1963年(昭和38年)9月23日、鹿児島出身の父と熊本出身の母の二男として熊本市で誕生


既に3つ上の兄がいた。
父は自衛官、それも陸士で妻帯者
今は陸士でも特外(特別外出)が許されているが、当時はなかった。

何で母は父と結婚したのか?
それも未成年で…

俺が親なら絶対許さない。
将来性のない男に大事な娘はやれない。

と、ここまでは宿命
だから自分では変えられない。
その後の人生は運命だから変えられる。
でも、それが出来ただろうか?

三つ子の魂百までも…
トンビは鷹を産まない。
蛙の子は蛙
この親にしてこの子あり。
親の遺伝は大きい。

教育を受けさせる義務は親にある。
親の年収が子の将来を決める。
残念ながら子は親を選べない。

親父はなんとか陸曹候補生の試験に合格
7師団改編に合わせて高射特科から機甲科に職種転換したのだろう(あくまで予想)。

当時は日本にとって旧ソ連が脅威だった。
陸自は北方重視、対着上陸防御と機甲師団の機動打撃で頑張ろうとしていた。
独力では出来ないから頼みの綱は米軍だ。

親父が陸曹で偉くなれなかったからオレたち家族は引越も転校もしなかった。
小さいながらも一軒家に住めた。
ボロ官舎には一度も住んでない。
でも、物凄く貧乏だった。

引越貧乏じゃなくても自衛官の給料は安かった。特に田中角栄が総理になるまでは…

親父は陸曹
幹部よりずっと給料は安い。
それでもガメツイ親父はしっかり防衛省共済組合に貯金していた。もちろん、子供の俺にそんなことは知るよしもないが…

給料が安いくせに飲む打つを切り返す。
勝っていた知らないが…
とにかく休肝日はなかった。
特に、宴会の日は恐怖だ。
一次会でヘベレケになる。
必ず同僚にタクシーで送ってもらう。
母は、さぞかし恥ずかしかっただろう。
帰宅すると大きなイチモツを出していたことを今でも覚えている。

気が小さい親父は素面だとしゃべらない。
だから何を考えているか分からなかった。

俺は11ヶ月で北海道に来たと母に聞いたことがある。恐らく、8月1日付の定期異動で九州から転属してきたのだろう。

当時は新幹線などない。
飛行機など高嶺の花、貧乏な自衛官ごときの異動に使えはずもない。
九州から夜行を乗り継いで数日かけての列車移動は大変なことだ。
乳飲み子の俺はお荷物なので洗面台に寝かされていたそうだ。
この話は何度も母から聞いた。

昭和39年10月に新幹線と首都高が完成
東京オリンピックに間に合わせるために…

第2次世界大戦が無ければもう少し早く東京オリンピックが実現していたのだが…
でも、良くオリンピックが出来たもんだ。

それから10年後に札幌でオリンピックが開催すると誰が予想できたか?

2021年に二度目の東京オリンピックが出来るのだろうか?

ちょっと話題はズレたけど、俺は生後11ヶ月で北海道に移り住んだ。
だから、どさん子ではない。