大化改新後の政争において、大化五年(649)、左大臣蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかはまろは讒言によって殺された。石川麻呂の娘、みやつこひめは中大兄に嫁いでいて、父親の後を追って自殺している。彼女は名前がいろいろと変わっていて、ちのいらつめ美濃津みのつこのいらつめとも記されている(注1)。造媛が父親の石川麻呂が斬首にされたことを聞いて、刀を使って実行した人物の名が「塩」といったために salt のシホという言葉を聞くのも嫌がった。

 皇太子ひつぎのみこみめがの造媛みやつこひめかぞ大臣おほおみしほの為に斬らると聞きて、心をやぶりて痛みあつかふ。塩の名聞くことをにくむ。所以このゆゑに、造媛に近くつかへまつる者、塩の名はむことをみて、改めて堅塩きたしと曰ふ。造媛、遂に心を傷るに因りて、死ぬるに致りぬ。皇太子、造媛徂逝ぬと聞きて、愴然傷怛いたみて、哀泣かなしぶること極めてにへさなり。是に、野中のなかの川原かはらのふびとみつ、進みて歌を奉る。うたよみして曰はく、
 山川やまがはに 鴛鴦をし二つ居て たぐひよく たぐへる妹を たれにけむ 〈其一それひとつ〉(紀113)
 本毎もとごとに 花は咲けども なにとかも うつくし妹が また咲きぬ 〈其二それふたつ〉(紀114)
皇太子、慨然頽歎なげ褒美めて曰はく、「善きかな、悲しきかな」といふ。乃ち御琴を授けて唱はしむ。絹むら・布二十はたむら・綿ふたかます賜ふ。(孝徳紀大化五年三月是月)

 造媛の近侍の者たちは、奥方に気を使ってシホと言わずにキタシと言ったという話である。新編全集本日本書紀に、「父を殺した人の名が「塩〈しほ〉」なので、娘造媛は「塩」という言葉を忌み、「堅塩〈きたし〉」といったというのである。キタシはキタシ(堅)シホ(塩)の縮約。キタシとカタシは音通。「堅塩〈きたし・かたしほ〉」は、塩のにがりを除くために土堝に入れて焼き、固い塊となるので「堅塩」という。」(178頁)とする。

堅塩焼き資料(鳥羽市立海の博物館展示品)
 注釈として間違ってはいない(注2)が、思慮の浅い解説である。その程度のことをわざわざ後世に伝えようとするほど、無文字時代の上代人の言語能力は低くない。言葉としてずっと込み入った事情を伝えているものと思われる。第一に、忌む言葉として有名な斎宮忌詞に関係する点があげられる。斎宮忌詞(注3)に「涙」を「塩垂しほたれ」と言っている。延喜式に載る斎宮忌詞がいつからあるかはわからないが、上の記事に、「涙」を流す→……→「塩」というつながりで記されているように感じられる。「傷心痛惋、悪塩名」という記述は、「塩」という名を聞くことはそもそもが斎宮忌詞にいう塩垂、涙を流すことを連想させるのに、さらに輪にかけて、物部二田造塩という名の人に父親が首斬られたのだから、悲しみが倍増している。造媛自身、困ったことに自分の名はミヤツコである。物部二田造塩にあってはミヤツコはかばねに当たり、悪い奴と同じ名を負っている。なぜ姓が同じぐらいで深刻になるかと言えば、カバネとはシカバネともいうように、亡骸、骨の意だからである(注4)。父親が亡くなっていて、屍の骨がおもちゃにされてしまった。物部二田造塩については人斬り以蔵的なイメージがある。大化五年三月二十六日の出来事は、造媛にとって痛ましく辛かった。

 庚午[二十六日]に、山田大臣やまだのおほおみ妻子めこ及び随身者ともびと、自らわなきてみうする者おほし。穂積臣ほづみのおみくひ、大臣の伴党ともがら田口臣筑たぐちのおみつく等をかすあつめて、くびかししりへでにしばれり。是のゆふべに、木臣きのおみ麻呂まろ我臣がのおみむか・穂積臣嚙、いくさひきゐて寺をかくむ。物部もののべの二田ふつたのみやつこしほして、大臣のくびを斬らしむ。是に、二田塩、仍ち大刀たちを抜きて、其のししを刺し挙げて、叱咤たけ啼叫さけびて、いまし斬りつ。(孝徳紀大化五年三月)

 とんでもない話を聞かされてしまった。父親、家族、召使一家、首を括って自害している。それだけではない。当初、審問官であった穂積臣嚙は凶暴な物部二田造塩を喚び寄せている。息絶えている父親の遺体をたてて(注5)、大声をあげながら首を斬り落とした。それが律にいう斬首の刑(注6)に当たり、はじめての斬として公然と執り行われている。「叱咤啼叫」だから「咄嗟やあ」とでも言って大刀を揮っている。自分の夫が実家の父親を殺させている。指図したわけでなくても不作為にしてそうなっている。自決しているのにさらに死者に鞭打つどころか首を斬り落とさせている。自分の夫である中大兄は、乙巳の変の時に蘇我入鹿を殺させるために掛け声を発していた。「中大兄なかのおほえ子麻呂等こまろらの、入鹿いるかいきほひおそりて、便旋めぐらひて進まざるを見てのたまはく、『咄嗟やあ』とのたまふ。」(皇極紀四年六月)。心を持つまともな人にとっては耐えられることではなかった。造媛は気が狂って父親の後を追ったのではなく、まともだから生き続けることができなかった。
 この「造媛」という人は、蘇我倉山田石川麻呂の娘であるが、そのうちの二番目の子であろう。最初に登場するのは、中大兄に嫁ぐときのことである。今回、皇太子中大兄に讒言して蘇我倉山田石川麻呂を殺すように仕向けた首謀者、蘇我日向、あざなざしという人物は、そのときにも登場している。中大兄は蘇我蝦夷・入鹿のいわゆる蘇我本宗家に対するため、蘇我氏の別流の倉山田石川麻呂の長女を嫁に迎えたらいいのではないかと中臣鎌足の提案を受けて政略結婚が取り決められた。ところがその「長女」は蘇我日向(身狭)に誘拐された。ピンチヒッターに「少女」が立っている。それが造媛、親孝行な娘である。話として、二回とも蘇我日向(身刺)は、中大兄と蘇我倉山田石川麻呂との間の関係を壊す役柄となっている。

 是に、中臣鎌子連なかとみのかまこのむらじはかりてまをさく、「大きなる事を謀るには、たすけ有るにはかず。ふ、蘇我倉山田麻呂の長女えひめめしいれて妃として、婚姻むこしうとむつびを成さむ。しかうして後にべ説きて、ともに事を計らむをおもふ。いたはりを成すみちこれより近きは莫し」とまをす。中大兄、聞きて大きに悦びたまふ。つばひらかはかれるに従ひたまふ。中臣鎌子連、即ち自ら往きてなかだかため訖りぬ。しかるに長女、ちぎりしやからぬすまれぬ。〈族は狭臣さのおみと謂ふ。〉是に由りて、倉山田臣、憂へかしこまり、仰ぎ臥して所為せむすべを知らず。少女おとひめ、父の憂ふる色をあやしびて、きて問ひて曰はく、「憂へ悔ゆることぞ」といふ。父其のゆゑぶ。少女曰はく、「願はくはな憂へたまひそ。おのれを以て奉進たてまつりたまふとも、亦復またおそからじ」といふ。父、便ち大きに悦びて、遂に其のむすめたてまつる。つかへまつるに赤心きよきこころを以てして、更に忌むること無し。(皇極紀三年正月)

 結局、倉山田石川麻呂の「少女」の方が自ら進んで中大兄に嫁いでいる訳であるが、彼女の名前をきちんと記した報告書としては天智紀の皇統譜によるしかない。

 二月の丙辰の朔戊寅に、古人大兄皇ふるひとのおほえのみみむすめ倭姫王やまとのひめおほきみを立てて皇后きさきとす。遂によはしらみめめしいる。蘇我山田石川麻呂大臣の女有り、遠智娘をちのいらつめと曰ふ。〈或本あるふみに云はく、美濃津みのつこのいらつめといふ。〉ひとりひこみこふたりひめみこを生めり。其の一を大田おほたの皇女ひめみこまをす。其の二を野皇女ののひめみこと曰す。天下あめのしたしらしむるにいたりて、飛鳥あすかの浄御原宮きよみはらのみやします。後に宮を藤原に移す。其のみたりたけるの皇子みこと曰す。おふしにしてまこととふこと能はず。〈或本に云はく、遠智娘、一の男・二の女を生めり。其の一を建皇子と曰す。其の二を大田皇女と曰す。其の三を鸕野皇女と曰すといふ。或本に云はく、蘇我山田麻呂大臣の女をぬのいらつめと曰ふ。大田皇女と娑羅羅さららの皇女ひめみことを生めりといふ。〉次に遠智娘のいろど有り、めひのいらつめと曰ふ。御名みな部皇女べのひめみこ陪皇女へのひめみことを生めり。阿陪皇女、天下をしらしむるにいたりて、藤原宮にします。後に都を乃楽ならに移す。〈或本に云はく、姪娘をなづけてさくらゐのいらつめと曰ふといふ。〉……(天智紀七年二月)

 嬪四人のうちの二人が石川麻呂の娘である。「遠智娘(美濃津子娘、芽淳娘)」と「姪娘(桜井娘)」である。一般的には、「美濃津子娘」は「三野津子娘」などと記されていたのを誤って写したもので、「造媛」のミヤツコがミノツコとなっていると考えられている。ミヤツコを「三野津子」などと表記したのが誤読されてミノツコに変じたという。筆者は、単なる誤写ではなく、意図的、作為的な改変ではないかと考える。彼女は、自分の父親を斬首した物部もののべの二田ふたたのみやつこしほが許せない。しほにまみれて喜んでいた奴が死んでも許せないと感じていた。きっと物部二田造塩は、血潮のことを斎宮忌詞流に、いい仕事をして「汗」をかいたと笑っていたのだろう。だからこそ、シホという言葉は侍者に忌み言葉として扱われている。後を追って死んでしまった造媛を、名前を同じミヤツコ(ヒメ)と呼んでいてはかわいそうである。浮かばれないではないか。名前を変えてあげよう。ミヤツコヒメ→ミノツコヒメ(ミ・ノ・コはともに甲類)である(注7)
 「三野津子」などと記したことによって生じた訓から生じたことを否定するつもりはないが、それだけの理由で積極的に名前を変えることは上代の言霊信仰下において疑問である。大化改新前の騒動の時、「赤心」(注8)を抱いて自らをいわば犠牲にして政略結婚に応じて中大兄に嫁いだのは、嬪の筆頭にあげられている「遠智娘」で間違いない。誠なる性根だからこそ父親の死にショックを受けて後を追っている。
 「遠智娘」という名がいつからあったかはわからない。女の子が何人もいて、最初の子は「長女」で、二番目の子の呼び名である。年下の子はオト(弟・娣)である。さらに三番目の子が登場してしまったので、二番目のオトを叔、オトヲヂ(叔父、伯父に対する語)と捉え直して三番目をそれに対するメヒ(姪)として定めた。すると二番目の娘は女の子だからヲヂではなくてそれに近いものとしてヲチとして落ち着かせたと推定することができる(注9)
 最初の婚姻の個所では、「長女」対「少女」という並びであった。名前などどうでもいい扱いと思われていた。より正確にいえば、呼ばれるもの、それが名前であって、どう呼ばれたかが問題なのである。結果的に、ヲチ(ノイラツメ)と呼ばれている。ヲチといえば、遠いところのヲチ(彼方)の意があり、彼岸へ逝ってしまった人であり、以後のことを示すヲチ(遠)の意がある。結婚騒動で善後策をとってくれた人であるし、元に戻って若々しくあることをいうヲチ(復若)の意があり、若い良い人を亡くしたのでそう呼んで悼んだものと思われる。つまり、死後に授けられたいみなである。忌み名の意である。近侍者はシホ(塩)をキタシ(堅塩)という忌み名で呼ぼうと取り決めていた。天皇でもないのに諱で呼ばれ、「遠智娘」という名で呼ばれることとは忌み名の人という意味である。最初に「少女」として登場した時も、「奉以赤心、更無忌。」とある。厭うことなく寛容であった。日本書紀編纂者の通念として、彼女は「忌」の人、くだけて言えば恨みっこなしの人と認識されている。最終的に、恨みっこなしにはできない事態に遭遇し、看過できずに自らこの世から出て行くこととなった。自己循環的に、名前がそのものとしてから名づけられている。上代の言語論理の特徴に合致していて正しいと知れる。言葉に依って立つ意味をそれ自体に含めてしまう二重化が起こっている。
 ミヤツコはミ(御)+ヤツコ(奴)の約とされる。ミノツコはミ(御)+ノ(野)+ツ〈助詞〉+コ(子)、つまり、野辺送りのノ(野)の意味合い、墓守の奴の意へと転化可能である。そしてまた、後追い自殺した人の名とするのにも相当である。それも、彼女の人生の節目の原因をことごとく作った人物、蘇我日向、あざなを身刺(身狭)という人物が、ヒムカ(日向)、ムザシ(武蔵)という国の名を負っていることに対抗して、ミノ(美濃)という国の名を当てたということだろう。追号されて美濃守を賜っているのに相当する。遠国の日向国や武蔵国ではなく、ずっと都に近い美濃国を与えられている。日向の方、つまり、蘇我日向は左遷されている。「即ち日向臣ひむかのおみ筑紫つくしの大宰帥おほみこともちのかみす。世人ひとかたりて曰はく、『これ隠流しのびながしか』といふ。」(孝徳紀大化五年三月是月)(注10)。大宰府は筑紫国にあり、古くは日向も筑紫国の一部であった。神代紀第九段一書第一に「筑紫の日向の高千穂の槵触くしふるたけ」とある。
 では、なぜ、美濃国が選ばれたか。ミヤツコを「三野津子」などと記されたのが契機となって、「三野」は美濃国の字に用いていた(注11)からそういう流れからそうなったことに違いはない。ただし、それを積極的に支持する上代人の思想がありそうである。野というのは、武蔵野というように台地のことである。それが三つあるのが「三野」である。三つ野があるとは、川が流れて間を区切っていることをいう。河岸段丘になっている。すると、川の流れは字形としてY字、または、人字である。造媛は無実の父親の死に殉ずるに準じた形になっている。漢字の国の儒教道徳に照らしてまことあっぱれな「人」であると認められる(注12)。万葉集でも、「人」という言葉は立派な人のことを指して使われることがある。

 …… あれきて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば …… (万892)

 つまり、ミヤツコという名を表記するに当たり、書記者は意図して「三野津子」というように記してミノツコへと改変しようとしたものと考えられる。

三野と人の関係地図
 実際の美濃国については、古代から紙が特産品として知られていた。美濃紙である。延喜式・内蔵寮式に、「年料に造るところの色紙四千六百張……毎年図書の長上一人を差し、美濃国に遣はして造らしめよ。」とある。古代の紙の需要に一番多かったのは経の書写である。蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いで追討されたのは山田寺である。経の書写には色染めした紙が使われている。防虫効果を狙ったものともいわれる。斎宮忌詞に経のことを「染紙そめかみ」という。忌詞つながりでも、ミヤツコヒメ(造媛)を改めミノツコヒメ(三野津子媛)とすることに矛盾がない。
 また、美濃国の特産品にはあしぎぬもあげられる。延喜式・大蔵省式に、「蕃客に賜ふ例 大唐皇。〈銀大五百両。水織絁・美濃絁各二百疋。細絁・黄絁各三百疋。……〉。」とあって、渤海王や新羅王に渡す規定のない上等品扱いされている(注13)。唐への朝貢品とするのに、名前にあるアシギヌなる粗悪な絹のイメージは払拭されよう。なぜかアシギヌと言われて通っているが、悪くないのにアシギヌである。そんなキヌと言えば濡れ衣のことである。濡れた衣服を言うことから転じて、無実の罪を受けること、冤罪を示す言葉である。決して悪くないのに悪いように思われてしまった。蘇我倉山田石川麻呂の孝行娘を偲ぶのに、美濃はふさわしいお国柄なのである(注14)
 そして第三に、美濃国という内陸国にして塩を産する。森2009.は、可児市宮之脇遺跡や関市重所遺跡から美濃式製塩土器が出土していることに関して、「付近の土場で荷揚げされた粗塩を再加熱して堅塩を製作する「二次生産地」として機能していた可能性が高い。」(12頁)とする(注15)。つまり、「堅塩きたし」の生産が美濃国で行われていたわけである。この堅塩は、今日でも伊勢神宮に清めの塩として見られる。粗塩を三角錐の土器に詰め込み、忌火を熾して五~六日かけて焼く。堅塩は、その実体そのものが忌みを表し得るものなのである(注16)。忌みの人、造媛に聞かれないように忌詞として「堅塩きたし」と呼んでいたのは、言葉が言葉へと、これでもかと畳みかけるように返ってくる表現となっており、自己循環的な説明を好んでその証明としていた上代の言語感覚に合致した言葉づかいである。
 近年、大化五年三月条の「造媛」と天智紀七年二月条の「遠智娘(美濃津子娘)」とは別人ではないかという意見が提出された。「遠智娘(美濃津子娘)」の皇子とされる建皇子の年齢問題を取り沙汰されている。遠智娘の子の建王(建皇子)が斉明四年(658)に八才で亡くなっているとすると、生れたのが白雉二年(651)ということになり、造媛は大化五年(649)に父親の蘇我倉山田石川麻呂の死に落胆して亡くなったはずの記述と合わないからその母親は別人であろうというのである(注17)
 日本書紀の年齢記事には「年○○」といった記述もあるが、ここでは「○○歳」のみとりあげる。年齢をきちんと記すのは実はとても例外的であやしいものばかりである(注18)。同級生や定年という概念の生じることのない社会体制では何歳なのかは問題とならなかったのだろう。通常、天武天皇のような有名人でも年齢を記す習慣はなく、今日の研究者は何年生まれかわからずに憶測を飛ばしている。

 次生蛭児。雖已三歳、脚猶不立。(神代紀第五段本文)
 次生蛭児。此児年満三歳、脚尚不立。(神代紀第五段一書第二)
 及年卌五歳、謂諸兄及子等曰、……(神武前紀)
 七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮。時年一百廿七歳。(神武紀七十六年三月)
 至卌八歳、神日本磐余彦天皇崩。(綏靖前紀)
 天皇年十九歳、立為皇太子。(崇神前紀)
 天皇、践祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。時年百廿歳。(崇神紀六十八年十二月)
 廿四歳、因夢祥、以立為皇太子。(垂仁前紀)
 九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮。時年百卌歳。(垂仁紀九十九年七月)
 六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩於高穴穂宮。時年一百六歳。(景行紀六十年十一月)
 六十年夏六月己巳朔己卯、天皇崩。時年一百七歳。(成務紀六十年六月)
 六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩於稚桜宮。〈時年一百歳。〉(神功紀六十九年四月)
 摂政六十九年夏四月、皇太后崩。〈時年百歳。〉(応神前紀)
 卌一年春二月甲午朔戊申、天皇崩于明宮、時年一百一十歳。(応神紀四十一年二月)
 天皇年五十七歳、八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩。(継体前紀)
 〈百済本紀云、高麗、以正月丙午、立中夫人子王。年八歳。〉(欽明紀七年是歳)
 令司馬達等女嶋、曰善信尼〈年十一歳。〉 (敏達紀十三年是歳)
 年十八歳、立為渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩。卅九歳、当于泊瀬部天皇五年十一月、天皇為大臣馬子宿禰殺。(推古前紀)
 五月、皇孫建王、年八歳薨。(斉明紀四年五月)
 百済僧常輝封卅戸。是僧寿百歳。(天武紀十四年十月)
 甲寅、常陸国貢中臣部若子。長尺六寸。其生年丙辰至於此歳、十六年也。(天智紀十年三月)

 斉明紀の建王の薨去年齢は示し方に殊更感がただよう。天智紀七年二月条の皇統譜の本文に、「其三曰建皇子。唖不語。」とある。唖者で言葉が喋れない。「坊や、いくつ?」と聞かれても答えられない。答えられなければわからない。わからないのに「皇孫建王、年八歳薨。」と書いてある。紀は歴史書だから「八歳」とあれば eight years old に決まっているだろうと考えるてはならない。書いてあるのは噺である。百歳以上の天皇が大勢いるのは噺家の口先三寸による。古代に八歳が何かの区切りであったとは知られない。噺としてなら、建王の母親は天智紀にある「遠智娘」、「美濃津子娘」、「芽淳娘」という人であるが、それは、孝徳紀にあった「造媛みやつこひめ」と同一人物である。上に諱であると示した。その証拠を加えると、ミヤツコ(ヒメ)のミコ(御子、皇子)なのだから、差し引きヤツ(八歳)である。ミヤツコ(造)、ミコ(御子、皇子)のミ・コはともに甲類である。いわゆる精神年齢として、ヤツ(八歳)、今日の小学校二年生以上に育つことはないという噺である(注19)
 以上、「造媛」についての考証した。「遠智娘」、「美濃津子娘」、「茅渟娘」は同一人物であり、蘇我倉山田石川麻呂の娘「少女」のこと、父親思いで、「赤心」をもって生きた人であり、政略結婚をして相手の皇太子、中大兄の非道に苦しんだ。産んだ子の一人は持統天皇として即位している。社会制度上どのように扱われようが、一人一人は一人の人間として生きている。紀に非業の死を遂げた造媛の記述があり、人物像が確かに描かれている。人間が生きるということを捨象して時系列に事件を並べて整理して、合理的に理解できて歴史がわかるということはなく、もしそれがあるのなら、もはや「人間の学としての歴史学」ではない。紀の編纂者の筆致から大切なことを学ぶべきだろう。

(注)
(注1)記載のある日本書紀の叙述は話が前後するところがある。
 先に話の顛末を言い、それはどのような事情からそうなったのか、と振り返る語り口が、古事記に代表される上代の話に数多く認められる。歴史を時間軸に従って見るのではなく、事柄の解説のために前後して話している。話(咄・噺・譚)の醍醐味が優先された。口頭でやりとりするのにそのほうがずっとわかりやすい。無文字文化のなかに暮らした人たちのものの考え方であった。
(注2)液状のにがりを捨てずに土堝に入れて二度焼きすることでMgCl2をMgOへ変性させるのと、にがりを自然に落として塩とするのと、ほかにもいわゆる「藻塩」のヨード分のための色合いなどにより種々の「塩」の存在が想定されている。和名抄にも、「塩 陶隠居に曰はく、塩に九種有り、白塩は人の常に食する所なりといふ。崔禹食経に云はく、石塩、一名は白塩、又、黒塩有りといふ〈余廉反、之保しほ、日本紀私記に云ふ堅塩、岐多之きたし〉。」とある。古代における塩は大別するとシホ(塩)とキタシ(堅塩)の二形態があったようである。拙稿「角鹿の塩を呪詛忘れ」参照。
(注3)延喜式・斎宮式に、「凡そ忌詞、内七言は、仏をなかひ、経を染紙そめがみと称ひ、塔を阿良良伎あららぎと称ひ、寺をかはらふきと称ひ、僧を髪長かみながと称ひ、尼を髪長かみながと称ひ、いもい[斎食]を片膳かたじきと称ふ。死を奈保留なほる[治]と称ひ、病を夜須美やすみ[慰]と称ひ、なく塩垂しほたると称ひ、血を阿世あせ[汗]と称ひ、うつなづと称ひ、宍をくさひら[菜・きのこ]と称ひ、墓をつちくれと称ふ。」とある。
(注4)「姓」をカバネと読むのは、新羅で同様に社会的な地位の上下を示す際、「骨品」という語を用いていたことから、その「骨」に相当するヤマトコトバ、カバネ(骸骨)が当てられたと考えられている。ヤマトコトバのカバネについては、白川1995.に、「かばね〔屍・尸〕 もと骨をいう語であろう。やがて残骨となるものであるから、屍体をもいう。のち「しかばね」という。「ね」は「ほね」の「ね」であろう。」(241頁)とある。
(注5)なぜ横たえたまま首を斬り落とすのでは駄目なのか。おそらく、それではすでに死んでいることを認めることになるからだろう。起こし立てて生きていることにして斬首している。どの程度まで起こしたかについては、筆者は、原文に「宍」に通用する「完」字が使われることから、完全に、まるごと、立っている状態に持ち上げられたのではないかとも考える。実際にそうしたかどうかではなく、紀の編纂者の意図としてそういう意味で書いているものと考える。医心方・巻二十二に、「録験方に云はく、妊娠にて体るるを治する方。生けるぎよ、長さ二尺なるもの一頭を、さながら・まろながら水二斗を用て煮て五升取り、魚を食ひ、汁を飲めといふ。(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1064408/1/211を読み下した)」とある。鯉を一匹づけで煮込んでいて、それをマロナガラ、サナガラと訓んでいる。とても興味深い訓である。起こし立てられたのは蘇我倉山田石川麻呂という人で、名前は麻呂である。ほかは氏に当たる。マロという語は男の名に付けられることが多いが、「人」であることも指す。サナガラという訓は、今日的感覚では、まるで○○のようだ、の意へとも転じている。死んでしまっているからもはや人ではないのだが、まるで本物の人のようであると伝えたくてこのような通字の「完」字が選ばれているのではないか。しかも、時の都は難波長柄ながらの豊碕宮、ナガラなのである。翻って考えるなら、本邦でのみ「完」字を「宍」字の通用させた契機、上代人の言語の感性について、考察の対象を広げられる糸口ともなり得るだろう。通用発生のメカニズムは研究テーマの一つになるとのである。後考を俟つ。
(注6)養老律・名例律に、「死罪二 〈絞斬二死 贖銅各二百斤〉」とある。
(注7)そもそもの最初の名とされる「造媛」という命名にしても、いつからそのように呼ばれているのか確かではない。皇極三年三月条では「少女」とのみ記されている。彼女は中大兄に嫁いだ。そこで奴婢同然に扱われていたとしたら、ミヤツコと綽名されて周囲の人にわかりやすい。また、「物部二田造塩」という人物について、蘇我氏の一系統が石川氏であるように、物部氏の一系統の二田氏を表しているようである。それがフツタと呼ばれていたことは注目される。フツタとブツタ(仏陀)は似て非なるものである。世の中は澄むと濁るの違いにて、真逆の性格を持つことがあるという洒落と理解できる。仏陀を大切にしていた石川麻呂は、謀反の疑いがかけられて軍を差し向けられた時、茅渟道を通って大和へ向かい、山田寺に入った。一族に正しい道を説き、仏殿を開けてご本尊に、「願はくは我、生生世世よよ君主きみを怨みじ」と誓っている。輪廻転生を思うほどに信仰心が篤い。その信仰に支えられて忠義にも篤い。すべての問題は道徳である。正しい道を求めており、石川麻呂が通った道は「渟道ぬのみち」(大化五年三月)であった。その後を追った造媛(遠智女、美濃津子娘)が「或本」に「茅渟娘」とあるのは、moral のことと load のことがヤマトコトバに同じミチ(道)という言葉で用いられており、「道」字に「首」字が含まれていることを思って斬首の謂いを含めて考え抜かれた命名なのだろう。
 一方のフツタ(二田)については、剣の名に、「韴霊ふつのみたま」(神武前紀戊午年六月)とあり、ものを切断する時の擬音語とされている。シホ(塩)については、血潮の意との関連を匂わせる点はすでに指摘した。続日本紀に、「庭の中にして天地あめつち四方よもとを礼拝をがみ、共に塩汁しほしるすすり、ちかひて曰はく、……」(天平宝字元年七月)とあり、謀反を起こす時の盟約としている。血が流れて良いのだね、と約束しているようである。反対に、服従を誓う時には蝦夷の記事がある。「是に、綾糟あやかす等、懼然おぢかしこま恐懼かしこみて、乃ち泊瀬の中流かはなかおりゐて、三諸岳みもろのをかむかひて、水をすすりてちかひてまをさく、「やつこ蝦夷えみし、今より以後のち子子孫孫うみのこのやそつづき古語ふること生児うみのこ八十やそ綿連つづきと云ふ。〉いさぎよあきらけき心をて、天闕みかどつかへ奉らむ。……」(敏達紀十年閏二月)。真水で行っている。
(注8)「赤心」は古訓にキヨキココロと訓まれている。岩崎本の朱書で少なくとも十世紀からそう訓まれている。字面は漢籍の引用である。荀子・王制に、「功名の就る所、亡を存し危を安んずるのしたがふ所は、必ず将にいんなる赤心の所に於いてせんとするなり。(功名之所就、存亡安危之所墮、必将愉殷赤心之所。)」、後漢書・光武紀上に、「蕭王、赤心を推して、人の腹中に置く。(蕭王推赤心、置人腹中。)」とある。日本書紀編者は巧みで、血の色を思い出させる用字を採用しているわけである。
(注9)嬪の二人目である「姪娘」は「桜井娘」とも名づけられている。名前について、「……曰遠智娘。」と「……名姪娘桜井娘。」と書き分けられている。名づけ方の流儀、深謀の差を示すものではないか。「桜井娘」という名前の由来も検討しなければならない。後考を俟つ。
(注10)「隠流」については、当時の大宰府長官は菅原道真のような待遇ではなく、けっして左遷のようなものには当たらないとも論じられている。けれども、筑紫国は美濃国よりもずっと都から遠い。それどころか、シノビナガシとは、シノブ(忍・隠)ことを目途とする転勤である。問題を追及せずにこらえ、露わにして事立てることなく、ただただ事件の鎮静化をはかるものであった。言い換えれば、なかったことにしようというのである。当事者の蘇我日向が都からいなくなれば、事の真相、特に皇太子中大兄の暗愚さについては、証人喚問も参考人招致もされないから噂程度で済んで闇に葬られる。では、どうして真実がばれてしまって「世人相謂之曰、是隠流乎。」という文言が日本書紀という公文書に残されているのか。期日が経ったから機密文書が公開されたのではなく、中大兄(天智天皇)や斉明(皇極)天皇、天武・持統天皇などの世代まではただ単に字が読めなかったからだろう。日本書紀は天武天皇のお達しで、本邦の正しい歴史を編纂するようにということで編まれているが、時の政権に不都合なことでも読まれる可能性はないのだから、とにかく完成させることを優先させてまとめられ、持統天皇の治世の終わりを待って撰上される運びとなっている。その後も講書されることは古くからあり、テキスト批判が行われることが新しくあっても、政権批判の種と認められたことはない。紀の編纂者の意図が読めていないのである。
(注11)国名のミノ(ミ・ノは甲類)には、紀には「美濃」、記では「美濃」、「三野」、万葉集では「美濃」(万1034題詞)、「三野」(万3242)と当てられている。
(注12)春秋左氏伝・文公十三年に、「子秦に人無しと謂ふ無し。(子無秦無人。)」、史記・夏本紀に、「是に於て帝尭、乃ち人を求め、更に舜を得。(於是帝尭乃求人、更得舜。)」とある。
(注13)実際には、高麗国使を含め、各国の国使に渡していることが続紀に記録されている。
(注14)早川2000.参照。
(注15)森2009.に、「[東海地方]海岸部で生産した堅塩を運び込まずに現地生産する理由としては、安価な粗塩を購入して現地生産した方が、堅塩の価格が有利であったり、流通ルートの問題などが想定される。」(17頁)とある。流通ルート的には、木曽川、長良川舟運の終港付近に美濃式製塩土器の大量出土遺跡があり、運搬上最も効率的なところまで遡上していることがわかる。塩を作るために大量の燃料材を必要とするため、森林資源のそばまで半製品を運ぶのが合理的だと考えたからだろう。
(注16)西宮1974.参照。
(注17)以前、建王の母親は造媛であるという考えに疑問を呈することは少なかった。大化五年三月条の「造媛」と天智紀七年二月条の「遠智娘(美濃津子娘)」とは同一人物であると解されてきた。直木1985.、青木2003.を参照。ところが、笹川2016.は、遠智娘の子であるはずの建王の生れた年が死後になってしまうから大いに疑問であるとしている。建王の祖母の斉明天皇が、不憫に思って亡くなった時に「不哀、傷慟極甚。詔群臣曰、萬歳千秋之後、要合葬於朕陵。」とあり、歌を歌わせたり、同年十月に紀温湯へ行く途中でも「憶皇孫建王、愴爾悲泣。」して再度歌わせている。それほどなのに同じ墓に入ったとされる資料は見当たらないと指摘する。そこから、日本書紀編者は、建王に関する実情を聴取できずに適当に記事を按配したのではないかと推測している。
(注18)「○○歳」記事ではないが、天智紀十年三月条のみ、年齢が主題になるため正確を期しているように思われるために追記した。
(注19)今般の社会情勢を鑑みたとき差別的な考えは捨てられるべきであるが、日本書紀の記述を研究するうえでのみ述べたものである。

