美濃三山の谷汲(たにぐみ)へ

 

                       岡本勝人

 

 

(1)大矢田(おやだ)神社

 

 

 関東に暮らしている人にとっては、信長や秀吉の歴史によってこそ知る美濃ではあるが、「美濃三山」となるとほとんど聞きなれない言葉に違いない。美濃といえば、土岐川の流域で古くから陶磁器の製造がおこなわれてきた土地で、守護職の土岐氏がいる。戦国時代の物語では、テレビドラマや映画に幾度となく登場してきた。この地名ともに思い起こされる場面は、斎藤道三の反乱や青年織田信長、無名時代の豊臣秀吉の奮戦や活躍である。

 さて岐阜県にある「美濃三山」について、紹介することにしよう。

 ここでは、長良川に沿った美濃市にある大矢田神社と全長百二十キロメートルの揖斐川の中流にある横蔵寺と観音信仰の西国三十三番の最後の霊場である華厳寺である。地元では、「美濃三山」と呼んでいるのだ。

 まず、美濃インターからバスが降りると、十分もすると北西部の大日岳に発して岐阜県の中央を南流する長良川にかかる橋を越える。鵜飼で知られるこの川は、濃尾平野を経て伊勢湾に注ぐ全長百四十キロメートルの川筋をつくって流れる。ゆっくりとした運行工程で、バスは大矢田神社についた。辺りは「楓谷のヤマモミジ樹林」として知られる紅葉の名所である。群れるような落葉樹が全山を色に染める。バスを駐車場で降りて、楼門までの距離を周囲の木立に沿った間道を歩いていく。道を右に迂回するように折れると、楼門前の参道が見えてきた。そこには、父母と一緒の小学生たちが写生をしていた。どうやら授業中らしい。父母が心配そうに子供の絵に見入っている。熱心に子供たちの道具をもちながら、横から絵柄が気になっている。そうした人群のある細い参道をこちらも進んでいく。

 楼門がある。二階作りではあるが、下層に屋根を持たない門は古めかしい。このあたりではひときわ大きな威容を見せている。というのも、この楼門は、明治以前の神仏習合の様式を今にとどめている。神仏習合とは、日本宗教史では重要な論点であるが、日本の神道と外来思想の仏教が融合混和したものだ。この神仏混淆は、衆生を救うために、仏や菩薩が神の姿となって現れることである。仏を本地とするならば、神は垂迹であった。これが平安時代からの「本地垂迹説」である。神社の大鳥居のかわりをはたしているのは、この門である。寺としてみれば、門こそが仁王門に等しい入り口となる。目前に姿を表したこの楼門には、歴史を感じさせる寺の趣があった。

 

 

 この神社には、牛頭天王社という社号がある。牛頭天王は、もともとはインドの舎衛城の祇園精舎を守護する神である。頭に牛の角をもち、夜叉の姿をしている。日本では、東方浄瑠璃世界にいるといわれた薬師如来が垂迹したものだ。日本古代からの神話では、特に荒ぶる神の素戔嗚尊とも習合する。

 京都の夏の風物詩である祇園祭は、前祭と後祭の宵山と鉾の巡行があるが、この時に祭りの最後を飾る神輿の練り歩きがある。こうして一年の厄災を払い落とすことが、この行事の意味するところらしい。ところがこの神輿を奉納する八坂神社にも、同じ牛頭天王が祀られている。近くの六波羅蜜寺の本尊は、十一面観音像である。伝聞によれば、この像は「市の聖」としたわれた空也上人が祇園の牛頭天王のお告げを受けて、坂を上がった清水寺で刻んだものだ。八坂神社は、神仏分離以前は祇園社とも祇園感心院とも呼ばれていた。八坂神社は、神道、仏教、陰陽道が混ざり合った信仰が基になっている。中国では、牛頭天王は古代の陰陽五行説と関わり、天文と暦数によって厄災から身を守る陰陽道系の神に習合していた。ということもあり、祇園祭では室町時代から今日にいたるまで、生活の危機を救う防疫の力のある除疫神として、町衆から町を上げて尊崇されてきたのだ。このように、町衆によって執り行われる山鉾巡行は、「蘇民将来子孫也」という蘇民将来伝説(「備後国風土記逸文」)が物語る「茅の輪守」を形象した疫病除去とも関わって行われる御霊会である。

