「飢餓陣営」

 

『大江健三郎の周辺 戦後的思考と晩年性』 (第一回)

 

 

                                  岡本勝人

 

 

 

 

 

        (1)大江健三郎の精神史とその晩年の宿命

 

 大江健三郎という戦後作家は、愛媛県の喜多郡大瀬村に生まれ育ち、思春期と同時に、地方都市松山の高校の文芸部で、小説や詩や演劇に出会っている。新制中学の第一期生の世代である。村から地方都市へ、そして都会の東京へと生活環境が変化する。詩や評論を書き、学生時代を通過した。会社や組織の生活者とはならずに作家生活に入る。都会生活からつむいだ小説群は、戦後の市民社会にあって、奇怪さを含んだ実存的なイメージを刺激的に表現した短編である。そこにあるのは、現代社会を生きる認識のリアリズムによる冒険的な若者の文学だった。特に芥川賞受賞の『飼育』は、その後に展開する「村」の物語へと遡行する作品となった。処女作は、作家の運命を決める。ラブレーの研究と翻訳をもつ、師の渡辺一夫に親炙した。『敗戦日記』は、東京大空襲の日からはじまっている。江藤淳が『作家は行動する』(一九五九年)において、行動する文体批評として評価した鎖列をなす小説群は、大きく戦後をクローズアップさせていた。

 『万延元年のフットボール』から『同時代ゲーム』、『懐かしい年への手紙』から最後の小説『晩年様式集』に通底する大江健三郎の表象する中心とは何か。それは大江健三郎というひとりの作家の精神史をたどることである。無意識を含む作家の意識的主体から、戦後の民主主義や自由をめぐる問題が成立した。それはひとつの戦後的世代の象徴であったが、そこから出発する大江健三郎の意思的立場は、ダンテをはじめとする英米文学の古典から現代作を横断してグロテスクな時代状況と関わる。時には、時代錯誤(アナクロニズム)と自嘲することさえあったが、「村」のへりから新たな展開を持続させ、晩年には懐かしい小説の回路にたどりつき、カタストロフィをいかに回避するかという晩年性の宿命と出会うのだ。

 

        (2)『共同幻想論』と『万延元年のフットボール』の見えざる近接性

 

 日本の敗戦とともに、極東国際軍事裁判が開廷し、日本国憲法が交付された。満州やソ連からの引揚者も相次ぐ世相のなかで、丸山眞男はいちはやく「超国家主義の論理と心理」(1946年)を書き、旧体制からの戦後の時代の声を発した。六十年安保騒動は、戦後的な国民的運動とその敗北であったが、「大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける」(丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』増補版への後記・1965年5月)と書いた丸山の言葉は、戦後民主主義の内実の検証に関わるものであった。当時、短編小説に限界を感じていた『われらの時代』の大江健三郎は、その年、みずからの家庭に生じた知的障害者の誕生をめぐる実存性へと転換した長編を書く。福祉施設や作業所とともに生命の現場に直面することになる光による『個人的な体験』である。しかし、大江健三郎には、生まれ育った「村」への原初的な記憶があり、故郷の谷や森に回帰させながら、戦後的な個による小説のアイデンティティを形成する。文学表現は、実存を核とする戦後の意識と深層に潜む無意識からの詩的な密度のある言語をはらんでいた。その時、作家の心性は、「村」と「都会」と「歴史」のトリロジーから古層に踏み込んで、当時の知識人や作家のおよびえなかった表象としての戦後の市民社会に「村」の現象学に思考の潜勢力(ポテンシャリティ)を喚起させたのである。

 雑誌「文芸」に「共同幻想論」(吉本隆明)の前半が掲載された。昭和四一年十一月号から四二年四月号のことであった。「超国家主義の論理と心理」(丸山眞男)に対して、柳田國男が言及した日本的な根拠に踏み込む推敲と後半の執筆が加えられた『共同幻想論』が上梓されたのは、翌年の昭和四三年の十二月のことである。こうした事項に対応するように、大江健三郎が雑誌「群像」に『万延元年のフットボール』を連載したのが、昭和四二年一月から七月のことである。根所蜜三郎と鷹四の兄弟を主人公とし、「村」での「新しい生活」を志向する小説である単行本が上梓されたのは、その年の九月のことだ。大江健三郎は、地方のどこにでもあった徳川時代や幕末明治の一揆に関する地誌を紐解くと、「万延元年と戦争の末期に共通の「時」を生きている百姓たちがしきりに働いて、おびただしい数の竹槍を伐り出している。」と、小説素に農民一揆を取り込んだ。万延元年とは、一八六〇年のことだ。この年号は一年しかない。それから百年後の一九六〇年、国会議事堂を取り巻いた「安保騒動」が起こっていた。使節団として中国に訪問し、反安保の立場を鮮明にした大江の「セブンティーン」も「政治少年死す」もこの運動とかかわりなく語ることはできない。

