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3年ぶりぐらいにヒミズをみた。ヒミズはあのときみたときと違うもののように思えた。なにが違うのかはわからない。ヒミズは公開日に新宿バルト9でみた。映画で震災を扱う人なんて誰もいなかったしまだあれがタブーだった。だから園子温がエライというわけではない。初めてみたときはマンガと映画のヒミズの相違点ばかり探してた。今思うと本当にスケールの小さい映画の見方をしていたな、と思う。今みるとヒミズはその時代を伝えようとしていることが伝わった。マンガ原作なんていうことはオマケ中のオマケなんだ。あの頃は泥の時代、がれきと放射能でみんな動揺して冷静な人なんていなかった。冷静に悩める人なんていなかったし、冷静に絶望できる人もいなかった。とにかくわからないときだった。マンガのヒミズは絶望している、それは冷静で落ち着いたマンガ表現の間逆にあるリアリズムの絶望だった。映画はそのマンガのすべて反対のことをしている。映画の人々は全員が取り乱していた。それははじめマンガと正反対のことをする映画的な方法だと思っていたけど、そんなこざかしいものではなかった。園子温はマンガがどーのとか原作がどーのとか1ミリも1ミクロンも考えていない。とにかくそう撮らなければいけない、そう撮る。という強烈な意思によって映画をとっている。もういってしまえば意思だけだ。技法とかなにからなにまで関係ない。評論家は映画的技法のことをとやかくゆうだろう、でも意思しか感じることができなかった。メガホンをとりながら発狂して走り出してしまうぐらいの意思!もはや映画の枠が邪魔とさえ思えてくるぐらいの意思がつたわってきた。ヒミズという過去の時代の作品を現代に適応するには、そうしたいという意思が必要だ。そのことがわかった。2015年に園子温は8本の映画を公開する。その行動に、強烈な意思以外のなにがあるというのだろう。その意思とやらは、なんの意思?といわれても知らない。それがなんなのかなんてはっきりいってどーでもいい。もう意味なんてどうでもいいから強烈な意思をみたいんだ!
音楽漫画は売れない、という業界のジンクスがあるらしい。
それはBECKという漫画によって破られたわけだが
何故音楽漫画は売れないか、というと、
というと、と言わなくてもわかると思うが、
音楽を絵で表現しがたいということがあげられる。
BECKは、音楽業界のディティール、細かい人間描写によって
その場の空気を一瞬にして変えてしまうような音楽を
疑似体験しているように感じさせる構造を持つ。
つまり、曲の歌詞に感動しているわけでなく
物語によって、今とんでもない曲が流れている、と思わせる。

日々ロックは、音のない音楽は人を突き動かすことができるか
という音楽漫画が抱えている問題をそのまま物語の中に持ち出している。
4部で登場する耳の聞こえない少女は、読者と同じ境遇であり
作者自身、音のない音楽はどうあるべきか、という問題と対峙していることがうかがえる。
作者はたぶんロックンロールを聴いて育って、それを別の表現で形にしようとしている。

物語で主人公に歌われる曲の歌詞は、音楽家でなく漫画家であるから、
といって音楽や曲のディティールを曖昧とせず、一曲まるまる歌詞を掲載する。
これが物語の人々を熱狂的にさせた歌だ、と。
それは、評価がされなかった場合、とてつもなく恥ずかしいことであるが
自分が恥ずかし目をうけるリスクを冒さなければ、
ロックンロールの物語など描くことができない、という著者の意志を感じられる。

4部の物語は、聾唖の少女が踊り狂って終わるのだが
私はそれが漫画史上かつてないほどの美しいシーンだと思った。



みのもんたの記者会見を受けて、勝間とかいうコメンテーターが、はっきり言ってどうでもいいですといった。すぐに加藤浩次が、何故ですかと半分切れ気味に返答し、コメンテーター自身も萎縮していたが、私はあのおっさんの意見は正しいと思った。彼は「ニュースで取り上げるまでもない取るに足らない出来事、みのさんが、もう辞めざるを得ない空気になってしまった、というコメントこそがこの問題の本質であり、ニュースや週刊誌が取り上げれば取り上げるほどその空気が作られていく」といったが、完全に加藤浩次にスルーされてテリー伊藤のみのもんた擁護のコメントへと移行した。

