又吉栄喜著『仏陀の小石』(コールサック社刊)

 

 

 

『仏陀の小石』に見る

トランスクリティークの一視点

    

          岡本勝人

 

 

 

(1)又吉永吉の「トランスクリティーク」

 

 『仏陀の小石』という又吉栄喜のタイトルに接して感じたことは、かつて柄谷行人がカントを通じてマルクスを読み、マルクスを通じてカントを読み直し基礎づけた「トランスクリティーク」の認識の類似性だった。つまり又吉栄喜はインド・仏陀の仏教世界を通じて沖縄の現実や精神世界を問い直すような「トランスクリティーク」を試みたように思われる。そこには、アジアの混沌の中で多様な差異を横断する移動そのものがあった。又吉栄喜の小説が浮きあがらせているものこそ、様々な現代の困難を抱えた魂を救済しようとする独特な「トランスクリティーク」な認識であろうか。

 というのは、従来の沖縄の作家が書きとどめた「沖縄文学」については、奄美・沖縄・宮古・八重山の四つの諸島をその文学領域とし、日本的標準語で書かれた「近代文学」から「現代文学」となった以後も、大城立裕などの自覚した作家をはじめ、大きな難問があることは誰も知ることである。それは、本土である日本列島との政治的・社会的・文化的な接線に基づく文化摩擦や差別も含むものである。

 それを詳細に辿ることは専門家の領域であるが、本土の薩摩(鹿児島)との長い歴史があった。明治維新後の近代国家をめざす本土との関係がある。第二次世界大戦では、太平洋戦争として沖縄戦が戦われ、アメリカ軍の占領と長い間の統治が続いた。その後、沖縄の返還がなされた後においても、基地の問題や米軍兵士の問題など、さらには沖縄本島と周辺の島々との関係も歴史的に大きな問題が横たわり、いまなお懸案の現代的問題であることには変わらない実情があると言える。

 

   車は高速自動車道の沖縄南を下り、ゴヤ十字路に進んだ。ビリヤード、レストラン、ス

  ナック、カフェ、クラブなどの横文字の看板が、どこかの西部劇に出てくるような広い車

  道の両側に建ち並んでいる。「美女募集」というスナックの立て看板もある。ハワイアン

  バーも見つかった。                (第十七章 ハワイアンバー)

 

 そこには、米軍基地やバーやスナックなどの「琉米文化」として、現代では歌姫などの歌手の活躍で知られる強いアメリカの影がある。当然そこには、現在進行性の入れ子的な米兵と回想のベトナム戦争との関わりにまで至る描写が続く。そうした共時論的な視点が、作家のエクリチュールの中心として伏在していることに視点を定めてみよう。

 著者の又吉栄喜は、他の沖縄出身の作家と同じく、あるいは本人の独自性としての差異をもちつつ、沖縄という存在を自己言及の中心に据えて語る作家である。今回、この作家が書いた長編小説『仏陀の小石』をどのように読むか。そこに表現された現象的な問題をどこに求めるか。またそこに表現された表象的な風景とともに、「首里G町の、石垣の影に座り、キセルをくわえている、痩せた小柄な老女に車は近づいた。安岡は目を凝らした。老女の足元の藍地の巾着からタバコの箱が顔をのぞかしている。」(第四章 怪人ヨネ)と書かれる沖縄人にとって、現在が抱える本質的な問題とは何かである。さらには、この作家が考える沖縄という存在が、普遍的で存在論的かつ思想的な意味合いをどのようにもつことができるかを考えていくことも重要であろう。

 

 

 

 

(2)長編小説の構成力

 

 この長編小説『仏陀の小石』が抱えている問題には、多岐に渡るものがある。

 主な登場人物は、七人である。舞台は、沖縄在住の一般人が参加する、インドの「聖蹟巡りツアー」だ。

 登場人物のひとりである沖縄の小説家で主人公の安岡義治とその妻。二人が結婚したときの新婚旅行は、「インド周遊」だった。その妻は、現在の夫の浮気と過去の娘の死によって、「仏陀の小石」を探し出し、沖縄の「平和記念公園」に埋めたいと願っている。妻の姉は沖縄人と結婚したが、アメリカ人の恋人とのもつれで、すでに亡くなっている設定になっている。主人公は結核にかかり、「疎隔された鶏」によって、或る文学賞を受賞していた。その父は、軍用地料を得ていて、裕福な身分として問題が設定されている。主人公に結核療養所で出会い文学的な影響を与える存在が、主人公とともに作者の分身と思われる老小説家である。