 それは、幕末から明治の農民の時間と、戦時中の村人の時間とが重層する歴史の舞台である。「ここで新しい根をつくらねばならなくてね、そのためには、当然それにふさわしい行為がいると感じるんだ。」六十年安保に敗北した鷹四は、さらに「万延元年」と「フットボール」を江戸から戦時へ、そこから六十年代の現代へと重ねる。ひとつの世代が挫折して折りたたまれた共同感性は、「根拠地」の生成となって戦後の精神史に再生の翼をひろげていた。

 大江健三郎の生まれ育った町は、今は統合されて名前が内子町大瀬と変っている。街道筋の酒屋の隣が生家である。川の流れる盆地であり、紙の生産も行われていた「村」だ。この小説では、曽祖父たちは、後に安岡章太郎が『流離譚』で描く幕末維新期の土佐藩とも連携があった。大江健三郎は、曽祖父の物語を語り、農民一揆で死なずに生き続ける曽祖父の弟に照明を当てた。「水のたまった穴ぼこのそこに犬を抱いて座っていた男」の挫折のイメージは、「一人だけ森に逃げ込んで行きながら曽祖父の弟は森の高みにおいて窪地をふりかえる」生きるためのイメージに接続する。

 作者は、抵抗してなお生き続ける人間の存在を際立たせた。多くの青年たちが特攻隊員となって南冥の島や海に消えていった。戦時期の全体主義(日本ファシズム)による夥しい無為の死と抑圧を敷衍させれば、自由の身で生き続けることは、そのもの自体が「戦後」の重要な実存の価値であった。その後の生きざまは、戦後を担う主体の使命(ミッション)である。『共同幻想論』と『万延元年のフットボール』には、思想的立場が異なる面があった。にもかかわらず、ふたつの著作は同時代の緊張を実によくつたえている。ふたつの作品は、発表する時期からテーマの深奥においても、近接していた。そこに見えざる関係性があり、表現の時空間が存在する。死なずに生きていくという共通性に見られる戦後の実存と生きていくためのアイデンディティの確立は、「村」の出自や大衆そのものから発出する根拠地のイメージと重ね合わされる「原像」に違いない。大江健三郎は、そうした戦後のアイデンティティを強く模索する作家に変貌していた。

 

 

 

 

 

        (3)『万延元年のフットボール』から『同時代ゲーム』へ その方法と進化

 

 『万延元年のフットボール』からほぼ十年の時間が流れていた。大江健三郎が長編小説『同時代ゲーム』を上梓したのは、一九七九年のことだ。サルトルやドフトエフスキーの影響もある「小説の方法」を具現するように、小説は「手紙」によって現存在の近接性を深奥に描こうとする。神社の神主と旅芸人の母から生まれた双生児の兄妹が語り部だが、ひとつの民族の歴史を語る系譜である兄の「僕」が巫女の「妹」に、一族の神話と歴史を語るのだ。「手紙」の機能には、現代との隔たり、迂回、彷徨があるが、逆に親和力を直接的に語る近接性への本質をもつ。「第一」から「第六」の「手紙」のキーは、歴史を反復させる「同時代」であり、あらゆるテキストを同時代に繰り込む「言語ゲーム」による近接性だ。

 物語は、「村=国家=小宇宙」を独自の起源をもつ古代的な共同体とし、この小説に全体的に関わるゴシック体の「壊す人」が表記されては反復する。「壊す人」とは、具象的には幻影的な人物のイメージではあるが、抽象的なレベルに概念化すれば、「脱構築(ディコンストラクション)」を含意する存在だ。デリダの翻訳は、一九七〇年から本格化していた。ここに、構造と非構造が入り組む『同時代ゲーム』は、「村のへり」や「穴」のイメージを反復させつつ、天津神と国津神の入り組む森の生成を描いている。

 小説では、終始「壊す人」が中心となり、起源を暗示させながら村の歴史に存在論的な光が与えられている。紙漉き村は、遊動する柳田國男の民俗的な「美しい村」から根拠地になっていた。さらに戦時中になると、大日本帝国の軍隊との百日戦争が起こった。描写によって表象生成される小説の世界は、「不順国神(まつろわぬくにつかみ)、そして不逞日人(ふていにちじん)」の神話的世界に至り、それを滅ぼすのは、帝国の天皇制の「天津神」の軍隊である。大江健三郎の作品から島崎藤村や柳田國男、平田篤胤の国学や神道の系譜を論ずる研究者もいる。問題は、見えざる部分を相対化することである。天津神による国津神の支配と統合合体が、古代天皇制の歴史過程として原理的に想定される思索の境界を往還することである。それは、大江健三郎の「同時代」という言葉を戦後的な「現在性」の視点から古代社会へと遡行して原初に目覚めることであった。「われわれの土地の「自由時代」。創建期に壊す人にひきいられた創建者らがいだいた構想は、この永い時期にわたって森の外側から隔絶していた時代に、すべての側面で成就した。村=国家=小宇宙をその場としての、創建者同志の人と人との約束。人と自然との約束、そしてそれぞれ百歳を越えて生き、巨人化した創建者たちと、やはり単なる自然を超越した谷間と「在」、それに森との間の約束。それらは「自由時代」にそのすべてがはたされたのだ。」(『同時代ゲーム』)。四方田犬彦は、この小説の解説(新潮文庫)で、小説に織り込まれた幾つものテクストの伏在性について論じ、村から国家の思想に至る新宗教家の偽史の存在を指摘している。「言葉なき原野はわが故郷であり/しかも現に何事か悶えながら生きる野だ」と歌う詩人黒田喜夫は、山形の農民の現実からアジア的農村共同体の二重の負性と自己幻想の自立との関係を鋭く展開する。「〈国家〉と価値をまとうその偽自然」と書く『彼岸と主体』(1972年)では、大江健三郎の『万延元年のフットボール』の翌年に連載された「狩猟で暮らしたわれらの先祖」の「山人幻想」について、共同幻想としての死と個人の主体について「自らの立つ核・根拠」とする動機について言及した。太平洋戦争期の内乱と弾圧の擬史的存在が、村=森を場所(根拠地)とする。大江健三郎が、小説のなかの手紙「武勲赫赫たる五十日戦争」で、語ろうとしたものは何か。トリックスターが境界を越境し脱構築的な強度となる執拗な笑いと、バフチンのグロテスク・リアリズムを駆使して、現存在の認識から新たな認識へと志向する照明を与えたものは何か。

