連載 迷宮としての詩集(五)

背理する「現代詩」と現代の「歌詞」。

「現代的課題」を変奏させる表現としての「詩」と「エッセイ」。 (六)

 

                               岡本勝人

 

(1)アンソロジー『地球の生物多様性詩歌集―生態系への友愛を共有するために』(鈴木比佐雄他編・コールサック社)

 

 現代的課題に、個別的なものから普遍的なものへの変換がある。そこにあるのは、中心としての「多様性」である。産業化する社会が著しく文明軸へと傾斜する。環境問題や地方の問題や人種差別の問題、公害から地球温暖化が世界的な課題となっている。持続可能な開発方策(SDGs)も、この地球時代の文脈にある。男女の性差による葛藤から多様性を認めるLGBTによる境界線が消えていく。フェニミズムの多様な運動や活動がある。女性の社会的進出とその活躍が散見できる時代である。

 東京オリンピックが、コロナ禍のなかで開催された。その時の「標語」が、「多様性と調和」を「未来へと継承」したいというものであった。遅れて開催されたパラリンピックでは、「違いが輝く世界」と「調和の取れた不協和音」にみるように、不協和音という言葉が使用された。多様性と不協和音を社会的課題として、調和による問題解決を図ろうとする標語だ。

 日々をコロナが吹き荒れる今日、その解決の手立てがいまだにみえてこない。オリンピックは閉会したものの、今は北京で冬季大会が開催されている。社会では、ワクチン接種の防御が若年層や第3回目の摂取と続くが、このようなアンビヴァレントな状況は、精神の深層にとっての二重拘束になっている。社会的距離をはかるいろいろな場面で、ひずみをみせる事件が起こっている。逃れようのない社会的な抑圧とそれは関係しているようにみえる。コロナの時代は、巣篭もりである。日常(市民生活)と非日常(文学)の閾に、「自由」から「自立」への転換をはかる契機が隠されていないだろうか。

 朝日新聞などでは、社是として現代的な地球規模の「生物多様性」や「ジェンダー」に関心が寄せられている。それぞれの多様性をもって個性の尊重を内在化させながら、主体として自立する姿が、改めてコロナ後の生活の再建にむかう指標となるに違いない。多様性の尊重とは個性を尊重することだが、「詩」を書く「主体」とかかかわるものであろう。そうした観点から、新聞社から取材を受けた本がある。

 本著『地球の生物多様性詩歌集』は、公募を含めた古今の「生物多様性」に関する作品の「アンソロジー」である。叢状をなして集まるもの。多くの人に知られている詩や短歌や俳句も網羅されているが、全国からの参加者の作品がある。編者の鈴木比佐雄は、「解説」のなかで、「生物多様性」(「バイオダイバーシティ」)を提唱したのは、米国のエドワード・O・ウィルソンであり、その著作『バイオフィリア』『生物の多様性』が「社会生物学」とともに紹介されている。フィリアというギリシア語は、エロス(愛)にたいする友愛を意味する言葉である。さらに関心は、生物多様性の観点から宮澤賢治の作品の読みを再提案していることだ。こうした創作提示の機会の創設は、社会的な互いの再確認を促すだけでなく、問題の所在と意識の志向性の実証となるものである。生物多様性は、生態系とリンクしているが、ここに編集された詩群には、人間の当為としての責任の発露をみる思いがする。詩の収集が、文学批評を超えて、社会批評としての文明軸に拮抗するようだ。構築された多様性のある詩群が構築的形象の総体となって、人間の歴史というものに、反省を伴う自己省察となっている。

