航空戦史雑想ノート【陸軍編】 -21ページ目

陸軍の航空隊について

『陸軍の航空隊について』

 

このブログの読者の方はもうご存知だと思いますが、陸軍の航空兵力の基礎単位は飛行戦隊です。

陸軍の飛行戦隊は基本的に同一機種で編成されましたが、一部には機種混成があり、敗戦まで100個以上の戦隊が編成されました。

 

【戦隊というと海軍の場合は、航空隊の上部組織〈例:第二六航空戦隊等〉に相当しますが、陸軍の飛行戦隊は、海軍の第二〇四海軍航空隊や第七二一海軍航空隊等に相当する単位です。海軍の場合二〇〇番台は戦闘機、七〇〇番台は攻撃機と機種ごとに番号が決められていますが、陸軍の飛行戦隊の場合は、設立された順番ですので、番号だけでは飛行戦隊の装備機種は判りません】 

 

ここでは、筆者自身のお浚いの意味も含め、陸軍の航空隊について記述したいと思います。


 

飛行戦隊【FR】

昭和13年8月、陸軍はそれまでの制度を改正して、従来の飛行連隊や飛行大隊を飛行戦隊と改称した。

特に飛行戦隊の番号が若い部隊は古くからの戦歴を誇っていた。

 

1個飛行戦隊は戦隊本部と3個飛行中隊よりなり、爆撃機の場合1個中隊:9機、9×3=27機、戦闘機なら1個中隊:12機で、12×3=36機、というのが基本定数だった。戦闘機の場合各中隊は、12名前後の操縦者と70名前後の整備員等の地上勤務者で構成されていた。しかし、予備機や欠員等も多く、必ずしも定数通りだった訳ではない。

ちなみに、小隊は偵察・爆撃機は3機で、戦闘機では4機だった。

飛行戦隊の指揮下には、飛行中隊のほかに飛行場大隊があった。

飛行場大隊とは、機体や発動機の整備、修理を行う整備中隊(燃料車や起動車を保有)と警備中隊(飛行場守備や防空を担当、九八式20ミリ高射機関砲等を保有)よりなる。但し、内地部隊の場合は、必ずしも警備中隊は付属しない。

飛行場で使用された車両については、燃料車は「いすゞ」の九四式六輪と四輪トラック(1.5トン/70馬力)、起動車にも「いすゞ」九四式や「トヨタ」の九七式2トントラックが使用された。

また、防空用の九八式20ミリ高射機関砲は6門を単位として105名で1個中隊を構成した。但し、防空隊を飛行場大隊に付属したのは昭和18年以降であった。

 

その他、飛行場には気象観測班や航空情報隊が置かれ、各種情報を提供し戦隊を支援していた。

 

戦闘は中隊単位で行われたが、太平洋戦争の中期以降、戦闘激化により消耗が激しく、保有機数が減ると、中隊ごとでは作戦出来なくなる場合が多くなってきた。

そこで、19年1月頃から、戦闘機戦隊は中隊区分を廃止し、操縦者と装備機を一括して運用する飛行隊編成を導入した。また、1個戦闘機戦隊の装備機の最大定数約40機だったのを定数56機に変更した。

飛行戦隊の飛行隊編成への移行とともに、それまで飛行戦隊に配属されていた飛行場大隊を分離し、同時に飛行場大隊も整備隊を独立させ、その一部を戦隊付整備隊へ移動させた。

これにより、各機に対する個有の整備(機付整備)は戦隊付整備隊が行い、基地整備隊は事故機の処理や燃料補給、飛行場整備を行い、戦隊に協力する形とることとなった。


 

飛行団【FB】と飛行集団【FC】

飛行戦隊(もとの連隊や大隊)を2個以上(独立飛行中隊が所属する場合もある)の兵力にまとめたのが飛行団である。

大佐あるいは少将を指揮官として、敗戦まで30個編成された。

主として作戦や地域ごとに編成され、兵力の組合せも同機種の場合や、混成機種の場合もあり、必ずしも固定的や長期的なものではなかった。

第一七~一九飛行団は、本土防衛用兵力であったが、昭和19年に入り、それぞれ第一〇~一二飛行師団に格上げされた。

大規模な作戦の場合は、戦隊単位ではなく、飛行団単位で兵力を投入する場合が多かった。


飛行集団は飛行師団の前身で、戦闘・爆撃・偵察の各機種を併せ持つ、大集団であった。(海軍の航空戦隊に相当する)

