万葉集巻三に、若き日の長屋王の作とされている歌が載っている。特に馬の歌であるとは喧伝されていないが、題詞に「馬」と明記されている。最新の通釈書の訳を添えて示す。

  長屋王ながやのおほきみの、馬を寧楽ならやまめて作る歌二首〔長屋王駐馬寧樂山作歌二首〕
 佐保さほ過ぎて 奈良のむけに 置くぬさは いも目離めかれず あひしめとそ〔佐保過而寧樂乃手祭尓置幣者妹乎目不離相見染跡衣〕(万300)
 いはが根の こごしき山を 越えかねて には泣くとも 色にでめやも〔磐金之凝敷山乎超不勝而哭者泣友色尓将出八方〕(万301)
 
  長屋王が、馬を寧楽山に駐めて作った歌二首
 佐保を過ぎて、奈良の峠の手向けに、こうして置く幣は、あの子と離れることなく、いつも互いに見ていたいと願うからだ。(万300)
 岩が転がっている、でこぼこした険しい山を、どうにも超えることが出来ずに、声に出して泣いたとしても、あの子が恋しいなどと顔色に出すことはあろうか。(万301)(萬葉集正義117・119頁。)

 これらの歌は理解されているようで核心に迫る解釈は提出されていない。
 長屋王が馬に乗って出かけ、寧楽山(奈良山)にさしかかったところで馬を停め、そこで旅立ちのために手向けの儀式としてぬさを置いた。「ぬさ」は、神に祈るときに供える麻や木綿ゆふ、また、紙の場合もあるとされる。願ったのは愛しい女性に絶えることなく会うことができるようにということである。「目離めかる」は、見ることが遠ざかること、逢わない日が増えて疎遠になってしまうことをいう。「あひしむ」は、互いに相手のことを見させるようにさせる、つまり、どうしたって逢うことになるようにという願いを述べている。「いはが根」は、岩が地中深くに根を下ろしているように不動であること、「こごし」は、凝り固まってごつごつしているさまをいう。「に泣く」は、「」などと同様の用法で、人知れず忍び泣くのではなく声をあげて泣くことを強調する言い方である。「色にづ」は、顔色に出すことである。行程は悪路で、なかなか山を越えられず、その苦難に泣き声をあげることがあったとしても、彼女への思いが周囲に露見することがないようにと念じている。
 旅情の風情を歌ったもので、一途に妻や恋人を思う気持ちの表れであるとも評されている。ただ、それでは一向に面白くなく、また、しっくり来ないところもある。万300番歌でこれからも間断なく逢えるようにと願い、また、万301番歌四句目以降では、旅路が苦しくて声をあげて泣くことがたとえあったとしても、妻や恋人との関係については露見しないようにと思っている。ずいぶん込み入った、回りくどいことを言っていることになる。かつての評では、どんなに泣いても顔色には出さないという点に矛盾を見ることがあった。それに対して、四句目までは山路の難渋について泣くこと、五句目は妻や彼女を思う心が顔色に出ないようにすることとし、合理性を認めるように解されるようになった。しかし、そうなると、峻険な山を越えられずに戻って来るということにもなりかねず、そのおかげで妻や彼女に逢えるようになるのだが、そんな時にも決してほくそ笑んだりはしない、という意味にも曲げて解される可能性が出てくる。解釈の仕方に問題があるようである。そもそも歌とは、特に恋の歌は、無理やり気持ちを整理して述べるものではなく、整理がつかないことを訴える場合もあるのではないか。山が険しくて越えられずに苦しくて泣く時、妻や彼女のことを思い出しては別れの辛さが顔に出るものである。その点を加味せず理路ばかり説いていても仕方がないだろう。
 寧楽(奈良)山の峠については、実地の立場から「いはが根の こごしき山」は見られず、「越えかね」るようなこともないと見られている。もちろん、歌なのだから誇張があってもおかしくはない。恋情を歌うために話を盛っていてかまわないのである。設定がことさらに峠越えのことと思われているのは、万300番歌で原文に「手祭」とある「むけ」が、山の峠などで道祖神に行旅の安全を祈って神に幣を捧げることを「むけ」といい、その場所のことも「むけ」と呼び、転じて「たうげ」となったと考えられているからである。この箇所の「むけ」については、現在主流となっている場所のことを強くいうとする説のほか、手向けの行為そのもののこととする説がある(注1)。澤瀉1956.に次のようにある。

 倭名抄(一)道神に「唐韻云、禓〈音揚、一音傷、漢語抄云、太无介乃賀美〉道上祭、一曰道神也」と注してゐる。ここは奈良山の道の神にする手向である。「美故之治能ミコシヂノ 多武氣尓多知弖タムケニタチテ 伊毛我名能里都イモガナノリツ」(十五・三七三〇)、「刀奈美夜麻トナミヤマ 多牟氣能可味尓タムケノカミニ 奴佐麻都里ヌサマツリ」(十七・四〇〇八)の「たむけ」は道の神が山の峠に祭られてゐるので「峠」の意に用ゐられたものであるが、今は「手祭」の字が用ゐられてをり、 義を以つて書かれたものであるから、手向の本義で用ゐられたと見る方がよく、そしてその手向を[山田孝雄・萬葉集]講義には「神を祭る一定の場所」とし、[武田祐吉・萬葉集]全註釋もそれに從はれてゐるが、場所と見るよりも手向すること、卽ち手向として神の前に置く幣帛は、と解するのが自然であらう。(192頁)

 長屋王は乗ってきた馬を駐め、手向けの儀式をしている。用意周到に幣となる繊維製品を持参していたとは言えないだろう。要するに道の神に対して捧げものをした、ないしは、捧げることに擬して歌を詠んでいるのである。神に対して捧げている、ないしはそう見立てているのは「駐馬」である。馬を捧げものにしている(注2)。馬を捧げものにしてしまったら後の行程は歩いていかなければならない。万301番歌にあるように、「越えかねて には泣く」ことに陥るというわけである。坂が急になり道も悪くなれば馬はから降りざるを得ないし、徒歩で山道を行くとなると疲れて泣きたくなることも出てくる。断っておくが歌を歌っているだけであり、実際にしたか、そうなったかは不明、というよりも、どうでもいいことである。「駐馬」という題材で面白いことを言おうとして歌ができている。歌われた歌において誰にも通じる興趣があれば聞く人を得る。そして、記憶の中に据えられて、やがて記録されることへとつながる。一人の人の内面的、個人的な感情、妻や恋人を思う気持ちが赤裸々に歌われたとしても、聞く人が興味を覚えなければ記憶されずに消えてゆく。

参考(左:「目離めかれ」た顔をしている馬、右:メンフクロウ)
 一方の万300番歌では、馬を幣に捧げた理由が述べられている。「いも目離めかれず あひしめ」と思ってのことなのである。このまま馬に乗って進んで行っては、「目離めかれ」ることになるだろうから、そうはならないようにと思って馬を手放しているというのである。理由は簡単である。草食動物の馬は目が離れている。馬面うまづらはツラで構成され、横顔が左右に二つ合わさった格好をしている。人馬一体になって進んでいては自分まで「目離めかれ」てしまうことになるだろう。一方、人の顔は一つのオモ(面)を形成していて目はそのなかに収まっている。目と目が近く、つまりは「あひし」むる作りなのである。妻や恋人にいつも必ず逢えるように縁起を担いでみた。とぼけた歌を歌っているのである。
 同様に、万301番歌で「には泣くとも 色にでめやも」、泣いたとしても顔色に出そうか、いやいや出しはしない、というのは、馬の顔色のことを指してのことである。人や猿などと違い、馬は他の多くの動物のように特に顔色というものがない。毛が生えているからである。とはいえ、鳴き声はヒヒーンとけたたましいものがある。どんなに泣きに泣いて鳴き声を上げたとしても、それが顔色に表れるということはないのである。
 このように、馬に乗って山道を進むなか、馬にはきつかろうと降りて休んだ時、興趣が浮かんで歌にしたのがこの二首の歌である。親しく愛おしい関係にあると思われる馬のことを、巧みに歌の素材として採り入れた名歌である。おそらくは馬がばてて進むのを拒否してしまったのだろう。佐保から奈良山まで来ただけでストライキを始めている。「駐馬」て道草を食べるに任せた。使えない馬だ、道の神に捧げてしまえ、というのが想起の発端だったのだろう。周りで聞いていたお付きの人々も、ヤマトコトバの表現の妙に感心したに違いない。だから記憶され、後には記録され、今日まで伝わっている。万葉集の歌の多くはこの種のもので、ヤマトコトバを巧みに使った言語芸術、すなわち、大喜利なのである。歌の場にはヤマトコトバの学習塾のような側面があり、文字なしに充実した言語生活を送っていたのだった。近代の視点によってそこに思想性を汲み取ろうとすることは、大きな誤りへと導くものである。

(注)
(注1)時代別国語大辞典では、名詞「むけ」は、神仏に幣物をそなえる、主として旅中の平安を祈ることをいう動詞「く」の名詞形であるとし、二義もうけている。「➀神仏に幣帛をそなえること。」、「➁特に旅中平安を祈るためにたむける所。坂路を登りつめた所をいう。」(447頁)。そして、万300番歌は、➁に該当する例として挙げられている。万葉集で名詞「むけ」は十一例あり、➁の例とされるのは他に一首である。

 かしこみと らずありしを みこしの 手向に立ちて いもが名告りつ(万3730)

 神を恐れて名を名乗らずに幾つかの峠を越えて来たが、今、とうとう越路への峠に立って、あなたの名を公言してしまった、という意である。この解釈に無理はないものの、峠で彼女の名前を口に出すとはどういうことか。わざわざ「むけ」という言葉で指定しているということは、「く」という行為がそこで行われたということではないか。タムケノカミ(道祖)に対して祈るのは、旅中にある自身の安全であるはずである。だからこれまでの道行きで道祖に祈りをあげる際には、神を畏怖して彼女の名などは口を突かずに来ていたものの、越路へと続くところまで来て、そこの道祖を前にして都から隔絶するとの気持ちが芽生え、自身のことをさておいて都に残る彼女の身の安全を祈ってしまったのである。その情趣を歌っているところがこの歌の魅力である。コンサート会場でアイドルの名を呼ぶように、峠に立ってヤッホーの代わりに彼女の名を叫んだというわけではない。ヤマトタケルが足柄の坂を登ったところ(記)、ないしは、碓日の嶺で「あづまはや」と「三たび歎き」叫んだというのとは意味合いが異なるのである。このヤマトタケルの絶叫については、手向けの神との関連をもう少し考慮しなければいけないのかもしれない。
 要するに、名詞「むけ」が動詞の「く」という行為から離れて、単なる場所の意、今日いう峠の意として使われた例は万葉集には見られないのである。
(注2)馬自体を犠牲にした確実な事例は確かめられていないが、土馬や絵馬が多数作られている。現在行われている絵馬でも、いつも逢えますようにという願い事が書かれることがある。神の力に頼って「あひしむ」ことを祈念している。

(引用・参考文献)
澤瀉1956. 澤瀉久孝『萬葉集注釋 巻第三』中央公論社、1956年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
萬葉集正義 萬葉集正義編集委員会編『萬葉集正義 第二』八木書店、2025年。
この半年の論文で我ながら秀逸だと思うものは次のとおりです。よかったらご覧になってください。

「高橋虫麻呂の富士山の歌」…赤人の富士山の歌についてはユーチューブ「大人の万葉集講座」にもあげています。
「万2126・2127番歌とかりうちの采」平城宮いざない館でゲームできるようです。
「古事記、黄泉国の桃三箇の話─カマドの内部構造─」…五徳に見立てています。
「「醜(しこ)の御楯(みたて)」考(万4373)」

では、良いお年を。
 雄略紀に、ヤマト朝廷が吉備勢力に弾圧を加えているものと見られている一連の記事が載る。ここにあげるびの弓削ゆげ部虚空べのおほぞらびの下道しもつみちの臣前おみさき津屋つやの登場する話は特徴的で、不思議な印象を与えている。何を伝えたくてそのような記述になっているのか、解読を待って長い年月を経てきた。

 八月に、官者とねりびの弓削ゆげ部虚空べのおほぞら取急あからさまに家にまかりかへる。びの下道しもつみちの臣前おみさき津屋つや或本あるふみに云はく、国造くにのみやつこ備臣山びのおみやまといふ。〉虚空おほぞらを留め使ふ。月をるまで京都みやこゆるまうのぼらせへにす(注1)天皇すめらみこと毛君大夫けつきみますらをつかはして召さしむ。虚空、召されてまうきまをさく、「前津屋、小女をとめを以ては天皇すめらみことみひとにし、大女おほめのこを以てはおのが人にし、きほひてあひたたかはしむ。幼女をとめの勝つを見ては、即ちたちを抜きて殺す。またすこしきなる雄鶏みにはとりを以て、呼びて天皇のみにはとりとし、毛を抜きてはねり、おほきなる雄鶏にはとりを以て、呼びて己がとりとして、鈴・金のあこえけて、競ひて闘はしむ。禿なる鶏の勝つを見ては、亦刀を抜きて殺す」とまをす。天皇、是のこときこしめして、物部もののべ兵士いくさびと三十みそたりつかはして、前津屋あはせてやからななたり誅殺ころさしむ。(雄略紀七年八月)

 弓削部は弓矢を削り作る人の品部である。そこに所属する人がお里の吉備に帰ったところ、領主に留め置かれて使役し続けられた。天皇は不審に思って人を遣わして召還したところ、事情説明はとんでもないものであった。小女を天皇の人、大女を自分の人と決めてけしかけて相撲をさせ、小女のほうが勝ったら刀を抜いて殺してしまう。また、小さい雄鶏を天皇の鶏として毛を抜き、翼を剪り、大きい雄鶏を自分の鶏として鈴や蹴爪に金属を被せて蹴り闘わせ、小さい方が勝ったらまた殺しているというのである。それを聞いて天皇は、物部の兵士を派遣して一族郎党を誅殺したという話になっている。
 この逸話についてはほとんど研究されておらず、話(咄・噺・譚)としてきちんと把握されていない(注2)
 どうして「小女」と「大女」とを競わせ闘わすことをしたり、「小女」が勝ったら殺したりするのか。どうして「小雄鶏」の「抜毛剪翼」したのと、「大雄鶏」に「著鈴・金距」けたのとを競わせて闘わせ、「禿鶏」が勝ったら殺しているのか。「抜刀而殺」したのは「小女」か「大女」か、また「小雄鶏」か「大雄鶏」か。そしてこの話はどういう種類の呪術でどのような作法で行われたものなのか。それが話(咄・噺・譚)の核心であり、明らかにしたい点である。雄略朝当時、あるいは下って日本書紀の編まれた天武(~持統・文武・元明・元正)朝に、話(咄・噺・譚)として十分に理解されたからそのように記されていると考えるのが研究の基本姿勢だろう。
 雄略紀に、トネリは「舎人」(五年二月)、「川瀬舎人」(十一年五月)とある。その点をとらえ、中山1999.は、「「官者」を必ずしも舎人と読む必要はないのではなかろうか。……官者吉備弓削部虚空は、大和朝廷の中央政府に仕える官人と解釈するのが妥当である。」(166頁)とする。では、「官者」をトネリとは読まず、ツカサなどと読(呼)んだかといえば、定められることではない。大和朝廷の中央政府に使える官人と解釈して差し支えないが、国家公務員の場合、「取急あからさま」に、すなわち、ちょっと帰ってまたすぐ戻るつもりで、といった休暇形容で合致するのか検討が必要である。
 養老令・假寧令に、「凡そ在京の諸司には、……五月、八月にはでん給へ。分ちて両番つくれ。各十五日。……」とある。虚空の場合も、稲刈りのために実家へ帰ったことを表していると考えられる。「取急あからさま」と断り書きされている。効率的な集約農業が行われていたことが窺える。訓としては、「取假あからしま」(雄略紀八年二月)ともある。新編全集本日本書紀では雄略七年八月条の当該部分、「いとまを取りて」と訓み、「急」は「休」の通用とする説を立てている(注3)。ただし、伝本にそのような古訓は見られない。アカラサマという訓の正しさは、神武前紀戊午年六月条、「わたの中にして、にはかに暴風にひぬ。」箇所の日本書紀私記に「暴風 安加良之末加世あからしまかぜ」とある点にも求められる。はやて(疾風)のことをいう。虚空も、吉備国の実家に、はやてのように現れて稲刈りし、はやてのように去って行くつもりでいたのだろう。ところが、在地のお偉いさんに留め置かれてしまった。
 そのように捉えてみると、「官人」という表記はなかなかに叡智があるとわかる。ヤマト朝廷側としては、正規雇用の公務員として労働規約に基づいて働かせ、決められたとおりに休暇を与えている。対して吉備下道臣前津屋は、吉備弓削部虚空という人間を使用人としての分際、低位のカーストであると認知している。誰に使われようが同じであるという発想から、自分のところへ留め置いてこき使っている。名称として、弓削司ゆげのつかさなる言い方は見られない。雑戸扱いである(注4)。だから、専門技術を持った熟練工であるのに、呼び名はトネリである。トネリというのだから奴隷扱いしてかまわないだろうと誤解してしまった。図書寮本に、「官者」の右に「舎人也」と傍書され、左に「トネリ」とあるのは、深い理解に基づいていると納得できる(注5)。つまり、弓削の仕事人をツカサとは呼ばないが、労働条件はツカサに準ずるということである。他にふさわしい呼び名がなかったからトネリと呼んでいた。だからこそ吉備下道臣前津屋は勘違いした。
 假寧令には、「凡そ假請けこはむことは、……ぐゑ、及び畿外に出でむとねがはば奏聞せよ。……及び六位以下は、皆本司ことわりて給へ。」とあり、続紀・文武天皇・大宝元年五月条に、「みことのりしたまはく、「一位已下に休暇くげを賜ふこと、十五日に遇ぐること得ず。……」」とあって、十五日が限度と定められていたようである。それなのに、ひと月経っても帰って来なかったから変だということになった。シナリオの導入部、事の発端部である。
 主人公は官者吉備弓削部虚空である。弓削部は、弓矢をつくる人たちで、特に専門技能を要する弓削りが得意な人である。天皇に対抗しているのは吉備下道臣前津屋である。○○ヤという名だから、こちらは矢を作っていたと思われる。音声言語にのみ生きた上代人の感性ならではの想念である。自ら矢を作りつつ弓を作る人を留め置いたら、疑いをかけられても仕方あるまい。そして、弓矢を実戦に用いる際、兵士は矢をケースに入れて背負う。ゆき(キは甲類)と呼ばれる。靫に緒を通して負ったから、弓使いの武人のことを靫負ゆげひと呼んでいる。

 山陵みさざきの事をはるに至りて、乃ち部稚彦げのわかひこをして弓を造らしめ、倭鍛部やまとのかぬちあま津真浦つまらをしてかごやさきを造らしめ、矢部やはぎべをしてがしむ。弓矢既に成りぬるにいたりて、かむ渟名ぬな川耳尊かはみみのみこと、以て手研たぎし耳命みみのみことを射殺さむとおもほす。(綏靖前紀神武七十七年十一月)
 靫 釈名に云はく、歩人のぶ所を靫〈初牙反、由岐ゆき〉と曰ひ、箭を以て其の中にすなりといふ。(和名抄)

 靫に矢を収納する際、鏃の金属部分を上にして入れていた。きらきらさせて敵に見せつけて威圧する役目を果していたとも考えられている。形象埴輪にそのように作られた例が見られる。ただし、靫に蓋のあったことも出土状況から見えてきた。鏃が上だと取り出すときに自分の手を傷めるのではないかと心配されている。しかし、射手はゆがけ(弓懸)と呼ばれる革製の手袋をはめている。手袋していても手傷を負うようでは、そもそも手に神経が集中しておらず、とても的に命中させることはできない。適当にしか射ることができない靫負は、むしろ射ないでいてほしいものである。射殺すことができずに敵の近くへ矢が届くと、それはそのまま敵の武器となって射返されてしまう。記紀には、天若日子(天稚彦)の話として「還矢かへりや」(記上)、「返矢かへしやむべし」(神代紀第九段本文)といった話で伝わっている(注6)。靫は、平時にあって、刑吏の看督かどのをさの所用へと特殊化していく。歴史的にみて靫から胡籙やなぐひへ移行したのは、ともに使われていたもののうち、鏃をおさめるだけの胡籙が実用的で、靫が儀礼的、顕示的、あるいは、調度的性格の強いものであったからとも思われる。矢の長さが長くなるにつれ、靫のように全体をおさめたケースを背負うと肩ごしには取り出しにくく、廃れた可能性もある(注7)
 その吉備弓削部虚空は、すぐ帰ってくるはずのところ一か月経っても帰京せず、行きっぱなしで吉備下道臣前津屋(国造吉備臣山)に留め置かれ、使役されていた。農繁期を過ぎれば、弓削部という専門職だから何かほかに仕事をしたわけではなく、弓を作らされていたに違いない。放置していると武器をどんどん作って貯えてしまう。なにしろ、弓削部と(サキツ)ヤ(矢)とが、きっぱなし状態で合わさっている。「き(キは甲類)」は「ゆき」と同音である。一つの靫には五十本の矢を装填できたという。矢の数をかぞえるのに用いる助数詞は、のり(ノは乙類)である。

 ……又そびらのりゆき〈千箭、此には知能梨ちのりと云ふ。〉と五百いほのりの靫を負ひ、……(神代紀第六段本文)
 ……そびらにはのりの靫を負ひ〈入を訓みて能理のりと云ふ。下は此れに倣へ。〉、……(記上)

 天皇方は身毛君大夫を使って召還し、つぶさに状況を報告させている。
 オホゾラ(虚空)という名は曰くありげである。広大な空のことは、時として、いい加減で、あてどないことを形容した。オホ(凡)にもソラ(空)にもいい加減さ、不確実さの意がつきまとう。召還されての報告が、具体的な軍備増強を表すのではなく、呪術めいた女相撲と闘鶏の話であったのも理が通る。かといって、吉備弓削部虚空がスパイの役割を担って語っているかといえばそうではない。何しろ、弓削部にできることは弓を削ることだけである。工作機械のロボットは弓を削ることしかできない。なのに、女相撲や闘鶏の話をし、そのロボットの話を天皇は確かなこととして聞いている。それなりのヤマトコトバの頓智があるから機械音を人の言葉として聞くことができたと考えられる。
 彼が話すべきことは軍備増強の実態のはずである。つまり、「○○のり」まで軍備を貯えているということである。吉備下道臣前津屋は同じノリでも天皇のことをノリ(詈・罵、ノは乙類)していると語り出している。

 馬柵ませ越しに 麦む駒の らゆれど なほし恋しく 思ひかねつつ(万3096)

 前津屋のやり方は、小女を天皇に見立て大女を自分に見立てる、また、小雄鶏を天皇と見立て大雄鶏を自分に見立てている。天皇と自分とを対比させ、それぞれに相似するものとして小さいものと大きいものとをとりあげている。似ているというのである。古語にノリ(似、ノは乙類)という。そして、想定外に小が大を制することがあったら、すぐに刀を抜いて殺している。当然、血が噴き出る。血のことは古語にノリ(生血、ノは乙類)といい、糊と同根の言葉である。今でものりと言っている。どうして両者を対比させるのにノリ(似)の事柄を持ち出しているのか。それは相手の氏姓が「下道臣しもつみちのおみ」で、天皇の名は「大泊瀬稚武おほはつせわかたける」だからである。わざわざ名づけられているシモツミチとは新たに作られた幹線道路である。藤原京の西四坊大路から平城京の朱雀大路に通じている。そのハイウェイに馬を走らせた。馬はノリ(乗、ノは乙類)物である。かたやオホハツセと聞けば、ものすごく馳せる様子、また、水運の船を泊めている様子が思い浮かぶ。ノル(乗)という語は馬にも船にも関係する語である。