そもそもこの問題を取り上げるに当たり、擁護と糾弾の応酬をすることで本質に迫ることは絶対にあり得ない。この騒動に関して何か問題があるのか?という問いにメディアは答えるべきであり、そして今のテレビショーはそれはできない。それをやる必要性がない。なぜならテレビは視聴率を基準に動く。決して正論や真実に迫ったものが評価されるものではない。そしてコメンテーターや司会者たちはそれに無自覚なような印象を受けた。加藤浩次はまるで被弾でも擁護でもない中庸を貫いているように振舞っているが、私は一番の害悪のような気がした。基本的にワイドショーは下衆いものであるという感覚が薄い気がする。ただ日本人はそれを無意識に求めてしまっている。マスゴミと罵ってはいるが、週刊誌は見てしまうし、人の不幸を求めてしまう。あのおっさんは、このお祭りのような空気を、自分たちが作り出していることを知っていて「どうでもいい」と発言した。ただ国民は人気司会者が墜ちていく様を、無関係を装いつつ、心から楽しむ。

そもそもみのもんたは司会者をやめなければいけなかったのか、と言われれば、辞めるほどのことではない。ただ悪いことが幾つも重なった結果だと感じる。生徒会長の弟が万引きして、生徒会長が辞めなければいけないルールはない。ただその生徒会長が全生徒から嫌われていたら話は別だ。息子が窃盗罪で逮捕された司会者と、そうでない司会者どちらを選ぶかという程度の問題であると感じる。あらゆる条件が揃って大々的なバッシングへと繋がった。

私はみのもんたのバッシングを、法律で罰せられることのない不適切な行いをした人間を、人々が罰を与える民衆刑罰システムがつくりあげられている思った。そこまでする義務はないが、そうすることが最善である。罰ではないが、悪いことである。それらは、正しさのリンチにかけられる。そのリンチが間違いか正しいのか判断ができない、それを言い出すことのできない社会になっている気がする。
大森靖子が監督を勤めたらしい『非少女犯行声明』という短編映画を鑑賞した。
非少女とは、処女という概念を理解する頃には既に非処女であった自身のことを指し
反抗声明とは、全ての女子を肯定する、に始まる一連の宣言を指す。

現在の世の中において、過激な行動と呼ばれるものはやり尽くされ凡庸化している。
お笑い芸人やロックミュージシャンがどんなに破天荒な行動をしても
それは単なる悪ふざけや、コピーされた過激さ、から抜け出すことができない。
そもそも過激さは必要あるべきか?という問いへとたどり着くだろう。

今読んでいる村上龍のエッセイには
「ポルシェを乗っている経営者に経営不振を理由に解雇を言い渡されたらどう思うか」
という問いを若者に行ったことが書かれていた。
「自分の給料で何を買おうが自由」
「例えばポルシェを売ったところでどうこうできる問題ではない」
という答えに対し、怒りは生まれないかと村上龍は質問すると
大半は「しょうがない」と答えたそうだ。

そういえば最近、怒っている人を見ることがあまりない。
テリー伊藤も怒っていないし、ビートたけしは呆れているし、立川談志はしんだ。
お笑い芸人は怒らないし、アイドルは怒らないし、ミュージシャンも怒らない。
昨今の閉鎖的な日本の中で、なぜ、と言われても
本当に今日本は閉鎖的なのか?とか、まず自らの行動を改善するべきではないのか?
という理性的な感情によって怒りは抑えられる。
私たちは感情をコントロールすることができる理性的な人間となった。
というべきなのだろうか、反抗する気力がないだけなのか、わからない。

大森靖子は映画の中で常に怒っている。
敵が増えてしまうようなことを平気で言っている。
この人は一体何と戦っているのだろう、と疑問に思う。
今現在、こんなに公の場で怒っている人はいないってぐらい怒っている。

日本の全てはわからないが、
私の見える範囲で、唯一今の現状に対して、怒っている表現者である。
それは日本の経済とか、昨今の文化などではなく
ただ、とにかく今の現状に対してイライラしているのだ。
作中で、自らがアンダーグラウンドカルチャーに位置していること
またそれに満足していると誤解されることに対してはっきりと拒否反応を示す。

