「詩集時評 六」

 

高柳誠詩集『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』(ふらんす堂)にみる「マニエリスム」的思考と展開について

 

     

(第一回)

 

                        岡本勝人

 

  (1)フィレンツェからの語り出し

 

 雨が降り出したので、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の近くの駅からタクシーに乗った。行先は、サンタ・フェリーツェ教会である。アルノ川を渡り、ダンテとヴェアトリーチェの出会いで知られるサンタ・トリニタ橋のあたりで、近くには知られたヴェッキオ橋があり、教会はそのたもとにある。オレンジ色の屋根に覆われたフィレンツェの屋根瓦の街並みのなかでは、とても地味なファサードをもつ教会だった。ウフッツィ美術館からピッティ宮殿を結ぶヴァザーリ回廊が、教会の隣あわせに連なっている。そこから貴族たちが教会の内部を礼拝できるようにできていたらしい。なかにある有名な絵は、ポントルモ(1494-1456/7)の作品だ。

 教会に入るとすぐ右手にカッポーニ礼拝堂と名付けられた寺域がある。そこにあるのは、貴族の碑を挟んで、大天使ガブリエルと受胎告知のマリアの絵である。マリアは、幻想的で明るい淡い空色と紫と赤の、夕焼け空が激しく変化したような微妙な色の衣を纏っている。フラ・アンジェリコやレオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知の絵とは色彩がとても異なっている。というのは、ルネッサンスの最盛期をむかえた自然の理想と調和的な古典主義といわれたレオナルドやミケランジェロやラファエロの後の反古典主義のマニエリスムがはじまるからだ。ラファエロの死後、後期ミケランジェロの作品は、マニエリスムの発端となった。そして、その初期の代表とされた画家が、このポントルモである。ポントルモというのは、日本人には聞きなれない名前かもしれない。『迷宮としての世界 マニエリスム美術』(グスタフ・ルネ・ホッケ著・種村季弘/矢川澄子訳)では、明らかに「最初の衝撃」として、反古典主義革命としてのマニエリスムの発生が語られている。それは、北イタリアのフィレンツェの画家ポントルモからはじまっているのだ。

 画家は、イタリア北部のトスカーナ派を代表する人物だったが、北イタリアには、三つの美術史のトポスがある。ルネサンスのフィレンツェと17~18世紀のヴェネツィア、そしてジョットーの拠点となったパドヴァである。この北イタリアから北ヨーロッパへとマニエリスムは結ばれていった。この後期ルネサンスからバロックへと橋渡しをしたのが、『イタリア絵画史』(和田忠彦他訳)のロベルト・ロンギが取り出したカラヴァッジオ(1572-1620)である。そして、後期のマニエリスムの時代になると、果物や植物や元素による造形的なパノラマを見せるアルチンボルド(1527頃-1593)という画家が出てくる。アンドレ・ブルトン(1896-1966)のシュルレアリスムに通ずる衝撃という形容にふさわしい迷宮の画家である。時代と時代は、移りつつ流れていく。ルネサンス後期とバロックへと移行していく流れには伏流もあった。マニエリスムには、バロックが源流であるとする見方もある。そうした逆流もあって、マニエリスムの思想は、時代を経ながら、変奏すると反復しては、繰り返される芸術の常数として認められてきた。

 なぜ、高柳誠の最新詩集を語るために、フィレンツェの画家から語り出したのだろうか。それはホッケ(1908-1985)の『迷宮としての世界 マニエリスム美術』の「解説」で、博学な高山宏が語っていることに直接的な関係がある。

 ホッケは、『ヨーロッパ文学とラテン中世』や『文学と旅』で知られるクルティウス(1886-1956)の弟子である。クルティウスの「マニエリスム定義(第十五章)」は、その後、ドボルシャックの「グレコとマニエリスム」の論考を網羅した『精神史としての美術史』に結実する。グレコ(1541-1614)とアルチンボルトは、同時代人であった。ラテン語のmanus(手)に由来するその手法(マニエラ)は、もはや美術史の概念を超えて文芸学の術語へと転移するほどに、ヨーロッパ的常数となる事件へと事柄は及んでいたのだ。美術史ないし美術研究は、当時、文学研究や詩論よりは先んじていた。十年余もイタリア滞在をして本を書き継いだホッケには、続巻の『文学におけるマニエリスム−言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』がある。そこでは、ウンベルト・エーコ(1932-2016)の『バウドリーノ』もローリングの『ハリー・ポッター』シリーズも、マニエリスムという範疇のなかにあった。