内地の第一飛行集団と満州の第二飛行集団が昭和14年3月に編成され、華北の第三飛行集団は9月に編成された。

作戦上、飛行戦隊が飛行集団間を移動するため、構成内容はその都度変わっていた。

太平洋戦争開戦時は、フィリピン方面の第五飛行集団とマレー・シンガポール方面の第三飛行集団が南方進出航空兵力の主力だった。


 

飛行師団【FD】

飛行師団は飛行集団を戦術的に発展させたものである。

師団長は中将で、形式上、天皇陛下により任命される。(ちなみに開戦時、地上部隊には63個師団があった)

以下に、太平洋戦争中に編成された飛行師団の概略を列挙する。

第一飛行師団【鏑】編成:18年1月~敗戦        作戦地区:北海道・千島

第二飛行師団【鷲】編成:17年4月~20年5月解隊  作戦地区:満州・フィリピン (旧第二飛行集団)

第三飛行師団【隼】編成:17年4月~19年2月解隊  作戦地区:ビルマ・マレー・蘭印 (旧第三飛行集団)

第四飛行師団【翼】編成:17年2月~敗戦        作戦地区:満州・フィリピン

第五飛行師団【高】編成:17年4月~敗戦        作戦地区:ビルマ (旧第五飛行集団)

第六飛行師団【洋】編成:17年11月~19年5月解隊 作戦地区:ラバウル・ニューギニア

第七飛行師団【襲】編成:18年1月~           作戦地区:ニューギニア・豪北

第八飛行師団【誠】編成:19年10月~敗戦       作戦地区:台湾

第九飛行師団【翔】編成:18年12月~敗戦       作戦地区:スマトラ

第一〇飛行師団【天翔】編成:19年3月~敗戦     作戦地区:関東

第一一飛行師団【天鷲】編成:19年7月~敗戦     作戦地区:関西

第一二飛行師団【天風】編成:19年7月~敗戦     作戦地区:北九州

第一三飛行師団【魁】編成:20年3月~敗戦       作戦地区:南中国

教育飛行師団 編成:17年6月~敗戦          作戦地区:内地 

 

これらの飛行師団の他に、昭和19年6月に各種航空実施学校の教官と助教による作戦部隊が編成され、それぞれ教導飛行師団と改称され、7個教導飛行師団(うち1個は整備)が設置された。

明野教導飛行師団(戦闘)

鉾田教導飛行師団(軽爆・襲撃)

常陸教導飛行師団(戦闘)

浜松教導飛行師団(重爆)

下志津教導飛行師団(偵察)

宇都宮教導飛行師団(航法)

(筆者注:調査未完)

  

航空軍【FA】 

飛行師団が編成されると、昭和17年6~7月にかけて、最大の組織である3個航空軍が編成された。

少なくとも1個以上の飛行師団を持ち、その他に野戦航空修理廠や高射砲連隊等を指揮下に入れた。

以下に列挙する。

第一航空軍【燕】編成:17年6月~敗戦       担当地区:内地・統括 (旧航空兵団)

第二航空軍【羽】編成:17年6月~敗戦       担当地区:満州

第三航空軍【司】編成:17年7月~敗戦       担当地区:ビルマ・シンガポール

第四航空軍【真】編成:18年7月~20年2月解隊 担当地区:ニューギニア・フィリピン

第五航空軍【隼】編成:19年2月~敗戦       担当地区:南中国・朝鮮 (旧第五飛行師団)

第六航空軍【靖】編成:19年12月~敗戦      担当地区:九州 (旧教導航空軍) 

 

 

その他  

独立飛行中隊【FCs】

各機種とも8~12機で編成され、地上軍司令官の指揮下で運用された。

独立飛行隊【FMs】

軍直轄部隊として、独立飛行中隊を複数で編成したもの。 


 

