金堀則夫による詩誌「交野が原」が発行になりました。

 

批評と詩作の小径を創造する

 

 

 佐峰存詩集『雲の名前』(思潮社)が根源的に示すもの

 

               岡本勝人

 

    

(1)詩の来歴

 

 「霧は深くなるばかりだった/大きな歯が回る路地裏に/踏み込みながら/雲を思う/私達の姿かたちを包み隠していく/雲/繰り返し どこからか/胞子をまく導体の/雲」(冒頭詩)。

 詩集には、冒頭から現象界に接する境界の突端に発生する雲の生成態から言葉によって名づけようとする詩人の気配が伺える。詩集を読みながら思索の赴く方向は、フッサール現象学の影響下にあるハイデッガーから、ヤスパース(深層心理と東洋思想への志向性)やサルトル(志向性から対自と状況)やメルロー・ポンティ(知覚と身体性)を迂回して、同じくフッサールに影響を受けた「家」や「顔」を思索するユダヤ人のレヴィナスであった。ハイデッガーの『存在と時間』とは、現象学とキリスト教神学の思索からはじまっていたが、デカルト以後の「我思う」から「我ある」への省察の転換である。現にある「場」に生きる「存在」を「現存在」の「人間」として明るみに取り出す。レヴィナスは、非人称を語るブランショの『文学空間』や唯心論と身体論を統合するベルクソンを経ながら、『全体性と無限』によって、「現存在」の「全体性と無限」を明らかにし、「外部性についての試論」を考察した。それは、対面によって微細に分離する無限性の「彼方」に、全体性への持続と反転を見る「外部性」の発見であった。個と他者は、互いに存在者として、全体性に拮抗する「顔」を鏡像的に発見する。「顔」こそは、全身体の各部位に先行的な機能をはたす発話の対象である。

 「真夜中の都市の空が/赤く脈打っている/沖合の工業地帯に伸びる/巨大な煙突が一日の残り香を/一斉に処理し 天の頬に向かって/吐き出していく/気体は風の航路を滑り続け/地平の町の寝息まで/火を運び/郷土が費やされ 空高く/乾いた背骨のように漂流している」(「火柱」)。詩の予感は、身体の各部位と科学的な言語が織りなされる世界である。認識主体は、霧のように、幽霊のように見えるが、現存在の身体と生理をもった「人間」であった。そこには、意識という主体と「顔」が接する境界に存在に先行する他者が確認できる。「鏡像」が作用して、現存在は反転しつつ対象の境界に言葉をつなげるのだ。はたして、詩人が対面するものとは、何であろうか。限りなく細部の突端へと感受するこの詩人の認識の感性は、次々と存在を了解しながら、言葉を転換させていく。「顔」と「心」が対面する他者性の彼方に、「雲」があるのだ。「頬と口をよぎる/笑みの傍らで耳朶の花が尖り/厳かな歯を覆う唇が 精密に滑り変化する/収縮し翻る 掌と爪で/顔のない粒 の打たれた果実の鉄の先を当て/遊泳した挙句に 甘い個体は砕け/粉塵となりひろがった」(「仄かな街角から」)。名詞から名詞へと繋いでいく。その言葉は、「顔」という一般名詞を取り出しながら、生起し、「雲」の動性にたゆたう。詩人が選択する言葉は、ずれを生成しながら現象を語り続けるつながりとなっている。

 すでにこちら側には、存在する身体と顔貌性がある。そこに出会うあちら側の外部世界との「あいだ」が、境界領域のリミナリティだ。詩人は、境界線上で、何ものかを「雲」と名づけようする。それがこの詩人の存在への通路であり、現存在そのものである。世界の変化は、「実存者なき〈実存〉」(レヴィナス)の変質に通底している。神が死に、あちらの戦争は止まらず、こちらにはウィルスの変異があった。すくいのない(helpless)夜の蔓延の中で、現代人は明るみから暗闇へと荒んだままだ。現代人の宿命は、「故郷喪失」である。言葉は、柔軟に言葉本来の観念を包摂して、横にずれながら接続し、流動しては、他者性に至る。そこに、事物の流れの痕跡を残しながら、詩人のクールな感受性は、他の詩人とは明らかな違いを感じさせる。

 

(2)顔貌性と境界

 