 楼門をくぐって樹々の枝ぶりの影に埋もれる神橋をわたると、目の前には摩耗した二三四段の階段がつづいていた。息が切れてきたので、右手の柵に手を添えるもののしだいに息はあがってくる。最後の階段を登るころには、腰を折って登っていかなければならない。顔をあげると、階段の上の鳥居越しに、拝殿と桧皮葺の本殿が見えてくる。本殿は、一五五六年に戦乱で焼失していた。戦乱のたびに何度も焼けているが、その度に再建されてきた。眼の前にある建物は、寛文十二年のものだ。国の重要文化財(平成元年)に指定されている。向拝して見あげる古風な本殿の中央の部分は唐破風だが、上の建物は千鳥破風になっている。屋根の部分には、切妻屋根が見えた。木造なので古びた風景だが、よく見てみれば、柱や欄間に精巧な彫刻と彩色が施されている。

 どこの神社でもそうであるが、本殿には周囲を取り囲むようにいくつかの社殿があった。境内をまわって散歩をしているときだ。南西にむいた切り立った場所の一角に伊勢神宮の遥拝所が見える。立派な黒い記念の石碑も建っている。ここから南西約百八十キロメートル行った地に、遠く離れた地から遥かに拝む伊勢神宮があるのだ。遠くに見通せる山々の外観とは違って、天津神を優位とする伊勢の地は意外と近いものだと見ていると、そぞろな参拝客も遥拝所の前に足を止めている。その後、参拝者はそろそろと神社の境内の道を左手に曲がって道を降っていく。そこで、もう一度振り返って本殿に別れを告げる。記念に一枚、写真のシャッターを切った。

 この国津神の神社にも、いくつかの寺宝がある。神社に伝わるのが「釈迦十六善神図」や「禅定寺梵鐘」と「弘法大師坐像」である。本殿の空き地の右側には、社務所と売店が並んでいる。そこにはめずらしい「古呂婆受宮」のお守を売っていた。このお守りの縁起はよくわからないが、老いて転ばないようにという一般的な意味だろうか。立って歩けるうちが生のうちといわれる。七転び八起きや転ばぬ先の杖という諺もある。リハビリテーションの技術や精度が著しく向上しているとはいえ、年々足腰が弱くなると、ふとしたことで腰を痛めたり、転んだりする加齢現象に留意もしなければならない。

 山の頂上が天王山である。その一帯へと登山道が整備されている。一時間も歩いて登っていけば、約五千本ものヤマモミジの樹林が広がる山頂に出るという。

 すでに、山を降りはじめている参詣者の姿が多くなっていた。

 

 この神社の北の地域が、「美濃紙」で知られる美濃の和紙の産地である。ユネスコの無形文化財にも指定されている。クワ科の植物であるコウゾを原料にした、厚手で強い手すきの和紙は、岐阜県の「本美濃紙」と島根県の「石州半紙」、埼玉の「細川紙」である。登録されたことで、世界的にも知られている。美濃国の和紙は奈良の正倉院にも残っている。最近では、書院紙や直紙として障子紙や習字用に用いられる以外にも、明るい間接の照明用としてランプシェードにも利用されている。中国をはじめとして、和紙本体の現物は、書写された経典とともに歴史的に残されている場合が多い。

 もうひとつこの地方には、五百年も前から「ひんここ」の舞という農民人形劇が伝えられている。麦を蒔いてくらす貧しい地方の農民になんらかの危害が加わったときを象徴するように、本来は天津神であった荒ぶる素戔嗚尊が国津神の農耕民の祖となって大蛇退治をするというものだ。古くからの農民の民話と神道の神話とが統一された物語である。使用される紙人形の頭と胴は、竹ひごの籠に美濃和紙を張って、上から何度も山柿の渋を塗って作る。習俗を表す人形の着物や袴には、地元産の絹や木綿が使用されている。

 この年中行事の劇には、庶民の五穀豊穣への祈願と疫病のお祓いの意味が込められている。神仏の習合は、農業に携わる生活のなかに神と仏の習合する民俗の信仰が結びついていた。近世の時代では、神儒の融合が優位となるが、総体として庶民レベルでは神仏儒の融合が見られる。そこでは、仏教優位から神道を優位とする本地垂迹が考察された。『日本宗教史』(末木文美士)によれば、明治維新を契機とする廃仏毀釈を伴う神仏分離政策では、神道一色の近代国家の形成の動きがあった。政教分離と信教の自由を得るための社会と個人の活動は、幾多の挫折を繰り返しながらもつづくことになる。そこに、日本における仏教と神道がせめぎあう日本的市民社会の風景を生きる寺々や神社があるように思う。それらの形と祈りを併存させながら、生老病死や疫病や安産と子育てへの願いとともに庶民の日々の生活を守ってきたのが、持続する地方の寺であり神社の古層であろうか。