 是に大泊瀬おほはつせの天皇すめらみこと、弓をひきまかなひ馬をせて、……(雄略前紀安康三年十月)
 隠国こもりくの はつの山は 出で立ちの よろしき山 わしり出の よろしき山 隠国の 泊瀬の山は あやにうらぐはし あやにうら麗し(雄略紀六年二月、紀77)
 君に恋ひ ねぬ朝明あさけに が乗れる 馬の足音あのとそ われに聞かする(万2654)
 海原うなはらの みちに乗りてや が恋ひ居らむ 大船の ゆたにあるらむ 人の児ゆゑに(万2367)

 オホハツセという川の瀬に停泊する名に対する形で、或本に、「吉備臣(注8)という名が掲げられている。サキツヤ(前津屋)という名は、サキ(前・先)+ツ(助詞)+ヤ(矢)の意に聞こえ、鏑矢かぶらやが思い浮かぶ。先端がかぶらのように膨らんだ形をし、木や骨角に穴を穿って中空に作りホイッスルとなる矢である。鏑矢は戦闘の開始の合図として放たれた。まずさきに、さきたれた矢ということである。キはいずれも甲類である。前津屋は特に反乱を起こそうとして軍備増強を図ったのではなく、流鏑馬のような芸の道へ進もうとしていたのかもしれない。

 鏑 丁狄反、入、箭鏃、矢佐支やさき、又、奈利加夫良なりかぶら(新撰字鏡)
 鳴箭 漢書音義に云はく、鳴鏑〈日本紀私記に八目鏑は夜豆女加布良やつめかぶらと云ふ〉は今の鳴箭の如きものなりといふ。(和名抄)
 ……手には天梔弓あまのはじゆみ天羽あまのは羽矢はやを捉り、八目やつめの鳴鏑かぶらちりへ、又頭槌剣かぶつちのつるぎきて、……(神代紀第九段第四)
 亦、鳴鏑かぶらを大き野の中に射入いいりて、其の矢を採らしめき。(記上)
 かれ、其の鳴鏑かぶら所落ちしところ訶夫羅かぶらさきと謂ふ。(神武記)

 鳴鏑は中国にこうともいう。哮は嚆と同義で開戦布告の嚆矢のこと、つまり、時間的に戦の初っ端、先に放つ。場所的にもサキ(崎)でなければ辻褄が合わない。よって神武記に、鳴鏑の落ちた所をカブラサキと呼んでいる。そして、先に生まれた子の方が大きく、後から生れた子は小さいという対比ができる。サキツヤとワカタケルの対比に反映させている。幼子のことは髪型のおかっぱ頭からカブロ(禿・童)という語で言い表す。カブラ v.s. カブロである。

左:鏑矢(男衾三郎絵巻、紙本着色、鎌倉時代、13世紀、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/男衾三郎絵詞をトリミング)、右:禿(かぶろ)(鈴木空如・松浦翠苑模、慕帰絵々詞、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590848/37をトリミング)
 禿 吐木反、无髪、加夫呂奈利かぶろなり(新撰字鏡)
 瘍〈禿附〉 説文に云はく、瘍〈音は楊、賀之良加佐かしらがさ〉は頭の瘡なりといふ。周礼注に云はく、禿〈土木反、加不路かぶろ〉は頭の瘡なりといふ。野王案に髪無きなりとす。(和名抄)
 天皇すめらみこと岐嶷かぶろにましますより総角あげまきに至るまでに、……をとこざかりいたりて……(允恭前紀)

 カブラ(蕪)という語にはアブラナ科の植物の意のほかに、その形を連想してからか婦人が釵子をつけるときに頭頂部に添え加えたかもじのこともいう。カブロ(禿)に髪は少なく、カブラ(蕪・鏑)に髪の多いことを強意している。ここに、前津屋が女の子や雄鶏を引き合いに出していた理由が明らかとなる。釵子や鶏冠を簪(髪挿)と見たのである。新撰字鏡に、「簮簪 二同、則含反、平、加美佐志かみさし」、和名抄に、「簮 四声字苑に云はく、簮〈作含反、又則岑反、加无佐之かむさし〉は冠をさしはさむ釘なりといふ。蒼頡篇に云はく、簮は笄なりといふ。釈名に云はく、笄〈音は雞、此間ここには笄子と云ふ〉は係りなり、冠をけて墜ちざらしむる所以なりといふ。」とある。かみ(ミは甲類)はかみ(ミは甲類)と同音で、同根の語とされている。身体の上部に生えている毛だからカミ(髪)と呼んだ。吉備下道臣前津屋と大泊瀬稚武とでどちらがかみなのか、それを確かめてみる行為、その占いに及んだということなのだろう。
 「禿鶏」は「小雄鶏」の「抜毛剪翼」りしたものである。「禿」字は、伝本の諸本にツブレナル、アカハダナル、日本書紀私記にはカブロナル(いずれも濁点は筆者)とある。文脈全体をノリ(罵・詈)のことと考え、言葉としても前津屋と稚武にそれぞれノリ(似)の状態にある「女」や「雄鶏」の個体を選び出している。一語一語について対比の対象として対照させている。噺家の力量はゆたかで、洒落を用いて人々の耳目を集めている。前津屋は「かぶら」に言葉の写像とされ、稚武は「禿かぶろ」と想定されている(注9)。「小女をとめ」とあるのは頭髪が薄くなっているのではなく、髪が短くて結いあげるに至らないおかっぱ頭、すなわち、カブロ(童)なるカブリ(頭)の女の子、幼童女であることが示されている。この話の設定時期は、八月、稲刈りの休暇であった。稲穂が頭を垂れる。「かぶ」を動詞化した語が「かぶす」である。

 栗太郡くるもとのこほりの人……、ひとほどに、稲ひて穂いでたり。其のあした垂穎かぶしてあからかなり。(天智紀三年十二月)

 虚空は稲刈り休暇を取って吉備の実家に戻り、ひたすら稲を刈った。古墳時代に鉄の鎌が登場し、穂首刈りと併用であったとされている。カブラ(蕪)の葉のように伸びた稲が垂穎かぶしていたのを刈り取り、田にはカブロ(禿)なるごとく短髪のおかっぱ姿が残ることになる(注10)
 前津屋は小と大とを闘わせ、小が勝つと刀を抜いて殺している(注11)。その場合、小と大のどちらを殺しているのか、あるいは両方とも殺しているのか、文章には明示されていない。
 この話は前津屋の呪詛が暴かれて滅ぼされた話とされる。前津屋が天皇をのろい、それが露呈したために天皇に誅殺されたという筋書きで捉えられている。前津屋は女相撲や闘鶏に勝つだろうと思って大の側に立ち、天皇を小の側に立たせて闘わせた。しかし、思いのほか小の側が勝ったため、その勝敗を受け入れず腹いせに抜刀して小の側を殺した。それが都へ聞こえて天皇の怒りを買い、滅ぼされたとされている。しかし、呪詛、ウケヒ(誓・祈)、占いのようなことをしているなら、その作法に従って進行していると考えるべきである。そうでなければ上代の人に確かなこととしては認められず、無文字のなかで伝承されることはないだろう。しかも、よりによって、ノリ(詈・罵)の話をしている。ノリ(則・法・規・矩)となるものに従わなければ話にならないのである。
 古代においては、言=事となることを前提として、その原則を活用して自分の意図に従うよう相手へダメージを与えるべく、ノロヒ、トゴヒ、カシリをした(注12)。また、ウケヒ(誓・祈)でも、眼前でAということが起こるとするなら将来A´ということも起こると前言しておいて占いとした。無文字文化の観念体系、すなわち、言=事とする考え方が基底にあって、はじめてその演繹的思考は是とされる。前津屋は、自分に見立てた「大女」や「大雄鶏」が負けたからといって、勝つはずがなさそうであった「小女」、「小雄鶏(禿鶏)」に制裁を加えて殺したとは考え難い。ノリ、ノロヒ、トゴヒ、カシリ、ウケヒに見られる言=事であるとする大前提を覆すことになるからである(注13)
 したがって、前津屋が殺したのは負けてしまった自分の見立てである「大女」や「大雄鶏」の方である。前津屋が女相撲や闘鶏の勝敗が思うように行かなかったとき、話の展開として前津屋は滅ぼされて然りなのである。前津屋がした呪詛的ウケヒ的占いの結果と同じく、現実でも前津屋側は負けている。既に表出していたことが実際に現出していて、ウケヒの論理構成に等しくなる。

 時に麛坂王かごさかのみこ忍熊王おしくまのみこ、共に菟餓野とがのに出でて祈狩うけひがりして曰はく、〈祈狩、此には于気比餓利うけひがりと云ふ。〉「し事を成すこと有らば、必ず良きししむ」といふ。ふたりみこおのおの假庪さずきします。赤きたちまちに出でて假庪に登りて、麛坂王をひて殺しつ。軍士いくさびとふつくづ。忍熊王、くらわけかたりて曰はく、「是の事おほきなるしるましなり。ここにしてはあたを待つべからず」といふ。(神功紀元年二月)
 如此かくのぼいでます時に、香坂王かぐさかのみこ忍熊王おしくまのみこ、聞きて、待ち取らむと思ひて、斗賀野とがのに進み出でて、宇気比うけひがりしかくして香坂王、歴木くぬぎのぼして見るに、大きなる怒猪いかりゐ出でて、其の歴木を掘りて、即ち其の香坂王をむ。其のおと忍熊王、其のわざかしこまらずして、いくさおこして待ちむかふ時に、……(仲哀記)

 この例の「祈狩うけひがり」の結果は、戦ったら負けるであろうという悪い兆候として認識されている。そして実際にも負けている。占ってみてその結果が良くなかったら、「是事大怪也。」と行動を慎むのが上代人である。将来予測の占いをして負けが見えていたら実際においても負けることになっている。ここではそう断ったうえで慎まなかった事情が語られている。言=事が貫徹されるということである。もしその前提が覆るのであれば、無文字文化は無秩序状態のアノミーに陥る。現代のように他に頼りとする法典や科学などがなかった時代のことである。
 前津屋は占ってみてうまくいかず、実際にも天皇方に滅ぼされている。話(咄・噺・譚)のレベルとして、天皇は「聞是語」いてそのとおりにしている。「遣物部三十人、誅殺前津屋并族七十人。」である。多勢に無勢、三十人(注14)が七十人を誅殺しているから話が完結している。前津屋の占いに、大が小を制するように仕向けているのに小が大を制するしるしがあらわれていた。そのとおり、少ない人数で大勢を攻めて殺している。占いに導かれるように現実の結果が現れている。理路整然とした話である。少数精鋭でヤマト朝廷は吉備勢力を出し抜けに滅ぼしたなどと史実性を問うことは、設問からしておよそナンセンスである。近代の歴史学が唱える史実なる薄っぺらな概念を、紀の記述は裏側から透かし通して笑っているようにさえ思われる(注15)
 この占い話は、雄略紀全体、日本書紀全体の中でどのように位置づけられるのか。そしてそこから、古代吉備地方の政治状況、在地の勢力とヤマト朝廷との関係について何がわかるのか。この時点でそれらを直ちに考えることは、記紀に所載の話(咄・噺・譚)を生きたものとして読むことと相容れるものではない。雄略紀を読み返してみれば、よくわからない味の定めがたい逸話が数珠つながりに列挙されている。それら一つ一つをすべて検討し、上代の人がどのような考えでそれぞれの話を組み立てていったのかを解読しようとするのでなければ、空理暴論のそしりは免れないだろう。まずは書かれている文章の一つ一つのヤマトコトバを丹念に見極めていく必要がある。記紀の話は大きな斧で荒削りされたものではなく、小さな彫刻刀で丹念に刻まれた器用仕事が多数陳列されているのである。素材の質、つまり、ヤマトコトバの領域も多岐にわたり、当時の日常語がふんだんに盛り込まれている。抽象的な構造を理解しようとする方向性は基本姿勢として誤っており、ヤマトコトバ一語一語について深く読んでいくことが肝要である。記紀は全体から部分へと仕組まれた一編の物語ではなく、雑多な話(咄・噺・譚)のオムニバスなのである。
 
(注)
(注1)別訓に、「京都みやこ聴上たてまつりあげず」ともある。「不肯」をカヘニスと訓む例は日本書紀にいくつか見られる。白川1995.に、「「かへ」を「へ」「へ」と解する説もあるが、その意を含むとはみえない。「かへにす」の「に」は、否定の助動詞「ず」の連用形。」(247頁)とある。「不肯」で、カヘニス、カヘズ、カヘニセム、ガヘンゼズの形ばかり登場する語である。名義抄に、「不肯 ガヘス、イナフ、ウケカヘニセス」とある。イナフは「いなぶ」、承知しない、辞退するの意である。このイナブという音に、上代の人がイナ(稲)+ブ(接尾語)という語感を得ていたなら、稲が頭を垂れるように平身低頭してことわる雰囲気を読み取っていたのかもしれない。本稿の雄略紀七年八月条を稲刈り休暇と想定したことと重なり、また、それが蕪の葉の株立ってしなる様に見えることから、この個所をカヘニスと訓んで正しいと理解される。
(注2)内容にわずかに踏み込んだ考察として吉田1995.がある。

 この伝承の史実性についてはもとより問題があるが、この伝承の構造にはいくつかの問題を指摘することができる。第一に虚空が吉備弓削部を称しかつ官者=トネリと記されていること。第二に虚空を召還するために、身毛君大夫という氏名をもつ美濃地域に本拠をもったと考えられる豪族をわざわざ派遣したと記されていること。第三に反乱そのものは、すこぶる咒術的な祭祀性のつよいもので、前津屋に反乱の意志があったにせよ現実の反乱にまではいたらないと記載されていること。第四に書紀の記載する人数はもとより論外であるが、それにしてもすこぶる小規模な雄略側の先制攻撃によって前津屋が打倒されたと記載していること。以上の四点はこの反乱伝承のもっている特徴といえるだろう。(34頁)

 虚空おほぞらは本拠地を吉備とした弓削部で久米郡と賀夜郡に分布していたことが知られ、吉備一族が大王主導の内征、外征に参加した際には武器製作者集団を隷属させていたと予想されるが、前津屋に留使された際には虚空はトネリとして大王家に上番勤務する者として描かれているので、もはやトモとして部民制支配に組みこまれていたことを物語るのだという。雄略紀が述べていることは、吉備一族と中小首長層の対立に大王家が介入した事情を示すものとするのである。そして、事件の発端について、吉備弓削部虚空を大王家と吉備一族のどちらが管掌するかをめぐる紛争として描かれているのも、その背景を象徴的に物語っているものだという。吉備一族には、吉備地域を組織して大規模な内乱に発展させる力がなかった点が、前津屋の咒術的な古さとして表現されているのだとされている。
 吉田氏は、書かれている文章の内容について史実性はないものとしつつも、文章の構造から史実を読み取ろうとしている。際限のない印象論である。その後を襲う中山1999.は、雄略政権が各豪族支配下の人々を朝廷のもとへと切り離して組織化していったという政治の流れが、吉備下道臣前津屋の不満、呪詛になったと解している。そのほか、前川1988.は、「伝承にみえる相撲や闘鶏は、呪術的な行為ともうけとれて事実かどうか疑わしいが、五世紀前半にすでに造山・作山の両巨大古墳を築造した下道連合勢力(下道臣氏)は、しだいに雄略の王権と対決する姿勢をとるようになっていたのであろう。しかし、王権の攻撃に出鼻をくじかれ屈服したというのが実状ではなかろうか。」(160頁)と推測する。大橋1996.は、「この[吉備弓削部虚空]の物語の成立事情は、その内容からいって、吉備氏の関与するところとは考えられず、やや不明確である」(23頁)とし、「この物語は、吉備国造の不敬行為を朝廷に知らせ、乱を未然にふせいだ、国造一族弓削部の功業譚として構成されていることが想定される」(24頁)と捻った解釈をしている。
 近代の歴史学の考え方からすれば呪術は古いものとされもし、吉備弓削部は吉備一族に以前は隷属していたとまとめられてしまっている。けれども、話を書き記したのは日本書紀の編者である。紀が編纂された681年から720年の人たちにとって、女相撲や闘鶏で小さいものをいじめるのが古い呪術とされ、吉備弓削部虚空と吉備下道臣前津屋との社会的な人間関係についてパワハラであると認識されていたとする根拠は知られない。筆者は、歴史学がするように、定まった構図を当てはめて読み解こうとはしない。ヤマトコトバに書いてあることをヤマトコトバに考えて、ちょうどジグゾーパズルを組み立てるようにヤマトコトバのなかに調和点を見出そうとしている。見出せたらそれが正しい読みで、見出せなければ未詳のこととして扱わざるを得ない。文化人類学のフィールドワークと同じ手法である。
(注3)169頁。河村秀根・益根の書紀集解の説を承けて唱えられている。
(注4)養老令・職員令の「兵部省ひやうぶしやう」の「造兵司つはものつくりのつかさ」の「ざふ工戸くこ」とある内訳に、「古記及釈云、別記云、鍛戸二百十七戸・甲作六十二戸・靫作五十八戸・弓削三十二戸・矢作廿二戸・鞆張廿四戸、羽結廿戸・桙刊卅戸。右八色人等、自十月三月、毎戸役一丁、為雑戸調役也。」(集解)とある。専業体制が敷かれていたらしいが、後の時代には、雍州府志・巻七・土産門下に、「凡そ弓を造る者を弓打と謂ひ、矢を造る者を矢師と謂ふ。凡そ弓を造る者の多くは又矢を作り、矢矯やはぎと称す。」などとあって、弓具製造業者は弓具全般を扱うようになっていたようである。
(注5)書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430004/3945aff6b628401fb9b609e5baac266a(15/38)参照。
(注6)今でも警察官がいちばん気を付けなければならないのは、携行した際にピストルを奪われないことである。
(注7)靫と矢の関係については、鈴木1954.、斎藤1982.、西岡2006.、杉井2014.を参照した。
(注8)湊2005.に、吉備臣山・吉備臣弟君のような大氏おおうじ的表記法が本来で、吉備上道臣田狭・吉備下道臣前津屋のようなうじ的表記法は、六世紀後半ないし七世紀初頭以降に分氏したことを後で整理する際に改めた結果として表記されているとする推論がある。そして、反乱伝承の述作時期も同様であろうとする。
(注9)ツブレという訓もあり、あながち間違っているとは言えない。和名抄に、「奴 唐韻に云はく、奴〈乃都反、和名は豆不祢つぶね〉は人の下なりといふ。」とある。舎人は「人之下」なるツブネに相当するから、ツブレナル鶏と訓んで虚空を挑発したとも捉え得る。その場合、天皇と官者とを一体的に捉えていることになる。現段階で歴史学がこの話から読み取れるのは、ヤマト朝廷の支配形態が、豪族の子飼い的なそれとは一線を画すものであったという点だけである。

(注10)青果コーナーに売られている蕪は、茎を束ねられて先っぽだけ切り落とされたものが多い。大根に比べてかなり長く残されている。丸漬けの漬物でも蕪の葉は長く残されている。食べられるからであるが、この逸話でいうようにヤマトコトバ的に反映されているのか、穂首刈りされたように見て取っていたかについても不明である。
 イネ(稲)のことをシネ(稲)とも言う。「つかしね」(顕宗前紀)、「種稲たなしね三十みちぢさか」(天智紀元年正月)、「和稲にきしね荒稲あらしね」(延喜式・神祇式・祝詞・広瀬大忌祭)、「味稲うましね」(万385)、「秥 唐韻に云はく、秥〈音は活、漢語抄に乃古利之禰のこりしねと云ふ〉は穀を舂きて潰れざる物なりといふ。」(廿巻本和名抄)など、みな籾の結実し稔りとなった状態のイネを示している。時代別国語大辞典には、「シネがイネにs音の添加されたものとみるか、あるいは別に、もともとひろくいね科植物をさした名称とみるかは、検討を要する。」(361頁)とあるが、熟して稔っている稲を指すのではないか。斎宮忌詞に、「死ぬを奈保留なほるふ。」(延喜式・神祇式・斎宮)とあるのは、病が治ることを比喩に使っているとされている。イネが熟してきて穂が垂れて立てなくなっているにすぎず、翌年の命の源を穂首刈りして断ってしまえば真っ直ぐに直る。すなわち、「死ぬ」の命令形、シネと言いつつ穂首刈りしていっては稲が立ち上がることから連想された忌詞なのではないだろうか。
(注11)「殺」はコロスと訓まれている。依るべき古訓があるわけではないが、筆者はシニスという訓に惹かれるものがある。「死ぬ」という語は、しばしば「死にす」という形でサ変動詞化している。

 思ふにし 死にするものに あらませば たびそ吾は 死に返らまし(万603)
 かやうの万物の品々を、よくしにせたらんは、幽玄の物まねは幽玄になり、……(風姿花伝(1044~1402頃))

 同音のシニスという語には、上代に文献例はないが、為似しにす、仕似しにす、の意で、巧みに物真似することを言うことがある。ノリ(似)のことを語ってきているので、さらに駄目を押して口説いているのではないかと思う。為似す、の名詞化が老舗しにせである。弓削は技術の伝承が必要で、老舗の匠によって成り立っている。
(注12)拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」参照。
(注13)カード占いが思うように行かないからとやり直したり、手相が悪いからとペンで財運線や結婚線を書き伸ばして良しとするのは、占いの前提自体を否定することに当たる。むろん、占いという概念を超越して悪いことではないから、カード占いのやり直しや手相の書き足しをすることが行われているわけだが、それはもはや占いではない。概念を逸脱した占い事情について後々まで語り継がれていくかといえば否定的とならざるを得ないだろう。
(注14)令義解に、「衛門府……物部卅人。〈謂、此名為内物部。為罪人.特置此府。当決罸時、皆帯刀剱。〉」とある。
(注15)前津屋の考えに、長幼の序の思想や、三略の「柔能く剛を制し、弱能く強を制す」のような小よく大を制すという考えがあったかわからない。少なくともこの短編噺からは読み取ることはできない。特にないから特記されず、何かを匂わせる印象も与えていないのだろう。

(引用・参考文献)
大橋1996. 大橋信弥『日本古代の王権と氏族』吉川弘文館、平成8年。
斎藤1972. 斎藤直芳「弓具の歴史」『現代弓道講座 第四巻─弓具施設編─』雄山閣出版、昭和57年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀②』小学館、1996年。
杉井2014. 杉井健「靫(矢入れ)から見た雪野山古墳」竜王町教育委員会編『古墳時代前期の王墓─雪野山古墳から見えてくるもの─』同発行、2014年。
鈴木1954. 鈴木敬三「靫と胡簶」国学院大学編『古典の新研究』明治書院、昭和29年。
中山1999. 中山薫「下道臣前津屋事件の解釈」横田健一編『日本書紀研究 第二十二冊』塙書房、平成11年。
西岡2006. 西岡千絵「古墳時代の矢入れ具─靫─」『七隈史学』第七号、2006年3月。
前川1988. 前川明久「吉備の反乱」『古代を考える 雄略天皇とその時代』吉川弘文館、昭和63年。
湊2005. 湊哲夫「吉備の首長の「反乱」」門脇禎二・狩野久・葛原克人編『古代を考える 吉備』吉川弘文館、2005年。
吉田1995. 吉田晶『吉備古代史の展開』塙書房、1995年。(『歴史学研究』384号、1972年初出。『日本古代国家成立史論』東京大学出版会、1973年。)
加藤良平 2025.12.2改稿初出
 記紀の神功皇后の征韓譚にアユ釣りの話が載っている。記では征韓からの帰途に筑紫国で御子を生んでからのこと、紀では征韓の途上でいまだ対馬海峡を渡る前に肥前国でウケヒとして行っている。記に前段としてあるいわゆる鎮懐石の件は、時系列上、紀では後のこととして語られている。ここではその部分を抜粋し、ひとまず通訓どおりに掲示する。