 そうして、本論考へと接続するのだが、驚くべきことには、高山宏は、現代詩人である阿部日奈子、篠原資明の詩作にくわえて、高柳誠の詩作をあげているのだ。こうして今、私たちはマニエリスムを通じて、現代詩について考えようとしている。

 

(2)詩集の構造からその内部へ

 

 洋風のサンゴが反転した細密なデザインは、淡い青と灰色を混ぜ合わせたような線描である。長いタイトル名が、銀箔押しのように見える。詩集の巻頭には、1篇の総タイトル詩「輾転反側する鱏たちへの挽歌のために」が置かれていた。一読すると32行の詩だとわかる。ところがこの詩集の次のページにある目次を目で追っていくと、全体が32篇からなっていた。さっと見てみると、驚くのは、どの詩も20字前後に整序された32行の詩から成り立っていることだ。そしてさらに驚いたのは、詩集全体を見回してみるとわかるのだが、どうやらこの詩集は、タイトル詩の32の各行を各詩の最初のフレーズに用いるかそれらの最初の1行の詩を集めてできあがったもののようだ。こうして作られているのが、織物としてのタイトル詩であるらしい。

 詩集『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』の外延は、以上であるが、ここまでくると、はたしてこの詩人の新詩集に込められた内容には、どのような「もの」や「こと」が潜められているのだろうかという疑問が湧いてくる。この華麗なロマネスクの物語は、鱏や斬首された蛸から、マニエリスムの幻想譚として印象深く蘇ってくる世界を映し出している。詩集にもられた詩を貫く特質を明らかにするには、原始に回帰するように、太古の統一大陸があり、分裂する海があり、そうした恐竜の時代の大陸の陸地も、詩の展開する舞台だ。

 その意味で、この詩集は驚くべき、円環する構造的な織物の詩集である。その内実は、動植物や鳥類の生物を描くことで、宇宙論的あるいは占星術的な初源に戻ろうとする幻想世界である。ポントルモからアルチンボルドを結んで論述するマニエリスムの想像力が、バロック芸術を繰り込みながら現代社会の芸術観を統合する。詩の構成力と想像力を通じて考えられるのは、この詩集の創出には、マニエリスム的世界を体現した構築的な幻想的寓意譚のメロディアスな語りにあるということだ。

 

 具体的に見ていこう。「輾転反側する鱏たちへの挽歌のために/まずは斬首された蛸が用意されるべきであろう/慟哭に沈潜する深海魚の群れに一条の光がさして/海溝はおのれの内なる深淵の詭計に絶ええずに/狂い咲きのサンゴを沈黙の岸辺に投げつける」(巻頭詩)。巻頭詩の詩を読み進めていくと、ひとつの違和感が脳裏をよぎる。鱏も蛸も、深海の地底にはう存在だ。考えてみれば、人間もこの地球の表層をはって生きている。そこに原始に遡るとはいえ、詩人の惑星内の詩作の拡大が感ぜられるのだ。それは、鱏という特殊な形状と生態をもつ時代の古層の海底によるものだけではない。「帝都」の「軍靴」の響きは、近代日本の歴史からのイメージだ。深い海底から時空を超越するマニエリスムの飛翔する反時代的、反遠近法的な映像が浮かびあがる。自然界とは逆説のような違和感を埋める語りが、宇宙論的なロマネスクの物語を実現しているのだ。