(引用・参考文献)
青木2003. 青木和夫『白鳳・天平の時代』吉川弘文館、2003年。
笹川2016. 笹川尚紀『日本書紀成立史攷』塙書房、2016年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
直木1985. 直木孝次郎『持統天皇』吉川弘文館、1985年。
西宮1974. 西宮一民「「堅塩」考─万葉集訓詁の道─」『萬葉』第83号、昭和49年2月。萬葉学会ホームページhttp://manyoug.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/03/manyo_083.pdf
早川2000. 早川庄八『日本古代の財政制度』名著刊行会、2000年。
森2009. 森泰通「古代美濃における堅塩の生産・流通・消費」木曽川研究協議会編『木曽川流域の自然と歴史─木曽川学論集─』同会発行、平成21年。

加藤良平 2026.5.1改稿
 ここにあげる二首の歌については、ほとんど論じられていない(注1)

  冬十二月十二日に、歌儛所うたまひどころ諸王おほきみたち臣子等おみのこたちの、葛井連広成ふぢゐのむらじひろなりが家につどひてうたげする歌二首
  比来このごろ古儛こぶさかりに興り、さいやくやくれぬ。ことわりに共に古情こじやうを尽して、同じく古歌こかを唱ふべし。かれ、此のおもぶきなずらへて、すなは古曲こきよく二節を献る。風流意気の士の、たまさかに此のつどひの中に在らば、あらそひておもひおこし、心々にたいに和へよ。〔冬十二月十二日謌儛所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴謌二首/比来古儛盛興古歲漸晩理宜共盡古情同唱古謌故擬此趣輙獻古曲二節風流意氣之士儻有此集之中争發念心々和古體〕
 わが屋戸やどの 梅咲きたりと 告げらば と言ふに似たり 散りぬともよし〔我屋戸之梅咲有跡告遣者来云似有散去十万吉〕(万1011)
 春されば ををりにををり うぐひすの 鳴くわが山斎しまそ まずかよはせ〔春去者乎呼理尓乎呼里鶯之鳴吾嶋曽不息通為〕(万1012)

 この二首の歌は、歌の前文に「古儛」、「古歳」、「古情」、「古歌」、「古曲」、「古体」と、「古」が強調されている。現状では、古い歌曲にふさわしいように作った歌であろうとされながら、それがどのようなものなのかについては不明なままになっている。
 題詞には、十二月十二日に葛井広成邸に歌儛所(注2)の人たちが集まったとあり、作歌の事情を語っている。現状の解釈では、歌儛所に人たちの集まりだったから、昨今の古儛ブームにあやかって歌でも古歌を歌ってみてはどうかという趣向となり、この二首が披露されたかのように捉えられている。
 一首目では、私の家では梅が咲いたと告げ知らせたら、いらっしゃいと言っているのと同じことで口惜しい、むしろ散ってしまってかまわない、二首目では、春になるとたわみにたわむほどに鶯が鳴く我が庭なのだから、欠かさずにお運びください、という意であるとされている。これらの二首が歌い交わされた歌、「古體」として「和」した歌なのだというのである。雲をつかむような話で納得には至らない。
 理解の鍵はすぐそこに潜んでいる。
 二首目の「ををりにををり」は枝が撓みに撓むという意味で、そこへ直接、鶯が続いているから、枝の撓みは鶯がたくさん止まっているからとも受け取れる。しかし、一首目からの続きとして、梅の花が枝にたくさん咲いているので撓んでいるようだという表現である。その梅の花に誘われて鶯が来て鳴いていると歌っている。鶯の合唱を詠んだ歌ではない。
 すなわち、この二首は呼応の歌として密接に絡み合っている。それぞれに明示こそされないものの、いわゆる梅に鶯の取り合わせの歌が続いている(注3)
 一首目に尋ねれば、「と言ふに似たり」は、主人が友を招くこと、参集した歌儛所の諸王・臣子等に向けて梅の便りを葛井広成が知らせているように擬しているばかりではない。二首目に登場している「鶯」が「と言ふに似たり」の鳴き声を上げている。
 今日、ホーホケキョと聞きなしている鶯の鳴き声は、中古にはヒトクヒトク、すなわち、「ひとひと」と鳴いていると思われていた。

 梅の花 見にこそつれ 鶯の ひとくひとくと いとひしもをる(古今1011)
 すだれ巻き上げてなどあるに、この時過ぎたる鶯の、鳴き鳴きて、木の立ちれに、「ひとくひとく」とのみ、いちはやく言ふにぞ、簾おろしつべくおぼゆる。(蜻蛉日記・中)

 この聞きなしが万葉時代に遡ることは万1890番歌からも知れる。

 春日かすがの ともうぐひすの 鳴き別れ 帰りますも 思ほせわれを〔春日野友鴬鳴別眷益間思御吾〕(万1890)

 春日野というだけあって、濁っている酒を絞ってかすと清酒とに別けたことを題材としている。澄んだ酒ができたからというので鶯は「ひとひと」と鳴いて呼んでいる(注4)。そのとおり人が来て宴となり、終わってから帰る時、せめて帰路の間だけでも私のことを思ってくださいね、と歌っている。御酒が目当てでやって来た友は、飲んでいい気持ちになったら最後、私のことなど忘れて帰途につくが、帰り道だけでも思っていてほしいものだと興じて歌っている。
 同様に、当該二首でも鶯の鳴き声が歌の興趣となっている。

 わが屋戸やどの 梅咲きたりと 告げらば と言ふに似たり 散りぬともよし(万1011)
 我が家の庭の梅が咲いたと告げ知らせたら、ウメはウメでもすでに膿んでしまったことをいう已然形のウメに誘われて、同じく膿んで腫れることをいうウグヒと同音から成る名の鳥、ウグイスがやって来て「ひとひと」と言っているのは、まさに招待しようとして告知しているのとよく似ています。そういうことかと謎が解けた今となっては、もはや散ってしまってもかまいません。
 春されば ををりにををり うぐひすの 鳴くわが山斎しまそ まずかよはせ(万1012)
 春が来れば、枝が曲がるほどまで梅の花がたわわに咲き、そこへ鶯がやって来て鳴くのが山斎を設えた私の庭です。山斎は膨らんでいてまわりが水で囲まれ、まるで膿んだところを表しているようだからウグイスは寄って来たのでしょう。皆さんも怪我をして治りが悪くなること請け合いです。

 梅に鶯の取り合わせは、音を等しくする語である腫れ物の譬えから生まれたものであった。ウメ(メは乙類)は梅、むの已然形、ウグヒはウグフ(墳)やウグヒス(鶯)というように、語呂合わせの音つながりから歌語として興じられている。そして、膿んで水膨れして盛り上がっている様子を水が周りをめぐる築山の様子に見立て、両者よく似ているとの妙を言いたいがためにわざわざ「山斎しま」を詠み込んでいる(注5)。誘い文句というよりも悪い冗談を言っている。

山斎(平城宮東院庭園、奈良時代後期)
 このようなとち狂った歌い交わしの例としては「嬥歌かがひ」(歌垣)がよく知られている。春や秋に野辺に集まり、未婚既婚を問わずにお見合いパーティを開き、歌い掛けに対して即興で機知に富んだ歌い返しをすることで場を盛り上げて享楽していた(注6)
 前文に「理宜共尽古情、同唱古歌。」とあるのは、歌儛所の舞が古儛で今年も暮れて古歳に成りなんとしているのだから、作るべき歌も古い形式の歌、つまりは嬥歌風のものであれと言っている。その際、古情であること、つまり、古くからそう思われていたに違いないと思われていることを内容とする歌が求められている。言葉が新しく造語されたものではなく、昔からあってみればそのように仕組まれ作られていているのであって、古いこころを伝えていると思って正しかろうとされたのであった。
 前文に「争発念、」とあるのは、互いに歌を競い合って、と同時に嬥歌風に作ればその二首は互いに競い合うような作になるからそのように作れという二重の意味を重ね合わせている。また、「心々和古体。」とあるのは、古い形式の嬥歌風の体裁をとって、歌のこころにも言葉の謂れが古に遡ることになるようにと、二重の意味を重ね合わせている。その一例としてあげているのが万1011・1012番歌で、「古曲二節」と呼んでいる。
 歌の大意を振り返ってみれば、古くからの習いとして鶯は「ひとひと」と鳴いている。鶯は、この世にあるようになったときからそのように鳴いていた。誰かがその鳥にウグヒスと名づけ、ヒトクヒトクと聞きなすようにし始めたのかもしれないが、その端緒のことなど誰も知らない。だから「古」がテーマとなっている。
 十二月十二日、おそらくはその年の最後の歌儛所の練習が開けた後、葛井広成の家に集まり打ち上げの宴会をしている。やっていることは忘年会である。今年という「歳」を忘れるために、時計の針を早巻きに巻いて、まだ十二日なのに年が明けたかのようにしてしまおうという企てであった。十二月十二日までをもって今年は終わり、振り返ってみたときにすでに「古歳」となるとしている。十三日以降仕事はしないのか。とち狂った宴の席での戯れであった。

(注)
(注1)中西1968.、近藤2017.など見られるが、何を言おうとしているのか不明である。
(注2)阿蘇2007.は、「歌儛所」を、「宮廷の歌舞を管理する役所。雅楽寮と……別とすれば、……日本古来の歌舞を伝え演じるために、楽器を管理し、楽人、歌人、舞人をおいて教習や演奏を行ったものと考えられる。天平六年(七三四)の二月に朱雀門前で行われた歌垣で歌われた[の]……も、歌舞所で伝習された歌舞であった。」(411頁)と説明している。「二月癸巳朔、天皇御朱雀門、覧歌垣。男女二百三十余人、五品已上有風流者、皆交-雑其中。正四位下長田王、従四位下栗栖王・門部王、従五位下野中王等為頭。以本末唱和、為難波曲・倭部曲・浅茅原曲・広瀬曲・八裳刺曲之音。令都中士女縦観。極歓而罷。賜歌垣男女等禄差。」(続紀・天平六年(734)二月)記事に当たる。
(注3)梅に鶯の取り合わせがなぜ起こったかについては、拙稿「「春日野の 友鶯の 鳴き別れ」(万1890)歌」参照。
(注4)鶯の鳴き声の聞きなしについても、拙稿「「春日野の 友鶯の 鳴き別れ」(万1890)歌」参照。
(注5)懐風藻には「山斎」詩がいくつか採られている。
(注6)嬥歌(歌垣)の歌も恋の歌ではあるが、相聞の歌とは違い、嬥歌という場の設定に多く負うものであった。切なる心情を明かすような歌ではなく、狂宴的、反秩序的、挑発的、反発的な性格を有していて、どんちゃん騒ぎのお祭り気分にかなうものとなっていた。「辛卯、葛井・船・津・文・武生・蔵六氏男女二百卅人供-奉歌垣。其服並著-青摺細布衣、垂紅長紐。男女相並、分行徐進。歌曰、乎止売良尓 乎止古多智蘇比 布美奈良須 尓詩乃美夜古波 与呂豆与乃美夜。其歌垣歌曰、布知毛世毛 伎与久佐夜気志 波可多我波 知止世乎万知天 須売流可波可母。毎哥曲折、挙袂為節。其餘四首並是古詩。不復煩載。時詔五位已上、内舎人及女孺、亦列其歌垣中。歌数闋訖、河内大夫従四位上藤原朝臣雄田麻呂已下奏和儛。賜六氏哥垣人商布二千段、綿五百屯。」(続紀・宝亀元年(770)三月)と見え、歌垣の歌が「古詩」であるとしている。

(引用・参考文献)
阿蘇2007. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第3巻』笠間書院、2007年。
伊藤1990. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
近藤2017. 近藤健史『万葉歌の環境と発想』翰林書房、2017年。
中西1968. 中西進『万葉史の研究』桜楓社、昭和43年。(『中西進 万葉論集 第五巻 万葉史の研究(下)』講談社、1996年。)
                                 (加藤良平)
女鳥王説話

 仁徳天皇時代の話として、女鳥王(雌鳥皇女)と速総別王(隼別皇子)が天皇との確執の末に敗れる話が記紀に残されている。両者で少し言い回しが異なるが大筋に変わりはない(注1)

 亦、天皇すめらみこと、其のおと速総はやぶさ別王わけのおほきみを以てなかたちて、庶妹ままいも女鳥めどりのおほきみを乞ひたまふ。しかくして、女鳥王、速総別王に語りて曰はく、「大后おほきさきおずきに因りて、田若郎女たのわかいらつめを治め賜はず。かれ、仕へ奉らじと思ふ。吾はみことらむ」といひて、即ち相婚ふ。是を以て、速総別王、復奏かへりことまをさず。爾くして、天皇、ただに女鳥王のいます所にいでまして、其の殿とのしきみの上にいまします。是に、女鳥王、はたに坐してはた織る。爾くして、天皇、歌ひて曰はく、
 女鳥の 我がおほきみの 織ろすはた たねろかも(記66)
女鳥王、答へて歌ひて曰はく、
 たかくや 速総別の 襲衣おすひがね(記67)
故、天皇、其のこころを知りて、宮に還り入ります。此の時に、其の速総別王の到来きたれる時に、其の妻、女鳥王歌ひて曰はく、
 雲雀ひばりは あめかける たかくや 速総別 さざき取らさね(記68)
天皇、此の歌を聞しめして、即ちいくさを興して殺さむとおもほす。爾くして、速総別王・女鳥王、共に逃げ退きて、倉椅山くらはしやまのぼる。是に、速総別王、歌ひて曰はく、
 はしたての 倉椅山を さがしみと いはきかねて 我が手取らすも(記69)
又、歌ひて曰はく、
 はしたての 倉椅山は 嶮しけど いもと登れば 嶮しくもあらず(記70)
故、其地そこより逃げせて、宇陀うだ蘇邇そにに到る時に、御軍みいくさ、追ひ到りて殺す。(仁徳記)
 四十年の春二月に、雌鳥皇女めとりのひめみこれてみめむとおもほして、隼別皇子はやぶさわけのみこを以てなかだちとしたまふ。時に隼別皇子、ひそかみづかめとりて、ひさ復命かへりごとまをさず。是に、天皇、をうと有ることを知りたまはずして、親ら雌鳥皇女の殿よどのいでます。時に皇女の為に織縑はたお女人をみなどもうたよみして曰はく、
 ひさかたの 天金機あめかなばた 雌鳥が 織る金機かなばた 隼別の 襲衣おすひがね(紀59)
ここに天皇、隼別皇子の密にたはけたることを知りたまひて、恨みたまふ。然るに皇后きさきことはばかり、亦、干支このかみおととことわりあつくまして、忍びて罪せず。しばらくありて隼別皇子、皇女の膝に枕して臥せり。乃ち語りて曰はく、「鷦鷯さざきと隼といづれき」といふ。曰はく、「隼は捷し」といふ。乃ち皇子の曰はく、「是、我がさきだてる所なり」といふ。天皇、是の言を聞しめして、更に亦、うらみを起したまふ。時に隼別皇子の舎人等、歌して曰はく、
 隼は あめのぼり 飛びかけり いつきが上の 鷦鷯取らさね(紀60)
天皇、是の歌を聞しめして、勃然はなはだ大きにいかりてのたまはく、「われわたくしの恨を以て、はらからうしなはまほしみせず、忍びてなり。何ぞきずますとして私の事をもて社稷くにおよぼさむ」とのたまひて、則ち隼別皇子を殺さむと欲す。時に皇子、雌鳥皇女をて、勢神宮せのかむみやまゐらむと欲ひてす。是に、天皇、隼別皇子、逃走げたりときこしめして、即ちびのほむべのふな播磨はりまの佐伯さへきのあたひ阿俄能胡あがのこつかはして曰はく、「追ひてかむ所に即ち殺せ」とのたまふ。爰に皇后、奏言まをしたまはく、「雌鳥皇女、まことに重き罪に当れり。然れども其の殺さむ日に、皇女の身をあらはにせまほしみせず」とまをしたまふ。乃ち因りて雄鯽等にみことのりしたまはく、「皇女のたる足玉あしだまだまをな取りそ」とのたまふ。雄鯽等、追ひて菟田うだに至りて、珥山にのやまむ。時に草の中に隠れて、わづかまぬかるること得。すみやかげて山を越ゆ。是に、皇子、うたよみして曰はく、
 はしたての さがしき山も 我妹子わぎもこと 二人越ゆれば 安蓆やすむしろかも(紀61)
爰に雄鯽等、兔れぬることを知りて、急に伊勢の蔣代野こもしろののに追ひきて殺しつ。(仁徳紀四十年二月)

 本稿では、古事記の話を中心に考える。女鳥王は天皇ではなく速総別王と結婚して歌を歌った。すると天皇は軍隊を動員して殺害しようとしてきた。ともに逃げたが、追いつかれてあえなく殺された。その一連の出来事が語られており、実際、それしか書かれていない。今日の人の先入観を排し、言い伝えられたお話を、文字がわからないから聞くしかなかった当時の人々にどう映っていたか明らかにする(注2)

頓智話(咄・噺・譚)としてのアプローチ

 多妻制が当たり前の時代であったが、女鳥王は天皇の妻になることを拒んだ。前妻の皇后が嫉妬深いから嫌だと言い、仲人として来ていた隼別王と結婚した。女好きの大雀王(仁徳天皇)が嫌なのか、皇后の石之日売命いはのひめのみことが嫌なのかといった痴話話ではない。頓智話(咄・噺・譚)が書いてある。
 言い伝えの話 story は歴史 history そのものではない。おもしろい話が創られている。そうしないと覚えられず、伝えられず、世の中に広まることはないからである。稗田阿礼はよく覚えていたとされるが、勉強が得意で科挙に合格したというような人物ではない。天武天皇が話して聞かせた言い伝えをよく諳んじただけで、おそらく字の読み書きはできなかっただろう。未だヤマトコトバを漢字で書く方法が定まっていなかったから、太安万侶は苦労しながら工夫して書いている。記録する術を持たなかったから、言語空間はすべて記憶により再構成される代物であった。言い伝えは広く知られていて、ヤマト朝廷に関係のあるほとんどすべての人々の共通認識となっていた。人々が話を共有してはじめて無文字社会は成り立つ。皆が知っている言い伝えが底流にあるから社会は意味を成し、存立し続けられる。その関係が形成されている空間がヤマトコトバの語圏、すなわちヤマト朝廷の版図、勢力圏ということになる。記紀に残されている説話群は、非識字率がほぼ100%の当時の様相を伝えている。
 記紀に、女鳥王の、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」(記68)、隼別王の舎人の、「隼は 天に上り 飛び翔り 斎が上の 鷦鷯取らさね」(紀60)という「歌」を天皇が聞いて、二人を殺そうとしている。記では軍隊を興し、紀では刺客を送っている。女鳥王(雌鳥皇女)、速総別王(隼別皇子)側に謀反の動きは記されていない。女鳥王(雌鳥皇女)は機織り、速総別王(隼別皇子)は天皇の媒酌人の使いの立場で描かれている。二人とも、皇族といえどもいわば部屋住みの身分である。天皇がひとり怒って殺しにかかっている。そう記されているのだからそう捉えなくてはならない(注3)
 話の主役たち三人の名は鳥に関係している。
 仁徳天皇の名、大雀命おほさざきのみこと(大鷦鷯天皇)のサザキについては、新撰字鏡に「鷯 聊音、鷦、加也久支かやくき、又佐々岐さざき」、和名抄に「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼の二音、佐々岐さざき〉は小鳥なり、蒿莱の間に生じ、藩籬の下に長ずといふ。」とある。現在いうミソサザイのこととされる。他方、速総別王はやぶさわけのみこ(隼別皇子)のハヤブサは、現在いうハヤブサである。和名抄に、「鶻 斐務斉切韻に云はく、鶻〈音は骨、波夜布佐はやぶさ〉は鷹の属なり、隼〈音は笋、和名は上に同じ〉は鷙鳥なり、大は祝鳩と名くといふ。」とある。では、女鳥王という女鳥の種類は何か。話は、どちらの妻になるかということである。当たり前のことだが、サザキの♂、ハヤブサの♂と番いになれるのは、それぞれサザキの♀、ハヤブサの♀である。すなわち、何の種類かわからないが鳥の♀であることを示すから「女鳥王」となっている。女鳥王はサザキの♀にはならずに、ハヤブサの♀になることを選んだ、というお話である(注4)
 女鳥(王)については、メドリ、メトリと清濁通用していたのだろう。女鳥(王)の訓みがメトリと清音で訓まれれば、なるほど「めとり」の話であると納得される。「娶り」は取りの意であるとされ、名義抄に「娶 メトル」とある。トリ(取)のトは甲乙両方あり、トリ(鳥)のトは乙類である。り、と言っても通じる。記66番歌の「売杼理」の「杼」の字は通常ド(乙類)と濁音であるが、「明かしてとほれ(阿加斯弖杼富礼)」(記86)、「言挙げせずとも(許登安氣世受杼母)」(万4124)といった用例もある。乙類のト・ドの両方に当てられている(注5)。紀59番歌の「謎廼利」はメドリ(ドは乙類)と濁音で訓まれている。いずれにせよ娶りの話だから、メトリ、ないし、メドリという名前に仕立ててあると考えられる。笑い話としてうまくできている。

のろまな天皇

 最初、天皇は、自分の奥さんになってくれないかと女鳥王に打診するに当たり、異母弟の速総別王をなかたち(注6)として使いに寄こしている。異母妹に対して自分で求婚に行かず、弟を媒酌人として立てている。叔父ぐらいの立場の人を寄こすならともかく、年下の弟を寄こして恥ずかしくないのか。女鳥王は、「大后のおずきに因りて、八田若郎女を治め賜はず。」などと理由をつけて断っている。古訓のオズキは「おずし」という形容詞で、殺伐なほど気の強い様を表す(注7)。天皇の夫婦関係だから、大后の気が絶対的に強いということではなく、相対的に天皇の気が弱いということを物語っている。継妹の女鳥王にしてみれば、直接、告白できない気弱な男などこちらから願い下げということになる。古語拾遺に、「天鈿女命あめのうずめのみこと〔古語に、あめ乃於須女のおずめといふ。其の神、おずあらたけく固し。かれ、以て名と。今のに、強き女を於須志おずしと謂ふは、此のことのもとなり。〕」とある。オズシはまた、オゾシともいい、オゾマシイという形にも展開している。そのオゾシは、人に対して畏怖と嫌悪の思いを持たせるような性格をいう。とともに、オソシ(遅・鈍、ソは乙類)という形容詞の、頭の働きが鈍いこと、気づくのが遅いこと、愚かなことを表す用法にも通用した。オゾシに上代の文献的用例は見られず、ゾの甲乙を決め難いが、音転から考えて乙類であろう。つまり、女鳥王は、そもそもからして天皇が、自分の腹違いとはいえ妹に対しておっかなびっくり弟を介してしか話ができない気弱さが嫌になっているのである(注8)。だから、後で何を言って来たってそれはもうオソシ(遅)であり、言ってくるような間抜けはオソシ(鈍)なのである。その状況を一気呵成に進めて固定化する働きとして、速総別王と一緒になることとなっている。だから、総別王と書いてある。わかりやすいように太安万侶は工夫している。
 時間の進むのが、天皇は遅く、女鳥王は速い。まどろっこしいことしないで頂戴と思って速総別王と結婚している。周回遅れで天皇は女鳥王のもとへやって来る。「爾、天皇、直幸女鳥王之所__坐而、坐其殿戸之閾上。於是、女鳥王、坐機而織服。」という状況である。男として、本当にアンポンタンなのだろう。タダニ(直)というのは直接来たということである。最初からそうすればいいことである。このタダニは、何の思案もせずに、阿呆面さげて、という意味にとれる。呆れてものも言えない相手だと思われている。天皇は歌いかけてくる。「女鳥の 我が大君の 織ろす服 誰がたねろかも」(記66)。この歌については、これまで、天皇を称賛しないはずはないとの思い込みから疑念が抱かれていた(注9)。しかし、事は男女の仲のことである。身分は必ずしも影響しない。いわゆる殿のお手がついた場合でも、逃げられたり、逆に刺し殺されたりすることもある。男女の関係が地位や名誉や金で何とかなるとは限らないには、古今東西を問わない。
 記では、はじめから、のろまな男を語るためにそういう歌い方に仕立てられている。見事な台詞づけである。あなた様が織っていらっしゃるハタ(服)は、どなたのためのものですかだって。呆れるではないか、うすのろ間抜け。「高行くや 速総別の 御襲衣がね」。新編全集本古事記は、「速総別王の襲衣を織っているのだと答えるのは結婚したことを明らかにするもの。そこには天皇への反発と、挑発的な語気がある。」(300頁)と解している。ただし、この挑発的な語気は、あんたはずいぶん鈍感ね、と馬鹿にしているのである。天皇の問い掛けの言葉に、機織りで織られた布帛を指すハタという言葉が使われている(注10)。天皇の、「誰がたねろかも」に対して、女鳥王は、「速総別の 御襲衣がね」と畳みかけ返している(注11)。「速総別のたね」という答えではない。タネ(料)はもと「種」と同じ語、ガネ(料)は、もと「兼」に由来する語である。「種」はまだ芽が出ていないが、「兼」はすでに予定されたことを示す語である。白川1995.は、「国語の「かぬ」には合せる意と予測の意とがある。〔万葉〕「豫〓(兼の旧字体)而知者」〔九四八〕は「あらかじねて知りせば」とよみ、ことを予知する意である。」(239頁)と的を射た用例をあげている。もう行き先は決まっているの、あなたのではないの、ほとんど終わりにさしかかっているでしょ、見ればわかるじゃない、ふつうとは少し違う織り上がりでしょ、スケベ根性丸出しの人の肌着じゃないのよ、ということである。本当にオソシと思うから、仕上げる衣服の名も襲衣おそひ(ソは乙類)なのである。襲衣は、旅や神事に使う、衣服の上から被り着るマントのような上着である。
 延喜式・神宮太神宮式の太神宮装束に、「帛意須比おすひ八條〈長さ二丈五尺、広さ二幅〉」とある。広さが「二幅」とあるのは、織物として機織り機で織り上げた布を二つ、倍の幅につなげていることを表すのだろう。長さが二丈五尺とあるから、その分縫いあわせたということらしい。上着だから厚地の生地で、幅も広く、機織りに相当な時間がかかった。機織りしていた数か月間、もうとっくに速総別王とラブラブな関係なのに、今頃になって天皇は現れて、誰のために機織りをしているのかと宣った。ばかばかしくなる。オソシ(遅・鈍)→襲衣である。道具仕立てとして骨の折れる機織り仕事が設定されている(注12)。紀では、この襲衣に焦点を当て、用途が旅と神事にあることから伊勢神宮へ逃げる話にしている。小道具から筋立てを決めている。
 それに対して天皇は還っていく。「故、天皇、知其情、還-入宮。」ちょうどそのとき、速総別王が来たので、「其妻」と既成事実化している女鳥王は、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」と歌っている。天皇はこの歌を聞いて、すぐに軍隊を興して殺そうと思ったとある。どうして「還-入宮」と書いてあるのに「聞此歌」できるのか。それは、天皇が、すべてにおいてオソシ(遅)だからである。お還りになって宮に入られていたと思ったら、まだ、そこら辺をうろうろしていて聞かれてしまった。
 天皇がぐずぐずしているとも知らずに女鳥王のところへ速総別王が「到来」した。原文に、「此時、其夫速総別王到来之時、其妻女鳥王歌曰、」とある。新編全集本古事記に、「「時に」が重なるのは異例の構文となる。「到来之」の「之」は文末助辞とみ」(301頁)る解釈をするが、そうではない。「時」という言葉を俎上に上げている。時計の針は人によって進み方が違うことを表す言葉としてオソシ(遅)と言っている。二つのものを比較する際には、前を基準にして後のものをいうのがオソシ(遅)であり、反対に前のものはハヤシ(速)やトシ(疾・捷)である。つまり、ふつうの時間の進み方である女鳥王や速総別王タイムでなら天皇はもう宮入りしているはずなのにまだ残っていた。だから「時」がダブって書かれており、歌を天皇に聞かれてしまったと教えている。太安万侶の書きぶりは冴えている。
 紀のほうでは、「乃語之曰、孰捷鷦鷯与__隼焉。曰、隼捷也。乃皇子曰、是我所先也。」と説明されている。最後の部分は、「是、我がさきだてる所なり。」と訓まれてきた。「隼は捷し」だから自分のほうが先に行くのだと言っていると解されている。そのような当たり前のことを念を押すためにわざわざ述べるだろうか。この部分は、「是、我がさきだたるるなり。」と訓み、ハヤブサの口の先が嘴縁突起と呼ばれる形をしていて、口の先で獲物を捕らえ肉を断つのに適しているという特長を有しているからサキダツのだと論証しているものと考えられる。

