今回は、天武天皇と徳川家康の生涯の類似性について、お話したいと思います。

標題にありますように、天武天皇と徳川家康は、両者とも悪神(悪魔)とその手先である悪神(悪魔)崇拝者たちと戦い、日本を日本人による平和的統治に導いた偉人であったと、私は考えています。
以下、出来るだけ簡潔にお話ししたいと思います。


【悪神(悪魔)による支配の時代】
日本の歴史において、縄文時代が終わった後、現在までの約2000年間、悪神(悪魔)が日本を完全支配しようと、日本への侵略の度合いを非常に強めていました。
その流れが、今から2~3年前頃に頂点に達し、日本はほぼ完全に悪神(悪魔)によって支配され、日本は消滅の危機に瀕していました。
ところが、その危機的状況は、昨年から急速に変わり始め、依然として予断は許さないものの、現在、悪神(悪魔)側の支配力は非常に弱まってきているように思われます。

今は、少しでも多くの日本人が、悪神(悪魔)に支配されてきたことを自覚し、現状を正しく認識することで、悪神(悪魔)の支配から脱却できる段階に来ているのではないでしょうか?
悪神(悪魔)の敗北が決定的になってきた今、悪神(悪魔)と悪神(悪魔)崇拝者たちが最も恐れているのは、以下のことではないかと思います。
・日本人が、悪神(悪魔)と悪神(悪魔)崇拝者たちの存在を、正しく認識する
・日本人が、悪神(悪魔)側にかけられていた呪縛(洗脳)を知り、呪縛から自らを解き放つ

これらのことを日本人の多くの人々に実行されてしまうと、もはや悪神(悪魔)側は完全敗北してしまい、細々と存続することすら出来なくなってしまいます。そのことを、悪神(悪魔)崇拝者たちは非常に恐れていると思います。
例えば、日本の悪神側は、天皇制だけは何とか維持したいと考えているのではないでしょうか。

日本人の覚醒を祈念しつつ、以下、本文を書き進めます。


【天武天皇と徳川家康の共通点】
天武天皇は徳川家康ほど広く知られた存在ではありませんが、徳川家康と同様に日本人にとって、とても重要で、忘るベからざる偉人であったと、私は考えています。
天武天皇は672年の「壬申の乱」と呼ばれる「戦い」で、悪神(悪魔)崇拝者たちとの戦いに勝利し、日本を悪神(悪魔)の支配から救いました。

同様に徳川家康は1600年の「関ヶ原の戦い」に勝利することで悪神(悪魔)崇拝者たちに永きに渡り支配されてきた日本を解放し、日本人による統治の世の中を実現しました。

以上のような悪神(悪魔)との戦いという観点で、歴史が顧みられることが無かったのは、悪神(悪魔)崇拝者たちによって、これらの歴史的背景が隠蔽されてきたからです。

以下に天武天皇と徳川家康の共通点を箇条書きします。
1.幼い頃、悪神(悪魔)側の近くで育ち、妻を悪神(悪魔)側から与えられた
2.悪神(悪魔)側から認められる存在であり、悪神(悪魔)側から害されることは無かった
3.悪神(悪魔)側との決戦の重要な場所として、関ヶ原で戦った
4.悪神(悪魔)側との戦いに勝利し、日本を日本人による平和的統治に導いた
5.富士山と日の出・日の入りの位置関係から神聖な場所を設定し神を祀った。天武天皇は伊勢神宮、徳川家康は江戸城を神聖な場所として設定した


【天武天皇と徳川家康の相違点】
以下に天武天皇と徳川家康の相違点を箇条書きします。
1.天武天皇は妻に毒殺されてしまったが、徳川家康は妻を殺害した
2.天武天皇は、日本を日本人による平和的な統治国家として永く存続させることが出来なかったが、徳川家康は260年もの永きに渡り、日本を日本人による平和的な統治国家として永く継続させることに成功した。


【天武天皇と徳川家康の共通点から考察】
結論から申し上げますと、徳川家康は天武天皇の生まれ変わりではないかと、私は推測しています。
とは言うものの、私は霊能者やスピチュアリストではありませんので、単に歴史的事実から、そのように推測しているだけのお話しです。一種のファンタジーとしてお聞き頂ければと思います。

[天武天皇と徳川家康は、妻を悪神(悪魔)側から与えられた]
天武天皇の妻と徳川家康の妻は、伴に悪神(悪魔)側の「仕込み」であったと私は考えています。つまり、悪神(悪魔)側は、天武天皇と徳川家康が、神の側の有能な人物であることを察知した上で、悪神(悪魔)側の手先として、それぞれの妻を送り込んだと、私は考えています。

