、明らかに失われつつある「あなた」という二人称と同値していく「神への問い」を訪ねあて、探し出すことにあった。著者は、日本の多くの現代詩人の詩の痕跡に、そうした「神への問い」を読み込もうとしている。

 

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 著者は、中世詩から近世詩を含める自訳によるドイツ・コラールやドイツの現代詩人の詩の翻訳を通じて、「詩学講義」を東京大学の講座としても行ってきた。そこでは、詩における「われわれ」と「私」はつねに円環しているのだと述べる。そして現代のドイツ詩の考察では、詩における「あなた」や「君(du)」という「二人称」の言葉の発露と復活の方向が問題となると問うているのだ。現代詩が混迷しているので、詩にもう一度「二人称」の存在の契機を明らかにし、それを取り戻すことで、詩の魂(愛)の原型を取り戻そうとする。こうした著者の大学での「詩学講義」は、ラテン文学からドイツ文学という稀有な研究者としての専門領域であった。ドイツ文学の講義と中世詩の翻訳を通じた研究と思索を推察すれば、その本質は、信仰詩を中心とする「宗教詩学」への関心にあったというべきだろう。

 他方で、親鸞の「三帖和讃」やドイツ語を学んでいた宮沢賢治における法華経の「如来寿量品」、「華厳経」の論旨である「一切即一」、世親の「倶舎論」も引き合いに出しつつ、宗教の詩の中の「私」と「われわれ」のあり方を考察している。本門の「如来寿量品」を非啓示的「法身」とし、釈門の「阿弥陀如来」を「報身」として融合することが可能であれば、それらの「私」と「われわれ」は、新訳と旧約を解釈学によって統合する三位一体論と三身即一の仏神論のアナロジーを介して、東洋世界の唯識と輪廻転生の否定神学的世界に触れるものである。それは、そのまま宗教学としてのキリスト者の「苦」への「意味の問い」の思索ともなるが、ここにおいても、「二人称」(神や弥陀)や「自然(じねん)」の発見への刻印を強くすることをうかがい知ることができる。そこに、指示表出の展開である「語り」としての賢治の詩の「トシ」への「呼びかけ」も多声的に重層することになる。

 

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 今日のグローバルな地球時代にあって、西洋も東洋もないという考えがある。現代詩における「私」を問うことと、「あなた」を召喚して「われわれ」の生活共同性を強固にできうるかという問いは、著者の考察によれば、詩の「自覚」の歴史や「自然詩」への回帰、ロマン派的な詩的「垂直」性や聖なる神の宿る「山」の発見という聖性の喪失に内包されてたどり着いた詩論の中心である。今日の近代の認識や自然科学は、世界の「三人称」化を推し進めてきた。しかも「二人称」そのものも現代では絶えず対象として叙述する「三人称」を分化させてきてもいた。そこに「三人称」と「一人称」優位の現代社会が透けて見えるのだが、現代詩人がどのようにおのれという「一人称」の自我に対する超越と内在について考えるかという問題とも重なってくる。「われわれ」への召喚の「彼方」には、絶えず回収された事後性としての党派性や共同性の隘路にまみえる日本的負性がある。著者は、想像力とは、内に像を作り出す力であり、イメージを駆使する能力であると語る。自我存在の横溢する神を失った世俗社会の実学の優位の現代と、それが解体しつつ、しかもハイマートとしての帰郷を果たせないでいる私たちの宗教学的な難問に対する詩の想像力という問題であろうか。現代詩人にどのようにキリト教が受容されているかは、かつて人類学者や文化人類学者が身を投じて体験した異域での共時的思考にあるように、その強い信仰心よりも感性的な受容の姿と民俗の自然性の発見に見てとることができるように思う。

 これらは、現代人にとっての宗教学的な問題である。と同時にキリスト者として、信仰者としての著者にとっても、また知識人としての「神への問い」の発露である。本著は、神を喪失した大衆化する現代詩の生成のあり方に対する「二人称」と世界と自然の視座を提示する「宗教詩学」としての「詩学」である。           

 

 2024.3.5 了