「四季派学会」寄稿

 

書評『伊東静雄―戦時下の抒情』(青木由弥子・土曜美術社出版販売・2023.3.12発行)

 

日本的美意識のアポリアを超えて

                             岡本勝人

 

 本書を手にしたときに最初に感じたことは、この本は今年度(2023年度)の上半期の詩批評の出版に関するひとつの事件であるという予感だった。

 というのは、戦中から戦後に詩を書いてきた多くの日本の詩人については、大きなアポリアが存在している。すでに語られすぎるほどに、この問題は論ぜられてきた。現在も『蓮田善明 戦争と文学』(井口時男・論創社・2019)などに見られるように、明治から戦前まで続いた天皇制を中心とする全体主義と軍事独裁による戦争から敗戦までの時期にあって、詩歌だけでなく演劇や美術や音楽という芸術に関わったほとんどの関係者が、「日本文学報国会」などの翼賛的な活動に参加した事実である。そして、戦後の出発は、その間になされた詩作活動と作品はないものとして削除と沈黙によって通過しようとした。戦後の「荒地」の詩人として出発した北村太郎は、この時期に「空白」を見せる前世代の詩人の行動に対して、「空白はあったか」(「孤独への誘い」)と終戦直後の詩について「詩壇時評」で問題を提起した。

 こうした疑念とともに、詩や美学を夢見つつ煩悶する本書の著者の青春は、伊東静雄の詩と出会っている。伊東静雄の詩に一方的なオマージュを捧げることができない屈折感は、この本に大きな背景となって痕跡をとどめている。著者は、伊東静雄のひとつひとつの詩の解釈に取り組んだ。詳細な書誌研究にも関わり、『全集』未収録の手紙や伊東静雄による未発見の帯文の解説などを学会誌などに発表する。美意識が日本的な共同感性に同置してしまう日本文化のアポリアのなかで、伊東静雄とその時代の考察を通じて、新たな詩界への貢献となった一石を投じたのである。

 すでに先行研究では、伊東静雄と詩人リルケや画家セガンティーニとの関係と関心の影響などが存在した。このような見識と著者が縁をもつのも、大学の師である加藤泰義氏には『ハイデッガーとヘルダーリン』『リルケとハイデッガー』『ハイデッガーとトラークル』などの名著の翻訳のあることで証明できる。それは著者にとってのひとつの精神の座標軸であったが、早稲田大学大学院での美術史を専攻する経緯とともに、著者の思索の潜在性から噴き出す奔流となっている。

 

 本書『伊東静雄―戦時下の抒情』のアウトラインを記す。本書の論考は、序章に続き、本論の五章と終章に章立てられている。

 

序章

一章      伊東静雄―戦時下の抒情を考える

二章      『春のいそぎ』を読む

三章      『夏花』を読む

四章      伊東静雄とその時代

五章      〈わがひと〉を巡って 〈資料紹介〉『定本 伊東静雄全集』未収録散文一篇 翻刻と改題

終章

「〈伊東静雄〉作品年譜」「伊東静雄年譜」「参考文献」「初出一覧」「謝辞」

 

 まず、学術書としての特異な編成は、五章に〈資料紹介〉が嵌入されていることである。これは、「大西溢雄詩集『旅途』序文報告」と「『定本 伊東静雄全集』刊行以降の拾遺紹介」からなっている。そして伊東静雄に関連する詳細な「作品年譜」と「伊東静雄年譜」が置かれ、詳細にわたる「参考文献」も付されている。これらは、伊東静雄の最新研究の意義を高く示すものである。と同時に、作品数や詩集数が少ない伊東静雄の全体像に関する総合的で、網羅的な研究成果であることが認められる。

 