 小説に登場する参加者は、その他、瞑想好きな武島と体重を気にしている保母の中松律子を脇役とし、インドツアーの添乗員で沖縄に仕事をもつインド人のバクシは、インドの紹介者の位置にある。

 作者の言によれば、長編小説はテーマを決めて書き始める短編ではなく、書きながらテーマも内容も構成されていく小説であるが、ここには七人の多元的・複数視点をもつ小説としても構成されている点が構成力と関わっている。

 

   船は一文字の波よけとテトラポッドの間から小さな港に入った。十数名の、多分こ

  の集落出身の人たちと一緒に安岡と希代は少しふらつきながら船を下りた。島は港の

  近くに十数件の赤瓦葺きの家や、コンクリート二階建ての家が寄り集まり、家々の周

  りには防風林のフクギやガジュマルが生えている。                             

                       (第十五章 山上の死者たち)

 

 沖縄にとって、歴史を考える場合のさまざまな「トランスクリティーク」がある。江戸時代になって薩摩藩による支配がおよぶと琉球王国は、明・清との両属の支配が続いた。明治時代になると、江戸の琉球王国へと遡る歴史がある一方で、現在と関わる太平洋戦争後のアメリカ占領と復帰以後も見えざる現在性の抑圧と隠蔽がある。他方で、本土との関係から文化的差異をどのように考えるか。アニミズムやシャーマニズムと天皇制と文化的な象徴として集約される本土の混合的文化は、確かな差異として沖縄の首里王朝やアニミズム、シャーマニズムの宗教や食文化などの言及性を培っている。両者にある差異の知覚こそ、日本文化に紀州を対峙させる中上健次のように、作家にとっての自己を見つめることであり、それは自己言及的な形式としての劇中劇的な入れ小細工や言葉の生成、作品の構成から文章の生成へとつながるものである。

 

 

 

 

 

(3)インドという存在

 

   僕はなぜインドを書こうとするのだろうか。沖縄文学がアジア文学、世界文学に飛翔

  する何かヒントがインドにはあると考えてる・・・。」

                               (第十一章 喜捨)

 

 作者の又吉栄喜は、琉球王国の発祥の聖地である浦添城跡(グスク)の近くで生まれている。さらにそこは沖縄戦での敗北後、米軍の支配のもとにテント生活が続き、そこで作者は1947年に生まれたという存在論的な経緯をもつ。伊波普猷は、この作者の生まれた浦添について、『古琉球』の「浦添考」のなかで、首里の存在の前に大きな勢力をもって琉球王朝に影響をあたえていた「浦々」を支配する土地の名であると、言語の歴史と「おもろそうし」の考察によっておこなっている。

 『仏陀の小石』では、「聖蹟巡りツアー」とそこに至る参加者の沖縄での生活が遡行的に語られる。逆に言えば、七人のそれぞれの沖縄での生活が、「聖蹟めぐりツアー」で大団円となる。「聖蹟」にこそ、「仏陀」の存在を明示しつつ、時間差を持ちながら、沖縄が語られているのだ。「読者は観光バスのツアー客となり、登場人物になる。僕の観光案内がいつの間にか深刻な人生案内になる。インドと重ね合わせ、沖縄の歴史や状況も案内する。」(第十一章 喜捨)というように。

 「仏陀」は、紀元前565〜485年頃とも紀元前463〜383年頃のひとともいわれ、インドの東北部のガンジズ川の麓のルンビニーに生まれている。ブッダガヤで出家して悟りを開いた人である。初めて説法をしたのが、サールナート(鹿野園)であり、その後ラージャグリハ、ナーランダーの霊鷲山で説法したが、最後は、ヴァイシャーリーから西に向かいクシナガラの地で、八十歳で亡くなったと言われている。(『ゴータマ・ブッダ― 釈尊の生涯―原始仏教1』・中村元)

 「聖蹟めぐりツアー」の一行は、インド東北の地方都市であるパトナに着くと、初日の午後、ラージギール(マガダ国の王舎城)へ向かった。翌日、「あれがくちばし、あそこが顔、羽は下の方。ここは大昔から霊鷲山とよばれています」という、仏陀が説法をした小高い丘の霊鷲山を訪れる。そこで、「聖なる石」を拾って多くの戦死者が祀られている沖縄の平和公園にもって帰るのだ。午後、バスは竹林精舎跡に向かい、3日目には、ブッダガヤからスジャータ村へ。そして4日目の最後には、ベナレスの町に着く。

 