天武天皇の妻は、私の以前のブログ「12話 天武天皇編」でお話ししましたように、実兄の中大兄皇子の娘では無く、悪神(悪魔)崇拝者である百済王族の「豊璋」の娘を妻としています。後の持統天皇です。

一方、徳川家康の妻となった築山殿は、今川義元の姪でした。今川義元は足利家の流れを汲んでいます。足利家と言えば、将軍家です。
将軍家は、基本的に藤原系や天皇系の妻を娶っていたようです。また、場合によっては藤原氏や天皇家に家系を乗っ取られました。今川義元の母も藤原北家の出でした。要するに、将軍家は悪神(悪魔)側の家系に、いつの間にかすり替えられてしまっていたのです。
下の絵は築山殿の肖像画です。如何にも公家の女性のように見えます。

 

[天武天皇と徳川家康は、悪神(悪魔)側と関ヶ原で戦った]
天武天皇は悪神(悪魔)側との戦いに、鮮やかに勝利しましたが、その際に、関ヶ原で悪神(悪魔)側の軍勢と対峙しました。
結局、関ヶ原での最終決戦には至りませんでしたが、天武天皇はいずれ、関ヶ原で決戦を行うのを知っていたかの如く、入念に関ヶ原で軍事訓練を行っていたようです。また天武天皇は、徳川家康の「関ヶ原の戦い」と同じような陣形を組み、悪神(悪魔)側の軍勢と対峙いたようです。

1600年に徳川家康が「関ヶ原の戦い」で勝利し、天下を治めたことは広く知られています。
しかし「関ヶ原の戦い」のとき、日本侵略を虎視眈々と狙っていた悪魔側のイエズス会関係の軍事顧問が、西軍についており、助言や援助を行っていたことは余り知られていません。
イエズス会の悪魔崇拝者たちは、「関ヶ原の戦い」での徳川家康の壮絶な戦い振りを目の当たりにし、当面の日本侵略を諦めたそうです。
また、この時の「関ヶ原の戦い」の徳川家康の陣形は、天武天皇がかつて、関ヶ原で布陣していた陣形とほぼ同じだったようです。
これらの類似点は、単なる偶然でしょうか?まるで天武天皇のときに予行演習していたかのように、私には感じられます

[富士山と日の出・日の入りの位置関係から神聖な場所を設定し神を祀る]
天武天皇と徳川家康は、同じような作法で神聖な場所を設定し、神を祀りました。祀った神様は国之常立神(くにのとこたちのかみ)と推定されます。

夏至の日に富士山の背後から日が昇るように見える位置に、伊勢神宮の内宮の場所を設定しています。下図の写真のように見えるイメージです。

私の以前のブログ「16話 伊勢神宮の秘密」に、詳細を記してあります。

徳川家康も同じような位置関係で、江戸城内に国之常立神(くにのとこたちのかみ)をお祀りしたものと、私は考えています。
下図をご覧ください。江戸城(皇居)内に富士見櫓があります。

 

下の写真は富士見櫓です。

旧暦のお正月、富士見櫓からは、富士山の背後に日が沈むのが見えます。その様な位置に正確に富士見櫓が建てられています。
天武天皇の伊勢神宮において、神様をお祀りする作法と同様です。

私の以前のブログ「16話 伊勢神宮の秘密」で、世界最高の超能力者とされたベラ・コチェフスカさんをご紹介しました。そのベラ・コチェフスカさんの以下の発言から、伊勢神宮と江戸城には、国之常立神(くにのとこたちのかみ)が祀られていると、私は推定しています。

ベラ・コチェフスカさんの発言
「富士山は聖なる山。富士山は、日本だけで無く、世界中の神々を支える背骨のようなもの。日本は特別な聖地で、そのなかでも富士山はヘソのような役割を果たしている。
宇宙からのエネルギーが富士山に降り注ぎ、地下で二つに分かれ、皇居と伊勢に流れているのが見える。」

天武天皇の死後(686年)、伊勢神宮の本当のご祭神や、神様をお祀りする作法などは、藤原不比等により隠蔽されてしまい、後世には伝わりませんでした。
それなのに何故、徳川家康は、天武天皇と同じように神様を正式にお祀りできたのでしょうか?
やはり、徳川家康が天武天皇の生まれ変わりだから、誰に教えられるでも無く、自然と神様をお祀りする作法が解っていたのではないかと、私は推測しています。

【天武天皇と徳川家康の相違点から考察】
天武天皇は、日本を日本人による平和的な統治国家として永く存続させることが出来ませんでした。
一方の徳川家康は260年もの永きに渡り、日本を日本人による平和的な統治国家として永く継続させることに成功しました。