立ち聞きされる建物

 「時」がダブり、天皇が還った「時」と速総別王が到来した「時」とが同じとはどのような状況か。人々が容易に想像がつかないようでは伝達されないから、具体的に起こりえない設定は行われていないはずである。すると、出入口で鉢合わせにならない造りの建物を想定していることになる。女鳥王が機織りをしている機殿(機屋)の出入口が一つの場合、「時」は重なることはないが、二つあるのなら、天皇の出て行った口と速総別王が入って来た口とが異なり、出くわすことはない。そのような建物は考古学で検証されている。
 浅川2013.に、「戸口の復元は、これまで高床倉庫で試みられてきたが、平地土間式の大型建物では高床倉庫の戸口を採用するのが難しく、一般的には突き上げ戸や外し戸などを用いた復元が少なくない。しかし、今回[青谷上寺地遺跡]は幸運にも角柱と戸口の材に恵まれ、本格的な片開戸を復元することができた。」、「青谷上寺地遺跡の蹴放(もしくは楣)は、必ずしも完全な姿をとどめているわけではない。しかし、両端の角柱にはめ込む仕口を備え、扉板両脇の方立を納めるしゃくり溝や扉の軸受穴も確認できる。この蹴放(もしくは楣)が角柱と複合しているのはあきらかであり、……蹴放(もしくは楣)の正面側には、同心円状の模様が刻みこまれている。」(70頁)とある。
青谷上寺地遺跡建物復原イメージ(Lablog 2G様「アイアンロード」http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2166.html、2026年3月31日閲覧)
 建物の妻側に二つの片開きドアがついている。内部はワンルームである。復元モデルでは、3.84m×8.12mと広いから、今考えている機殿(機屋)そのものと俄かには定められないものの、機の道具や製糸にまつわる道具(紡錘車や桛)、材料(麻、苧麻、巻子)が保管されていたとも考えられる。建物の妻側に開き戸となる扉が二つついている。どちらの妻になるかという意を暗示する設定である。開き戸はパタパタと開け閉めする。機はパタパタ織っているからハタである。古代音では、ハタは pata に近いものがあるとされている。高機は中国を起源として伝わった。中国でと呼ばれていたものが、ヤマトコトバにハタと言っている。文字がないのだから、これは何ですかと隣村の人に聞かれた時、キですと答えても相手に意味は伝わらない。パタパタして織るものだからハタというのだよ、と新語を造って答えたのだろう。むろん、言葉の語源はわかるものではなく、他の説もある。筆者は、語源説ではなく、この女鳥王の話において、ハタという言葉をそのように捉えて創作していると考えている。
 ハタという語には、「はた~、はた~」という言い方で使う副詞がある。あるいはまた、それともまた、と仮設しておいて、一方を選択するために使う言葉である。AかそれともBかという選択の意味に発し、もし、あるいは、おそらく、などの意へ展開する。漢語の用例では中国六朝時代の俗語として見られる。ヤマトコトバのこのハタについては、時代別国語大辞典に、「語源的にハタホトリなどに関係のある語であろう。」(580頁)とある。筆者は、語源という立場に立たないものの、上代の語感として「はた」や「はた」との洒落も見て取れる。左右のどちら側にもあって二つあるのが魚の鰭である。機は、左右のどちらからもを入れて反対側の端を通り抜けさせ織り進める。足を踏みかえて経糸を上下させて緯糸をくぐらせるのである。その動きのなかでパタパタと音がする。擬音語、擬態語から、ハタという語が生まれているように感じられる。機の場合、梭を追いかけて頭を左右に振り見ながら織っている。

 いましはた我に先だちてかむ。はた我や汝に先だちて行かむ。(神代紀第九段一書第一)
 為当はた此間ここに留らむと欲ふや。為当本郷もとのくになむと欲ふや。(欽明紀十六年二月)
 かむさぶと いなとにはあらね はたやはた かくしてのちに さぶしけむかも(万762)
 す痩すも けらばあらむを はたやはた むなぎを捕ると 川に流るな(万3854)

 二つドアの建物は「はた~、はた~」という言い方にふさわしい。建物の一面に二つ扉のある建物は、ハタ(服)を織るハタ(機)を置く機殿(機屋)と言葉の上で通じている。つまり、天皇が還ったというのは右側の扉を出て行ったということ、速総別王が来たというのは左側の扉から入ってきたということである。扉をパタパタと開け閉てしている。その際、絵巻物に知られる異時同図法で見ると、出て行った図を描いた右側の扉部分を見てから巻き直して左側の扉部分を見ると入って来たところとなっている。だから「時」という語がダブっている。両方を見渡せるように俯瞰してみると、天皇はまだ還り切っておらず、速総別王はすでに入って来てしまっている。そこで歌を歌ってしまったから、天皇は還る間際に聞いてしまい、怒って軍勢をたてて攻めようという気を起こしている。
 古事記は冗談話をくり広げている。機織りをして左右に送っているものは、緯糸を入れてあるシャトル、(杼)(ヒは甲類)である。同音の(ヒは甲類)は毎日、東から昇って西に沈んでいく。機殿(機屋)での機織りは室内作業で、部屋のなかは明るくなり暗くなるの繰り返しである。南を向いて機織り機に座っていると、織り手から見て日は、朝は左の戸、夕は右の戸を行き来している(注13)。日がな一日織り続け、日はどんどん経過し、がんばって左、右、左、右へと梭を送ってもなかなか織り上がらない。ヒ(日、梭)は飛ぶように進んでしまう。つまり、将~将~などという言い方は、パタパタと、どちらかどちらかとばかり言っているだけで、なかなか決められない優柔不断なところを表しており、それが機織り作業とよく対応しているからおもしろがられている。ハタというヤマトコトバは、この説話のなかで自己言及的に概念構築されている。
 機屋に扉は二つある。どちらも片扉で、パタパタ言っているばかりの扉である。引戸ではなく開き戸である(注14)。つまり、記に「しきみ」とあるのは、建築用語の蹴放ちのこと、戸が当たって戸締りになるための下部の押さえである。横は方立、上は楣で囲まれ、そこに扉があって戸が構成され、枢構造で支えられている。「坐其殿戸之閾上」という状態は、蹴放ちの上に腰を下ろしているということで、外開き扉であれば開いていなければ座ることができない。信貴山縁起の尼公は、糸作り作業中の土間の入口の敷居に座っている。戸が開いているから「坐」すことができている。室内で機織りをしているなら明るくないと仕事にならないから開けていたのだろう。見物のために機屋に踏み入ったとしても、相手の女性は機織りに熱中していてかまってはくれない。作業状況を具に見ても、素人にはどういう機構で織り上がっていくのか理解できず、近くにいても手持無沙汰である。
左:「閾(?)(土台)に坐す」(信貴山縁起模本、覚猷他写、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2574278/1/15をトリミング)、右:越後織布(木村孔恭著、法橋関月画、日本山海名産図会、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018806/158?ln=jaをトリミング合成)
 機屋に片扉が二つ離れてあることは、ハタヤという言葉をものの見事に語り尽くしている。神社の本殿などでは観音扉が採用され、扉を合わせ閉めて海老錠をもって戸締りとした。対して、機殿(機屋)では二つ離れて片扉を設け、開けることで採光の便にかなっている(注15)。建物の妻側を南に向けてその左右に板戸を分けることで、午前、午後それぞれに明かりが取れることになる(注16)。棟持柱のある建物で妻側に戸を作ると左右に二つとなるのは自然の流れである。「はた戸が有るや、将戸が有るや」構造の建物、機殿(機屋)が造られていることとなる(注17)。機は部材を持ちこんで機屋のなかで組み立てられ、形を保ったままでは戸口から出せない大きさだったのかもしれない(注18)
 歌に、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」とある。和名抄に、「雲雀 崔禹食経に云はく、雲雀は雀に似て大といふ〈比波利ひばり〉。楊氏漢語抄に云ふ鶬鶊〈倉庚の二音、訓は上に同じ〉。」とある。登場人物たちは皆鳥の名を負っていた。それに合わせる形でヒバリが出てきている(注19)わけだが、機屋のなかでは幅広い織物、襲衣に仕立てるべく機織りをしている。手先で操るのはヒ(梭、杼)(ヒは甲類)である。特に幅広の厚手の生地を織っていたから、横幅が狭くならないように安定させる伸子を使っていたと推定される。伸子は両端を張って広げる道具で伸子針とも呼ばれる。だから、ヒバリ(雲雀)となる。人物名の鳥に関わる洒落に仕立て、話をおもしろく、印象づけて覚えやすくしている。「雲雀は 天に翔る」は「高」、ないし、「高行くや」へと掛かっていく序詞とされている。ヒバリボネ(雲雀骨)という言い方も生まれており、雲雀の脚のように細々した骨格を表した。幅が狭くならないように骨を張っていると見立てている。
「簇削」(源三郎絵・人倫訓蒙図彙、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/945297/1/106をトリミング)
 伸子(箴)は、洗い張りの作業によく用いられる。和名抄に、「叉 六韜に云はく、叉〈初牙反、文選に叉簇を比之ひしと読む。今案ふるに簇は即ち鏃の字なり〉は、両岐の鉄柄、長さ六尺といふ。」とある。ヒシという訓みがあるのは、字鏡集に「簇、シヒシ」とある伸子と関連する。竹製の伸子の両先端は二股に分かれている。雲雀の脚の骨張りを連想させる。ヒバリによって織り上げているところだから、ハヤブサには仕事の邪魔をするサザキを排除して欲しいと言っていることになっている(注20)

倉椅山くらはしやまのクラのこと

 速総別王は、記69・70番歌とつづけて三句目途中まで同一の歌を歌っている。倉椅山は現在の桜井市倉橋の地にある山のこととされているが、独特の枕詞「はしたての」が被さっている。高床式倉庫に梯子を掛けて登るから「はしたての」はクラの枕詞と考えられているが、その語は「はしたて○○の」であり、「はしかけ○○の」ではない。梯子はどこかへ掛けているのではなく自立していることを指す言葉としてある。つまり、脚立の様相を示している。そのような形をしていてクラと関係するものとしては、駄馬の背に置かれる荷鞍のことが思い浮かぶ。荷鞍は乗馬用の鞍とは異なり、中央が高く横から見ると三角形に突起しているから、馬は脚立を背に載せているように見える。女鳥王と速総別王とは山越えをして逃げ延びようとしている。天皇に対して反乱を起こそうとしたのではないから乗馬用の軍馬を準備していない。目には目を、歯には歯をという発想に基づき、聳え立つ荷鞍に掛け渡した籠に乗って身を任せるから急峻な山も越えられると言っている。片側に一人だけ乗るとバランスは取れないが、両側に乗れば荷鞍でも人は運ぶことができる。女鳥王と速総別王は荷となって運ばれようとしたのである。馬の高さのところへ登れば天皇は手が届かないと軽侮しているのである(注21)
左から、荷鞍(高岡市立博物館蔵、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282520)、米俵を運ぶ(石山寺縁起絵巻模本、狩野晏川・山名義海模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)、荷鞍につけた木製籠で人を運ぶ(二宝荒神、葛飾北斎(1760~1849)「四日市」『東海道五十三次』、江戸時代(1804年頃)、小判横絵(11.6×16.7㎝)、フィラデルフィア美術館蔵、アン・アーチボールド氏寄贈、受入番号1946-66-81o、https://philamuseum.org/collection/object/203263)、押機(蔀関月著・法橋関月画図「捕洞中熊」『日本山海名産図会』、江戸時代(1799年)、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2575827/1/40をトリミング)
 天皇が軍隊を興して殺そうと思った相手は、自分のことをオソシ(遅)と軽蔑した女鳥王と、彼女が織っていたオソヒ(襲衣)をプレゼントされた速総別王である。夫婦一体になって荷鞍の上にいる。荷鞍の上にくらを設け、その上に乗っている。オソヒとも言う。「就而熟つらつら視れば、皇后きさき御鞍おそひなり。」(欽明紀二十三年六月)とある。木を格子に組んで屋根板の押さえにするものもオソヒと言っていたから、縄などを使って木組みにして押さえるつけるものをそう呼んだのだろう。紀61歌謡に、「梯立の 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安蓆かも」とある。馬の荷鞍の山型を覆って両サイドに広げた駕をつけ、二人乗ればバランスが取れて良い具合の座席になるということだろう。「安蓆」とは安定して座ることのできる蓆であり、枠取りし、木を格子に組んだ上に敷物を置き、簡易座席としていることを指しているようである。そのような「はしたての」脚立状梯子の様子は、力の強い獣を逃がさない檻、捕まえるための罠である「押機おし」(神武記)と同じような造りである。オソと呼ばれることもあり、天皇は目には目を、歯には歯を、オソにはオソで対抗して捕らえにかかっていることになる。
 紀では、天皇と隼別皇子との間柄を「干支このかみおとど」(「友于」(前田本)(注22))としている。もともと、干は幹、支は枝を示す。天皇と女鳥王と速総別王とは、みな兄弟姉妹の間柄、木で言えば幹と枝、つまり、干支である。そして、干は杆に通じる。爾雅・釈木に、「棧木、干木」とあり、格子状の桟木を表す。屋根に瓦を載せるために縦横に組まれているのは瓦桟木である。「はしたての」という言葉は梯子格子を表していて捕り物にも使われる。「干」字を用いれば、兄弟姉妹の関係の話に重なり合ってわかりやすいと思っての用字なのだろう。
 話の後半では、言葉のなかにソ(乙類)の音がたくさん出てくる。「退く」のソは乙類である。ソ(背)と同根の語とされる。オソシ(遅、鈍)やオソヒ(襲衣)、オソル(恐)のソも乙類である。馬の背のことと山越えする稜線のことをいう馬の背のことを絡めながら創作している。「其地そこより逃げ亡せて、宇陀の蘇邇そにに到りし時に、御軍追ひ到りて殺しき。」と終っている。ソコ(其地)のソ、地名のソニ(蘇邇)のソも乙類である。紀では、菟田の珥山にのやまに追いつき攻めたがまだ逃れ、最終的に伊勢の蔣代野こもしろのので殺している。ソニとは今のカワセミのことで、記の天若あめわか日子ひこもがりの件に御食みけびとの役を演じている。死者に手向ける食べ物を用意した。それがコモシロというところにも関係するというのだから、コモに包まれて馬に載せ運ばれた米のことをイメージしながら創作されていると考えられる。御食人のふりをしてソ(背)+ニ(荷)の山越えには成功したが、馬上の荷であるはずのコモの代わりになっていたことが伊勢に至って露見したという話に構成されている。

まとめに代えて

 以上が女鳥王の話(咄・噺・譚)である。鈍くさいと言ってしまった兄弟喧嘩を鳥の話にし、鈍くさい駄馬を使った脱出劇に仕立てている。記紀の話は継ぎはぎだらけのパッチワークに見える。ただ、その語り口には一貫性が備わっている。おもしろい頓智を繰り出し、機知に富んだ話(咄・噺・譚)に構成している。
 今日の研究では、わずかに320字ほどの本文を後講釈して、古代天皇制の反逆物語であるとか、律令時代の儒教倫理を謳うものであるとか、女性の社会的な発言を物語るものであると唱えられている。荒唐無稽である。いわゆる史実を下敷きにしていると考えることも困難である(注23)。ヘロドトスや司馬遷は歴史 history を記した。文字があってはじめて可能である。無文字時代には口伝えに伝えて記憶にとどめつないでいた。唯一確実な手段は、story、お話(咄・噺・譚)として完成度を高めることである。洒落を数珠つなぎにつなぎあわせて最後にオチを持ってくる。自然と覚えられて伝えられ、聞く人を飽きさせない。語りのなかで当時の状況を表すのにふさわしい新技術を織り交ぜながら、聞く相手にまったくそうであったと悟らせることができる。無文字文化においてすべてを言葉で、言葉のなかに伝えるために、意味を塗り込めたヤマトコトバという代物を使い、巧みに知恵を働かせて伝承していたのであった。



(注)
(注1)藤澤2016.は、記紀両書の差異として、「①反逆の主導者の違い ②討伐後の宴に登場する皇后の違い の二つが大きな違いであろう。」(213頁)として議論を展開している。内藤2003.は、「ウタとその用い方には多くの異同が認められる」(245頁)と見ている。菊川2024.は、速総別王(隼別皇子)の歌を「苦難の中で情愛の喜びをうたっている」(92頁)が、日本書紀では「どこか違う所に関心があるような書きぶり」(93頁)であると取っている。本稿では微視的な差異から記紀の構想の違いを論うことはしない。まず、肝心の話(咄・噺・譚)を理解することに努めるものである。
(注2)今日の研究者たちは、古事記を完成された文学作品であると捉えたり、古代国家による王権制のプロパガンダであると勝手に思い込んでいる。根拠不明の先入観を排して、虚心坦懐に受け取らなければならない。その際には、文字を持たない民族文化を遅れたものとする偏見からも解き放たれなければならない。
(注3)先行研究について検討を加え、立脚しながら、あるいは批判を加えながら、新しい解釈を進めるのが作法であるが、一語一語の言葉を軽視していて女鳥王の話をきちんと読もうとする試みが見られない。いくつか簡単に紹介しておく。荻原1998.は、女性である女鳥王が主導性を担う理由について述べている。寺川1992.は、記紀は律令制社会に入ってから氏族の伝承を公開したものであると考え、反逆氏族の伝承が記されている理由と女鳥とは何を意味するかを検討している。山田2008.は、日本書紀に「鷦鷯」という字で記されている点から出発して、陰陽五行の変化に則っているという議論を展開している。孫1991.は、前田本仁徳紀の頭注に、「養老記云、隼鳥昇天兮 飛翔博衝 鷦鷯所執乎」とあることから、紀60番歌について漢詩の翻案である可能性を考えている。阿部2003.は、女鳥王が王権の論理の世界から離脱しようという主体性を持っているものと捉えている。都倉1975.は、古事記の一篇のお話を文学讃歌へと高めて評価している。猿田1990.は、この説話に歌われる歌謡から、歌謡と説話の結び付き方について分類を試みている。村上2013.は、女鳥王が天皇に仕えないことを、仲介者の速総別王ともども示しているとする。小林2008.は、隼別皇子は雌鳥皇女を妻としようとは思っても、皇位簒奪を狙う意識はなかったと指摘している。
(注4)荻原1998.は、女鳥王は雌の鳥を表示するのみだから何の鳥か同定しようとし、「雌鶏めとりをとりに化れり。」(天武紀五年四月)を引き合いに出し、鷹狩の獲物となる雌雉ではなかったかと考えている。
 けれども、女鳥王がニワトリやキジの♀のはずはない。有性生殖の生物に異種間の交雑は起こりにくく、ラバやレオポンの話を創っても聞き手に理解されない。自然が卑近に存在し、取り囲まれて従いながら生きていた古代の人にとって、ハヤブサの♂とキジの♀が番いになるという発想はむしろ大祓の対象になるだろう。生命、種族の存亡にかかわるから、野生の思考において動物は擬人化されず、人間の擬動物化以上のものではない。この点はトーテミズムの根本問題である。
(注5)トル(取)という語のトの甲乙の混在について、以前から議論されている。筆者は、トリ(鳥、トは乙類)との洒落の関係を探っている。上代語表記の清濁について、犬養1992.は、「文字のsystemは、伝達に支障のない限りにおいて、対応する音声言語の諸要素のうち、どこまでを捨象することが許されるか。……実用を旨とする場では、万葉仮名の濁音専用の字体を用いないこと、すなわち音韻の「清濁」を書きわけないことが経済であり、それが平仮名・片仮名への連続面をなす……。……平仮名・片仮名がなぜ濁音専用の字体をもたないsystemとして成立したかという問題は、音韻と文字の両面から考えなくてはならない。本書の筆者[犬養隆]の認識によれば、古代語の「清濁」についての議論は、一九七〇年代から後、基本線において前進していない。亀井孝……濱田敦……馬淵和夫……小松英雄……木田章義……[らの見解を]本書の筆者の理解によって約言すれば、今までのところ、phonemics の level ではなく、prosody あるいは phonetics の level でとらえる説が有力であるということになる。 本書の筆者は prosody の level と考えている。アクセントが統制的な性格を強めるにつれて「清濁」は prosodeme から phoneme に変わって行ったというのが筆者の考えであるが、……ここでは、古代語の音韻における「清濁」の別が、知的・論理的意味を弁別する phoneme ではなかった可能性が大きいことを確認するにとどめる。」(344~345頁)としている。
(注6)古訓に、「媒」はナカタチ(ナカダチ)のほか、ナカヒト(ナカビト)ともある。現在の記の解説書にナカタチ(ナカダチ)説を採る例は少ないが、紀では前田本傍訓にナカタチとあり従っている。筆者は、古事記でもナカタチ(ナカダチ)と訓むのが正しいと考える。今の仲人なこうどのことである。結婚相談所の人が依頼人の意向を無視して紹介相手を横取りして結婚してしまうということは、いかに相手方から求められたからとて世間の信用を失う。常識を欠いている。そのようなことは、ヒト(人)のすることではない。人のようで人でない。木のようで木でないのは、ウドの大木とも言われる山ウドである。ナコウドという言い方は、それを捩った言葉でおもしろい。拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論」参照。そして、速総別王は、間に入って両者の仲を断つことをしている。したがって、ナカタチ(ナカダチ)と訓むのが意味を伝達するのに必要十分となっている。
(注7)この部分の「因大后之強」に、「大后のコハキに因りて」と、コハシという形容詞による別訓も行われている。「オズキと訓むのが通説だが、『記』の用字法に照らしてコハキと読む。コハキは強くて扱いにくいの意。」(新編全集本古事記299頁)。同じ「強」という字を当てても、コハシというのは高句麗騎馬軍が「こは」いことを言うように、馬冑、馬甲、甲冑といった硬さを伴ったつよさを指す。こはいご飯とは、水が足りないか蒸らす時間が足りないかした硬いご飯のことである。皇后が嫉妬深くて気が強いからといって、高句麗騎馬軍や芯の残ったご飯の硬さを連想することはない。ねたまれて嫌になるのは気分の問題で、もっとおぞましい、ぞっとする、背筋の寒くなるような、感情の発露としての言葉がふさわしい。通説のオズキが正しく、清音でオスキと訓む説もある。オソシへと音が通じる点からも確かである。
(注8)日本書紀では雌鳥皇女の話は仁徳紀四十年にあり、磐之媛皇后はその五年前に亡くなっている。
(注9)山路1994.363頁。また、身崎2007.は卑屈なまでの天皇の求愛の態度とメドリの堂々とした拒否の態度を対照させようとしていると見ている(89~90頁)。
(注10)原文の「服」には、ミソ(御衣の意)という古訓もあるが、直後の記67番歌に、「織ろすハタ」とあり、ハタと訓むべきである。機織り機で織られた布帛をハタといい、機械の方もハタという。思想大系本古事記、古典集成本古事記、西郷2006.、多田2020.などに採用されている。地の文で「女鳥王にハタに坐してハタ織れり」とパタパタ言うことで、この話のテーマがハタの頓智からなっていることを示している。
(注11)荻原2003.に、「問いに対する答えとは、問いに従属するものではない。答えとは、一見、問いを受けた受動的なもののようでありながら、実は問いが掬いとった状況の質を判定し、方向づけるものなのである。だからこそ女鳥王の歌は、状況の現実にすら気付いていない仁徳天皇に、状況を判定し現実を突きつけて、以後の状況の方向を決定づけるはたらきをもつ。そこに女性の歌の一つの本質がある。」(11頁)とある。似て非なることを筆者は考える。問いは状況がわからないときに発し、方向性を示唆してもらうために行われる。馬鹿なふりして聞いてみた、という言い回しがあるように、答えによって導かれる。仁徳天皇は女鳥王に馬鹿にされているわけであるが、特に女性の歌だからというわけではない。
(注12)古代の衣装と一概に比較できないかもしれないが、一般に、着物を一着仕立てるために必要な布は反物一反が基準である。現在の着物の反物は、幅が約37㎝、長さが約12.5mとなっている。丸帯を織る場合には、70cmほどの幅で織って縦方向にふたつに畳み、かがり留めしている。延喜式の「長さ二丈五尺。広さ二幅」は、長さが約7.5m、広さが約1.32mに当たる。延喜式には「広さ二幅」という単位があり、「幅」の古訓にハタバリとある。
 幅広の織物を作るには地機よりも高機が操作しやすい。女鳥王の答え方が強い物言いになっていて、「料ろかも」の答えが「御襲料」となっていた。ふつうの着物じゃないことぐらい見ればわかるでしょ! ということは、見ただけで分かりそうな違いが機にあったということである。
 機の種類については用語に混乱が見られている。地面に尻もちをつけるタイプを地機と呼んでいるのか、身体で経糸を引っぱるのものを呼んでいるのか不明である。植村2014.は、「三種類の基本形について、錘を下げて張る織機を「錘機おもりばた」……、地面を利用して張る織機を「ばた」……、人体の腰で張る織機を「腰機こしばた」と表記する」(48頁)とする定義を試みている。経糸のテンションを何によっているのかの区分である。そこには、その地機の発展型として、インドによく見られる地面に穴を掘って足を入れ、足で綜絖を操作するタイプが現れ、それを木組みにして全体的に地面上へとアップさせたものが高機であろうという。ただし日本では、腰で経糸を引っぱる方式の腰機にも、天秤腰機のように機に一体型の腰掛に座って行うものも多い。インドに見られる掘りごたつタイプは、「穴織あなはとり」(応神紀三十七年二月)のことに当たるのではないかと指摘している。
 ほかに、「漢織あやはとり呉織くれはとり及び衣縫きぬぬひひめ弟媛おとひめ」(雄略紀十四年)という記事も見られ、それまでの「呉織」とは別種の「漢織」が来日しているので、あるいはそれが、機構をすべて機に委ねて体が解放された、いわゆる高機の移入に当たるのではないかと推測される。一方、「倭文しつおり倭文しつり)」という例も見られる。「倭文神、此には斯図梨俄未しとりがみと云ふ。」(神代紀第九段本文)、「倭文しとり」(垂仁紀三十九年十月)、「倭文しつはた〔之都波柂〕」(紀93)、「倭文、此には之頭於利しつおりと云ふ。」(天武紀十三年十二月)、「倭文しつはた」(万431)、「倭文しつ旗帯はたおび」(万2628)などとある。筆者はハタ(機)をパタパタという音と関係すると述べてきた。シツオリのシツは、シヅカ(静)の意と関係があるとされる。梭(杼)をそっとさし入れて静かに織っていく機とは何か。アンギンや、招木を持たない尻もちをついた形の腰機かと思われる。それらもハタと呼び出したのは、パタパタいう機織り機に対して後から名づけたゆえのことではないか。

 天照大御神、忌服いみはたいまして、かむ御衣みそを織らしめし時、其のはたいただき穿うかち、あめ斑馬ふちこまを逆剥ぎに剥ぎて、おとし入れたる時に、天の服織はとり、見驚きて、陰上ほとを衝きて死にき。(記上)

 この例や本稿の仁徳記の例は、「呉織」の類で、高機ではないかと推測されるが未詳である。詳しくは前田1992.、前田1996.などの労作を参照されたい。天照大御神の機織りの作業場は、母屋とは別棟の「忌服屋」、「服屋」である。また、雄略紀の織り手、縫い手が必ずペアで渡来している点も、パタパタ二つ扉のある機殿(機屋)での作業を示唆しているのではないか。
 ここで織られている「襲衣」は上着で生地は分厚く、幅広である。幅の広い織りのためには、狭まっていかないように両端を広げておく工夫が必要とされていた。前田1992.に、「経糸の幅出具[鋸状幅出棒]は日本ではアイヌの織機にしかない」(149頁)、「[天秤腰機では、]現在、緯打ちにも筬が使われているが、本来は幅出用で、長い緯打ち刀か杼を用いていた。」(185頁)とある。筆者は、記68番歌謡を聞くにつけ、ヒバリという名が唐突に出て来ている以上、伸子針を使って幅が縮まらないようにしていたと推測している。
(注13)例えば、近代に桐生市に建てられたノコギリ屋根織物工場群のように、北からの採光の方が一定するかもしれないが、屋根からの採光と壁面(戸や窓)からのそれでは光線量に大差がある。
(注14)建築史では、敷居に溝を掘ってレールとして走らせることは技法として新しく、引戸、襖障子が現れるのは平安時代になってからのことである。日本史大事典に、「回転式のいわゆる扉の形式が古く、これにはいたとびら桟唐さんからとがある。……同じ回転式であるが、扉とは異なって水平方向に回転軸を持つのが蔀戸しとみどである。寝殿造しんでんづくりでは蔀戸に対し、扉形式の戸はつまと呼ばれた。これは元来、建物の妻(棟の両端の側面)に設けられていたことから生れた名で、出入口として使われた。引戸はやりと呼ばれるが、その発生は扉よりも遅れ平安時代後期である。この時代の巻物まきものに見えるのは狭い間隔に横桟を打ったもので、のちにまい良戸らどと呼ばれる形式である。……平安後期にはふすまが登場し、明障子あかりしようじ(現在の障子)が現れるのも平安末期である。」(第五巻1頁、この項、清水擴)とある。
家形埴輪の戸ぼそ(美園古墳出土、文化庁蔵、橿原考古学研究所附属博物館「家形埴輪の世界」展展示品)
 高橋1985.に、「日本でいちばん古い建具」(2頁)として扉が紹介され、「奈良時代の住宅の建具は扉だけであった」(9頁)と刺激的なキャッチコピーが施されている。弥生時代の農村集落跡、伊豆山木遺跡から、軸釣(枢、とぼそ、くろろ)とみられる作り出しのある扉が出土しており、「古墳時代になると、……扉の出土例が増えるのみならず、扉用の軸受けをもったしきみも発掘され、さらに大阪府八尾市美園古墳から出土した埴輪屋には、開口部の上下に扉の軸を受ける穴が作られている。」ことから、「扉はすでに相当普及していたらしい。」(2頁)とある。
(注15)戸を閉めて明かりを灯しながら織っていたと考えられなくはないが、植物油の燃油は非常に高価である。魚油や松明を使って臭いがつき、火の粉が飛んで穴を開けかねないリスクを冒しはしない。だからこそ、囲炉裏に火を熾さない別棟の機殿(機屋)を設けて作業している。
 暑ければ屋外で行うことも考えられ、軒下に機を設置して織っている例も見られる。インドでは高床式の縁の下の例も見られる。中央アジアから中近東にかけては雨の心配がほとんどないから完全に屋外で行われている。それが通常の機織りの光景であった。
(注16)民俗事例としては、吉見1995.に、「この[湖東]町の民家にみられる特徴は機織窓の存在である。でいの前面の一間半を四分し、中央の四分の一の二つ分を窓とし外側に縦格子、内側に二枚の引戸をたて、これを「機織窓」と呼んでいる。」(74頁)とある。
(注17)二つ片開き扉の建物の用途については筆者の語学的推測によるものであり、考古学の考証を経ているものではない。
(注18)推古紀に、建物を建ててから仏像を入れようとしたら戸が狭くて入らなかったという記事がある。寄木造だったのかもしれない。

