万葉集巻三に、若き日の長屋王の作とされている歌が載っている。特に馬の歌であるとは喧伝されていないが、題詞に「馬」と明記されている。最新の通釈書の訳を添えて示す。
長屋王の、馬を寧楽山に駐めて作る歌二首〔長屋王駐馬寧樂山作歌二首〕
佐保過ぎて 奈良の手向に 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとそ〔佐保過而寧樂乃手祭尓置幣者妹乎目不離相見染跡衣〕(万300)
磐が根の こごしき山を 越えかねて 哭には泣くとも 色に出でめやも〔磐金之凝敷山乎超不勝而哭者泣友色尓将出八方〕(万301)
長屋王が、馬を寧楽山に駐めて作った歌二首
佐保を過ぎて、奈良の峠の手向けに、こうして置く幣は、あの子と離れることなく、いつも互いに見ていたいと願うからだ。(万300)
岩が転がっている、でこぼこした険しい山を、どうにも超えることが出来ずに、声に出して泣いたとしても、あの子が恋しいなどと顔色に出すことはあろうか。(万301)(萬葉集正義117・119頁。)
これらの歌は理解されているようで核心に迫る解釈は提出されていない。
長屋王が馬に乗って出かけ、寧楽山(奈良山)にさしかかったところで馬を停め、そこで旅立ちのために手向けの儀式として幣を置いた。「幣」は、神に祈るときに供える麻や木綿、また、紙の場合もあるとされる。願ったのは愛しい女性に絶えることなく会うことができるようにということである。「目離る」は、見ることが遠ざかること、逢わない日が増えて疎遠になってしまうことをいう。「相見しむ」は、互いに相手のことを見させるようにさせる、つまり、どうしたって逢うことになるようにという願いを述べている。「磐が根」は、岩が地中深くに根を下ろしているように不動であること、「こごし」は、凝り固まってごつごつしているさまをいう。「哭に泣く」は、「眠を寝」などと同様の用法で、人知れず忍び泣くのではなく声をあげて泣くことを強調する言い方である。「色に出づ」は、顔色に出すことである。行程は悪路で、なかなか山を越えられず、その苦難に泣き声をあげることがあったとしても、彼女への思いが周囲に露見することがないようにと念じている。
旅情の風情を歌ったもので、一途に妻や恋人を思う気持ちの表れであるとも評されている。ただ、それでは一向に面白くなく、また、しっくり来ないところもある。万300番歌でこれからも間断なく逢えるようにと願い、また、万301番歌四句目以降では、旅路が苦しくて声をあげて泣くことがたとえあったとしても、妻や恋人との関係については露見しないようにと思っている。ずいぶん込み入った、回りくどいことを言っていることになる。かつての評では、どんなに泣いても顔色には出さないという点に矛盾を見ることがあった。それに対して、四句目までは山路の難渋について泣くこと、五句目は妻や彼女を思う心が顔色に出ないようにすることとし、合理性を認めるように解されるようになった。しかし、そうなると、峻険な山を越えられずに戻って来るということにもなりかねず、そのおかげで妻や彼女に逢えるようになるのだが、そんな時にも決してほくそ笑んだりはしない、という意味にも曲げて解される可能性が出てくる。解釈の仕方に問題があるようである。そもそも歌とは、特に恋の歌は、無理やり気持ちを整理して述べるものではなく、整理がつかないことを訴える場合もあるのではないか。山が険しくて越えられずに苦しくて泣く時、妻や彼女のことを思い出しては別れの辛さが顔に出るものである。その点を加味せず理路ばかり説いていても仕方がないだろう。
寧楽(奈良)山の峠については、実地の立場から「磐が根の こごしき山」は見られず、「越えかね」るようなこともないと見られている。もちろん、歌なのだから誇張があってもおかしくはない。恋情を歌うために話を盛っていてかまわないのである。設定がことさらに峠越えのことと思われているのは、万300番歌で原文に「手祭」とある「手向」が、山の峠などで道祖神に行旅の安全を祈って神に幣を捧げることを「手向」といい、その場所のことも「手向」と呼び、転じて「峠」となったと考えられているからである。この箇所の「手向」については、現在主流となっている場所のことを強くいうとする説のほか、手向けの行為そのもののこととする説がある(注1)。澤瀉1956.に次のようにある。