 かれ、其のまつりごと未だへたまはぬ間に、其の懐妊はらみませるをれまさむとしき。即ちはらしづめたまはむとて、石を取りて御裳みもの腰にかして、筑紫国つくしのくにに渡りまして、其の御子はあれしぬ。故、其の御子のれまししところなづけて宇美うみと謂ふ。亦、其の御裳に纏きたまひし石は、筑紫国の斗村とのむらに在り。亦、筑紫の末羅まつらのあがた玉嶋里たましまのさとに到りして、其の河の御食みをしたまふ時は、づき上旬はじめに当りき。しかくして、其の河中のいそに坐して、御裳みもの糸を抜き取り、いひを以てて、其の河の年魚あゆを釣りたまひき。〈其の河の名はがはと謂ふ。亦、其のいその名はかち門比売とひめと謂ふぞ。〉故、四月の上旬の時に、女人をみなの、裳の糸を抜き、いひぼを以て餌と為て年魚を釣ること、今に至るまで絶えず。(仲哀記)
 夏づきの壬寅の朔にして甲辰に、きたのかた火前国ひのみちのくちのくに松浦まつらのあがたに到りて、玉嶋里たましまのさとがはほとりにて進食みをしたまふ。是に、皇后きさき、針をげてつくり、いひぼを取りてにして、みもいと抽取りてつりのをにして、河の中の石のうへに登りて、鉤を投げてうけひてのたまはく、「われ西にしのかたたからの国を求めむとおもほす。し事を成すこと有らば、河のいをへ」とのたまふ。因りて竿さをを挙げて、乃ち細鱗魚あゆ。時に皇后きさきの曰はく、「希見めづらしき物なり」とのたまふ。〈希見、此には梅豆邏志めづらしと云ふ。〉故、時人ときのひと其処そこなづけて、梅豆めづ邏国らのくにふ。今、まつと謂ふはよこなばれるなり。是を以て、其の国の女人をみな、四月の上旬かみのとをかいたごとに、鉤を河中かはなかに投げて、年魚あゆること、今に絶えず。ただ男夫をのこのみは釣ると雖も、いをることあたはず。(神功前紀仲哀九年四月)
 ……時に、たまたま皇后きさき開胎うむがつきに当れり。皇后、則ち石を取りてみこしさしはさみて、いのりたまひてまをしたまはく、「事へてかえらむ日に、玆土ここれたまへ」とまをしたまふ。其の石は、今伊都県いとのあがたの道のほとりに在り。(神功前紀仲哀九年九月)
 ……皇后、新羅より還りたまふ。(神功前紀仲哀九年十月)
 十二月の戊戌の朔辛亥に、誉田ほむたの天皇すめらみことを筑紫にれたまふ。かれ時人ときのひと、其の産処みうみのところなづけて宇瀰うみと曰ふ。(神功前紀仲哀九年十二月)

 近世以降、現代の人まで、この話は荒唐無稽に映り、腑に落ちることはなかった(注1)
 記紀で話の設定が違っているが、上代の人にとってその点は問題ではなかったことだろう。笑い話的な小咄として成立していればよく、どのように話を創るか、その創り方の違いにすぎないからである。
 話に出てくる題材は、裳の糸、餌の飯粒、アユ、四月上旬、釣針(注2)である。
 記に、「抜-取御裳之糸」、紀に、「抽-取裳縷緡」とある。古代の「」は巻きスカートであった(注3)。これまで、どうやって糸を抜いたか、どこの糸を取ったかなど、ほとんど考えられて来なかった。例えばほつれている裳の布地から抜いたとされているようである。緯糸であれ経糸であれ、少し違うのではないかと感じられる。彼女は皇后であり、ボロを纏っているはずはない。裳の裾のところに袴同様の括り、指貫に当たるものをつけていて、それを抜いて釣糸にしたということではないか(注4)
 記に見える形では、神功皇后が身籠っているにもかかわらず征韓に赴くにあたり、いわゆる鎮懐石をあてて産まれないようにしていた。そして、戦勝後に九州まで帰還してから産んだことになっている。アユ釣りの話はそれに続いている。どんな石をあてがったら子が産まれないのか俄かにはわからないものの、早く山上憶良の万葉歌では、古老の伝えが紹介され、二つの楕円球状の石をお腹の前後に当てて産気の止めとしたらしいことが語られている。

 筑前国恰土郡深いとのこほりふかの村子負こふの原に、海に臨める丘の上に、二つの石あり。大きなるは長さ一尺二寸六分、めぐり一尺八寸六分、重さ十八こん五両、すこしきは長さ一尺一寸、囲一尺八寸、重さ十六斤十両、並皆ともに楕円にして、かたち鶏子とりのこの如し。其の美好うるはしきは、あげつらふにふべからず。所謂いはゆる径尺のたま是なり。〈あるは云はく、この二つの石は肥前国ひのみちのくちのくに彼杵郡そのきのこほり平敷ひらしきの石なり。うらに当りて取れりといふ〉深江の駅家うまやを去ること二十許里さとばかりにして、路のほとりに近く在り。公私の徃来に、馬より下りて跪拝せずといふことなし。古老相伝へて曰はく「往者いにしへ息長足日女おきながたらしひめのみこと、新羅に国を征討ことむけたまひし時に、ふたつの石をちて、そでの中に插着さしはさみて、鎮懐しづめたまひき。〈まことは是れ御裳みもの中なり〉所以かれ、行く人、此の石を敬拝す」といへり。すなはち歌を作りて曰はく〔筑前國怡土郡深江村子負原臨海丘上有二石大者長一尺二寸六分圍一尺八寸六分重十八斤五兩小者長一尺一寸圍一尺八寸重十六斤十兩並皆堕圓状如鶏子其美好者不可勝論所謂径尺璧是也〈或云此二石者肥前國彼杵郡平敷之石當占而取之〉去深江驛家二十許里近在路頭公私徃来莫不下馬跪拜古老相傳曰徃者息長足日女命征討新羅國之時用玆兩石插着御袖之中以為鎮懐〈實是御裳中矣〉所以行人敬拜此石乃作謌曰〕
 けまくは あやにかしこし 足日たらしひ 神のみこと 韓国からくにを たひらげて 御心みこころを しづめたまふと い取らして いはひたまひし たまなす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代よろづよに 言ひぐがねと わたの底 沖つ深江の 海上うなかみの 子負こふの原に 御手みてづから 置かしたまひて かむながら かむさびいます 奇魂くしみたま 今のをつつに たふときろかむ〔可既麻久波阿夜尓可斯故斯多良志比咩可尾能弥許等可良久尓遠武氣多比良宜弖弥許々呂遠斯豆迷多麻布等伊刀良斯弖伊波比多麻比斯麻多麻奈須布多都能伊斯乎世人尓斯咩斯多麻比弖余呂豆余尓伊比都具可祢等和多能曽許意枳都布可延乃宇奈可美乃故布乃波良尓美弖豆可良意可志多麻比弖可武奈何良可武佐備伊麻須久志美多麻伊麻能遠都豆尓多布刀伎呂可儛〕(万813)
 天地あめつちの ともに久しく 言ひ継げと この奇魂くしみたま かしけらしも〔阿米都知能等母尓比佐斯久伊比都夏等許能久斯美多麻志可志家良斯母〕(万814)
  右の事を伝へ言へるは、那珂郡なかのこほり伊知いちさと蓑島みのしまの人、建部牛たけべのうし麻呂まろなり。〔右事傳言那珂郡伊知郷蓑嶋人建部牛麿是也〕

 しかし、本当に産まれようとする力を抑えるには、お腹全体を覆うように石を廻らせていたと考えるのが妥当だろう(注5)。穏やかに受け容れられる想定がされていないと、伝承として永続することはない。「取石以纏御裳之腰」(記)というのは、裳を履いていて、その上から石を裳と同様に腰に纏いたということを語っている。石を纏くために何か別の帯のようなものが必要かと感じられるが、そのような記述はない。記述がないのであればそのような付属品はなく、石だけですっぽりと裳を着けた腰を覆うように被さり、それを裳の腰紐の残りか何かで纏いてずれることがなかったということになる。実際にそうであったということではなく、思考実験が可能で話として想定されるということである。
 筆者は、須恵器製の甑を見立てていると考える。甑は数多く出土しており、米を蒸すのに活躍した。食用のご飯としても、酒造の用にもかなったとされている(注6)。灰色に焼けた須恵器の甑は質感として石であり、蒸気孔が開いている。なかには足を入れるのに都合よいように、桟を渡した形で二つ孔のものも見られる。また、後の時代には生誕を慶ぶ儀式として甑落しの行事が行われている(注7)。状況証拠としてではあるが、話の世界に遊んだ古代の人の観念において整合性が確かめられるのである。むろん、実際に行ったわけではなく、排泄などを含めた議論をしているのではない。

蒸気孔が二つの甑(神戸市白水遺跡出土、古墳時代)
 裳のほうにもいわゆる鎮懐石の甑を履きやすくする仕掛けがあったと考えられる。ひらひらした裳が偏っては、甑がうまく嵌らず産気を鎮めることはできない。くり返すが、実際にあったということではなく、想像のなかで語っているだけである。指貫袴の場合、括り緒を引き結ぶことで knickerbockers 風のスタイルになる。同じように裳に括り糸をつけてすぼめれば、裳裾の広がりがきれいに収まっていわゆる鎮懐石の甑も履きやすくなる。女子生徒が運動する際に制服のスカートを内側に均等に巻きあげるのと同じ効果である。出産するときにはいわゆる鎮懐石の甑、ならびに裳の括り緒も外すことになる。裳には本来ならついていないはずの括り緒をつけていたということになる(注8)。必要がなくなったから括り緒を抜いて釣糸にした。そう取るのが話の流れとして自然である。話が円滑に展開しているから人の耳に届いて受け止められる。
 紀では、その部分は「則取石挿腰」となっていて、釣りの話と絡んでおらず、より簡潔である。
 通訓では、石を取りて腰さしはさみて、と、矢立同様、石を腰挿しにしたと解されている。そのように解する限りにおいて、万葉歌のように捉えられて二つの石で両側からお腹を挟んだとする説が現れる。けれども、神功紀の筆致は、記同様、腰のほうが石のなかに差し込まれ、挟まれることを写しているのではないか。石を取りて腰さしはさみて、と訓まれるように書いてある。

 故、素戔嗚尊、立化奇稲田姫、為湯津爪櫛、而挿御髻。(神代紀第八段本文)
 会明有頸鎧者一騎、挿鐃者〈鐃字未詳。〉二騎、……、……。(欽明紀十四年十月)

 紀にある他の「挿」字には、「づらさす」という例と、「くすび させるもの」の二例ある。置き字を伴わずに名詞が下接する場合、第一義的には「挿」の目的語と捉えるべきである。「取石挿腰」は、石を取りて腰さしはさみて、と訓み、取りあげた特別な石のなかへ腰を挿入して腰を前後左右から包みはさむようにした、という意である。万葉歌や釈日本紀所引の風土記は誤解された解釈を伝えている(注9)
 以上の筆者の解釈は、従来の疑問を払拭するものである。
 古事記の文脈では、征韓の過程中にあって産気づいたので、当地の石を取って裳の腰に纏き、こらえて、海を渡って筑紫へ帰ってきて子を産んだという順になっている。大浦2010.は、「あたかも鎮懐石がもとは朝鮮半島にあった石であるかのような印象を受ける……。古事記にはそのような危険を冒してまでも、鎮懐石にまつわる話のまとまりを尊重するのである。……神功皇后の新羅征討物語から鎮懐石の逸話と玉島里の[アユ釣り]逸話を括りだして載せる記述意識は、……二つの逸話の持つ現在へのつながりによって、神功皇后の新羅征討物語に真実性を持たせることにあると捉えておくべきであろう。」(122頁)とする(注10)。記紀の間に表現の違いがあるとし、そこから古事記の特性を抽出している。
 対して筆者の解釈では、日本書紀の文脈でも、変哲ある石を取ってその中に腰を入れることで腰をはさんだとしている。古事記と同じく、石はパンツのように履く形のもの、すなわち、須恵器の甑を見立てたものである。神功皇后は北九州の各所を巡幸しているが、出征に当たっては橿日宮かしひのみやが拠点であり、そこでいわゆる鎮懐石を身に着けているものと見られる。記と違い朝鮮半島の「石」ではないことになるが大同小異である。須恵器製の甑は九州北部に到来し、先んじて広まっていたことが知られていたと考えられるからである。
 すなわち、記紀ともに、いわゆる鎮懐石を履いて延産を図ったという話は、大陸の新技術を身につけて出産をメディカル・コントロールしたことを述べていることになる。もちろん、そのようなことは途方もないこと、不可能なことであり、誰が聞いても話を盛りすぎていると思うに違いない。それで良いのである。なぜなら、これは話(咄・噺・譚)だからである。産湯を沸かすのにたぎらせてシューシューいわせる様を思い起こさせることができれば、新しい調理器具の甑がどのようなものか感覚的に理解することにつながる。コシキという新語の由来も、語呂合わせ的にコシ(腰)+イキ(気、息)によって成っていると伝え、聞く人を得心させることができる。神功皇后による新羅征討の真実性を目的としていわゆる鎮懐石の話やアユ釣りの話が加えられているとする考え方は、土台から転換されなければならない。漸次的に大陸から新しい技術、文物が訪れてきている。そして、それらに対する人々の交わり方も漸次的で、徐々に馴染んでいくものであっただろう。その過程でメルクマールとなるできごととは、今まで知られていなかった技術、文物に対して新しい言葉を当てることであった。その瞬間に、ヤマトの人たちは、自家薬籠中の物として理解し、日常使いにかなうに至り、ヤマトコトバでシル(知、領)こととなる。一つの話として全体構成を満たすことによって、体系的に知るところとなるのである。その構成要素の筋書きに神功皇后の新羅征討が用いられていると翻って捉えるのが、無文字時代にはコトを伝えていくのがモットーで、それ以外に目的はなかったことにふさわしいことなのである。
 アユ釣りの話は、記紀とも細部にわたって詳述されている。
 餌に「いひ」を使っているのは、第一に、今日でもアユの餌釣りには飯粒大に切ったカマボコなどが使われていること、第二に、それまで甑をあてがっていたわけだからちょうどよく御飯が蒸しあがっていると思えるからである。釜に沸いたお湯は捨てずに産湯に使われたというように、出産シーンについて連想をめぐらすことができるようになっている。
 狩衣などの装束姿の括り緒が引き合いに出されて裾を括るための糸のことが考えられている。紀には「唯男夫雖釣、以不魚。」と追記されている。女性が出産を我慢するという特殊な状況を、裳裾に糸をつけた特殊な衣装を身にまとっていたことで物語っている。釣った魚はアユである。アユム(歩)ことができるように下半身が解放された。袴とは異なり、裳の裾を括ってしまうと左右の足が一括りにされて自由が奪われることになる。一気に解放されることは、夏に解禁されるアユ漁を思い浮かべているのであろうから、「四月之上旬」(記)、「四月上旬」(紀)としている。
 記にあるウヅキノハジメとは、ウヅ(渦)+キ(乙類)(柵)+ノ(助詞)+ハ(端)+ジメ(標)、すなわち、澪標みをつくしのことを言っている。和名抄に、「競馬〈標附〉 本朝式に、五月五日の競馬〈久良閉無麻くらべむま〉に標〈標は師米しめと読む〉を立つと云ふ。」とある。競馬のゴール地点に立てて勝敗を決める印にした。馬はそこまで疾走して来て、以降は速度を落して止めるようにする。整備された馬場の範囲内で競うのである。そこまでは走れるという印がしめである。同じ乗り物として馬の代わりに船を考えれば、澪標がそれに相当する。水脈みをのあるところを示すために水中に立てられる標柱で、水深の変わり目に立てられている。そこまでは航行できるが、それより先は一気に浅くなっていて座礁してしまう。つまり、水が渦巻く範囲の端を示す標識がウヅキノハジメなのである。水にククル(潜・泳)ことができる場所を示しているから、同音のククル(括)ための糸のことが話題になっている。一定の深さがあるところでアユの餌釣りは行われる。ほかによく知られるのはアユの友釣りである。また、ドブ釣りという深みにいるものを狙う毛バリ釣りも行われている。アユは水中の苔、藻の類を食べている。だから、と同音のの話になっている。対応がうまく行っているから口頭言語芸術として末永く伝えられることになる(注11)
 どうしてこのような釣りの逸話が創作されているのか。それは、彼女のお腹のなかにいた御子、後の応神天皇のことをナと呼んでいたからだろう。釣ったナ(魚)はアユ(年魚)である。和名抄に、「鮎 本草に鮧魚〈上の音は夷〉と云ふ。蘇敬に曰はく、一名に鮎魚〈上は奴兼反、阿由あゆ、漢語抄に銀口魚と云ひ、又、細鱗魚と云ふ〉といふ。崔禹食経に云はく、貌は鱒に似て小さく、白き皮有りて鱗無く、春に生れ夏に長り秋に衰へ冬に死ぬ、故に年魚と名づくなりといふ。」とある。このアユという語は、アユ(肖)と同じ言葉(音)である。ナ(中)、ナ(魚)、ナ(名)(注12)のそれぞれの似ていること、写像としてあることを言いたいから、アユ(鮎、肖)という語をもって示している。仲哀紀には、「皇太后おほきさきををしきよそひしたまひてほむたきたまへるにえたまへり。」と、「肖ゆ」という言葉を使って述べている。ほむたは弓の防具で左手首に着ける。別にトモとも呼ばれている。「上古いにしへの時のひとともひて褒武多ほむたと謂ふ。」(応神前紀)とある。アユの友釣りのことに通じている。互いに補完し合う形で言葉群が文字どおり写像のように構成されている。そして、なぜかアユ sweetfish のことを本邦に「鮎」という字を用いている。魚で占うことを表して、紀でウケヒをするのにかなっている。
 記では、河の名を「がは」、磯の名を「かち門比売とひめ」としている(注13)。ヲガハからは、ヲ(緒)+ガ(助詞)+ハ(端)であったとイメージが浮かぶ。裳の端に緒があったことを謂わんとしているのだろう。助詞のガは所有の意を含んでいる。裳はスカートだからその裾は廻っていて糸口などつかめないと思うかもしれないが、実は巻きスカートだからたぐり寄せれば端は必ず存在して抜くことができる。難産の袋小路から解放されることの謂いであり、ともの構造はあたかもクラインの壺のごとき袋物の閉じたような作りになっている。また、カチトヒメからは、カチ(徒歩)+トヒ(問、ト・ヒは甲類)+メ(女)、歩いて訪問する女性の意である。それまでは裳の括り糸が締められ、甑様の鎮懐石を着していて歩行がままならなかったことを示している。くり返すが、現実に、指貫袴のように、指貫裳なるものが通用していたということではなく、話の世界、言葉の操りに遊び戯れているのである。
 かくて、古代の人の想像力は、ヤマトコトバのうちに構築されていたことがよく理解される。言語事実の後に一般的観念について語ることは、牛の後ろに犂をつけていて正しいものである(注14)

(注)
(注1)近年の研究に加村2018.がある。「『古事記』 の 「裳」 の持ち主が援助の役割を果たし、神功皇后もこの条件に当てはまること、そして直前に語られた出産の物語との関連のなかで読むべきものであり、出産の穢れを清める禊に等しい行為として釣りをしたと物語っている可能性を示した。」(11頁)と述べている。読み方の可能性は無限にあるが、この議論の妥当性は低い。具体的な話の内容に近づくものとなっておらず、出産の穢れについての根拠の考究も乏しい。
(注2)「於是、皇后勾針為鉤、」(紀)とある部分について、岩田2017.は疑問を呈している。釣針(鉤)は製品化が進んでいた道具だから、「針」を勾げた「鉤」は形態上の類似性はあっても勝れた道具とは言えないという(184頁)。形態上の類似性は、古語に「ゆ」という言葉で表現される。頓智に長けた人なら、アユ(肖)をかなえることが言葉上アユ(鮎)を釣るのにふさわしいとすぐに気づいて受け容れられただろう。なにしろ、これは話(咄・噺・譚)である。そしてまた、アユは川に遡上して苔などを食べるようになっている。餌にがぶっと噛みつく性質はないため、餌釣り、引っ掛け釣りとも釣針の太さ、大きさ、湾曲の仕方などはさまざまであっても、現在市販されているものを含めてあぐ逆刺かえし)のない釣針を使う地域が多い。現地での使用状況に合うものが求められ、釣り人のなかには釣針の曲り具合などを改良したり、自作する人もいる。考古学的に釣針が「製品化」されていったと技術史を直線的に捉えることは、現代人が陥りがちな錯覚である。骨角器から鉄器への移行は画期となっていても、だからといって実用の場面のひとつひとつの釣針に対し、近代的な物差しである「製品」として一元的に考えては現実から乖離する。アユの餌釣りについては、農商務省水産局編・日本水産捕採誌、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1076822/320~321参照。各種の方法別、地域別の釣針の違いも図示されている。小鮎餌釣には、鐖のない針を使ってカツオの一本釣りのように、「釣り揚げたる魚は自から鉤を離るべきを以て左手にフゴを持ち之を受くるを要す」方法が都合よかった。
(注3)和名抄に、「衣服類四十五〈野王案に、上に在るを衣と曰ひ、下に在るを裳と曰ひ、すべて之れを服と謂ふなりとす〉」、「裙裳〈裙帯附〉 釈名に云はく、上は裙〈唐韻に音は群と同じ、字は亦、裠に作ると云ふ〉と曰ひ、下は裳〈音は常、〉と曰ふといふ。白氏文集に、青羅の裙帯〈裙帯は此の間に字の如しと云ふ〉と云ふ。」とある。
(注4)皇后は新羅へ戦いに行っている。動きやすい服装に整える必要があり、袖括りの緒を引き括って動きの邪魔にならない出で立ちにしたことが想定され、同様の仕掛けが裳にもあると考えての話なのだろう。
(注5)倉塚1986.は、「これ[石]をどうやって腰につけたかはおくとしても、」(110頁)と棚に上げておきながら自論を進めている。「これで出産をのばしたというのは、説話的に神功に結びつけるためのこじつけに違いない。……鎮懐石や年魚釣りの話は、おそらくこの地方の民間信仰あるいは習俗をとり込んでできた話であろう。」(111頁)とある。聞く耳を持たず、身も蓋もない説明になっている。
(注6)佐原1996.参照。神功皇后の時代と甑の存在、またそれが須恵器製であるかといった詳論について、ここでは触れない。
(注7)甑落しについては、徒然草に、「御産の時、甑落す事は、定まれることにはあらず。御胞衣滞る時の呪なり。滞らせ給はねば、この事なし。下ざまより事おこりて、させる本説なし。大原の里の甑をめすなり。ふるき宝蔵の絵に、賤しき人の子産みたる所に、甑おとしたるを書きたり。」(第61段)などと見える。
(注8)近世以降、有職故実に行われている裳には、ウエストベルト部分に多色の組紐を括り緒のように総に施したものが見られる。裳自体、十二単などの後ろに引くものとなり、スカートとしての機能から外れている。ウエスト部分に絞るためにあったとは考えにくく、当初からデザインとしての飾りだったのだろう。とはいえ、「服飾の常として、最初は何か実用的な目的があったものが、後にそれが装飾となるのである。」(岩崎2009.102頁)から、その源はどこにあるか考慮する必要は残る。袴の類でも腰の紐に同様の例がある。指貫袴の裾や狩衣などの袖を括るためにつけられた緒が、腰紐部分においても同じく括りとめるものであるという連想が働き、装飾美に援用されたのではないか。プリーツとなる襞をまとめるために大腰に刺縫するに当たり、色糸を使ってかえって目立たせて装飾したことと釣り合うように、引腰にも紐の長さだけ上刺を入れるようにしたということではないか。
 いま課題とされるべき古代の裳の腰部分は、埴輪などから推測するしかないのであるが、高松塚古墳の壁画では上着に隠れてわからない。それでもぐるりと一周するスカートであったことは確かである。そのときベルト通しに括り緒が通っていた可能性を否定することはできないが、平安以降に「退化してアクセサリになった」(村上1955.184頁)裳からのその原形を復元させることは難しい。いずれにせよ年魚釣りの話にある釣糸を、このウエストにあったかもしれない総から抜いたと考えるのは話の展開として成り立たない。釣りをするために裳を脱ぐことにはならないからである。
(注9)「鎮懐石」という呼称も記紀にはなく、万葉集にはじめて見られるものである。パンツ状の石を履いて貞操帯やヘルニアバンドのようなことをしている。
(注10)大浦氏は鎮懐石伝承の諸相としてまとめている。