 詩人の原点には、市民社会の爛熟から衰退を経験したヨーロッパの風景とその複雑な文化の混合があるのだろう。そこに、この詩人のマニエリスム的な視点が発生する。フィレンツェのポントルモによる書き出しに応答する詩は、ヨーロッパ風な「言葉」と「事柄」と「意匠」の相即の風景からなる。その取り合わせは、奇妙な形象と色彩の強い対比をなして、厚みのある「美のマニエラ」に至る。フィチーノ(1433-1499)は、宗教と文化の言語の交差点を哲学的に生きた。ギリシア思想とキリスト教を統合させた、太陽を中心とするネオ・プラトニズムの流れがある。宇宙の星座のひとつとして、惑星としての地球の存在は語られるのだ。このような詩の文脈をマニエリスム的詩作と名づけたいと思う。

「これ以上何が必要だというのか/黙して語らぬ海底の神秘以外に/覚醒の時だけがひそやかに忍びこんでくる/何億年にもわたる星辰の呼び声に反応して/太平洋プレートに甘美な目覚めの兆しが訪れる/海溝はおのれの内なる深淵の詭計に耐ええずに」((慟哭に沈潜する深海魚の群れに一条の光がさして)。すでに高柳誠は、『高柳誠詩集成I・II・Ⅲ』を上梓している。他者の生を惜しみ、自らの生を惜しむ詩人は、かつて中世の彫刻家リーメンシュナイダーの研究をしたが、この詩人を深く支持してきたのが、ドイツでこの彫刻の見聞に同席した詩人の那珂太郎であることは、一度触れたことがある。

 「歴史とは関連づけられた一つの物語にすぎない」((両側にかしずく白鳥の翼をもつ双生児たち)。マニエリスムは、単に後期ルネサンスだけの美術史の問題ではなかった。当時は、芸術をリードした美術に関する研究は、文芸理論や詩論に先んじていた。その歴史は、エジプトの「アレキサンドリア時代」、イタリア半島の「ローマ時代」「中世後期の北イタリア時代」、ラテン系の「ロマン派の時代」、そして表現主義やシュルレアリスムも含む「世紀末から第二次大戦後の現代」の歴史を繋いでいる。美術史の歴史的概念ではなく、時間と場所を超えて、現在の芸術と関わっている。その各時代をつらぬく手法(マニエラ)こそ、寓意と超象徴のマニエリスム的幻想譚であった。

「目の奥に鈍い痛みが走り/色彩の舞踏が繰りひろげられる/目のうちの幻影に魅入られるがまま/世界の変容を受け入れている自分がいる/「わたくし」などどこにもいない」((その影に怯える夥しい魚卵の鮮明な痕跡は)。ヨーロッパの歴史の生成以前から古代史と固有名詞と植物や動物や地名の名前がカタカナで羅列されているのは、決して象徴的な意味だけではない。この詩集を統率しているひとつの構造に、これらのカタカナ語と植物は関わっている。絵画や音楽に見られるカタカナの名詞も並ぶ。そこに、ヨーロッパ世界の歴史と劇が、「「みる」とは主体の欲望の歪められた反映にすぎない」と、アナロジカルに日本の現代社会と切り結ばれている。それは、一見、弦楽セレナーデに似た日本的文化を底辺で支える情緒の湿度への批判として、閉じられるひとつの虚構の詩的世界でもある。

 「プトレマイオス朝の王たちの野心を実現した/前代未聞の規模のアレクサンドリア図書館が/巨大な列柱だけを残して廃墟と化したように/ホメロスの叙事詩のパビルス写本をもとに/厳密な本文校訂や偽造文書の研究によって/ 学術研究の中心地だったさしもの図書館も/無知蒙昧な為政者による知識人追放のせいで/文明の衰退とともに荒廃する運命に見舞われた」((沈下するアトランティスからの微かな波動に)。形が内容を生む。そこには近代社会の退廃も描かれている。洋風な雰囲気、少年の肖像は、この詩集のなかで母の肖像の影とともに輝いている。それは、少女や「女」という成熟した女性のイメージではない。名詞から名詞へと詩が形成されるつながりが、生成の構造として見える。読者は、はじめから詩人の引用するカタカナ語を十分にイメージしておかなければならない。そこには、古典主義から反古典主義のマニエリスムが、近代とポスト近代と対応するような、崩れゆく近代での再形成としての現代の超自然的なものとの鏡像のアナロジーと等価なものがある。