上記の原因、天武天皇が、日本を永く平和的な統治国家とすることが出来なかったのは、天武天皇の妻である持統天皇の存在があったからだと、私は考えています。
天武天皇は、悪神(悪魔)側との戦いに、鮮やかに勝利し、悪神(悪魔)崇拝者を排除する事に成功しました。その流れのまま行けば、日本は永く平和的な統治国家として存続したことでしょう。
しかし、妻である持統天皇に毒殺され、天武天皇の志は潰えてしまいました。
私は何度考え直しても、持統天皇が最凶のカードであったと思わざるを得ません。
この辺の詳しい経緯は、私のブログ「18話 国史編纂編」を参照ください。

以上の点から考えると、徳川家康が妻を殺害したのは、「関ヶ原の戦い」の勝利後、日本を日本人による平和的な統治国家として永く継続させるため、やむを得ずしたことだったのではないでしょうか。
築山御前は、悪神(悪魔)側の「仕込み」であり、徳川家康はそれを知っていたのでは無いかと思います。
近年、徳川家康が妻と子を殺害したのは、織田信長に命じられたような体裁ををとったものの、実際は徳川家康の決断であったとする見方が有力となっています。
徳川家康が天武天皇の生まれ変わりだったからと考えれば、あり得る決断だったのではないでしょうか。

【徳川家康が実現した平和的な統治国家】
天武天皇の死後(686年)、百済王族が藤原氏、天皇家として、日本を支配するようになりました。
奈良時代に、富と権力の集中化が進み、百済王族である藤原氏と天皇家が栄華を極めます。悪神(悪魔)側の支配する世の中は、いつの世も支配層による富の収奪と富の集中化が起こり、被支配層には貧困化と抑圧がもたらされます。

平安時代になるころには、貧富の差が著しくなると伴に、治安は極度に悪化し、盗賊が横行するようになります。また、疫病や飢饉などが発生すると、京の街中ですら死者がそのまま放置されるような状況となります。

鎌倉時代(1185年)になるころから、武士が台頭してきます。源頼朝は天皇家から征夷大将軍に任じられる形をとり、実質的な政権運営を担うのですが、これらの幕府は、藤原氏や天皇家の謀略により内部から浸食されたり、乗っ取られたりします。
結局、悪神(悪魔)側の支配する世の中が完全に終わることはなく、日本に住む大半の人々の悲惨な生活はなかなか改善されませんでした。

このような状況のなか、日本に住む人々が、争いの無い、平和で安泰な暮らしの出来る世の中にしようと、江戸幕府を創立したのが徳川家康だったと、私は考えています。
下の肖像画が徳川家康です。縄文系の顔のように見えます。

 

[江戸の治安]
徳川家康が1603年に江戸幕府を創設し、江戸時代が始まります。
江戸時代は、全国的に非常に治安の良い平和な時代となり、それが長く続きました。その治安の良さを表しているのが、江戸の警察である「同心」や「お岡っ引き」の人数の少なさです。
1786年の調査で、江戸の人口は約137万人でした。この当時、南北の町奉行所の同心は、合わせて12名でした。「同心」一人につき「岡っ引き」が5名、その「岡っ引き」一人につき「下っ引き」が5名いました。
「同心」12名、「岡っ引き」60名、「下っ引き」300名の合計、372名で人口約137万人の江戸の治安は維持されていました。しかも、「同心」は専業でしたが、「岡っ引」、「下っ引き」は専業ではありません。
このように少ない人数の警察で、江戸の治安が極めて良かったのは、江戸の町民の道徳心が高かったからだとされています。

江戸時代は封建制度の時代であったとか、農民が搾取され、盗賊の横行する暗い時代であったかのような印象づけがなされる傾向があります。しかし、実際は平和で庶民の文化が発展した心豊かな時代でした。
明治維新以降、再び日本を闇国家に戻した、悪神(悪魔)崇拝者の百済王族が牛耳る日本政府にとって、江戸時代のような平和で、庶民が心豊かに暮らせる時代があってはならないのです。
江戸時代の素晴らしさは、日本政府によって隠蔽されています。

[江戸時代、お伊勢参りのおかげ犬シロ]
江戸時代に、お伊勢参りの出来ない飼い主の代わりに、シロという犬がたった一匹でお伊勢参りをしたという話が実際にあったそうです。
そのお話しをpapiponさんが、「驚きの「おかげ犬」シロの伊勢参り」というブログ記地に楽しいお話しとしてまとめられています。

人々の厚意により、無事お伊勢参りを済ませて帰ってきたシロの首には、行く時に首から下げた銭よりも多い銭が下げられていたそうです。
道中で出会った人々が、感心な犬だと、お金を巻き付けけてくれたということです。なんとも心温まるお話しです。
いまの私たちは、ここ150年以上もの間、悪神(悪魔)に支配されてきたため、心の余裕を失いがちです。しかし、再び「おかげ犬のシロ」のような話が日常的なことになるのはそう遠いことではないかも知れません。