 丸山眞男は『日本政治思想史研究』(1952年)『現代政治の思想と行動』(1956年)を上梓した後、市井の立場から知識人とスターリニズム批判を展開する吉本隆明の「丸山眞男論」(1963年)を契機として、『共同幻想論』を意識した「歴史意識の「古層」」(1972年)を発表した。そこでは、アカデミズムの学問的研究は中世的社会の『愚管抄』を中心に古代社会の神話世界へと横断的に深化していく領域に論及がなされている。日本の歴史意識の古層には、天津神から「つぎつぎになりゆくいきほひ」の歴史の展開をひびかせる「執拗な持続低音」がある。「江戸時代の歴史的ダイナミズムが、「近代化」の一方進行ではなくて、むしろ近代化と「古層」の隆起との二つの契機が相克しながら相乗するという複雑な多声進行にあった」とするものである。『共同幻想論』と「歴史意識の「古層」」(『忠誠と叛逆』所収)にいたる四年の時差の間には、保田與重郎の『日本浪曼派の時代』や三島由紀夫の『豊饒の海』四部作「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」や大岡昇平の『レイテ戦記』が上梓されている。

 その間、大江健三郎の小説は、『万延元年のフットボール』(1967年)から『同時代ゲーム』(1979年)にいたるが、同時代の批評や小説を視野にする状況と関わる「現在性」が、『核時代の想像力』『沖縄ノート』『状況へ』などの膨大なエッセイに見られる。とはいえ、この時期に戦後のアイデンティティの確立から「村」を根拠地として自らの実存を語る大江健三郎は、イメージの多様性としての構造化と生成力学を混淆させた文学空間によって、認識への新たな志向性を展開したといってよい。それは、感性の哲学の中村雄二郎や中心と周縁の山口昌男とともに、「叢書文化の現在」(1980〜1982)に表象され展開した一面である。

 

 

 

 

 

        (4)吉本隆明『ハイ・イメージ論』は大江文学をどうとらえたか

 

 「この作家の作品から疎外感がなくなったときが、日本のインテリゲンチャの最後の時である」と、吉本隆明は大江健三郎作品の書評を書いた。バブル景気を押し上げ、変化する市民社会の経済と大衆社会に見られる表出行為の図像のアナロジーに、『マス・イメージ論』(1984年)として作品が描かれた表象の総体を現在性の「共同幻想」に見る視点は、都市の「ハイ・イメージ」を現代のトポロジーである位相構造的な「共同幻想」として展開する『ハイ・イメージ論』(1989年・1990年・1994年)の高角度からの視線把握の世界とつながるものであった。「鋭敏なバロメーターの役割を、大江健三郎は失っていない」と論ずる吉本は、その後の3.11の原発問題など大江健三郎と異なる原理論的な論点をもっていた。

 1994年は、松本サリン事件が起こった年である。この年、バブル経済が崩壊する兆しのなかで、吉本隆明の大江健三郎、中上健次、高橋源一郎などの作品を比較して論じた『ハイ・イメージ論』の「Ⅲ」が上梓された。メリーゴーラウンドの多様性のような大江文学の収束点が、明らかにされつつあった。           

                              (続く)

 

 

(以上、「飢餓陣営」57号)

 

 

「大江健三郎論 戦後的思考と晩年性」(最終回)

 

 

 

 

 

           (4)吉本隆明『ハイ・イメージ論』は大江文学をどうとらえたか

           川端康成、大江健三郎、そしてサイード

 

 

 

 ノーベル賞授賞式での川端康成の講演『美しい日本の私 その序説』は、前世代の作家であった川端の戦前からの文学者の立場による日本文化と伝統の紹介だった。道元の「本来ノ面目」や明恵から良寛、一休を引用する作家の姿には、西欧のニヒリズムとは異なる東洋的禅思想の神秘主義が自分の文学にあるという論旨である。ノーベル賞授賞式での大江健三郎の『あいまいな日本の私』は、欧米思想の影響を受け止めた戦後世代が、日本人にとっての近代化と伝統的文化がもつ両義的な「曖昧性」を広く語ったものだ。ここには、近代化の名の下に太平洋戦争から沖縄や広島・長崎の原爆へとたどるゆがんだ近代日本の歴史が照射されている。そこに、大江健三郎が築いてきた敗戦後からの民主主義と不戦を支持するアイデンティティの核を透視することができる。他方で講演には、書物と「知識人」としての時間が流れているのも事実だ。

