小津安二郎監督の「喜八もの」第2作。旅芝居の一座の物語
深夜、旅芝居市川喜八一座が信州のある駅に到着する。高崎での興行では散々な目にあって、座長喜八の妻おたかの奔走でなんとか露命を繋ぎ、起死回生を期してやってきたのだったが、この町は喜八にとって非常に意味のある場所だった。この町で小料理屋を営む「かあやん」ことおつねは、かつて喜八との間に子を儲けたが、旅役者の子供では出世は望めまいと父親は死んだと伝え、喜八は旅の空から何がしかの金を送ってその成長を見守ってきたのだった。数年ぶりに会った息子信吉は立派な青年になっており、喜八の嬉しさはこの上もない。雨で興行がうまく行かないのをいいことに「土地のご贔屓筋にあいさつ」と理屈をつけて足繁くかあやんの店に行く喜八。
しかし、おたかはある日実は昔の女とその息子に会いに行っていることを知り、店に乗り込む。激怒する喜八。おたかは腹いせに、一座の娘役として成長したおときを信吉にけしかける。初めは乗り気ではなかったおときーーそれがミイラとりがミイラになってしまい、喜八に気づかれた二人は手に手をとって家を出る。帰ってきた信吉に、おつねは喜八が父親であるということを告げるのだった。

初めて見た「浮草物語」は片岡さんの説明に新垣さんのピアノでした。小津監督の長編映画としては「生れてはみたけれど」よりも先に見ていますが、喜八ものというのは、今の観点からみるといろいろ思うところはあるものの(特に「出来ごころ」)、何とも言葉に出来ない良さがあります(ワタクシが男性だからかもしれませんが)。かあやんと喜八の関係は、後半かあやん自身がいうように「男と女の関係」ではないにしても、喜八が一座を解散するといったときにかあやんが「じゃあ一緒に暮らせるんだね」と喜ぶところをみると「家族」としての繋がりは強く、おたかが嫉妬したのも「肉体関係」ではないその強い紐帯を感じ取って思い切った行動を取ったのではないかと思います。(それを思うとーー喜八さん、あんたもう少しうまく出来なかったんかい?……と思わないでもないですね^^;)

説明は澤登翠弁士
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