コナミの,工画堂スタジオのに続き,システムソフト,DQ10 RMT?アルファーのまでが世に受け入れられてしまった以上,紹介せざるをえない本が,斎藤 環氏の『戦闘美少女の精神分析』だ。フロイト/ラカン流の精神分析手法を用い,アメリカのアウトサイダーアーティストであるヘンリー?ダーガーの人となりおよび作品を介しつつ,日本製アニメに溢れ返る「戦闘する美少女」の正体を解明するのが,この本の狙いである。 せっかくの高度な思惟と,個々の作品に対する考察過程を一気にすっ飛ばしていうと,精神分析において全能の存在を示す「ファリック?マザー」(男性器を備えた母親のイメージ)ならぬ「ファリック?ガール」= 戦闘美少女達は,メディア空間で内実を欠いた戦闘を繰り広げる,男性器そのものなのだという。そしてそれを生み出し,享受する感性は,思春期特有の心象におけるさまざまな性的倒錯のイメージなのだが,そもそもオタクとは,意識的に乖離した「性」を生きる人達のことであって,そうした作品達/少女達を突き放して楽しめるのだとか。 オタクの感性が性において乖離している以上,アニメやゲームで示す嗜好と,現実の性的嗜好が一致しているはずもない。これはつまり“オタクメディア”の外見から,その愛好者をただちにペドフィリア(小児性愛者)と決めつけてよいわけではない,ということだ。実際そうした,あまりにも俗流の批判に対して,オタクに近い立場の人ほどあきれたという風なコメントを返すのは,読者諸子もどこかで耳にしているだろうし,アニメの美少女を愛好するオタクの大半は,普通に同世代の異性と交際(を欲)しているのである。いや,その人が現実にモテているかどうかまでは関知しないが。 また,それが思春期の心象に根ざすとはいえ,オタクに「大人になれ」という教訓を垂れるのも,同じ理由から意味がないわけだ。オタクに対する俗流批判が一向に“効を奏”さず,世の中がライトなオタク的感性に覆われていく現状を説明するのに,この意識的な「乖離」は,重要なキーワードである気がする。 一方で,「ファリック?ガール」=男性器という立論のほうはどうか。男性器の付いた幼女「ヴィヴィアン?ガールズ」が主人公の,ヘンリー?ダーガーによる特異な作品群の解釈,そしてメディア空間に対する考察のすえに著者がたどり着いた結論であり,現代美術家 村上 隆氏の作品にも通ずる論点であるとはいえ,正直分かりづらいと思う。 そもそも多形倒錯なんだから,もしかしたらそれもアリなのかもしれないが,どうも斎藤氏は精神分析畑ゆえにか,ファリック?マザーとファリック?ガールの相違にこだわって,いたずらに話を難しくしてしまっているようにも思える。 もともと少女ヒロインの多いアニメ表現に,ご都合主義でファリック?マザーが取り入れられたという解釈ではダメなのだろうか? マッチョな男女(おとこおんな。これが西洋における戦う女性像の主流である)でなく,むしろ可愛い女の子が,頼りない男の子(もちろんこれが,大半の視聴者の立ち位置だ)を,rmt,男性器を象徴する武器/防具を帯して守ってくれる……。そうした,徹頭徹尾ご都合主義的な解釈のほうが,少なくとも私には分かりやすい。 それぞれの当否はともかく,これ以上ないほど明確にオタク的感性を載せて羽ばたく戦闘美少女がPCゲーム界に降臨し,くだんのヘンリー?ダーガーがドキュメンタリー映画になろうといういま,オタクとセクシュアリティをめぐる議論にさまざまな論点を提供した本書を,押さえておくことは有意義な気がする。オタクが,セクシュアリティの側面で特異な人なのか,ありふれた人なのかは,世代論もあって決着を見ていない問題の一つである。おそらくはオタクという類型化の妥当性にまで掘り下げられるであろうこの議論を追うなら,本書は間違いなく,その出発点となるのだ。
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