飛行第七三戦隊 | 航空戦史雑想ノート【陸軍編】

飛行第七三戦隊

飛行第七三戦隊


【戦隊長】
 三隅 輝男 少佐 (航士51期)

【飛行隊長】
 梶原 広満 大尉 (航士54期)

【整備隊長】
 粟田 治郎 大尉 (54期)

【所属】
第二一飛行団
【飛行団長】
 吉岡 洋   中佐 (操23期・士37期)

 佐々木 光男准尉 (下士72期)
 佐藤 繁   曹長 (下士87期)


昭和19年5月16日付
明野陸軍飛行学校の担任により北伊勢(亀山)分教場で編成に着手。
操縦者は航士56期(のち57期)と特操が主体で、実戦経験者はほとんどいなく、戦力を発揮するまでには、相当の錬成が必要とみられた。
当初は機材が不足し、一式戦数機で訓練を開始した。

 

昭和19年7月頃
四式戦闘機「疾風」が到着しはじめ、操縦者もほぼ充足して七二戦隊とともに、第二一飛行団(長:吉岡 洋中佐)を構成した。

 

昭和19年8月
大正飛行場へ移駐。

 

昭和19年9月17日
編成を完結した時の保有機は、四式戦闘機「疾風」40機。

 

昭和19年10月
第一二飛行団の南方転用のあとを受けて、第二一飛行団が関東地区へ移駐することになったので、戦隊も飛行団司令部とともに所沢に移動、同地区の防空任務についた。

 

昭和19年11月1日
単機で偵察に飛来したF13偵察機(B29爆撃機の偵察機型)を迎撃したが、四式戦の高高度における上昇力が不足し、迎撃は不成功に終わった。

 

昭和19年11月21日付
第二一飛行団のフィリピン進出が発令された。

 

昭和19年11月24日
「関東地区B29爆撃機迎撃戦」
三隅戦隊長以下12機が出動したが戦果は無かった。

 

昭和19年12月4日
戦隊主力(約50機)は、李第1航空軍司令官を迎え、壮行式をあげ、七二戦隊と前後して所沢飛行場を出発したが、前進の途中に故障機が続出して、中隊ごとの区分前進となる。
台湾の台中飛行場で10余日整備と訓練を行う。

 

昭和19年12月16日
ルソン島マバラカット東飛行場に向かったが、2日前の七二戦隊の戦訓で進出途上の空戦に配慮して、搭乗員の荷物は機内に積まず、輸送機で別送することになった。しかし、またも故障機の続発で、到着したのは戦隊長以下9機にすぎず、翌17日、落伍した11機を末友吉高少尉(少候24期)が指揮して追及し、岡田公信中尉(航士56期)らの到着は22日となった。
また、整備隊主力は輸送機で逐次前進し、14日、九七式重爆撃機5機に分乗して台中を出発したが、クラーク着陸寸前に敵戦闘機に攻撃され、3機が墜落、粟田整備隊長以下の幹部を一挙に失った。

 

昭和19年12月17日
「ミンドロ島攻撃」
朝 七三戦隊[四式戦9機]が七二戦隊と合同で、ミンドロ攻撃隊の直掩に出動した会敵せず、帰還したが七三戦隊の篠田悌治軍曹機に搭乗して出撃した吉岡飛行団長は未帰還となった。
【21FB被害】
不明
【戦死者】
21FB 吉岡 洋  中佐  (操23期・士37期) *クラーク
72FR 若狭 繁夫 中尉 (操92期・士56期) *ミンドロ沖
72FR 佐藤 通  少尉  (特操1期)      *ミンドロ沖
72FR 刀根 四郎 伍長 (少飛13期)     *ミンドロ沖
73FR 篠田 悌治 軍曹

 

昭和19年12月18日
第二一飛行団は、四式戦約40機をクラーク基地群のバンバンとマバラカット東飛行場に集中した。

 

同日
「ミンドロ島サンホセ攻撃/特攻直掩」
ロッキードP38「ライトニング」双発戦闘機と交戦。
【73FR被害】
損失:四式戦2機
【戦死者】
73FR 白井 太喜男少尉 (航士57期)     *ミンドロ沖
73FR 太田代 安見軍曹 (少飛13期)     *ミンドロ沖

 