 

 

 

 

(2)関ヶ原へ

 

 

 駐車場に停められているバスに戻ると、次の目的地へと足早にむかわなければならない。というのも本日の昼食は、関ヶ原に予定されていた。

 現在では、鉄道網が整備されて交通の便が非常に良くなっている。しかしそれ以上に、運送用の大型トラックやマイカーでごった返す高速道路もさらに整備されている。天竜川では両岸の絶壁を観光船下りがゆく天竜峡がみえた。途中の長い恵那山トンネルを抜けると、木曽川の中流では笠岩などの奇岩や怪石が見える。恵那峡に行く場合でも、高速から深い山々が一望できる。

 美濃をあとにして、一般道では岐阜から大垣などの町を通過するが、バスは東海北陸自動車道から一宮でいったん名神高速道路に出る。やがてバスは、大垣、養老の指標を経て、関ヶ原のインターチェンジに到着した。晩年の木喰上人が、このあたりを歩いて通過している。造仏こそないが、土岐を経由して、高山から立山(第三期の八十歳のころの回国)へむかったり、西の丹波(第四期の八十五歳からの回国)に赴いたりした。

 

 

 関ヶ原は、かつては宿場町であった。不破関の跡や名高い古戦場であったこの町も、今や観光名所のひとつである。滋賀県との境にある交通の要所ということもある。いろんなお土産店と食事処がある。

 新幹線に乗っていると、よくこの辺りを通過しながら流れる光景に視線を注視させていた。というのも、窓から突然飛び込んでくるのが、城跡の景色である。慶長五年(一六〇〇)年九月十五日の「関ヶ原古戦場」から石田三成の居城「佐和山城跡」に移動するころには、電車は平坦な山並みにはいっていく。しばらくすると、日本武尊が景行天皇の命で東国征伐に赴き、その帰途に立ち寄った神話で知られる、時には雪をいただく伊吹山のシルエットが見えてくる。白洲正子が愛したのが、富士山の見える側の座席である。富士山だけでなく、城跡や伊吹山にも視線を投げながら、山深い「かくれ里」へと思いを馳せていたに違いない。電車は、それから「安土城跡」の看板の見える平坦な近江の山と琵琶湖の東岸に入っていくのだ。

 信長は、比叡山焼き討ちによって、根本中堂はおろかほとんどの堂宇を焼き払った。浄土宗と日蓮宗との間には、安土宗論(一五七九年)を催した。石山本願寺とは、浄土真宗の顕如との石山合戦となるが、十一年間もの抗争であった。

 昼食をすませる。店内のお土産には、美濃の焼き物か美濃和紙があると思って歩いてみたが、見当たらなかった。事前に期待もしていたのだが、肝心の美濃和紙の売り場も美濃焼のお店も見あたらない。美濃焼は民芸ともかかわるが、平安時代から鎌倉時代にかけて土岐や可児(かにし)や恵那の地方で焼成された陶磁器である。安土桃山時代には、これらの窯が基盤となって、のちに荒川豊蔵や魯山人が関心を強く持った志野や織部や黄瀬戸が焼造された。と思いながらうろうろしていると、この土地の名産コーナーがあった。

 彩色された酒は箱入りである。「美濃菊」や「飛騨誉」という書の文字が、くっきりと描かれている。その近くには、伊吹の名産のよもぎを混ぜたうどんや蕎麦の乾麺とお麩が置かれていた。伊吹の里は、中国の唐から蕎麦がもち帰られた場所である。蕎麦は、修行僧によって栽培され、全国に広まっていった。こうして滋賀県の北東部の山麓で、農林業や石灰岩を産出する伊吹こそ、「そば発祥の地」というのが、商工会の売り物だった。熱く煮え立った大釜の白い湯のなかに、硬い蕎麦の乾麺をパラパラと釜の淵にまわし込むようにして投げ入れる。七分か八分で、お好みの硬さになるらしい。ということで、体調を崩したり、風邪や食欲のない時のために、それらをいく種類か、お土産に購入したいものだ。