 上代文献に見られる鎮懐石をめぐる記事は、共通要素を根幹に持ちつつ、風土記は地誌として、日本書紀は史書として、古事記は王権の書として、万葉集は文芸作品として、それぞれの論理によるそれぞれの鎮懐石をめぐる記述を成り立たせている。……確固とした共通要素を母体としつつ、その都度様々なヴァリアントが産み出され、星雲のような運動体が伝えられてゆくという、伝承ということそのもののあり方をこそ見ておくべきなのではなかろうか。(133頁)

 風土記、日本書紀、古事記、万葉集に対する現代的な視座による位置づけは、上代においても同等であったとは考えられない。地理学、歴史学、神学、文学というジャンル分けは近代になって起こっている。上代においては記し方こそ違え、ものの見方に画然とした分け隔てがあったとは思われない。上代の人たちはコト(事)をコト(言)に言語化したというに尽きるからである。
 なお、大浦氏は、「則取石挿腰、而祈之曰、事竟還日、産於玆土。」にある「祈」をイノルばかりではなくウケフと訓む可能性を指摘している。もし事が成就するならば、事終えて帰る日に、ここに産まれよ、というウケヒ的なニュアンスを持つ発話と取ることができるとする。慧眼である。事が成就しないならば、事が終わる前に新羅の地で産まれることが当然のこととして予見され、仮定の表現を示す必要はない。そして、アユ釣りのウケヒ、橿日浦で頭を濯ぐウケヒに続くものである。石のパンツを履くという荒唐無稽な仕業はウケヒの設定に合致する。
(注11)「細鱗魚」(紀)とある。アユの鱗は細かい。うろこのことは別にコケラ(杮)とも言い、コケ(苔)に音が通じている。すなわち、甑落しと杮落しとが、古代に対比されておもしろがられていたということである。
(注12)拙稿「古事記の名易え記事について」参照。
(注13)紀の記述に、征韓前の記事になり、ウケヒの話に仕立てられているため、新羅に勝ったことにかかる命名かとする説が行われているが、それは誤りであろう。紀には磯の名について記載はなく、また、記では河の名を「がは」などと単純な名にしている。新羅云々に対するに「小河」というのは理屈に合わない。
(注14)ソシュールの用いる譬え、「言語事実を持つ以前に一般的観念について語ることは、牛の前に犂をつける如き転倒である。」を踏まえた。一般に「鋤」と訳されているが、フランス語の諺に重量有輪犂を指すため筆者は「犂」とした。

(引用・参考文献)
岩崎2009. 岩崎雅美「古代女性の袴と裳」舘野和己・岩崎雅美編『古代服飾の諸相』東方出版、2009年。
岩田2017. 岩田芳子『古代における表現の方法』塙書房、2017年。
大浦2010. 大浦誠士「「鎮懐石」伝承の諸相」『説話論集 第十八集─上代における伝承の形成─』清文堂出版、2010年。
加村2018. 加村さとる「『古事記』研究 ─神功皇后の年魚釣りについて─」『あいち国文』第12号、2018年9月。愛知県立大学学術リポジトリ https://doi.org/10.15088/00003729
倉塚1986. 倉塚曄子『古代の女─神話と権力の淵から─』平凡社、1986年。
佐原1996. 佐原真『食の考古学』東京大学出版会、1996年。
杉井1994. 杉井健「甑形土器の基礎的研究」『待兼山論叢 史学篇』第28号、1994年12月。大阪大学学術情報庫https://hdl.handle.net/11094/48033
村上1955. 村上信彦『服装の歴史 第1(キモノが生まれるまで)』理論社、1955年。
加藤良平 2025.11.27改稿初出


 記紀の説話、逸話には、唐突で前後のつながりを認めにくいものがあり、特に紀には、断片のまま放置されているように思われる記述がある。それに対する研究態度としては、今日、大きく分けて二つの捉え方がある。第一は、歴史の些末事項が追補的に記されているものとしている。第二は、天皇制の正統性を主張するために構想された大掛かりなフィクションの一部であるとしている。いずれにせよ、近代のものの見方、フィルターを通してのことである。文の意味を説く(解くではない)ために、外側から枠組みを後付けしている。しかし、無文字時代において、そのように創話され、伝承されたとは考えにくい。人々が覚えておこう、伝えていこうという意欲が起こらなければ説話や逸話は生まれない。同時代、同場所での経験の外側から post-script 的、meta-physical 的に構築された話には肌感覚がなく、伝えられるには至らない。当事者、ないしその周辺の人にとって、俄かには理解できない話が定着することはないのである。自然でわかりやすい話しか歓迎されなかったということである。
 そのことは、言語というものの本性に由来する。相手に伝わってはじめて言語である。私的言語というものはなく必ず我々の言語としてある。共時的にそれを使う人たちがともに理解し合えるものとしてあるから使うことができ、一つの体系を成しているのが言語である。その言語のなかにあって実際に使うこと、文を作って話すことで意味を織り成していく。言語ゲームがくり広げられているわけだが、そのルールは外的に与えられたものではなく、その場その場のセッションにおきて定まっていく。比喩や誇張、擬人法などのレトリックが展開できるのは、言葉を行使する場で瞬時に決めてゆくことが許されているからである。当然ながら、その場その場で相手と意味が通じること、使用に耐えることが肝要である。
 記紀に残されている説話や逸話も、当時の人が互いに理解し合えることは疑いがない。訳のわからないことを能書きとして記し残すことの方が異様である。すなわち、「言語ゲーム(シュプラッハ・シュピール)」(注1)として解読されなければならない。説話や逸話が創られ、記された当時の人たちが、どのようにそれらを内側から体系化、組織化していたのかを読み解いていく必要がある。そこに書かれている「言語ゲーム/劇」がどのような一幕なのかについて、答えはテキストのなかにあるものとして考えることが求められる。無文字時代の人たちは、今日の我々が当時のテキストを目にするのと同じように、それぞれの説話や逸話の状況設定がどのようなものか、実は知らないままに聞かされながら、聞くと同時になるほどそうだと内側から理解して他の人に伝達するに至っていた。無文字時代にコミュニケーションが成り立っており、成り立っていたから社会は構成され、テキストとしても残されている(注2)



 二十七年夏四月の己亥の朔の壬寅に、近江国あふみのくにまをさく、「かまがはに物有り。其の形、人の如し」とまをす。秋七月に、摂津つのくに漁父あま有りて、あみを堀江にけり。物有りて罟にる。其の形わくごの如し。いをにも非ず、人にも非ず、なづけむところを知らず。(推古紀二十七年四月~七月)

 推古紀二十七年条は、特に前後の年と関係のある記事ではない。四月に蒲生河に物が浮いていて人のような形をしていると近江国から報告があり、七月に摂津国の漁夫が堀江に仕掛け網を設置したら物が入ったが、魚でもなく人でもなく何と名づけたらいいのかわからなかった、ということである。何を表している記事なのか深慮されたことはなく、聖徳太子伝暦(注3)を経由して聖徳太子絵伝では人面魚(「人魚」)が献られるところが描かれることもある。
 従来の訓法では、最後の「不知所名」は「なづけむところを知らず」と訓んでいる。今日の我々には理解される用法である。「所」をトコロと訓む訓み方は、漢文訓読の際に助字「所」をそのまま訓む用法によって導き入れられたもので、平安時代以降に確かめられているものの、飛鳥時代にそのように訓まれた、すなわち、そのように話されていたとは考えにくい。場所を示さないトコロなる言い方は、口頭語ばかりの世界には抽象的で理解しづらいからである。
 物に命名するとき、特徴を捉えて名をつける。物体の一部から名をつけることもあるが、場所性にこだわるものではない。日本書紀に見られる漢文の助字「所」の例から考えると、「なづけむことを知らず」、「なづけむすべを知らず」、「なづけむたづきたどき)を知らず」などと訓むのも一法である。
 ただ、もっと簡潔な言い方が見られる。「所名」を名詞の「名づけ」と訓む方法がある。「名づけを知らず」である。

 …… 天雲あまくもも いきはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もちち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名づけも知らず〔名不知〕 くすしくも います神かも ……(万319)
 …… いりなす こもりにしかば そこ思ふに 胸こそ痛き 言ひも得ず 名づけも知らず〔名付毛不知〕 跡もなき 世間よのなかにあれば むすべも無し(万466)

 名詞「名づけ」は下二段動詞「なづく」の連用形に起こっている。万319番歌は富士山を詠んだ歌で、多田2009.は、「「名づけ」は、未知のものを秩序の下に統御する行為。富士山の霊威は人知を遥かに超えるので、「名づけ」もできない。」(271頁)と通説を襲うが誤りである(注4)。「言ひも得ず 名づけも知らず」は慣用的な言い回しで、空前絶後の虚無感を表している。「天雲」は上空の高いところにあるから障害物など想定されていなかったが進行を妨げられている。「飛ぶ鳥」という名義なのに飛ばなかったり、「燃ゆる火」なのに消えてしまうかと思えば「降る雪」なのに降り積もることがないなど、語義が背反矛盾する状態が起きている。そのことをもって「言ひも得ず 名づけも知らず」と指摘している。言葉が直ちに過ちを犯すことを述べており、「くすし」の意味は、言葉があるのにその言葉が実態を表していないことについて不思議であると言っているのである。
 万466番歌は愛妻を亡くして言葉を失っている様子を表している。あったものが無くなるという世の無常さについて語っていて、口にする言葉が現実を反映することなく常とは裏腹な状態に陥ってしまっている。言葉が正しさを得られないこと、名が体を成さないこととなっている。すなわち、たとえ「名づけ」てみてもどうにも確定させることができないということで、「名」の問題以前の次元においてわからないと言っている。単にわからないというよりも、訳がわからないという言い方が似合う。
 推古紀の例にこの訓がふさわしいのは、水に漬かった物体の呼称が問題になっている点である。水にひたることをナヅクという。

 ……もろもろくだり到りて、はかを作りて、即ち其地そこのなづき田を匍匐はらばもとほりて哭き、うたよみして曰はく、
 なづき田の 稲幹いながらに 稲幹に もとほろふ 野郎蔓ところづら(記34、景行記)
 漚 於候一候二反、去、又平、漬也、漸也、浮也、清也、奈津久なづく、又比太須ひたす、又みづ尓豆久につく、又宇留保須うるほす也(新撰字鏡)

 推古紀の例は、「名(なづく)」と「漚(なづく)」とが同音であることから洒落を言っているのである。漚の物体をどう名づけるか、それがわからないのは、「名づけ(ケは乙類)」=「なづけ(ケは乙類)」、つまり、すでに水に漬かっている物体には名づけようがないということだというのである。推古紀二十七年条の不可解な挿入記事は、この一口話の確立を謂わんがために記されていると考える。

 二十七年夏四月の己亥の朔の壬寅に、近江国あふみのくにまをさく、「かまがはに物有り。其の形、人の如し」とまをす。秋七月に、摂津つのくに漁父あま有りて、あみを堀江にけり。物有りて罟にる。其の形わくごの如し。いをにも非ず、人にも非ず、名づけを知らず。

 表面的に見て、ナヅケの一口話などどうでもいいこと、記述するほどの大事ではないと低く評価する向きもあるだろう。しかし、この記事をよく読んでみると、四月条には近江国の言葉が直接話法で記されている。七月条では摂津国の漁夫の言葉は説明されるだけである。不思議な書き方である。近江の国のが言ったとはなく、「近江国」が話者になっている。他方、摂津の国では具体的に漁夫が登場しているが、何も語らずに「名づけを知らず」と茫然自失している。「言ひも得ず 名づけも知らず」状態に陥っているから話法が使われていない。そのように文章が設定されており、状況が枠組まれている。名がある/ないことと、言葉を発する/発さないこととの関係について、本質を鋭くえぐっている。無文字時代において言葉がどのように認識されていたかがよくわかる記述となっている。歴史を著述する以前の大事といえる。



 蒲生河は現在の日野川で、琵琶湖に注ぎ、そこから瀬田川、宇治川、淀川を下って大阪湾へ注ぐ。大阪湾の河口付近はデルタ地帯でラグーンもあり、開墾に当たってそれなりの土木技術を有する氾濫危険個所であった。くり返し堤防が築かれては改修されてきたと考えられている。仁徳紀十一年条に大掛かりな工事を行った記事が載る。

 十一年の夏四月の戊寅の朔甲午に、群臣まへつきみたちみことのりしてのたまはく、「今われ、是の国をれば、さはひろく遠くして、田圃たはたけ少くともし。また河の水よこさまながれて、流末かはじりからず。いささか霖雨ながめに逢へば、海潮うしほ逆上さかのぼりて,巷里むらさと船に乗り、道路みちおほちうひぢになりぬ。 かれ、群臣、共に視て、よこしまなるうなかみさくりて海にかよはせて、逆流さかふるこみきて田宅なりどころまたくせよ」とのたまふ。
 冬十月に、宮の北の郊原を掘りて、南のかはを引きて西の海にる。りて其の水をなづけてほりと曰ふ。又まさに北のかはこみほそかむとして、茨田まむたのつつみく。是の時に、ふたところの築かばすなはえてがたき有り。時に天皇すめらみことみいめみたまはく、神しましてをしへてまをしたまはく、「武蔵むざしひと強頸こはくび河内かふちひと茨田まむたのむらじ衫子ころものこ〈衫子、ここには莒呂母能古ころものこと云ふ。〉たりを以て河伯かはのかみに祭らば、必ずくことてむ」とのたまふ。すなは二人ふたりのひとぎて得つ。因りて河神かはのかみまつる。ここに強頸、いさかなしびて、水にりて死ぬ。乃ち其の堤成りぬ。唯し衫子のみは全匏おふしひさこ両箇ふたつらを取りて、き難きかはのぞむ。乃ちふたひさこを取りて、水の中になげいれて、うけひて曰はく、「河神、あふぎて、やつかれを以てまひとせり。是を以て、今吾、きたれり。必ずやつかれを得むとおもはば、是の匏を沈めてなうかばせそ。則ち吾、まことの神と知りてみづから水の中に入らむ。し匏を沈むること得ずは、おのづからにいつはりの神と知らむ。いかにただが身をほろぼさむ」といふ。是に、つむじかぜたちまちに起りて、匏を引きて水にしづむ。匏、なみの上にひつつ沈まず。則ち潝々とくすみやかうきをどりつつ遠く流る。是を以て衫子、死なずといへども其の堤亦成りぬ。是、衫子のいさみに因りて、其の身ほろびざらくのみ。かれ時人ときのひと、其の両処をなづけて、強頸こはくびのたえ衫子ころものこのたえと曰ふ。
 是歳、新羅人朝貢みつきたてまつる。則ち是のえだちつかふ。
 十三年の秋九月に、始めて茨田まむたの屯倉みやけを立つ。因りて舂米つきしねを定む。(仁徳紀十一年四月~十月~是歳~十三年九月)
 又秦人はだひとえだちて茨田堤、また茨田まむたのやけを作り、又迩池にのいけ依網池よさみのいけを作り、又難波の堀江を掘りて海に通し、又椅江ばしのえを掘り、又墨江すみのえの津を定む。(仁徳記)

 尾田2017.は、この記述の土木的要点は十月条の最初に示されていることに尽きるという。「宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。又将に北の河の澇を防かむとして、茨田堤を築く」。それによって、「始めて茨田屯倉を立つ。因りて春米部を定む。」ことができた。湿地帯を田んぼに変えて豊かになった。

 この二つ[堀江開削と茨田堤築堤]の事業が一対のもので……仁徳天皇は二つの事業を平行して行い、田圃を増やそうとしている……。土木の実務家にとっては、遠く[直線距離でも十数キロメートル]離れた堀江と茨田堤という一見無関係に思える二つの工事が相互に関連していることこそがこの条のハイライトとなる。……二つの事業がどうして繋がるのか。まず、堀江を掘って河内湖の水位変動幅を大きくさせる。こうすれば、干潮の時には、浅い湖だけに山側に大きな陸地が一時的に顔を出す。ここに堤を築くのである。山際から半円形に堤を築き出し、一時的に干陸化した土地を囲い込む。つまり堀江とは遠く離れた山際に堤防が築かれることになる。当然ながら一気呵成にとはいかない。毎日、毎日、繰り返す干満に合わせて、少しずつ延ばしていくしかない。この時大事なのは、満潮の時にでも土堤の頭が水の上に出るように堤を築くこと。こうすれば潮が満ちても堤防が消えてなくなることはない。(36~37頁)(注5)

 以上の事業によって、河内湖(草香江)の周辺には肥沃な水田地帯が生まれた。海から進入する大型船は、堀江に入ってすぐのところの津、難波津に停泊可能なわけだが、開削の主目的とはされていない(注6)
 「茨田堤」の位置については以前から推測されている。行基年譜・天平十三年記に、「高瀬堤樋」、「韓室堤樋」、「茨田堤樋」が見え、その茨田堤が仁徳紀のそれと同一であるととる見方もある(注7)。淀川の堤の一部を記紀では「茨田堤」と記しているという考え方である。しかし、記紀に所載の記事は話(咄・噺・譚)である。地名説話ではなく、人柱の話が活写されている。行基年譜とは別種の「名づけ」の可能性は十分にある。記紀の説話に「茨田堤」という名があるのは、第一に、話の設定として盛り込まれていると考えるのが適切である。また、近接する二か所を別の名の「絶間」とするのは不自然である。そして、遠く離れた堀江開削と茨田堤築堤は関連事業であり、ビジョンをもった改良事業であるとすると、広範囲を一つの視野のもとに捉えているのだから、堤の名が一つでなくては混乱が生じ、話としてもうまくないことになる。
 国史大辞典は、「茨田堤」について、「その場所の確定は困難であるが、あるいは淀川右岸(ママ)の堤の総称と考えるべきか。」(238頁、この項、亀田隆之)としている。淀川本流ばかりでなく、河内湖へ流れ込む支流の小河川の堤を含んだ淀川流域の堤の総称とする説である。それがかなり正しい見解であろう。

茨田堤想定地図(国土交通省ホームページhttp://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0616_yodogawa/0616_yodogawa_01.html)
 推古紀二十七年条の「名づけも知らず」物体が堀江で網にかかるとは、とりもなおさず淀川水系の水流が、勢い河内湖へ入っていることを指し示している。茨田堤の切れていることがこの推古紀二十七年条からわかる。それは、治水上好ましいことではない。北東から流れ来る淀川本筋系が滞っていて、東から流れ来て河内湖を作っている大和川系との分離が確保されていない。淀川本筋の河口に堆積が起こっているようである。その状態を放置すれば、せっかく開拓した河内湖東岸の田畑にも洪水が及ぶ。ひいては津の安定性も欠くことになる。「なづけを知らず」という文言は、びしゃびしゃに浸っていてどうなっても知らないよ、言を俟たずにやばいよ、とても心配だから改修しようよ、という声があがっていることを示し、直接的な訴えの声と聞くことができる。実際の被害や具体的な様子には次のような記事がある。

 春より秋に至るまでに、霖雨ながめして大水おほみづあり。五穀いつつのたなつものみならず。(推古紀三十一年)
 是歳、三月より七月に至るまでに、霖雨ながめふる。天下あめのした、大きにう。(推古紀三十四年)
 みやこうちに、驟雨にはかあめふりて、水潦にはたづみ汎溢あふる。又、伎人くれひと・茨田等の堤、往々しばしば决壊くえやぶる。(続紀・天平勝宝二年五月)



 そのような事態は、実は仁徳朝の大工事の完了直後から起こっていた。記紀では、皇后(大后)の嫉妬話としてとり上げられている。

 三十年の秋九月の乙卯の朔乙丑に、皇后きさき紀国きのくに遊行でまして、熊野岬くまののみさきに到りて、即ち其の処の御綱葉みつなかしは〈葉、ここには箇始婆かしはと云ふ。〉を取りて還ります。ここに、天皇すめらみこと、皇后の不在ましまさぬことうかかひて、田皇女たのひめみこして、おほみやうちめしいれたまふ。時に皇后、難波済なにはのわたりに到りて、天皇、八田皇女をすときこしめて、大きに恨みたまふ。則ち其の採れる御綱葉を海になげいれて、著岸とまりたまはず。かれ時人ときのひとかしは散す海をなづけて葉済かしはのわたりと曰ふ。ここに天皇、皇后の忿いかりて著岸とまりたまはぬことをしらしめさず。みづから大津にいでまして、皇后のみふねを待ちたまふ。しかうしてみうたよみしてのたまはく、
 なにひと 鈴船すずふねらせ 腰煩こしなづみ その船取らせ おほふね取れ(紀51)
 時に皇后、大津にとまりたまはずして、さらに引きて泝江かはよりさかのぼりて、山背やましろよりめぐりてやまとでます明日くるつひ、天皇、舎人とねり鳥山とりやまつかはして、皇后をかへしたてまつらしむ。すなはみうたよみしてのたまはく、
 山背やましろに い鳥山とりやま い及けい及け つまに い及きはむかも(紀52)
 皇后、かへりたまはずしてなほでます。山背河やましろがはに至りましてみうたよみしてのたまはく、
 つぎねふ 山背河やましろがはを 河泝かはのぼり が泝れば 河隈かはくまに 立ちさかゆる ももらず 八十葉やそばは 大君おほきみろかも(紀53)
 即ち那羅ならやまを越えて、葛城かづらきみのぞみてみうたよみしてのたまはく、
 つぎねふ 山背河を 宮泝みやのぼり 我が泝れば あをによし 那羅ならを過ぎ だて 倭を過ぎ 我がし国は 葛城高宮かづらきたかみや 我家わぎへのあたり(紀54)
 更に山背に還りて、宮室おほとの筒城岡つつきのをかの南につくりてします。(仁徳紀三十年九月)

 「難波済なにはのわたり」は堀江を横断する渡船場と考えられている。皇后が乗っている船は大船で、渡し船の小舟が近寄って事情を伝えたものと思われる。「大津」は大船が寄港可能なところ、仁徳紀六十二年五月条に「難波津」とあるのと同一と考えられているが、時間の流れに従って「難波津」→「大津」となるのではなく、「大津」→「難波津」となっている点は注意したほうがいいのだろう。大掛かりに「大津」として築いたところに天皇は立っていて出迎えようとしているが、少しあやしくなっていたのが実情で、「難波津」として復旧していたのではなかろうか。皇后が停泊しようとしない理由も上手に物語られている。
 皇后は、熊野岬から難波済を通過して、山背河を遡上し、那羅山を越えて葛城を望んでいる。すなわち、堀江を入って河内湖を経て、淀川から木津川へと進んでいる。茨田堤はその時なかったということになる。二十年ほど経過した段階で元の木阿弥状態だったらしい(注8)
 同様の内容は古事記でも語られている。ただ、文章内の一字がわからずに記事全体を読みわたすことができていない。