 又仏像ほとけのみかたを造ること既にをはりて、だうに入るること得ず。諸の工人たくみ、計ること能はずして、将に堂の戸をこほたむとす。然るに、戸を破たずして入るること得。(推古紀十四年五月)

(注19)新編全集本古事記に、「ヒバリだって空を翔る、ましてや天空高く行くハヤブサは…と対比的にハヤブサを引き出す。」(301頁)とあるが、ヒバリとハヤブサを比べ出したら焦点がぼけて肝心のサザキのオソシ点が霞む。
(注20)ヒバリダカ(雲雀鷹)という語もあり、六月頃、ヒバリの羽の生えかわる時に、ヒバリ専用に鷹狩をする鷹のことをいう。日葡辞書に「Fibaridaca」とある。なお、ハヤブサがヒバリを捕まえる鷹狩は行われるが、サザキ(ミソサザイ)を捕まえる鷹狩は知られない。人里近くにいるスズメなら練習用に捕まえさせることはあるが、小さな鳥は霞網を用いて捕えれば事足りる。鷹狩の獲物は、通例では、鳥類では、ツルやガン、ハクチョウ、カモ、キジ、ウズラなど、哺乳類では、ノウサギやリス、キツネなどである。わざわざ飼育、調教するのだから、ふだん捕れない大きな獲物を狙うのが鷹狩の醍醐味である。鷹狩に使うタカは短距離向きで、木の多いところでも使えるが、ハヤブサは比較的長距離に使えるが、木の少ないところに適するとされている。草の枝葉の間を飛んでいるサザキを捕ることは難しい。
(注21)仁徳天皇は脚が不自由だったらしく、屋根の雨漏りを直すことができなかった。拙稿「仁徳天皇は「聖帝」か?」参照。
(注22)誤写ではなく、当初から異本が存在していたものと筆者は考える。河村秀根・益根の書紀集解に、「按干原誤。舒明天皇即位前紀干支。晋書芸術伝戴洋曰、干、支。拠、借兄弟干支耳。未出。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1157913/1/21、漢字の旧字体は改め、句読点を付した)とある。舒明前紀には、「吾、汝がことよくもあらぬことを知れども、干支このかみおととことわりを以て、やぶること得ず。」とある。
(注23)歴史学からすれば、古墳時代に天皇家の兄弟姉妹間に事実としてあったかもしれない、あるいは、皇統譜に女鳥王や速総別王の母親が豪族出身者であることから氏族伝承が組み込まれたのかもしれないと見て取りたくなるだろう。しかし、それがどうして天皇家の三人の兄弟姉妹の喧嘩のことへと発展しているのか、検証不可能で説得力ある解釈が行われることは期待できない。氏族の祖先伝承がまとめられることがあったとしても、記紀に所載の話の内容とは関わりがない。今日でも余所の家のことを一度ならずとも聞かされるのには閉口する。ましてや、それをまるごと全部覚えるようにと言われてても、凡人には覚えられるはずもない。つまりは伝わらない。門閥重視でも貴族社会でもない時代のことを考えるのに、古代史学は氏姓のつながりを重んじすぎている。

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※本稿は、2017年5月、2018年1月、2019年9月稿をまとめた2020年10月稿について、2024年1月に誤りを正しつつ論旨に不要な先行研究部分を大幅に割愛し、2026年4月に再改稿したものである。
 次の歌は、万葉集巻十、春の相聞としてあげられる七首の最初の歌である。柿本人麻呂歌集の歌とされる。
 文字の異同に、「春日野」は類聚古集などに「春山野」とあり、「友鴬」は西本願寺本などに「犬鴬」とあるのを類聚古集により改めている(注1)

 春日かすがの ともうぐひすの 鳴き別れ 帰りますも 思ほせわれを〔春日野友鴬鳴別眷益間思御吾〕(万1890)

 現代の注釈書では、一句目を「春日野の」とするか「春山の」とするかの二説がある。
「春日野の」説
 春日野で、友だち鶯が鳴いて別れて、お歸りになるあいだも、私を思つてください。(武田1956.70頁)
 春日野の友鶯の鳴き別れるように別れてお帰りになる間も、私のことをお思い下さい。(大系本68頁)
 春日野に鳴いて居る鶯の如く、泣いて別れて、歸り行かれる間も、お思ひ下さいませ。私を。(土屋1976.205頁) 
 春日野の妻を求めてなく鶯のようになき別れて、お帰りになる間でも、お思いください。私のことを。(中西1981.319頁)
 春日野で、友鶯が鳴いてゐる、それに因みある、別れを惜しんで泣いて別れて、家へ歸られる間をも、思ひ給へよと吾を。(窪田1985.254頁) 
「春山の」説
 春の山で鶯が友と鳴きながら別れるやうに、私逹も泣いて別れて、あなたはお歸りになりますが、その道󠄁の間でも思うて下さいませ。私を。(澤瀉1962.95頁)
 春山の 友うぐいすが 鳴き別れるように お帰りになる間も 思ってくださいわたしのことを(新編全集本46頁)
 春山の鶯が友と鳴く鳴く別れるように、泣き別れしてお帰りになる間も、思って下さいませ、私のことを。(稲岡2006.25頁)
 春の山でうぐいすが、友と鳴く鳴く別れるように、泣き別れしてお帰りになる間も、思ってください、私のことを。(阿蘇2009.389~390頁)
 春山の友鶯が鳴き別れをするように、泣き別れてお帰りになるその間もお思いください。私のことを。(多田2009.49頁)
 春山の仲間同士の鶯が鳴き交わして別れるように、泣く泣く別れを惜しむ私と別れてお帰りになるその道の間でも、思って下さい、この私のことを。(伊藤2009.371頁)
 春山の友鶯が鳴き別れるように、泣いて別れて、お帰りになる間も思って下さい、私のことを。(新大系文庫本127頁)

 いずれの場合も、友の鶯が鳴き別れるように泣き別れ、お帰りになる間にも私のことをお思いになってください、という意ととられている。鶯の友が別れるのに鳴くのと、人の友が別れるのに泣くのとをパラレルに扱って歌の修辞としている。ナクという言葉に「鳴く」と「泣く」があるからその結びつきから歌の序として鶯の話をしている。場所や時点を一句目でどう言っていたか、今となっては判断できないとされ、二つの説が通行している。
 近年では、「春山の」とあったほうが歌の風情としてしっくりくると思われて、その説をとる注釈書が目立つようになっている。春の相聞に採られているのだから「春山の……」とあって然るべきと考えられている。ただ、そうなると、鶯の友のあり様を語ることは人の友のあり様を導いているに過ぎず、比喩表現上、言葉の操り方として単調で、巧緻なものとはいえない。
 筆者は、もっとずっと言葉遊びのある歌であると考える。
 特定の地名、「春日野」をもって歌っているとすると、春日野でなければ表すことができない内情を語ろうとしているのだろう。他のどこの地の鶯でもなくて、春日野に限って「友鶯」であることが明瞭になるという意味である。
 カスガノという言葉の響きは、カス(糟)+ガ(処)+ノ(野)の意を彷彿とさせる。もちろん駄洒落である。カス(糟)とは酒糟(酒粕)のこと、酒を絞った残りである。酒と酒糟とは酒類の「友」であるという考えから発想している。酒糟としては酒が絞られてしまうと、それまでの濁り酒ならまだ人から望まれることが多かったが、糟だけになってしまうと持て囃されることはなくなり、人気は下火になって思いを寄せられることがなくなる。人は御酒にばかり気が行って捨て置かれてしまうのである。そんなことしないでください、と相手に言っている。「帰ります」、「思ほす」は「帰る」、「思ふ」の敬語表現である。相手は御酒のように貴い存在だからそう言っている。尊い酒類であれば「御酒みき」(ミ・キはともに甲類)といい、尊い人であれば「きみ」(キ・ミはともに甲類)と呼ぶ。帰るだけあって音が転倒している。転倒の理由は鶯の鳴き声の聞きなしによる。
 鶯の鳴き声は、今では「ホーホケキョ」が一般的に認知され、少し前まで「ホケキヨオ」ととって法華経との関係に関心が向かっていた。だが、中古には「ひとくひとく」と聞きなされた。人来人来、つまり、人が来るという意味に受け取っていた。

 梅の花 見にこそつれ 鶯の ひとくひとくと いとひしもをる(古今1011)
 すだれ巻き上げてなどあるに、この時過ぎたる鶯の、鳴き鳴きて、木の立ちれに、「ひとくひとく」とのみ、いちはやく言ふにぞ、簾おろしつべくおぼゆる。(蜻蛉日記・中)

 この聞きなしが上代に遡るのが当該歌である。万葉集1890番歌で、春日野で糟と別れてミキ(御酒)を絞った時、鶯は鳴いて「ひとひと」と呼んでいた(注2)。お帰りになる時、帰路の間も思い出してくださいね、キミ(君)よ、と歌っている。御酒が目当てでやって来た友は、飲んでいい気持ちになったら最後、相手のことなど忘れて帰途についてしまうことが多い。酒を酌み交わしてから帰って行くその間だけでも招待した人の顔を思い浮かべてほしいものだと歌っているのである。

(注)
(注1)「春山野」を「春山の」と訓むことは「の」の甲乙が異なり、本来は誤りで、意改している。また、「友鴬」ではなく「犬鴬」が正しいのかもしれないが、後考えを俟つことにする。
(注2)万葉集には鶯を詠んだ歌が五十一首あり、そのうち、鳴き声の「ひとひと」をもって歌にしたものも散見される。拙稿「万葉集、葛井連広成の宴の歌について」ほか参照。

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窪田1985. 窪田空穂『萬葉集評釈 第6巻』東京堂出版、昭和60年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集③』小学館、1995年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋『日本古典文学大系6 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 万葉集全註釈 八』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
土屋1976. 土屋文明『萬葉集私注 五(新訂版)』筑摩書房、昭和51年。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
                                 (加藤良平)
 万葉集巻第四、相聞の部立に次の歌がある。新大系文庫本の訳を併記する。

  天皇すめらみことの、海上女王うなかみのおほきみに賜ふ御歌一首〈楽宮らのみや即 位あまつひつぎしらしめしし天皇なり〉〔天皇賜海上女王御歌一首〈寧樂宮即位天皇也〉〕
 赤駒あかこまの 越ゆるうまの 結びてし いもが心は 疑ひもなし〔赤駒之越馬柵乃緘結師妹情者疑毛奈思〕(万530)
  右は、今案ふるに、此の歌は擬古の作なり。但し時に当るを以て、便ちの歌を賜へるか。〔右今案此歌擬古之作也但以時當便賜斯歌歟〕
  海上女王のこたまつる歌一首〈きの皇子みこむすめなり〉〔海上女王奉和歌一首〈志貴皇子之女也〉〕
 梓弓 つま引くおとの とほにも 君がゆきを 聞かくししも〔梓弓爪引夜音之遠音尓毛君之御幸乎聞之好毛〕(万531)
 赤毛の駒が跳び越える柵を縄でしっかり結び固めてあるように、固く結婚の約束を交わしたあなたの心は、確かで少しも疑いない。(万530)
 梓弓を爪弾く夜中の弦音が遠く響いて来るように、遠くからでも大君のお出ましのお噂を聞くのは喜ばしいことです。(万531)

 ここでいう「天皇」は聖武天皇のこと、海上女王は志貴皇子の娘で、聖武の又従姉妹に当たる。巻第四の並び順からすると養老年間の作とする意見もあるが、時代順に編集されているとは確定されない。題詞に君主号を記す場合、遡及してその皇太子時代にも援用することが知られている。
 歌のなかで、万530番歌の三句目「緘結師」については、「しめひし」と訓む説と、「むすびてし」と訓む説がある。理解の肝になるところがわからないから歌の意が不明なままである。「結びてし」説は、上二句と「しめ」は結びつかないとし、元暦校本にある「𫄅結師」の「𫄅」字は名義抄にムスフの訓が見えるからそう訓み、また、次の類歌をあげる。

 大海おほうみの 底を深めて 結びてし いもが心は 疑ひもなし〔大海之底乎深目而結義之妹心者疑毛無〕(万3028)

 「しめひし」説は、集中においてムスブには仮名書き以外はすべて「結」字を用いること、ムスビテシには「結而石」「結而為」「結大王」「結義之」と助詞のテ・シをきちんと表記しているのにここではそうしていないことが難点であると指摘している。そして、説文に「緘、所以束篋也」、新撰字鏡に「緘 古减反、平、束篋也、封也、索也、閇也」とあるように、縄状のものをめぐらしてとじる意を表すのは、シメナハと呼ばれるようにシメの義によく合うとする(注1)
 いずれも、赤駒が越えられないようにするために、木の柵どうしを縄状のもので結びとめる、ないしは差し渡して補修することと考えている。「緘」字は、墨子・節葬下に「榖木之棺、葛以緘之。」とある。中国では葬送の古式に棺をとじるとき釘を打たず、葛の繊維を幾条にもわたってぐるぐる巻きにしてとじたようなのである。この方法が木の柵どうしを結びつけることに当たるとされ、万530番歌の原文に「緘結師」と記されていると思われている。そして、左注にいう「擬古之作」の「古」は古代中国のことを指し、何条もの糸で結びつけられているから妹に当たる馬は離れては行かないという主張につなげようとしている。
 このような現状の解釈は落ち着かない(注2)。訓みの問題のほか、万530・531番歌のやりとりが、漠然としていてはっきりとした焦点を結ばないのである。万530番歌の四五句目で絶対に心が離れないと自信をのぞかせているのだから、相当に堅固な柵に改修したか、別の新手の方法で逃げ出すことができないようにしたと考えるべきだろう。木に何条も繊維を渡しかけたからと言って柵の高さは変えられないし、そもそも一部が壊れ崩れて隙間が空いていたとも語られていない。
 左注の人は、万530番歌について、今、考えてみると、「擬古」の作に思われるとしている。歌のなかで「擬古」を示しているとおぼしき箇所は歌の「緘結師」部分だろうから、その点、墨子にあるようなことが想定されているようである(注3)
 時代別国語大辞典は「結ぶ」に三つの義をあげる。①結ぶ、ゆわえる、紐状のものの端と端とをつなぐ、②約束する、言い交わす、➂かたまる、凝る、霧・氷など自然物についていう、である。その「考察」では次の三つの歌を手掛かりにして論を進めている。

 あしひきの 名に負ふ山菅やますげ 押し伏せて 君し結ばば 逢はざらめやも(万2477)
 八千やちくさの 花はうつろふ 常磐ときはなる 松のさ枝を 我は結ばな(万4501)
 いもかど 行き過ぎかねて 草結ぶ 風吹き解くな またかへり見む(万3056)

 すなわち、「実際に物を結ぶことで約束する・契りを結ぶことを予定しようとする心持に使われた例が多い。」とし、①「結ぶ、ゆわえる、紐状のものの端と端とをつなぐの意で用いられてもその動作には契る心持がこめられ、②「約束する、言い交わす」の場合も「何かをムスブ動作と無縁になってはいないようである。」と捉え、「あるいはムスブの原義ははなればなれになっているものをまとめて一つにする、という意味で他の意へも派生していったと考えている(725頁)。結局のところ、「結ぶ」という語は、多かれ少なかれ契るの意を含めて使われているというのである。
 そこで、「緘結師」の示すところが契ることと捉えてみて意が通じるか考えてみよう。
 聖武天皇と海上女王がまだ若い頃に交わされた歌で、実際に将来を誓い合ったと考えることはとてもではないが歌の精神に合わない(注4)。歌はよく言えば言語芸術であり、実態がどうであるかにかかわることなく三十一音ほどで表して言葉の〝あや〟を楽しむものである。二人は言葉の〝あや〟をなす歌を交わしておもしろがり、周囲で聞いていた人も言い得て妙と感心した。うまいなあと思われたから伝えられている。
 つまり、二人は若いわけではなくて、比喩を交えて巧みに表現したところが注目に値した。
 万530番歌で、「赤駒の 越ゆる馬柵の 緘結師」において、「結ぶ、ゆわえる、端と端とをつなぐ」という行為を表しながら、「妹が心は 疑ひもなし」において、「約束する、言い交わす」意へと、かなり強引に、文字どおり、結んでいる。どういうことかといえば、聖武(首皇子)は、ウナカミという人に対してなぞ掛けをしたということである。
 赤い馬が牧の柵を越えてしまうのをどうにかしようと思って「緘結」している。柵どうしを結んでも助走をつけられたら越えられてしまう。ならば、馬を柵に「緘結」してしまえばいいのである。「緘結」したのと意味上相同である約束を結んだからには、あなたの心はどこへも離れてゆくことがない、それは疑いようがないことだ、と言っている。
 いかなる方法がとられているか。相手はウナカミさんである。ウナカミとはたてがみのことである。だから馬の登場する歌で歌いかけていた(注5)

 鬣 唐韻に云はく、鬐〈音は耆、今案ふるに、鬐鬣は俗に云ふ宇奈加美うなかみ、又、魚の鬐鬣は魚体に見ゆ〉は馬の項上の長毛なりといふ。文選に、軍馬は髦をなびかせて仰ぎまぐさかふといふ〈髦の音は毛、訓は師説に髦は多知賀美たちがみ、鬣の称なり〉。(和名抄)
 背子〈領巾付〉 弁色立成に云はく、背子〈賀良岐沼からぎぬ〉は形、半臂のごとし、腰襴の袷衣無きなりといふ。楊氏漢語抄に云はく、背子は婦人の表衣、錦を以て之れと為す、領巾〈日本紀私記に云ふ比礼ひれ〉は婦人の項上の飾りなりといふ。(和名抄)

 ウナカミノオホキミという名が示す触れ込みでは、ウナ(項)カミ(髪)、すなわち、項のところで髪をまとめて髫髪うなゐ姿をしている少女、十二三歳ぐらいまでの髪型なのだというのである(注6)。髪を「緘結」していることを名としている。髪のことは馬では鬣に当たるから、その鬣を「緘結」してしまえば柵を越えられることはない。「結」字をユフと訓む場合にも、髪を結う意で使うことが多かったから選んだ字は的確である(注7)。馬柵の立杭に一本一本ごとに「緘結」するようにしていく。まるで機織りの時に経糸の間隔がそろうよう筬のすき間に通し、その先を千切りという巻棒に結びとめてテンション等しく張るようにである(注8)。結果、筬には鬣の毛の糸が幾条もわたり通っていて身動きが取れなくなっている。木枠にひごを立て並べた筬は柵のように見える。
 すなわち、機ごしらえ時に経糸を千切りに結びとめることに見立てて「緘結」と表している。ここでの訓みの案として、それを「ちきる」と呼んだとする説を提唱する。「結ぶ」という語の奥義は契ることにあり、別名を緒巻とも呼ぶ千切りには「榺」という字が当てられることもある(注9)

左:「緘結師」(宗像大社の金銅製高機と甲塚古墳出土の埴輪の馬(再現色レプリカ)のコラージュ)、右上:千切り(川崎市立日本民家園展示品)、右下:筬(北海道アイヌ、木製・竹製、19世紀、徳川頼貞氏寄贈、東博展示品)

 赤駒の 越ゆる馬柵の ちきりてし 妹が心は 疑ひもなし(万530)
 赤い馬は放っておいたら越えてしまう馬の柵を越えないようにするために、その鬣の毛を機織りの経糸のように見立てて柵越しに一本一本千切りになる木に巻きつけておいた。これは契りを結んだことに他ならないから、彼女の心が柵を越えて他の男のところへ行くことがないのは疑いなしだ。

 歌い終わった聖武天皇は、海上女王がこの表現を理解できたか、期待して返し歌を待っていたことと思われる(注10)。彼女は遠く聞こえる音をもって答えている。

 梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 君が御幸を 聞かくし良しも(万531)
 夜、梓の弓を爪弾く鳴弦の音は遠くかすかだけれど、(その前に大きな鐘の音が聞こえ、きっとチキリを被った役人が衝いたのだろうから、)君がお出ましになることの合図に違いないと確信が持てて嬉しいことです。

 天皇が吹っ掛けてきた話はチキリのことだから、チキリはチキリでも頭巾のチキリのことをもって答えようとしている。時を知らせる鐘を衝く役人は、赤いチキリと呼ばれる頭巾を被ることが定められていた。

 其の鐘撃かむ吏者つかさは、赤のちきりを前に垂れよ。(孝徳紀・大化三年四月)

 歌の左注に「但、以時当便賜斯歌歟。」とあり、「時」がテーマであると明示されている。左注を付けた人には二人のやりとりの内実が理解されていた。
 チキリを被る役人は時報の鐘撞番で、時の鐘以外にも警備のために撞くことがあった。夜間の警鐘時には、邪気を払うことから始まった鳴弦の儀(注11)も行われた。音を出す点で両者は並び、セットのものと考えられていたようである。天皇が夜間にお出ましになると聞けば、出発に当たって邪気払いのために弦を爪弾いた。女性のところへ行くのは夜這いというように夜のことである。囲い者の女のもとへ出掛けるのである。要人の移動には不審な者が近くにいないか、まず赤いチキリを被った役人が鐘を衝き、その音を聞いて警備員は一斉に配置に就いた。鐘の音は大きく、弦を弾いた音は小さい。鳴弦の音は「遠音」と表現されてしかるべきものである。
 すべては言語遊戯である。チキリという言葉の多重の意味を掛け渡すように歌問答が行われている。言葉がどのように生まれたかは今となってはわからない。古くからそう言われてきているところを突いて歌としているから「擬古之作也。」とされている(注12)。むろん、実際に天皇が女王のもとへ夜這いしたかどうかは問題ではない。二人の関係が親密なものだったかなど、歌を歌い合う場において条件とならない。言葉をいかに弄するかにばかり関心がある。問題は言葉の使用にあって、話が通じるなら楽しい。そして、声に出して歌われて周りの人が聞くことが当然視されていた歌であれば、皆が楽しめるものこそが名歌であり、後世へ伝えるに値した。機知を込めた言葉が通じることは、ヤマトコトバというコミュニケーション手段を支えにして統一を成したヤマトノクニが、まこと確かなものであると感じる瞬間でさえあっただろう。律令官僚制のなかで位置づけるとするなら、位階に定めるべき事柄に当たる。海上女王は聖武天皇の即位時(神亀元年(724年)二月)、従三位を授かっている。この優れた返歌ゆえのことだったのかもしれない(注13)

(注)
(注1)二説の整理は影山2009.による。
(注2)狩猟、騎射を贈答の題材にしているとする説もあるが、末端の皇族女子である海上女王にとって関心の埒外のことではないか。
(注3)筆者は、後述のとおり、「擬古」の「古」の本義は別にあると考えている。それに重ねる形で中国の棺の事情を「古」であると見て記している。
(注4)実景か虚景かを二者択一で問う素朴実在論的な見方には、いかなる意味も見出しえない。万葉時代、歌は声に出して歌われたものであった。後に伝えられ残っているのは第三者が聞いていることが条件となる。その時点ですでに第三者の視点が加わっており、一人称の見る実景と限ることはできない。ならば虚景かといえば、言語を観念の産物、実在とは離れたものと措定することになり、その間に何があるのか問い続けなければならなくなる。我々は言語をそのように難しく考えながら使っているだろうか。そしてまた、ならば仮託された作品かという発想も生まれるが、万葉時代の歌が歌われるものである限りにおいて、顔を見せて声をあげているのに過去の人に成りすますことなどできないだろう。
 ところが、研究の現状では、万葉集の歌をまるで個人の主張であるかのように捉えられることが多い。例えば品田2023.は、左注の書きぶりをぎこちないと見、何か特殊な背景があることと勘づかせるための仕掛けであると考えて、海上女王と聖武天皇との仲を何者か(藤原氏)に妨害された事情をほのかしているらしいとの憶説をかたっている。
(注5)端午の節の狩りと関わりがあるとする見方があるが、聖武天皇が即位した神亀元年(724年)の五月五日に猟騎の儀式を見ており、巷間に考えられている「擬古」に当たらないことになる。
(注6)名前が決まっていると、年を重ねても髪型が変わらない印象を与える。例えば、桜子という名は、春でなくても咲き誇るかのように元気に生きているように思われる。
(注7)万葉歌の例をあげておく。

 肥人こまひとの 額髪ぬかがみへる しめ木綿ゆふの みにし心 我忘れめや〔肥人額髪結在染木綿染心我忘哉〕(万2496)
 なげきつつ 大夫ますらをのこの 恋ふれこそ わが髪結かみゆひの ぢてぬれけれ〔歎管大夫之戀礼許曽吾髪結乃漬而奴礼計礼〕(万118)

(注8)筬を通して千切りに結びつけることを思っており、それを柵と見立てている。民具の筬には、木枠に竹ひごを多数立て並べたものが知られている。
(注9)贈答歌においては言葉を共有して機知あふれる反発的応酬が行われた。当該歌ではチキリという言葉をめぐって歌をやりあっている。
(注10)機織具のチキリには「縢」という字が使われることがある。説文に「縢 緘也、从糸朕聲」、毛詩・小戎の「竹閉緄縢」の伝に「縢 約也」、また、閟宮の「朱英緑縢」の伝に「縢 縄也」とある。新撰字鏡には、「榺 始孕反、也、支奴於留戸きぬおるへ」、「榺綜 久留くる」、「𣜤 先和反、榺也、織𣜤也、織行緯者也、梭也」と見え、混乱があるようである。
(注11)鳴弦は、バイオリンのピチカートのように弓の弦を引き弾いて音を鳴らすことである。平安時代には、生誕儀礼としての湯殿始ゆどのはじめの時に同時並行された読書とくしよ鳴弦めいげんの儀、夜中の警護、不吉を感じた時、病気の時、天皇の日常の入浴に際しても行われた。邪気払い、悪霊払いの意味があったという。
(注12)現行の通釈書では、「擬古之作」について、古風な歌を模した創作歌という意であると捉えられている。木下1983.参照。
(注13)萬葉集正義は、志貴皇子の娘だからそれなりの年配で、聖武天皇の即位に貢献があって従三位が与えられているとしている。あるいは、個人的な恋愛感情から女性の位階を特進させたとする見方もある。しかし、そのようなことをしていたら周囲は黙ってはおらず、律令制の秩序は乱れただろう。海上女王が傾国の美女であったとも伝えられていない。このような叙位叙勲の例としては、夙に古事記に知られている。倭建命の東征後、酒折宮で御火焼の老人はいわゆる筑波問答で機知を発揮し、東国造を給わっている。拙稿「「かがなべて」考」参照。ただし、他にもたくさんの人が位を授かっているので何をもってかは不明である。

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、平成8年。
影山2009. 影山尚之『萬葉和歌の表現空間』塙書房、2009年。(「聖武天皇と海上女王の贈答歌」『萬葉』第160号、平成9年3月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1997)
木下1983. 木下正俊『萬葉集全注 巻第四』有斐閣、昭和58年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。 
品田2023. 品田悦一「不可解な注記とどう付き合うか─『万葉集』をテキストとして読むために─」鉄野昌弘・奥村和美編『萬葉集研究第四十二集』塙書房、令和5年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
萬葉集正義 萬葉集正義編集委員会編『萬葉集正義第2』八木書店、2025年。
                                (加藤良平)
 「うちなびく」はウツ(接頭語、動詞「打」からの派生)とナビク(靡)の合成語である。「なびく」との間には意味合いに違いがあるものと考えられる。
 語義としては、まず、枕詞として、①春になると草木がなよやかに靡くから、はるにかかる、という場合と、②なよなよと靡く草の意で、地名くさにかかる、という場合がある。また、動詞として、①しなやかに靡き伏す、横になる、という義と、②物に感じて心がその方に靡く、という義があげられている(時代別国語大辞典120頁)。万葉集では三十一例確認されており、比喩表現のためさまざまな意に受け取り得る。ここでは先行研究に倣って概ね以下のように分類、整理し、便宜的に枕詞の場合は「うちなびく」、動詞の場合は「うち靡く」のように記す。