 伊東静雄の詩業の総体を見定めることは、それほどやさしいことではない。特に、初期のロマン主義的な詩と、戦争の高揚期から戦後の敗戦期にいたる転形期の詩、そして亡くなる前の平坦な戦後の詩については、その変容をどのように捉えるかはいまだに議論がある。伊東静雄の日本的美意識を内在性として繰り込みながら、その超越性に至る詩の至高性は、日本思想史の美意識と経済的・精神的な貧困の問題と重なりながら、大きな問題を提出している。「自然は限りなく美しく永久に住民は/貧窮してゐた/幾度もいくども烈しくくり返し/岩礁にぶちつかつた後に/波がちり散りに泡沫になつて退きながら/各自ぶつぶつと呟くのを/私は海岸で眺めたことがある」(「帰郷者」)。伊東静雄の詩業を第一詩集から第五詩集を通観すると、多くの評者が詩の衰弱という現象にであった。わずかに詩の潜勢力に注目する評論家もいるが、私にとっても同様であった。以前であれば、放下した戦後の伊東静雄の日常詩として、戦後詩のはじまりに比定して考えることもできた。しかし、現在では伊東静雄の戦後の詩には、生の潜在的可能性と関係する「脱構成的可能態」の詩の存在があるとして、戦後期の伊東静雄の詩をそれに重ねて考えてみたい。

 伊東静雄には、没後に編まれた定番として読まれてきた『定本 伊東静雄全集』(人文書院・一九七一)がある。この全集は、五つの詩集と拾遺詩篇、散文、日記、書簡その他からなる「全一巻」の決定番であり、現在七刷に及んでいて、いまなお読まれ続けているものである。その他、詩人と親交をもつ立場から書かれた『詩人、その生涯と運命 書簡と作品から見た伊東静雄』(小高根二郎・国文社・一九七六)の浩瀚な書物がある。この大著は、伊東静雄のプライベートな場所に踏み込んだ手紙と作品を網羅して、テクストを通じて詳細に語る論考である。また、伊東静雄の詩との出会いを論ずる関係者や評論家の文章を収録した『伊東静雄研究』(富士正晴編・思潮社・一九七一)の記念碑的な出版もある。これは、戦前から戦後の評論家たちの論考を網羅するものであり、伊東静雄の存在を今日に高く評価して伝えるものである。伊東静雄を主として特集したものには、多くの地方詩誌や個人誌もあるが、『ユリイカ 詩と批評』の「増頁特集 伊東静雄」(青土社・一九七一)、『現代詩読本 伊東静雄』(思潮社・一九七九)、『詩と思想』の「特集 伊東静雄」(土曜美術社出版販売・二〇一七)などの詩誌がある。

 伊東静雄については、杉本秀太郎、小川和佑、小高根二郎の各氏が一般書を書いてきた。この三人は、ともに伊東静雄に心酔する研究者や著述家である。これらは、伊東静雄を紹介する一般書籍として、その交友と詩の読みと解説、書誌的な面でも詩を愛する人たちの間に流通してきたものである。これらの研究者による評論やエッセイとともに、『伊東静雄詩集』(杉本秀太郎編・岩波文庫・一九八九)は、コンパクトではあるが、伊東静雄の詩の全体像と変化する詩の雰囲気が見えるように編纂されている。『伊東静雄 孤高の抒情詩人』(小川和佑・講談社現代新書・一九八〇)、橋川文三の文章も納められている『現代詩文庫 伊東静雄詩集』(藤井貞和編・思潮社・一九八〇)も、一般書に近いかたちで、編集されている。藤井貞和は、秋山虔門下の源氏物語や万葉集の研究家である。その詩は前衛的であるにもかかわらず、反日本浪曼派的な思潮が多く見られた時代に、伊東静雄や日本浪曼派に対する意義ある擁護者としての発言を見せていた。今日、巷間に流布する伊東静雄の詩を広く提供している点で、これらの一般書も注目されるものである。これにより、伊東静雄は細々とではあるが、時代を超えて読まれてきたものと思われる。