   しばらく牛の糞を頭に載せたふたりの少女の面影が漂ったが、安岡は窓から霊鷲山を見

  続け、牢獄の窓からわずかに見える霊鷲山の仏陀を思い浮かべ、心を癒やしたというビン

  ビサーラ王に思いをはせた。

   バスは走り続けた。インドの大地と沖縄の島は全くかけ離れている、と安岡は思った。

  大陸と島の違いではなく、戦争や米軍基地や米兵が全く違う。

                             (第十九章 竹林精舎)

 

 小説に書き込まれている表現の根拠には、詩人の吉増剛造がインドで知らされたと言った、牛の目の形こそ、宇宙の形である時空にあることである。沖縄文化圏で暮らす生活者たちが、「仏陀の小石」をひとつの志向性とし、インド文化圏でのものの見方や感じ方、それに感応する生活者の心と身体の態度の変化に至る、「トランスクリティーク」がある。

 小説の要点は、自らの生存のトポスに対峙する歴史的な琉球王国の存在と本土という明治維新以来の近代国家日本との対立と対比、そして沖縄の宗教と文化と対比されるインドの宗教文化というトリアーデに見られる。そこに、又吉栄喜が背負っているものが見えるようだ。沖縄の地域が含みもつ、政治的、経済的、文化的ないし宗教的な事象として、それを差異の反復するものへの問いかけとして、小説の素材としている点を指摘できる。

 

 

 

 

 

(4)沖縄の「原風景」とインド

 

 沖縄出身の作家にとって、沖縄という存在が存在意義の要であることは言うまでもない。作者はそれを沖縄の原風景とした。みずからの内的な文学発生の場所としての記憶を、現地の沖縄の原風景として取り出したのである。『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻想』(奥野健男)によれば、外在的には、縄文に通ずる沖縄の海洋文化や自然の豊かさの光景に通じるものがあり、内的には、精神分析的な沖縄人に塗り込められてきた敗北の構造の記憶からの想起がある。「近代文学のリアリズムは、明らかに風景の中で確立する」と書く『日本近代文学の起源』(柄谷行人)の明治二十年代に発見された「風景」とは、当時の認識的な布置であったが、そうした深層のなかからどのような内在的な構成力をもとめていくかということが、この長編小説を支える精神分析的な構造である。そこに『抽象と感情移入―東洋芸術と西洋芸術―』(ヴォリンゲル・草薙正夫訳)も、現実の事象と抽象表現としての書くことと関わる文章論として作用して存在する。この小説が「ブッダの小石」というテーマの設定を可能としたものこそ、そうした「トランスクリティーク」である。

 周知のように、インドの北東部で生まれた仏教は、その後、北西部のガンダーラでヘレニズム文化と出会い、仏像文化の形成とともに西域のインド系のひとたち、龍樹(ナガールジュナ)の「空」から無着(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)による「唯識」の思索を経て、「律」や「論」として変容していく。また、これらが伝えられて、西域から中国、中国から朝鮮半島を経て、日本に伝わってくる。これらは、日本の古層としてのアニミズムや神道と習合した大乗仏教である。

 いま作家が目指している聖地は、「ブッダそのものに帰れ」といわれる仏陀の聖地であり、原始仏教あるいは初期仏教と言われる悟りを目指す信仰の世界である。(『バウッダ・仏教・』中村元・三枝充悳)

 

   安岡も瞑想に入ろうと目をつぶった。風を呼び集め、カラカラとなる、乾いた不思

  議な葉音を聞きながら、この菩提樹の下から、俺が座っている、まさにここから盂蘭

  盆会、聖徳太子、奈良の大仏、祇園精舎、アジア諸国の石窟仏、仏画、ガンダーラ、

  空海・・・何千、何万という歴史の事象が始まったと安岡は実感し、身震いした。

                     (第二十九章 ブッダガヤの菩提樹)

 

 インドは、現在ではその風土と歴史の中で、ヒンズー教の文化にくりこまれている。しかし、パーリ語に近い地域語で話したブッダが初めて説法したのは、鹿野園と言われるサールナートの地であった。そこは、「仏教歴史地図」や「仏跡要図」で見ると、インド人にとっての聖なる土地であるベナレスのほんの近くにある場所である。

 

   だいぶ空が明るくなった。ガンジス河に近づくにつれ、まだ裸電球の灯った店頭に

  儀礼用の大小さまざまな仏具を並べた、巡礼者向けの土産物屋が増えてきた。土産物

  屋に挟まれた石畳道をどこからともなく湧いたように現れた人々が埋め尽くしている。

                      (第三十二章 河の女神ガンジス)

 