 (a)春にかかる枕詞
 天降あもりつく 神の香山かぐやま うちなびく〔打靡〕 春さりれば さくらばな しげに ……(万260)
 …… おほ日本やまと 久邇くにみやこは うちなびく〔打靡〕 春さりぬれば やまには 花咲きををり かはには 年魚子あゆこさ走り ……(万475)
 うちなびく〔有知奈毗久〕 春の柳と 我がやどの 梅の花とを いかにかかむ(万826)
 まくづふ かすの山は うちなびく〔打靡〕 春さりくと 山のうへに 霞たなびき 高円たかまどに うぐひす鳴きぬ ……(万948)
 うちなびく〔打靡〕 春きたるらし 山のの 遠きぬれの 咲きく見れば(万1422)
 …… うれしみと 紐の緒解をときて 家のごと 解けてそ遊ぶ うちなびく〔打靡〕 春見ましゆは 夏草の 茂くはあれど 今日けふの楽しさ(万1753)
 うちなびく〔打霏〕 春立ちぬらし かどの 柳のうれに 鶯鳴きつ(万1819)
 うちなびく〔打靡〕 春さり来れば 小竹しのうれに 尾羽をはうち触れて 鶯鳴くも(万1830)
 うちなびく〔打靡〕 春さり来れば しかすがに 天雲らふ 雪は降りつつ(万1832)
 山のに 鶯鳴きて うちなびく〔打靡〕 春と思へど 雪降りしきぬ(万1837)
 うちなびく〔打靡〕 春さりらし 山のの 遠きぬれの 咲き行く見れば(万1865)
 …… かけまくも あやにかしこし かむながら わご大君の うちなびく〔宇知奈妣久〕 春の初めは 八千やちぐさに 花咲きにほひ ……(万4360)
 うちなびく〔宇知奈婢久〕 春を近みか ぬばたまの よひつく 霞みたるらむ(万4489)
 うちなびく〔打奈婢久〕 春ともしるく 鶯は うゑ木間こまを 鳴き渡らなむ(万4495)
 (b)草香にかかる枕詞
 おしてる なにを過ぎて うちなびく〔打靡〕 くさの山を 夕暮ゆふぐれに が越え来れば ……(万1428)
 (c)寝る、臥すに関係する
 阿騎あきの野に 宿る旅人 うち靡き〔打靡〕 らめやも いにしへ思ふに(万46)
 …… 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬあひだに うち靡き〔宇知那毗枳〕 こやしぬれ 言はむすべ せむ術知らに ……(万794)
 …… 息だにも いまだ休めず 年月も 幾らもあらぬに うつせみの 世の人なれば うち靡き〔宇知奈妣吉〕 とここいし いたけくし 日にまさる ……(万3962)
 …… 世の中の 常し無ければ うち靡き〔宇知奈妣伎〕 とここいし 痛けくの 日に異に益せば ……(万3969)
 (d)玉藻など海藻が関係する
 葛飾の 真間ままいりに うち靡く〔打靡〕 玉藻刈りけむ 手児名てこなし思ほゆ(万433)
 …… 鳥じもの なづさひ行けば 家の島 荒磯ありその上に うち靡き〔打靡〕 しじひたる のりが などかもいもに らずにけむ(万509)
 鯨魚いさなとり はまを清み うち靡き〔打靡〕 ふる玉藻に 朝凪あさなぎに 千重ちへなみ寄せ 夕凪ゆふなぎに 五百重いほへ波寄す ……(万931)
 水底みなそこに 生ふる玉藻の うち靡き〔打靡〕 心は寄りて 恋ふるこのころ(万2482)
 海原うなはらの 沖つ縄苔なはのり うち靡き〔打靡〕 心もしのに 思ほゆるかも(万2779)
 …… 明日香あすかの川の 速き瀬に 生ふる玉藻の うち靡き〔打靡〕 心は寄りて 朝露の なばぬべく 恋しくも しるくもへる こもづまかも(万3266)
 明日香川 瀬々の玉藻の うち靡き〔打靡〕 心は妹に 寄りにけるかも(万3267)
 荒磯ありそやに 生ふる玉藻の うち靡き〔宇知奈婢伎〕 独りやらむ を待ちかねて(万3562)
 (e)黒髪が関係する
 ありつつも 君をば待たむ うち靡く〔打靡〕 が黒髪に 霜の置くまでに(万87)
 君待つと 庭にしれば うち靡く〔打靡〕 吾が黒髪に 霜そ置きにける(万3044)
 (f)心が直接関係する
 今更いまさらに 何をか思はむ うち靡き〔打靡〕 心は君に 寄りにしものを(万505)
 …… あしひきの 山にも野にも ほととぎす 鳴きしとよめば うち靡く〔宇知奈妣久〕 心もしのに そこをしも うらごひしみと 思ふどち 馬打ち群れて たづさはり 出で立ち見れば ……(万3993)

 最も了解しにくいのは、(a)(b)の枕詞としての春への続き方である。春になると草が生えだして靡くからと言われているが、草は長く伸びた後になってようやく風に靡く。五ミリの新芽は靡かない。
 枕詞とされるもの以外は比較的了解されやすい。(c)の例で、寝る、臥すに関係する場合、ただ横になることを指しているのではなく、旅路でやむを得ずに仮眠をとるために横臥することについて使われている。安息できていない点が特徴で、無理やりに臥させている点で「うち・・靡く」という表現が当てられている。(d)の海藻の場合、波に揉まれながら生育しているのであって、海面を越えて屹立するものではない。表現として無理がない。その点は(e)人間の髪の毛が、とりわけ日本人に多い直毛の、腰のない黒髪が長く伸びて行く様に準えるのにかなっており、援用されることは自然な流れである。また、譬えに海藻をとり上げて述べていた人間の心について、媒介となる海藻を言葉で言わずに、(f)のように直接心が靡いていると述べるのも許容範囲内だろう。
 枕詞の「うちなびく」が「春」と絡み合うほどに言葉どうし密接な関係を築いているのか、説得力のある説はこれまでのところ提出されていない。上代の人たちの抱いていた枕詞的思惟に近づかなければ、当該歌の理解だけでなく、「春」についての観念、季節観について語ることもできない(注1)
 枕詞と被枕詞との関係は、今日では不明となっている場合が多く、歌作者が暗記すべき修辞なのものと考えられることもある。ただし、そのような枕詞が生まれた万葉時代に、棒暗記のもとに歌言葉として使われていたとは考えにくい。言葉は、人々の共通理解のもと、一定の意味を担うものとして使用される。とりわけ無文字時代にあっては、文字を介さずに理解する必要があり、一言半句、妥協を許さず互いに納得し合っていることが求められる。「うちなびく」と「春」との間に底知れぬ緊密さが隠されているはずなのである。
 「うちなびく」の「うち」がいまだ動詞の意を含んだものと思われていたならば、「靡く」は元を支えられながら先がしなやかに揺れ動く意だから、直立に対して横方向へ揺れ動くことを誘発するものとして「うつ」(打)という語が結びつけられていると考えられる。そのような「うつ」の語義に弓を打つ意がある。まっすぐな材をたわめて反発力を得るのが弓の機能である。特に和弓独特の反りを作るに当たっては、楔のようなものを槌で打って反りをつけている。そのことを「弓を打つ」という。弓の曲がり具合は材質によって決まってくるが、使い勝手の良さから内と外の両側に竹を用い芯材を挟みこむように作った伏弓(三枚打の弓)が儀礼の場でも戦陣においても用いられるようになる。

合弓(江戸時代、19世紀、東博展示品)
 鈴木2014.に、「[平安初期の射礼の的弓では、]……充分深く引き込むことを必要とするに至り、唐制による合わせ弓からなる彎弓の引き込みに利あるを参看して、木弓の外側にだけを伏せて鰾膠にべ(鹿の生皮で製すのを常とする)をもって合わせたいわゆる伏竹の弓を生じ、的弓には必ずこれを使用することになった。」(358頁)とあり、また、「木質に竹を細く割って、鰾膠をもって練り著けることは、すでに正倉院御物中の鉾の柄に存し、河内の誉田八幡宮所蔵の薙刀の柄もこのように拵えた上に鉄蛭巻を施して、後世ではうちと呼んでおり、……」(359頁)と、その技術、ならびに「うち」と呼ぶことが時代を遡る可能性のあることを示唆している。
 つまり、弓を打つこととは木弓に竹材を伏せることで、それは竹材を貼ることであり、そして、弓弦を張ることで弓の機能が発揮されることになる。的弓でも軍陣でも一斉に構えると総体として弓は曲がって靡くように見える。それが可能なのは、弓を打って作り、貼ることと張ることが行われた結果であり、かくて、枕詞「うちなびく」はハル(春)に掛かるとして尤もなのである。
 「うちなびく」という言葉を弓の用語として捉えている。弓を打つことで一定のたわみを得ながら、反対方向へ強く曲げて靡かせるように弓弦を掛けている。弓弦は時として切れ、切れてしまえば弓は弓でなくなる。弓弦が弓弦としてあるためには、いつでも掛けられるように取って置いてあることが要件である。特にうさ弓弦と呼ばれ、儲けの弓弦である。天皇の位に関していえば、それは皇太子の地位に当たり、儲君まうけのきみとも呼ばれた。皇太子のことは漢名で東宮と言い、五行思想により春宮とも記される。「うちなびく」と「春」の関係を示す文字上の証拠となっている。
 (c)の例では、人の体が臥した体勢になっている。臥しているから伏弓のことがクローズアップされ、竹の節の性質を利用して弓を打っている。弓にある節は、人体が臥すときに関節を屈曲させるのと同じように働いていると見立てている。人を「うち靡く」ように人を無理やり伏させるためにはむちしもと)を使って打ち据えればよい。杖には多く竹木類が使われている。律令では、その節部分が当たるとそこばかり痛めて生傷になることがあるから節を削り取るように指示されている(注2)。しなやかな笞杖ほど、打つ回数、時間は増やすことができる。打たれる人だけでなく、それを目にする観衆にも心理的なダメージを与え、抑止効果も大きいと考えられたようである。いずれにせよ、打たれる罪人の皮膚は腫れあがる(注3)。「うちなびく」という言葉を刑具用語として捉えても、「る」だから同音の「春」に掛かるという次第であった。
 枕詞は意味を多重に分厚く兼ね載せることで成り立っている言葉である(注4)。この「うちなびく」という言葉でも多重の意味を滲出する効果をいかんなく発揮して「春」に掛かっているのであった(注5)

(注)
(注1)渡部1993.では、「冬ごもり春」から「うちなびく春」へと表現が変わって行ったことについて、暦の発想によって景物への関心を深めて行ったと考えている。
(注2)「凡そぢやうは、皆節目削りてよ。」(養老令・獄令)。
(注3)和名抄には次のように釈されている。

 腫 山海経に云はく、㾈〈音は符、一音に府、今案ふるに俗人の所謂る乳㾈、歯㾈は宜しく此の字を用ゐるべし〉は腫なりといふ。野王案ずるに、𤺄〈之勇反、字は亦、腫に作る、波留はる〉は、身体、㿺起し虚満するなりとす。
 疻 漢書音義に云はく、疻〈音は脂、訓は宇流無うるむ〉といふ。杖を以て人を撃てば、其の膚皮に起りて青黒きなり。

(注4)廣岡2005.、大浦2017.参照。
(注5)言葉が何かを説明するためにあるとして、歌のなかでもただその用法に則って使われているだけだとしたら、韻文として扱うには及ばないだろう。「うちなびく春」という言葉遊びから万葉びとの季節観を導き出そうとしても得られるところは少ない。

(引用・参考文献)
大浦2017. 大浦誠士「「枕詞は訳さない」でいいのか」松田浩・上原作和・佐谷眞木人・佐伯孝弘編『古典文学の常識を疑う』勉誠出版、2017年。
新沢2017. 新沢典子『万葉歌に映る古代和歌史─大伴家持・表現と編纂の交点─』笠間書院、2017年。(「大伴家持作「挽歌一首」の表現と主題─「玉藻なす なびき臥い伏し」をめぐって─」『鶴見大学紀要 第1部 日本語・日本文学編』第47号、2010年3月。鶴見大学・鶴見大学短期大学部機関リポジトリhttps://doi.org/10.24791/00000017)
鈴木2014. 鈴木敬三『武器と武具の有職故実』吉川弘文館、2014年。
廣岡2005. 廣岡義隆『上代言語動態論』塙書房、2005年。
渡部1993. 渡部修「「冬ごもり春」から「うちなびく春」へ─万葉びとの季節観の展開・春の場合─」『国学院雑誌』第94巻第3号、平成5年3月。
加藤良平
野火の難

 ヤマトタケルの火難の話は、古事記では「相武国さがむのくに」の「やき」での出来事として記されており、同様の話が景行紀四十年是歳条に載る。

 かれしかくして、相武国さがむのくにに到りし時に、其の国造くにのみやつこいつはりてまをししく、「此の野のなか大沼おほぬま有り。是の沼の中に住める神は、甚だはやる神ぞ」とまをしき。是に、其の神を看行みそこなはさむとして、其の野に入りしき。爾くして、其の国造、火を其の野にけき。故、欺かえぬと知りて、其のをば倭比売命やまとひめのみことの給へるふくろの口をき開けて見れば、うち、其のうちに有り。是にづ其の御刀みはかしを以て草を刈りはらひ、其の火打を以て火を打ちいだして、むかを著けて焼き退け、かへでて、皆其の国造どもを切りほろぼして、即ち火を著けて焼きき。故、今にやきと謂ふ。(景行記)
 とし日本やまと武尊たけるのみこと、初めて駿するに至る。其の処のあたいつはり従ひて、あざむきてまをさく、「是の野に、麋鹿おほじか甚だ多し。いきは朝霧の如く、足は茂林しもとはらの如し。いでまして狩りたまへ」とまをす。日本武尊、其の言をけたまひて、野の中に入りて覓獣かりしたまふ。賊、みこを殺さむといふこころ有りて〈王とは、日本武尊を謂ふぞ。〉其の野に放火焼ひつく。王、欺かれぬとしろしめして、則ちひうちを以て火をうちいだして、向焼むかへびつけてまぬかるること得たまふ。〈一に云はく、みこ所佩はかせる剣、藂雲むらくもみづかけて、王のかたはらの草を薙ぎはらふ。是に因りて免るること得たまふ。故、其の剣をなづけて草薙くさなぎふといふ。藂雲、此には茂羅玖毛むらくもと云ふ。〉王ののたまはく、「ほとほどに欺かれぬ」とのたまふ。則ちふつくに其の賊衆あたどもきて滅しつ。故、其の処を号けてやきといふ。(景行紀四十年是歳)

 記紀の間にいくつか違いがある。両者は少し違う。焼津の場所が「相武(相模)」か「駿河」か、欺いた相手が「国造」か「賊」か、誘い文句が沼の神か「麋鹿」か、「火打」(「燧」)を取り出すとき、「嚢の口」を開けることが重要視されているか否か、草を薙ぎ払った剣の名が記されているか否か、といった点である。そして、最後に地名を命名する際、用字として記は「焼遺」、紀は「焼津」と記している。
 古事記の研究者は、従来から二つの問題点を指摘している。「焼遺」と書いてなぜヤキツ(焼津)と訓むのか、また、その焼津は「相武国」ではなくて駿河国ではないのか、という点である。古典集成本古事記は、「「焼遺」を「やきつ」とむのは、「遺」に「つ」の意があり、「つ」が「やきつ」となるのである。「焼津」と書くべきを、文脈上「焼き棄てる」なので、「焼遺」と書いたもの。この地名は、駿河国(静岡県)のやい市に当る。しかし、火攻めの受難と……「さねさし」の歌とはともに相模国であり、文脈上の照応があるなかで、この「焼津」の地名は、地理的に矛盾している。地名説話の興味にまかせた筆のすさびであろう。記中の地理的矛盾の唯一の例。」(163頁)としている。なぜわざわざ難しい用字で記しているのかについて、得心の行く説明ではない。
 真福寺寺本古事記の「焼遺」は、寛永版本では「焼遣」としている(注1)
 筆者は次のように考える。ヤマトタケル東征伝承の一話の締め括りに「焼遺」と記されている。これはその一話のまとめでもあり、話の要になっている。わざわざ太安万侶はややこしく書いて気づかせているのだから、彼の知恵に近づこうとする姿勢が求められる(注2)。記の倭建命の物語の一区切り、野火の話の最後に「焼遺」と記され述べられているからには、この語一語に話の焦点(笑点)が置かれているに違いない。古事記と日本書紀とで少し構成が違うのは、物語作者がどこに笑いのツボを持ってきているか、ネタ帳の違いである(注3)
 焼津が相模に属するという矛盾については諸説に講釈されている。新編全集本古事記は、「ヤキツの地名の起源とみられるが、静岡県焼津市にあたるとみるには地理的に不審が残る。焼津なら駿河で、相模を舞台にするというのと合わない。相模国が古くは駿河まで含んでいたともいわれるが、疑わしく、相模の地名と考えるべきか。「焼遺」をヤキツと読むことにも疑問が残る。」(226頁)とし、西郷2006.は、「神話の語る地誌に、地理学的正確さを求める必要は毫もないと知るべきである。」(74頁)とする(注4)。太安万侶の筆記の智恵に届いておらず、近づこうとする意志も見えない。
 地名であれ、神名であれ、固有名詞である。事柄は言葉と同一であろうと志向した言霊信仰においては、できごとを締め括ることと名を与えることは同一のこととしていたと考えられる。確かな伝本とされる真福寺本に「焼遺」とあるから、太安万侶が「焼遺」と書いたであろうこと、それで意味ある筆記であったこと、また、「焼遣」と書いてあってもそれなりにおもしろい可能性があることを立証しなければならない。そのときはじめて古事記は「読めた」と言えるのだろう。

向ひ火による脱出劇

 古事記の話は向ひ火による脱出劇である。その話の発端は、相武国さがむのくに国造くにのみやつこに騙されて、野のなかに入りこみ、その沼のなかにいるという神を見ようとしたことであった。なぜ、わざわざ相武国なのか。それは、サガムという音に由来する。アマテラスとスサノヲのうけひの場面で、アマテラスがスサノヲの持っていた十握剣とつかのつるぎをカリカリと噛む情景が描かれている。

 佐賀美邇迦美而さがみにかみて、……(記上)
 𪗾然さがみ咀嚼みて、〈𪗾然咀嚼、此には佐我弥爾加武さがみにかむと云ふ。〉……(神代紀第六段本文)

 サガミニカムとは噛みに噛むという意味である。サガム(相武)という言葉は、一生懸命に噛んでいることを伝えているわけである。無文字文化では、言葉は音がすべてであったからそういうこととして受け取られ、そういうこととしておもしろがられた。サガムという国では皆、一生懸命に噛んでいるのである。カムの原義は、米を歯で噛んで酒を造ること、醸すことだから、さぞや酒造りが盛んな地なのだろうという洒落ができている。サガムノクニへ行けば、ヤマトタケルは酒宴を以て迎えられるものと期待していたに違いないと、お話を聞く人は思うのである。言語感覚として飛鳥時代の人に共有されていた。
 そして、新任の国司が任国へ入る時に、国府の役人が国境まで出迎えて饗応する儀式をサカムカヘ(境迎へ・坂迎へ、ヘは乙類)と言い、遠路はるばる帰って来た人を出迎えて饗応することも言った。「相武国……其国造」が出迎えているのだから、当然、饗応されると思っていた。ところが、野のなかに沼があって、そこに得体の知れない神がいると聞かされた。さぞやおもしろい趣向で酒宴を催してくれると思って出掛けてみるとドッキリが仕掛けられていた。まんまと嵌められて焼かれてしまいそうになっている。「迎」えること自体の逆、「逆迎さかむかへ」である。逆さの概念が登場している。

観世音寺の碾磑下石と野火の難の同心円イメージ概念図、右:瓊(龍文璧、中国、戦国~前漢、前4~前2世紀、東博展示品)
 どこまで嵌められているかというと、「於此野中大沼」という語りから騙りであった。沼などない。沼があれば野火に追われても沼の水で助かる。沼がなかったから、沼の代りとなる火除け地を、草を刈り払うことで作っている。「於是先以其御刀-撥草」とある。「御刀」はミハカシと訓む。大刀は古代において、二本の組紐を以て腰に佩かせるものであった。「はかす」からハカシである。このハカシを使って沼の代りになるものを作る。草を刈り払って燃える枯草を無くしたのである。すなわち、地面から燃料となる枯草をがし、まるで沼ででもあるかのようにかした。ハカシ─ハガシ─バカシの連想によって意が伝わるようにできている。無文字時代の人の語感に負っている。
 次に、袋の中から火打石を持ち出して火を打ち出している。火打石は、石英の一種の燧石すいせき(flint)と、炭素含有の一定程度ある鉄とからなる。打ち合わせたときの衝撃で微小な鉄粉が摩擦熱と酸化熱のために火花となって出るが、着火させるのはなかなか難しい。それでも、袋から火打石を出したところでもはや火は打ち出されていると考えられる。打ち出の小槌ならぬ打ち出の火打である(注5)
 国造たちの仕掛けてきた野火とは、サカムカヘ(逆迎)のための迎え火である。対抗する倭建命は、逆に「著向火」けた。ムカヘヒに立ち向かうのに、ムカヒヒを以て処した。そして、草が燃え尽きたところを逃げ道として、迫って来る火の環から脱出している。なぜ、沼を持ち出しているかについて、ヌ(沼)は、ヌ(瓊)、すなわち、玉環のことを表すからでもある。「天沼矛あめのぬほこ」(記上)は、「あま之瓊のぬ〈瓊は、玉なり。此にはと云ふ。〉ほこ」(神代紀第四段本文)と記される。景行記に、「還出」とある「還」字は、「睘は死者の胸に○(環)を加え、上に目を加えて、復活を祈ることを示す字。還とはこれによって生還することをいう。それで往還の意となる。」(白川1995.248頁)という。「たまたま」抜け出せたことは、玉環たまたまの太さ(内径と外径の差)によるという理屈かも知れない。「沼」はヌ(瓊)と一音で訓まれることが期待されていた。

這ひ這ひの体の灰

 そして、さらに、「皆切-滅其国造等、即著火焼。」となっている。野火から逃れて国造たちを切り殺して滅ぼせば、復讐、征服は完了するが、さらに死骸を焼いてしまっている。火葬すると人体は「はひ(ヒの甲乙不明)」になる。

 …… うつそみと 思ひしいもが 灰にていませば(万213)

 はひのヒの甲乙は仮名書きの例がないがおそらく甲類であろう。倭建命は、野火からほうほうの体で逃げ出してきた。音転前の形は「ふ」で、動詞「ふ」の連用形ハヒのヒは甲類である。目には目を、歯には歯を、ムカヘヒにはムカヒヒを、ひにははひを、である。言葉のあやとりをもって上代語は奥深い構造を成していて、言葉のなかで通ずると同時に相手に対しても通じるものになっていた。お話として聞いていてわかりやすく、趣き深くも感じられ、ヤマトコトバを使うことに自負を覚えていたことだろう。
 焼いた遺体は国造であった。景行朝当時、国造制度は確立されていないから記述全体が誤りか、後の時代に潤色されたものであるという主張が歴史学からくり返されている。生産的な議論ではない。古事記は歴史叙述ではない。話(咄・噺・譚)として聞く必要がある。クニノミヤツコのミヤツコという語義は、ミ(御)+ヤツコ(奴)であり、ヤツコとは、ヤ(家・屋)+ツ(連体助詞)+コ(子)、つまり、家の使用人、奴婢を指す。国家奴隷が国造という言葉の原義である。地方では偉そうな顔をしているかもしれないが、中央の役人が来ればへいこらしなければならない。「相武国……其国造」がサカムカヘをするという言葉自体、反逆が陰に控えていると知れるのである。奴隷の蜂起である(注6)
 話として「国造」が登場しているのは、古来、ミヤツコギ(造木)と呼ばれている樹木のことからの連想による。ミヤツコギには二種ある。第一に、ニワトコ、接骨木のこと、第二に、タマツバキ、椿の敬称のことである。新撰字鏡に、「檅〈造木〉・𪳤〈上同〉」、「女貞実 八月採実、陰干、比女豆波木ひめつばき、又、造木を云ふ。」、和名抄に、「接骨木 本草に美弥都古岐みやつこぎと云ふ。」、「女貞 拾遺本草に云はく、女貞は一名に冬青〈太豆乃岐たづのき、楊氏漢語抄に比女都波岐ひめつばきと云ふ〉、冬の月に青く翠にして、故に以て之れを名くといふ。」とある。允恭記歌謡に次のように見える。

 君がき 長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ〈此に、やま多豆たづと云ふは、是今の造木みやつこぎぞ。〉(記87)

 ミヤツコギに二義ある点については疑問とされ、「女貞」をネズミモチと取る説によってさらなる混乱を招いている。角川古語大辞典や日本国語大辞典はネズミモチ説に惑わされている。その点、岩波古語辞典は、「みやつこぎ【造木】①ニワトコの古名。……ニワトコはミヤツコの転。②タマツバキの異称。……」(1276頁)とあり確かである。ニワトコがミヤツコの転とする説も載せている(注7)。木下2010.にヤマタヅについて本草書をたどる精解がある。「ニワトコはミヤツコギのミヤツコがミヤトコ、ニヤトコを経て転訛したものと推定される。」とし、結論として、「万葉集にある山タヅはニワトコとしてよいだろう。また、「山たづの」が「迎へ」の枕詞となるのは、ニワトコの奇数羽状複葉の対生する小葉を見立てたからといい、確かに花期のニワトコを見ると、ツルが飛び立つ姿に似ている……。『新撰字鏡』に「𪳤 〈造木〉」とあるのは国字であるが、まず使うことはない。」(578頁)とする。
 筆者は、ミヤツコギなる名称は、国造くにのみやつこの義と必ずや通ずるものと考える。クニノミヤツコとは行政単位ごとに置かれた国の奴婢、奴隷である。夜になって寝るにしても、自らが造った国衙の宮殿には上がれず、ニハ(庭)にトコ(床)を敷かなければならない。きついジョークである。ニワトコの樹皮は厚いコルク質で、髄は太く柔らかい。それをベッドにせよとでもいうことらしい。ニワトコはヤナギなどと同様、削り掛け(削り花)の材料にされた。ナイフで削って、白い木肌を薄く細長く垂らし、御幣に擬せられた。まさに造り木である。造花の起源の一つとされている。都には絹製品は多いけれど田舎には乏しいから、代用として削り掛けを造るというのである。ニワトコの樹様を見ても、枝ぶり、枝のつき方(つぎ方)はノウゼンカズラにも似て「接骨木」と言うにふさわしい。解剖模型に見るように操り人形のようだから、ニワトコが接骨木であることは確かであるし、国造という地方官が中央政府の操り人形に過ぎないこともよく含意している。

媒染剤としての灰

 ミヤツコギに二義あることは、灰の義に二義あることと照応されるべきである。灰として特段するものには、火葬した人骨や仏舎利のほか、紫染めの媒染剤のそれがある。すなわち、一方は国造、ミヤツコの骨をニワトコの木でつくり、他方は、タマツバキ、すなわち、椿を焼いた灰から灰汁あくを取って紫染めの媒染剤にした(注8)

 紫は はひ指すものそ 海石榴市つばいちの 八十やそちまたに 逢へるたれ(万3101)

 和名抄に、「柃灰 蘇敬曰はく、又、柃灰〈柃の音は霊、今案ふるに俗に所謂る椿灰等は是れ〉有り、木葉を焼きて之れを作り、ともに染用に入るといふ。」、「灰汁 弁色立成に云はく、灰汁〈阿久あく〉、淋灰〈阿久太流あくたる、上の音は林〉といふ。」とある。屋代弘賢・古今要覧稿に、「又此樹を焼て灰となしたるを俗に山灰といふ、此灰は古より紫をそむる料に入るゝ故に、万葉集に、ムラサキ灰指物ハヒサスモノ海石榴市之ツハイイノ  (ママ)とよみたり、今あるものはすべて丹波国山辺郡の内より来るといふ〈国史草木昆虫攷〉」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897549/175、漢字の旧字体は改めた)とある。
 タマツバキと敬称を以て迎えられているのは、葉の形の丸っこいものを指していたか、発色の素晴らしさを褒め称えるための言葉だからだろう。媒染剤の素材は慎重を要する。発色の効果もさることながら、下手な浸け方をするとすぐに繊維が傷む。古代の色の復元の実感は次のように記されている。

 紫草の根を麻袋に入れて揉むと、名水の里である[大分県]竹田市の清らかな湧き水に赤紫色が広がる。山で採った椿の木を燃やし、その灰を媒染剤として使う。植物染は時間を要する。経験による勘とひたすら根気の手作業である。絹の糸綛いとかせにゆっくりと色がついていく様子を、竹田の人びとも食い入るようにみつめている。三日目の夕暮れ、ようやく高貴な色にふさわしい濃紫があらわれた。緯糸よこいとだけでも四百株を使って染めたことになる。(吉岡2007.224頁)

 染め物仕事は「食い入るようにみつめ」るものである。

 河上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢こせの春野は(万56)

 この歌の歌っているのは、河の両岸に椿が並びに並んで生えていて、媒染剤の材料が豊富にあることへの喜びである。作者、春日かすがの蔵首くらのおびとおゆは、花を見て飽きないと言っているのではない。肩書にあるとおり、資材調達に奔走していて、ここでは染め物に必要な椿灰を獲得しようとしていた。紫色は冠位十二階の制でも最上位に位置しているほどであり、きれいな色彩に染め上げることが最優先課題とされていた。当然、染めの現場にも立ち会ったことがあっただろう。食い入るように見つめる仕草を目の前に広がる光景に転じさせている。見るだに嬉しくなる光景が巨勢の春野の河のほとりに展開していることを発見し、歓喜して歌にしている。技巧が冴えている。
 媒染剤に灰汁を使う。このアクという言葉は、本来居るべき所、事を表す語幹とされ、ハク、ねがハク、フラク、などのク語法に用いられながら、単独では用いられず、「あくがる」、「あかる」などの動詞のなかに息づいてきたとされている。筆者は、動詞「飽く」の第一義に挙げられる、もうこれでいいと満足する、心に十分に満ちることをいう意が、アクという語の本質を的確に表していると推測する。上の万56番歌の歌において「飽く」という動詞が用いられているのは、染色に関係する者として、「飽く」と「灰汁あく」とが同音だから呼び起こされているのだろう。言葉の上で、アクという言葉がク語法に残存する経緯は、媒染剤自体が繊維上に残るものではなく、色だけが残ることに相同である。同じ現象が起こっている。
 そのうえで、万56番歌を読み直すと、「河上かはのへ」は河の両岸のことだから、顔のつら、横顔が右側左側と両側あるように、「つらつら」に椿があるのであり、顔を左右に振って「つらつらに見」つめ、見とれて飽きないのは、灰汁に事欠かないから嬉しがっている。染色の作業に、布や糸の束を液に浸して左右に揺することも行われている。結果、この歌では、原義に迫るような言葉の乱反射シャワーに酔いしれることができている。
 ヤマトタケルの話に戻ると、遺体を焼いたところが「焼遺」という場所である。灰になるまで焼いた。焼き切った。焼くことが完了している。ヤキ(焼)+ツ(完了の助動詞)ということである。「遺」という字には、のこす、のこる、の意のほか、あぶる、あぶす、の意がある。他に「炙」、「溢」などの字も当てる。したがって、「焼遺」という字面から、火が溢れんばかりにまで焼く、もう火がつかないほどに焼き炙り切る、といった意であると知れる。