 「銀鱗の輝きを見せて水面を飛び跳ねる/若鮎の尾ひれの一瞬の動きを掴み取れ/川面に生える永遠のきらめきのうちに/運動にまつわるメカニズムを透視せよ/光子はおのれの鏡像をひそかに映し出す/デモクリトスの空虚に浮かぶ原子の泡に」((情緒に絡みつく嫋々たる湿度を排斥せよ)。ダンテよりも人生の辛酸をなめていたかもしれない後期のミケランジェロ(1475-1564)の活動こそ、マニエリスムの端緒であった。事件としてのミケランジェロとは、マニエリスムの誕生であった。中世末期からルネサンス期にかけての芸術的な変動は、『イコノロジーの研究』(エルヴィン・パノフスキー・浅野徹他訳)にもあるように、「フィレンツェと北イタリアにおける新プラトン主義運動」や「新プラトン主義運動とミケランジェロ」の図像表現の意味の解釈と時代精神との関係として、「イコノロジー」の精神的背景を考える捉え方も出てくる。それは『マニエリスム芸術論』や『薔薇のイコノロジー』(若桑みどり)の論旨にも見られるが、同様にミクロコスモスとマクロコスモスの照応に関心を寄せた新プラトン主義やヘルメス思想、占星術とともに考察される『魔術と錬金術』(澤井繁男)なども、『迷宮としての世界』の「〈イデア〉と魔術的自然」の項目に書かれている同時代の背景として関連があるだろう。 

                                (続く)

 

 

 

 

(「コールサック」詩集時評・最新号117号)

  

 

高柳誠詩集『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』(ふらんす堂)にみる「マニエリスム」的思考と展開について     

(最終回)

 

                        岡本勝人

 

 まずは、この詩人の書記する手持ちの言葉(言語)に注意しなくてはならない。そして、卓越した構成力に、現代詩としての「構造」を見たい。

 この詩集では、冒頭の「輾転反復する鱏たちへの挽歌のために」以降、すべての詩篇の最終詩行が次の詩の冒頭を飾る。そうした反復の構成によって、物語は、異数な世界を現出させる詩篇のつながる生成の舞台にある。言葉の世界は、カオスとなった四大の大地・水・空気・火のコスモスではあるが、原初の地球の生成を描くロマネスクの感性が物語を生成する。その背景に織り込まれた「自然」と「科学」の融合する可変的なマニエリストの宇宙がある。しかし、その「構造」は、古典主義から新(反)古典主義あるいは後期ルネサンスやポスト(後)ルネサンスに通ずる、形の現在や色彩の現実から他の形や色彩へと可変する質量を持っていた。そこには、新プラトニズムともいうべきダイナミックな危機の時代の詩人のマニエリスムが背景として存在する。若桑みどりは、「現代に於て、パノフスキーがはじめて、マニエリスムの文字を理解した」とし、「危機的時代には、たしかさや普遍性は、見かけ上のすべてのものから失なわれる。アレゴリーによってしか内面を語ることができなかった人々の住む世界は、現実のなかで肯定的な働きかけができず、現実から切りはなされ、自己の内面にしか、真に生きる土地をもたなくなった精神的情況を示している」(『マニエリスム芸術論』「序章 寓意の勝利」)と書いている。

 さて、高柳誠の詩的世界を先へとすすんでいこう。「世界は沈黙のうちに実体を開示しようとする/夏の両腕に抱き取られた夕景を受肉しながら」の最終的なふたつの詩篇をへて、詩集は偉大な「輾転反復する鱏たちへの晩夏のために」と円環する。この詩作品の反復と連続性は、巻頭詩『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』の冒頭から最終行への鎖列となったアレゴリーで円環することで形を成す。「鱏」とは、現代社会にとって、何のアレゴリーであろうか。その推測は、読者論的には、読む側のアナロジカルなコレスポンダンス(対応関係)にある。そして、あらためて『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』の最後の詩章に到達するや、私達は一挙に冒頭詩を脳裏下に顕現させて文字空間の詩的コスモスを実感する。そうした意味からみても、この詩集は、構造的な構成力をもつ詩集である。その内在性は、原初にもどろうとする幻想世界である。そこに、マニエリスムの想像力が統合されている。