 是に、大后おほきさき、大きに恨み怒りて、其の御船に載せたる御綱柏みつながしはをば、ことごとく海に投げつ。かれ其地そこなづけて津前つのさきと謂ふ。即不入㘴宮而引避其御舩泝於堀江随河而上幸山代。此の時に、歌ひてのたまはく、
 つぎねふや 山代河やましろがはを河のぼり が上れば 河の上に 生ひてる 烏草樹さしぶを 烏草樹の木 が下に 生ひ立てる びろ つ真椿 が花の 照りいまし が葉の 広り坐すは 大君ろかも(記57)
 即ち、山代やましろよりめぐりて、那良ならの山口に到りして、歌ひて曰はく、
 つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ だて やまとを過ぎ 我が見がし国は 葛城高宮かづらきたかみや 我家わぎへあたり(記58)
 如此かく歌ひて還り、しまらくつつ韓人からひと、名は奴理能美ぬりのみいへに入り坐す。(仁徳記)

 途中の訓読していない部分は伝本に次のとおりである。

 即不入㘴宮而引避其御舩〓(⺡偏に尸に羊)於堀江随河而上幸山代(真福寺本)
 即不入㘴宮而引避其御舩衍於堀江随河而上幸山代(兼永筆本)(注9)

 現在、「〓(⺡偏に尸に羊)」または「衍」字は、寛文版本によって「泝」に改訂されており、「さかのぼる」と訓まれている(注10)。歴史的誤解である。「〓(⺡偏に尸に羊) スリコ」(名義抄)とあり、新撰字鏡には「〓(⺡偏に尸に羊) 度嵆反、研米槌」とある。〓(⺡偏に尸に羊)は〓(⺡偏に尸に辛)の異体字で、広韻には、「〓(⺡偏に尸に辛) 研米槌也」とあり、籾殻を除くのに搗く杵のことを言っている。名義抄にスリコとあるのは、擂粉の意で、米を粉にして水に溶いてお乳の代わりに乳児に与えるためのもののようである。また、集韻に、「〓(木偏に厂垂に辛) 槌也。〓(⺡偏に厂垂に辛)〓(⺡偏に尸に辛) 米瀾也、或从〓(尸に辛)」とあり、「〓(⺡偏に尸に辛)」は米のとぎ汁のことを言っている。髪を洗うのに用いられた。ヤマトコトバに「ゆする(泔)」である。

 潘〓(⺡偏に䊩) 二同正、孚園反、平、大也、姓也、浙米汁也、以可沐頭、借普寒反、或本作〓(畨偏に反)〓(米偏に畨)二形非、由須留ゆする也 (新撰字鏡)
 其のあひだに面に垢つけば、ゆするわかしてあらはむとひ、足に垢つけば、湯を燂して洗はむと請ふ。(其間面垢、燂潘請靧、足垢、燂湯請洗。)(礼記・内則)

 真福寺本の〓(⺡偏に尸に羊)字は、兼永筆本では「衍」に作る。新撰字鏡に、「衍 余忍反、大也、垂也、豊也、善也、楽也、比呂万留ひろまる」とあり、説文に、「衍 水、海に朝宗するなり。水に从ひ行に从ふ」、集韻に、「衍 延面切、水溢也、曰大也」とあり、水の溢れることをいう。

 是歳、五穀いつつのたなつもの登衍おひゆたかなり。蚕・麦、うるはしく収む。(仁賢紀八年是歳)
 天皇と皇后と、高台たかどのしまして暑きことをさかりたまふ。(仁徳紀三十八年七月)
 今やつかれは是、日神ひのかみ子孫うみのこにして、日に向ひてあたつは、此れ天道あめのみちさかれり。(神武前紀戊午年四月)

コリントス運河を例にした想定図(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wik/運河、Inkey氏撮影ならびにコラージュ)
 堀江に入りきらないような大きな「御船」を、綱を使って「引きさか」ったというのである。堀江には津の機能が発揮されていない。記には、「又、難波の堀江を掘りて海に通し、又、小椅をばしのを掘り、又、墨江すみのえの津を定む。」(仁徳記)とあって、「津」は墨江にあった。干拓の便のために堀江は掘られているに過ぎず、大掛かりな港湾機能は堀江にはなくて、おそらく水路幅も大船を通すほどには広げられていなかったのだろう。そこへ大きな船を無理やり入れた。座礁することになって底を揺することとなり、白濁したゆする(潘)が溢れた。大后は高津宮から「さかる」ことをして、天皇に「さかる」意を表した。二重に同語反復を施して形容している。堀江に「御船」を引き入れて栓をして流れを逆に戻し、水が周りに溢れたら、そのかみにある河内湖の水位も上がって、淀川との間の堤防、茨田堤の一部が決壊してもとのように流れ込んだ(注11)。そこで、「河而上幸山代」ことが可能になっている。河内湖の水位が異常に高くなり、淀川との間の茨田堤が決壊して低い方へと一気呵成に流れたから、いったんは座礁したかに見えた「御船」は満潮時に「河而上幸山代」することができたのである。水路として続いていなかったものが開通して遡上することになっており、「随河」だけでは言葉不足だから堀江での「〓(⺡偏に尸に羊)」や「衍」という事情が語られている(注12)。別の流れなのに遡ることができるようになったことが密やかに述べられているのである。



 決壊して米のとぎ汁のような白濁の水が流れた。濁った水は満ち干をくり返している汽水湖、河内湖にもともとあったものではない。遠浅の干潟を有し、貝類の浄化作用もあって水は澄んでいる。汽水湖の水は塩分を多少含み、スリコ(〓(⺡偏に尸に辛)として乳児に与えるわけにも、ユスル(泔、潘)として髪を洗うわけにもいかない。茨田堤と堀江のおかげで干拓事業が進んで茨田屯倉は成り、舂米つきしねが定められている。米を舂いて研いで炊くには真水が求められる。淀川の水を使って米をとぎ、その下流で白濁を起こしているという謂いである。茨田堤が造成される前は合流していた。仁徳紀十一年に両水域の分離が行われて成功したかに見えた治水事業は、皇后の嫉妬の末に簡単に壊れてしまっている。
 「北の河のこみを防かむ」とある「澇」字について、大系本日本書紀に、「ちり、あくた。ただし澇の原義(大波、長雨)からはこの訓は直接には生れない。前本・天本にすでにすでに傍訓があるから、平安時代の語である。後世ゴミと濁音化する。」((二)241頁)とある。また、「此の田は、天旱ひでりするにみづまかせ難く、水潦いさらみづするにみ易し。」(安閑紀元年七月)について、「水びたしになりやすい。多く田についていう。仁徳十一年十月条にも「澇、コミ」とあり、新撰字鏡に「澇、水多、オホミヅ」とある。」((三)217頁)とも注している。人名の当て字、こむたの皇女ひめみこ(応神紀二年三月)=高目こむくの郎女いらつめ(応神記)からコは甲類、四段動詞の連用形からミは甲類とわかる。田が濁った水で浸される形容に、米をといだら白く濁るコミ・コム(澇)という語を用いている。長雨で川に大波が起こり、最後には堤防が決壊して出水の濁るさまを表そうと工夫して「澇」字を使った。澇は潦に通じ、潦はイサラミヅ、ニハタヅミのことをいう。
 ユスルと訓む「潘」字は、カスとも訓む。医心方・巻一に「粳米潘ウルシネカセル汁」とある。新撰字鏡に「濤米 よね加須かす」、観智院本名義抄に「淅 相亦反、カス、ウルフ」、書陵部本名義抄に「淅米 カ(ス)(白氏文集)」とある。「淅」字は、水で米をすすぐ、揺り動かすようにしてごみなどを取り去ることを表し、米をとぎ洗ったり米を水に浸してうるかすことを意味する。ざるに漉しとるとカス(滓・糟)が残る。ヲドミともいい、ヨドガハ(淀川)に音義とも通じている。新訳華厳経音義私記に「漿 音将、訓古美豆こみづ」、新撰字鏡に「饟……餉也、饋也、みづ」(コ・ミは甲類)とあるのはおもゆのことを指す。米のとろける汁状のもの、白濁した液体を言っている。
 堤防は実は簡単に決壊する。水面上につながっている限りはいかに脆弱であろうと水を防いでくれるものの、越水すると俄かに出水する。和名抄に「唐韻に云はく、潦〈音は老、和名は爾波太豆美にはたづみ〉は雨水なりといふ。」とあり、急にひどく降って溢れ流れる水のことをいう。通じる「澇」も俄かに溢れ出る出水を指す。仁徳天皇の治水事業は国土強靭化のためのスーパー堤防建設ではない。新田開発のためのものであり、考古学的調査からは所在が確かめられないような簡素な造りでかまわなかった。突貫工事で茨田堤を築いて分水させれば、一方には田を拓くことができた。ただそれだけだから、淀川から河内湖への流れは堤が壊れたらすぐ再開し、河内湖沿いに広く拓いた田はおびやかされた。川の水位が下がって潮の引いた時を見計らい、当初と同じになるように修復をくり返して命脈を保っていたものと推測される。
 真福寺本に、「即不入㘴宮而引避其御舩〓(⺡偏に尸に羊)於堀江随河而上幸山代」とある「〓(⺡偏に尸に羊)」字に当たる語は、ヤマトコトバのユスルである。「即ち宮に入りさずして、其の御船を引きり堀江にゆする(⺡偏に尸に羊)。河のまにまに山代にのぼいでましき。」と訓む。堀江は高津宮の北側にある。大后の乗る「御船」は宮を横目に見ながら東進し、宮のすぐ前で「御船」を使って堀江の事業をゆさぶり、天皇をゆすっている。その結果、米のとぎ汁(泔、潘)のような白濁の淀川の水が流れ込んでいる。米を増産する新田開発のために茨田堤を築造し、堀江を開削したのだったから、ユスルが話題にのぼっている。脅して金銭を提供させることへと展開した語の最初期の姿が浮かび上がっている。
 兼永筆本、「即不入㘴宮而引避其御舩衍於堀江随河而上幸山代」の「衍」字に当たる語は、ヤマトコトバのアブスである。「即ち宮に入りさずして、其の御船を引きり堀江にあぶす。河のまにまに山代にのぼいでましき。」と訓む。「あぶす」は、余し溢れ出させることをいう。他動詞である。名義抄に「遺 アブス」とある。同音に「ぶす」という語があり、湯水を体にそそぎかけることをいう。米のとぎ汁である泔は髪を洗うときなどに用いた。体に浴びる水に言い換えている。したがって、古事記には原本が一本だけだったわけではなく、少なくとも二本はあったことがわかる。
 この書記の巧みさ、たくましさを鑑みるに至り、記紀の説話、逸話は「言語ゲーム/劇」であると確かめられる。当時の人たちが通念として思うことをヤマトコトバで説話や逸話として創り、語り、記している。本稿では、当時の人たちの思惟、思考の組織化、体系化するさまを内側から読んだ。記紀の説話や逸話は簡にして要を得るように二重拘束的に作られた「言語ゲーム」であった。

(注)
(注1)喜界2003.は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という概念をわかりやすく説明している。「我々の生活は無数の行為の織りなす巨大なネットワークである。……ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」という概念を通して我々の言語の実相を理解しようとするポイントは、この巨大なネットワークをいくつもの典型的な言語使用局面、つまりある種の単純な劇(シュピール)の集まりのごとくにみなそうとすることにある。この単純な劇(典型的言語使用局面)をウィトゲンシュタインは「言語ゲーム(シュプラッハ・シュピール)」と呼ぶのである。それぞれの言語ゲームは、簡単な背景、前後の脈絡、登場人物を持つ具体的なものであるため、その意味は[その場にいる]我々にとって自然であり、極めて把握しやすい。それは「言語ゲーム/劇」とでも表記すべきものである。文の意味とはそれが属する「言語ゲーム/劇」の中でそれが果たす役割なのである。従って文は、それが登場する言語ゲーム/劇の数だけ異なった意味を持つことになる。」(247~248頁)
(注2)我々も、日々、あらゆる場面で「言語ゲーム」にさらされながらたくましく生き、刻一刻と変わっていく言葉のやりとりに即応している。「国語」という教科は、エクリチュールに対してその能力を培うためにある。テキストの内部に答えがあってそれを理解できるようにすることが一貫して教えられている。
(注3)近江ツカサ便シテサクガマカハ物、其形如クシテ、如クシテ。太子カタリテ左右ハクワザハヒマル于此ヨリ人魚トイフ、非瑞物也。今無クシテ飛菟ヒト、出タル人魚、是ワザハヒ汝等ナンヂタチルベシ。(聖徳太子伝暦・下)
(注4)拙稿「高橋虫麻呂の富士山の歌」参照。
(注5)尾田2017.は、堀江を掘っても河内湖の水位が一気に下がるわけではないこと、水の中には堤は築きにくいこと、水が満ちても土堤の頭が出るように築くことが堤を保つのに重要であることに留意すべきであるとする。逆に、上町台地の砂堆を削るのは土木的に難しいことではなく、また、一度できた堀江は潮位変化による交番流で維持されやすかったと指摘している。例えば、浜名湖は明応7年(1498)の地震津波によって砂州が決壊して今切口が生まれ、潮位変動に同期した交番流が堆積を妨げて汽水湖状態を維持している。
 次の尾田氏の言葉は、紀をよく読んだ言葉と思う。

 実際の事業が仁徳天皇十一〔三二三〕年の単年で完成するはずはなく、さらには実施時期を四世紀と特定する根拠もない。長年月をかけて継続実施された事業に違いない。とはいえ事業の本質は明確に認識されていた。だからこそ『紀』が伝えるように明快な形で取り上げられたのである。その意味がわからなくなったのは、古代人の理解力・総合力に対する現代人の侮りと、物事の本質を見抜く能力が退化したからに他ならない。……この事業の本当の凄さは計画立案の過程にこそある。河内平野全体を視野に入れ、水の流れを総合的に勘案して練り上げられた構想の壮大さは例えようもない。(40頁)。

(注6)栄原2005.は、「難波堀江の開削、難波津の設定、それから大倉庫群の建設は三位一体の関係にあり、……朝鮮半島をめぐる軍事的緊張の中で、5世紀後半に倭王権が強力な指導力によって作り上げたものであることが理解できる」(27頁)とし、別の考え方をしている。神武天皇時代には、「青雲あをくも白肩しらかた」、「日下くさかたで」(神武記)、「草香邑くさかのむら青雲あをくも白肩しらかた之津のつ」(神武前紀戊午年三月)に停泊している。河内湖の奥へ入った草香江に当たる。難波の津に関する記述としては仁徳紀三十年条に記載がある。後述する。
(注7)上遠野2004.に、「「茨田堤」とは「高瀬堤」・「韓室堤」と並んで淀川左岸堤防の一部と見なしうる。ここに見える「茨田堤」とは『記』・『六国史』に見えるものと同じものを指していると考えなければならない。文献によって同じ名称のものが違うものを指すと考えることは不自然だからである。」(28頁)とある。
(注8)難波の「大津」の不具合と茨田堤の欠損が両方起きている状況からも、尾田氏の見解の正しさが確かめられる。
 応神記に「難波津」とある点が不思議がられているが、その部分は仁徳天皇の逸話を記した部分である。彼の事績として難波宮遷都があり、そこは難波津とがセットで認識されていたため、記では遡ってそのように表されたものと考える。
 天皇すめらみこと日向国ひむかのくに諸県君もろがたのきみむすめ、名は髪長かみなが比売ひめ、其の顔容かたち麗美うるはしときこして、使はむとしてぐ時、其の太子おほみこ大雀命おほさざきのみこと、其の嬢子をとめなに波津はつてるを見て、其の姿容かたち端正きらぎらしきにでて、即ち建内宿禰大臣にあとらへてらく、「是の、日向より喚し上ぐ髪長比売は、天皇のおほもとまをして、あれたまはしめよ」とのる。しかくして、建内宿禰大臣、大命おほみことを請へば、天皇、即ち髪長比売を以て其の御子に賜ふ。賜へるかたちは、天皇、豊明とよのあかりを聞し看す日に、髪長比売におほ御酒みきの柏をらしめ、其の太子に賜ふ。爾くして、御歌に曰はく、……(応神記)

(注9)真福寺本は国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1184140/1/6、兼永筆本系統では猪熊本の同https://dl.ndl.go.jp/pid/3438707/1/8参照。
(注10)本居宣長・古事記伝に、「【泝と云には、堀江と訓べきが如くなれども、於字あるは、と訓べきためなり、そは海より堀江に入給ふを云なり、既に堀江に入て、泝りゆくには非ず、】泝は佐加能煩良志弖サカノボラシテと訓べし、万葉廿〈四十九丁〉に、保里江欲利美乎左可能保流ホリエヨリミヲサカノボルカヂオト【さかのぼるとは、水の流るゝにさかひて上るなり、】」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920821/1/344、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注11)一般的な堤防決壊のメカニズムとしては、越水、浸透(バイピング、浸透)、侵食・洗掘に大別されている。二十世紀半ばの統計では、越水によるものが八割とされていた。

堤防決壊のメカニズム(国土交通省関東地方整備局「鬼怒川堤防調査委員会報告書」平成28年3月、3-1頁)
(注12)川の流れとの関係で順、逆はきちんと表現される。

 河中かはなかに渡り到る時に、其の船をかたぶけしめてみづの中におとし入る。しかくして、すなはち浮き出でて水のまにまに流れ下る。(渡到河中之時令傾其船墮入水中爾乃浮出随水流下)(応神記)
 遡流而上かはよりさかのぼりて、ただに河内国の草香邑くさかのむら青雲あをくも白肩しらかた之津のつに至ります。(遡流而上径至河内国草香邑青雲白肩之津)(神武前紀戊午年三月)

(引用・参考文献)
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多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
加藤良平 2025.11.16改稿初出
万葉集の富士山の歌

 万葉集には富士山を詠んだ歌がいくつか残されている。山部赤人の歌、高橋虫麻呂の作と思われる歌、そして、その他の歌に分けられる。

  山部やまべの宿禰すくね赤人あかひと富士ふじやまを望む歌一首〈あはせて短歌〉〔山部宿祢赤人望不盡山謌一首〈并短謌〉〕
 天地あめつちの わかれし時ゆ かむさびて 高くたふとき 駿するなる 富士ふじたかを あまの原 振りけ見れば 渡る日の 影もかくらひ 照る月の 光も見えず 白雲しらくもも いきはばかり 時じくそ 雪は降りける 語りぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士ふじの高嶺は〔天地之分時従神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隠比照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曽雪者落家留語告言継将徃不盡能高嶺者〕(万317)
  反歌〔反謌〕
 田子たごの浦ゆ うちでて見れば しろにそ 富士の高嶺に 雪は降りける〔田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺尓雪波零家留〕(万318)

 この歌群については、フジという言葉をフ(斑、縞)+ジ(~のような)の意と地口的に解して、横縞模様に冠雪しているのは言葉どおりだとおもしろがって歌にしたものである(注1)
 その他の歌は巻第十一の「寄物陳思」、巻第十四の「駿河国相聞往来歌」で、皆、作者は未詳である。富士火山が活動していることや、人の入らない高い山とその麓の広漠な光景を詠みこんで歌にしている。

 吾妹子わぎもこに 逢ふよしをなみ 駿河なる 富士の高嶺の 燃えつつかあらむ〔吾妹子尓相縁乎無駿河有不藎乃高嶺之焼管香将有〕(万2695)
 いもが名も が名も立たば しみこそ 富士の高嶺の 燃えつつ渡れ〔妹之名毛吾名毛立者惜社布仕能高嶺之燎乍渡〕
  或る歌にはく、君が名も 吾が名も立たば 惜しみこそ 富士の高嶺の 燃えつつもれ〔或歌曰君名毛妾名毛立者惜己曽不盡乃高山之燎乍毛居〕(万2697)
 あまの原 富士の柴山しばやま くれの 時ゆつりなば はずかもあらむ〔安麻乃波良不自能之婆夜麻己能久礼能等伎由都利奈波阿波受可母安良牟〕(万3355)
 富士のの いや遠長とほながき やまをも いもがりとへば はずぬ〔不盡能祢乃伊夜等保奈我伎夜麻治乎毛伊母我理登倍婆氣尓余婆受吉奴〕(万3356)
 霞る 富士の山びに なば 何方いづち向きてか 妹がなげかむ〔可須美為流布時能夜麻備尓和我伎奈婆伊豆知武吉弖加伊毛我奈氣可牟〕(万3357)
 さらくは 玉のばかり 恋ふらくは 富士の高嶺の 鳴沢なるさはごと〔佐奴良久波多麻乃緒婆可里古布良久波布自能多可祢乃奈流佐波能其登〕
  或る本の歌に曰はく、まかなしみ らくはしけらく さらくは 伊豆いづの高嶺の 鳴沢なすよ〔或本歌曰麻可奈思美奴良久波思家良久佐奈良久波伊豆能多可祢能奈流佐波奈須与〕
  一本の歌に曰はく、逢へらくは 玉の緒しけや 恋ふらくは 富士の高嶺に 降る雪なすも〔一本歌曰阿敝良久波多麻能乎思家也古布良久波布自乃多可祢尓布流由伎奈須毛〕(万3358)

 ここでとり上げるのは高橋虫麻呂の作とされる次の歌群である。

  富士の山を詠める歌一首〈并せて短歌〉〔詠不盡山歌一首〈并短謌〉〕
 なまよみの 甲斐かひの国 うち寄する 駿するの国と こちごちの 国のみなかゆ で立てる 富士の高嶺は 天雲あまくもも いきはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もちち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名づけも知らず くすしくも います神かも 石花の海と 名づけてあるも その山の つつめる海そ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちそ もとの 大和やまとの国の しづめとも います神かも 宝とも 成れる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れどかぬかも〔奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國与己知其智乃國之三中従出立有不盡能高嶺者天雲毛伊去波伐加利飛鳥母翔毛不上燎火乎雪以滅落雪乎火用消通都言不得名不知霊母座神香聞石花海跡名付而有毛彼山之堤有海曽不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當焉日本之山跡國乃鎮十方座祇可聞寶十方成有山可聞駿河有不盡能高峯者雖見不飽香聞〕(万319)
  反歌〔反謌〕
 富士のに 降り置く雪は 六月みなつきの 十五日もちゆれば その降りけり〔不盡嶺尓零置雪者六月十五日消者其夜布里家利〕(万320)
 富士の嶺を 高みかしこみ 天雲あまくもも い行きはばかり たなびくものを〔布士能嶺乎高見恐見天雲毛伊去羽斤田菜引物緒〕(万321)
  右の一首は、高橋連虫麻呂の歌の中に出づ。たぐひを以ちてここす。〔右一首高橋連蟲麿之歌中出焉以類載此〕