サガミニカム


サガミニカム(盛岡市動物公園インスタグラムhttps://www.instagram.com/reel/C5xBI9FsPCr/をトリミング)

石臼(小倉城金山奉行所ジオラマ)(注9)
 上述のとおり、「相武」はさ噛みに噛むこととして認識されていた。噛み続けることをよく表している例として、身近な動物にウシがいる(注10)。何回噛み続けるか数えてみるとわかる。飲み込んだらまた次の草を口にして噛みはじめる。それを繰り返し、餌がなくなると今度は反芻する。胃から戻して噛んでいる。五十回ぐらい噛んで飲み込んでいる。臼歯で磨り潰すために左右にずらしながら噛んでいる。噛み癖があるようで、顎が疲れて来ると反対方向へ動かすこともある。サガミニカムという言い回しが適当である。人間はそれほどまではしない。食べ物に下拵えを施し、牛が噛むことの代りになるようにしている。その機能を担うのはウス(臼・碓)である。アクセントの違い(「うし(牛)」HH、「うす(臼)」LH)から言って別系統の語と思われるが、飛鳥時代の人が洒落として使った可能性は十分にある。国造は、在地の人からは「大人うし」、すなわち、「うしは・うすはく」存在と考えられていたようである。
 ウシ(牛)やウス(臼)の特徴を考えれば、噛むことは噛み千切ることや噛み砕くことではなく、磨り潰すことであると理解できる。臼歯の役割が大きい。臼・碓においても、石の方をウスといい、叩く方はキネ(杵)と別名がついている。碾臼ひきうすの場合は上下ともウスである。その石のように堅い歯で磨り潰すことが、サガミニカムことなのである。石のように堅い臼の箇所でなければサガミニカムことはできない。堅い臼こそ摺り潰すところである。スル(摺)+ガ(処)=スルガ(駿河)である。サガム(相武)とは、すなわち、スルガ(駿河)なのである。無文字時代の口頭言語、音声限定のヤマトコトバでは同じ意味を表している。
 焼津は駿河ではないかとする現代人の地理的認識を古事記に当て嵌めようとする見解はここに崩れる。野火の起こるような草だらけのところとは、草食動物がサガミニカムべきところであり、サガム(相武)であれスルガ(駿河)であれ構わないことになっている。国名として名こそ違え、同じ意味を有している。洒落こそが、上代、飛鳥時代に暮らした無文字文化の人びとの知恵であった。記ではサカムカヘの話として説き起こしたかったから、お酒を噛むことを第一印象としたくてサガム(相武)という設定とした。また、相武と書いた時の相の字が、サガ、兆しを示している。話す当たり、これから始まる難事の予兆の符牒になることから得意になって記したものと思われる。

お盆・伊豆

 国造と倭建命との火の応酬は、「迎へ火」対「向ひ火」であった。ムカヘビといえばお盆の行事が思い起こされる。紀に、「是年より初めて、寺ごとに、四月八日、七月十五日に設斎をがみす。」(推古紀十四年四月)、「盂蘭瓫会うらんぼんのをがみまうく。」(斉明紀三年七月)と見える。盂蘭盆会の仏教的な起源は、梵語のウラバンナ、釈迦の弟子の目連(摩訶目犍連)の母が、あの世(餓鬼道)で逆さまに吊り下げられるように苦しみを受けているのを救おうとしたという話によっている。目連の神通力によって亡くなった母親の姿を探すと、乾き飢えていた。水や食べ物を差し出したが、みな燃えて母親の口には届かなかったという。野火の難同様、逆さにして燃える概念が登場している。本邦では、民俗行事と仏教行事の融合したものになっている。お盆に先祖を迎えるときに焚く火のことで、各家で行う迎え火と、地域共同で行う迎え火がある。迎え火の材料としては、がら(苧殻)、松の根、松葉、ヒノキやシラカバの皮、麦藁などがあり、また、焚く場所も家の前、精霊棚の足下、墓前、道の辻、橋のたもと、川原や海辺などさまざまである。歴史的に多くの習俗が積み重なった結果だろう。
 よく知られた方法は、家の前で、麻幹を焙烙ほうろくの上で焼く。焙烙という語はもとは火あぶりの刑のことである。ウラバンナのことを思い起こさせる。麻幹はスカスカだから、焼いても何も残らないほどに焼け、少しばかり出た灰も軽く、風ですぐ散ってしまう。ご先祖様をお迎えするのに亡くなった時の火葬を思わせず、魂のみの帰還であることを知らせるのに素晴らしい手法である。迎え火で迎えた先祖の霊は、送り火であの世へ送られる。キュウリで作った造り物の馬に乗って速く来られ、ナスで作った造り物の牛でゆっくりと往かれる。遺の字は贈ることである。異本にある遣の字は、やること、派遣の意で、送ることである。ともにオクルと訓む「送」、「贈」、「後(遅)」は同根の語である。牛の造り物に乗ってゆっくりお帰りになるのは、相武という名の地がサガミニカム動物をイメージしていたこととよくマッチする。加えて、動物が造り物である点が、造り物にする材料の木、ミヤツコギ=ニワトコのことを思い起こさせる。また、牛の場合、材料がナスである点から、紫色を思い起こさせる。和名抄に、「茄子 釈氏切韻に云はく、茄子〈上の音は荷〉は一名、紫瓜子といふ。崔禹食経に云はく、茄〈奈須比なすび〉は味甘くゑぐし〈唐韻に力減反、醶は䤘醋味なり、䤘の音は初感反、酢味なり。俗に醶を恵久之ゑぐしと云ふ〉、温にして小毒、蒸し煮、また水を以て之をかもし食ふに快き菜と為すといふ。」とある。「紫瓜子」とあり、紫色であることが明記されている。今日はナスコン(茄子紺)と通称されるが、上代には紫の範疇に捉えられていた。
 倭建命の向火の話はお盆の迎え火と奇妙な共通性を伝えている。自分からみて火を向うへやるから「向ひ火」なのであるが、お盆の行事では、ご先祖様をお迎えするのがムカヘビ、お送りするのがオクリビである。記には、「著向火而焼退、[倭建命]還出皆切-滅其国造等、即著火焼。」とある。「向ひ火」は脱出のための方便で、この世へ還って来ている。そして、切り滅ぼした後、火をつけて焼いている。これが送り火である。国造は生身の人間だから、麻幹や媒染剤のための灰汁用の椿を焼いた時のように粉末状の灰がわずかに残るのではなく、ミヤツコギ=ニワトコのようなごつごつした骨が残る。そこがお盆の行事と違う。焼いてものこるから、焼津の地名表記としては「焼遺」がふさわしいことになる。
 紀にある「焼津」の字面から受け取れる印象は、船の停泊場である津が焼けている様子である。実際の火災現場を思い描けば、船や船着場の渡り板などは焼け落ち、ただ杭ばかりが黒く燃え残って立っていることになる。桟橋の情景が精霊棚と似ている点も注目される。精霊流しの光景を思わせ、迎え火であれ送り火であれ、どこから流れつくのか、あるいは、どこへ流しやるのかと言えば、いずれもあの世である。あの世とは何処いづこ・いづくとも知れないところである。何処の「いづ」と同音に、地名の伊豆がある。「伊豆手いづてふね」(万4336)「伊豆手の船」(万4460)とあるのは、それほどまで遠い所へも通うことのできる船との形容だろう。
 島流しは名例律に「」とある。その配所に遠中近の三流が規定され、延喜式・刑部省式に、伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐などを遠流、信濃・伊予などを中流、越前・安芸などを近流と分けている。平治の乱で源頼朝は伊豆国の蛭ヶ小島に流された。記紀の国生み神話において最初に生まれた蛭子は葦の船に載せて流しやっていたから、それにちなみ、蛭ヶ小島のある伊豆は秋津島に含まれない遠いところと思われたのだろう。
 古事記の倭建命の東征でも、伊勢→尾張→相武(焼遺)→走水→足柄(坂本)→甲斐(酒折宮)→科野→尾張へと移動している。東海道は、それが陸路であれ海路であれ、駿河の先は伊豆、相武と続く。上のヤマトコトバの解説により相武と駿河は同じ意味としても、陸路だと、伊豆を避けて富士山の麓から箱根山の北側の足柄峠方面へ進んだと想定されていることになる。伊豆は半島で、島流しに等しい隔絶感があった。刑部省式に、「伊豆。〈京を去ること七百七十里。〉」と記されており、「遠流」のうちでは都に最も近いが、伊豆は何処いづこ・いづくとも知れない遠い国の象徴とされて筆頭に挙げられている。
 東国、また、伊豆へ向かおうとする地に焼津は位置し、分岐点的な地と考えられたようである。やき(キは甲類)とあき蜻蛉あきづ)(キは甲類)は音が良く似ている。駿河、相武、武蔵は、東海道中である。しかし、伊豆はそのルートから外れると思われたに違いない。出てしまうから「づ」という。そこへ流し遣られて遺されると、投げ遣りな気持ちになって遺書を書きたくなる。心持ちは焼け糞といってもいい。秋津たるトンボの焼け遺りが焼津で、火刑の際の思わず知れずの脱糞が伊豆国である(注11)。まさに送り火であの世へ送られるような気分である。不安な気持ちを代弁して、「焼遺」、ないし、「焼遣」という用字が考案されたとも考えられる。古代の文化地理的な観念を物語る興味深い事例であり、現代の歴史地理学の視点だけではカバーしきれない(注12)。人は言葉によってものを考える。当時の言葉はヤマトコトバであった。

左:伊豆国図(江戸時代、19世紀、編脩地志備用典籍、慶応乙丑、東博展示品)、右:行基図(拾芥抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2580206/63~64をトリミング合成)

シホによる念押し

 「焼遺」という字面は記では他に仁徳記に一例見える。「遺」は、のこる、の意である(注13)

 [枯野]の船、破れこほれて、塩に焼き、其の焼けのこれる木を取りて、琴を作るに、其の音、七里ななさとひびきき。(茲船破壊以焼塩、取焼遺・・琴、其音響七里。)(仁徳記)

 焼け遺りは「余燼もえくひ」(応神紀三十一年八月)であり、燃杭のことである。上に述べた「焼津」の印象と同じである。木造船を焼いて燼が残るとは、塊状の木の部分であり、かつ、クヒと呼ばれていたところ、すなわち、艪杭である。舷に凸状の艪杭を設け、艪には受け口を抉ってすっぽりと嵌め、前後左右に動かしても抜けずに梃子が効くようにしてある。「くひ」(ヒは甲類)だから「くひ」(ヒは甲類)、食いついて離れない。何度も何度も艪を漕ぐ姿は、杭の部分がまるで臼になっていて、何かをサガミニカムことに譬えられよう。また、「燃え」の同音に「萌え」がある。話は「枯野」のことであり、冬の終わりに野焼きをして枯草を燃やし、若草の萌え出るのを助けている。「萌ゆ」とは草木の芽吹きのことをいい、なかったところから現れること、すなわち、「出づ」のことである。「焼遺」はヤキ+イヅの意で、ヤキヅと訓むことが再確認される。地名から野火があること、ないしは火を放つことが予測されている。話のオチ(サゲ)としての効果を狙い、物語の終わりに示している。
 後日談として走水においてオトタチバナヒメ入水の話が出てくる。彼女は辞世の歌を詠んでいる。

 さねさし さが小野をのに 燃ゆる火の なかに立ちて 問ひし君はも(記24)(注14)

 「燃ゆる」のは「萌ゆる」ためであると掛けている。「焼遺」のオチの後に出てくることから盂蘭盆会の目連の母の話に通じ、また、「枯野」の船の逸話をも含意する可能性さえある。

上の仁徳記の記事は次のように結ばれている。

 爾くして、うたよみして曰はく、
 からを 塩に焼き が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良ゆらの なか海石いくりに ふれ立つ なづの木の さやさや(記74)(仁徳記)

 景行記の「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火」とは、「塩に焼」くこと、製塩のことを背景として説話化されているようである。相武国の国造が、「於此野中大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」と言っていたのは、この炉の中に坩堝があって水がたくさん入っている、その水の中からはちはやふる神のようなマジックでやがて塩が生れるのだ、だから塩は神さまに捧げられる、との前提によるのだろう。
 製塩土器は各地から出土している。延喜式・主計上に、調・庸としての塩の生産地としては、東海道に伊勢や尾張、参河まであげられるが、相模や駿河、伊豆はあげられていない。遠いところから都まで運ばずとも間に合うから自給せよということらしい。野に枯れ草(干し草)が余るほどあるとは、サガミニカム牛の餌に十分である。とはいえ、いくら干し草があっても塩がなければ病気になる。今日、牛を飼うときには鉱塩を与えている。つまり、お話の底流に、枯れ草を少しは塩焼きに使い、塩を与えたほうが賢明であると伝える意図があったようである。
 そして、紫の色を紫根で染めるのに、いくしおも繰り返して染め上げる工程を知っていた人にとっては、シホという言葉についての深い知恵が思い起こされたことだろう。古典基礎語辞典に、「シホという語形をもつ語には、①[満ち干する海水]②[食塩]のほかに布を染料にひたす回数、という意味のシホ(入)がある。潮の満ち干によって、海浜や岩礁などの海中に没したり、姿を現わしたりを繰り返す。この現象は布が染料に浸されたり、染料から出されたりの繰り返しとよく似ていることから連想して、この意が生じた可能性がある。そうであれば、染色関係のシホ(入)もに潮・塩と語源が同じということになる。」(604頁、この項、北川和秀)とある。名解説である。古代染めの紫根や紅花で染める手順では、何シホ(入)目かに至ってこれぞという色合いに染まる到達点が見られる。「食い入るようにみつめ」る所以である。
 景行記の「焼遺」という表記は、倭建命の「相武」の野火の難の説話を一等おもしろくするために、太安万侶が工夫を凝らして書いた上代文学の筆記のなせる技であった。その後の時代の人々は、文字を覚えてしたり顔となり、文字と言葉とが一対一対応の記号変換であると錯覚して憚らなくなった。記紀説話を論じる時にも、使われているヤマトコトバ自体を顧みることが少ないのが現状である。上代の人々が何を、いかに考えていたのか、その真相はほとんど明らかになっていない。

(注)
(注1)仁藤2001.の「注」に、「用字については「焼遺」「焼遣」とする写本もあるが、津の古字を誤写したものと考えられる。(日本思想大系本『古事記』岩波書店、一九八二年、一八二ページ、西宮一民説)」とする。「津」の古字「〓(之繞に𦘔)」の誤写説についての論考としては、福島2002年.がある。古事記の地名譚であれば、「故号其地謂○○也」と記されるはずだが、ここには、「故於今謂焼遺也」とあり、仲哀記に、「故於今謂気比大神也」とあるから、火難の記事を締め括るに相応しい表現であろうとしながらも、用字については不明なので「津」の古字との関係を指摘している。
(注2)本文校訂はそればかりで完遂することはない。必ず読む姿勢が求められる。その際、当時の人々がどのように考えたか、暮らしの常識を見定めないと的外れなことになる。参考文献参照。
(注3)記紀の差異について、筆者のように記紀に所載されているのはお話(咄・噺・譚) story であって history ではないと捉える考え方は稀である。多くは自らの立場を補完するために隣接諸学の助けを得ようとし、結果、袋小路に陥っている。参考文献参照。
(注4)東海道は海によって進んだとする海道説があり、焼津が相模国にあるとする混乱が起こったとも言われる。しかし、東海道海道説が古事記に反映されて説話化されたと仮定しても、ヤマトの人たちの間で焼津が駿河国ではなく相模国に属すると認識されていたとは考えにくい。海上の感覚によっても、焼津は駿河国に属すると考えられて然るべきである。伊豆半島(伊豆国)をぐるっと廻って「相武国」に属するとは思いにくい。焼津は重要な港だから地名譚として成り立つから、駿河国に所在することは知られていたのではないか。海岸伝いに目印を見ながら航行していた古代の航海法からして、駿河湾から見た富士山と、相模湾から見た富士山の、距離、方角を取り違える船乗りはおらず、間違えようがない。もし間違えたら遭難する。
(注5)「打ち出の小槌」という言葉が上代にあったという保証はない。ただし、大国主命は古事記に描かれており、それがすなわち大黒様であることは疑われずに今日に来っている。神仏習合は仏教伝来と同時に始まった。そのように始めなければヤマトの人たちに仏教とは何か理解することはできない。「蕃神あたしくにのかみ」(欽明紀十三年十月)とあって自然である。
(注6)ヤマトタケルの東征説話を国造層の征服物語と捉えるのは、言葉のあやの理解として誤りである。また、記紀の説話には、同じような件が波状的に表れているように受け取られる個所が散見される。この部分も、二度目の征討が邇々芸命の二度目の降臨と似ていると整理されることがある。しかし、そう指摘することで何が得られるのか不明である。
(注7)ミヤツコギと関わるタマツバキについては、時代別国語大辞典に、「もくせい科の常緑低木でたまつばきと称するものに当たる。」(717頁)とする。本草和名の「女貞 〈美也都古岐みやつこぎ、一名、多都乃岐たづのき〉」の、「女貞」を採った新撰字鏡に難があるのだが、ヒメツバキ、タマツバキといっていて、ツバキに類するところまで迫っている。
(注8)原色染色大辞典に、媒染とは、「繊維に直接染着性のない染料(媒染染料[=繊維との結合力が乏しく金属塩を媒介剤とする染料])の染着の媒介をすること。又、媒染をする薬剤を媒染剤という。繊維を媒染染料で染色する場合、予め繊維を薬剤で処理し、繊維に薬剤を吸収させてから染色する必要がある。」(823頁)とある。つまり、媒染剤とは、布と染料の仲立ちとなって、水に溶ける染料を繊維に色止めし、色出ししてくれるものである。紫色を染めるのには、紫根、ムラサキ科の紫草の根茎を用い、そのなかに含まれるナフトキノン類のシコニンという含有色素が、灰汁媒染によって紫色の色調を発色することによるとされている。今日、アルミナ媒染では、ミョウバンと炭酸ナトリウムを応用している。
 吉岡2002.に、「つぎに媒染ばいせんにうつる。椿は、生の樹の枝と葉を刈りとって、二、三日置く。それを然やして、白い灰の状態で保存しておく。染色をする数日前に、熱湯を注いでからよくかきまぜ、火の成分を十分に溶出させる。この上澄み液(灰汁あく)にはアルミ分が含まれていて、紫を発色させる、つまり媒染剤の役割をするのである。その椿灰の灰汁を水に溶かして媒染の浴槽をつくり、紫根染を終えてよく水洗いした絹布を入れて、ゆっくりと繰る。三十分あまりのち、別の水槽でよく水洗いする。このような紫根染、水洗、媒染、水洗の工程を何日も繰り返すわけで、「深紫」にするには、私の工房では、少なくとも五~七日間を費やす。もちろん、毎日、新しい紫根を使って、朝から石臼で搗く、揉む、という工程を繰り返すのである。」(78~79頁)とある。
(注9)紀には、「曇徴どむてうは五経を知れり。また能く彩色及び紙墨を作り、并せて碾磑みづうすを造る。蓋し碾磑を造ること、是の時に始まるか。」(推古紀十八年三月)、「是歳、水碓みづうすを造りて冶鉄かねわかす。」(天智紀九年是歳)と記されており、太宰府の観世音寺には「碾磑」が残っている。記に「」とあるところから、筆者はサガミニカムことを石臼に見ていると考える。天智紀の例からミヅウスを水力仕掛けの臼とする説もあるが、みづなる臼の謂いとも捉えることができる。本邦では長く行われず、鎌倉・室町時代に一般に普及したとされている(三輪1978.)。粉体に加工する摺臼としての石臼は、搗き臼の杵の形状によって代用可能であったことが大きく影響するとも指摘されている。古代において技術革新の成果として知られていたのか確かめることはできず、その技術をベースに説話が作られたと断定することもできない。ただし、野火の難の話にははっきりと火打が出てきている。石と鉄からなる熱を発する道具である。石臼の摺りの摩擦熱も侮れないものがあり、本文の概念図に示したとおり、摩擦熱(サガミニカム石臼)には摩擦熱(火打ち)を、石()には石(火打石)を、の対処であったとする話に仕立てられていると考えるのが合理的であると考える。
(注10)牛は古墳時代後期に本格的に大陸から移入され始めているから、この話もそれ以降に創られたものと考えられる。時代考証として四世紀とも目される景行朝とは合わない。記紀の話は飛鳥時代に通行していた話(咄・噺・譚)であって今日考えられるような歴史叙述ではない。
(注11)拙稿「蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─」参照。
(注12)行基図と呼ばれる古い日本地図に、伊豆は本州に食いこまれるように描かれている。盂蘭盆会の話のもととなった逆さ吊りの形をそこに見たかはわからない。説話の話し手、聞き手がその認識を共有していたかどうかも不明である。
(注13)拙稿「枯野伝説について」参照。
(注14)「火中に立つ」影を描いているのは、先に述べたように、「遺」の字義に、あぶる、あぶす、があることによる。同義の「炙」、「溢」は、アブル、アフルを常訓とし、新撰字鏡に「漝 以舟反、上、溢也。弥知阿夫留みちあふる」、康煕字典に「漝 〔集韻〕席入切、音習、影也。一曰、滀漝水貌」とあって事情がのみ込める。

(引用・参考文献)
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Victoria and Albert Museum「In Search of Forgotten Colours - Sachio Yoshioka and the Art of Natural Dyeing」https://www.youtube.com/watch?v=7OiG-WjbCQA&feature=emb_logo(2026年4月1日確認)
加藤良平
 柿本人麻呂歌集から出たとされる歌である。

 思ひにし 余りにしかば にほどりの なづさひしを 人見けむかも〔念余者丹穂鳥足沾来人見鴨〕(万2492)

 注釈書の現代語訳を拾う。

 思うにあまつたので、ニホ鳥のように足をぬらして來たのを、人が見たろうかなあ。(武田1956.458頁)
 心にあまって何とも仕方がなかったので、足をぬらしてやって来たのを、人が見ただろうか。(大系本186頁)
 思ふに餘つたので、鳰鳥のやうに足をぬらしてやつて來たのを、人が見たであらうかナア。(澤瀉1962.209頁)
 恋い慕って堪えられなかったので、鳰鳥が水につかるように苦しんで来たのを、人は見たろうか。(中西1981.38頁)
 思案に 余ったので (にほ鳥の) 苦労して来たを 誰かに見られはしなかったろうか(新編全集本200〜201頁)
 思いあまったので、カイツブリのように川を渡り水に濡れて来たのを、人が見はしなかっただろうか。(稲岡2006.181頁)
 思いに余ったので、水に潜ってをあさるかいつぶりのように、れねずみになって私は川を渡ってやって来たんだけれど、人がそれを目にしただろうか。(伊藤2009.51頁)
 思うにも思い余ってしまったので、水にもぐる鳰鳥のように難渋しながらやって来たのを、人は見たろうかなあ。(多田2009.334頁)
 思い余ってどうにもたまらなくなったので、カイツブリのように水に浸かりながらやって来たが、この私の姿を人が見たであろうかなあ。(阿蘇2010.233頁)
 思い余ったので、(にほ鳥の)苦労して来たのを人が見ただろうか。(新大系文庫本273頁)

 この歌は万2947番歌の左注にも現れている。

 思ふにし 余りにしかば すべをなみ われは言ひてき むべきものを〔念西余西鹿歯為便乎無美吾者五十日手寸応忌鬼尾〕(万2947)
 ……柿本朝臣人麻呂の歌集に云ふ、にほ鳥の なづさひ来しを 人見けむかも〔……柿本朝臣人麻呂歌集云尓保鳥之奈津柴比来乎人見鴨〕(注1)

 解釈において、ひと昔前は、野路の露を分けてきたとする説(武田祐吉氏)と川を渡ったとする説(澤瀉久孝氏)が並立していた。近年の専論では次のように捉えられている。

 恋しい思いに堪えきれなくなって、ながらく潜いでいた丹穂鳥がやがて水面に現れ出でて波に揺れてなづさふように、ながく胸の内に隠し続けた恋心は丹の穂のように色に出でて、とうとう足を枯らして河をなづさひ渡るという恋の冒険を犯して、あの子のもとに来てしまった。恋心を露わにしてやって来た私を、誰かが見はしなかったろうか。(松田2023.149~150頁)

 この訳では、最終的に恋人のところへ来た私が人目を気にしていることになる。しかし、「なづさひ」している様子、その無様なさまを見られなかったかと歌ったものではないか。
 実際がどうであったかではなく修辞の問題である。どうして「思ひにし 余りにしかば」が「にほ鳥」へと続いていくのか、また、どうして枕詞「にほ鳥の」は「なづさひ」にかかるのかである。
 それ以前のこととして、「なづさふ」の語義についても問われる。
 時代別国語大辞典では、「水にもまれる、浮かび漂う。」、「万葉の例のほとんどすべてがナヅサヒ=行ク・・(川を)ノボル・渡ル、というような例で、水に漬かり悩まされながら、その抵抗を排除して進む意と思われる。」(524~525頁)としている。
 松田氏は、內田1998.を一部採用し、上下に踊るような動きをすることを「なづさふ」の本義と見、難儀にあって苦労しながら進むのではないとしている。説明に当たって次の歌を挙げている。

 …… たら乳根ちねの 母のみことは 斎瓮いはひべを 前に据ゑ置きて 片手には 木綿ゆふ取り持ち 片手には にき細布たへまつり たひらけく まさきくませと 天地あめつちの 神祇かみみ いかならむ 歳の月日か つつじ花 にほへる君が にほ鳥の なづさひむと 立ちてて 待ちけむ人は ……(万443)(注2)

 母親が我が子の帰りを待つ様子を述べた箇所である。松田氏は、元気な姿で足取りも弾ませて故郷へ戻ってくることを願って待っているものと決めてしまっている。そして、「なづさふ」は上下運動に重きを置いた弾み歩み、踊るような動きのことと見ている。
 しかし、「つつじ花 にほへる君が にほ鳥の なづさひ来むと」の「つつじ花」や「にほ鳥」は、なかなか帰り着くことができないことを予感させるために使われた表現である。

 羊躑躅 陶隠居曰はく、羊躑躅〈擲直の二音、伊波都々之いはつつじ、一に云ふ毛知豆々之もちつつじ〉、羊、誤りて之れを食ひ、躑躅として死す、故に以て之れを名くといふ。(和名抄)

 ヒツジ(羊)はツツジ(躑躅)を食べると足に病を起こして死ぬとされ、その名があったと伝えられていた(注3)躑躅テキチヨクとは足が進まないことを言い、それを植物のツツジに当てている。つまり、万443番歌において、ツツジの花のような顔色をしていると表現しているのは、足の病気になって帰って来られないのではないかと思わせるための譬えなのである。足が悪くなれば、にほ鳥が上手に歩けないように、たとえ帰って来るとしてもその道行きは難儀なことになってしまうだろうと言っている。
 最終的にこの歌では、息子は帰って来なかった。全体の調子を整えるためにこのような言葉を挿入しており、テクニックとしてうまい方法であると評価されてよいだろう。
 「なづさふ」及びその関連語としては、「なづさふ」(万430・1016・3623・3625、記100)、「なづさひく」(万443・2492・2947イ・3691)、「なづさひのぼる」(万4011・4189)、「なづさひゆく」(万509・3627・4156)、「なづさひわたる」(万1750・2071)がある。多く仮名書きされるなか、義を表す用字「足沾」が二首(万2071・2492)で使われている。川辺や湖畔などで足が濡れると歩みがままならなくなるから、その義を記したものと思われる。

 …… の 枝のうらは 在衣ありきぬの 三重みへの子が ささがせる 瑞玉盞みづたまうきに 浮きしあぶら 落ちなづさひ〔淤知那豆佐比〕 みなこをろこをろに ……(記99)

 記歌謡では、杯に浮いた油が浮遊するように、枝から落ちた葉は水を漂うと言っている。葉に意思があるわけではなく、川の水に揉まれることを指している。

 みてぐらに ならましものを すべがみの 御手みてに取られて なづさはましを なづさはましを(神楽歌・幣)

 神楽歌では、お釈迦様の手のなかでもてあそばれるように、神の手のなかでもてあそばれてあちらへ行き、こちらへ来るというように、凡夫の愚かな思いを超越していることを指している。

 蹈 他交・徒到二反、践也、不弥奈豆佐不ふみなづさふ(新撰字鏡)

 新撰字鏡では、関連語としてフム、フミニジル、フミナヅサフの和訓が与えられている。フムは歩を確かにすること、フミニジルは足に力を入れて物を圧し潰し去ること、フミナヅサフは、例えば、憑依して不意に踊り出すことによって、足が不均一に動くことを指すようである。
 つまり、「なづさふ」は、時には独りよがりな自らの意思によって効率的に進むことができない歩みのことを指す言葉のようである。水のあるところのように足場が悪いと必ずそうなるため、「足沾」という字が当てられていると考えられる。

 …… しく川 なづさひのぼり〔奈頭左比泝〕 平瀬には 小網さでさし渡し ……(万4189)

 徒鵜飼をしていて川を上流の方へと遡って行くことを言っている。川岸や川の浅いところに入りながら歩を進めること、足元を気にしながら、踏み場を選びながらの行程であることを示している。

 夕されば 葦辺にさわき 明け来れば 沖になづさふ〔於伎尓奈都佐布〕 鴨すらも 妻とたぐひて ……(万3625)

 沖合で潮の流れや寄せ来る波にもまれながら鴨が進む様子を表している。まっすぐに、また、素早く進むことはできない。

 …… 朝凪あさなぎに 船出をせむと 船人も 水手かこも声呼び にほ鳥の なづさひ行けば〔奈豆左比由氣婆〕 家島は くもに見えぬ ……(万3627)

 朝の凪を見計らって船出をしようとして、船に乗る人も船頭も声をかけ合って、にほ鳥のように船出している。「なづさひ行」くは、船出してからすぐの陸地に近いところには岩礁が隠れている可能性が高いから、その様子をよく見て声を出して注意を促し、右へ左へと舵を切り櫂を操りながら慎重に進んでいくことを指している。喜び勇んで踊るように船を進めていたら、ほどなく破損、転覆、座礁、沈没に至るだろう。

 山のに 月かたぶけば いざりする 海人あま燈火ともしび 沖になづさふ〔於伎尓奈都佐布〕(万3623)

