ムダもある。
先日、ぼーんやりテレビを眺めていました。
若者の生活保護受給についてのお話でした。
北海道では既に、生活保護受給額の方が最低賃金よりも上回っています。
これを逆転現象と言うのだそうです。
少し前、生活保護の不正受給について騒がれていましたが、
その賛否を問うことが、この記事の目的ではありません。
僕は、過去に精神疾患を起こしていた頃、
病院の勧めや、当時周りにいた人々の話をきいて、
障害基礎年金や、
生活保護の受給について考えざるを得ないころがありました。
でも、僕はその申請を結局はしませんでした。
それが正しいとか間違っているということではなく、
僕には「向いていない」と判断したからです。
「向いていない」とは、「似合わない」ということではなく、
はっきり言うと、メリットを感じることができなかったからです。
その当時の僕は。
それは、生きることそのものに「向いていない」と思っていたからかもしれません。
病気のせいで、そう思っていたとも言えますが、
若しくはこれを、つまらぬ見栄ともプライドとも言うのでしょう。
たしかに、生活も苦しいし、文字の一画を書くのにも、
半日かかったり、その日は諦めたりもしたし、
そのたび自分はダメだと責めたりもして、
更なる落ち込みを引き寄せることもありました。
なんせかんせ、薬も診察も必要ですから、
その部分は、自立支援という制度を受けました。
薬も一旦は増え、それなのに眠れぬ日々も続きます。
逆に疲れきって起き上がれない日々もやってきます。
当然生活の厳しさから、失うものも多々ありました。
自分がどんどんと落ちぶれてゆくような、
思い描いていた「大人像」からどんどん遠ざかっていくような。
そんな失望と恐怖が日を追うごとに強く迫ってきて、
それに押しつぶされそうな毎日を送っていたのは確かです。
よくこんな暮らしで書道家だなんて言えたもんだ。
そんな自分の存在が不思議でたまりませんでした。
たまに、人はそんな僕を見て知って、根性無しだとか、
なまけものだとか、自分に甘いからだ。
買いかぶってたみたいだわ。と酷評もされました。
僕の感じたメリットのなさとは、
僕自身の性根(しょうね)そのものが弱っていってしまうように思えたということです。
僕は、打たれ弱かった。
折れやすい心の持ち主でした。
それをどこかでわかっていて、
またそんな自分が気に入らなかった。
他人様の評価というものは、そのほとんどが厳しいのが常です。
でも・・・。
そんなものは、言わせておけばいい。
言いたくてたまらないのだし、その人だって、きっとそう言わずにはいられない、
僕とは全く関係のない暮らしの中で、何かが蓄積していて、
タイミングよくそいつをハラスことのできる相手が今、たまたま見つかったことで、
嬉しくてたまらないだけのことなのだ。
病と現実と向き合い戦えるのは、自分自身なのだ。
病も、克服も、そしてその先に描いている幸せも、
自分だけもの。
だから、それに耐えるのではなくて、
無神経になれるほどの「どうでもよさ」
というのを身につけたいな。
そう思い、少しづつ心を太らせてゆくまで三年ほどかかりました。
今でこそうつ病から寛解(かんかい)し、薬からも離れていますが、
実際のところは、今でも体のどこかで薬から離れた時の離脱、
乖離(かいり)感の重苦しいような、振り回されるような、
なんとも言えない気持ち悪さが瞬間的に襲ってくことがあります。
小さな小さなくすぶりが、ひょっとすると残っているのかもしれません。
それはその当時の記憶が深く深く心に突き刺さっていて、
その鋭利な刃先が、時折、
生傷を撫でかすめるような出来事があると、痛むのですよ。
でもね、きっとそこがひょっとすると、
ものづくりの際に使う、
「感性」と言う名のむき出しになった神経であるのかもしれないとも思うので、
忘れようとするのではなく、それも自分の大事なところとして、
パンツを履かせるように、大切にしまってあります。
だから見られると恥ずかしいし、普段は見せません。
さて、生活保護を受給しながら、必死に職をさがす若者、
そして相反して働こうとしない若者。
現実に支給されたお金を握りしめてパチンコ屋へ走る人もいる事実は、
僕もよくわかっています。
パチンコで大当たりを引きあて、
銀玉が「ジャー!!!」っと溢れてくるときの人間の脳の状態というのは、
性的なエクスタシーを獲得した状態と非常によく似ているのだそうです。
なかなか人間というのは、これらのエクスタシーを味わうと、
その快感を手放すことも、難しい。
これを超える快感というのが、
例えば平凡な暮らしであり、自立という生き方そのものであったとしても、
それを自分自身が、
自力で勝ち得た「幸せなのだ。」と受け止めることもまた難しいものです。
もっともっと、誰よりも豊かになるんだ!幸せになるんだ、誰よりも!
どこかでそう、自分を決め付けているのではないですかね?
誰よりもって、誰のことですか?
突き詰めるとそれは、自分が一緒にいたいと思う人よりも、
自分だけが豊かにも幸せにもなるということです。
その出処のわからない、根拠のない幸せ観が得てして、
孤独と不幸をジャンジャン生み出すということを付け加えておきましょう。
でもきっとそれは、あなたが作り出した価値観であるはずはないんですよね。
幸せ探しというのは、本当にめんどくさい行為です。
自分探しという言葉も、なんだか訳のわかんない言葉です。
そもそも、人間なんていう生き物は、めんどくさく出来ているし、
それ以上にめんどくさい宿題や課題が、
近頃では、下手したら一週間ごとにどんどんと増えていて、
置き去りにされる者、
脱落してゆく者が出てくるように工夫されているようにも思えます。
めんどくさいことが増えてゆくということは、
すなわち、お金がかかるようになっているということでもあります。
正確に言うと、置き去りにされないように、
脱落しないように生きることがいつの間にか本分となり、
その恐怖と誰もがいつも共にいるのかもしれませんね。
だから、しがみつかざるを得ない。
精神疾患を持つ患者も、うまくは生きてゆけない人々のことも、
一括りにいうと、「社会的弱者」といいます。
ただ、人間はそもそも弱い。
でも、弱いままだと、ずっと孤独を味わうことになる。
孤独になると、人の心がわからない。
そうなると、自分が何者なのかもわからない。
わからないことが多すぎると、失望が増えてゆく。
やがて、自分自身を見失う。
だから探しにゆく。
強くなれと言うのは簡単。
と、誰かが言っていたのですが、
その人は最後まで僕の話を聞いていなかったので、
また、同じような旅に出てしまっているかもしれませんが、
「誰よりも強くなれ。」
ということではありません。
風邪をひかないように。
お腹を空かさなように。
悩み事を増やさぬように。
そんなことのように、
「丈夫であれ。」
ということなんです。
すなわち、自分をいたわって欲しいということです。
これを、「だいじょうぶ。」と、言います。
そんななかで、自分に出来ることを自分の中に探して、見つけてゆきましょう。
そんな旅なのであれば、いつまで出ていても構わないと、僕は思います。
見つけた何かを、やがて心底やりたいことにできたならば、
それがあなたの「使命」なのですからね。
大切な友へ。