 大江健三郎の勤勉さは、ダンテ、ブレイク、イエーツ、オーデン、マルカム・ラウリー、クンデラ、マルティニック島生まれのシャモワゾーのクレオール文学など、古典から現代の書誌の読み込みに見てとれる。ダンテからブレイク、イエーツ、オーデンの詩を英語で引用朗読する大江健三郎の姿には、深瀬基寛や西脇順三郎と英文学者の同級生や友人の影とともに、カソリックの世界に通じ合う「無神論者の祈り」があるようにも見える。「遅れてきた青年」は、1970年代半ばから1980年前後に文化人類学の影響を得ると「遅れてきた構造主義者」となっていた。

 エドワード・W・サイードは、パレスチナからアメリカに渡り、英米文学と比較文学を研究していた。欧米とイスラムの関係だけでなく、文芸批評から文明と文化の世界的な問題提起をする批評家である。『オリエンタリズム』(1986年)は、南北問題のクレオールやポストコロニアルの問題へと展開する。彼は、クラシック音楽に造詣を持つ音楽評論家でもあった。『晩年のスタイル(ON  LATE  STYLE)』(2006年刊・大橋洋一翻訳2007年刊)が、アドルノの「ベートーヴェン晩年の様式」や「荘厳ミサ曲」を論じた彼の遺作である。アラブ系の彼が亡くなると、葬送の場で演奏を手向けたのは、ユダヤ系のダニエル・バレンボイムによるベートーヴェンのソナタとシューベルトの即興曲だった。

 大江健三郎の『晩年様式集』(2013年刊)は、3.11以後の作家の生活と、白血病と闘うサイードの晩年の仕事に言及するものだ。劈頭には、「おれの本の終章(第七章 晩年のスタイル瞥見)はきみの晩年の仕事を主題としたものにするつもりだ」というサイードのメッセージが見える。『晩年のスタイル』のカヴァーには、「サイードの「晩年性(レイトネス)」研究の、文化的芸術的にもっとも豊かな本。本を読む喜びと生きてゆく希望を呼びおこす」と、大江自身の筆跡による英文(日本文)の推薦文がある。

 大江健三郎にとって、「戦後知識人」としての位置は、思想史的な近代主義を精神とする丸山眞男などの戦後民主主義のリベラリズムを引き継いでいる。そこには、「戦後文学者」への傾倒と渡辺一夫への「ユマニスム的な人間観」の影響が強く見られる。

「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」(サイード『知識人とは何か』1994年・翻訳1995年)。故国喪失者(エグザイル)とアマチュアリズムを重ねるこの本の原題は、「知識人の表象(リプリゼンテーション)」だった。大江健三郎は、「戦後知識人」の文学を表象しながら、第一の文学ラインを谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫とし、大江自身の文学は第二の大岡昇平、安部公房の流れにあるとする。そして、アメリカの編集者は、第一の文学者に連ねて、大江の本の翻訳を進めたのだ。第三の文学の流れは、もちろん若い世代の村上春樹と吉本ばななの文学ラインである。

 しかし、市民社会と政治的国家が変容するにつれて、その文学を受容する市民意識も変容していた。権力と市民社会の間に立つ「知識人」の姿勢にも変容が見られるのだ。「わたしが考える知識人は、可能な限り幅広い大衆にうったえかける者であり、大衆を糾弾する者ではない。大衆こそ、知識人にとって、生まれながらの支援者である」(サイード『同上』)。国家と家族と大衆には位相差があり、その構造に分け入る「知識人」の存在は、個人の自由な思想的拠点である国家と大衆とに関わる課題と等価だった。「知識人」とは、国家と大衆の間にあって、権力の析出を見定めることである。しかし、今は市民社会が変貌して権力が生活そのものに徐々に浸透してくる時代である。そのとき、「知識人」とは何か、その批評のメルクマールとは何かという問いが覆いかぶさってくる。

大江健三郎の文学は、この作家が生涯背負うことになった知的障害をもつ息子の誕生によって、マイノリティの立場へと言及する特殊の位相を得ている。てんかんの発作をもつ光の存在こそ、「人間」としての存在論的な立場に格闘する閾である。そこに、大衆と知識人との閾を埋め、自由を思索しなければならなかった作家の宿命を感ずるのだ。

 ヘーゲルの『法哲学』では、政治的国家と市民社会は、別のものとして考察されている。しかし、マルクスは、その両者を予定調和とする宗教を批判した。死後に発見されたモルガンの研究である「古代社会ノート」に依拠して、エンゲルスは「家族、私有財産そして国家の起源」を展開する。そこから、戦時期のアジア的な共同の幻想性の暗部が見えてくる。

 

 