 戦前から伊東静雄の周辺には、小林秀雄や鮎川信夫の周辺と同じように、詩と文学の発生に関する多くの人が関係をもちながら、文学磁場における関係の共同性を形成している。伊東静雄の場合も、恩師の潁原退蔵や酒井小太郎とふたりの姉妹、旧制の中・高等学校や京都大学の同窓生や友人、そして妻と子供たち、作家の庄野潤三や島尾敏雄から桑原武夫、富士正晴などを考えれば、その顕著な例に挙げられるだろう。伊東静雄は、同時代の詩人たちで、敗戦を知らずに逝去した萩原朔太郎や中原中也、立原道造とはことなり、教師をしながら銃後のなかで、戦中から戦後を生き、病弱であったにもかかわらず、詩を書き続けた。伊東静雄は、共同性としての国の権力に近くはない教師という半庶民の銃後で詩作していたのだ。このことは、伊東静雄の詩を読む場合の重要な理解をもたらす点である。しかし、昭和二十七年(一九五二)、結核で喀血する。翌年の昭和二八年の二月には大喀血を起こすと、そのまま三月十二日に逝去した。その時、亡くなった伊東静雄の『全集』を出そうと奔走したのが、桑原武夫と富士正晴である。二人の協力で編まれた『伊東静雄詩集』(桑原武夫・富士正晴共編・創元社・一九五三)は、桑原武夫と富士正晴の共編となった。巻末に桑原武夫が「解説」を書き、その年の七月三十日に、創元社から発行されている。

 小林秀雄の『無常といふ事』は、昭和二十一年二月に創元社から発行されたが、河上徹太郎の紹介で、小林秀雄が神奈川の白洲次郎の家を訪問した。こうして、吉田満の『戦艦大和の最後』は、吉川英治、小林秀雄、河上徹太郎、林房雄、吉田健一の跋文を最後に掲載して、昭和二十七年八月に創元社から出版された。先の『伊東静雄詩集』の発行は、翌年のことである。

 

 伊東静雄には、生前、五冊の詩集がある。『わがひとに与ふる哀歌』『夏花』『春のいそぎ』『反響』および『反響以後』の順で発行されているものだ。ところが最初の創元社版の「全詩集」では、第三詩集『春のいそぎ』の時代に書いた戦争詩を省くようにという詩人の意向があった。この削除された幾篇かの詩は、いわゆる「戦争詩」として問題とすれば、問題になる。ここに、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』(未来社・一九六六)を筆頭に議論された保田與重郎と日本浪曼派に関する論点がある。それは、単に戦争に加担する問題だけにとどまらない。日本的美意識を内在化させながら、「天皇制」に収斂する位相力学的なトポロジーをいかに回避するところに立ち尽くし、その感性の場所を超えていく詩の位相と相対化による距離が必要かというアポリアである。伊東静雄の詩について論じた橋川文三の「消極的な戦争詩」は、その後、『橋川文三とその浪漫』(杉田俊介・河出書房新社・二〇ニニ)などでも見直しと再検討が図られている。著者も、当然そのことを意識しつつ、影響を受けている様子が窺える。

 これらの経緯が示すなかで、著者は第三詩集『春のいそぎ』に目的を明瞭に絞り込んだ。そこからじっくりと読み込み、思索を重ねていく。その方法には、伊東静雄が最後まで詩の推敲を重ねていたという論拠をもとにして、まとめられた『定本』からの作品の引用ではなく、初出の詩雑誌「コギト」「文学界」「呂」「日本浪曼派」「四季」からの初出詩を参照して、時代そのものの写しである引用を行為した。「全集」や「定本」を基本にして論稿を書くことは、ある面では常套手段である。しかし、初出を基本とするこのような実証的な方法は、かつて「日本近代文学会」所属の宮崎真素美の『鮎川信夫研究−精神の架橋−』(日本図書センター・ニ〇〇ニ)や東京大学に提出された博士論文である田口麻奈の『〈空白〉の根底 鮎川信夫と日本戦後詩』(思潮社・二〇一九)などに初出詩の引用として散見されるものである。そこでは、鮎川信夫の詩は、実証性のために初出時の雑誌からの引用がなされ、その旨も明記されている。これが「定本」や「全集」からの引用とは異なる異同に注視する研究者独自の方法である。初出による「原詩」を引用する。そこに実証性を重視する研究者の論考スタイルを踏襲している批評の証が見える。また、そうした実証性とあわせて、著者にはもうひとつの批評が存在する。それは、詩人としての解釈する「声」にある。テクストとしてのひとつひとつの絵画作品を解釈学的に論ずるように、伊東静雄の詩の一篇一篇を現象する詩の姿として捉えようとする詩人の眼と「声」がもうひとつの批評の方法として散見できることが特質である。

 