 「鬱金色の太陽が硫酸銅の溶液に染められて/おだやかに高まる波の遥か先に沈んでいく/名残惜し気にきらめきを反射していた海面も/今は海底から湧き上がる神秘をつぶやくだけだ/うるさく騒ぎたてていたウミネコの群れも/すでにしてそれぞれのねぐらに帰り終え/海は漆黒にとどろく闇に一挙に呑みこまれて/色彩を失ってとまどう空間が眼前に広がる/寒風吹きすさぶ一枚の空のなかほどに/金星が凍りつくようにふるえている/その瞬きが身内の慄きと同調する/金星から見ると この地球は/どんなふうに見えるのだろう/(略)/風は地面からしずかに湧き起こり/麦畑をまっすぐに吹き分けていく/遠く人影がぼんやりと浮かんでいる/望郷にいったいどんな価値があるのだろう」(「鬱金色の太陽が硫酸銅の溶液に染められて」)。詩人高柳誠の師は、那珂太郎であった。

 那珂太郎の最後の詩集『幽明過客抄』(1990年・思潮社)は、日本の詩人への追悼詩を含み、中国の「皇帝」へと展開する主題を大きくクローズアップさせる詩集だ。この『幽明過客抄』は、「ETUDES」「黑い水母」「音楽」「はかた」の詩集からなる『定本 那珂太郎詩集』(1978年・小沢書店)以後の最晩年の詩集だった。その冒頭詩「しばらく逗留してゐたので 立ち去るとなると この地球がなつかしい とつぶやきながら あなたは 名聞利養のちまたをあとに 故里の村に歸っていった」(「永劫への旅人」西脇順三郎 1982年6月5日歿)などの西脇順三郎への詩の他に、この世の人間が住んでいる惑星としての「地球」という対象が多く論ぜられている。那珂太郎は、晩年、「現代能」の詩劇『始皇帝』によって、人が生きるということの寿命の限界時間や権力のおぞましさに踏み込んだ剛毅な詩を書いている。岡本章演出になる代々木の国立能楽堂で見た「現代能」の『始皇帝』(2014年)は、多くの登壇者による幽玄な世界だった。

 この那珂太郎は、詩人高柳誠に関して、直接的な影響力を持つ位置にある詩人である。とはいえ、「マニエリスム」についての見解は、先の『迷宮としての世界』の「解説」で論じられている。そこには、日本の文化を振り返る視座からすれば、江戸時代の伊藤若冲や歌川国芳、平賀源内から大正・昭和の時代を生きた江戸川乱歩や谷崎潤一郎、佐藤春夫や北原白秋、萩原朔太郎や稲垣足穂などの文学をマニエリスムの系譜で結ぼうとする見解が見られる。そして『光の曼荼羅 日本文学論』のなかで、目利きの安藤礼二の思考は、「I  宇宙的なるものの系譜」として取り出す系譜学にあった。それこそまさに、折口信夫、江戸川乱歩、稲垣足穂、澁澤龍彦、三島由紀夫をひとつの系譜としてくくることのできる視点である。安藤礼二は、これらの作家のマニエリスム的な波長とアレゴリーを同様な範疇に比定してひとつのラインに並べているのだ。

 

(3)詩的マニエリスムと想像力

 