 叢をなして集積されたアンソロジーは、多様な価値観を収蔵させるアルシーブである。「誰がジュゴンを殺したか」や「海のかなしみ」など十一章からなるが、それぞれの配置された詩歌には、生物多様性としての表題も恣意的につけられている。そこには、公募された現代詩人の真摯な詩のたたずまいが、該当のテーマに関わる力作の詩として網羅された。すでに知られている俳人、歌人、詩人の作品には、例えば、「龍神に福寿草咲く山襞あり」(金子兜太)、「かたつむりと出会いし蟻は背に上り哲学のような静かさを見き」(馬場あき子)、「はまは祭りの/ようだけど/海のなかでは/何万の/いわしのとむらい/するだろう。」(金子みすず)からはじまり、「さむいね/もつとこつちによらないか/月があかるすぎるかい」(草野心平)、「おっかさん/どうしてこんなことになってしまったの/アナゴは穴のなかに消えてしまったよ/いのちの闇のなかに消えてしまったよ」(ドリアン助川)の近・現代詩へ、「美しや雲雀の鳴きし迹の空」(小林一茶)、「この旅、果もない旅のつくつくぼうし」(種田山頭火)、「明けぼのやしら魚しろきこと一寸」(松尾芭蕉)、「大津絵に糞落しゆく燕かな」(与謝蕪村)の俳諧も取りあげられている。「りんと立て立て青い槍の葉/そらはエレキのしろい網/かげとひかりの六月の底/気圏日本の青野原 (ゆれるゆれるやなぎはゆれる)」の詩は、宮沢賢治の作品だ。

 これらの現代詩人の幾人かには、雨に破れた街角のポスターに、過ぎ去った日々を思い起こした世代と時間軸を共有しているかもしれない。かつて、社会が抱える問題には、反戦や政治批判が背景にあった。ワシントンやカルフォルニアでのカウンターカルチャーの運動の影響もある。公害から環境問題、エコロジー(生態学)問題として、市民社会の個別の問題から普遍へと変わっていった。昭和はもう遠くなっている。占領政策と戦後改革からサンフランシスコ条約による講和を経て、国際社会に片翼的復帰をしつつ、ベトナム戦争も隣接的な現実としての経験をしながら、高度成長から「経済大国」への路を進んでいったのも、遠い過去のことである。豊かさときしみの狭間で、アンビヴァレンツを孕んでの市民生活だった。歌舞伎町の女王といわれる椎名林檎には、揺れる音楽に象徴された「アメリカの影」がある。だがそこには、揺れる社会と身体と声がみえるにもかかわらず、世代として共有された反戦や日本的負性からのカウンターカルチャーはない。「遠くで汽笛を聞きながら、何もいいことがなかったこの街で」(アリス)の歌詞には、バブル崩壊期の直前の「ソーダ水の中を貨物船が通る」(ユーミン・「海を見ていた午後」)表層を滑って行く時代に、日本的負性を混在してなお反復させる世情があった。

 今日、豊かになったとはいえ、都市生活者は、これらの出自としてのトポスから、平板な街の風景や社会の生活のなかで、日本的負性を忘れかけている。そうしたなかでも、個別から普遍へと、詩の言葉を形象している作品もある。「この世のものは/そこにいるだけ、あるだけで/尊いものなんです。」(まどみちお・「無限」)。「万葉集」にも似た「多様性」から、本書は、「多様性」の詩歌として構築的にアルシーブする。そうした営為には、大岡信や鷲田清一の「折々のうた」を支える構造と同じく、それぞれの作品を構築化する視点がある。ここでは、特に個別の詩人の内界と外界とのせめぎ合う「多様性」として、言葉の形象が尊重され、おだやかな網目構造のなかに全ての詩がある点に注目する。「どんな小さなものでも/見つめていると、/宇宙につながっている。」(まどみちお・「みなもと」)。

 それこそが、『生物多様性詩歌集』の特色と優位性である。

 

 

(2)詩集『ふづくら幻影』(長田典子・思潮社)

 

 再現へと記憶の奥から歌うもの。再現とは、一度生じていたものが消えてしまった後で、もう一度その姿を光景として、現わし出すことである。この詩人には、再現の能力と歌による音楽性を基盤とする詩を書く特性がある。『ニョーヨーク・ディグ・ダグ』を書き、他方で今はなくなった村の思い出に言葉の足跡を運んだ。「津久井町中野字不津倉/湖底の墓地に今もまだ横たわる/遠い血脈」(「祈り」)。「それでも/忘れない/失われた土地の名を//つくいまち なかの/あざ ふづくら」(「上を向いて歩こう」)。失われた存在から心の反響を通して歌を再現する。詩には、詩人が内包する存在の両義性がみえる。懐かしい童謡や民謡や歌声のメロディラインが重なる。