 海人は夜間の漁をしている。燈火を灯して目的地へひた走るのではなく、光に集まって来る習性を利用して漁をしている。網で獲ったら次はまた近くで網を下ろして揚げる。その繰り返しをしているから、陸地から見れば燈火は一向に進んでいないかと見紛うのであり、徒鵜飼で上流へ行くのに足場を確かながら進むこととよく似ていることになる。
 以上が「なづさふ」の語義である。
 それを踏まえたうえで当時の人の感覚のままに当該歌を読み返すと実は難しいところはない。
 「思ひにし 余りにしかば」が「にほ鳥」につづく点は、農村の風景を見ればすぐにわかることである。
 稲作をし、稔った稲を収穫する際、大量に獲れたら多すぎてすべてを蔵に収めることはできない。屋外で干しながら保存する方法として、刈り取った稲束を積み上げることが行われた。それをニホという。余ったらニホにするのは常識である。その義を借り、思い余ったときもニホに関連するようにしている。
 枕詞「にほ鳥の」は「なづさひ」にかかる。万葉集に三例(万443・2492・3627)見える。枕詞となっている理由については、足取りの不確かなところが「にほ鳥」、カイツブリに見られるからである。水上を行く場合、体の小さなカイツブリは波にもまれているように見える。ただし、実際はそうでもないことは潜水能力から知れ、体の大きさに対して脚を漕いだときの推進力はかなり強く、長時間潜っていて想像もしない遠くで再び水上へ現れることもよく目にする。カモ類とは違い、脚には蹼ではなく、ウ(鵜)のように弁足がついている。蹼でも地上歩行をするにはたどたどしいところがあるところ、弁足ではさらにぎこちなく、よちよち歩きのようになっている。だから、にほ鳥は「なづさひ」と密接に結びつくのである。
 これらは修辞として歌に付加されたものなのだが、修辞があるからこそ歌として成り立っているともいえる。文の骨格だけを捉えるべく散文にするなら、「思ひに余りしかば[吾]来し、人見けむかも」と味気ないもの言いになって、言葉づかいに趣きはなく、言語活動として低級のそしりを免れないのだが、そこに本意はない。

 思ひにし 余りにしかば にほどりの なづさひしを 人見けむかも(万2492)

 思い余って、余ったといえば稲が豊作だったら蔵に入りきらずにニホに積んでおくものだが、そのニホではないがニホ鳥が水辺を弁足で足取りぎこちなく歩くように、慣れない歩みをして時に道を間違えたりしてあなたのところへ来たのを、人は見てしまっただろうかなあ。

 ここで、逢うためにやってきた「吾」は、川を渡って来たかは問われない(注4)。歩くようにはできていないカイツブリの足で喩えることで、来訪することが常態ではない、おそらくは初回の訪問である様子を述べているものだからである。少しとぼけた風のある恋の歌として捉えられ、おおらかでほのぼのとした味わいを出していると評していいだろう。

(注)
(注1)この歌は巻第十二「正述心緒」の部立にあり、万2492番歌は巻第十一「寄物陳思」の部立にある。松田2023.は、文字表記における相違(「尓保鳥」と「丹穂鳥」、「奈津柴比」と「足沾」)によりそれぞれの部立に参入されているとしている。しかし、万2947番歌のそれは左注で紹介しているだけで本歌ではない。歌は口頭言語芸術である。文集ではなく歌集である万葉集は、内容を分類する際、文字列を重視して起点とすることはしなかったと思われる。松田氏の訳にある「丹の穂のように色に出でて」という意味合いも、文字面を字幕スーパーで目にすることがない限り、つまり、歌が歌である限り受け取ることはできない。
(注2)原文の「牛留鳥」をニホと訓む理由について牛言葉に求める説がある。第一は、牛に止まれと命じる時にニホと言ったのではないかとする推測である(全集本)。第二は、牛に荷を載せる「荷負ふ」に求め、niofu → nifo への転訛を捉えての推測である(竹生・西2010.)。これらは、万葉集の戯書と見るにはセンスが良くない。筆者は、牛が留まっていたら吐く息がとても臭く、あたりににほうことをもってニホを表すとしたと考える。きわめて万葉的な戯書である。
(注3)和名抄は平安時代の辞書であり、奈良時代にそう思われていたか確かめることはできないが、ヒツジ(羊)、ツツジ(躑躅)というとてもよく似た音の語を無関係に理解することの方がよほど難しい。万葉集でツツジの語が道行きにまつわって使われている例は七例(いはつつじ(万185・1188)、しらつつじ(万1694)、つつじはな(万443・3305・3309)、につつじ(万971))ある。それ以外は二例(しらつつじ(万434・1905))である。
(注4)従来の解釈では、逢いたさのあまり濡れることも厭わずに、徒歩で川を横切り渡ってきたことをにほ鳥に託して歌ったものと思われている。この解釈には矛盾がある。にほ鳥、カイツブリは潜水を非常に得意とする水鳥で、一度潜るとどこへ行ったか見失うほどである。人目に付くことなく逢いに来ている譬えになってしまい、恋の秘密の露呈を歌うことにはつながらない。
 恋の露呈を詠んだ歌には次のような絶唱がある。緊張感が違うのは趣旨が違うからである。

 人言ひとごとを しげ言痛こちたみ おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る(万116)

(引用・参考文献)
阿蘇2010. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第六巻』笠間書院、2010年。
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版万葉集 三 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡2006. 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。
內田1998. 內田賢德「古辞書の訓詁と万葉歌」『国語と国文学』第75号第5号、平成10年5月。
澤瀉1962. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第十一』中央公論社、昭和37年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集8 万葉集➂』小学館、1995年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系6 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
武田19556. 武田祐吉『増訂萬葉集全註釈八』角川書店、昭和31年。
竹生・西2010. 竹生政資・西晃央「万葉集443番歌の「牛留鳥」の解釈について」『佐賀大学文化教育学部研究論文集』第15巻第1号、2010年8月。佐賀大学機関リポジトリhttps://saga-u.repo.nii.ac.jp/records/19586
多田2009. 多田一臣『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
松田2023. 松田浩「景物としての枕詞「丹穂鳥」─人麻呂歌集二四九二番歌の文字表現をめぐって─」鉄野昌弘・奥村和美編『萬葉集研究 第四十二集』塙書房、令和5年。
加藤良平 2026.4.6


 聖武天皇の伊勢行幸、または東国行幸の際の歌とされるものは次の八首である。

  十二年庚辰の冬十月に、大宰少だざいのせう藤原朝臣広嗣ひろつぐの謀反していくさおこせるに依りて、伊勢国にいでます時、河口かはぐち行宮かりみやにして舎人どねり大伴宿禰家持の作る歌一首〔十二年庚辰冬十月依大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作謌一首〕
 河口かはぐちの 野辺のへいほりて 夜のれば いももとし 思ほゆるかも〔河口之野邊尓廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨〕(万1029)
  天皇の御製おほみうた一首〔天皇御製謌一首〕
 いもに恋ひ あがの松原 見渡せば しほの潟に たづ鳴き渡る〔妹尓恋吾乃松原見渡者潮干乃滷尓多頭鳴渡〕(万1030)
   右の一首は、今かむがふるに、吾の松原は三重郡に在り、河口の行宮かりみやを相去ること遠し。若疑けだ朝明あさけの行宮に御在おはしましし時に、つくりましし御歌にして、伝ふるひと誤れるか。〔右一首今案吾松原在三重郡相去河口行宮遠矣若疑御在朝明行宮之時所製御謌傳者誤之歟〕
  丹比たぢひの主真人ぬしのまひとの歌一首〔丹比屋主真人謌一首〕
 おくれにし 人をしのはく 思泥しでの崎 木綿ゆふ取りでて さきくとそ思ふ〔後尓之人乎思久四泥能埼木綿取之泥而好住跡其念〕(万1031)
   右は案ふるに、此の歌は、此のみゆきの作にあらぬか。しか言ふ所以ゆゑは、大夫まへつきみみことのりして、河口かはぐち行宮かりみやよりみやこに還らしめ、従駕せしめしこと勿し。何そ思泥しでの崎をながめて歌を作ること有らむ。〔右案此謌者不有此行之作乎所以然言勑大夫従河口行宮還京勿令従駕焉何有詠思泥埼作謌哉〕
  狭残さざの行宮にして大伴宿禰家持の作る歌二首〔狭殘行宮大伴宿祢家持作謌二首〕
 大君おほきみの 行幸みゆきのまにま わぎ妹子もこが 手枕たまくらかず 月そにける〔天皇之行幸之随吾妹子之手枕不巻月曽歴去家留〕(万1032)
 御食みけつ国 志摩しま海人あまならし ま熊野の ぶねに乗りて おき漕ぐ見ゆ〔御食國志麻乃海部有之真熊野之小船尓乗而奥部榜所見〕(万1033)
  美濃国の多芸たぎの行宮にして、大伴宿禰東人あづまひとの作る歌一首〔美濃國多藝行宮大伴宿祢東人作歌一首〕
 いにしへゆ 人の言ひ来る 老人おいひとの 変若つといふ水そ 名にたぎの瀬〔從古人之言来流老人之變若云水曽名尓負瀧之瀬〕(万1034)
  大伴宿禰家持の作る歌一首〔大伴宿祢家持作謌一首〕
 田跡たどかはの たぎを清みか いにしへゆ 宮仕みやつかへけむ 多芸たぎの野のに〔田跡河之瀧乎清美香従古宮仕兼多藝乃野之上尓〕(万1035)
  不破ふはの行宮にして大伴宿禰家持の作る歌一首〔不破行宮大伴宿祢家持作謌一首〕
 せきくは かへりにだにも うちきて いも手枕たまくら きて寝ましを〔関無者還尓谷藻打行而妹之手枕巻手宿益乎〕(万1036)

 これら八首については、伊勢、ないし東国への行幸従駕歌として一括して捉えられてきた。行幸の道行きに従って各所で歌が歌われているというのである(注1)
 ただし、その内実について核心に迫ることはできていない。
 万葉集に記載の歌は、ある機会に声に出して歌われたものを後になって編纂したものである。体裁として見た場合、歌が歌われた時にあったのは、まず、歌自体である。それがいつ、どのような状況で歌われたものなのかを示すための記述が題詞である。左注は編纂の段階以降に書き加えられたもので、時間的に遅れて成っている。左注は二次資料である。
 その点に留意しながらこの歌群の構成を見れば、左注が付された二首、万1030・1031番歌については、歌われたのがいつなのか、扱いが不安定ということになる。一方、万1032番歌以降は題詞のとおり行幸の道行きに従っていて、その順序で折々に歌われたものであると見て間違いない。

(四日市市ホームページ「久留倍官衙遺跡公園」https://www.city.yokkaichi.mie.jp/kyouiku/kurube/school/shoumutennou.html)
 万1029~1031番歌の位置づけについて疑義を述べる左注は、うるさく言えば言うほどその真意を見極める必要があると印象づけている。万1030・1031番の両歌がこの位置にあるのは、歌に出てくる地名との関係で矛盾を来すから疑問と指摘しているわけだが、この位置にあることは実はそれで正しいことを裏打ちしているのである(注2)
 万1030番歌は、題詞に、「天皇御製歌一首」とだけある。「吾乃松原」の所在が万1029番歌の歌われた「河口行宮」から遠く離れていようが別に構わないことである。同じ時に歌われたことを前提にして、ことさらに問題視しようとしている。同じ時に歌われたとすると、大伴家持が万1029番歌を歌ったのに対して承ける形で歌われたものということになる。実のところそれで正しい。そうでなければ天皇の御製が第一に掲げられるだろう。後述する。
 万1031番歌も同様である。左注では、歌の作者が行幸の途次で「思泥埼」までは随行せず、途中で都へ還されたからその度の行幸時の歌ではないのではないかと述べている。動静から疑問を呈することに不自然さはないものの、そのようなことを論うのはとても不自然である。題詞には「丹比屋主真人謌一首」としかなく、どこで歌ったかは記されていない。他の題詞に「○○行宮」と明記する形で「美濃國多藝行宮大伴宿祢東人作歌一首」のようにあるのだから、「伊勢國朝明行宮丹比屋主真人謌一首」のように記してあったとしたらまだしものことである。むしろ、前の歌に続く形で歌われた歌だと認めていたからこその物言いで、変に取り繕っていることを露呈する結果となっている。
 万1030・1031番歌についての左注は、ともに、地名を詠んでいるのにその場所に滞在していたわけではない点で疑問を投げかけている。この疑問は一見尤もではあるものの、仮にそこに所在していなくても歌を歌ってはいけないわけではない。未到の地について歌に詠むことは少ないかもしれないが、彷徨うような行幸(注3)にあって、これから訪れるつもりにしている地のことを予め歌い込み、それによって予定を公表していたとも考えられる。歌で歌ってからそこへ赴くようにして、従駕する人々の心を掌握する機能を担っていた、すなわち、皆さん、家持歌のような誤解をしないでね、ということである。
 今後の行程を踏まえて周囲に知らせる役割を歌が担っていた。最初の万1029番歌の題詞にある言い分は勘違いだった。「依大宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反軍幸于伊勢國」なる事実は認められていない。続日本紀には、「われ よリテ あルニところ おもフ今月このつきすゑしまらク ゆカム関東 せきノひむかしニいへどモあらズト其時 そノときニこと あたハ やムコト将軍しやうぐん しルトモ これヲ べカラ驚怪おどろキあやしム。」(天平十二年十月二十六日)とあって、天皇に思うところがあっての行幸なのである。広嗣の乱とは関係がない。目指しているのも伊勢国ではなく、壬申の乱時に天武天皇が辿った道順に倣っている。最終的には恭仁京へ行き着いている(注4)
 この単純な事情を整理すれば、万1029番歌の題詞は大局的な政治情勢が見えておらず、行幸が藤原広嗣の乱と関係があるかのように誤解したうえでの作、事実誤認の歌ということになる。最初の歌での誤解のほうを立てて万1030・1031番歌を捉えれば、疑義を差し挟まずにはいられない。
 全八首の歌について、題詞に従ってそれぞれ歌われたと思われる場所を見てみると、特に難しいところはない。題詞に場所が記されていない場合、その前の歌が歌われたのと同じ場所、場面で歌われたと推定できる。

 河口の行宮 万1029(家持)、万1030(天皇)、万1031(屋主)
 狭残の行宮 万1032・1033(家持)
 多芸の行宮 万1034(東人)、万1035(家持)
 不破の行宮 万1036(家持)

 太字で記した歌は、その歌の題詞に行宮の地名が記された歌で、その余は地名無記入の題詞の歌である。
 万1034番歌と万1035番歌の関係について見れば、「田跡たどかは」が今の養老川、つまり、多芸の行宮付近の川であり、同じ時に作られたと考えて妥当である。歌の題材に「いにしへ」を踏襲しており、家持歌は東人歌を承けて作られていると確認できる。
 同様に、万1030・1031番歌は、万1029番歌を承けて河口の行宮で歌われたものと考えるのが最も素直な受けとり方である。
 巻六の編者は大伴家持と目されているが、その家持が歌った歌に対して聖武天皇が応え、丹比屋主も続いている。
 そのようなことがあるかといえば、内舎人の大伴家持が歌った歌の内容を、よく言えば換骨奪胎し、悪く言えば揚げ足を取るように捉え返した歌を歌った場合に起こるだろう。おいおいそこの君、違うよ、という歌である。身分の低い若き家持は、当初、今回の行幸の意味に疎かった。



 本歌群中、家持が歌った歌では、都に残してきた妻の手枕のことがくり返しとり上げられている(注5)
 その最初の歌で、「いももと」への思いを歌っている。妻の衣の袂、袖枕で寝たいものだと言っている。後の歌では「手枕たまくら」くという表現に代っている(注6)
 最初の家持の歌は、河口の仮宮、野辺で野営する夜が何日も経過しているときに歌われた。都に残してきた妻のタモトのことが自然と思われてくるものかもしれない、と歌っている。家持は自らの個人的な気持ちを歌っているのではなく、その場にいる人々の共感を得ようと思って歌にしたつもりだった。「思ほゆ」、自然と思われてくる「かも」しれないと言っている。そろそろ帰りたくなってきませんかと、観測気球をあげたつもりだったらしい。
 ところが、あろうことか天皇に聞き咎められた。万1029番歌のタモトという言葉を逆手に取るように歌い返している。
 行幸の目的はこれからも続く長期に亘る彷徨である。天武天皇が壬申の乱で味わった苦難の道を追体験することにあったから、ただでは帰れない。東国へ出てからぐるっと回った末にしか畿内へは戻らないつもりなのである。なかなか旅程が進まないぐらいでなければ意味がない。まだ始まったばかりなのに内舎人には呆れたものだと思ったことだろう。
 天皇がしたかったのは、タモトはタモトでもタモトホルである。タモトホルように行幸すること、それが今回の行幸の目的である。「朕」の「所意」である。
 タモトホルと訓む字としては、廻、徘徊などが当てられている。廻り巡って元のところあたりへ戻ることをいう。一例あげる。

 雲の上に 鳴くなるかりの とほけども 君に逢はむと たもとほりつ(万1574)

 天皇が歌ったのは、鶴の状景である。

 いもに恋ひ あがの松原〔吾乃松原〕 見渡せば しほの潟に たづ鳴き渡る(万1030)

 残してきた妻のことを恋しいと思うような「吾乃松原」というところが今後の行程に予定されているが、そこを見渡すと、潮が引いて干潟になったところに向って鶴が鳴いて渡っている。
 この歌には二つの点で作為が感じられる。原文の「吾乃松原」の訓は実は定まっていない。七音にするために、今日、アガノマツバラとする説が有力視されているが、アノマツバラユ(ヨ)とする説もある(廣岡2010.)(注7)。二句目は地名としてアノマツバラとあった方が掛詞としては都合がよく、私が待つという松原、という意を美しく具現化していることになる。七音にするために文字のないところに助詞を補おうとする廣岡氏の試みは評価されてよいだろう。「(都に置いて来た)妻に心ひかれて私が逢う機会を心待ちにしている、そのマツという意のこもる(眼前の)松原越しに見渡すと、潮干の潟で鶴が妻を求めて鳴いて飛び渡っている、その景が見える」(52頁)と解している。通説では、歌の作者が松原を見渡してみると、干潟に向かって鶴が鳴き渡っているのが見える、の意であるから、視点の位置が少しずれることになる。
 ただし、問題はそのような微細な点にあるのではない。
 左注は当地にいないはずと疑問を呈していた。「吾乃松原」の歌を「吾乃松原」に到着するはるか手前、河口の行宮で歌っていたらしいのであり、実際そうなのである。行幸の一行は、「吾乃松原」へはまだ着いていない。向かって出発してさえいないのだろう。これから訪れるところを歌っているとすれば、「吾乃アノ松原マツバラ」に補うべき助詞は「へ」である。「の松原」行こうと言っている。内舎人が「妹」のことを恋しがっていると聞こえてきた。朕も「妹」のことを恋しがっている、だからこの旅程ではそれにふさわしいところへ行くことにしているのだ、それが「妹に恋ひ の松原」である。さあ、そこへ向けて行こうではないか、という歌である。

 いもに恋ひ の松原へ 見渡せば しほの潟に たづ鳴き渡る(万1030)

 この歌は二句切れである。三句目からは行った先の光景を想像している。妻に恋い焦がれて私が逢うことを心待ちにしているというのにもってこいのアノマツバラへ向けて行こう。見渡してみると、潮が引いた干潟に鶴が鳴いて渡っている、という意である。
 潮干潟と鶴の歌としてはつとに高市黒人歌が知られている。

 桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市あゆちかた 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)

 この歌では、桜田へ鶴が鳴いて渡って行く様子が描かれている。年魚市潟では潮が引いて干潟になった「らし」いから鶴が鳴いて渡っていると推量されている。年魚市潟の実景を目にしているわけではない。黒人は目にしていないのに、また、年魚市潟のことは誰も知らなくとも、誰もが目に浮かぶように歌いあげている。潟と呼ばれるところは、潮の干満によって水が張っていたり干上がってしまったりするところだと知られていた。常識なのである。そして、潮が引いた時には、鶴は水のある桜田へ向かって飛んで行っている。
 今日、多くの注釈書には、食餌のため、あるいは交尾のために移動したものと解説されている。誤解である。
 潮が引いて陸地続きになってしまうと、狐などの天敵が近寄って来る。捕食されることを恐れて鶴は鳴いて渡って行っている。水が張っている時には長い脚を伸ばして一本足で寝ることができたが、それがかなわなくなって泣く泣く渡って行ったのである(注8)。鶴はナキ渡っているのであり、喜び渡っているのではない。

 いもに恋ひ が松原へ 見渡せば しほの潟に たづ鳴き渡る(万1030)

 万1030番歌の後半では、潮が引いた潟に鶴が鳴いて渡っていくと言っている。干潟では休むことができないから、行ったとしても再び水のあるところへと帰って来なければならない。鶴はタモトホル運命にある。それはちょうど今回の行幸がぐるっと巡りかえることに等しい。この歌の妙味はそこにある。聖武天皇は自らの意向を伝えるべく、まだ着いていないアノマツバラという地名を出して歌っている。来た道を帰るのではない、これから先進んでも休まるところではないだろう、行宮(仮宮)続きの旅ということになる(注9)。覚悟しておいてほしい。お触れとして思いを発するために、天皇は、訳がわかっていない内舎人の歌に応える形で歌っている。

  丹比屋主真人の歌一首
 おくれにし 人をしのはく 思泥しでの崎 木綿ゆふ取りでて さきくとそ思ふ(万1031)

 丹比屋主は家持歌を承けた天皇御製歌に続いている。河口の行宮にあって、アノマツバラ同様、これから進む行程上にあるシデノサキのことを題材にして作っている。
 「おくれにし人」とは都に残してきた人のこと、家持の言う「いも」に応えたものである。その人たちを偲ぶのだったら、シデノサキというところがあるからそこで木綿を取りでて、無事であってくれと思うことこそですね、と言っている。「さきくとそ思ふ」で「そ」と強意しているのは、思慕する気が本当に強いのなら、家持のように自分が妻の手枕に寝たい、だから帰りたいというのではなく、きちんと相手のことを立てて神に祈るのが正しいのではないか、とやりこめている(注10)
 左注で、万1030・1031番歌が万1029番歌に続いていることを不審としているのは、万1029番歌の題詞を拠り所としたからである(注11)。しかし、万1029番歌の題詞は、行幸の本来の趣旨を誤解したものであり、広嗣の乱とは無関係で、目的地は伊勢ではなかった。だが、当初、家持はそのつもりだったから、誤解のうえで作った歌を歌った。おいおい、内舎人よ、そういうことではないのだよ、という歌が返されている。



 その後は行幸の行程に従って、狭残の行宮(万1032・1033(家持))、多芸の行宮(万1034(東人)、万1035(家持))、不破の行宮(万1036(家持))と続いている。
 河口の行宮で考え違いを正し、万1032番歌以降、家持は天皇の「所意」を踏まえた歌を歌うようになっている。

 大君おほきみの 行幸みゆきのまにま わぎ妹子もこが 手枕たまくらかず 月そにける(万1032)

 天皇の行幸に従い、天皇の意向にも従って、私の妻の手枕を枕に巻くことなく、月は経過しているということだ、と歌っている。日が経過しているのではなく、月が経過している。時間の単位が月単位になったのは、経過の規模感を伝えているだけではない。月は潮の満ち干をダイナミックにくり返していることを表す。天皇の歌にあった潟における干満を承ける形で歌を成している。だから、助詞「そ」を伴っている。鶴が「鳴き渡る」ように徘徊たもとほるように、「手枕纏かず」に徘徊たもとほるようにいるのだ、と歌っているわけである。
 つづく万1033番歌ではもう一つの丹比屋主の万1031番歌に対して答弁している。

 おくれにし 人をしのはく 思泥しでの崎 木綿ゆふ取りでて さきくとそ思ふ(万1031)
 御食みけつ国 志摩しま海人あまならし ま熊野の ぶねに乗りて おき漕ぐ見ゆ(万1033)

 屋主の歌で「さきくとそ思」ったのは「思泥しでの崎」である。崎から望めば志摩の海の沖合に小さな漁船が確かな航行をしている。「ま熊野の」船はきちんと作られた良い船のことをいう。「志摩」や「熊野」とあるのは、誤解していた行幸目的の地、「伊勢」よりも広い範囲を表している。今、漕いでゆくのが見えるということは、屋主の祭祀が名実ともに果たされたことを表している。ここでも実際に祭祀を行って結果が得られたということではなく、想念として、思考の上で、必ずや成り立っているに違いないと持ち上げるために歌っている。唐突に風景描写する歌が続く理由など他にない。
 家持の万1029番歌に応える形で、天皇の万1030番歌、屋主の万1031番歌があり、そのそれぞれに応える形で家持の万1032・1033番歌が歌われた。最初の家持歌に駄目出しをされ、家持は自らの誤りに気づいて天皇らの言うことを是とする歌を追い作っている。
 その後も、東人が天皇の「所意」に沿って昔語りの伝承に準えた万1034番歌を歌い、それに応える形で家持の万1035番歌が歌われ、最終的に家持の万1036番歌で締められている。

  美濃国の多芸たぎの行宮にして、大伴宿禰東人あづまひとの作る歌一首
 いにしへゆ 人の言ひ来る 老人おいひとの 変若つといふ水そ 名にたぎの瀬(万1034)
  大伴宿禰家持の作る歌一首
 田跡たどかはの たぎを清みか いにしへゆ 宮仕みやつかへけむ 多芸たぎの野のに(万1035)

 多芸の行宮は今日の養老渓谷のあたりである。
 元正天皇が訪れ、美泉を見て瑞祥とし、改元して養老となった。それが「いにしへ」のことだと考えられている(注12)。誤りである。にしの意で、たかだか二十三年前のことではなく、経験的に辿ることのできないほどに古い時代のことでなければならない(注13)
 最初に歌っている東人の歌では、古くから言い伝えられてきたことを便りとして、滝の瀬が老人の若返る水であると歌っている。昔話そのものを引いているわけではなく、耳目を引くために、東人が換骨奪胎して面白おかしい歌を作り上げているのである。
 次の家持の歌では、多芸たぎの野のに宮があったかのように歌っていて、実見している田跡たど川のきれいなことを歌の題材としている。
 伝承の世界を材にした二首ではあるが、その源が同じであるとは言えず、また、その必要もない。聖武天皇の「所意」が伝承の世界を基にしたものだった(注14)から、それに倣う形で歌われたものである。
 タギのセという名に負っていることで、老人が若返る水を思い起こさせる昔話とは何か。
 昔話に登場する著名な老人に武内宿禰がいる。若返りの水と関係する話は武内宿禰が活躍する忍熊皇子おしくまのみことの戦の話に出てくる。折しも、聖武天皇の行幸は天武天皇の壬申の乱での行軍を踏襲している。
 神功皇后は新羅親征から凱旋したところ、皇子(応神)とは異母の麛坂皇子かごさかのみこと忍熊皇子が謀反を起こしていた。麛坂皇子はうけひ狩で猪に襲われて死んだが、忍熊王軍は神功・応神方の武内宿禰軍と菟道(宇治)で対峙することになる。武内宿禰は相手を欺くため、まず自軍の兵に髪をあげさせ、あげた髪の中に予備の弓弦を隠させ、真剣は脇に置き木刀を身につけさせた。そして敵の忍熊王に対し、互いに弓弦を断って和睦しようと提案し、自軍は手にしている弓の弦を切り、手にしている木刀を川に投げ入れた。忍熊王はそれを信じ、同様にした。そこで武内宿禰は弓に予備の弦を髪から出して張らせ、本物の刀を身につけさせた。そして、川を渡って戦いを挑んだため、丸腰の忍熊王軍はただ敗走するしかなかった。瀬田まで逃げたところで忍熊王は味方した五十狭茅さち宿禰を呼んで辞世の歌を歌い、入水している。

 いざ吾君あぎ 五十狭茅さち宿すく たまきはる うち朝臣あそが 頭槌くぶつちの 痛手負はずは 鳰鳥にほどりの かづきせな(紀29)

 さあ、我が君、五十狭茅宿禰よ、武内宿禰の攻撃で重傷を負って痛がらないで済むには、カイツブリのように長く水に潜ることじゃないかい、という意である。
 ズハの用法については諸説述べられているが、「[Aズ]ハB」の形の構文である。ハは提題の助詞と称される。Aでないということはどういうことかというと、Bであるということと同等、同格である、の意である(注15)。武内宿禰の攻撃の痛手を負わないとはどういうことかといえば、体の小さな鳰鳥が水に潜ってしまうことである、だからそうしよう、と言っている。武内宿禰はこの歌を聞き、鳰鳥は潜水が上手で長く潜ってどこと知れないところで上って来るから、気になって方々探し回っている。数日後、田上川を経て宇治まで下ったところで死体を発見している。
 武内宿禰が相手を欺くために自軍に命じた件は次のとおりである。

 時に武内宿禰、三軍みたむろのいくさのりごとしてふつく椎結かみあげしむ。因りて号令のりごとして曰はく、「おのおの儲弦うさゆづるを以て髪中たきふさをさめ、まただちけ」といふ。(神功紀元年三月)

 髪の毛をあげている。髪型に関する記述は少ない。

 の時に、厩戸皇子、束髪於額ひさごはなにして、〈いにしへひと年少児わらはの、年十五六の間は、束髪於額にし、十七八の間は、分けて角子あげまきにす。今亦しかり。〉いくさうしろしたがへり。(崇峻前紀)(注16)

 いずれにせよ、若者になった時に意識的に髪を結いあげている。武内宿禰は全軍に対して、老若を問わず、「椎結」することを強制し、範となるよう自らもあげた。まるで成人式に際してするようにである。日本書紀のなかで何代にもわたって天皇に仕え、三百年ぐらい生きたことになっている武内宿禰が、成人式を迎えたかのように「椎結」しているのだとすると、彼はそのとき若返ったと戯れに言っていることになる。
 髪をあげることは現在でもたくし上げるというようにタクという言葉が使われていた。

 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに 掻き入れつらむか(万123)

 その連用形タキ(キは甲類、taki)という名に従う地名があるところに、聖武天皇の行幸の一行は滞在している。謀反に勝利した点も応神天皇・神功皇后と似通っていて、行程を倣っている天武天皇・持統天皇にも通じており、昔話を再生する準備は整っていたと思われる。川の水にまつわる歌になっているのも、神功紀にあるとおり川を間に両軍が対峙し、最終的に入水して潰えていることから想起される。今わの際にはアギ(吾君、ギは甲類、agi)と呼び叫んでいて、タギ(tagi)を惹起するのに役立っている。