 声よりも音の表現にさえがある。そこには、この詩人の知覚の現象学がある。「カーンカーンと遠くで針葉樹を切り倒す音が/吃音に連打された子音の間隔を縫って浮かぶ」(「生成途上のテキストの裏に潜ませた意図が」)。「サシバの大群が空を切り裂いて旋回し/ピックイーと透き通る声で鳴き交わす」(「造山運動の底に眠る通奏低音をゆり起こす」)。美を横断して表象するには、心的な美に対する余裕がなければならない。そこに、詩人と美とが関係する共通のスタイルが発生する。そして、この詩人が描こうとする世界は、マニエリスム的空間という様式・スタイルの美である。作品と物語の構成とに関与するポエジーには、詩人のアイデンティフィケーションが著しく寄り添う心情的なロマン主義的な傾向も見える。しかし、その表現は、次の表現へと質の転換をはたす可変性によって鎖列の変遷が見える。そこにあるのが、詩人の内在的な「構造」と「可変性」のモチーフであろう。形式とモチーフ、イメージ、物語、寓意などは全て、可変的なるものとして象徴的に描かれている。そこにこの詩人の精神がある。精神とは、その詩人の思考や観察の一定の傾向性を意味していた。しかし、詩人のイコノロジー(図像解釈学)によって描かれたロマネスクの寓意は、マニエリスムの華麗な転換と描写による接続と遮断から成り立っている。『イタリア絵画史』(ロベルト・ロンギ)の最終部を飾るカラヴァッジオの光と影のドラマの発見は、実にロンギ自身だった。若き日には、画家や詩人を目指していた映画監督のパゾリーニが、このロンギから実に多くの影響を受けていたと和田忠彦氏はいう。

 「地中ではマントルがゆるやかに対流し/ゆるがぬはずの大地を乗せて運んでいる/流動することこそが存在の本質的基盤だ」(「大地の亀裂から鮮烈な熱泉が噴き上がり」)。虚構の詩的世界の構築による変幻する美との邂逅とそれへの希求が、ここに見て取れる。言葉の海の中には、いくつもの光景が揺れて見えるようだ。そこに、ゴシック時代の前の時代のロマネスクの物語に遡及する詩的世界がある。古典主義的な用語の使用とスタイルの反復から輾転する反古典主義的な滞留と、流動する可変性ある幻想態。構築された世界像の美の希求は、フランツ・ボルケナウの『中世的世界像から市民的世界像へ』を予感させるような、時代から時代へと変化しては回帰する市民社会の世界像の一端とパラレルだ。そこに物語性へと回帰するロマネスクの感性が介在する。そうした文化の感性の海の中で、詩人の言葉は、どこまでも身体そのものの根源から発せられている。「世界は沈黙のうちに実体を開示しようとする/夏の両腕に抱き取られた夕景を受肉しながら」(「世界は眠たげな黄昏一色に染められる」)。「両腕」に抱きとられた「夕景」の美の身体こそ、詩学『弓と竪琴』(オクタビオ・パス)に暗示される、詩人が変えるべき世界とは何か、詩学が円環するべき世界は身体の歩行によって「受肉」は可能であったという事実があるように思える。パスは、「回転する記号」の中で、現代の世界状況は、中世の哲学者の思索の状況とある種のコスモス的な類似性があると書いている。

「宇宙から飛来してきた来歴を探索する/生命をもつものたちの一瞬の輝きが/死んでいくものたちへの墓標となる/海は自ら翳って悲しみの岸に打ち寄せ/引きかえす波に秘めて忍び音をもらす/輾転反側する鱏たちへの挽歌のために」(「夏の両腕に抱き取られた夕景を受肉しながら」)。この書字による「死んでいくものたちへの墓標」は、詩人の想像力によって構築されたひとつの惑星の寓意ではないだろうか。そこには、生物の多様性と言語の多様性に満ち満ちている地球がある。閉塞した現代社会の中で、宇宙のコスモスの中の地球の開放系を願う現代人の想像力が、そこには働いていると思われる。色彩の品性ある妙変をはたすポントルモの絵や奇妙な構成力に息づいたアルチンボルトの果物や植物や鉱物の織物としての造形物や「工房の精神」に引用される文明と機材の引用素は、そのひとつひとつがあざやかな古代から中世、近代、そして夜のイメージから現代が描き出す夢の中の自由のように融合した色彩であった。この時代の芸術は、「夜」と「眠り」と「夢」にテーマの本質を求めていた。その時空は、レインボーの色彩と造形にかたどられている。生きとし生けるものは、生物多様性の動植物の沈黙であり、鉱物たちの沈黙の語り出す能動的で流動的な寓話の中に生きる。それは、閉塞する市民社会の中で、民衆から大衆へ、大衆から人類へと螺旋階段のように概念の構成を駆け上る。そこに、宇宙の生命としての生きとし生けるものたちと植物や動物や鉱物との共生する時空が生まれた。宇宙の中の球体である地球とは、「自らの変成へと誘う運動」をしいてやまない人間の精神現象として存在するのかもしれない。