     (5)『懐かしい年への手紙』とその時代

 

 

 

 吉本隆明は、『ハイ・イメージ論』の「Ⅲ」で、大江健三郎の長編作品の解釈をおこなった。ひとつの物語の発端をAからはじまりBにおわるこの物語は、反復する(悪または無限)循環だというようにみえる(「モジュラス論」1989年)と、循環する柱のモジュラスを考え、その書誌と物語を反復させる大江健三郎の知識を文学方法とする長編作品に、「書誌」と「物語」の「連結」する構造を指摘したのだ。そしてさらにひとつの論点を浮かびあがらせる。『母型論』(1995年)から海洋や草原につながる『ハイ・イメージ論』(1994年)では、「エコノミー論」(1989年)として言及される「古い自由」と「新しい自由」の時代の転換が見据えられている。

 戦後の時間が、大きく経過していた。大江健三郎の『日常生活の冒険』やサルトルの「参加の文学」の影響による「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」、そして息子の誕生をメモによって詳細に書き下した生命力と孤独と希望があざなえる『個人的な体験』の発表は、吉本隆明が「丸山眞男論」の「2 政治思想史研究」や「日本のナショナリズムについて」のなかで、近世の江戸思想に触れる頃と時代を同じくしている。原水爆禁止や重藤医師の『ヒロシマ・ノート』(1965年)は、ベトナムの北爆開始直前の取材によるルポルタージュである。さらに『沖縄ノート』(1970年)は、吉本隆明が「宗教としての天皇制」と「南島論」へとむかう同時代の空気のなかにあった。

その後、時代の膠着のなかで、三島由紀夫(1970年11月)、高橋和巳(1971年5月)、川端康成(1972年4月)と、相次いで逝去する。1972年の半ばを過ぎると、浅間山荘事件や沖縄が返還されるなど、時代を象徴する事件が続いていた。

 こうした時代との緊張関係にあった大江健三郎の作品は、『同時代ゲーム』(1979年)以後、『活火山の下』のマルカム・ラウリーに触発されて、「雨の木(レイン・ツリー)」の暗喩の再生を確認する『「雨の木」を聴く女たち』(1982年)から「障害を持つ長男との共生と、ブレイクの詩を読むことで喚起される思いをないあわせて、僕は一連の短編を書いてきた」と、ウィリアム・ブレイクを導き手とする『新しい人よ目覚めよ』(1983年)へと転換する。やがて、長編小説は、自己の作品への批評を含めた自伝小説である『懐かしい人への手紙』(1987年)に結実していくのだ。

「万延元年」から二十年の歳月が経っていた。「僕」という一人称による「ギイ兄さん」への「手紙」の形式によって、「村の思想」と地方の「事件」を反復させる長編である。大江健三郎にとって、「手紙」は創作上の大きな意味を持つ。四国の愛媛の「森」と「在」から出発し、「癒し」や「和解」として円環する大江健三郎の「知識人」としての行動と思想は、瓦解した近代化の廃墟から再出発する戦後の理念としての文学創造による内在化と「現在性」の消費文化や世界的なサブカルチャー状況とが大きく関わっていた。この作品を成り立たせるテーマは、「懐かしい人への手紙」だ。自作作品に込めた主題の反復とその変奏は、幾つも「手紙」に託された。それは自省的であり、自己言及的な「手紙」による作品である。

 そこには、初期から中期の作品にたいする再解釈が含まれていた。過去の小説との対話がはたされると、そのむこうにある行く末を見つめている。そこに大江健三郎の精神史が、確かに語られているのだ。ダンテの『神曲』を導き手とする、自己差異による自己言及の明度さは、多くの論者が引用し、自らも引用する次の文章の表出に明らかである。「ギー兄さんよ、その懐かしい年のなかの、いつまでも循環する時に生きるわれわれへ向けて、僕は幾通も幾通も、手紙を書く。この手紙に始まり、それがあなたのいなくなった現世で、僕が生の終りまで書きつづけてゆくはずの、これからの仕事となろう。」(『懐かしい年への手紙』第三部第四章)。

 

 読者は、その頃なされたひとつの対談を思い浮かべるかもしれない。スマトラ島から病院船で帰還した鮎川信夫は、戦後的存在として自由な思索による議論を進めていた。対話者の吉本隆明は、現代思想が新しい時代の脱構築的な思考の枠組みを作り、そのなかから解体しつつ再構築的に生成してくる時代の浮遊する感性に敏感だった。「全否定の原理と倫理」の対談(1985年)では、鮎川は直感によって現象の「ロス疑惑」を論じ、吉本は戦後的な思考を原理的に論じようとした。しかし、ふたりは、そこで決別する。後から見れば、戦争世代が共通して語ることのできた、戦争期の例外状態による制約と伝統の総体による疎外を強く実感した「古い自由」の時代に依拠できる論拠であったかもしれない。しかし、1960年代から80年代を経て、規定性が無意味になり「古い自由」から「新しい自由」の境界が閾となって、現前の差異として見えてくるものが確かに押し寄せていた。時代の転形期に、ふたりは立っていたのである。鮎川信夫と吉本隆明の決別は、1985年のことである。