 杉本秀太郎編の『伊東静雄詩集』は、第一詩集『わがひとに与ふる哀歌』に収録された詩のみに絞って解説を加えたものである。その他多くの評者が、『わがひと』についての論及を重要なものとして論じてきた。そのことを著者はよく理解して手際よく整理している。だから表題に見るように、「戦時下の抒情」という詩人たちの限界状況である第三詩集『春のいそぎ』と第二詩集『夏花』の詩の時代がこの本では中心的な批判の場になっている。そのために、両義的な評価の潜勢性である第一詩集や晩年の詩への考察は、それほど多いとはいえない。また伊東静雄の全体像を通時的に外観したときに必ず出てくる問題がある。日本的美意識と土着について考察する桶谷秀昭は、『昭和精神史』のなかで、第一章を「昭和改元」からはじめるが、最終章の第二十章「春城草木深し」では、伊東静雄の「夏の終わり」の詩で終えた。伊東静雄の「夏の終わり」の詩で書き終えた桶谷秀昭が、その続編『昭和精神史 戦後編』の冒頭を敗戦の詔勅を聴いた四人の文章を上げて書きはじめる。そこに、伊東静雄の存在がある。朝日新聞社の「社説」、次に伊東静雄の「日記」、そして河上徹太郎の随筆、最後が太宰治の小説「トカトントン」である。伊東静雄の詩を愛する桶谷秀昭の『土着と状況』所収の論考をはじめとして、戦中及び戦後の伊東静雄の作品を詩人の詩精神の衰弱とする理解と解釈が圧倒的に多く見受けられるのも、桶谷秀昭の論考に影響を受けたことによる。それは、ひとつの通説にまでなっている。

 

 伊東静雄の晩年の詩をどう読むかという問題は、依然として残されている。吉本隆明は、伊東静雄に関しては、「四季派の本質」における三好達治とは対照的な位置にある。伊東静雄には一度も触れていない『言語にとって美とは何か』であるが、以後の『増補 戦後詩史論』では、わずかに二度「四季派」の文脈で伊東静雄に触れている。不思議なことではあるが、橋川文三が保田與重郎に重きを置き、「補論」の「日本ロマン派と戦争」の項目のなかで伊東静雄に関する現代の評価の先鞭をつけることになるが、多くの「日本浪曼派」批判からの保田與重郎などとは違って、吉本隆明は「四季派」の文脈で語っていることが静雄詩の理解の特徴である。実際、伊東静雄が「日本浪曼派」の雑誌そのものに寄稿したのは、六篇だった。保田與重郎の雑誌「コギト」にはかなりの数の詩を寄稿したが、戦前の「四季」には五篇である。戦前のモダニズムに影響を受けたとはいえ、鮎川信夫や吉本隆明の若き日にとっては、立原道造などの影響もあり、「四季」派に対する思いのなかで、詩を読み、書いてきた。その意味で、戦後の伊東静雄の詩に通底するものが潜勢力として考察できる。吉本隆明のなかでは、伊東静雄の詩は教養としてのドイツ系列の「四季派」として位置づけられていた。

 しかし、吉本隆明の『詩学叙説』(思潮社・二〇〇六)になると変化が見られる。この論考は「七・五調の喪失と日本近代詩の百年」(二〇〇一年「文学界」一月号)と題するものだが、はじめて伊東静雄の詩が引用され語られる。それは、詩人の特性を語ることよりも、表現の様式である日本の韻律から語られたものである。ところが、伊東静雄の詩の次に引用される詩は、「荒地」の北村太郎であり、鮎川信夫のそれが続くのである。これは明らかに「戦後詩のはじまり」としての戦後の伊東静雄を持続する詩作を配慮したひとつの転位として考えられるものである。

 

 本書は、「戦時下の抒情」というサブタイトルをもつ。「伊東静雄とその時代」を克明に検証した著者の批評の視点も、ここに特性があるものと思われる。第三詩集『春のいそぎ』から第二詩集の『夏花』の「戦時下の抒情」を反時代的に遡行して読む。伊東静雄が生きた時代に現代から遡行して志向性をむけるとき、著者の詩人としての感性が「伊東静雄とその時代」のトポスに共振して、伊東静雄の詩の読解は、著者にとっては詩人である差異としての自己言及性を語る詩的な散文となっている。戦時下から遡行して読む若き『わがひと』の日常性にも特異な眼がむけられ、その生活詩人の存在に思いを巡らすのは、家庭人としての著者の詩人の実存の眼であろう。

