週間読書人「書評」 最新号

 

単独の世界市民、黒石の復権

逃走と分身の交錯するところ

 

四方田犬彦著『大泉黒石 わが故郷は世界文学』(岩波書店)

 

                      岡本勝人

 

 日本で初めて脱領域や脱構築という訳語を使用した人物が、由良君美である。この英文学者は、本著の主人公である大泉黒石の全集の編纂や著作の校訂・解説に尽力した人であった。この由良君美を師にもつ本著の四方田犬彦氏は、世評高い評伝『先生とわたし』によって、師との関係を詳にしている。こうした意味からすれば、著者と本著の大泉黒石には、まことに深い縁起を感じさせるものがある。

 『大泉黒石 我が故郷は世界文学』が完成した。著者は、師の仕事を伏線とし、黒石の縁者の四女の淵(えん)を鎌倉に訪ね、ロシア文学者の清水正やバフチンの訳者川端香男里の恩恵も得ながら、「図書」(岩波書店)によって、詳細な評伝を書き進めてきた。全集と縁者の希少本とわずかな資料から精査し、再考を繰り返して再編成された二十の章立ては、時系列的であるが、脱領域的な大泉黒石という文化の身体を横断する共時性によってまとめられている。

大泉黒石とはなにものか。その名前は、文学辞典にもわずかな記載しかない。代表作はおろか全集さえもその存在を知る人は少ないだろう。彼は、ロシア人の父と長崎出身の母の元に生まれた混血児である。それはひとつの運命であった。放浪する少年時代のロシアでは、トルストイとも言葉を交わしている。息子は、著名な俳優の大泉滉である。次男の顕は、遺稿集『赤い泥鰌』で父の黒石を回想する。黒石は「二冊のロシア巡礼記」を書いた後、中央公論社の滝田樗陰の知遇を得ると、『俺の自叙伝』を上梓する。「文学者黒石にとってロシア文学とは、生涯を貫く基調音」である。そうした場所から発現した『露西亞文学史』は、ロシア語に関心をもっていた島尾敏雄が長崎で読んだ本である。トルストイとレールモントフの翻訳もしている。その関心は、トルストイ経由の老子にあった。長編小説『老子』と『老子とその子』は、発売とともにベストセラーになる。著者は、さらに多くの黒石の短編の主題に異国情緒と怪異趣味を見て、逃走と分身の線を捉える。この二つが交錯するところに出現する黒石の物語を解読するのだ。もちろん作品の背景には、混血児の見た幻想の長崎があり、ペトログラードやパリの都市があった。そして東京ではかつて著者が住んだ月島の他、浅草のトポスに言及する。「大泉黒石は世界市民であり、世界文学のひとである」(「あとがき」)とそのコスモポリタン性を把捉する著者は、一方で「黒石は近代日本文学のなかで孤立した現象である」(「二十 黒石の文学」)と指摘する。いかなる流派にも文学運動にも参加せず、同時代の作家から遠い場所にいた単独者について書くのだ。とはいえ、ひとりのコスモポリタンが、一躍文壇の寵児になったのである。これらは、大正と昭和が交錯する1920年代を飾る著作だった。黒石のひとつひとつの文学作品に起源を掘り起こす著者の営為は、黒石の作品にたいする詳細な梗概に発現している。そこに、柔らかな推察と決定を論じながら、緻密にその文学の中心と輪郭をきわだたせていく文芸評論家の姿がある。

 1920年代も後半になると、黒石を世に送り出した編集者が逝去した。差別に加えて、嫉妬や羨望もあり「虚言癖」と言われた。翳りの訪れた黒石の活動は、時あたかも国粋主義の台頭する30年代に入ろうとしていた。長編『おらんださん』に取り組む黒石は、すでに『渓谷を探る』『渓谷と温泉』の紀行作家となることで、雑文業に転じていた。混血という生き難さの宿命は、戦中から敗戦の時代を本名の大泉清として書くことを強いていた。ロシアが参戦し、シベリア抑留があった。畏友の辻潤も逝去する。敗戦から復興する戦後には、時局に寄りそって書いていた多くの作家たちが復活した。しかし、進駐軍の通訳として生きた黒石は、文壇的な復活のないままにこの世を去っている。

 本著は、歴史に埋もれたひとりの作家を再発見する復権の道標となる評伝文学である。脱領域的な批評による著者の力量こそが、多面体の異国性をもつ黒石の存在を評伝に結実させた。鶴見俊輔ほか多くの識者が、戦前の江戸川乱歩、夢野久作、久生十蘭、小栗虫太郎の文学に関心を示し再認識する思潮もあった。そこに黒石の事象も明確に位置付けられる。黒石こそは、著者が誠心誠意を込めて語る、単一言語を超えた、複数性の文化の出自に由来する偉大な比較文学の対象であった。他者としての異文化へのカルチュラル・スタディーズは、故郷喪失者や祖国喪失者によって可能であり、脱領域的な透察から生まれてくる。

 サイードは、『知識人とは何か』で、国家と伝統を離れて、故国喪失者と周辺的存在者としての「知識人」とは何かを表象した。著者の学問的系譜にある「多言語性」「脱領域性」「脱ナショナリズム性」への現在的な関心が、今日のロシアに関する真逆とも言える環境のなかで、大泉黒石というコスモポリタンの存在を複雑性の文化の境界に取り出した。我が故郷は世界文学と黒石を語る四方田犬彦氏には、サイードの言葉を重ねて見ることができる。

 比較文学的な視点と教養によって、危機の時代に脱領域的なノマドのテクストを反復させながら、確かな差異と同一を語る大泉黒石の再現をみごとに果たした評伝である。