 長歌で歌われた降雪と天雲について反歌で再度作られている。
 長歌において、「言ひも得ず 名づけも知らず くすしくも います神かも」と総括したところがこの歌群の決め手で、虫麻呂の富士評価の要である。
 その点に関して、これまで解釈は大同小異、特に異論は出ていない。
 中西1985.は、天上の、霊山の頂上における水と火の相克は「くすしき神」の様を呈していて、この神は明界と幽界との間に生い立っていると歌うとする。その背景には、山を捉えるに当たり、古来からの「かむなび」、「もろ」という神のよりつく山として親しみをもって受け止めていたことから転変し、中国由来の霊山信仰の対象へと山観が移ろったことがあるとする。
 近年の注釈書でも、「富士山の霊威は人知を遥かに超えるので、「名づけ」もできない。」(多田2009.271頁)と説明している。
 専論では、城﨑2009.は、ヤマトという地域を神々が加護するという発想があるとして天皇の統治を詠うものとする。大久保2018.は、言語表現すら不可能な人間界の外の存在、人間の想像を絶した超自然現象を指しており、人知の到底及びえないものだから「くすしくもいます神」と表して富士は神格化されているとする。鈴木2021.は、赤人歌の「神さびて」を意識して虫麻呂は富士山そのものを神として崇めているとする。土佐2022.は、人間の認識世界の範疇に収まらない不尽の超越性を表すとする。

高橋虫麻呂の富士山の歌の本質

 しかし、そういうことではない。
 中西氏の言うように山に対する観念が転換していたとすると、七夕伝説のような断片逸話的な移入のようには済まない。自然に対する観念をことごとく改変させていたということになる。その形跡が面的な広がりをもって把握されているかといえばそうではない。しかも、それは大転換なのだから、歌という口頭語だけで直ちに伝え得るものとは思われない。中国からもたらされた舶来の思想は文字に負っている。歌で表現されたとなると、歌そのものが文字に負う後代の姿へとすでに上代の時点で移っていることになりかねない。性質の異なる新旧両者の歌を連続的な編纂のうちに留めたとは考えられない。文芸のツールとして懐風藻に知られる漢詩が試みられており、新しい思想は混乱を避けるためにもそれにふさわしい新ツールで発表されたことだろう。
 すなわち、富士山を霊山、霊威ある山として歌ったものと解するのは誤りなのである。
 「言ひも得ず 名づけも知らず」は慣用的な言い回しで、空前絶後の虚無感、ニヒリズムを表している(注2)。「天雲」は上空の高いところにあるから障害物など想定されていなかったが進行を妨げられている。「飛ぶ鳥」という名義なのに飛ばなかったり、「燃ゆる火」なのに消えてしまうかと思えば「降る雪」なのに降り積もることがないなど、語義が矛盾する状態が生じている。そのことを「言ひも得ず 名づけも知らず」と指摘している。言葉は字義どおりに事柄を表さなければならないところ、逐語性を欠いてしまっている。言葉を発したらすぐさま揚げ足を取られる誤謬を含んでおり、口にした言葉は直ちに過ちを犯しているということである。その、物言えば唇寒しに値する点に関して、「言ひも得ず 名づけも知らず」と形容して述べている。言葉と事柄とは相即のものと信じてきていたところが覆されてしまうというのである。事柄を忠実に再現するために言葉を作り、使っていたはずに、そうならない奇妙な事態が起きている。それを「くすしくも います神かも」、不思議なことにいらっしゃる神なのかなあ、と言っている。言葉自体、ヤマトコトバが神業を成している。実体としての神をいうのでも、アマテラスのような人称的な神でもない。言い表す言葉を指して、あるいは言葉を使う際に背後で力を及ぼしているものに対して「神」と呼んでいるのである。
 万葉集には「くすし」の語がいくつか見られる(注3)。わかりやすい用例をあげる。

 聞くがごと まことたふとく くすしくも〔奇母〕 かむさびるか これの水島(万245)

 耳に聞いているように誠にもって貴く、不思議であるが、神のように古びてあるのがこの水島だなあ、と言っている。何が「たふとく くすしく」あるかといえば、「水島」という言葉である。ミヅシマは地名だからもとからそう名づけられていた。その言葉だけでいえば、水が島になることなどない。環礁を言い表しているのでもなく、ただ名前としてそうなっていて、実際、海の中にミヅシマはある。「たふとく くすしく」も古来からあるのだろうかなあと、どうでもいいように思われることに感じ入っている。矛盾を含んだ言葉のおもしろさを歌にしている。

 …… 我が国は とこにならむ ふみ負へる くすしき亀も〔神龜毛〕 新代あらたよと 泉の川に …… (万50)

 我が国が永遠になるであろうため、文字を笏のように墨書して、噛んでしまうことを事前に最悪の事態として想定しているかのように有り難く尊く、「噛め」という音の亀のように水面に浮き沈みしているのも、律令を携えた新時代の文字文化のはじまりとして墨で文字を書けば永遠に表面に残り出でる、その「づ」という音と同じいづみの川に……、というのが大意である。亀の背に文字が浮かび上がっていると即物的に詠じているのではなく、藤原の役民が従事している材木運搬の様子を譬えて歌にしている。新代とは文字の時代への突入を言い表しており、材木の上に文字を記していることについて「くすし」と言って不思議がっているのである(注4)
 「くすしくも います神かも」とは、事柄=言葉となるのが摂理であるはずなのに、そうでなくても言葉世界が厳然としてある状態を是とする神がいて、ヤマトコトバは成り立っていると言えるのだとしている。そのために、「くすしく」と不確定なことを示す助詞モを使って提題し、「います神かも・・」と疑問の意を含む詠嘆によって閉じている。カモは、~なのかなあ、の意である(注5)。ここで言っている「神」について、富士山を御神体とする象徴と捉えるのは誤りである。富士山が神なび山と認められたことはなく、山を御神体であるかのように扱うこと、いわゆる富士山信仰も、時代が下って中世になるまで見られない(注6)。物事の把握の仕方からして発想自体なかった。
 虫麻呂が富士山の特徴として見ているのは、山部赤人の歌(万317・318)で提題された、フ(斑、縞)+ジ(~のような)の意、横縞に冠雪した様子を示すヨコシマ性である。すなわち、漢字では「邪」と書かれる意を含んだものである。Pであると言いつつ¬Pである状態、背反矛盾をその身に宿すことを旨としている。「飛ぶ鳥」と言っておきながら飛び上ることはできないとする。「燃ゆる火」と言っておきながら雪で消えるとする。「降る雪」と言っておきながら火によって消えるとする。どちらなのかと言われれば、どちらでもなくどちらでもあるようなヨコシマ性を持っていて、だからその柄は横縞(注7)なのである。フジと言っていて名づけられてもいるのに、その言葉は断言できない意を内包しているから「言ひも得ず 名づけも知らず くすしくも います神かも」と表現している。
 「富士ふじ」と名を持っているのに「名づけも知らず」とするのはその所為である。すぐ後に、「石花の海と 名づけてあるも」と見え、「名づけ」られている地名が取りあげられている。セの海が矛盾背反に値するのは、セが背を意味するからである。セノウミとパッと聞いて、人は海が背中側にあると思う。ところが、その地勢は富士山が懐に抱きかかえるように包み込んだものである。奇妙なことだが当地ではそういうことになっている。これもフジという山のなせる業なのだろうというわけである。
 続く「不尽ふじかはと 人の渡る」というのも、富士山が横縞であるなら、そこから流れ出る「不尽ふじかは」も river 本来の流れ、縦に流れる「川」の形状をとらず、「三」のように波打つこととなっていて、だから人は渡れるのだとし、流れていることよりも逆巻いて波立つこと、「たぎち」して現れているとする解釈を披露している。

富士川の流れと船の進み
 「もとの 大和やまとの国の しづめとも います神かも 宝とも 成れる山かも」と畳みかけているのも修辞術の一つである(注8)。多くの人々から、本当に大和の国の鎮として座す神や宝となっている山と認められたり、この歌を契機としてそうなったとするならば、当然ながら類歌が残されているはずであるが、虫麻呂のこの歌のこの表現一箇所に止まっている。そして、虫麻呂も、「とも」「かも」「とも」「かも」と、歯切れの悪い言い方に終始している。
 「もとの」はヤマトに掛かる枕詞である。日本書紀や万葉集ではヤマトを漢字で「日本」とも書いたから、そこから枕詞として「もとの」という言葉が考案されたと思われる。ただし、枕詞としての使用例は万葉集中にこの一例である。この枕詞のあり方は、この歌の理解で誤解されている「しづめ」の意味と深く関わる。
 「日」(sun)は東から昇り西に沈む。「日」(sun)は天空を動いて回る。となると、ヤマト(日本)の国は動揺の激しい国になってしまう。でも、富士山にはいつも雲がかかって「日」(sun)は見えない。都から観測して昇るはずの東方の国で、すでに西方の国の沈むべきところとなっている。すでに沈んでいるということは、四段活用の動詞のシヅム(沈)の已然形、シヅメ(メは乙類)ということになり、それは下二段活用の動詞シヅマル(鎮)の他動詞形シヅム(鎮)の連用形シヅメ(メは乙類)と同音である。というわけで、富士山は「しづめとも います神かも」しれないのである。かもしれない、と言っているのは、そうではないのが当然だからである。ジョークを言っている。わざとらしく大層なことをあえて言い、聞く人をおもしろがらせている。宴席の場と推測されるところで歌を歌っている。本気で富士山が日本国の鎮めの神であるという主張を展開しているとしたら、酔いは醒め、場は白けてしまうだろうし、お上が推奨していない信仰を布教していたら取り締まられていたことだろう。
 鎮める行為として古くから伝わり、人々に周知の伝承としては、神功皇后が新羅を征伐するに当たって鎮懐石をお腹に当て、宿っていた御子が産まれないようにしていたことが思い浮かぶ。歌は自然と連想へと誘っている。新羅を「宝有る国」と思って出陣し、財宝を持ち帰って来ていた。富士山はすごく高い山だから、石がたくさん積まれてできていると見ることができる。シ(石のイ音脱落)+ツメ(積、メは乙類)だから「しづめ」としての神かもと歌い、財宝のある国、新羅への親征にまつわる鎮懐石に当たるから「宝とも 成れる山かも」しれないというのである。駿河(注9)にある富士の高嶺が見るにつけ飽きることがないと言えるのはその由縁に依っている。眺め望んでは古くからの伝承がいろいろと思い起こされ、その末にいろいろな駄洒落が思い浮かんで楽しいと、虫麻呂はちゃらけた感慨を述べている。風光明媚ないいところである、霊験あらたかな崇高なところであると説いているわけではない。歌は説教ではない。
 だらだらだらだら言葉遊びをくり返している。鎮護国家の神として富士山を崇めたという事実はまったく見られない。もし言葉遊び以上の事柄が声明として発表されているのなら、左注で「以類載此」と万葉集の編者がついでのこととして扱うことはないだろう。これまでの解釈は誤りであった。赤人の富士山の歌がそうであるように、虫麻呂も頓智、なぞなぞ、ジョーク、駄洒落をもって一首を成しているのである。

反歌二首について

  反歌〔反歌〕
 富士のに 降り置く雪は 六月みなつきの 十五日もちゆれば その降りけり(万320)
 富士の嶺を 高みかしこみ 天雲あまくもも い行きはばかり たなびくものを(万321)

 夏六月、ミナツキはミナ(蜷)のようであるはずで、全体が黒い姿の巻貝が尖がり頭をしているように富士山も頭頂から白いものが取れなければならない。だから、ミナツキの最高潮である十五日もち(望)の日にはその日の昼間だけそうなると言っている。とはいえ標高が高いから、夜の訪れとともにまた雪が降ってくると言っている。それはその山の名がフジだからである。山部赤人の歌(万317・318)では、フ(斑、縞)+ジ(~のような)の意として横縞に冠雪した様子を示したものと認めて歌にしていた(注1)。後を襲う形で虫麻呂も倣い、再び横縞柄に戻るとしておどけている。長歌において「天雲あまくもも いきはばかり」、「飛ぶ鳥も 飛びものぼらず」、「燃ゆる火を 雪もちち」、「降る雪を 火もち消ち」と相反する事情を重ね述べてきたのも、そのヨコシマ性を言い表したものであった。ヨコシマには二義あり、横に縞になっていること、ならびに正常でないこと、漢字では「邪」と書かれることをいう。フジという山は、その両義を兼ね備えているものだと戯れ詠んでいる。
 第二反歌では、第一反歌で雪が再び降る事情について、山が高いから天雲はたなびき続けるゆえのことだと追って描写している。長歌から相反する事情を展開してきたが、辻褄合わせをして伏線を回収した形で終わっている。「たなびく」様子は必ず横にたなびく。「ものを」は、確かに~なのだから、と理由を述べている。ヨコシマを強調して確認しているわけである。

(注)
(注1)拙稿「山部赤人の不尽山の歌」参照。「……じもの」の形で「……のようなもの」、「……そのもの」を表す「じ」である。
(注2)他の例を挙げる。

 …… 入日なす こもりにしかば そこ思ふに 胸こそ痛き 言ひも得ず 名づけも知らず〔名付毛不知〕 跡もなき 世間よのなかにあれば むすべも無し(万466)

 愛妻を亡くして言葉を失っている様子を表している。あったものが無くなるという世の無常さについて語っていて、口にする言葉が現実を反映することなく常とは裏腹な状態に陥ってしまっている。言葉が正しさを得られないこと、名が体を成さないこととなっているのである。すなわち、たとえ「名づけ」てみてもどうにも確定させることができないということで、「名」の問題以前の次元においてわからないと言っている。単にわからないというよりも、訳がわからないという言い方が似つかわしい。
(注3)古典基礎語辞典は、「後には人の行為などについて、平凡でない、あるいは程度が極端であるなど、なんらかの意味で人の理解を超えていると感じられるさま、信じがたいと思われるさまを表す。この場合はいずれも否定的な意味合いで用いられる。」と指摘しつつも、「クスは不思議で神秘・霊妙に思われることを畏敬する気持ちのさまをいう。」(433頁、この項、筒井ゆみ子)と解説している。「神」という語があると畏敬の念を持っていただろうと先入観が働くらしい。
(注4)拙稿「藤原宮の役民の作る歌─「図(ふみ)負へる 神(くす)しき亀」について─」参照。
(注5)「か」は疑問の助詞とされる。近藤2019.は、疑問とは判断承認の中止、質問とは疑問文を用いて相手に答を要求することと的確に指摘している。助詞の「か」は不確定表現を志向しており、「も」も不確実な提示や判断を表すから、「かも」は詠嘆と疑問の間にある語としても、…ダナア、ではなく、…ナノカナア、のように訳されるべき語である。
(注6)富士山が国の鎮護として座すと認められていたとするなら、少なくとも延喜式に記されて然るべきであるが、延喜式・神名帳には「駿河国廿二座」として「富士郡三座〈大一座、小二座〉」のなかに「浅間神社〈名神大〉、富知神社」とあるだけである。偽書とも指摘される日本惣国風土記の駿河国風土記に、「富士神社 大山祇之命也。深待彦天皇二年丁卯六月之旬、始祭之。馬養部・祝部掌祭之為一宮。」、「浅宇麻神社 所祭木花開耶姫也。活目入彦五十狭智天皇三年甲午八月登之。」と記されるばかりである。
(注7)織柄のシマ(縞)という語は近世になって島物の意から起こったとされているが、ヨコシマについて邪と横縞とをダブらせて洒落をいう風が上代に確からしく、この語については再考されるべきである。なお、織柄については間道などと呼んでいたという事実もある。
(注8)契沖・万葉代匠記・精撰本に、「山跡ノ国ノ鎮トハ、唐ニモ五岳アリテ、五方ヲ鎮ルヤウニ、富士モ鎮国ノ霊山ナリト云ナリ。東都賦云。……」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979062/1/343)といい、小島1964.は、「鎮は少くとも漢籍特に芸文類聚などの「山」に関する詩文の語句に基づく表現と云へる。」(924頁)といい、廣岡2020.は、「当時まだ新しい「日本之山跡国」といふ概念に、遥か離れて位置する「不盡山」を「鎮」として置いた雄大な構想を高く評価したい。」(536頁、以上、旧字体は改めた)といい、土佐2022.は、「当時、都の人においては、フジは未開の東国にある、火を噴く野蛮な山だとイメージされていたに違いない。虫麻呂は、そのような原始的で野蛮な辺境のフジを、人間の世界そのものをも生み出す、根源的な力を有する不尽の山に創り変え、日本という国家の「鎮」として神格化したのである。」(47頁)とまとめている。すでに述べているように、そのような大袈裟な解釈は当てはまらない。
(注9)長歌冒頭で「甲斐」と「駿河」の中間に位置すると歌い出しておきながら、ここへきて「駿河なる富士」と歌い直している。その理由は、スルガという音がスル(摩、擂、擦)+ガ(処)の意に聞こえるからだろう。鎮懐石の比喩は、須恵器製の甑を言い当てたものである。拙稿「神功皇后のアユ釣りといわゆる鎮懐石について」参照。須恵器のざらざらな肌は、食材の擂り卸しにかなっている。「しづめとも います神かも 宝とも 成れる山かも」と神功皇后の逸話を披歴したのだから、それに沿う姿として富士山を描写することが求められたのである。

(引用・参考文献)
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城﨑2009. 城﨑陽子「万葉歌にみるヤマト」『万葉古代学研究所年報』第七号、奈良県立万葉文化館、2009年3月。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12904931
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古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
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鈴木2021. 鈴木武晴「山部赤人の「富士の山を望る歌」と高橋虫麻呂の「富士の山を詠む歌」の影響関係」『都留文科大学大学院紀要』第25集、2021年3月。都留文科大学学術機関リポジトリ https://doi.org/10.34356/00000758
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、2007年。(「〈不尽山〉の発見─赤人・虫麻呂歌をめぐって─」『国文学研究』第103号、早稲田大学国文学会、1991年3月。早稲田大学リポジトリ http://hdl.handle.net/2065/43396)
土佐2022. 土佐朋子「高橋虫麻呂の「不尽山」と「筑波山」─幻視される東国の二つの山─」『文学部論集』第106号、佛教大学文学部、2022年3月。佛教大学附属図書館 https://doi.org/10.50927/BO01060R035
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
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錦織2011. 錦織浩文『高橋虫麻呂研究』おうふう、2011年。(「高橋虫麻呂の「不尽山を詠む歌」―山部赤人歌への意識―」『岡大国文論稿』第36号、2008年3月。岡山大学学術成果リポジトリ http://doi.org/10.18926/okadaironkou/60068)
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
加藤良平 2025.11.15改稿初出
 万葉集巻十の秋雑歌に萩を詠んだ次の歌がある。二首、意がかよい合っていると思われる。

 秋萩は 雁に逢はずと 言へればか〈一に云ふ、言へれかも〉 声を聞きては 花に散りぬる〔秋萩子者於鴈不相常言有者香〈一云言有可聞〉音乎聞而者花尓散去流〕(万2126)
 秋さらば 妹に見せむと 植ゑし萩 露霜負ひて 散りにけるかも〔秋去者妹令視跡殖之芽子露霜負而散来毳〕(万2127)

 万2126番歌は、秋の萩は、雁に逢わないと世にいうからか(言うからかも)、雁の鳴く声を聞く頃になると、花のままに散ってしまうことよ、という歌で、秋萩と雁との取り合わせを否とする言説が世間に流布していて、だから花が盛りなのに散ってしまったことだなあ、と感慨に耽っているとされている。別案として、二句目の「鴈不相常」を「雁に逢はと」と訓み、雁と萩とを男女に擬人化し、雁に逢うのは嫌だ、けっして雁に逢うまいと秋萩が言っているからか、の意に解されることもある(注1)。歌の情趣としてどちらが優れているか議論されている。
 いずれの解釈にしても、秋萩と雁とが詠み合わされている点について理解は深まっていない。そういう謂れがあったのだという歌なのだとすればそのとおりかもしれないが、人々の間によく知られる言い伝えがあったとしたら他にも例が見られるはずであるが見られない。なかったからないのだろう。また、秋萩を主語として雁に逢うまいと言っていると仮構するのは難しい。植物のほとんどはその場を離れることができない。人間のように逃げることはできないのに擬人化したとは考えられない。
 四句目の「音乎聞而者」、「声を聞きては」は雁の鳴き声のことを言っている。その雁をそのまま二句目に遡って詠んでいるだけなら、修辞術として凡庸の誹りを逃れ得ない。それが最大の問題である。歌としての楽しみは言葉を掛けている点にあると考える。
 カリと聞いて思い浮かぶ言葉にかりうち、樗蒲がある。樗蒲は専用のサイコロ、すなわち、カリを振って盤上の駒を進めて競うボードゲームである(注2)双六すぐろく同様、さいころを振って駒を進めることになっている。どちらもさえ(またはサイ)と言うが、双六のさいころは六面体、かりうちで使うのは一面を削った棒状のものであった。賭け事にされるようになり、禁令がくり返し発せられている。捕亡令義解に「博戯は双六樗蒲の属なり。」とある。

カリ出土品(小田ほか2016.45頁)
 樗蒲采 陸詞に云はく、〓(扌偏に梟)〈音は軒、加利かり〉は〓(扌偏に梟)子、樗蒲の采の名なりといふ。(和名抄・雑芸具)
 樗蒲 兼名苑に云はく、樗蒲は一名に九采といふ。〈内典に樗蒲は賀利宇智かりうちと云ふ〉(和名抄・雑芸類)
 ……もののふの 八十やそともは かりの〔折木四哭之〕……(万948)
 さ鹿しかの 妻問ふ時に 月を良み 雁が音聞こゆ〔切木四之泣所聞〕 今しらしも(万2131)
 双六采 楊氏漢語抄に頭子と云ふ。〈双六すぐろく乃佐以のさい、今案ふるに雑題双六詩に見ゆ〉(和名抄)
 一二の目 のみにはあらず 五六三 四さへありけり 双六のさえ〔双六乃佐叡〕(万3827)
 此処ここ銅牙石どうげじやくあり。形双六すぐろくさえに似たり。(播磨風土記・揖保郡)
 菅の根の ねもころごろに〔根毛一伏三向凝呂尓〕 へる ……(万3284)

 かりうちで使われる采、カリは、万葉集の借訓仮名「折木四」「切木四」として残されている。出た目に関しても万葉仮名として名が残っている。コロ(「一伏三起」(万2988)、「一伏三向」(万3284))はかりうちの采の目が●◯◯◯のように出た目、ツク(「三伏一向」(万1874))は●●●◯をいい、マニマニ(「諸伏」(万743))は●●●●のことをマニをいうからとされている(注3)
 ここで問題となっているのはカリという名である。カリのことをいう采は saye の音(注4)、冷たく凍ることをいう「え」と同音である。つまり、萩は秋が深まって冷たく凍るのに堪えず、花の咲いたまま、色の褪せぬままに散っていくことを言っている。そこへ同音の雁を持ち出し、渡り鳥の声が聞こえることをダブらせて表現してみせたのである。
 例を挙げる。

 ……我が衣手に 置く霜も え渡り〔氷丹左叡渡〕 降る雪も 凍り渡りぬ ……(万3281)

 同様に表現したい場合、万2126番歌の「秋萩子者於鴈不相常」は、「秋萩は 雁にへずと」と他動詞として訓むことがふさわしい。

 秋萩は 樗蒲采かりへずと 言へればか〈一に云ふ、言へれかも〉 声を聞きては 花に散りぬる〔秋萩子者於鴈不相常言有者香〈一云言有可聞〉音乎聞而者花尓散去流〕(万2126)
 秋萩はいくら太く成熟したとしても所詮はなよなよした枝で、かりうちの采であるカリにするには合わないと世にいうからか(言うからかも)、そのカリではないが、雁の鳴く声を聞く頃になると、萩の花はまだ花の色がついたままなのに散ってしまうことよ。

 次の万2127番歌は、秋になったら大好きな彼女に見せようとガーデニング(注5)をして植えた萩は、露霜(注6)をのせて散ってしまったなあ、という歌で、開花の頃の逢瀬を逃したことを嘆く歌とも、失恋を詠んだ歌とも取れるという。再掲する。