 すでに述べたが、巻末には「作品年譜」と「年譜」と「参考文献」が網羅され、学問的研究の精査も実証的に進められてきた。その意味で「書くことは不思議な行為だ。それは、発掘や採掘に似ているかもしれない」(「終章」)と書く著者には、詩人的感性による伊東静雄のレクチュール(読み)を通じて、「戦時期の抒情」とは何であったかの解釈を問うている。そのことは翻って、現代に詩を書く詩人の現在性と抒情というものの関係が何を意味するのかを歴史的な実証性によって問うてやまない。

 

 人々は、七十八年目の終戦記念日に何を思ったか。伊東静雄は、そのとき「日記」に記していた。

  「一日中雨。

   十五日陛下の御放送を拝した直後。

   太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々と

   を照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼってゐ

   る。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこら

   ないのが信ぜられない。」(伊東静雄「日記」8月31日)

 この「日記」の記録では、昭和二十年八月二十八日、二十九日、三十日と記した後、おもむろに十四日になり、最後に三十一日の記述となっている。引用文は、この三十一日の最後に置かれた文章である。六〇年の安保騒動に揺れた後、間も無く、中国戦線に赴いた経験をもつ林房雄が『大東亜戦争肯定論』(浪漫・一九七四(初版一九六四・六五))を出版した。こうした文脈は、江藤淳をはじめとして比較的権力の近くの人を論じてきた評者である、現在カソリックに身を置いている富岡幸一郎の『新大東亜戦争肯定論』(飛鳥新社・二〇〇六)にも影響を与えている現在の状況というものがある。伊東静雄の周辺と理解するか、日本浪曼派の問題と理解するかはともかくも、この周辺に左右両派から力作が書かれているところに、現代的な状況が見えるようだ。こうした歴史の反転する姿が誠に顕著である現代の時間軸が変容する時代にあって、日本的美意識を内在化し、それを超越する詩人伊東静雄とその時代は、はたしてどのように考えればよいのか。

 萩原朔太郎が伊東静雄を激賞したことは殊に有名であるが、萩原朔太郎編による『昭和詩鈔』(昭和十五年三月十八日発行・冨山房)では、四十八人の一八〇篇の作品が掲載されている。その劈頭は、伊東静雄の「帰郷者」「私は強ひられるーー」「冷めたい場所で」「わがひとに與ふる哀歌」「かの微笑のひとを呼ばむ」の五編である。

 

 伊東静雄は、今日、多様なファンをもちながら、また多くのひとへ感動を与えながらも、ある意味でマイナーポエットとして存在している。それは、ひとえに時代の思潮とイデオロギー的な見方が強かった時代の詩の解釈から評価されたなかで成り立ってきたものである。これまで、戦後詩の検討が、幾人かの論者によって詳細に行なわれてきた経緯もある。鮎川信夫、石原吉郎、大岡信、谷川俊太郎と戦後詩から感受性の時代の詩人たちと女性詩人までやってきたときに、それらを貫通する存在としての伊東静雄への問い直しは、抒情のあり方の問い直しと共に、大岡信の感受性や饗庭孝男などの一部の評論家に見られる美の現象学的な解釈の取り組みを除いては、十分その時系列な検討の道筋の上にあるかどうかは疑問も残されていると考えられる。それに対応する現象学的思考への問題への喚起がさらに必要であろう。

 そうした意味からすれば、多くの詩人や研究家が、これからの詩の読み直しをどのようにするべきかが問われている。伊東静雄の次は、誰をテーマとしたらよいのかという意味でも、本書の存在は多くのひとに衝撃をあたえている。そこに著者の詩人としての秘められたポエジーが伊東静雄の詩に反照しつつ、レゾナンスを奏でている。その意味で、実証的にも、詩人の解釈学的にも労作となった本書は、多くの伊東静雄ファンだけでなく、「伊東静雄研究」を志す個人の域を超えて、今後の「伊東静雄研究」にはなくてはならない参照すべき研究書の位置にある。

 本著が出版された意義は、誠に大きいといえるだろう。

 

                            2024年5月22日 校了

 

 

(「四季派」学会「年報」に掲載予定)