アンダーグラウンドである限り、全ての女子を肯定することも
アンダーグラウンドの思想であり続ける。
それを行うには、メインカルチャーになるしか方法はない。
音楽がなくなる日について考えた。
特に意味はないが、夏の魔物というイベントに参加して 音楽がなくなる日について考えてみた。
夏の魔物では夜のストレンジャーというソロを聞いたとき
全く聞いたことのなかった歌手に心を動かされた。
無償に感動したとき メロディなんかなくなればいい、という意味不明なことを考えた。
それから、音楽がなくなる日について考え始めた。
翌日、前野健太のソロライブを観た。
「先日新宿御苑で日向ぼっこしている亀をカモがつっつく姿を見ました。
あれはじゃれているようにしか見えなかった。
またトンボがチョウチョを追いかけまわしていた。
人間の知らない間に他の生物は革新的な進化を遂げているんだと思います。
昨日もカラスが音楽に合わせてリズムを刻んでいた。
今後インターネットをはるかに超えたコミュニケーション手段が生まれてもいい頃なんじゃないかなと思う。」
それのMCを聞いたとき音楽がなくなる日について考えた。
「本当ならば、今日来ている人、ひとりひとりと喫茶店で話したいと思っています。
ただ時間がないからしないだけで。
なんならみんなと一緒にセックスしたいです。」

夏の魔物のトリはトモブスカイという聞いた事のないバンドだった。
とても胸が高鳴った。いままでライブを見なかったけど興味を持った。
MCにとても感動した。ここに呼んでくれた主催、と残ってくれた客に対する感謝の気持ちをストレートに表現していた。
その多幸感はクスリをきめてるようにも見えるほどだった。
見ているほうは気持ちがよかった。
音楽がなくなる日のことを考えた。
夜のストレンジャーを見た時の「音楽がなくてもいい」という感情
音楽は脳内で認識される中の重要度で2番目なんだと思った。
1番目は音楽を演奏する人 「音楽」は「音楽を演奏する人」についてるBGMだと思った。
範疇遊泳について考えたこと

私は5日前ぐらいに範疇遊泳という劇団の「さよなら日本」という芝居を観た。
本来ならば感じたことをそのまま文章にして終わりなのだが
私はどうしても気になっていることがあった。
それは、この文章ははたして誰が読むのか、ということだ。
まず私は演劇を1回ぐらいしか見たことがない人間だ。
そして範疇遊泳という劇団は誰もが知っている劇団、とはいいがたい。
演劇を知らない人が書いたある劇団の批評。をはたして誰が読むのかということを考えていた。
知らない、というのは状況によっては強力な武器になりうるが、
この状況では効果を発揮することはない。
なぜなら、みんな知らない、状態だからである。
そして、もう少し知りたい、と思っている人が文章を読む。
だから知識を持たない私がこれを語ることは必要とされていないと感じた。
今必要とされているのは、専門家による、専門家の批評だ。
そうして作品や組織は知名度を上げていく。

では私にできることは何だろうか?
ただふつうに思ったことを思ったままに感想にすることか。
演劇の勉強をして付け焼刃の知識を文章化することか。
すべてをあきらめて自己表現に堕ちることか。
私はいろいろな作品にふれて、みんなの話を聞いて思ったことがあった。
私は、もっと私と私たちのことを知りたいと思った。

ここである作品について語られるときのアプローチとして
演劇技法の新しさ・演劇が暗に示す意味があると感じた。

あの演出方法が斬新だった、や
あのセリフはダブル・ミーニングである。などがあるだろう。
私はすべてがものたりないと感じた。
私はその作品からどこか別のところへいきたいといつも思う。

まず「さよなら日本」について思うことは、なぜ
さようなら、ではなく、さよなら、なのかとても不思議に思った。
おとなしく「さようなら」といっておけばいいものをなぜ「さよなら」なのか。
このはなしは広げられないのでやめる。
でもあえていうと、私は高橋源一郎の「さようならニッポンの小説」という随筆が大好きなので、ぜひさようならにしてほしかった。
まあこんな話はどうでもいいか。
あとミミズがでてくるのだが、ミミズのしゃべり方がすごいむかつく
根暗のでぶがでてくるのだが、すごいむかつく
就活失敗してニートの兄ちゃん
すぐまたを開く女
処女の不思議ちゃん
主婦
気配な夫
考えるのがおっくうになってきた。
えーと登場人物はミミズと、人にすぐ呪いをかける呪いにかかってるデブと、ユーチューブに動画をアップしてるニートのにいちゃんと、酔ってすぐ股を開いてすぐ反省する女と、道で「あ」を拾って飼っている女と、「あ」をなくした主婦と、気配にされた夫と蜂と椅子。ちなみに椅子っていうのも登場人物でつぶされたミミズが蜂を経て、転生した姿であり、ヤリマンの末路である。みんなに座られる。何を言っているかわからないと思うが、自分でも何言ってるかわからない。