倭名抄(一)道神に「唐韻云、禓〈音揚、一音傷、漢語抄云、太无介乃賀美〉道上祭、一曰道神也」と注してゐる。ここは奈良山の道の神にする手向である。「美故之治能 多武氣尓多知弖 伊毛我名能里都」(十五・三七三〇)、「刀奈美夜麻 多牟氣能可味尓 奴佐麻都里」(十七・四〇〇八)の「たむけ」は道の神が山の峠に祭られてゐるので「峠」の意に用ゐられたものであるが、今は「手祭」の字が用ゐられてをり、 義を以つて書かれたものであるから、手向の本義で用ゐられたと見る方がよく、そしてその手向を[山田孝雄・萬葉集]講義には「神を祭る一定の場所」とし、[武田祐吉・萬葉集]全註釋もそれに從はれてゐるが、場所と見るよりも手向すること、卽ち手向として神の前に置く幣帛は、と解するのが自然であらう。(192頁)
長屋王は乗ってきた馬を駐め、手向けの儀式をしている。用意周到に幣となる繊維製品を持参していたとは言えないだろう。要するに道の神に対して捧げものをした、ないしは、捧げることに擬して歌を詠んでいるのである。神に対して捧げている、ないしはそう見立てているのは「駐馬」である。馬を捧げものにしている(注2)。馬を捧げものにしてしまったら後の行程は歩いていかなければならない。万301番歌にあるように、「越えかねて 哭には泣く」ことに陥るというわけである。坂が急になり道も悪くなれば馬はから降りざるを得ないし、徒歩で山道を行くとなると疲れて泣きたくなることも出てくる。断っておくが歌を歌っているだけであり、実際にしたか、そうなったかは不明、というよりも、どうでもいいことである。「駐馬」という題材で面白いことを言おうとして歌ができている。歌われた歌において誰にも通じる興趣があれば聞く人を得る。そして、記憶の中に据えられて、やがて記録されることへとつながる。一人の人の内面的、個人的な感情、妻や恋人を思う気持ちが赤裸々に歌われたとしても、聞く人が興味を覚えなければ記憶されずに消えてゆく。

参考(左:「目離れ」た顔をしている馬、右:メンフクロウ)
一方の万300番歌では、馬を幣に捧げた理由が述べられている。「妹を目離れず 相見しめ」と思ってのことなのである。このまま馬に乗って進んで行っては、「目離れ」ることになるだろうから、そうはならないようにと思って馬を手放しているというのである。理由は簡単である。草食動物の馬は目が離れている。馬面はツラで構成され、横顔が左右に二つ合わさった格好をしている。人馬一体になって進んでいては自分まで「目離れ」てしまうことになるだろう。一方、人の顔は一つのオモ(面)を形成していて目はそのなかに収まっている。目と目が近く、つまりは「相見し」むる作りなのである。妻や恋人にいつも必ず逢えるように縁起を担いでみた。とぼけた歌を歌っているのである。
同様に、万301番歌で「哭には泣くとも 色に出でめやも」、泣いたとしても顔色に出そうか、いやいや出しはしない、というのは、馬の顔色のことを指してのことである。人や猿などと違い、馬は他の多くの動物のように特に顔色というものがない。毛が生えているからである。とはいえ、鳴き声はヒヒーンとけたたましいものがある。どんなに泣きに泣いて鳴き声を上げたとしても、それが顔色に表れるということはないのである。
このように、馬に乗って山道を進むなか、馬にはきつかろうと降りて休んだ時、興趣が浮かんで歌にしたのがこの二首の歌である。親しく愛おしい関係にあると思われる馬のことを、巧みに歌の素材として採り入れた名歌である。おそらくは馬がばてて進むのを拒否してしまったのだろう。佐保から奈良山まで来ただけでストライキを始めている。「駐レ馬」て道草を食べるに任せた。使えない馬だ、道の神に捧げてしまえ、というのが想起の発端だったのだろう。周りで聞いていたお付きの人々も、ヤマトコトバの表現の妙に感心したに違いない。だから記憶され、後には記録され、今日まで伝わっている。万葉集の歌の多くはこの種のもので、ヤマトコトバを巧みに使った言語芸術、すなわち、大喜利なのである。歌の場にはヤマトコトバの学習塾のような側面があり、文字なしに充実した言語生活を送っていたのだった。近代の視点によってそこに思想性を汲み取ろうとすることは、大きな誤りへと導くものである。
(注)
(注1)時代別国語大辞典では、名詞「手向」は、神仏に幣物をそなえる、主として旅中の平安を祈ることをいう動詞「手向く」の名詞形であるとし、二義もうけている。「➀神仏に幣帛をそなえること。」、「➁特に旅中平安を祈るためにたむける所。坂路を登りつめた所をいう。」(447頁)。そして、万300番歌は、➁に該当する例として挙げられている。万葉集で名詞「手向」は十一例あり、➁の例とされるのは他に一首である。
