マジョリティとは多数派のこと

社会や人が歩む中で前に進むために培った技術
ともいえるのだろう。

みんなが選ぶ方が正解。。

でも、時代が進むにつれて
そこに疑問を投げかけられるようになった。

みんなって誰?
正解って何?

《みんな》とは
自分を隠す《カクレミノ》
結果、誰でもない


自分を《みんな》という存在にいれとけば
自分は否定されなくて済む。
その反面、自己肯定することが難しくなる。

何故なら
自分という存在を
《みんな》という誰でもないアバターに入れて
生きていくことになるからだ。

自分は誰でもない。
他人軸で生きる究極の存在かもしれない。

それは 楽 なんだろう。
だっていろんな場面で《みんな》という
アバターを取り替えて行けば生きられるんだから。


《自分》なんて必要ない。


自分を強く持ち生きることは、時に生きづらい。
THIS IS ME

多くの人が誰かを批判したり否定することで
自分の存在を肯定してきた。

自分の世界が正義だと言わんばかり。
それだけ自分というものは他者に依存している


生身の自分で勝負していくことは時に抵抗が生まれ生きていくのが大変になる。
しかし、
だからこそ、その先に自分があり自己肯定が
生まれ、幸せを感じ取ることができる。



それを踏まえて


《社会》とは誰でもない《みんな》の集まりから成り立っている。誰でもないアバターの集まりがマジョリティを構成して社会が作られていく。


社会の中に《自分》はいるか?



ある時は
《みんな》が言ってると正論を振りかざす。

ある時は
《みんな》が悪いと自分が何もしないことを正当化する。

ある時は
社会が悪い。
マイノリティ(少数派)が生きられないと自分を差し置いてマジョリティを批判する。


《自分》はどーなん?


欅坂46の歌が心に響く。

こう叫べるか?


何故これを感じたのか書きます。

《みんな・社会》がって言葉を使ってもいい。
でも、
それを使う時の《自分》を差置かないで欲しい。

社会には問題しかないよ。
だって《みんな》って言う人が集まってるだけで
誰でもないんだから。

でもね
社会のせいにしたっていい。
みんなのせいにしたっていい。

ただその時
《自分》はその一部になってないか?

批判や問題あるとするなら
《みんな》じゃなく《自分》にその種がある。



みんなや社会が変わらないのは
《自分》が変わらないからだよ。

だって
みんなや社会なんてものは

自分の世界が
現実に見えてるだけだから。

変えたい未来があるなら
変わらない自分を変えよう。

変えたい社会があるなら
変わらない自分を変えよう。


ながーい独り言でした。