 時代の表層は、「アカシアの雨がやむとき」(西田佐知子・1960年)の政治的季節といわれた世相から「竹田の子守唄」(「赤い鳥」山本潤子による1970年から1990年代のカバー曲)へ。あるいは、「傘がない」(井上陽水1972年)という都会の社会的孤独から「人生が二度あれば」(井上陽水1992年)と両親を歌う時代へとバブル経済が大きく変化していた。

バブル経済が崩壊し、松本サリン事件が発生した年(1994年)に、大江健三郎はノーベル文学賞を受賞する。

 翌年初めの阪神・淡路大震災とほぼ同時に、地下鉄サリン事件(1995年)や一連のオウム真理教事件があった。さらにその翌年に、西伊豆で吉本隆明の水難事故が起こる。

2003年のことである。『オリエンタリズム』(1986年)からポストコロニアル批評といわれた『文化と帝国主義』(翻訳は「1」1998年・「2」2001年)へと持続するサイードが逝去した。当時うしなわれた二十年といわれた日本では、2011年3月11日に東日本大震災が起こった。丸山眞男が記したノートには仏教についての痕跡も多くあり、「歴史意識の「古層」」は日本宗教論であるとするのは、末木文美士である。逝去する丸山眞男がこだわる八月十五日に対して、3.11にこだわる吉本隆明の存在があった。本居宣長の記述からはじまる「歴史意識の「古層」」(1972年)を論ずるときに看過してはならないのが、小林秀雄の『本居宣長』が1965年に書きはじめられていたことである。この近世思想家への終章が完結したのは、1977年である。子安宣邦によれば、大阪に遊学していた本居宣長は、そこで荻生徂徠を学ぶと、その系譜に位置付けられるほどの存在であった。そして、大江健三郎の祖先は、祖母の「森」のなかの話からすれば、神社の神主であり、本居宣長の弟子を自称する平田篤胤から『仙境異聞』を実際に聞いていたひとりであったという。大江健三郎が「新潮」に「小林秀雄『本居宣長』を読む」を発表したのは、『本居宣長』が完結した翌年の1979年の1月だった。

 2012年3月、吉本隆明は逝去する。その時、大江健三郎は、『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』を「群像」に連載していた。

 

 

         (6)『晩年様式集』と作家の周辺

 

 

 大江健三郎が、「余震の続くなかで」とはじめる『晩年様式集(In Late Style・イン・レイト・スタイル)』(2013年)は、晩年に訪れつつあった老いのリアリズムとむかいあうものである。知的障害をもつ光との自然態の共生小説は、変化しながらも続いていた。大江健三郎は、『懐かしい人への手紙』によって、明らかに自己のアイデンティティを確認した。その後、大江健三郎自身に、いったい何が訪れていたのだろうか。その転換には、自らの晩年性への強い志向性がある。

確かに、サイードの遺著『晩年のスタイル(On Late Style)』から得られたテーマがある。大江健三郎の親しい友人で妻の兄である伊丹十三の自死の「危機の時」に勇気づけてくれた「親密な手紙」をおくってくれたのもサイードだった。女性からの救済イメージは、伊丹十三の妹である妻にあった。大江健三郎は、原著と翻訳の『晩年のスタイル』を枕頭の書としている。晩年になると、これを紐解いて、新年の始めの読書とした。

 『晩年様式集』は、大江健三郎の最後の長編小説である。小説内批評によって、三人の女性(妻と娘と妹)に輻輳的に語らせる、私小説的フィクションであった。方法としての大江文学は、日本的な「私小説」の伝統のなかで、「村」から「都会」へと自ら生き続ける世界を戦後的なグロテスク・リアリズムを通過させることで表象する「現在性」の認識に転換させるものとなった。短編作家の資質は、いま生活に即した私小説的なリアリズムへの回帰によって、老いにたいして寛容に対応する長編作家の姿に変貌したのだ。「「三・一一後」、すでに百日がたっている(略)それらの日々自分のやっていた事柄が筋道だって思い出せないのに気付いている。老年性の疾患が、脳に到ってのことか」と、余震の続くなかにあって、うつや筋肉痛を訴える後期高齢者の姿があった。そうしたなかにあっても、老作家の身体に鞭打つようにして、講演やデモに出かけていた。「渡辺一夫先生の没年を過ぎているいま、それを思いながら時を過ごす日がしばしばある」と、師のブリコラージュ(器用仕事)を見つめ、師の言葉を話の核として生きた「3.11後」の講演には、作家の「信念」となっている戦後的な生活の光景が見える。