 「職場から帰宅した瞬間、上着が朽ち始めた。すべらかなボタンを外していくと、一日の濁りを含んだ皮膚のざらつきに指が接した。」(「呼称」)。ここには、確かに、都会暮らしの勤労者の市民生活の夜の風景が描かれている。「私と称された地点に立ち尽くす衝動を突き詰めてみたい、と曇った鏡面に足から髪まで散乱する火の核より心臓が膨らんでいく、たとえば渡り鳥の直感で飛来した、あなたによる呼称。」(「呼称」)。人称的存在である「きみ」に代置された「あなた」という二人称が語るものとは、何か。レヴィナスの「存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方で」という言葉が滲み出てくる。半透明な布切れに、しみだしてくる詩人の言葉の感覚の縁の部分では、現象する世界も、それをこちら側から透視している詩人をも、あるがままの淵に溶け込ませてしまう。そこに、乏しき時代の危機と言語による詩の生成が接している境界がある。

 「〈無限〉はつねに「第三の人格」、「彼」にとどまる。私に関わるのが「きみ」の顔であるにもかかわらず」(レヴィナス『困難な自己』)。「あなた」という「彼方」への肯定性へのベクトルが発生して、対面による他者とかかわる倫理や生命の尊厳とそれらに隣接する「生」の活動が連動して思索される。しかし、この詩人のマトリクスには、それらの姿は背後に隠されて明らかには見えてこない。この透明で静かなアクセントで忍び寄ってくる特有のポエジーの背後にあるものは、何か。このような表現を「否定神学」的といってもいい。「反」神学あるいは無意識的な存在への「反逆」は、身に降りかかってくる現実の実相に似て、批評が根源的な危機を意味することとともに、詩の存在の危機を細部の「彼方」に現象させるポエジーとして表象されている。「すっと紙飛行機のよう 降り立つ花弁/誰が飛ばしたのか 旋回し/土に呑まれていった/小石は集落をなし/花は一輪ごとに首を落とすように/重力の結末に 吸い寄せられていく/その傍の 私達の歩行は/潜伏だ 影の横断」(「地底水」)。「彼方」の全体を回収し、構成するものへの批判は、全体主義やファシズムとの関係を語る問題である。それを突き破るために、「無限性」は、あなたや彼の「顔」の細部の突端に至るまで、重力による現象そのままのフィギュア(人影)を全体性からずらしていく。そうした残り香の存在でさえ、詩の言葉が吸収して、「生」そのものの淵に溶け込ませていた。

 詩人の言語は、しずかに細部の突端に落下していく。あくまでも、それは詩人の無意識の総和から織りなされた言葉の集積によるものだ。「夜の交差点を行き来する/柔らかな動物達の纏った速度が/引っ付いては 剥がれていく/密かな頬の季節だ」(「頬の季節」)。現実の体験から直接描かれる「頬」の表象は、詩人の精神の深部でいったんとどめ置かれ、濾過され、部分対象として点描される。この詩人のミニマリズムは、実在の言葉との対話から生まれる「顔」に迎接する。表象された表現は、本人を語りつつ、本人から離脱して、遠い他者の造形をなしていく。足や指先の部分対象が体感しているものは、狐火のぬくもりのような神秘性である。この妙変が現代社会における個と個の「顔」をつなぐ詩人の「彼方」に出現する希求の思索であった。「雲」を名づけるとは、そうした希求の表象であろう。

 

(3)現代と故郷喪失の問題

 

 「地すべりが起きたらしいよ/世界中の速報が湧き出る液晶から/顔をあげると 空では種が発芽を続けていた」(「命名」)。詩人は、社会的存在として思索しつつ文字を綴る。それは、解釈や言葉の置換を拒否した思索である。現代は解釈だらけであると小林秀雄は、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」(「無常といふこと」)と書いた。そこに、文字を綴る磁場に重なる地平がある。働く都会生活者と詩人の感性が、入れ替わる。現実感と疎外感が微妙に交錯する。そうした生活からの実体的な姿も呟きも見えてくる。そこには、真夜中にある現代の文明社会のよるべのない空間と時間に、過去(思い出)と現在(生活)と未来(選択行為)があるようだ。ふたつは、ひとつになり、それらはまったくの他者でありながら、言葉の形象に、一定の意味を「彼方」に無限として探そうとする。かすかな、それはまことに言葉による希望ではあるが、現代社会の「故郷喪失」から「彼方」の「雲」を探すのだ。「故郷喪失」こそ、母性や慈愛や隣人愛を喪失した現代文明社会の故郷である。