恐みと 告らずありしを み越路の 手向に立ちて 妹が名告りつ(万3730)
神を恐れて名を名乗らずに幾つかの峠を越えて来たが、今、とうとう越路への峠に立って、あなたの名を公言してしまった、という意である。この解釈に無理はないものの、峠で彼女の名前を口に出すとはどういうことか。わざわざ「手向」という言葉で指定しているということは、「手向く」という行為がそこで行われたということではないか。タムケノカミ(道祖)に対して祈るのは、旅中にある自身の安全であるはずである。だからこれまでの道行きで道祖に祈りをあげる際には、神を畏怖して彼女の名などは口を突かずに来ていたものの、越路へと続くところまで来て、そこの道祖を前にして都から隔絶するとの気持ちが芽生え、自身のことをさておいて都に残る彼女の身の安全を祈ってしまったのである。その情趣を歌っているところがこの歌の魅力である。コンサート会場でアイドルの名を呼ぶように、峠に立ってヤッホーの代わりに彼女の名を叫んだというわけではない。ヤマトタケルが足柄の坂を登ったところ(記)、ないしは、碓日の嶺で「あづまはや」と「三たび歎き」叫んだというのとは意味合いが異なるのである。このヤマトタケルの絶叫については、手向けの神との関連をもう少し考慮しなければいけないのかもしれない。
要するに、名詞「手向」が動詞の「手向く」という行為から離れて、単なる場所の意、今日いう峠の意として使われた例は万葉集には見られないのである。
(注2)馬自体を犠牲にした確実な事例は確かめられていないが、土馬や絵馬が多数作られている。現在行われている絵馬でも、いつも逢えますようにという願い事が書かれることがある。神の力に頼って「相見しむ」ことを祈念している。
(引用・参考文献)
澤瀉1956. 澤瀉久孝『萬葉集注釋 巻第三』中央公論社、1956年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
萬葉集正義 萬葉集正義編集委員会編『萬葉集正義 第二』八木書店、2025年。
長屋王の、馬を寧楽山に駐めて作る歌二首〔長屋王駐馬寧樂山作歌二首〕
佐保過ぎて 奈良の手向に 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとそ〔佐保過而寧樂乃手祭尓置幣者妹乎目不離相見染跡衣〕(万300)
磐が根の こごしき山を 越えかねて 哭には泣くとも 色に出でめやも〔磐金之凝敷山乎超不勝而哭者泣友色尓将出八方〕(万301)
長屋王が、馬を寧楽山に駐めて作った歌二首
佐保を過ぎて、奈良の峠の手向けに、こうして置く幣は、あの子と離れることなく、いつも互いに見ていたいと願うからだ。(万300)
岩が転がっている、でこぼこした険しい山を、どうにも超えることが出来ずに、声に出して泣いたとしても、あの子が恋しいなどと顔色に出すことはあろうか。(万301)(萬葉集正義117・119頁。)
これらの歌は理解されているようで核心に迫る解釈は提出されていない。
長屋王が馬に乗って出かけ、寧楽山(奈良山)にさしかかったところで馬を停め、そこで旅立ちのために手向けの儀式として幣を置いた。「幣」は、神に祈るときに供える麻や木綿、また、紙の場合もあるとされる。願ったのは愛しい女性に絶えることなく会うことができるようにということである。「目離る」は、見ることが遠ざかること、逢わない日が増えて疎遠になってしまうことをいう。「相見しむ」は、互いに相手のことを見させるようにさせる、つまり、どうしたって逢うことになるようにという願いを述べている。「磐が根」は、岩が地中深くに根を下ろしているように不動であること、「こごし」は、凝り固まってごつごつしているさまをいう。「哭に泣く」は、「眠を寝」などと同様の用法で、人知れず忍び泣くのではなく声をあげて泣くことを強調する言い方である。「色に出づ」は、顔色に出すことである。行程は悪路で、なかなか山を越えられず、その苦難に泣き声をあげることがあったとしても、彼女への思いが周囲に露見することがないようにと念じている。