 秋さらば 妹に見せむと 植ゑし萩 露霜負ひて 散りにけるかも〔秋去者妹令視跡殖之芽子露霜負而散来毳〕(万2127)

 歌意の受け取り方としてそれでよいのだろうか。もしそれだけだったとしたら、直叙という以上に漫然と歌にしただけの作品ということにならないか。
 万葉集の編者は前の万2126番歌とともに採っている。「萩」が「冴え」に勝てないこと、堪えないことを基底にして言葉づかいがされているところを選んでいる。「露霜」で表したいのは、白い粒となって輝いているところである。冷たく凍ったサエ(冴)の粒である。かりうちの賽子、サエ(采)を掛けて歌に詠まれている。
 ここにこの歌の面目は躍如する。秋になったら見事な花をつけるだろうと思い、おそらくは春に植え付けている。春に投資して仕込んだわけだが、秋に結果を得ることはなかった。博打に負けたのである。「詠花」の題詞(万2094番歌の前)のもとにそのことを言っている。ただ花の様子を詠んでもおもしろくはない。あらかじめ想定したスケジュールのようには男女の間柄がうまく進展しなかったことを歌ってもありきたりである。かりうちという博打に失敗したことを男女の恋と萩の花の様子に歌い込んでしまったところが秀逸なのである。そのとき、歌は修辞ファーストのものとなっている。萩にかこつけた恋歌以上のものへと展開(転回)している。
 「詠花」の題材の花ははぎ(ギは乙類)である。ハギ(ギは乙類)は、ハ(葉、端、花)とギ(キ)(乙類)から成っている。キ(乙類)は木のことである。ハ(葉、端、花)とキ(木)は別物で、すぐに離れてしまうことを言葉の内に宿しているのがハギ(萩)である。その意を負っているのだから、いくらお金をかけてもうまくはいかない。賽の目がそうであるように思うようには転ばない。ハギという名によって最初からわかっていたことである(注7)

 秋さらば 妹に見せむと 植ゑし萩 露霜負ひて 散りにけるかも(万2127)
 秋になったら大好きな彼女に見せようと思って植えた萩は、冷え込んだ日に雁を目にするように、まるでかりうちの采(カリ)の目のような露霜の白い粒がつく。采の目が思うようには転ばないのと同じように期待どおりにはならずに花は散ってしまったということらしい。なぜといって、ハギはハ(葉、花)とキ(木)から成る言葉であり、両者は別々になる運命であることを示していて、その名を負っている限りにおいて、冷たく凍るサエの日を迎えたらかりうちの采のようにうまくは行かず、この企てがそもそも博打まがいであったことが明らかになったということだなあ。

(注)
(注1)萩は初秋から晩秋の花、雁は晩秋から初冬の鳥ということで、雁の声を聞くと萩は散り急ぐというのだと言われ、引退の花道がすでに上代、奈良時代に語られていたと敷衍する向きもある。退位して太上天皇となっていた方にも当て嵌まるとでもいうのだろうか。
(注2)近年、奈文研により盤の現物が突き止められ、朝鮮半島で行われている盤上ゲームの柶戯(ユンノリ)と酷似したものとして再現されている。なお、かりうち、樗蒲、柶戯、ユンノリ、六博の間には細かな違いがあり、中国から朝鮮半島、日本列島へと変遷するうち形に変化が起きてもなお旧のままの名称であったこともあったようである。早く喜多村節信、木村正辞、安藤正次らの考証がある。各ゲームを系譜中に位置づけようとした近年の試みに、清水2017.がある。
(注3)簡便な図解は垣見2016.、小田2023.に見られる。「諸伏まにまに」はかりうち用語によるものではないとする考え方もある。
(注4)奈良時代には発音上、母音が二つ重なることを避ける習慣があって、字音の sai が saye に転じているとされるが、和名抄に sai の形が見られ、楫(櫂)のことを kai と言っていた例がある。いずれにせよ、采のことをサエと呼ぶことはふつうにあった。
(注5)上野2024.136頁。
(注6)「露霜」については阿蘇2006.に詳論がある。文選の詩句等に関わる歌語とする説もあるが、歌の中でツユシモという言葉が表したいのは、寒冷によって白く結晶化している見た目のことであって典故ではない。
(注7)万葉集では萩が最も多く歌われる花である。細々した花を愛でていたと解する向きもあるが、感覚として理解されているのだろうか。萩はハ(葉、端、花)+ギ(キ)(木)という語構成であることがおもしろがられて歌の修辞に愛用された結果として数が多くなっている。この歌でも、園芸家に萩の花が好まれて植栽されたことを言っているのではなく、そんなことをする人はいなかったから事立てて言い募っているのである。上代に萩を植えるのは花が目的ではなく、せいぜい垣根とするためであった。初めからわかっていることを言うのにふさわしい設定としている。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝「万葉集の露霜私考」万葉七曜会編『論集上代文学 第二十八冊』笠間書院、2006年。
上野2024. 上野誠『感じる万葉集─雨はシクシクと降っていた─』KADOKAWA、令和6年。
小田ほか2016. 小田裕樹・芝康次郎・星野安治「一面を削った棒」『奈良文化財研究所紀要2016』奈良文化財研究所、2016年6月。奈良文化財研究所学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/11177/7048
小田2023. 小田裕樹「かりうち公式ルールができるまで」『なぶんけんブログ』2023年8月、https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2023/08/20230816.html(2025年11月10日閲覧)。
垣見2016. 垣見修司「『万葉集』と古代の遊戯─双六・打毬・かりうち─」河添房江・皆川雅樹編『唐物と東アジア─舶載品をめぐる文化交流史─(新装版)』勉誠出版、2016年。(同、アジア遊学147、2011年。)
清水2017. 清水康二『東アジア盤上遊戯史研究』(博士論文)2017年。明治大学学術成果リポジトリ
http://hdl.handle.net/10291/19711
奈良文化財研究所「かりうち」プロジェクト、奈良文化財研究所ホームページhttps://www.nabunken.go.jp/research/kariuchi.html(2025年11月10日閲覧)
増川2021. 増川宏一『遊戯Ⅱ』法政大学出版局、2021年。
加藤良平 2025.11.10初出


 日本書紀には、治水のために堤防を築造したとする記述がいくつか見られる。なかでも仁徳紀十一年の茨田堤についての記述は一つの逸話を成している。歴史学の立場からは、ヤマト朝廷による畿内の大規模開発の嚆矢の記述と見られてきた。築堤のために人身御供をしたとする考えがベースにあり、話が展開したので複雑になっているというのである(注1)。話の内容に踏み入って解き明かそうとした先行研究としては、夢告神と河神(河伯)は別の神で、河神とは別に風の神を想定する説(注2)、河神祭祀譚、人身供犠譚、河神遷却譚という別々の題材を紀の編纂者が一つにまとめたものとする説(注3)があげられる。残念ながらこれまでの考え方では明解を得ているとは言えない。読めていないということである。

 冬十月に、宮の北の郊原を掘りて、南のかはを引きて西の海にる。りて其の水をなづけてほりと曰ふ。又まさに北のかはこみほそかむとして、茨田まむたのつつみく。是の時に、ふたところの築かばすなはえてがたき有り。時に天皇すめらみことみいめみたまはく、神しましてをしへてまをしたまはく、「武蔵むざしひと強頸こはくび河内かふちひと茨田まむたのむらじ衫子ころものこ〈衫子、ここには莒呂母能古ころものこと云ふ。〉たりを以て河伯かはのかみに祭らば、必ずくことてむ」とのたまふ。すなは二人ふたりのひとぎて得つ。因りて河神かはのかみまつる。ここに強頸、いさかなしびて、水にりて死ぬ。乃ち其の堤成りぬ。唯し衫子のみは全匏おふしひさこ両箇ふたつらを取りて、き難きかはのぞむ。乃ちふたひさこを取りて、水の中になげいれて、うけひて曰はく、「河神、あふぎて、やつかれを以てまひとせり。是を以て、今吾、きたれり。必ずやつかれを得むとおもはば、是の匏を沈めてなうかばせそ。則ち吾、まことの神と知りてみづから水の中に入らむ。し匏を沈むること得ずは、おのづからにいつはりの神と知らむ。いかにただが身をほろぼさむ」といふ。是に、つむじかぜたちまちに起りて、匏を引きて水にしづむ。匏、なみの上にひつつ沈まず。則ち潝々とくすみやかうきをどりつつ遠く流る。是を以て衫子、死なずといへども其の堤亦成りぬ。是、衫子のいさみに因りて、其の身ほろびざらくのみ。かれ時人ときのひと、其の両処をなづけて、強頸こはくびのたえ衫子ころものこのたえと曰ふ。(仁徳紀十一年十月)

 この記事の直前の四月条では、田圃とするところが少ないこと、川の流れが滞っていて少しでも雨が続くと海水が逆流して洪水になることといった難点(注4)が挙げられて治水事業を行うようにと詔している。放水路を開削し、堤防を築いて国土強靭化を図るようにせよというのである。それに続くのがこの話である。神に対して人間を捧げること、人柱を立てることによって堤防を完成させることができると信じられており、基本はそのストーリーなのであるという(注5)。けれども、人身御供によって築造が整ったとする説話ではない。天皇の夢に、河神(河伯)に人間を祭れば決壊した二か所は塞ぐことができると告げられてそのようにしようとした。一人は泣きながら仰せに従い、その堤は完成した。もう一人は瓢箪二個を手に取り、河神と対峙してウケヒをしている。自分の身が欲しいのなら瓢箪二つを沈めてみろ、沈んだら真の神だから仰せのとおりにしよう、沈まなかったら偽りの神だ、と言い放っている。瓢箪は沈まなかったため、天皇の夢に出てきた河神は偽りの神だとわかったとする。そのため、天皇の夢のお告げはいかがわしいものであったことの証明となっているとされている。この捉え方の正否については後述する。
 仁徳紀十一年十月条では、将来のことを占う際、夢占とウケヒの二つが対立している。結果だけ捉えるなら、夢占は一勝一敗、ウケヒはそのとおりであったということになる。とはいえ、ウケヒのとおり河神が偽りの神であるとわかっても、偽りの神に従う必要がなくなったとしてそれで堤が完成するとの保証にはならない。「……二人以祭於河伯、必獲塞」という文章は、論理学的には、二人を捧げれば堤防は必ず完成するということだけである。捧げなかった時、堤防がどうなるかについては一切触れられていない。夢占自体が全否定されたわけではない(注6)
 これは奇妙なことである。いったい何を語りたい記事なのか。新しい土木技術が大陸から伝わったことを表すと推量されているが、話の中身にはその片鱗すら示されない。平板な思考では了解の域に達しない(注7)。角度を変えてアプローチする必要がある。



 事態は「将北河之澇、以築茨田堤」時のことである。二か所、堤を築こうにもすぐに緩んでしまうところがあった。天皇の夢により、連れて来られた二人の名をとって強頸断間・衫子断間と呼ばれるに至っている。強頸や衫子という人名は、それとわかる共通の意味が見出せる。ハイカラ(high collar)である(注8)

左:しがらみ、右:しがらみの想定復元図(河原口坊中遺跡、神奈川県海老名市、弥生中期~後期、約2100~1750年前、「発掘された日本列島2016」展展示パネル、構造体の名を「しがらみ」、漁法の名を「えり」と呼ぶ)
 服装のうち、トップスの首回りの襟が立っていることを表している(注9)。上代にエリ(襟・衿)という言葉は文献上存しないが、それをエリと呼ぶようになったのは漁具のエリ(魞)との共通性からと思われる。水中に竹などで簀を立て回し、魚がその立て杭に沿って進んだところへ集まるようにしておき、集まったところを手網などを使って一網打尽に捕獲する仕掛けである。魞は弥生時代には見られる漁法である。

 便ち其のころものくびを取りて引きおとし、……(天武紀元年六月)
 …… 勝鹿かつしかの 真間まま手児名てこなが 麻衣あさぎぬに 青衿あをくびけ〔青衿着〕 ひたを には織りて ……(万1807)
 衿 呂窮反、去、領衣上縁也、帬也、己呂毛乃久比乃毛止保之ころものくびのもとほし(新撰字鏡)
 衿 釈名に云はく、衿〈音は領、古呂毛乃久比ころものくび〉は頸なり、頸を擁く所以なり、襟〈音は金〉は禁なり、前に交へて風寒きを禁禦する所以なりといふ。(和名抄)

 二人の名から本文の訓みも証明される。「難塞」、「獲塞」とある「塞」である。フサク、フセク、セクなど各様に訓むことが可能であるが、しがらみを渡すようにして土手を構築して水の流れを遮断するから、セキガタキなどと訓むのが正解に近いと考えられる。

 明日香あすかがは しがらみ渡し かませば〔塞益者〕 流るる水も のどにかあらまし(万197)
 うるはしと 吾がふ心 早川の きに塞くとも〔雖塞々友〕 なほやえなむ(万687)
 ことでて 言はばゆゆしみ 山川の たぎつ心を かへたりけり〔塞耐在〕(万2432)(注10)

 エリはクヒ(クビ)を立ててめぐらすものである。
 辞書類に、くひくびとを同根とする解釈は行われていないが、ヒ・ビはともに甲類である。襟を立てたものと魞を立てたものとは、衣の頸を立てたものと杭を立てめぐらせたものとして形態に共通性がある。言葉がすなわち音であった無文字文化、音の共通する言葉はたとえその出発点や視点が違っても、同じ概念を表すものと認識する志向性があったと考えられる。堤を作るために杭を立てるべしとして、その名を負うかに思われる頸にまつわる名を持つ人物を人柱にせよというのが天皇の夢のお告げだったという話(咄・噺・譚)を作っている。
 すなわち、ヤマトコトバの一つの解説として夢のお告げが表れている。言葉の表す意味を展開すると、これこれこういうことになりますと述べている。夢のなかの「神」は言葉の意味を「をし」えているのである。この次元の「神」と、会話文中で現れ出た「河神(伯)」とを同次元に解してはならない。



 築いているのはつつみである。動詞ツツム(包・裹)には、土を盛って流れを堰き止めることと、何かにくるみ包んでおし隠し、外から見えないようにする意がある。河の水を堤で包んでしまうわけである。土嚢を積んで堤を作るならツツミの自乗ということになる(注11)

 坡陂 同作、普何反、平、坎也、以土壅水也、道緩也、佐加さか、又?)、又豆々牟つつむ(新撰字鏡)
 裹褁 正音、古禍反、上借、古臥反、去、苞也、纏也、豆々牟つつむ(新撰字鏡)
 苞括〈苞、字在草部、炰為包、補殽反、果衣也。婦懐仼於己為子也。十月而生也。又為胞字囚部。胞、補支反、腹肉(内?)也。親兄弟也。褁、又裹同、倭言都々牟つつむ。又、胞言子栖也〉(新訳華厳経音義私記、便宜的に返り点を施した)
 燃ゆる火も 取りてつつみて〔取而褁而〕 袋には ると言はずや おも知るを雲(万160)
 乃ちかやを以てみこつつみて、海辺うみへたに棄てて、……(神代紀第十段本文)

 ツツムの同音に「つつ(恙)む」がある。妨げられる、差し支えるの意である。古典基礎語辞典の「つつ・む【包む・裹む】」の項に、「ツツシム(慎む)のツツと同根。」(796頁、この項、西郷喜久子)、「つつ・む【慎む】」の項に、「ツツム(包む)を心情表現に用いたもの。……人に見聞きされ取り沙汰されるのが不都合な自分の気持ちや行為があらわにならないようにする意。また、相手の思惑や周囲の人目・外聞をはばかって、行為をおしとどめる意。」(796頁、この項、依田瑞穂)とある。

 石上いそのかみ るとも雨に つつまめや〔将関哉〕 いもに逢はむと 言ひてしものを(万664)
 藪波やぶなみの 里に宿借り 春雨に こもつつむと〔許母理都追牟等〕 妹に告げつや(万4138)

 この二例は、雨が障害となり、蟄居して外出しないことを言っている。水による隔てをツツミと表すことは、河の堤の意と重なってきてとても巧みな表現である。
 今、堤の造成に障みが生じている。話の主題がツツミなのだと知れる。「こみ」を防ごうとしたのが事の発端であった。「む」とは水が入りひたること、浸水することをいう。

 此の田は、天旱ひでりするにみづまかせ難く、水潦いさらみづするにみ易し。(安閑紀元年七月)
 こむ田皇女たのひめみこ(応神紀二年正月)

 人名「澇来田皇女」は、記の「高目郎女こむくのいらつめ」からコムクタと訓むべきで、コは甲類とされる。コム(コは甲類)は同音に「子産む」がある。仁徳紀に、茨田堤の鴈の卵の話が載る。

 五十年春三月の壬辰の朔丙申に、河内かふちのくにの人、まをしてまをさく、「茨田まむたのつつみに、かりこうめり」とまをす。即日そのひに、使つかひつかはしてしむ。まをさく、「既にまことなり」とまをす。天皇すめらみこと、是に、みうたよみして武内宿禰たけしうちのすくねに問ひてのたまはく、
 たまきはる うち朝臣あそ こそは 世の遠人とほひと 汝こそは 国の長人ながひと あきしま やまとの国に かりむと 汝は聞かずや(紀62)
 武内宿禰、答歌かへしうたして曰さく、
 やすみしし が大君 うべな宜な われを問はすな 秋津嶋 倭の国に 鴈産むと 我は聞かず(紀63)(仁徳紀五十年三月)

 茨田というところはぬかるんでいて、排水の便の悪いところであったらしい。鴈にとってコム(澇)地は外敵が近づかないからコム(子産)のに都合が良かったという話に仕上がっている。そこを水利事業によって放水路を築こうとした。むろん、単に堤を高く作るだけでなく、まず濠を掘って深い溝(渠)を作り、排水の便を良くし、しかる後その両側に堤を築いたものと考えられる。最初に浚渫、つまり、川掘りをした。



 カハホリはコウモリのことである。和名抄に、「蝙蝠〈天鼠矢附〉 本草に云はく、蝙蝠〈辺福の二音〉は一名に伏翼といふ〈加波保利かはほり〉。方言に蟙䘃〈織墨の二音〉と云ふ。蘇敬に天鼠矢〈伏翼虫の名なり〉と曰ふ。」とある。岩波古語辞典に、「川守りの意という」(324頁)とする。いわゆる語源的解釈からは不明、不詳とされよう。ただ、川にコウモリが飛び交う姿は日常的に目にする。天皇の夢枕に現れた河伯(河神)はコウモリを想定していた可能性がある。コウモリは翼手目で飛膜が発達し、翼をバタバタばたつかせて飛ぶ。かぎ状の指を使って木や岩に逆さにぶら下がり、飛膜で体を包むようにして休んでいる。だから、河の堤を表す存在としてコウモリが捉えられる。その場合、川守りの意と考えられるが、止まるとき、飛膜で包みきれているのか微妙なところがある。川守りというなら川の水すべてを守らなければならないが、水が漏れることがありそうである。その時、コウモリは川漏りとなる。漏れるの古語は四段活用の「る」である。衫子のウケヒに、「真神まことのかみ」か「偽神いつはりのかみ」かの二者択一を迫っていたのは、川守りか川漏りかの違いを見極めようとする所為であった。衫子を引っ張り出した人夫たちは、堤を作るために土を盛っていた人たちである。土木作業員は川盛りといえる。すべてはモリという言葉に収斂している。
 すなわち、川は、つつむことでるのであるが、つつむことになるとるものである。

 こま野の物語は、何ばかりをかしき事もなく、言葉も古めき、見所多からぬも、月に昔を思ひ出でて、虫ばみたる蝙蝠かはほり取り出でて、「もと見し駒に」と言ひ訪ねたるが、あはれなるなり。(枕草子・274段)
 「昨夜よべのかはほりを落として。これは風ぬるくこそありけれ」とて、御あふぎ置きたまひて、昨日きのふうたた寝したまへりしましのあたりを立ち止まりて見たまふに、……(源氏物語・若菜下)
 扇は、用ゐて風涼を取り塵粉を去る所の者を謂ふなり。(扇、謂用取風凉塵粉也。)(令集解・職員令・主殿寮)(注12)

 枕草子の蝙蝠かはほりあふぎを意味する。折り畳み式の扇には、板を綴じた檜扇ひあふぎと紙を張った蝙蝠かはほりあふぎがあり、それぞれ冬扇、夏扇と呼ばれている。新訳華厳音義私記に、「扇 音仙、訓安布枝あふぎ」、新撰字鏡に、「扇 阿不木あふぎ」、和名抄に、「扇 四声字苑に云はく、扇〈式戦反、玉篇に〓(竹冠に扇)に作る、竹部に在り。阿布岐あふぎ〉は風を取る所以なりといふ。兼名苑に云はく、扇は一名に箑〈音は接、字は亦、䈉に作る〉といふ。」とある。蝙蝠扇はあふぐもので、風を送って涼しくした。骨七本に紙を張ったところがコウモリの姿に似ており、夏に使い、冬はしまわれた。後世の末広のことを指すとされる。この形容は非常に趣きがあり、センスが高い(注13)。紙は鳥子紙とりのこがみと呼ばれる黄色い紙が貼られていた。仁徳紀五十年三月条は鳥のの話であった。そこから捉え返してみると、仁徳紀十一年条は、鳥子紙が衫子をあふいで幣帛としようと夢に現れたのだということになっている。だから衫子の発語は、原文に「河神崇之以吾為幣」とある。「崇」字は諸本に「たたる」と意改している(注14)が、原字のままで誤りはない。「河神」を蝙蝠のことと見るから、アフグに「崇(仰)ぐ」と「扇(煽)ぐ」とを掛けて洒落としている。コウモリは逆さにぶら下がってとまるから、自分のことを仰ぎ見ているのだといい、蝙蝠扇で風を送るところから扇いでいて、話は「つむじかぜ」へと展開している。ヤマトコトバ上いっさい齟齬が生じていない。
 「崇」字を「祟」字へと改変したため研究は手詰まりとなった。大系本では「武蔵人強頸・河内人茨田連衫子二人以祭於河伯」、「因以祷于河神」の箇所をそれぞれ「……河伯祭らば」、「……河神祷る」と訓んで人身供御として捧げられてしまう意に解しやすくなっている。天皇が夢に祭祀法を教えられた例はすでにある。

 し吾がおほ田田根子たたねこを以て、吾令祭まつりたまへば、たちどころたひらぎなむ。(若以吾児大田田根子、令祭吾者、則立平矣。)(崇神紀七年二月)

 崇神紀の場合、使役の「令」があり、「於」や「于」はない。大田田根子を祭祀者として自分のこと、すなわち、大物主神を祭らせるといいと言っている。仁徳紀の場合、「以」が後ろへ回って倭習の色合いが濃くなり、於(于)は場所を示す語を伴わずに「河伯(神)」と続いている。夢のなかの戯言を表すから曖昧な構文なのかもしれず、結局のところ河神(伯)は実体を現さないから実在しない、つまり、偽りの神、神ではない者を対象としている。
 西宮1990.によれば、神に物を献ることがすなわち「神祭る」ことなのだと上代人は認識していたという。そして、神献上するマツル場合は「神祭祀するマツル」、貴人献上するタテマツル場合は「貴人服従するマツラフ」の形になると見、「神祭る」という訓みを斥けている。それに従えば、「……河伯祭らば」、「……河神祷る」となる(注15)。ただし、河神(伯)が神のようでいて神ではない何者かであり、貴人扱いが相当となるならば、「(二人ふたりのひと)……河伯祭らば」、「……河神かはのかみ祷る」と訓むことも可能である。
 ここに至って、どちらにも訓める書き方をしていたということに気づく。武蔵人強頸は河伯に捧げられているから「祭(祷)る」=献上する、河内人茨田連衫子は捧げられていないから「祭(祷)る」=祭祀する、ことになっている。この二様を一文に書き込めているわけである。最終的に茨田連衫子は河神(伯)を偽りの神と見抜いたが、当初はウケヒの相手として面と向かっていて、祭祀の対象(の可能性あるもの)と捉えていた。河神(伯)なるもの・・・・を祭(祷)るという意である。ただ、訓みを違えることは好ましくない。比喩(…のように)や資格(…として)の意のニと捉えて訓むのが妥当と考える。河神(伯)と称するものの実状は不明ながら、一応のところ神として、神のように祭祀するということである(注16)