以下、続きます。

 

【参考文献】

テーマ一覧「主要参考文献・資料」を参照下さい。

   

[筆者注:調査未完のため、今後大幅に加筆・改訂を予定しております] 

 

初稿  2005-08-03

第2稿 2005-10-22 一部加筆



陸軍特別攻撃隊「万朶隊」

【この稿はまだ覚書の段階です。これから鋭意調査の上、充実したものに仕上げたいと思っています。
 高木俊朗著「陸軍特別攻撃隊」を読み、何かに突き動かされるような衝動に駆られ追加してしまいました。
 今までは海軍航空隊中心に研究してきましたが、これを機に陸軍航空隊についても書いていくつもりです。遅筆ではありますが、よろしくお願いいたします。】



大本営発表(昭和十九年十一月十三日午後二時)
 一、我が特別攻撃隊万朶隊は、戦闘機隊掩護のもとに、十一月十二日レイテ湾内の敵艦船を攻撃し、必死必殺の体当りをもって、戦艦一隻、輸送船一隻を撃沈せり。本攻撃に参加せる万朶飛行隊員次の如し。
 陸軍曹長 田中 逸夫
 同      生田 留夫
 陸軍軍曹 久保 昌昭
 陸軍伍長 佐々木友次
上(原文は右)攻撃において、掩護戦闘機隊員、陸軍伍長渡辺史郎また艦船に体当りを敢行せり。
 二、万朶飛行隊長陸軍大尉岩本益臣、同隊員陸軍中尉園田芳巳、同安藤浩、同川島孝、同少尉中川勝巳は、攻撃実施数日前、敵機と交戦戦死し、本攻撃に参加する能わず。


 陸軍特別攻撃隊「万朶隊」とは、陸軍で最初に編成された特別攻撃隊である。
 昭和19年10月21日、鉾田教導飛行師団で編成され、九九式双発軽爆撃機二型を装備しフィリピンの第四航空軍に配属された。

指揮官
陸軍大尉 岩本 益臣  操縦(陸士53期/福岡/28歳) 
陸軍中尉 園田 芳巳  操縦(陸士55期/佐賀/23歳) 
陸軍中尉 安藤 浩    操縦(陸士56期/京都/22歳) 
陸軍中尉 川島 孝    操縦(陸士56期/神奈川/22歳) 
陸軍曹長 田中 逸夫  操縦(福岡/26歳)先任下士官
陸軍軍曹 社本 忍    操縦(予備下士/愛知/25歳)
陸軍軍曹 石渡 俊行  操縦(予備下士/千葉/20歳)
陸軍軍曹 鵜沢 邦夫  操縦(予備下士/千葉/21歳)
陸軍軍曹 久保 昌昭  操縦(少飛/大分/20歳)
陸軍伍長 近藤 行雄  操縦(朝鮮/22歳)
陸軍伍長 奥原 英彦  操縦(予備下士/長野/22歳)
陸軍伍長 佐々木友次  操縦(予備下士/北海道/21歳)

通信係
陸軍少尉 中川 勝巳  通信(少侯/和歌山/30歳)
陸軍曹長 浜崎      通信
陸軍曹長 生田 留夫  通信(兵庫/)
陸軍曹長 出川      通信(出撃前に中川少尉と交代)
陸軍伍長 花田      通信

整備班
陸軍少尉 村崎 正則  整備班長(熊本/少侯24期)
陸軍曹長 藤本 春良  整備
陸軍伍長 林        整備
陸軍伍長 樋谷      整備
陸軍伍長 仁平      整備
陸軍伍長 古川      整備
陸軍伍長 川端      整備
軍属   柴田潤一郎   整備
軍属   野村富雄    整備
軍属   上野       整備
軍属   遠藤       整備
 
(以下、続く)