旅情の風情を歌ったもので、一途に妻や恋人を思う気持ちの表れであるとも評されている。ただ、それでは一向に面白くなく、また、しっくり来ないところもある。万300番歌でこれからも間断なく逢えるようにと願い、また、万301番歌四句目以降では、旅路が苦しくて声をあげて泣くことがたとえあったとしても、妻や恋人との関係については露見しないようにと思っている。ずいぶん込み入った、回りくどいことを言っていることになる。かつての評では、どんなに泣いても顔色には出さないという点に矛盾を見ることがあった。それに対して、四句目までは山路の難渋について泣くこと、五句目は妻や彼女を思う心が顔色に出ないようにすることとし、合理性を認めるように解されるようになった。しかし、そうなると、峻険な山を越えられずに戻って来るということにもなりかねず、そのおかげで妻や彼女に逢えるようになるのだが、そんな時にも決してほくそ笑んだりはしない、という意味にも曲げて解される可能性が出てくる。解釈の仕方に問題があるようである。そもそも歌とは、特に恋の歌は、無理やり気持ちを整理して述べるものではなく、整理がつかないことを訴える場合もあるのではないか。山が険しくて越えられずに苦しくて泣く時、妻や彼女のことを思い出しては別れの辛さが顔に出るものである。その点を加味せず理路ばかり説いていても仕方がないだろう。
寧楽(奈良)山の峠については、実地の立場から「磐が根の こごしき山」は見られず、「越えかね」るようなこともないと見られている。もちろん、歌なのだから誇張があってもおかしくはない。恋情を歌うために話を盛っていてかまわないのである。設定がことさらに峠越えのことと思われているのは、万300番歌で原文に「手祭」とある「手向」が、山の峠などで道祖神に行旅の安全を祈って神に幣を捧げることを「手向」といい、その場所のことも「手向」と呼び、転じて「峠」となったと考えられているからである。この箇所の「手向」については、現在主流となっている場所のことを強くいうとする説のほか、手向けの行為そのもののこととする説がある(注1)。澤瀉1956.に次のようにある。
倭名抄(一)道神に「唐韻云、禓〈音揚、一音傷、漢語抄云、太无介乃賀美〉道上祭、一曰道神也」と注してゐる。ここは奈良山の道の神にする手向である。「美故之治能 多武氣尓多知弖 伊毛我名能里都」(十五・三七三〇)、「刀奈美夜麻 多牟氣能可味尓 奴佐麻都里」(十七・四〇〇八)の「たむけ」は道の神が山の峠に祭られてゐるので「峠」の意に用ゐられたものであるが、今は「手祭」の字が用ゐられてをり、 義を以つて書かれたものであるから、手向の本義で用ゐられたと見る方がよく、そしてその手向を[山田孝雄・萬葉集]講義には「神を祭る一定の場所」とし、[武田祐吉・萬葉集]全註釋もそれに從はれてゐるが、場所と見るよりも手向すること、卽ち手向として神の前に置く幣帛は、と解するのが自然であらう。(192頁)
長屋王は乗ってきた馬を駐め、手向けの儀式をしている。用意周到に幣となる繊維製品を持参していたとは言えないだろう。要するに道の神に対して捧げものをした、ないしは、捧げることに擬して歌を詠んでいるのである。神に対して捧げている、ないしはそう見立てているのは「駐馬」である。馬を捧げものにしている(注2)。馬を捧げものにしてしまったら後の行程は歩いていかなければならない。万301番歌にあるように、「越えかねて 哭には泣く」ことに陥るというわけである。坂が急になり道も悪くなれば馬はから降りざるを得ないし、徒歩で山道を行くとなると疲れて泣きたくなることも出てくる。断っておくが歌を歌っているだけであり、実際にしたか、そうなったかは不明、というよりも、どうでもいいことである。「駐馬」という題材で面白いことを言おうとして歌ができている。歌われた歌において誰にも通じる興趣があれば聞く人を得る。そして、記憶の中に据えられて、やがて記録されることへとつながる。一人の人の内面的、個人的な感情、妻や恋人を思う気持ちが赤裸々に歌われたとしても、聞く人が興味を覚えなければ記憶されずに消えてゆく。

参考(左:「目離れ」た顔をしている馬、右:メンフクロウ)
