本日は6月18日火曜日。晴。気温16℃。

昨日はやっと夕陽が見れた。西日本では大雨、関東も大雨になる予報ですが釧路は昨日に続き晴れている。今日は歴史探索第三弾として釧路市の公園を巡りながら情報入手していこうと思う。


まずは「釧路記念公園(鳥取10号公園)」へ。


この公園は前回行った鳥取神社の近くで、釧路市中心部から北西約5.5kmに位置している。周辺地域は鳥取県移住者が開拓した地区だ。1986年に北海道では唯一昭和天皇御在位60年を記念した健康運動公園などの指定を受けコミュニティ体育館(鳥取ドーム)を中心とした施設設備を行った。

<鳥取ドーム>


その他にも野球場やバスケ、テニスコートなどの施設が有る公園だ。

<野球場>


<バスケット>


<テニスコート>


朝8:30で既に多くの人がゲートボールをしていた

<ゲートボール(パークゴルフと言う?)>


鳥取コミュニティセンターもあった。

<コア鳥取コミュニティセンター>


ただ残念な事に鳥取神社で得た鳥取エリアの歴史探索情報は得られなかった。


次は厳島神社の近くの「佐野碑園」に行く事に。

<佐野碑園>


<案内版>


佐野碑の“佐野”とは江戸時代に釧路国を支配した佐賀藩のお墨付きで釧路の漁場開発経営に力を注いだ新潟県寺泊出身の「佐野孫右衛門(さのまごえもん)という人のこと。アイヌの人々を抱え昆布の漁などで得た資金を基に道路の開発なども請け負っていた「場所請負人」と言う職だったそうだ。

江戸時代末期、漁業と交易を進める「久寿里(クスリ)会所」があり釧路初の学校の「丸太学校」や「電信分局」も建てられたそうだ。

前回厳島神社の歴史探索の中で「クスリ屋」と言う言葉が出てきたが“久寿里”という地名だったんだ。

<ここにも石川啄木の碑石があった>


何故ここにも啄木の碑があるのか?

明治中期この一帯に高級料亭が立ち、中でも料亭「喜望楼」は道東一の料亭と言われ啄木も良く通ったそうだ。江戸時代後期の佐野孫右衛門とは時代背景が違うがたまたま石川啄木も近くの料亭に通っていたので一緒の場所に記念碑を建てたのだ。


そうこうしている内に幼稚園の子供達が先生に引き連れられてこの公園に来た。変なおじさんがいると思われかねないので退散しよう。

<幼稚園の子供達 先生もこの公園迄引率ご苦労様>


次に「鶴ヶ岱公園(つるがだい)」へ。

コイのいる池や日本庭園が有る公園だ。

<日本庭園>



藤の花が! 関東では1ヶ月前には散ってしまった


<コイのいる池>橋がかかっている


自然を感じながら散歩するのに最適な公園だ。

<花が咲いておりハチが行き来している>


その他、テニスコートや武道館もある。

<テニスコート> 年配の方が多かった



<武道館>


残念な事に日本庭園のできた背景や歴史についての案内版も無く歴史探索は空振り。


ここで昼食を取る事に。せっかくなので今日こそ駅弁を買おうと釧路駅に。13時頃だったので売り切れの可能性もあったが運良く5つほど残っていた。

迷わず有名な釧路駅弁「いわしとさばのほっかぶりずし」1,350円と釧之助(せんのすけ) 出汁かまぼこ200円を購入。家で昼食を取る事に。

<駅弁 いわしとさばのほっかぶりずし、蒲鉾>


酢で締めたイワシとさばを甘酢に漬けた大根で巻いた鮨だ。

<寿司と蒲鉾>



昼食後「モシリヤ砦跡(もしりあしゃしあと)」に行った

<モシリヤ砦跡>


<案内版>釧路市教員委員会が建てた案内版


「モシリヤ」とはアイヌ語で「川中の島の対岸の丘」、「チャシ」は「砦」。高さ18m、直径170メートル、短径70メートルの楕円形の丘で比高差5mの豪により内郭と外郭に分かれている。1751年にトミカラアヤノというアイヌ人が築造したとされている。昭和10年に釧路市の“チャランケチャシ”や”春採台地竪穴群“とともに「モシリヤ砦跡」の名称で国指定の史跡に指定されたそうだ。この砦は沖縄では“グスク”と呼ばれているようにアイヌでは“チャシ”と呼んでいたのだろうか。


15:30晴れていたのに急に冷えて来た。先程迄20℃会ったのに16時過ぎには17℃になり市内全体霧が。日中市内が真っ白になるのはここに来てからでは珍しい。今日はこの辺で切り上げよう。

明後日から知人夫婦が4日間釧路に来てくれる。何処を案内しようかな。ブログ書けないかもしれません。その時はご理解を。