『陸軍特別攻撃隊』について

【特攻隊については毀誉褒貶いろいろありますが、とりあえず以下の文章を読んで下さい】  

 《フィリピンのレイテ湾では、すでに海軍の特攻隊が体当り攻撃を決行して戦果をあげていた。日本の陸海軍は、捷号作戦計画になかできめられていた、航空特攻作戦を開始した。
 だが、陸軍の万朶、富嶽の両特攻隊と海軍の神風特攻隊は、同じ体当り攻撃を目的としていても、その根本に大きな違いがあった。それは片方には、機首に起爆管が突出していたが、片方はそれがないことが、最もよくその違いをあらわしていた。つまり、万朶、富嶽両隊の飛行機は、体当り攻撃のために、とくに準備、改装したものであった。これに対し神風特攻隊は、第一線にある海軍機を、そのまま使った。
 また、使う目的も違っていた。陸軍の特攻機はアメリカ機動部隊を攻撃し、その空母や戦艦を撃沈破しようとした。そこに計算の誤りがあって、結果はそれが不可能であった。これに対し海軍の特攻隊は、アメリカ機動部隊の空母を目標にしたが、その飛行甲板を破壊しようとした。それによって、連合艦隊がレイテ湾に突入すまでの間、アメリカ空母の艦載機の行動を封じようとした。ところが護衛空母の弱い部分に体当りするなどして、撃沈させることができた。
 同じ捷号計画できめられたものの、陸軍の万朶、富嶽は、あらかじめ準備され、機体を改装し、部隊を編成した。海軍の神風特攻隊は、応急の処置であり、即決の出動であった。こうした根本の違いを見ないで、陸海軍の特攻隊を同様に考えるべきでない。
 しかし、海軍でも、特攻専用の特殊機を、この時期に計画、設計していた。その一つは、前にも記した『桜弾』で、大型機の一式陸攻機に、ロケット推進の小型機をつけ、目標上空に運んで切り離す方法であった。ロケット機には爆弾をつみ、操縦者1名が乗って操縦し、目標艦に体当りする。この特攻機は桜花と名付けられ、沖縄作戦に使われた。高度五、六千メートルの空中で母機から切り離され、マッチ箱の大きさに見える敵艦に向って落下していくのは、人間の感覚にたえられないような、いわば恐怖の拷問であった。
 このほか、戦争末期には、陸海軍で特攻専用の特殊機を作ったが、多くは試作に終った。審査部の竹下少佐[筆者注:竹下福寿]が試作特攻機の試験飛行をしていたが、そのなかには、離陸すると、車輪が機体から自動的に離れ落ちるように作ったキ-一一五特攻機があった。これは、一度離陸すれば、帰ってきて着陸することをさせないためであった。これを計画した陸軍航空本部は、そこまでしない限り、操縦者が体当りをしないと考えたのだろうか。これは、是が非でも、ただ操縦者を殺すことしか考えない狂気の計画であった。これほど非人道の兵器はない。
 準備され、改装された体当り機を使うことは、すべて残忍、非情であるといえる。万朶、富嶽の両隊は、実に、その最初のものであった。
 レイテ作戦の当初、性質の違う陸軍と海軍の特攻隊を同一のものとして報道、宣伝した。その後、特攻隊の出撃が多くなるとともに、その報道、宣伝も誇張され、美談化された。軍部にとっては、特攻作戦は苦しまぎれの最後の手段であった。だが、それが救国、必勝の策であると虚偽の宣伝をして、戦争継続に国民をかりたてた。
 その間に、作り上げられた特攻隊という概念が、国民の考えのなかに行わたり、定着した。そして、それが戦後も、そのままつづいていた。》
(「陸軍特別攻撃隊」高木俊朗 著より、一部、原文のまま引用)




隈部正美 少将(陸士30期):元第四航空軍参謀長。8月15日深夜、家族とともに拳銃で自決。

水谷栄三郎大佐(陸士34期):航空技術審査部。万朶隊、富嶽隊その他の体当たり攻撃隊の爆装計画の責任者。大本営の命令で体当たり攻撃機を作ったことに自責して8月15日深夜、拳銃で自決。


[筆者注:上記、個々の機体についての記述は多少の偏見がありますが、このような兵器というものを開発、使用するということがどのような事なのか、これを読んだ皆さん考えていただきたいと思います。そして、それを心に留めながら筆者の掲載する記事を読んで下さい]