 

 

 

(3)両界山 横蔵寺

 

 

 

 バスは、北にむかっている。平坦な風景からなだらかな山間が迫ってくる。平地と山の境界にそって次第に深さをます山影の間を通る間道をバスはどんどんと奥へむかっている。大垣から国道四一七号線で養老鉄道の揖斐の駅付近を抜け、この土地を流れる揖斐川を越えると、揖斐川の地名の町に出る。福井県と岐阜県の県境に源を発する揖斐川は、岐阜県の西部から三重県の北部を南流する百二十キロメートルの川である。この流域で獲れるのが、良質の揖斐川米である。その他の特産には、畑や山間地で採取されるお茶や清流の川で獲れる鮎がある。

 しばらくバスは、田畑の道を縫うようにすすむが、やがて国道三〇三号線でトンネルを抜けた。

 出てきたところは、濃尾平野の北端にある谷汲の地である。「谷汲踊り」で知られる土地だ。

 まずバスは、谷汲の西側の山間にある天台宗の両界山横蔵寺にむかう。ここも紅葉の名所として知られている場所である。

 揖斐川町の行政範囲に含まれる横蔵寺の歴史は古い。地元では、美濃の正倉院といわれているほどだ。川沿いの道路には、赤字に白抜きの紅葉の紋の絵柄と黒抜きの横蔵寺の文字を染めた幟が何本もたっている。寺の入り口の橋の近くになると、今度は白字に大きな黒文字で染め抜かれた「南無薬師瑠璃光如来」の幟旗が二本たっていた。これらは、横蔵寺の檀家による奉賛会による幟である。参道から右手の階段にはいっていき、現地では医王橋といわれている小さな橋を渡る。ここを流れているのが、飛鳥川である。どこかで聞いたような名前ではあるが、左手にはたいそうな幹肌を見せている大杉がある。

 瑠璃橋を渡り、階段をいくつか登り終えると、また左右に二本の幟旗のたつ立派な山門を抜けでることができた。真正面には講堂があり、右手に聳えているのが苔むした三重の塔である。講堂の左手には本堂と見られる観音堂があり、線香の香りがたちこめている。道はやや降って下りていくようだ。右手には、小さな五つの五輪塔が並んで佇んでいる。そこからさらに少しばかり降るように道を下りて行くと、先ほど渡った浅い飛鳥川が下流の方向へと流れていた。さらにそこを渡り、坂を登り詰めてまわり込めば、宝物館、瑠璃殿、舎利堂の建物がある。

 それほどは広くはないものの、まとまった寺域にこれだけの建物が一箇所に整えられて建っている。かつてのこの寺の姿が、いかに大きなものであったかを物語るものだ。実際に山内の案内図によれば、現在のこの寺の境内の奥には、深い山を背にして旧本堂や仁王門があり、白山神社も奉納されている。驚いたのは、一番山奥に、熊谷直実の墓と書かれているところがあることである。

 寺は、最澄との縁が深いために、現在でも天台宗に所属している。若き日の最澄は、一本の霊木からふたつの薬師如来像を刻んだ。そのひとつは比叡山延暦寺へ、そしてもうひとつをこの地に安置したのだ。伝聞ではあるが、最澄が刻んだ霊木は、比叡山の持命仙人が天竺から持ち帰ったとされる赤栴檀の木である。これが、後日、智顗以来の諸法実相と誰もが悟りを開ける法華一乗(悉有仏性説)を説く延暦寺の根本中堂の本尊となる。

 さらに最澄は、この地方でひとりの老人に会うと、四方の山が両界曼荼羅のようなこの修験の土地に強い関心を持った。そこで、山極の中央の土地に月輪の霊地を探しだすと、草堂を建てたのである。

 

 

 横蔵寺は、八〇一年に創設されている。山号は、両界山だ。「修験道は山岳を神霊・祖霊などのすまう霊地として崇めた我が国古来の山岳信仰が、シャーマニズム、道教、密教などの影響のもとに平安時代末頃に一つの宗教形態を形成したものである。」(宮家準『修験道 その歴史と修行』「序」)。最澄が、中国の浙江省の天台山で修行するために入唐したのは、八〇四年のことである。天台山の智顗は、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』を『法華玄記』(総論)と『法華文句』(解釈)と岩波文庫にも入っている『摩訶止観』(禅観)の「天台三大部」によって、その他「五小部」を含めて中国天台宗を展開した。朝に題目、夕に念仏といわれる。『摩訶止観』の四種三昧には、入唐した円仁によって五台山から比叡山にもたらされた常行三昧が含まれる。『般舟三昧経』によって、九十日間、「心是仏」「心作仏」と阿弥陀仏を念ずるものだ。