  美濃国の多芸たぎの行宮にして、大伴宿禰東人あづまひとの作る歌一首
 いにしへゆ 人の言ひ来る 老人おいひとの 変若つといふ水そ 名にたぎの瀬(万1034)

 はるか遠い昔から今日まで人が言って来ている、つまりは応神・神功以来、天武・持統でも同様にして言い続けている、老人が若返るという水であるぞ、名に負っているタギの急流であるからには、川を挟んだ戦に臨んだときの武内宿禰の「椎結」を彷彿とさせる、と歌っている。
 天皇の「所意」、すなわち、昔話をもとにした考えから行幸が行われている点を底流としてこの歌は捻られている。
 続く家持の歌も同様である。

  大伴宿禰家持の作る歌一首
 田跡たどかはの たぎを清みか いにしへゆ 宮仕みやつかへけむ 多芸たぎの野のに(万1035)

 家持は古くからタギの野の上に「宮」が置かれていたと当然視して歌っている。仮宮が設けられたことは、昔話に一度語られている。ヤマトタケルは、東国遠征から帰還する際に訪れている。

 其処そこよりちて、当芸野たぎのの上に到りし時に、のりたまはく、「が心、恒にそらよりかけり行かむとおもふ。然れども、今吾が足歩むこと得ずして、たぎたぎしく成りぬ」とのりたまふ。故、其地そこなづけて当芸たぎと謂ふ。(景行記)

 ヤマトタケルは「当芸野たぎのの上」で、たぎたぎしくなり、足が動かなくなった。そのためにそこをタギというのだという地名譚となっている。そこはヤマトタケルの終焉地ではない。さらに先へ進み、しばらく行くとまた疲れてきたため、杖を衝いて歩いて行った。だからそこを杖衝坂つゑつきさかと言ったといい、さらに先へ進んだところでは、「吾が足は三重みへまがれるが如くして甚だ疲れたり」と言って、そこは三重というのだとしている。その後、能煩野のぼので望郷の歌を歌い辞世となる。古事記の話の上での行程である。
 タギというところで足が動かなくなって仮宮を営み、回復して先へ進んでいる。記の記述に「当芸野上」とあるとおり、家持もきちんと「多芸たぎの野の」と歌っている。そこがタギの地だったから回復したとすれば、田跡川のタギ、急流の水が清くてその水の力によって英気が養われたのだろうと考えられる。今、行幸の一行はその場所に来ている。東人の歌に触発されて昔話に取材した歌を家持は作り、自分たちも壮大な言い伝えの世界のなかにあることを人々に思い起こさせる歌になっている。
 一連の行幸時の歌は、家持の勘違いから始まっていた。その勘違いで歌われたのは「たもと」であった。だから正しい認識を示すために「手枕」の歌で締め括っている。

  不破ふはの行宮にして大伴宿禰家持の作る歌一首
 せきくは かへりにだにも うちきて いも手枕たまくら きて寝ましを(万1036)

 この歌にある「……は……ましを」の構文は、「……ずは……まし(もの)を」の形同様、これまで誤解されてきた。骨格を決めるのは助詞ハである(注17)

 「関無く」ハ「(寝ませば)還りにだにもうち行きて妹が手枕纏きて寝まし」(もの)ヲ

 ハの前は、関がないということ、の意である。
 ハの後は、もし仮に寝るとするならとんぼ返りにでも弾丸で行って妹を腕を枕にして寝たい、のだけれどなあ、の意である。
 この両者が、助詞ハによって結ばれており、前後が同等であることを言っている。
 隔てとなる関所がないということは、もし仮に寝るとするととんぼ返りにでも弾丸で行って妹を腕を枕にして寝たい、のだけれどなあ、という回りくどい言い方である。
 本当に言いたいことは、それとは真逆のことである。隔てとなる関所があればこそ、寝るときにはとんぼ返りをしなければならないような落ち着かない一夜を過ごすのではなく、一旦関を越えて畿内に入ったらずっと彼女と共寝するようになること、そうあったらいいよなあ、という意である。
 関所があることを是とする歌が歌われているのであって、その逆ではない。すなわち、天武天皇が壬申の乱で不破の関で逗留し、戦況が好転して一気に畿内へ入って政権を掌握したことを、今、聖武天皇が追体験(空想)していることを基として歌っている。関は行く手を阻むが、内にあって外からの攻撃に対して守るものとなる。要所であり、陣(行宮)を置いて関を堅固にすることは尤もなことだと考えている。もし関がなかったら、攻撃を防御することができず、つまり、妹と共寝するにも弾丸ツアーのような仕儀で心が安らかにならない。落ち着かない一晩だけの共寝が欲しいのではなく、心穏やかに妹との共寝を長く続けられるような状況をこそ願っている。むろん、家持が個人的に、特定の一女性を念頭に思っているのではなく、行幸参加者に向けて、皆さん、そう思いませんか、と同調を誘う歌を歌って気を引いているのである。あくまでも行幸を肯定する歌、天皇の「所意」を拡散、周知させるための歌になっている。恋歌ではない(注18)ことは確認しておきたい。
 以上が聖武天皇の東国行幸時に歌われた歌の真意である。

(注)
(注1)新沢2005.の整理を示す。

 両氏[真下厚氏・影山尚之氏]の指摘するごとく、一〇二九番歌のみならず各行宮でよまれた歌が「〜行宮大伴宿祢家持作歌〇首」という題詞をもち、そのうち一〇三四番歌を除くすべてが家持作歌から始まっていることを考えると、家持が自らの歌を行程に沿って並べた後、歌に含まれる地名を手がかりに他の歌人の歌を挿入していったという具体的な編集プロセスが想定できる。すなわち、家持が手控えにあった自らの歌を、行程順に整理し、その後、歌に含まれる地名を参考に、他の歌人の歌を挿入していった、その結果、天皇御製歌が家持作歌の後に来たり、左注の指摘するような齟齬が生じたりしたと考えられるのである。(3頁)

 家持の「歌日誌」として記されたものと取り扱っている。大胆にも天皇の歌まで含めてしまっている。話は逆で、「〜行宮大伴宿祢家持作歌〇首」という体裁を頻出させることで最初の歌で家持自身が誤解していたのを取り繕っている。そもそも万1030番歌の題詞には「天皇御製歌一首」としかない。歌中に「吾乃松原」という地名が出てきていて並べたに過ぎないのなら、左注の人の指摘しているように朝明の行宮で作られたと捉えるのが自然である。河口の行宮で歌われたとは書いていないのだから、河口の行宮から遠いところだなどと指摘するのは言わずもがなのことを言っていることになり、おかしなことなのである。最初から河口の行宮で歌われたという事実を知っていて、反対に万1029番歌について一応の正当化のために取ってつけたような疑念を語りつつ、結局は馬脚を顕すようにしている。
(注2)巻六の編者と、万1030・1031番歌の左注筆者の関係については主に二つの立場がある。第一は、ともに大伴家持であるとする。その場合、万1029番歌で自ら歌っていて行幸に供奉していたのだから自ら書き留めた資料に疑いを挟むはずはなく、行幸には別に正規の記録係がいて、その記録をもとに家持が整理する際に疑義を生じたのだろうと見られている。明快に見える解釈であるが盲点がある。多く認められているように、行幸時に歌われた歌の場合、宴席での歌である可能性が高い。万1029番歌も同様であるが、家持がこの歌を歌った後に、宴の席を退いてから、万1030・1031番歌が同じ場で歌われたという状況も想定可能である。そして、後に家持がそれらを入手したとすれば、不審と感じて左注を書き込んだとして不思議なところはない。また、家持はすべてを承知の上で、時間が経過した後にも万1029番歌を表に出すために、そのまま万1029番歌を題詞ごと記したとも考えられる。行幸の真の狙いについて与り知らぬ立場で歌ったという事実を明らかにするためである。すると、流れとして、追歌である万1030・1031番歌の方に疑義を抱くことへとつながる。この受け取り方のほうが、万1029番歌の題詞に「内舎人」と地位をわざわざ断っている説明としてはふさわしい。
 第二は、左注は編纂後に後人が書き足したものであるとする。この考え方には無理がある。万907~1067番歌が巻六に並んでいて、そのなかに天平十二年の東国行幸関連の歌として万1029~1036番歌がある。当時のことをつぶさに知っていて、細かな事情を鮮明に覚えていないとこのような左注は書けない。巻六には恭仁京を捨てて廃墟となったことを歌った歌があり、天平十八年に歌われたと考えられている。万1029番歌の天平十二年から六年経過してから以降に、「吾乃松原」は河口の行宮から遠く離れている、丹比屋主は命じられて都へ戻っていたはずだ(この人が誰なのかについての考証は別にある)、などと目くじらを立てることがあったとは思われない。記録を点検して書いたということも考えられなくはないが、もしそのような視点から読み返す作業が行われたとするのであれば、他の歌にも同様の態度で臨んで現状よりはるかに多くの左注が施されていなければならない。
(注3)史学では「彷徨五年」と言われている。史学の成果については触れない。
(注4)この歌群に続くのは「十五年癸未の秋八月十六日に、内舎人大伴宿禰家持の、久邇の京をたたへて作る歌一首(十五年癸未秋八月十六日内舎人大伴宿祢家持讃久邇京作歌一首)」(万1037)である。家持は天皇の「意」を悟り、「久邇くにの都」に流れる川は天のやすの川のことである旨を歌っている。その時も「内舎人」という地位であり、題詞はそのことを明示的に表明している。天皇の側近くで仕え、情報に通じるべき内舎人として一人前になったことを誇示しているようである。拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」参照。
 なお、品田2025.に、史実とは別にテキストが読者に伝えようとしていることを読み取るべきであるという見解がある。しかし、上代にフェイクニュースが拡散していた、あるいは、万葉集のテキストでは別して架空の物語が構想されていたなどといえるのか、はなはだ疑問である。家持かもしれない編集者が曲解をもとにして一連を組み立てたからその通りに読むことがふさわしいと言おうにも、曲解をもとにして一連を組み立てたかに見せかけているだけで実は違っていることを家持かもしれない編者が知りながら惑わせるように構成しているとしたら前提はもろくも崩れてしまう。
(注5)真下1990.ではそれを「妻恋ひ」の歌として扱い、そのはたらきを探っている。見当違いである。
(注6)万1029番歌で、「妹」に思いを馳せる歌が歌われていることについて、廣岡2020.は、「旅先の宴の席でなぜこのように家人「妹」のことを歌い挙げるのであろうか。それは当時における旅歌の趣向であったのであり、歌い込むことが粋だったのである。素面しらふの語りではとても言うことの出来ないことが、倭歌として歌い上げる際には様になったのである。」(597頁)とし、「宴という場における文藝意識に由来する」(598頁)と見ている。筆者は、万葉集の歌に近代の観念である「文藝」を認めることはできないと考える。宴に集まっている人たちの総意を歌にして披露することで、人々の心に届くことが企図されているだけである。皆さん、帰りたいですよねと、おもねっているのである。
(注7)廣岡2010.では、「吾の」までを含んで序詞と理解し、第二句は非地名であるとしている。
(注8)拙稿「桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)」参照。
(注9)この歌群の題詞は、「○○の行宮」という形式で整えられ連なっている。天皇の行幸の「所意」に沿わせている。大伴家持の「歌日誌」構想によるとする説は当たらない。
(注10)修辞術として正しいと主張しているのであり、実際に当地に着いたときに祭祀行為を行ったのかはわからない。そもそも、祭祀行為の発端は、このような修辞、語呂合わせに由来することも多かったのではないか。上代の人たちはコト(事)とコト(言)は一致、相即するものと捉え、あるいはそうなることを志向していた。事→言ばかりでなく言→事というベクトルも正しいものと認識されていた。だから一つの言葉なのである。
(注11)大伴家持が題詞にあるように思って作った歌が万1029番歌として載っており、歌の軌道を修正するために天皇と丹比屋主真人の二首が後を襲っている。事の整理には、万1030・1031番歌に左注を付けるのではなく、万1029番歌に左注を付けたほうが容易いが、そうしてしまうと、万1029番歌は事実誤認から作られた歌であると評することになる。もしそこでその歌を採らないとなると、歌い合いの発端となった歌を欠いてその後の歌の位置づけがおぼつかなくなる。そこであえて万1029番歌の題詞を尊重して、編纂者の家持自身が万1030・1031番歌に対して疑義を呈する左注を付けたのだろう。
 品田2025.は、「家持は、河口での自作の後ろに詠作地未詳の天皇御製を並べたうえで、その歌に左注を付して「河口での作ではあるまい」とことさらいぶかってみせたことになる。この、自作自演という想定は、従来の編纂・成立論の推理手法の埒外らちがいにあるし、少なくとも、編纂資料を整理すること自体が目的なら、こんな手の込んだまねをする必要はない。」(288~289頁)と述べ、我田引水の論を展開している。歌自体の解釈が行き届かないまま議論を進めても意味がない。
(注12)○癸丑、天皇臨軒、詔曰、朕以今年九月、到美濃国不破行宮。留連数日。因覧当耆郡多度山美泉、自盥手面、皮膚如滑。亦洗痛処、無除愈。在朕之躬、甚有其験。又就而飲浴之者、或白髪反黒、或頽髪更生、或闇目如明。自余痼疾、咸皆平愈。昔聞、後漢光武時、醴泉出。飲之者、痼疾皆愈。符瑞書曰、醴泉者美泉。可以養__老。蓋水之精也。寔惟、美泉即合大瑞。朕雖庸虚、何違天貺。可-赦天下、改霊亀三年、為養老元年。(続紀・元正天皇・養老元年十一月)
(注13)語の成り立ちとして、イニシヘはにしのことで、はるか遠くに過ぎ去っていて、伝承などで聞いて知っていても自分がその時点のことを確かめることはできない過去をいい、一方、ムカシは で、振り向き返ってみた時にその時点のことを思い浮かべられるような、自分とつながりのある過去のことをいう。自分の経験した過去のことでも、もうまったく過去のことになってしまって縁遠く感じられることを誇張してイニシヘということもあった。拙稿「上代語のイニシヘ(古)とムカシ(昔)」参照。
(注14)拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」参照。
(注15)拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」参照。
(注16)年齢階梯と髪型については、江馬1976.参照。
(注17)(注14)に同じ。
(注18)会いたくても会うことができない男女の情を明示する格好の装置として「関」が機能し、恋情表出上の隔概念として有効に働いている(廣岡2010.131頁)といった捉え方は本末転倒も甚だしい。

(引用・参考文献)
江馬1976. 江馬務「日本結髪全史」『江馬務著作集 第四巻』中央公論社、昭和51年。
影山1992. 影山尚之「聖武天皇「東国行幸時歌群」の形成」『解釈』第38巻第8号、1992年8月。
拙稿「恭仁京遷都について─万葉集から見る聖武天皇の「意」─」参照。
品田2025. 品田悦一『万葉集のたくらみ─行間に仕組まれた聖武天皇の物語─』KADOKAWA(角川選書)、令和7年。
新沢2005. 新沢典子「歌に示された聖武朝史─巻六・一〇二九~四三の配列をめぐって─」『名古屋大学国語国文学』第97巻、2005年12月。名古屋大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.18999/nagujj.97.1(『万葉歌に映る古代和歌史』笠間書院、2017年。)
廣岡2010. 廣岡義隆『行幸宴歌論』和泉書院、2010年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院文学研究科、2003年。
真下1990. 真下厚「天平十二年聖武東国巡行歌群歌考─〈妻恋ひ〉の歌のはたらきをめぐって─」『城南国文』第10号、平成2年2月。
吉井1984. 吉井巖『萬葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。
加藤良平 2026.3.31初出
万葉集巻十一に、「寄物陳思」として次のような「柿本朝臣人麻呂之歌集」の歌が載る。

 高山の 峰行く鹿猪ししの 友を多み 袖振らずぬ 忘ると思ふな〔高山峯行宍友衆袖不振来忘念勿〕(万2493)

 高山の峰を行く獣のように仲間が多かったので、二人の関係を悟られまいと袖を振らずに来た。あなたのことを忘れていると思わないでね、といった意に解されている。
 問題点として、ここに現れる「鹿猪しし」がシカなのか、ニホンカモシカなのかが議論されていた。旧来のシカ説を否定して「高山」にふさわしいのはカモシカであるとする説(注1)が提唱されたが、むしろ群れる性質があるのはシカであるとし、また、「高山」という表現で言われる山には誇張もあって低山の部類に収まるものも多いから、シカとするのが適当であるとする説が顧みられている。
 検討されるべきは別の点にある。原文において「友」字は西本願寺本などでは「支(𭣔)」となっている。嘉暦伝承本の次点によって「とも」であると校訂されている。同様の例は万2994番歌にも見える(注2)

左:「友?」嘉暦伝承本(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1143010/1/26)、中:「支」類聚古集(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1262917/1/99)、右:「支」西本願寺本(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242448/1/15)
 「支」字は名義抄に「支 音枝、サヽフ、ハカル、エダ、ヒトシ」、日本書紀に「四支よつのえだ」(雄略紀二年七月)とある。「支」は枝、人間を含め動物の枝とは四肢のこと、また、角があるシカの場合には枝分かれしている角のことを言っていて、大人の雄の鹿を指していることになる。

 高山の 峰行く鹿ししは えだ多し 袖振らずそる 忘ると思ふな〔高山峯行宍支衆袖不振来忘念勿〕(万2493)(注3)
 高山の稜線を進む鹿を見てみると角がたくさん枝分かれしている。同じく胴体から枝分かれしている腕に着けている袖を振らないでここまで来たのだ。狩りの最中だから気づかれないようにと思ってね。決してあなたのことを忘れているなんて思いなさんな。今こうして来ているということは、あなたはもう、成熟した雄の個体である私の獲物なのだから。

 このように理解することではじめて歌の本意は生きてくる。
 「友」説には欠点がある。第一に、比喩として高山の峰を行く獣を取り上げているわけであるが、奈良公園で馴染まれているように、平地を行くのとの違いにより「友」連れの数が多くなるとは思われない。むしろ悪路のために群れはばらけて数は少なくなるだろう。わざわざ比喩表現にした理由が見出せない。第二に、仮にそうであったとしても、「高山の峰行く」ということは稜線沿いに一列渋滞で進んでいることになり、遠くからその姿を見つけたとしてせいぜい五、六頭程度である。「多」いと評することは考えにくい。第三に、「高山の峰行く鹿猪しし」が修飾するのは「友を多み」のみとしている点である。「鹿猪しし」は四足獣で腕がなく「袖振」る者ではない。言葉の意味のつながりがぎくしゃくしている。第四に、鹿類に連れが多いと言ってそれを人のともがらが多いことに譬えることには無理がある(注4)。犬や豚が多産であることから人が双子や三つ子などを産めば畜生腹ということはあるにせよ、人が群れていることはニホンザル同様のこと、鹿や猪、カモシカよりもずっと当たり前、それ以上なのである。数が少ない類を譬えに引いても仕方がない。第五に、友と一緒にいて気恥ずかしいから手を振らないという人は多いかもしれないが、そんなことはお構いなしに手を振るプレイボーイも案外身近にいる。このような言い訳では説得力に乏しい。第六に、生物に対する深い親和感を感じさせると評されるのであるが、人間の心情を動物に仮託して良しとするような表現はほとんど知られない(注5)。人間と野生動物との境界を曖昧にすることは、古代の暮らしにあっては危うい考えとされていたようである。古事記では、国の大祓をしなければならない罪として、人による獣姦があげられている。「馬婚うまたはけ牛婚うしたはけ鷄婚とりたはけ犬婚いぬたはけの罪」(仲哀記)などは大祓の対象となるほど忌避されていた。
 一方、「支」説をとると、言葉の続き方、並び方が流れるようになっていてとても自然である。獣のことを言っていて、枝分かれしている角へと続いている。その枝分かれが多いということは、雄のうちでも子どもの鹿のように枝分かれのない短い角が生えているのではなく、十分に成熟した、繁殖に適した牡鹿のことを指しているとわかる。狩猟に出ている一人称の男性は見かけ、気づかれまいとして微動だにせずに待機している。彼女のことが目に留まっても愛想を振っている場合ではないということである。彼は真剣に狩りという仕事に勤しんでいる。獲物となる動物に気づかれて逃げられるようなしくじりはしない。仕事をおろそかにするような男とは違うのだという矜持さえ示している。
 枝分かれした角を持つ大型の鹿を捕獲した暁にはまるまる解体する。鹿の体はすべて人の役に立つことは、万3885番歌「乞食ほかひひとうた」に歌われているとおりである。角や脚など胴体から出ているところは皆もぎ取る。古語にネグと言った。ヤマトタケルが若かりし頃、兄の大碓命をネグして、つまり、胴体から延びている手足を引きちぎって殺害し、薦に巻いて棄てた話が古事記に載っている。

 天皇すめらみこと小碓命をうすのみことのりたまはく、「何とかもなむちが兄の朝夕あさゆふおほ御食みけに参ゐ出でぬ。もはら汝、ねぎをしへ覚せ」と如此かく詔ひてより以後のち、五日に至るまで、猶参ゐ出でず。爾くして、天皇、小碓命に問ひ賜はく、「何とかも汝の兄の久しく参ゐ出でぬ。し未だをしへず有りや」ととひたまふに、答へてまをさく、「既にねぎつ」とまをしき。又、詔はく、「如何にかねぎつる」とのりたまふに、答へて白さく、「あさかはやに入りし時に、待ち捕へひだきて、其の枝を引ききて、こもつつみて投げてつ」とまをしき。(景行記)
 麻採 祢具ねぐ(新撰字鏡)(注6)

 新撰字鏡のネグの例は、麻の種子を採るためにむしり取ることを言っている。茎から出っ張っているところをすべてこそぎ取ることである。人体でいえば、四肢や頭を切り離してしまうことに当たる。
 狩猟に屠殺は付きものである。今日、スーパーマーケットの店頭に並ぶ精肉はその結実である。解体を考えていて、本体から出っ張っている「支(枝・肢)」に注目している。人間では腕はその一つで、袖を振れば「支」が目立つ。鹿を捕らえて角や四肢を得たかったら、人も同じく「支」に当たるところを鹿に見せないようにするのが肝要である。目には目を、歯には歯を、のように一つ一つの言葉が論理的に構成されている。
 枝分かれした角を持つ鹿が山の峰を進んでいる。稜線のところでは木々が鬱蒼と茂るよりも岩肌が露出していることが多い。木々が繁茂していると木の枝に枝角が引っ掛かってなかなか進めないから、開けたところを選び進む。「友」字ではなく「支」字だから連れ立っているのではない。一頭でも狩りには十分である。
 歌は「高山の峰」で始まっている。万葉集における「高山の峰」の歌には二系列ある。第一は狩猟と関連があるもの、第二は気象と関係するもの(注7)である。次の一首は狩りと関係しており、一首のなかで男女の相聞歌が交わされている。

 赤駒あかごまを うまやに立て 黒駒くろこまを 廏に立てて そを飼ひ が行くがごと 思ひづま 心に乗りて 高山の 峰のたをりに 射目いめ立てて 鹿猪しし待つがごと とこ敷きて 吾が待つ君を 犬な吠えそね〔赤駒廏立黒駒廏立而彼乎飼吾徃如思妻心乗而高山峯之手折丹射目立十六待如床敷而吾待公犬莫吠行年〕(万3278、相聞)

 赤駒を厩に立たせて飼い、黒駒を厩に立たせて飼い、それに私が乗って行くように、私が思う妻は私の心に乗っている。/高山の峰のくぼんだ峠のところに射目となる遮蔽物を設けて、鹿や猪に悟られないように隠れ待つように、床を敷いて私が待つあなたなのに、ああ、犬よ吠えてくれるな、という意である。
 高山の峰について多くの人が共有する認識は実は限られている。巻狩りのような機会でもなければ大勢で山に入って峰まで及ぶことはない。多くの人が我が事のように思えることでなければ、たとえそれが比喩表現であったとしても共感は得られず、ひいては理解もされないことだろう。狩りに勢子として多数参加し、体験を同じくしていたから言葉が通じるところとなる。万3278番歌に「峰のたをりに射目いめ立てて」とあるように、人間がいることを動物には隠して気づかれないようにしている。そして、近づいてきたらすかさず射かけて仕留めようとする。高山の峰に積極的に人がかかわるのはこの狩りのさまを措いて他にない。万2493番歌の比喩表現のなかで袖を振らなかった理由も、狩りの最中にそんなことをしたら獲物を逃すことになると常識として知っていたからで、常識なのだから相手にも通じる。
 ということは、「袖不振来」とあるのは、話主が自覚的にそうしていたということになる。翻ってみれば、女性に対して袖を振らなかった理由は、女性を狩る目的で気づかれずに接近する方法でもあったのである。最後に「忘ると思ふな」で締めくくっている。こうして近づいて二人きりになったということは、狩りが成功したということで、煮るなり焼くなり好きにするよと宣っていると捉えられるのである。比喩で歌い始めておきながら、最後には女性に迫るところまでなだれ込んでいる。比喩が比喩のなかに留まるのではなく、本旨へと浸潤する言い方は、比喩表現のうちでも特に練られた手法であると言えよう(注8)
 この歌の解読史は歴史の大きな流れを心ならずも語っている。
 嘉暦伝承本に載る訓は次点とされ、尊重されている。類聚古集や西本願寺本でも明らかに「支」字に見えても訓としては「トモ」と記される。平安時代、和歌は公家文化のなかに組み込まれることで続いて行った(注9)。貴族の狩猟は鷹狩がもっぱらとなり、大型獣である鹿を狩ることはほとんどなくなっていた。動物の解体事情にも疎くなっていたという背景から、「支(𭣔)」字を「友」と見て文字どおり意改して受け取るようになったようである。飛鳥時代と平安時代では文化が異なる。校訂や訓の変遷が心性の構造的な変化を教えてくれていて興味深い例である。

(注)
(注1)東1935.。
(注2)「支(𭣔)」と「友」は字形がよく似ている。崩し字の「友」の特徴は、二画目で左下に払うか、そこから続けるにしてもかなり左下へ食い込むように書かれる。一方、変体仮名にも転じた「支(𭣔)」字では、二画目が途中で止まって四画目より下に抜けることはなく、三画目へとすぐに続く傾向がある。天平12年(740)の道行般若経(藤原夫人願経、神護寺根本御経)、11世紀の前田本日本書紀、法華経方便品(竹生島経)にもそのようにある。ここにあげた字体は、万2994番歌の例を度外視し、また、訓が与えられなければ皆「支」字と見る可能性が高いのではないか。
 本文文字の異動に関しては他に「宍」か「完」かの違いがあり、その訓みは類聚古集、嘉暦伝承本では「しかの」、西本願寺本では新点で「シヽノ」とある。
(注3)三句目「支衆」は、「……ヲ多ミ」のミ語法にしないほうがいい。ミ語法にすると四句切れになって下手な言い訳の域を脱しない。四句目の「袖不振来」は、「袖振らずぬ」、「袖振らずつ」の二案が提示されて議論されるが、ツとヌの使用には傾向的差異はあっても必ず例外があって決定打とならない。他に、係助詞を伴う例がある。

 …… いらなけく そこに思ひ出 いとしけく ここに思ひ出 いらずそる〔伊岐良受曾久流〕 あづさゆみまゆみ(記51)

 心が痛むことをそこでは思い出し、いとしいことをここでは思い出し、結局、切らずにやって来たのだ、梓弓檀の木を、という意である。このように「……そる」の形を採用すると字余りにはなるものの、意を伝えるのにふさわしい。
(注4)契沖は万葉代匠記で、詩経の「鹿斯之奔、維足伎々」を引いて漢土にも同様の見立てがあることを述べているが、何を言いたいのか不明である。
(注5)万葉集の動物の「友」の表現については拙稿「万葉集における動物の「友」」参照。
 西洋では、人のさまを動物に語らせる積極姿勢をもったイソップ物語が知られるが、古代日本に著名な動物寓話はない。稲羽の素菟の話のようなものは神の話として捉えられている。両者の違いはイソップ物語がわかりやすい幼児向けの寓話であるのに対し、稲羽の素菟の話は何を語っているのか俄かには理解できない点にある。日本書紀には俗の伝承として諺の由来を説くような不思議な話が記されている。話のなかでも「あやし」まれている。

 くにひとへらく、「昔、一人ひとりのひと有りて、菟餓とがに往きて、野の中に宿れり。時にふたつ鹿かたはらに伏せり。鶏鳴あかつきに及ばむとして、鹿しか鹿しかかたりて曰はく、『吾、よひいめみらく、白霜しらしもさはに降りて、吾が身を覆ふと。是、何のさがぞ』といふ。牝鹿、答へて曰はく、『いまし出行ありかむときに、必ず人の為に射られて死なむ。即ち白塩あはしほを以て其の身に塗られむこと、霜のしろきが如くならむしるしなり』といふ。時に宿れる人、心のうちあやしぶ。未及昧爽あけぼのに、猟人かりびと有りて、牡鹿を射て殺しつ。是を以て、時人ときのひとの諺に曰はく、『鳴く牡鹿しかなれや、相夢いめあはせまにまに』といふ」といへり。(仁徳紀三十八年七月)

(注6)拙稿「上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について」参照。
(注7)気象にかかわる例は次の二例である。そこに朝霧や白雲がかかるからそう言っている。この場合、遠望していて山に分け入ってはいない。

 我が故に 言はれし妹は 高山の 峰の朝霧 過ぎにけむかも〔我故所云妹高山之峯朝霧過兼鴨〕(万2455、柿本朝臣人麻呂之歌集、寄物陳思)
 さ夜更よふけば 出でむ月を 高山の 峰の白雲しらくも 隠しなむかも〔左夜深者出来牟月乎高山之峯白雲将隠鴨〕(万2332、詠月、冬雑歌)

(注8)むろん、言語活動として歌の表現においてそう言っているだけで、実際にどのような行為に及んだか、男女の間に合意があったかといったこととは次元の異なることである。
(注9)万葉時代の歌われる歌から、ふみに書かれる和歌へと変質している。

(引用・参考文献)
稲岡1998. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第十一』有斐閣、平成10年。
小田2019. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2019年。
蜂矢1961. 蜂矢宣朗「「袖不振來」と「七日越來」」『山邊道』第8号、天理大学国語国文学会、昭和36年12月。
東1935. 東光治「かもしし考」『萬葉動物考』人文書院(京都)、昭和10年。