 私たちは、この時、遠藤周作の晩年の小説『深い河(ディープ・リバー)』に思いを馳せることができる。遠藤周作もこの長編小説『深い河』を書くために、何度か準備作業としてインドを訪問した。直接性としてのインドのベナレスに辿りつくと、ガンジス河畔のヒンズー教徒の火葬や水葬について、小説はえがいている。神は、ヨーロッパの教会やチャペルだけではなく、ユダヤ教徒にも、仏教徒にも、ヒンズー教徒にも、聖なるものの存在としてそこにおられるということになる。小林秀雄がいち早く透視したように、安岡章太郎が遠藤周作の仲立ちで晩年にカソリックに入信した。インドを訪れた晩年の遠藤周作について、安岡章太郎は遠藤さんはカソリックを捨てなくてよかったという言葉を漏らしている。そこで遠藤周作は、インドの文化圏に触れ、ベナレスの沐浴を見て、生と死の輪廻転生としての「仏陀の小石」を手にしたのである。しかし、遠藤周作は日本人としてエルサレムの地のイエス・キリストを捨てることはなかった。『沈黙』から『深い河』へと遠藤周作が辿る精神史には、昭和の初めの八年間を満州の大連で過ごした経験があった。遠藤少年には、そこから帰ってきた暗い歴史がある。

 作者の又吉栄喜も、おそらくインドに行って、「仏陀の小石」を拾ったことであろう。にもかかわらず、仏教にはいることができるかは難しい問題である。なぜならば、日本の本土の仏教は、北伝による多仏による救済を主とする大乗仏教であるからだ。沖縄の母系制の原理にある宗教の中で、大乗仏教がどういう位置にあるかという問題は、本土の宗教と沖縄の宗教との差異そのものである。島尾敏雄は、「そのときの私には奄美大島は上古の霧にとざされていた。仏教も儒教もこの島を覆うことができなかったと考えられていた。」(「名瀬でより」)と書いている。ここには、又吉栄喜が、インドの直接性としての「ブッダ」を原始仏教や初期仏教の「小石」として提出して書いたと言う現実だけでも、「トランスクリティーク」となっていることが論点になる。

 さらには、日本の権力は、父権制ではなく、母系制である。母系制による南島の沖縄本島と周辺の島々との宗教的、政治的、社会的、経済的差異にこそ、「この南の島々を通して日本文化が展開して行ったのか、あるいは古代日本がふくらみ、あふれ出て、ここに定着し、日本自体が変貌して行ったあとも、ここにはかつての純粋な姿が残ったのか。」(「結語」)と書く岡本太郎の『沖縄文化論』の直接性と、「沖縄、と私は書いてきたが、実は琉球孤ということばをこそ使いたいと思っている。沖縄本島とその周辺を意味するせまい沖縄のほかに、奄美や宮古、八重山の島々をも、私は沖縄のことばにかさね合わせて考えているからである」と書く島尾敏雄の『琉球孤の視点から』のヤポネシア論の問題や、「巫女論」や「母制論」や「対幻想論」による吉本隆明の『全南島論』とも関わる事項になる。さらに私たちは、本土の研究者でかつて沖縄に強い視線をもった柳田國男の「海上の道」による「北方説」や折口信夫の「マレビト論」、柳宗悦の「民藝運動」、谷川健一の「南島文学発生論」などの考察による実り豊かな仕事を「外部」の思考として見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

(5)「沖縄」に生きる作家

 

 作家として存在することは、作品を「書く」ことである。作家と老小説家のふたりにとって、小説の中の「文学論」はもうひとつのコンテクストであった。主人公にとって、知識人が読者に現実を語るための構成力と現実を異化する描写力が必要である。平板な現実を高次のリアルに語るための構成力が必要となる。そこに入れ子的な構成面も散見できる。これらは、小説の中の小説(小説内小説)の重層的取り組みとも言える。

 問題は、どこまで生身の人間が生きる生活そのものの時間の差異から共時論的な差異を見出すことができるかにかかっている。その差異は、作家に自己言及として言語の生成となって表現されるからである。そこに「ブッダの小石」は、登場人物の生活の連続としての「聖蹟巡礼ツアー」という物語の構造と想起されるストーリーの展開である前に、沖縄人の言語による「沖縄文学」が、現在性をあらわにしている様子を探ることができる。

 

   「三線はとても不思議だと思いませんか?わずかな弦だけで、喜劇も悲劇も表現できます

  から」と三線男は言った。どの弦楽器でも同じだと安岡は思ったが、何も言わなかった。

   「三線は極限すれば、三線の音と共に沖縄の人は生まれ、亡くなる、そんなイメージを私

  は持っているんです。」                   (第九章 三線男)