 ダム建設のために亡くなっていく村を再現の契機によって詩が形象された。そこには、時代と歌詞とを繋ぐ詩人の想起能力がある。「わたしが不津倉に暮していたのは七歳半までだ。河岸段丘の急な山道に広がる豊かな自然を慈しみながら、幼稚園や小学校へ通った。」(「あとがき」)。寓話的な幼少期への記憶から、ずれながら脳裏におりてくる言葉がある。そのずれは、遅れてやってきた「心のひだを通過する歌」と並行する心性である。前詩集の変奏も、中国やポルトガルの光景と反響しつつ、強くみえてくる。「けんろくじいさんは/すでに/水底に戻っているそうです/あかい火 あおい火 きいろい火/ゆらゆら連れて/今日は草場の仲間と祭りのじゅんび/鮒や鯉も泳いでいる」(「水のひと」)。本詩集には、社会問題や環境問題とともに、地名の問題とも関わる視点がある。

 事情によって、故郷喪失者とならざるを得ない環境にあるひとがいる。帰るべき故郷は、存在と時間の関係からすれば、存在論的な根元への足跡を伴うものであり、人間の個的な複合物の核として、精神のトポロジーを形成している。詩に流れている祭りやテレビのコマーシャルの歌詞には、現代詩とそれを支える批評と背理する姿が差異となる。毎年紅白歌合戦が開かれる。若い歌手やグループの流れるテロップから感じ取れるのは、歌詞と現代詩がむかう表現に、異質な乖離があることだ。

吉田拓郎の「祭りの後」の作詞は、岡本おさみによるものだった。「日々を慰安が吹き荒れて」の歌詩は、戦後詩人の吉野弘の詩だ。作詞家も、その旨を公表しているほど、当時の現代詩と歌詞は接近していた。黒田三郎は、「落ちてきたら/今度は/もっと高く/打ち上げよう」(『もっと高く』「紙風船」)と「美しい願いごとのように」書き、鮎川信夫は、青春の暗雲のさなかを回想して「もしも 明日があるのなら」の戦中詩を書いた。『倖せ それとも不倖せ』は、入沢康夫が「正編I・II・Ⅲ」「補編I・II・Ⅲ」「続編入I・II・Ⅲ・Ⅳ」と、「わが鎮魂、わが出雲」を準備した息の長い詩のテーマだった。全て、日本的な負性から希望を詩に託した戦後詩のフレーズだ。

 東大の安田講堂にむけられて、放水車から水しぶきが放射されたニュースをみた。学生たちは、立原道造の詩を読んでいた。拠点を去る時には「アカシアの雨がやむとき」を歌ったと言われた。アメリカ発の「いちご白書をもう一度」から、時代を反映する「もう若くないよ」の歌詞に、仕事人としての変化が生じていた。「人混みに流されて 変わっていく私を あなたは時々叱って」(「卒業写真」)と、ユーミンの歌を山本潤子がカバーする。「遠い世界に」憧れた地方出身者の都会生活と時代の表層は変わり、「シュプレヒコールの波、通り過ぎてゆく」と歌う時代が、「世の中はいつも 変わっているから 頑固者だけが悲しい思いをする」家庭と仕事にまみえての変化になった。天使の悲歌を歌う中島みゆきがいる。幾多の中島みゆき論が書かれた。竹田青嗣が、井上陽水論を書く。変化する社会に同調と違和を感じながら、大衆や女性の心を歌う光景が、繰り広げられていた。地方出身者たちによる、都会生活の多くの歌詞が書かれ、歌われた。日本社会の総体がもつ、負性を歌うものもあった。「竹田の子守唄」(「京都地方の民謡」)や「五木の子守唄」(「熊本地方の民謡」)は、お盆の時期の暮らしの貧しさを歌詞にしたものだ。「翼をください」(曲;村井邦彦・詩;山上路夫)の歌が、「今、私の願いごとが叶うならば、翼が欲しい」と、国語の教科書にのり、国民的ヒットとなった。「あの頃の生き方を忘れないで、あなたは私の青春そのもの」と、戦後のねじれ現象のなかで、同時代を生きたものたちがいる。一途な考え方を貫いて、一方で歌詞的な世界と同化しつつ、あるいは背理して生活者として生きてきたものがいる。