 しかし、戦国時代になると、政治的な勢力を増す信長によって寺領は支配された。桓武天皇による平安遷都と最澄の活動は重なる。京都の西にある愛宕山に比較して、北東の比叡山が京の人に注目されたのは、「山家学生式」を整備する最澄以後のことである。比叡山は焼き討ちされ、その後には延暦寺も再建の時をむかえる。山形県の北東部にある凝灰岩が風化してそこに建立された通称山寺といわれる立石寺は、円仁の開創だった。そのため延暦寺からの常灯明を分灯している。比叡山の再建の時、その油と火を持ち寄った事例のように、この横蔵寺の薬師如来像が、そのまま延暦寺の本尊となったのだ。

 現在、代わりに奉納されている仏像は、六十年に一度開陳される秘仏の木像薬師如来坐像である。この木像は、鎌倉時代の前期に作られたもので、京都の北の深泥池(みどろがいけ)のほとりに祀られていたものを持ち寄ったといわれている。

 今、瑠璃殿に展示されているのは、『西遊記』で玄奘三蔵のお供のひとりを模した「木造深沙大将立像」や境内の三重塔に内蔵されていた「木造大日如来坐像」と「木造四天王像」と「木造十二神将立像」の諸仏である。このように見てくると、この土地のひとたちが、熊谷直実の笈も寺蔵するこの寺を美濃の正倉院と呼んでいるのもまことに頷けることである。

 となりの舎利堂に足を運んでみることにしよう。そこには、妙心上人の舎利仏が奥に鎮座していた。これは、天台宗や真言宗でいわれている即身成仏を願った、山梨県の山深い修験の地で修行した地元出身の修行僧のミイラであるらしい。空海の書物に、『即身成仏義』がある。汎神論的に法身となる密教修行の目的とするところでは、現世にありながら、なま身の体のままで仏になれる。断食修行の後の即身成仏の現物を実際に見たのは、この時がはじめてだった。このさとりとともに死の意味を現実界に具現させたミイラには、諸説がある。神仏分離後の一時期には、博覧会場で見せ物になっていた。そこで地元のこの寺が引き取ったという話もある。訪れた参拝客も、眼を背ける人もいる。

即身是仏による供養の思いによるためだろうか。そなえられていたお線香は、「南無阿弥陀仏」の文字が浮きあがるめずらしいものである。お線香に火を灯して、手を合わせ、しばらく展示物などを見ていると、お線香には「南無阿弥陀仏」の白い線文字が浮き出ていた。

 

 

 

 

(4)谷汲山 華厳寺

 

 

 

 

 「日月山水屏風」(天野山金剛寺蔵)の絵を表紙にした『巡礼の旅 西国三十三カ所』(白洲正子)が、現地取材とともに撮影されたモノクロの写真入りで上梓されたのは、一九六五年(昭和四十)のことである。この本には、「湖東から美濃」という項目があり、そこには第三十一番の長命寺、第三十二番の観音正寺、そして第三十三番の谷汲(たにぐみ)を訪問した時のことが書かれている。「青野から少しそれたところに、美濃国分寺の跡がある。」と白洲正子の遍歴は、伊吹山の南側を通る道から美濃国分寺を経て、谷汲にやってきた。「巡礼の意味は、旅するところにある。一つの札所から、次の札所への「道中」にある。」という、能面探訪とともにあった白洲正子の日本文化の深層を求めた神仏習合の巡礼は、五十四歳の頃にスタートしている。

 念願していた「西国三十三番霊場」の満願の寺に、ようやくやってくる。

 谷汲山華厳寺は、平安時代初期の七九八年の創建になる。鎌倉、室町、戦国の時代には、戦乱で焼かれたが、そのたびに再建されてきた。ひとは華厳寺とはいわずに、谷汲という言葉によってこの寺の暗黙の存在を表し、西国三十三ケ所巡礼の打ち止めの場所の名前とした。それが、谷汲である。