一方の万300番歌では、馬を幣に捧げた理由が述べられている。「妹を目離れず 相見しめ」と思ってのことなのである。このまま馬に乗って進んで行っては、「目離れ」ることになるだろうから、そうはならないようにと思って馬を手放しているというのである。理由は簡単である。草食動物の馬は目が離れている。馬面はツラで構成され、横顔が左右に二つ合わさった格好をしている。人馬一体になって進んでいては自分まで「目離れ」てしまうことになるだろう。一方、人の顔は一つのオモ(面)を形成していて目はそのなかに収まっている。目と目が近く、つまりは「相見し」むる作りなのである。妻や恋人にいつも必ず逢えるように縁起を担いでみた。とぼけた歌を歌っているのである。
同様に、万301番歌で「哭には泣くとも 色に出でめやも」、泣いたとしても顔色に出そうか、いやいや出しはしない、というのは、馬の顔色のことを指してのことである。人や猿などと違い、馬は他の多くの動物のように特に顔色というものがない。毛が生えているからである。とはいえ、鳴き声はヒヒーンとけたたましいものがある。どんなに泣きに泣いて鳴き声を上げたとしても、それが顔色に表れるということはないのである。
このように、馬に乗って山道を進むなか、馬にはきつかろうと降りて休んだ時、興趣が浮かんで歌にしたのがこの二首の歌である。親しく愛おしい関係にあると思われる馬のことを、巧みに歌の素材として採り入れた名歌である。おそらくは馬がばてて進むのを拒否してしまったのだろう。佐保から奈良山まで来ただけでストライキを始めている。「駐レ馬」て道草を食べるに任せた。使えない馬だ、道の神に捧げてしまえ、というのが想起の発端だったのだろう。周りで聞いていたお付きの人々も、ヤマトコトバの表現の妙に感心したに違いない。だから記憶され、後には記録され、今日まで伝わっている。万葉集の歌の多くはこの種のもので、ヤマトコトバを巧みに使った言語芸術、すなわち、大喜利なのである。歌の場にはヤマトコトバの学習塾のような側面があり、文字なしに充実した言語生活を送っていたのだった。近代の視点によってそこに思想性を汲み取ろうとすることは、大きな誤りへと導くものである。
(注)
(注1)時代別国語大辞典では、名詞「手向」は、神仏に幣物をそなえる、主として旅中の平安を祈ることをいう動詞「手向く」の名詞形であるとし、二義もうけている。「➀神仏に幣帛をそなえること。」、「➁特に旅中平安を祈るためにたむける所。坂路を登りつめた所をいう。」(447頁)。そして、万300番歌は、➁に該当する例として挙げられている。万葉集で名詞「手向」は十一例あり、➁の例とされるのは他に一首である。
恐みと 告らずありしを み越路の 手向に立ちて 妹が名告りつ(万3730)
神を恐れて名を名乗らずに幾つかの峠を越えて来たが、今、とうとう越路への峠に立って、あなたの名を公言してしまった、という意である。この解釈に無理はないものの、峠で彼女の名前を口に出すとはどういうことか。わざわざ「手向」という言葉で指定しているということは、「手向く」という行為がそこで行われたということではないか。タムケノカミ(道祖)に対して祈るのは、旅中にある自身の安全であるはずである。だからこれまでの道行きで道祖に祈りをあげる際には、神を畏怖して彼女の名などは口を突かずに来ていたものの、越路へと続くところまで来て、そこの道祖を前にして都から隔絶するとの気持ちが芽生え、自身のことをさておいて都に残る彼女の身の安全を祈ってしまったのである。その情趣を歌っているところがこの歌の魅力である。コンサート会場でアイドルの名を呼ぶように、峠に立ってヤッホーの代わりに彼女の名を叫んだというわけではない。ヤマトタケルが足柄の坂を登ったところ(記)、ないしは、碓日の嶺で「あづまはや」と「三たび歎き」叫んだというのとは意味合いが異なるのである。このヤマトタケルの絶叫については、手向けの神との関連をもう少し考慮しなければいけないのかもしれない。
要するに、名詞「手向」が動詞の「手向く」という行為から離れて、単なる場所の意、今日いう峠の意として使われた例は万葉集には見られないのである。
(注2)馬自体を犠牲にした確実な事例は確かめられていないが、土馬や絵馬が多数作られている。現在行われている絵馬でも、いつも逢えますようにという願い事が書かれることがある。神の力に頼って「相見しむ」ことを祈念している。
(引用・参考文献)
澤瀉1956. 澤瀉久孝『萬葉集注釋 巻第三』中央公論社、1956年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
萬葉集正義 萬葉集正義編集委員会編『萬葉集正義 第二』八木書店、2025年。