 「喪われた弟の面影がゆっくりと肺胞に蘇り/庭園をめぐる幼年期にまつわる記憶の源が/陸続と迫り襲いくる流砂にうずもれていく/生成途上のテキストの裏に潜ませた意図が」(「風の薔薇窓に睡蓮の孤独の影が斜めに走る」)。「生命発生以前から鉱物に秘められた実体が/造山運動の底に眠る通奏低音をゆり起こす」(「始原の闇の欠片が雲母となって紛れこんで」)。こうして、この詩集は、宇宙の中の球体である地球の存在が、危機の時代を迎えて、偉大なる開放系と円環を反復させては流動する。「自然の神秘とは、四大(大地、水、空気、火)の生きた活動としてとらえられている」(『マニエリスム芸術論』「第三章 マリエリストの宇宙」三大地と空の夢想)。その流動は、バシュラールやエリアーデに通底する四大による変化する可変性であったが、そうした自然の歴史を根源的に築いてきた寓話を証明するものである。詩人の思索は、古典を語るテキスト論であり、ポエジーの生成を語る詩論を含む詩のアルシーブを編んだといえるだろう。

 若桑みどりの『マニエリスム芸術論』は、パノフスキーの「図像解釈」に準拠しながら、自由な装飾意匠へと転換するミケランジェロからアルチンボルトまでの時代を語るものである。イタリアのフィレンツェとパリを取り巻くイル・ド・フランスのフォンテーヌブロー(フランスのマニエリスム派)、そしてチェコのプラハをつなぐ時空に、「国際的マニエリスム」があるという。

 

(4)書くことの終わりとしてのプラハ幻想

 

 どんよりとしたプラハの飛行場に飛行機が着いた。昨日、関東を襲った台風のために、ロンドン経由でプラハに来るはずだった。しかし、ロンドンで一泊してから、プラハに遅れてようやく着いたのである。その日は、ゲルマン的なプラハの中央駅から、夕食のために、元は修道院だったといわれる1499年の創業のビアホールに入った。温かいポテトのスープと家庭風の料理のチキンのソテーと黒ビールが、メニューだ。夕闇の街並の家の壁には、16世紀の中頃にはイタリアから入るとボヘミアで流行した線による絵模様が描かれている。こうした絵柄は、宮殿だけでなく、あちこちの民家にも描かれているらしい。

 翌朝、ホテルの近くのユダヤ人墓地にはいってみる。管理人が、頭にこれをかぶって入るようにと手招きで案内してくれた。驚いたのは、それからまもなくのことである。そこに、カフカ(「Dr. FRANZ KAFKA  21・14・33」)と書かれたプレートが見えてきたのだ。期せずして、念願であったカフカのお墓参りとなったのである。カレル橋は、幅が10メートルもある石橋だった。ローマのテヴェレ川に架かるのは、サンタンジェロ橋である。そこにはベルニーニの作った白い天使が並んでいた。ヴァルタヴァ川に架かるカレル橋と親しまれる石橋には、30体の聖人の黒ずんだ石像が立ち並んでいる。橋の上では、中世風の古い着物を着た若いトルバドールが、ギターを弾いて歌を歌っていた。橋のたもとの中世塔を迂回するようにして、旧市街の方角へと歩いて行く。道はうねうねと曲がって先に向かっていたが、あたりには土産物店やボヘミアン・ガラスの店、そして古書店などが古風な店先の面影をとどめていた。そしてまもなくすると、広い空間に出た。