 大きな時間を要した親密な手紙のような書誌ラブレーとバフチンの作品を経て、新たな表現が日本的タテの歴史や認識を変えうる地平を志向していた。天皇および天皇制のタテの秩序の伝統にたいする、ヨコに連なる神秘主義の詩人や周縁のユダヤ系の思想家のテクストを読むことが、可能であると大江は書いている。それは、自由の抑圧として顕現していた政治的権力にたいするトリックスター的な思考とグロテスクな描写による認識の変容によるタテの物語を活性化するものであった。他方で、悲願となっている市民社会の個人の自由や平和の獲得に意思的であった。核時代の混沌の想像力として、全体性への不信と憎悪を鮮明にし、硬直した現在を活性化するために、「戦後文学」の系譜として、過去にたいする持続的な内省が必要だった。知的障害児である息子との「家族のきずな」に、絶対音感をもつ息子の新たな発見となった音楽との共生がともに続いていた。光の音楽は、ひとつの救済に近い。森のなかの生命の木と静かな生活は、光との生活による文学を形作り、「自己の回心の・死と再生の物語」への祈りと再生を獲得する物語への地平に達していたのだ。

 

 現代の市民社会の顔貌性とは、どのようなものだろうか。

 四方田犬彦は、イタリアの思想家グラムシを語るコロンビア大学のサイードのもとに留学し、ニューヨークで知り合いになっていた。サルデーニャ島に生まれ、イタリア共産党の書記長だったグラムシは、ローマでムッソリーニの警察によって逮捕され、ほぼ死ぬまで牢獄にあった。そこで執筆したのが、『獄中ノート』である。グラムシのヘゲモニー論や知識人の概念は、その後のアルチュセールやフーコーへと思想史的に大きく影響を与えていた。

サイードは、グラムシの変異主義に、拡張された支配が形成動行する権力の姿を読み込む。そうした市民社会と国家に対する考えは、フーコーの生政治と通底するものだ。吉本隆明とフーコーによる「世界認識の方法」(1980年)の対談があった。現在の不透明で、曖昧な不可知の権力の浸透性について、現実の市民社会は、宙吊り状態になっている。フーコーの仕事や作品は、見えない幻想国家と政治的国家の権力の浸透への思索である。そうした飽和状態の現状分析へとアクセスを可能としたのだ。アガンベンは、べンヤミンの国家論から「剥き出しの生」(『暴力批判論』)を取り出し、カール・シュミットの主権論から「例外状態」(『政治神学』)を取り出した。そこには、全体主義を解析考察するハンナ・アーレントの労働する「人間」と「生」そのものとが交錯する閾(『人間の条件』)がある。そこには、浸透してくるフーコーの「生政治」(『知への意志』)の概念が重なっていた。固体化と全体化による権力の「二重拘束」によって、個々のひとにとっては自由意志であるかのような「排除と抱合」が、隷従と客観的な政治権力の交わる世界になる。現代の市民社会は、そうした閾について、姿を見極めなければならない。そこに、現代の市民社会の姿と顔がある。

さて、大江健三郎が語った言葉に、「レイト・ワーク」(晩年の仕事)がある。「自分の精神と身体に老年の境界は六十歳で現われる」。晩年の大江健三郎にとって、その確信こそ、戦争による死への反措定である、死なずに生き続ける戦後の意味を示す生の実相であった。晩年の加藤周一を追っていく。身体を惜しまず、「反戦」の会に参加して話をするために、どこにでも出かけていった姿がある。3.11以後も、加藤の執拗な戦争比判は、「憲法第9条を守る会」の中心的な存在だった。このような例は、日本における政治的国家と幻想の共同性が同値する特殊性への思索となって、戦前の国の有り様に対する反戦争、反国家への思想となっている。それは、国家からの自由と経済的自由を成熟させる戦後民主主義を志向する積極的な市民社会擁護の思想でもあった。

 「僕は間近に迫っている八十歳を規準にする。定点とする」。どんなことがあっても死なずに、「穴」に籠りながらでも、そこを「根拠地」として、「美しい村」を理想として生き続ける。核の時代を生き延びる根拠が、自らの日常からの再生となり、生存の持続に意味をもたせるのだ。村=森の思想から発して、人間の批判精神にとって不可欠な契機としてのユートピアを肯定的イメージへと発露していく。故郷で祖母に育てられ、昔ばなしを聞いて育った。伝承のなかに村の一揆の話があったのだ。年譜によれば、そうした一揆や騒動の痕跡がある。大江健三郎の村から地方都市、そして東京へのトポス転換は、作品イメージの中心と周辺の変奏による移動表象となり、村を周縁とするテーマとして活性化を実現させる。平和のために、民主主義社会の実現とアイデンティティを成就する根源地から発して行動する表現の生命が現実批判となるのだ。そこには、都市の生活者と農村共同体を止揚する祈りも再生もあった。村の祖先の神社と神主たちは、近世の時代にも明治維新直後にも、一揆の指導者であり、その多くが一揆に参加した。村に語られる寓話的なアレゴリーである。地誌調査や図書館の古文書や記録を写した。幾多の無名の「手紙」が、都市から村へ、村から都市へと想像力によって交換された。地元では、そんな抵抗と悲劇の歴史はないという意見もあった。しかし、そうしたなかで、この作家は、「森」の谷間と「在」の楮による和紙を生産する故郷の杣道とその伝説を歩き続けたのだ。