とりあえずヒミズのときのように続けようと思います。
私はこの文章を書くにあたってある制約を課しました。
それは、テザリングを接続状態にしたまま文章を書くということです。
テザリングは接続時間の長さに比例して料金が加算されていきます。
これにより制限された時間で文章を書く環境とそれにより生まれる文章の変化を感じようと考えたのです。
と書きましたが実際はそんなことしていません。
私はジャンゴという映画を観ました。
私はジャンゴという映画がどのような話かわからないまま映画館へ向かいました。
なぜなら私はその映画に興味がなかったからです。
ではなぜ観たのかというと私にもわかりません。
私にはそんなことどうでもいいことです。
ジャンゴはとても刺激的な映画でした。
それは日本映画とは全く異なる種類だと感じました。
それは映画に無国籍感があったためです。
日本映画は日本人特有の精神的問題を扱うものが多いため
日本映画には日本感があります。
しかしジャンゴには狭義な感覚が皆無でした。
つまりそれは誰が観ても楽しむことのできるエンターテイメントと呼べる作品だということです。
次にジャンゴには映像技術や脚本の素晴らしさだけでなく
作品の中に哲学を生み出すことに成功しています。
それは「繋がれざるもの」という副題にも表れているように
従属性と自由についてのことです。
ジャンゴは黒人が主人公の西部劇です。
西部劇の舞台の多くは南北戦争の前かその後のはずです。
黒人が奴隷として売買されていたころの話です。
そんなときにウェンスタンハットを被って馬に乗って
奴隷を売買していたのがジャンゴです。
ジャンゴは鉄の枷で足を鎖でつながれていました。
しかしジャンゴは歯科医兼賞金ハンターの白人の
パートナーとなって賞金首を次々と殺していきました。
ジャンゴは白人から自由を与えられました。
「お前に自由を与える」という言葉が言われる前
とその言葉を言われた後にジャンゴに変化があるか
といわれたら、それははっきりとした変化はないことは確かです。
つまり自由とは物質的なものではなく精神的なものだということが提示されました。
物語の中で大農園の御曹司であり、骨相学者のディカプリオは
ジャンゴと白人にある講釈を行います。
大農園に長く勤め家族の世話を死ぬまで続けた黒人の
頭蓋骨を取り出し、3つの溝を見せ、
黒人には脳の或る部分が異常に発達していることを指摘しました。
従属性、もし自分が奴隷だったら家主のヒゲを剃刀で剃っているとき
その剃刀をそっと首筋に当てて殺しているだろうと
ではなぜ黒人はそれをしなかったか。
つまり白人から自由を与えられたとしても彼らには自由という概念を知らない。
とジャンゴ・フリーマンにつめよりました。
白人と大農園の御曹司の取引が終了し
歯科医権ショウキンハンターの白人は御曹司に握手を求められます。
白人はその握手を拒否しましたが、握手がなければ取引は成立しないといいます。
白人はやむなく御曹司を銃殺します。
その直後に白人は守衛によって銃殺されるのです。
日本語でいう誇りと自尊心というものと関係しています。
ジャンゴはそれを目の当たりにします。
その後のジャンゴの行動は、映画を観てお確かめください。
最後に牢屋が開いたにも関わらず逃げない黒人が映し出された映画は終わります。
ジャンゴ、彼は勇敢な男・ジャンゴ
ジャンゴは素晴らしい映画ですが、私にとってそれほど印象に残る映画ではありませんでした。
そういった日本人は多いと感じます。
なぜならジャンゴには私を投影できる人間がいなかったからです。
そういった人は多いはずです。
映画を観る際、私と共通する問題があればそれでいい、という感覚を持っている人間は少なくないはずです、
だから私は無国籍でエンターテイメントの作品を好んでみません。
私であればそれでいい、という趣向は醜悪なものといえます。
しかし私はそれをやめることができません。
私は映画が好きという人間を信用していません。
私は人と映画の話をする際、その人が個人的な問題を持っているかを観ています。
私にはそれがすぐにわかります。それは嗅覚に近い感覚です。