 この広場は観光客でいっぱいだったが、広場の中心には旧市庁舎がある。時の鐘によって時を告げる仕掛け時計が、この市庁舎の象徴的なランドマークの塔となっていた。500年もの長い時を告げてきた時計塔―。あちらでは、モーツァルト(1756-1791)の「ドン・ジョバンニ」のコンサートが開かれているらしい。看板を持って勧誘する女子学生のアルバイトの姿が見えた。広場の右側の奥には、チェコの宗教改革者のフスの像が見える。長い間、新教と旧教との間の争いが続いた。その背後に見える地域が、カフカの生家もあるユダヤ人居住区だ。

 ヴァルタヴァ川にかかるカレル橋を越えて、坂を上がっていく。ここは、プラハ城の東北のはずれの場所である。その先に、カフカ(1883-1924)の家があるという。坂の周りは、「黄金小道」という庶民的な街並みになっていた。ルドルフ二世(1552-1612)が、錬金術師たちのために、あるいは宮殿の兵士の住居のために整備したといういわれをもつ「黄金小道」である。カフカと姉は、1916年から1917年に、この通りの一角に住んでいた。この空間で時間が静止するのを経験しながら一休みしていたが、そこからは東門への坂道に沿って下っていった。やっと辿り着いた東門は、城の裏口に当たるので、城の入り口である西の正門へとさらに向かうことになった。

小高い丘の上には広場があり、西の正門から入っていくと、そこはプラハ城の内部である。いくつもの宮殿や教会と広場がある。北イタリアのフィレンツェから北ヨーロッパの東欧のチェコのプラハへと、マニエリスムは結ばれていた。ここで、イタリアのミラノ生まれのアルチンボルト(1526-1593)が、ルドルフ二世の庇護の元に、マニエリスムの最後を飾る「奇想天外」「びっくり仕掛け」の絵を描いたのだ。これらの「組み合わせ」による「静物画」にしてかつ「肖像画」の作品は、今はウィーンの美術史美術館に所蔵されている。そして、後期のマニエリスムの時代にあって、このプラハ城の中で、アルチンボルトは果物や植物や元素による造形的なパノラマを、二重映像の奇想な寓意画を描いていたのだ。迷宮(ラビリントス)の画家は、ウィーンでの滞在中に、「四季」(「春」「夏」「秋」「冬」)や「四大元素」(「大地」「水」「火」「大気」)などを描いたが、「ルドルフ二世胸像」や「司書の像」「動物で構成された肖像画」「鍋釜什器の肖像画」といった衝撃的な絵を描いた。

 時代と社会は、移りつつ流れていくが、ルネサンス後期から移行していく流れのなかには伏流があったことはすでに書いた。そうした逆流もあって、「隠喩的-幻想的-構図」の「綺想体」であるマニエリスムの思想は、現代の不透明でシュールな時代を経ながら、形と色彩を変奏させつつ反復しては、革新の芸術の常数として認知されてきた。ルネ・ホッケは、1550年から1650年の間と、1890年から1950年の間の二つの時代に、ヨーロッパの装飾に新しいフォルムが美術工芸の全般に影響を与えたものこそ、マニエリスムであると書いている。「マニエリスムの基本的な傾向、すなわち極端なものを結合する」(『迷宮としての世界 マニエリスム美術』「19 ルドルフ2世時代のプラーハ」)のは、フィチーノを代表者とする新プラトニズムの流れにあるからである。これは、最もかけ離れた存在の断片を組み合わせることによる「一致する不一致(ディスコルディア・コンコルス)」に通ずる神秘主義である。

 プラハへの夏の旅―。カフカとアルチンボルトが、言語の錬金術ならびに秘境的色彩の組み合わせ術のマニエリスムを内蔵させている。その光景の中に、プラハの街と作家と芸術家の姿が想起されてやまない。と同時に、今日の危機の時代を生きる自由な詩人とは、何か。

高柳誠は、その詩の方法と内的な詩の生成に、マニエリスム的構造と可変性を背景に持っている。そうした詩の断章を円環させながら現代の寓話を遠望する詩人への思いが、よぎって消え去ることはなかった。

 

 

 

 

 

                                  (了)