 ここにくるには、岐阜県西部にあるかつての城下町である大垣の町から樽見鉄道に乗って、この谷汲の地へとやってくる。駅の名は、谷汲口だ。巡礼鉄道である。巡礼の鉄道といえば、イスラム教徒はメッカへと巡礼するための巡礼鉄道に乗る。しかし、ここでは鉄道でくるとかなり難儀の道程を辿るようだ。となりの横蔵寺でさえ鉄道でくるには、大垣から出ていた近鉄の揖斐線も今は廃線となっていて養老鉄道線になっているようだ。養老線の終着駅からは、かなりの距離がある。一方、谷汲まで一番近かった名鉄谷汲線も、平成十三年の秋に廃線となっていた。だから、谷汲の門前近くには今でも旧名鉄の谷汲駅がそのまま保存されている。

 バスは、参道の横に整備されている谷汲橋の近くの駐車場に到着した。バスを降りると、右手の総門から仁王門までの間の距離は、約八百メートルほどである。門前へと連なるなだらかな上り坂の勾配のある参道は、春には桜のトンネルになるという。秋遅い現在時は、ところどころが、紅や黄の葉群れとなったコントラストを描く季節である。真っ盛りのころにはもみじ祭りが開催され、大洞(おおぼら)の天神社で行われる太鼓と踊りで知られる「谷汲踊り」が上演されるらしい。細く長い参道は、足腰にかなりの上り坂の実感を与えている。こうして参道を谷汲場から大燈籠、八王子神社を越えて、浅草寺のような、ワラジのかかった仁王門まで歩いてきたのだが、途中には「南無大勢至菩薩」の幟がはためいていた。ここまでたどり着くには、相当に歩かなければならなかった。阿吽の金剛力士像を左右に安置している仁王門の左手には、「西國第三十三番満願霊場」の碑が悠然と構えて建っている。

 寺は、大和の長谷寺の徳道上人以来の「悩める衆生を救うため」の寺であった。観音菩薩信仰に発する西国三十三ヶ所霊場の最後に当たる満願の寺である。法華経の観音経(「法華経」第二十五章「観世音菩薩普門品」)による三十三身に変化して衆生を救済する。三十三という数字に注視したい。これまで、古寺巡礼といっても、それほどには三十三ヶ寺の順番にとらわれないで、順序不動に、那智の青岸渡寺から奈良の長谷寺や奈良公園内の南円堂、畿内の聖徳太子や親鸞が関わる六角堂や革堂、空也上人の六波羅蜜寺や今熊野、そして白洲正子がこよなく愛し、なかには日本で一番美しい風景であると嘆じた近江の観音霊場を巡ってきた。

 

 

 日本の巡礼は、西洋の聖地や聖遺物を直線的な目的とする巡礼ではなく、まわりまわってというシステムに特徴がある。各地の聖なる土地や神社仏閣をめぐるようにしておとずれる巡歴が多いのだ。日本人は、無意識のなかで、めぐりめぐって巡礼の旅をつづけているのである。

 巡礼(Pilgrimage)とは何か。観音(アバローキテーシュバラ)信仰とは何か。日本人にとっての宗教現象学は、ある面でここに象徴されている。

 何よりも大津市にある園城寺(通称三井寺、円珍の寺門派)の僧覚忠の巡った記録のあるこの巡礼を復活させ、この寺を満願の聖地としたのは、南北朝から室町初期を生きた花山法皇である。『栄花物語』や『大鏡』に詳しい花山院(九六八-一〇〇八)は、冷泉天皇の長子であり、六五代の天皇で歌人である。藤原兼家をはじめとする藤原氏との政争のなかで、奇行もあったらしいが、若くして騙されるような陰謀により在位二年、十九歳で天皇の座を降りて、退位出家した。修行したのは、叡山そして三年間の那智の滝である。そして花山法皇は、巡礼に出発する。帰京後は、数寄風流の生涯を送り、絵画、工芸、造園にも秀でた退位後の法皇であった。

 この寺には、法皇の詠んだ聖歌三首が残されている。この土地とそれぞれに由縁をもってつながれた、現世と過去世と未来世を表す巡礼歌である。札所の事務所でいただいた朱印状にも、「大悲殿 華厳寺」、「満願堂 谷汲山」、「笈摺堂 谷汲」と記された三種の朱印があった。朱印状は、それぞれ現世、過去世、未来世を記号化したものだが、このようにこの寺では、三つの御朱印を授かることができる。参拝者は、何よりも満願の地の朱印をありがたいものとして求めているに違いない。