 古代社会から通底する江戸に遡行し、明治からあの太平洋戦争をくぐり抜けて、六十年安保から現代に至る同時代を思索する。「私が小説家として書きつづけてきた四国の森の奥の神話と伝承は、天皇制という中心に集中した国家の近代化と対立するものです」。しかし、末木文美士が「古層」を論ずる丸山眞男に仏教論はあったか、柳田國男こそ仏教研究を回避したのではないかと指摘するように、大江健三郎にもそうした文化と伝統は重くのしかかっていたかもしれない。作家は、日本語の万葉や記紀歌謡と比べて、アイヌ語のユーカラや琉球語のおもろを読むことによって、日本の単一民族説は、幻に過ぎないと語る。「参加の文学」(アンガージュマン)と自立思想とが同じ境域にあると考えられなければならないのだ。

 「私が 十歳になるまで、/国をあげての戦争だった。」そしてこれは「七十歳の自分から、八十歳の定点に向かう私への手紙」であると、作家は詩を書き続ける。幾多の「返事」が、「年をとった 自分に、/尋ねたい と希って・・・・/私は生き直すことができるだろうか?」と、村の川辺や都市の地下道で問い続けていた。そこにある詩の問いこそ、大江健三郎の詩の言葉である。「小さなものらに、老人は答えたい、/私は生き直すことができない。しかし/私らは生き直すことができる。」読者は、エリオットやオーデンの詩から多くの作家の著書名が名付けられた事実を思いおこすだろう。「自分は小説家だけれども、詩が小説よりもっと直接的に、真実を表現するように思う」(以上、『晩年様式集』)と、大江健三郎は親密に書き続けている。

 有限の個から類の歴史へと無限につながる「私ら」は、自由と自立から存在そのものへの思想へと円環する。そこには、日本的市民社会の成熟と断絶のなかで、自由とは何かが問われ、日本的国家に対する自立とは何かが要請されている。

 

 

        (7)「晩年性」とは何か

 

 

 

 大江健三郎の戦後民主主義については、初期に荒正人や平野謙による「戦後派」の流れに沿う文学表象としての評価があった。「参加」と「知識人」のサルトルの文学からマルチン・ブーバーからバフチンへと継承された初期フォルマリズム批判による解読がなされたドストエフスキーへの深い理解とそこからの文学の摂取は、実質的な「戦後的作家」像を浮きぼらせてきた。特に短編では、強い言葉に密度のあるイマージュを重ねた小説的な詩語による特性が感ぜられるだろう。若い江藤淳は「個々の作家たちと、日本の近代の「社会的現実」とのあいだの動的な交渉の過程の問題」があるとし、作家たちの新たな「文体」に焦点を与えた。「どのような状況のもとで、彼らはどのように行動し、その行動は状況をどのように変えたか変えなかったか。そのことは実証主義的に編集された伝記のなかよりも、他の場所よりも文体のなかからあきらかにされるはずである」(『作家は行動する』)と続いて書いている。まさしく、それに符牒する作家が、「作家は作品によって政治に参加する」文体としての大江健三郎であった。かつて作家の存在は、ものにとらわれ、ものに客体化され、もののなかに自己を解消する非文体的な世界にあった。そこから転換する「想像力のイメージ」の優位性を「行動する大江の文体」に見たのが、江藤淳である。

 「戦時を山村の子供としてすごし、戦後には新制中学世代として民主主義教育を受けた年齢の者の発言というのが、僕の時事的なエッセイのすべてをつらぬく主題だった」(『懐かしい年への手紙』「第七章 感情教育(一)」)。その作品世界は、時間が時代性を微分するメビウスの輪となって、生成しつつ思索された参加する歴史の眼からの混沌に、差異の文学を反復行為として対置したものであるといえるだろう。

 

 しかし、ここで問題となるのは、『晩年様式集』のなかの「晩年性」についてである。

 「かれらは穏やかな円熟にいたらない。/伝統を拒み、社会との調和を拒んで、/否定性のただなかに、/ひとり垂直に立つ」と、この作家はサイードの『晩年のスタイル』に対して同じ表現と生き方のスタイルを実現しようとする遅れた手紙を出している。大江健三郎が力説しているのは、リヒァルト・シュトラウスの音楽にカタストロフィーを避ける標(しるし)を見出すサイードは、「知識人」にある晩年のカタストロフィーを逃れていたのだという見解である。そこには、「晩年性」を生きる作家が、現代とかかわる眼が常に存在した。

 最後の長編小説『晩年様式集』から十年がたった。

 特別な疾患がない状態であれば、ひとは老いてゆくなかで心不全の症状となり、老衰して死んでいくのだ。痴呆症を患ったといれる大江健三郎の創作は、スピノザを熟読しながら同語反復を繰り返し、同一性と差異を綴りながらも、もうそれ以上は不可能の存在となった。2023年10月、『親密な手紙』(2010年から2013年「図書」に連載)の遅れた郵便が、大江健三郎から読者に手渡された。それは、この膨大な作品を世界に残した作家の「取り戻し」と「応答」を秘めた「親密な手紙」である。多くの作品(テクスト)は、「親密」に読まれてきた「手紙」の存在として証明される。それ

は、作家自身の生の祈りでもあったように見える。

 

   (了)

 

(「飢餓陣営」57・58号にて、「大江健三郎論 戦後的思考と晩年性」(一)(最終回))