 詩人には、九歳から十三年間、アメリカのハドソン川とイースト川に挟まれたニューヨークのマンハッタンの対岸ロングアイランドやコネチカット州の大学で暮らした経験がある。その生活については、十分な情報はない。エドワード・サイードにとっては、青年期の経験なくしてはその思想は語れなかった。『遠い場所の記憶』を例にとるまでもなく、人生における基本的な分裂は、自分の生まれた土地の言語と手段として教育を受けた英語のふたつの言語の「あいだ」のものである。詩人にとっても、少年時代には、獲得途中の日本語と意味不明の英語を中心とする言語の混濁したノイズの生活があっただろう。多国籍の人達とともに、ユダヤ人や教会や集会も見たにちがいない。そうした経験の中で、詩人は同時にアメリカ現代詩の「現在性」の光景を経験した。日本での帰国子女としての不時着的な生活には、この詩人の浮遊感に隠されたディアスポラ(故郷喪失)と未帰還状態が存在する可能性がある。

 レヴィナスには、ユダヤ神秘思想にある無限の明るさへの希求があった。そこに、この詩人の柔らかいパロールの発話と現実との異和に苦労した心性が重なって見えてくる。潜在性として培われた言葉のニヒリズムが存在する。その否定性とは、詩人の主体が、言葉ではない「顔」を境界性として他者と切り結び、そこで他者と交わり、断絶せざるを得ない存在として自己存在の了解を見極めた肯定性の場である。それこそが、この詩人の固有の言葉の現象を産む契機と場所であった。

現代社会と生成する言葉は、生命の尊厳に向かって何を思考するのだろうか。あるいは詩人の心性は、生命の根源にむかってどのような表現を志向するのだろうか。このような状況に、従来、「彼方」への明るさや実存の回復、存在の意味や全体とのつながりが求められ、歴史への転回が志向されてきた。これらは、「近代」の宿命を生きる「故郷喪失者」の現代人にとっては、全体性への回避の問題につながる大きな存在論的な問題であろう。

 第一次大戦に参戦し、挫折体験をもつハイデッガーは、戦中からはじまるナチズムと大学人としての自己に対する反省のもとに、戦後になってもヘルダーリンとニーチェの世界に思索を求めた。省察は持続しつつ、『乏しき時代の詩人』や『ヘルダーリンの詩の解明』によって、後期ハイデッガーを思索したのだ。それは、中途で終わった未完の著作『存在と時間』から「時間と存在」へと反覆転換するための思索である。それは、「別の仕方で存在すること」から「存在するとは別の仕方で」と「彼方」へと転換することだった。

 「薄い膜を挟んで/二つの夜は 絶たれている/私の方では化学品で/生臭い 指先で/皮膚のように破いた/パンの重心を/引き出して 歯に当てる」(「咀嚼」)。危機を危機として描くことは、実存論的な問題である。そこに何か詩人の違和感を無意識的に内在させるのであれば、「全体性」を回避する倫理的なものに結びつけることが望まれる。そこでは、現代のニヒリズムの抱えている肯定性の問題の突端に出会うのだ。詩人の自己言及性は、言語や知や無意識など、差異を支えるものの諸構造の結節によって、さらに確保されるだろう。実存主義から構造主義を貫通するものは、ポストモダンから次の世代の生活感情や心情との橋渡しを必要とするのかもしれない。「そのように、/言葉は/存在の言葉である。/雲が/空の雲であるように。」(ハイデッガーの詩『ハイデッガーは語る』「あとがき」より)

 この詩集の特徴は、言葉の細密画となって、言葉から言葉への転換が延長されていく詩の動体にある。詩人のシンタックスは、ぎりぎりのところの言葉によって存在を拾おうとする。その力動性には、「彼方」としての「無限性」がある。言葉は、テクスト上に宙吊りにされた世界の織物であるが、霧や靄から「雲」が生まれ出る時空に接続している。「雲の名前」は、いまだ名づけようがないが、詩集は「雲を呼ぶ」「雲の国」によって、現実界の人影に近づいているように見える。世界の夜の時代に、根源的な孤独にある現代人は、どのようにして「彼方」に向けて希求を切り開いていくのだろうか。未明な敗北の中から再び生き直すこと、そこにこそ、この詩人の「雲」というレジリエンス(貴重でかけがえのない復活)がある。        (了)

    

 

 

 

 

                      (詩誌「交野が原」最新号「96 2026」に掲載)