 話は少し変わるが、秀逸なエッセイ集の『洛中生息』によって、京都とパリやフィレンツェを比較するフランス文学者の杉本秀太郎は、『探訪日本の古寺』(小学館)で日本の古寺を取材している。そのなかには、「美濃の谷汲」(一九八一年十月『絵草紙』所収)という谷汲を訪れた時の長い文章がある。エッセイでは、大垣から樽見線に乗り、「江戸宝暦年間の建立という仁王門をくぐり、まっすぐな石畳の参道をゆく。(略)折から日曜日とはいえ、このにぎわしさはさすがに満願所である。(略)香煙が渦巻いている。人びとはその煙を手ですくい取ってはわが身のほうへ振りほどく」と、華厳寺に詣で、さらには地元の淡墨桜を訪ねた後、最後に横蔵寺を訪問している。

 本堂の脇の回廊を巡って歩いていくと、後ろには苔ノ水地蔵尊がある。釈迦入滅後、近畿地方に広まった地蔵盆でも知られる地蔵菩薩は、弥勒仏が現れるまでの六道の闇夜にいる衆生を救済する。地蔵も閻魔も、その本地は、阿弥陀如来である。地蔵を信仰すると十の福が授かるとする各地にある地蔵信仰も、その土地の民俗と融合しているのだ。

 

 

 その左奥が、笈摺堂である。御詠歌のひとつである「今までは 親と頼みし笈摺を 脱ぎて納むる美濃の谷汲」と読んだ花山法皇が、ここで巡礼衣装を納めたという。本堂の本尊は、いうまでもなく十一面観音菩薩像だが、観音巡礼の寺の本尊の多くが秘仏とされているために、特別の日にしか一般客は見ることができない。この寺の尊像には、華厳経が書写されているという。そうした縁起があるので、寺は華厳寺と命名されたようだ。しかし、秘仏であるために、多くの観音霊場もそうであるが、本尊に秘された古層としての秘史はここでも拝めない。

 本尊の十一面観音像は、奥州の会津の領主が、お告げを受けて、京都で彫らせたものだそうだが、郷里に帰る途中で美濃の赤坂にきたとき有縁の地を得たらしい。土地で修行していた不念上人とともに、この山を切り開いて建てたのが、この寺である。天台系の本山派では、高い山のなかで修行によって呪力を体得しようとする修験者を天台山伏といっている。寺の案内によると、妙法岳に至るヒンターランドの寺域は、いくつもの山肌を抱えてとても広く深い。修験道は古来の山岳信仰と密教と神道などが結びついて生まれたものである。このような意味からも、この地は谷汲山という名前になったのかも知れない。三十三カ寺で、いちばん東にある美濃にある寺。寺の本尊のご開帳は、五十年ごとである。

 参詣客の様子がどうやらおかしい。祭壇の左手に地下へと通ずる階段があるようだ。というのも、暗がりのなかからホッとした表情をして出てくる参詣客がいたからだ。ものは試しである。同じようにして、そこから案内されて降りていくと、真っ暗ななかで、床を横へとゆっくりと移動して行く。そこでは、胎内のような暗闇のなかで六観音のひとつである本尊の十一面観音像と繋がる臍の印を触ることができるというのだ。その頭上には、どのような寂静、威怒、利牙、出現、笑怒、如来の相が表象されているのだろう。暗闇の苦悶からようやく明かりを見つけたので、ホッとして階段の上にたどり着いた。

 この場所も、線香の煙と香りで充満している。参詣所のうしろの方の踊り場では、柱に掛かっている精進落としの鯉の彫刻にむかうようにして、参拝客が集まってきた。かと思うと一同は同事の声となって、般若心経を唱え出した。これで、それぞれの参詣客だけでなく、私の巡礼も終わるのだ。

 門前町は多くのお店が立ち並んでいるが、境内にも多くのお堂がひしめいていた。

 

 

 

 

 

 

(以上、2023年12月7日号にて、連載は終わりとなりました。ありがとうございました。次回は、来春にむけて、「善峯寺、三鈷寺、粟生光明寺、永観堂紀行を予定しています。)