今日叔父さんと会って、いろんな話しをしたから叔父さんの事を書こう。
僕の父親は三男、全員男で5人兄弟長男はお母さんが違う
書こうとしている叔父さんはその長男の洋さん83歳
齋藤家は祖父齋藤吉之助(初世杵屋勝吉治)と森幸枝との間に出来た長男「洋」と、幸枝さん没後祖父が保恵と再婚し、保恵との間に出来た二男「禎」三男「登」四男「敦」五男「衛」が兄弟で居て、そのうち二男と僕の父の三男は他界している
それぞれに二人の子(自分達)がいるので、いとこは十人
春日にある齋藤家のお墓には祖父と幸枝さんが入っていて、その隣りのお墓に父が入っている
芥川龍之介の書簡に僕の祖父(吉治の治が次になっているけど)と幸枝さんの事が書いてあるので紹介します
これは大正9年の3月27日に芥川龍之介が森幸枝(叔父さんのお母さん)に宛てたものらしい。
星赤し人無き路の麻の丈
(六八一 三月二十七日 森幸枝宛。前の六八〇書簡句の注参照。森については、まず中田雅敏氏の「書簡俳句の展開」より引用する。『静岡県島田町出身の女性、日本女子大学国文科に籍をおき小説家として世に出ようとしていた。こうして龍之介の交際がはじまった。写真も送っている。』次に鷺只雄氏の「年表作家読本」から。『身長一六三センチをこえるグラマーで、顔立ちは彫が深く美貌であった(中略)三月十七日に我鬼窟を訪ねて以来玉かんざし、博多人形、菓子などを芥川に贈り、翌年八月頃まで交際があった。』。その後の彼女は、中退して結婚し、破鏡、洋画や長唄を習い、周囲の反対をものともせず、長唄の師匠であった七つ年下の杵屋勝吉次と結婚するも、『生活は苦しく、結核に冒された幸枝は昭和五年四月に二七歳で命の火を烈しく燃やして駆け抜けて行った。幸枝は芥川の他に市川猿之助とも関係があったといわれている。』まさに火車の如く芥川の前を過ぎていった女である。蛇足ながら、ネットを検索すると彼女に宛てた菓子の礼をしたためた芥川書簡が五十五万円で取引されている……。ちなみに、この頃、「秋」の執筆の際の参考にする女性風俗について、妻文が紹介した幼馴染み平松麻素子との交際も、同時に始まっている。)
生活が苦しいって書かれて恥かしいけど、芥川龍之介や市川猿之助を選ばず祖父を選んだと思えば誇らしい感じも孫からすればある
でも祖父は明治39年生まれなので、昭和5年時は23~24歳幸枝さんが27歳で他界したのなら7つ年下ではなく3、4年下という事になるが
話しを戻して、洋叔父さんの事を書くと、叔父さんは埼玉銀行(現りそな)の常務取締役から蛇の目ミシン工業株式会社の社長になった齋藤家の出世頭芸人の子なのに真面目な人子供の頃は三味線を杵勝の女流の方に習っていたと言っていた
しかし、昭和の大きな事件にジャノメ事件ってのがあって、総会屋とのトラブルらしいが、会社側のトップとしての責任で辞任してしまった悪い奴は捕まったがもう出所しているだろうずっと真面目にしてきた叔父さんがトラブルに巻き込まれてこんな事になったのも、今の僕の精神(世の中何が起きるか判らない)に影響している
そのまま叔父さんがジャノメの社長だったら僕の長唄人生も変わっていただろうと、今日叔父さんと話していた
今日叔父さんから聞いたエピソードの一つは高松宮殿下との、ある病院の落成式後の宴席での事これは深くは書けないが当時叔父さんは埼玉銀行の常務時代の話しだった。
もうひとつは叔父さんの子、いわゆる僕からすると「いとこ」
の話し。いとこは八重洲富士屋ホテルに就職していたが、辞めてホテルオークラのすぐ近くのレストラン(叔父さんの同僚がオーナーのお店)で働いていた時に、長沢純さんが勝新太郎さんを連れてレストランに来たとき、オーナーが勝新さんにいとこを紹介したところ、いとこが勝吉治の孫ですって言ったらビックリして立ち上がって握手しながら勝吉治さんはうちの親父(勝東治さん)の先輩だよと話していたら、勝東治さんが危篤という一報が入り勝新さんは勝東治さんのところへ飛んで行った(まあ飛ばないが)という話し。
まだまだ沢山昔話しをしてくれたけど、全部覚えてない
また聞いたり思いだしたりしたら書き記しておこうっと