 詩集の「あとがき」は、詩集について、丁寧な掘り下げがなされている。事後的に語られる詩人の表象する回想がある。世代的な特殊性からきているのだろうか。情動が残存する独自の感性がみえる。まっすぐに書く置換の直接性の糸は、存在の表層と深層を書こうとする願いからくるものであろうか。例えば、ジェフリー・アングルスの『わたしの日付変更線』のなかで、「ものを優しく/表現するのは/意外に難しい/例えば わたしは/幸せであると」(「ミシガンの冬」)と書くように、ふたつの異言語間の境界線を溶解させるような緊密な文章を再現していくことは、エッセイの可能性を秘めるものだ。歌詞とも共生していくエッセイが、「語りえざるもの」から誕生する・・・。

 

 

(3)歌人による思考集『世界の果てまでも』(大田美和・北冬社)

 

 「多様性」をみせるエッセイと短歌表現の深まりは、著者のまとまった『大田美和の本』が証明しているのかもしれない。歌人として、英文学の研究者として、多様なエッセイが、まとめられた。この『世界の果てまでも』には、アジアのベトナムや韓国での滞在や英国のケンブリッジでの滞在を含めた、歌人としての活動が生き生きと活写されている。「ひらく、つながる、生まれる。」に象徴された言葉には、物事の境界がなくなる現象としての「多様性」が、表現の領域である。短歌だけでなく、フェニミズムやジェンダーの立場に寄り添うひとからも評価された、多様な生き方を模索するリズムのある表現が、浮かびあがる。「泣きながら父が見送りし祖父の忌よ家族史の中に戦争はあり」、「うちの女房よりすごいなと褒められて缶蹴りながら一人で帰る」。歌人の立ち位置は、「ポスト・コロニアニズムとジェンダー」であった。オリエンタリズムから遠い記憶の場所に佇んで、エッセイには、現代の「多様性」を表現として試みる閾が教養のうちにみて取れる。

 この多様なエッセイ群を、「アジアへ」「日本の短歌へ」「ヨーロッパへ」「表現へ」「わたしへ」と編成して一冊にまとめあげたのは、発行人柳下和久さんの思考のフットワークによる編集である。短歌と俳句と現代詩の境界がなくなりつつある。現代の表現には、境界や閾を逸脱して融解させるものがある。本書の中心は、「「戦後短歌の牽引者」と呼ばれた歌人近藤芳美が6月21日に亡くなって、四年目になろうとしている。彼の仕事をいかに継承するかと考えることこそ、この巨大な歌人を追悼するのに最もふさわしい方法ではなかろうか」(「一歌人の死を未来につなげるために」)の文章に、如実に表れている。

 著書は、英文学の専門の研究領域をもっている。にもかかわらず、海上雅臣に促されて書家の井上有一や建築家の白井晟一、書評を書くことによってウィリアム・モリスにも関心を寄せる。英文学の批評理論でさえ、自らの歌論や短歌の制作に導入しようとする貪欲なエネルギーがみえるほどだ。歌人は、短歌的素描によって、現実生活から創作へと、「空ニモ書カン」ほどの勢いで、リズミカルな散文を書く。今日の現代詩人には、短歌や俳句へと関心を移し、創作に影響を受けている姿がある。そこには定型性の問題もあるが、感覚の側からの創作の変容ということが考えられた。歌からの現代詩への挑戦には、岡井隆や江田浩司などの存在もあるが、研究とエッセイと短歌から非定型の詩へと円環して仕事をする姿がみられる。

 いくつもの光源をもつ歌人のエッセイと短歌を結ぶ力線に注目する。短歌の定型こそが、著者の自由な作品の内在的な形象を支えている無意識の文彩に違いない。エッセーから繰り出されて添えられた短歌の音韻形象には、ポエティックな妙味が醸し出されている。魅力的な短歌が、エッセイの散文の間に、姿を表す。生活感情とポエジーが両立している学匠歌人だ。