昭和19年12月20日
「ミンドロ島攻撃」
【21FB被害】
不明
【戦死者】
72FR 新谷 肇  少尉  (下士84期)     *ミンドロ沖
72FR 大西 孝  伍長  (少飛12期)     *ミンドロ沖
73FR 中原 春次 軍曹 (少飛10期)     *リパ 着陸事故

 

昭和19年12月22日
「ミンドロ島サンホセ沖艦船攻撃」
四式戦12機でP38/リパブリックP47「サンダーボルト」戦闘機群と交戦。
【73FR戦果】
不明
【個人戦果】
三隅 輝男 少佐(航士51期)     *撃墜・2機
梶原 広満 大尉(航士54期)     *撃墜・2機
【73FR被害】
不明
【戦死者】
73FR 田中 光一 中尉 (航士56期)     *ミンドロ沖
73FR 増住 弘之 少尉 (航士57期)     *ミンドロ沖

 

昭和19年12月24日
「クラーク地区迎撃」
レイテを発進した戦爆連合を迎撃。空戦は圧倒的多数の米側優勢に終わった。
【73FR被害】
不明
【戦死者】
73FR 神吉 吉弘 大尉 (航士55期)     *クラーク
73FR 松本 茂夫 少尉 (特操1期)      *クラーク

 

昭和19年12月25日
「クラーク地区迎撃」
【73FR被害】
不明
【戦死者】
73FR 富岡 喜久雄少尉 (特操1期)      *クラーク
73FR 中島 透  少尉  (特操1期)      *クラーク

 

昭和19年12月28日以降
可動機が少なくなったので、昼間はサンフェルナンド泊地の上空哨戒にあたり、夜間は少数機でサンホセ飛行場のタ弾攻撃を実施した。

 

昭和20年1月5日
第三〇戦闘飛行集団長の命令で、戦闘機隊は全機特攻作戦に移行した。
第一、一一、七一~七三、二〇〇戦隊の四式戦装備隊は混成で「精華隊」を編成し、1月12日まで、リンガエン湾に上陸した船団を目標に、2機ずつの編隊を組み(うち1機は戦果確認機)、250キロ爆弾2個を翼下に装備し出撃した。

 

同日
「ルソン西方海上特攻攻撃/直掩」
三隅戦隊長、梶原飛行隊長ら四式戦4機が出撃。グラマンF6F戦闘機と交戦。
【73FR被害】
損失:四式戦3機
【戦死者】3名
73FR 梶原 広満 大尉 (航士54期)     *ルソン西方
73FR 荒井 幸雄 伍長 (少飛13期)     *ルソン西方
ほか1名

 

昭和20年1月7日
「ルソン西方海上特攻攻撃/直掩」
四式戦2機が出撃。
【73FR被害】
損失・四式戦1機
【戦死者】1名
73FR 川原 安民 少尉 (航士57期)     *ルソン西方

 

昭和20年1月8日
「ルソン西方海上特攻攻撃/直掩」
三隅戦隊長以下四式戦4機が出撃。三隅戦隊長はグラマンF6F戦闘機1機撃墜後、行方不明となり、矢野 寛曹長(下士89期)のみ生還。
【73FR戦果】

【個人戦果】
三隅 輝男 少佐(航士51期)     *撃墜・グラマンF6F戦闘機 1機
【73FR被害】
損失・四式戦3機
【戦死者】3名
73FR 三隅 輝男 少佐 (航士51期)     *ルソン西方
   ほか2名

 

昭和20年1月10日
岡田中尉以下の生存操縦者6名と、2機の可動機はバンバンに移動して。津崎七二戦隊長の指揮下に入った。

 

昭和20年1月11日

 

昭和20年1月15日
【73FR被害】
【戦死者】
73FR 島本 準彦 少尉 (特操1期)      *ルソン島
73FR 五島 司   少尉 (特操1期)      *ルソン島


【フィリピン戦における個人撃墜】[筆者注:調査未完]
三隅 輝男 少佐(航士51期)*撃墜:3機[P38/47:2、F6F:1]
梶原 広満 大尉(航士54期)*撃墜:2機[P38/47]


*未完稿




【参考文献】

テーマ一覧「主要参考文献・資料」を参照下さい。 

 

筆者注:調査未完のため、今後、大幅に加筆・改訂を予定しております。 

 

初稿  2007-10-10