あとどれだけ生きていられるかわからないので終活開始。先日お話しした終活第1弾、子どもたちの成長ビデオ整理、順調に進んでます。今日までで、15本、15時間分をダビング完了。まだ半分以下。なんとしても子どもたちが帰ってくる今年中には完了しないといかんなあ、と思って邁進中です。前にも話したようにiLINKで接続しているが画像はイマイチ、多分20年以上前の技術の限界かな。でも記録としては十分。難点は高速ダビング機能がないのとダビングの自動終了機能がないので、1時間分のテープダビングには1時間かかり、終わったら手動で提出。デジタルのテープと機器だけどアナログ感満載。でも今ではなかなか体験できないことだからこれもありかな。

さて、前置きはこれぐらいとして、今日の本題、終活第2弾。この世にいる間に記録に残しておかなければならないこと、そう僕の妻のこと。先日少し話しました。家業の造園業を継いで、仕事中に事故に遭って、一命を取り留めたけど寝たきりになってしまったこと(2022.12.15のブログ)。もう17年前の話。ビデオ整理をしていて、ビデオの中の元気な妻の姿をチラチラ見ながら、このことはやっぱり文章として残しておかないといかんな〜と思って。実は2人の子どもたちにも詳しく話した記憶がないし、僕の心の中ずっとしまい込んできたのは事実。まあ、僕自身もあまり他の人に話すことでもないし、話すこと自体が怖かったという思いが強かったので。でも、肺がんステージ4になって残された日々のことを考えるとこの今のタイミングしかないなって。そして、あれから17年、なんかようやく話する勇気が出てきたかなって。


17年前の11月4日、この日、忘れたくても忘れられない。この前日11月3日は子どもたちの七五三(長女6歳、次女3歳)で神社⛩にお参りに行ってお祝いしたばかり。4日、その日は朝から快晴☀️、まさに秋晴れ。僕はいつものように出社して、いつものように仕事をしていたのだが、朝突然ハードディスクの調子が悪くなって悪戦苦闘。結局、回復する兆候が見られず断念し始めていた頃に、妻の妹から携帯に電話があり「お姉ちゃんが大変なことになって。すぐ現場に来て‼︎」っと。僕も驚いて現場の場所を聞いたつもりで、直行(後で分かったことだけど全く違う方向へ行っていた)。現場に向かう途中、再び電話が鳴って、「救急車でK病院に運ばれたからそっちに来て」と。もう、僕も何やら訳わからずとにかく言われた通りにK病院に。病院に着くと彼女の両親や親戚の人が救急の待合室に集まっていて、深刻な状況。そこで初めて状況を知りました。そのあと、妻の処置が終わってICU へ。処置していただいた先生の話、なんとか一命を取り留めたけど、深刻な状況とのこと。

そのあと一旦自宅に。長女が幼稚園から帰っていて机代わりのリンゴの箱の上で何やらお絵描き(勉強?)。次女は妻の実家近くの保育園に。正午のニュースではこの事故のことが…。でも、もちろん聞く耳持たない。

そのあと、再び病院へ。

この続きはまた明日話しますね。