 

 

(4)詩人によるエッセイ集『三日間の石』(杉本真維子・響文社)

 

 現象学的な心性を言葉とするための系とは何か。杉本真維子にとって、父親の存在とは、大きな「石」のようなものであったのかもしれない。「Edge」の映像をみていると、杉本真維子にとっての父親の存在が遡行的に語られている。そこに、故郷を流れる裾花川があった。その表層では、波頭に立つ川の波と父親の言動の存在の波とが重なる。作品のなかで、執拗に現れるひとつの形象が揺れる。父なるものがある。しかし、父なるものが、全てではない。作品に隠された詩とその反響には、詩人の身体論的、生理的な感覚から形象された閾がある。詩集『点火期』『袖口の動物』から『裾花』へと根源的な遡行をはたす詩は、安定したコギトーによって紡ぎ出された詩句のエクリチュールとして読むことができる。と同様に、このエッセイも、多くの書評が書かれている。

 表題作「三日間の石」とは、そうした因縁とされる父親の亡くなった年の新盆を扱ったエッセイである。「三日間の石」とは、「三日間」に詩人が体験した「石」に似た物質的想像力の潜勢力で書かれた文章である。「プレハブの夢」にも、父親の姿が、浮かびあがる。どのエッセイにも、不思議な物語の特徴がある。場面と場面が閃光で結びつく、霊的なつながりのフィギュア(文彩)がある。「もう待たなくても良い。もうお前は待たなくて良い。」とは、この詩人の心性に流露する人生の湛然と赦しの糸を現象学的にとらえたものである。そこに、「父の笑い方には特徴があった。戦地帰りの祖父は一度も笑ったことがなく、「笑わん殿下」と父は陰で呼んでいたらしいが、その影響か、父は笑いを堪えるような笑い方をした。」平易さのなかから神秘的な透明な暗号をさえ隠しもつ独特な表現である。

 エッセイを読み進んで感ずるのは、現代詩人の感性は、どこにあるのだろうかということである。そして、取り出された精神の知覚が、どのような言葉として発露し、定着しているのかということであった。そのことは、最終部分に、「この世には想像するだけでいい、ということが、きっとある。」(「何屋でもなく」)に、確固とした言葉として表されている。どのエッセイにも、ここにこのような言葉は不思議だという思いにかられる。言葉の視角には、精神の方位が感ぜられる。いったいどのような言葉の蓋然性なのだろうかと思う。それは、この詩人独自の潜勢力によるものだろう。その表現には、言葉の連なりに余白的な深淵がある。

 感染力が増したコロナ禍で、市民社会の成熟が揺らいでいる。今日の社会にあっては、日本的負性も普遍的な現代社会の課題に変化しつつある。「多様性」の問題が、時代の表層である。閉塞のなかで境界の逸脱を知覚と言語の双方から推し進めなければならない。ダブルバインド下の表現の表層に何をみることができるのか。現代の若い世代から、どのような「多様性」に溶解した表現が、見い出されるのか。あの時代から続く現在性を語る系を探す。それは、文化の構造の変容の問題として考えられなければならないのだろう。

 杉本真維子という詩人のポエジーには、志向性によって像立する構造から現れた詩の言葉だけでは解けないものがある。石原吉郎や吉岡実のような北性系の神秘的な霊力に導かれる心身の境界がある。そこにこの詩人が、言語的な宙吊りを布置しながらも、それを自らの迷宮の入り口の解剖として、青山二郎が「カエルになれ」とつぶやいたように、現象を象立させる「石になった」と語っているようにもみえる。父や母について書くことは、広義の父なるものや母なるものと通ずるものがある。人間が背負って生きている複合的な心理の核である。ひとりでいても淋しくない。広義の喩であると同時に喩から逸脱する、新しい詩の実在論である。なぜ世界は存在しないのか、だから世界は存在する。この詩人の喩であると同時に記憶の多様性を円環しつつ無意識の欲動の陰陽を整える言葉を紡ぐ姿には、賞賛を惜しまない人が多いのもうなずけることと思う。

 

 

                         (「コールサック109」最新号)