私はジャンゴを観終わった後、村上龍の超伝導ナイトクラブを読み始めました。
私はジャンゴのことをきれいさっぱり忘れそうになるほど
超伝導ないとくらぶに没頭してしまったのです。
銀座にあるバーに集まる技術者たち、社会的記憶を喪失するリプシチオンを女に売って過去のない女を作り出したり、全くおんなじ人間をつくることを計画したりしていました。
その家庭において、実体験を磁気記憶として疑似体験することのできる映像「脳の嵐」をもつ人間に接触し、それをつかってクローンのオリジナルと体験を同期させようと計画しました。
体験を疑似体験できる装置を誤ってみてしまった子供が現れます、何を体験したのかというとある国の拷問に耐える訓練プログラムの実験体験と動物、鷹の体験を少年は経験し、少年は悟りを開きました。少年はあらゆる科学的・歴史的問題を実体験にもとずいて意見することが可能となり宗教的な神格性を帯びていました。そのプログラムを所持していたカルロスは、その少年の実体験自体を日本の子供に同期させようと試み、文部科学省にプロジェクトを持ち込み認可がおりるのです。ようやくバーの技術者常連客たちはことの重大さに気づき、その次期データを破壊することを相談しますが、策が巡りません。そんなとき血だらけで傷口が発光する小人がバーに現れ超伝導を使うことを進めます。突破口を見つけたかにみえたバーの連中でしたが、翌日小人はブサイクなホsテす2人を引き連れてバーに現れます。頭の弱いホステスを常連達がいじめている最中、小人はブサイクホステスふたりの鼻の穴にアイスキューブを差し込むと、ホステスたちの「あたしいいい、かれしとおおお」といったウサギの糞ほどもないチノウレベレルの口調から、文学的告白を帯びた一人称の小説のような口調へと変貌し彼女達の独白が行われるのでした。




世の中は意味のないことはよしとされていない風潮にある気がする。例えば普通の会社員が何時間も掛けて16メートルにも及ぶ巨大で精巧なオブジェをつくったとしても、それが意味のないことであれば、暇なんだね、と同じく普通(だと思っている)会社員にはきすてられてしまう。ここでいう意味のないこととは、例えば仕事にならない、金にならない、人に見せない、自分磨きにさえならない、目的のない行動のことを指している。そしてその会社員はそれを作り終えた後、意味もなく呆然としてしまう。意味のないこととはわかっていたが、この途方のない意味のなさはなのだろう、と立ち尽くすのである。←こうゆう人は合格

意味のなさを表現するのは簡単に見えて私は難しいことだと思う。意味不明と無意味は似ているようで全く違うものだと私は思う。例えばラジオ番組で街ゆく人間たちに「肉と聞いてあなたは何を思い浮かべますか?」という質問を目的もなく聞き続けることは無意味だと思う。その多くは「ダイエット」だったり「焼肉食べ放題」だったり「牛」だったり人によって様々ではあるが、その人間の人生が垣間見えるようなきがしてならない。

「肉という字は内の中に人が入っている、それはどうゆうことなのか考えたことがあります。」といった人の人生はどんなものなのだろうか。漢字に関心がある、だけなのか、些細な疑問を持つ習性がある、だけなのか。はっきりいって「肉といえば?」なんて質問は無意味だし「人が内の中にはいってどうの」なんてのも意味がない、しかしこの言葉の広がりはなんだろう、と感じる。何万もの糸が爆発的に広がるような感覚がある。あった。

例えば、一番好きな肉はなに?牛肉かな?おいしいよね。でも豚もいいよね。渋谷においしい焼肉屋があるんだ。そうなんだー 。こういった会話は広義に見ると意味のある会話だ。しかし筋道が決まっていて何の広がりも感じることができない。