 

 かずかずの現地語の固有名詞が沖縄にはある。日常に使用されている沖縄の固有名詞と方言だ。琉球方言による沖縄の古代文学の抒情文学は、三線に合わせて謡われる。「沖縄」という固有名に対する対比的な周縁諸島の「島々」があり、他者性としての「本土」の宗教と文化と言語があり、同じように差異としての「インド」の存在がある。そこに発生する思考こそ、相互作用性としてひとつの局面と他の局面を思考の媒介でつなげる「トランスクリティーク」であろう。

 

   インド人は「確かに」生きている。死を何とも思わず―何とも思わないというのは信じ

  がたいが―むしろ謳歌しない生を恐れている。妙な感慨を安岡は抱いた。混沌とした風土

  と人々からあふれ出る力が高度な美しい教えを間違いなく生んでいる。

                          (第三十一章 ベナレスの町)

 

 『万葉集』の「万葉地図」には、東北以北の「蝦夷」(北海道)の地は入っていない。同様に、九州以南の「奄美」から「琉球」の沖縄諸島もそこにはないのだ。それらのことは、周知のことである。

 そうした偏差にこそ、意味の始まりとしての沖縄の差異を見るべきである。この差異には、違いを埋めるべく語られる多くの物語が「沖縄文学」としてあるはずである。それが、差異を記述する又吉栄喜の自己言及性へと生成する「原風景」であろう。作品には、多くの琉球王国への憧れも、アメリカの支配に対する抗議も、インドの「仏陀」に対する精神世界の志向性も描かれているにしても、それは本質的な問題とはならない。むしろこうした規定性からの差異を自己言及として超えていくものを考えない限り、サイードの言う「オリエンタリズム再考」はないのである。沖縄へのオリエンタリズムとは、本来の存在の価値や人間が生まれ育ち老いて死ぬという大衆の原像を沖縄人としての作家として、知識人批判を込めた形での文学にその芸術存在を求めなければならないだろう。

 思考する批評的作家に対して、地元出身の評者からは、『土地の記憶に対峙する文学 又吉栄喜をどう読むか』(大城貞俊)のように、作家又吉栄喜に対するオマージュを捧げる立派な書物も上梓されている。それは、地元出身者としての差異を作家との同一性として評価するものである。柄谷行人の「トランスクリティーク」を敷衍して語れば、あくまでも沖縄を書くことでインドを書き、インドを語ることで母系制を原理としている沖縄を語る。そのことが同時に、「私小説」と「物語」を踏まえて、日本の本土について重層させて語ることに通ずるものとして、世界文学として認識される「沖縄文学」の評価はないと思われる。

 現在の沖縄は、中国との関係を脱して一八七九年になると琉球藩が廃止され、沖縄県が設置されたことをひとつの始まりとしている。明治政府からの引き続く沖縄と沖縄人に対する差別の中で、太平洋戦争の開戦となった。その後は、戦後史の中でのアメリカ軍の占領と復帰による現在の沖縄の姿が浮きぼられる時点まで、時間が経過してきた。そこには、変化する沖縄の市民社会がある。軽い表現をとりながら伝統や宗教や民族、文化に至る。そして現在の遺骨収集や新聞記事、多様な社会現象をも注視しながら、重い表現で執拗にアメリカの影を記述していく作者又吉栄喜の姿が見えるのだ。

 作家又吉栄喜の「トランスクリティーク」が、沖縄を中心として、日本および普遍的な文学として結実するのは、沖縄人の原風景を掘り起こし、沖縄の文化と言語も含めた「沖縄文学」を可能とする領域である。それは、文化の共時論的視点に立った理解でありかつ思索ではあるが、そうした出来事の記述は、作家又吉栄喜のエクリチュールによる書字行為の事後的に浮かび上がってくるものである。ラカンがフロイトから発見した「事後性」には、その発生の初動が、あくまで作家の表現としての言語の分割以前の原エクリチュールにかかっているということである。立ち向かうのは、その時見えてくる文化の時空の意味の始まりとしての差異を歴史的に統合する共時論的世界である。そこに本土の人もアメリカ人もインド人も認める文化論としての「沖縄文学」の再考のカギがあるように思える。

 この小説『仏陀の小石』には、そうした事柄が事後的に表現されていることを通じて、作家又吉栄喜の現在性との格闘を見ることができるようだ。

 

 

 

 

 

 

                                                         (了)

 

(コルサック社から刊行)