例えば「朝の通勤電車に乗り込む人々を見ていて、突然、肉が歩いている!と思った。震災後、人とのつながりだとか、絆だとか、いわれてきたけれども、私は、私たちは必死に生きている、といわれるより、私たちは肉なんだ、私たちは肉なんだ、といわれたほうが、私は腑に落ちることができる」とある男はいったとする。さきほどのおいしい焼肉屋とは打って変わって、彼はなにがいいたいかまとまりがなく筋道がなく意味がわからない。しかし私にはこの無意味さに救われる気がする。「言葉に比べ、心のなんと自由なことか。 言葉にすることは心を区切る作業だ。 一つの感情を言葉にした時、その言葉に収まりきらないどれほどの感情が失われるのだろう」と太田光はいったらしいけど、まさに肉の話は区切る作業を極端に省いた状態で、だから無意味とか意味不明っていうのはつまり、意味づけができていないものというべきかもしれない。私はみなさんにとって意味づけができてないことを聞いて回りたい、と思った。

オレらは肉の歩く朝





文章を書くことはとてもいいストレス解消法のひとつです。理由はわかりません。「希望の国」を見ました。ヒミズ撮ったそのしおんさんの映画です。東日本大震災後の日本で再度大規模な震災、原発事故が起こる話です。庭の真ん中で非難区域とそうでないところを分けられた家族の崩壊を描いています。その崩壊のなかにワタシは希望を見出すことができませんでした。私が物語りの中で注目した点は3つありました。

1、父親は考えを変えるか?
2、母親の「帰ろうよ」という台詞をどう意味づけするか
3、夫婦のNHKの再現ドラマのような台詞はどうゆういとがあるか

父親は先祖代々伝わる樹木の大切さを行政に説いて、汚染されゆく地にとどまりつづけます。最後は自衛隊の強制執行が迫りどうにもならなくなり、焼身自殺です。これのどこに希望があるのかわかりません。つまり「希望の国」というタイトルは皮肉だと考えられます。本当に希望の国、被災者を勇気付けるものであるのならば、先祖の樹木を燃やして別の町に移り住むことが希望です。つまりこの映画は決して被災者を勇気付けるためにつくられた映画ではないのでしょう。10年後、100年後この事実を語り継ぐことを目的としているのではないでしょうか。そういえば震災、原発事故後しばらくして酪農農家が自殺したというニュースがありましたが、その悲劇を誰が覚えているでしょうか。

庭を分断された家の妻は認知症によりぼけていて、震災後家にいるのに「帰ろうよ」というおとぼけ発言を繰り返しますが、ワタシは物語のキーだと思いました。終盤若いカップルが流された家の跡地へ行き、いるはずのない家族をあてもなく彷徨い続けます。ひとしきり歩いた後、現実を受け入れることができたのか、男が「もう帰ろう」といい女が「うん」と答えます。本来ふたりは住んでいた家に戻っているはずなのに、帰ろう、という台詞が通用しています。この若いカップルのやりとりを見るに、妻のあのぼけ台詞は感覚的にもうこの家が住むべき場所でないことを察知しての発言、という意味付けをしたのではないかと考えました。でも夫はそれに気づかず銃殺の上焼身自殺です、希望がありません。でも語り継ぐ、ということが目的であるのなら有効だと感じます。

村に残った夫婦の息子夫婦は、別の街へいき放射能に過剰反応しながら生きます。が妊娠中の妻を気遣い遠くの街へ引っ越します。そのまま物語が終わるかと思いきや、ガイガーカウンターが大きく反応します。一瞬夫は不安な表情になるが、それを隠し妻と抱き合う。妻は最後に「愛があれば大丈夫だよ、愛があれば」といって終わります。その台詞が事実であるのなら、村に残った両親も焼身自殺していないはずです。そんなことは誰もがわかっていることです、だからより希望がないです。原発事故の時代の中で子供を育てる人間の生き方のモデルがないため、もう目を瞑り気づかないように生きるほかない悲劇は、10年後、50年後忘れ去られたとき、この映画によって語り継がれるでしょう。

若いカップルの女が津波の後の荒野で、「おーい」と叫び続けるシーンが本当に素晴らしかったです。女は正常であることはわかっているのに、このまま続けてしまったら狂ってしまうのではないのかという予感、とそれをどう止めるのかずーっと見ていましたが、みなさんは恋人が「おーい」と叫び続けるぐらい絶望したときどう止めますでしょうか。