 山高み しら木綿ゆふはなに〔白木綿花〕 落ちたぎつ たぎ河内かふちは 見れど飽かぬかも(万909)
 秋萩を 妻鹿こそ ひとに〔一子二〕 子持てりといへ ……(万1790)

 河神(伯)と称するものの実状は、扇になったり傘になったり七変化するコウモリのことであった。
 動物のコウモリが逆さにぶら下がって体を包むさまは、扇が冬にしまわれるように畳まれているところを思わせつつ、ころもを身にまとっているように見えている。コウモリの翼は皮でできているからカハゴロモ(皮衣・裘)である。川守りにせよ川漏りにせよ、カハ(川)にいてカハ(皮)で身を包んでいる。言語の論理から見れば、カハの神と呼ぶのにふさわしいことになっている。次の歌はコウモリを詠んだものである。

  忍壁皇子に献る歌一首〈仙人やまびとかたを詠めり〉
 とこしへに 夏冬行けや かはごろも あふぎ放たぬ 山に住む人(万1682)(注17)



 「全匏おふしひさこ両箇ふたつら」とある。オフシはおほしの意とされる。まるのままのヒョウタンのことを表している。歴博2004.に、「弥生時代から古代へ時代が新しくなるにつれ、ヒョウタンは一気に多様化した。遺跡からの出土事例は多くなり、形や大きさも変化に富んだものになった。これは日本に持ち込まれるヒョウタンが多系統になったことと、ヒョウタンがどのような品種とも交雑するためであろう。平城京からは、多数のヒョウタンの果実が出土しており、首の長いフラスコ型のものから、球形や西洋ナシの形をしたものまで多彩である。」(50頁)、「ヒョウタンとして現代では最もよく知られているひさご形は、史料からも出土例からも中世に初めて記録され、日本列島におけるヒョウタンの歴史ではかなり新しい。くびれた独特の形状が容器としても装飾品としても親しまれ、くびれに紐をかけやすいことも手伝って急速に普及していった。」(52頁)とある。古代の「全匏」の形状は、球形から西洋ナシの形に近い偏りのあるボールのようなものをイメージすればよいのだろう(注18)
 オフシは同音におふしがあり、ものが言えないこと、啞者のことを言う。新撰字鏡に、「喑瘖 同、於唅反、於禁二反、跳也、唶也、大呼也、於不志おふし」、和名抄に、「瘖瘂 説文に云はく、瘖瘂〈音鵶の二音、於布之おふし〉は言ふこと能はざるなりといふ。」とある。これらの意から語学的に帰納すれば、完形の丸っこいヒョウタンのことを指していると理解される。音が出ないヒサコだから、オフシヒサコと言ってわかりやすい。対して音の出るものは、胴をもった太鼓ということになる。太鼓類は、古くは一括してつづみと言っていた(注19)。今、かはつつみを設けようとして苦戦している。太鼓のような形でかはの張っていないものを持ち出して、「ツツミのないカハ」という言辞が真であるならば沈むはずで、偽であるなら泛ぶはずだと誓言している。この場合、ウケヒにときどきある「勝ちさび」型の誓約ではなく、自明の提題を示している。ツツミのないカハは堤のない川であり、鼓に皮がないということである。鼓に皮がないのは皮に包まれていないということであって、叩くことはできず音は出せない。オフシ(啞)ということになる。

左:ヒョウタン(容器、奈良~平安時代、下野国府跡寄居地区遺跡出土、栃木県文化振興事業団蔵、壬生町・地域資料デジタルアーカイブhttps://adeac.jp/mibu-town/text-list/d100130/ht000050をトリミング)、中:有孔鍔付土器太鼓説(府中郷土の森博物館展示品)、右:埴輪 太鼓を叩く男子(群馬県伊勢崎市境上武士出土、古墳時代、6世紀、東博展示品。この例は両面に皮を張ったものを造形している)
 「全匏」は完形のヒサコであるが、植物の実のことをそのまま言うのではなく、容器として用いられたもののうち、縦割りのスプーンに当たる柄杓でも、横割りの器でもなく、蔓部分を除いてまるのまま、中の種子を取り出した後、液体や唐辛子などを入れて栓を付けたボトルのことを指す。栓のことは、和名抄に、「栓 四声字苑に云はく、栓〈山員反、岐久岐きくぎ〉は木釘なりといふ。」とあり、また、クヒとも呼ばれた。天皇の夢に現れた河神は、武蔵人強頸を人柱にしたように、「全匏」を見ればそこに付いているくひも含めて人柱に欲しているはずであるという論理である。栓を取って護岸造成の基礎杭にしてしまうから、「全匏」といえども水が入って沈むであろうと言い放っている。河神が本物ならそうなり、蝙蝠扇の力を以てして烈風に流して水が入って没するに違いなかろうとする。「両箇」は前田本傍訓にフタツラとある。川に堤を築く場合、川の両側にそれぞれ築かなければならない。だから、このウケヒに、丸い匏は二つ必要とされるのである。ここで言っている鼓は、共鳴器のつつ(筒)をもち、一面にのみ皮の張られたものと了解される。

 川上かはのへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢こせの春野は(万56)

 「川上かはのへ」は両岸にある。顔に左右両面あるのと同じである。それをツラツラという言葉に置き換えて面白がっている。



 「是因衫子之幹、其身非亡耳」とあり、「いさみ」をとり上げている。奮励することや勇ましい功績のことをいう。衫子は天皇の夢枕に顕れた河伯と対峙するほどに勇ましいことをやってのけているかに見える。ただし、それによる結果は、自分の身を亡ぼさずに済んだというにすぎない。むしろ彼のイサミとは、言葉の捉え方に機知を働かせた点にある。「河伯(神)祭(祷)」るとある助詞のニについて比喩の意と捉え、河伯(神)は本当に神なのかと問い直したのである。白川1995.に、「〔新撰字鏡〕に「証〈勇なり、伊佐牟いさむ〉」とあり、しようはのちしようとも通ずる字で、いまは證の新字体とされているものであるが、いずれにも「いさむ」という訓はなく、またいずれにも「いさむ」という訓がある。「勇なり」は誤訓とすべきであるが、この「いさむ」を同源とする意識があったのかも知れない。」(110頁)とある。名義抄のアクセントからは、勇(功)むと禁(諫)むは別語として扱われることが多い。同源であるかどうかはさておき、洒落は成立する。言葉は使うためにある(注20)。ここでも、恐れることなく頓智を披露する勇敢さを述べていると同時に、衫子が天皇の夢に対して諫言、禁呵した形にも通じることとなっている。イサミのイサは、不知いさいさの意と捉え得るのである。この仮定が正しいと言えるのは、武蔵人強頸は、命に従うままに「いさかなしびてみづりて死ぬ。」とあることから証明される。いさちるとは激しく泣くことであるが、相手の言うこと、全体の状況にあらがっていやだいやだと否定、抵抗する意を含んでいる。イサの意の捉え返しによって、武蔵人強頸と河内人茨田連衫子の命運は正反対であった。それは、同じくクビと呼び習わされているものであっても、人体の側の首と衣服の側の衣の首とが対照せられるものであることに対応している。武蔵人と断られているのは、実際に今の東京都や神奈川県に当たる東国の人が動員されていたことを示すものとは判定できない。そうではなく、ムザシについて、「難波なにはの吉士きしざし」(舒明前紀)のように記すことがあったから、地面に身を刺すことが想起されたのだろう。強頸こはくびという名が杭に相当して人柱をイメージさせたから、わざわざ武蔵人と設定されている。言葉が先にあって話が作られている(注21)
 衫子は河神が自分のことをまひに指定したと受け取っていた。……ニマツルという形で述べられれば、貴人に物を献上することと想定され、神や貴人へ代償として捧げる品のことをいうタマヒモノ(賜物)、その上下の音を脱した省略形のまひ(ヒは甲類)に当たると思っている。そのマヒ(ヒは甲類)という言葉にはまひまひとがある。「浪の上にひつつ沈まず。」とあり、得意の捉え返しをしているとわかる。

 宿禰、則ち事有らむことをおそりて、馬一匹ひとつぎを以て、吾襲あそに授けて礼幣ゐやのまひとす。(允恭紀五年七月)
 …… たちばなの 花を散らし 終日ひねもすに 鳴けど聞きよし まひはせむ〔幣者将為〕 遠くな行きそ 我が屋戸やどの 花橘に 住みわたれ鳥(万1755)
 ふつく調つきを捧げて、また種々くさぐさ楽器うたまひのうつはものそなへて、難波よりみやこまうでいたるまでに、或いは哭きいさち、或いはひ歌ひ、遂に殯宮もがりのみや参会まゐつどふ。(允恭紀四十二年正月)

 天皇の夢に、衫子をマヒ(幣)にするように告げられたが、衫子は自らの代償の捧げものとしてくひの付いた「全匏おふしひさこ両箇ふたつら」を持ち出している。つまり、幣の幣である。真の神ならば栓は杭として使われて沈むはずだが、偽の神なら水上をひつつも沈まないといい、そのとおりマヒ(舞)続けた。だから「全匏両箇」のようなものでも幣の幣として通用した。何ともいい加減だから偽りの神であると知れ、偽りの神には偽りの幣で十分にかなったことになっている。衫子のウィットに富んだウケヒによって、彼は人柱にならずに済んだのだった。
 以上が、仁徳紀十一年十月条の茨田堤築造話の真相である。言葉をもって言葉を説明する辞書的役割を果たす話(咄・噺・譚)なのである。話(咄・噺・譚)は言葉でできており、すべてはヤマトコトバのアネクドートで成っている。今日、記紀の逸話を研究対象とするとき、多くの場合、歴史学や神話学の解釈の枠組みを当てはめてみようとする。しかし、そのやり方では場面設定しか定められず、話(咄・噺・譚)の核心に迫ることはできない。文字を持たない文化はいわゆる歴史を持たない。音声においてのみある言語で表して口頭で伝えていったことことであり、史話(history)以前の話(story)である。歴史学や神話学、エクリチュールを基に据えた文学が自らの方法論によって解明しようとしても、何が語られているのかチンプンカンプンで要領が得られなかったのはそれゆえである。無文字時代の人たちは、話(咄・噺・譚)を理解することで、ヤマトコトバによって語り尽くされる世界を手に入れようとしていたのであり、それと同じ視座に立たなければ記紀万葉の本当の理解に至ることはない。

(注)
(注1)築堤の歴史を説話化したとする見方の多くは、初めから説話自体を読む気がない。赤木2023.は茨田連氏の氏族伝承を朝鮮半島の文化情報によって潤色したのが茨田堤築造説話なのだとし、武蔵人強頸は三国史記に典拠があるという。聞き手、読み手が話について来るのを難しくする理由はあるのだろうか。
(注2)松尾1998.。
(注3)上遠野2025.。
(注4)歴史地理学的考察も行われており、記事を裏付けるところとなっている。
(注5)人身御供と人柱とは、定期的な祭祀か臨時のものか、神の食べ物として捧げられるか否か、に相違があり、同じカテゴリーの下には含まれないとする考えが高木2018.にある。
(注6)上田1959.に、「……農耕生活の発展とともに変質する共同体結合の矛盾と対立が、常に異質的な信仰を導入し、かつ来臨する神の多様性を促進してゆく契機をなしたことである。こうした信仰変異は、たとえば、「仁徳天皇紀」十一年十月の条にみえる茨田連衫子が、河神の真偽をこころみて、犠牲より逃れ、また「皇極天皇紀」三年七月の条にみえる大生部多の常世神信仰の普及、さらに「常陸国風土記」にみえる夜刀神の祭祀などその基盤には発展度の差があっても、いずれも共同体の矛盾対立の中で、そのワクをこえてゆく思想の動向を伝えるものであることに変りはない。」(178頁、漢字の旧字体は改めた)とある。逸話の羅列のような紀の記事を、二百年の時代を飛び越え、さらに民俗探訪の風土記の記述に併せて論じてみても得られるものはない。構造的理解ではなく、一つ一つの記事についてよく読むことが求められている。言葉の感性が豊かだった無文字時代の上代人には、言語活動上の論理学的性格に見逃せないものがある。
(注7)吉井1976.に、「難波地方の開拓が帰化人の技術にまつところが多かったであろうと考えることは通説と言ってよいが、茨田郡および豊島郡の秦人は、おそらく、伴造氏族としての茨田連および豊島連に管掌せられていた帰化人技術者集団と考えてよく、難波の水を制する役割が彼等に課せられていたのであろう。茨田連の伴造氏族としての性格が新技術にかかわるものであったこと、それが、衫子の物語を生みだす要因でもあったことが考えられるのである。」(251頁)、山田1989.に、「もともとヒョウタンは沈まない。それを逆手にとったコロモノコの姿には、仁徳紀に出ている築堤、治水の技術をたくわえた河内王朝人の「合理主義」がうかがえる。帰化人の技術をいかした治水策による生産力の向上が、河内王朝の基礎である。そこで、コロモノコのヒョウタン譚は、仲哀記以前のヒョウタンと水神との結びつきがくずれる区切りであったと、みることができる。」(100頁)とある。いずれも解釈の可能性を指摘するだけで、突拍子もない説話を生み出した契機について問うことすらできていない。容器として処理したヒョウタンは、中に水を満杯に入れるとペットボトルのようには水没しないものの、一部を残して水面下に沈むものである。人が川を泳いで渡る際に浮子うきに使ったとするのは、栓をして中の空気が漏れないようにしたものである。
 他方、神に対する生贄つながりから、景行記の弟橘比売おとたちばなひめの説話などと併せて論じることも行われている。しかし、一方は自らが生贄になる話、他方は生贄が強要され、うち一人は対抗する話である。個別具体的な話が展開されており、言いたい事柄はそれぞれである。古代の人の発想はとても豊かである。弟橘媛の説話がヒ(乙類)の話である点については拙稿「記紀のオトタチバナ説話について」参照。ヤマトコトバのみで互いに保ち得る知が話の焦点であった。
(注8)ハイカラな技術、すなわち、舶来技術をもって築堤されたことを暗示するらしいことは窺えるが、それが新羅系の渡来人によるものなのか、この説話が伝えるものではない。
(注9)衣服のエリと呼ばれるものには盤領まるえり方領かくえりがある。ここで検討しているのは、胡服の影響からつくられた上着の袍や襖、狩衣、水干などの首周りに詰襟となっている盤領の方である。くびくひえりえりの関係である。
(注10)一方、「壊」字はコホル、クユが考えられるが、コホルは音を立ててこわれること、クユはくずれることを言う。崩壊の際に音を立てるのは高所からの落下したときに音を立てることが顕著であり、じわじわと流れ出るような時にはふさわしくない。
(注11)土嚢の歴史については未詳であるが、行われていたであろうことは言葉の性質からして想定される。
(注12)職員令・主殿寮に「掌らむこと、供御の輿輦、蓋笠、繖扇、帷帳、湯沐のこと、……(掌。供御輿輦。蓋笠。繖扇。帷帳。湯沐。……)」とあって、「扇」は「繖」と並べられており、今日の扇子に当たるものか確定できない。さしばの類とする見解が標注令義解校本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562907/5~6)、新釈令義解(早稲田大学図書館・古典籍総合データベースhttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wa03/wa03_06374/wa03_06374_0005/wa03_06374_0005_p0015.jpg)、訳註日本律令(332~333頁、この項、坂本太郎)に見られる。令集解に、「蓋笠。繖扇。〈謂。繖々蓋。問。繖々蓋者。其意何。若如繖之蓋歟。扇団扇也。釈云。上思爛反。野王案。繖即蓋也。見唐衣服令。或云。繖似扇而大者。非也。音蘇旦反。扇団扇也。扇謂所用取風涼塵粉者也。音戸戦反。穴云。繖謂手繖々蓋也。唐儀制令云。皇太子繖者是。跡云。繖者蓋。言手繖之蓋耳。扇者阿布岐。古記云。陸詞曰。繖蓋也。音蘇旦反。扇隠羽也。伴云。家語。孔子将雨无蓋是也。今時繖也。〉」とある部分である。
(注13)通説では、扇は本邦発祥のもので、檜扇にはじまり、紙を張った扇へ展開したとされている。現在遺物が残る風雅なモノから捉えられている。しかし、人類がいかに道具を作り出していったかに思いを致せば、道端にコウモリの死骸を見つけ、羽部分をもぎ取って焚きつけの風起こしに用いたことに始まるであろうことは直感される。蝙蝠扇という名を、紙張扇の転であるとする説は、巧みに洒落を言って笑わせたものであろう。
(注14)北野本や兼右本ですでに「崇」字にタヽリと傍訓がある。
(注15)新編全集本はそう訓んでいる。
(注16)中国の河伯を取り入れているかについては、皇極紀元年七月条に「或いは河伯かはのかみいのる。」、和名抄に「河伯神 兼名苑に云はく、河伯は一名に水伯といふ。〈河の神なり〈已上は本注〉、和名は加波乃賀美かはのかみ〉」と見える。皇極紀は中国風の習俗で雨乞いの対象とされている。その時、効果はなかった。
(注17)仙人の絵を見て詠んだ歌ではない点については拙稿「万1682番歌の「仙人」=コウモリ説」参照。
(注18)民俗学ではヒョウタンを神霊の宿るところとする考えがある。仁徳紀のこの説話、ならびに、六十七年条に、匏は神霊の容器とする考えの発露と位置づけられている。いくつかの説話にそのような伝承がみられるからといって、すべからくヒョウタンは神霊の宿るところであると結論づけるのには無理がある。もしそのとおりなら、さまざまな言い伝えでもっと普遍的に見られてしかるべきである。ヒョウタンに神霊が入っていると本気で信じられ続けていたら、唐辛子を入れて蕎麦に振りかける際に呪文でも唱えることになっていたことだろう。
(注19)本邦では、膜鳴楽器のことをみなツヅミと呼んでいたと考えられる。和名抄に、「……枹……兼名苑に云はく、槌は一名に枹〈音は浮、字は亦、桴に作る。俗に豆々美乃波知つづみのばちと云ふ。〉は大鼓を撃つ所以なりといふ。」とあり、バチで叩くものはツヅミである。今日知られる雅楽の鼓は、中央がくびれつつ胴が膨らんでいくもので、両端で間接的に皮革を張っている。文献上は、推古紀二十年に百済の味摩之みましが伎楽を伝えた際に伝えられた呉鼓くれつづみが最初である。神功紀十三年の「此の御酒みきを みけむ人は そのつづみ 臼に立てて ……」(紀33歌謡)にある「菟豆彌つづみ」は、一面のみを膜とする太鼓状のものであると推測される。なお、ヒョウタンを使った楽器としては体鳴楽器のマラカスが知られるが、本邦で古代に用いられたことは知られない。
(注20)「語の意味はその使用である」(ウィトゲンシュタイン)。上代に音声言語としてのみあったヤマトコトバが、使用に当たって言葉ごとに意味の同一性を求めたがったのは理にかなうことである。自己循環的な定義に陥って洒落をくり返して、意味の担保要件とすることで体系を堅持していたということができる。独特で巧みな手法であった。
(注21)現実に「武蔵人強頸」という人がいた可能性を否定するものではない。話(咄・噺・譚)が書いてあるのであってそれ以上のことはわからない。無文字時代に記憶されるのは話(咄・噺・譚)である。話(咄・噺・譚)だけ残して内容はどうでもいいのかと迫る向きもあろうが、落語や講談、歌舞伎などを鑑賞して、歴史的重要性が乏しいと却下するのは愚かなことである。反対に、文献があるからと言っても取るに足らない日常の当たり前が逐一記述されているわけではない。

(引用・参考文献)
赤木2023. 赤木隆幸「茨田堤築造と新羅系渡来人」須田勉・高橋一夫編『渡来・帰化・建郡と古代日本─新羅人と高麗人─』高志書院、2023年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
上田1959. 上田正昭『日本古代国家成立史の研究』青木書店、1959年。
上遠野2025. 上遠野浩一「茨田連衫子の物語について」『日本書紀研究 第三十六冊』塙書房、2025年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
高木2018. 高木敏雄『人身御供論』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2018年(1925年)。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
西宮1990. 西宮一民『上代祭祀と言語』桜楓社、1990年。
平林2011. 平林章仁『鹿と鳥の文化史─古代日本の儀礼と呪術─』白水社、2011年。(1992年。)
松尾1998. 松尾光「茨田堤上のウケヒ」高岡市万葉歴史館編『水辺の万葉集 高岡市万葉歴史館論集1』笠間書院、平成10年。
訳注日本律令 律令研究会編『訳註日本律令十 令義解訳註篇二』東京堂出版、平成元年。
山田1989. 山田宗睦『花 古事記─植物の日本誌─』八坂書房、1989年。
吉井1976. 吉井巌「茨田連の祖先伝承と茨田堤築造の物語」『天皇の系譜と神話 二』塙書房、昭和51年。
歴博2004. 国立歴史民俗博物館編『海をわたった華花─ヒョウタンからアサガオまで─』同発行、2004年。

加藤良平 2025.11.1改稿初出
(承前)
 イザナミに決して見るなと言われたが、なかなか姿を現さないので左のみずらに挿していた「湯津々間ゆつつまくし(湯津爪櫛)」を取り、その端の太い「男柱をばしら雄柱ほとりは)」に火を点してみた。近くに火種があったから着火している。その手立てについて触れられないまま火が点いているのは、竈の燠のなかに竹串を差し込むほどに簡単に火が点くからだろう。爪櫛と爪にこだわっているのは、天狗のイメージにある長い爪とも関係があるのかもしれない。イザナミの姿は「うじたかれころろきて」と表現されている。記の伝本に、「宇士多加礼許呂呂岐弖」の「許」(真福寺本)を「斗」(道祥本、兼永本)とするものがある。コロロクは破裂していく音を、トロロクは融解していく熱を表現しようとしたものと思われ、どちらか一方が正しいということではなくて、二様に示されたものではないか(注28)
 火鑽臼に当てる火鑽杵は、その形に似たトンボやカゲロウのイメージとなっていた(注29)。蛆はハエの幼虫である。イザナキはトンボの雄のままであるのにイザナミはハエの幼虫の雌と化している。なのに逢いたいと言って追いかけてきてしまった。これは大失態である。ハエが汚らしいという以上に、トンボとハエは種が違う。異種婚につながる危険な思考である。仲哀記には、国の大祓をしなければならない罪として、人による獣姦が挙げられている。「馬婚うまたはけ牛婚うしたはけ鷄婚とりたはけ犬婚いぬたはけの罪」である。黄泉国から還ったときに「禊祓」を行う必要があったのは、死の穢れに触れたからではなく国つ罪に触れたからだったことになる(注30)。黄泉国は事の整序を乱す世界として架構されている。
 イザナキが逃げ帰る時、黒い鬘を取って投げ捨てるとエビカヅラになり、右のみずらに挿していた爪櫛を投げるとタケノコが生えたとある。ヤマブドウを取ってきて髪飾りの鬘にすることや、タケノコが成長した竹を加工して竹櫛を作ることはあっても、その逆はない。しかし、火のなかに入れると瞬時に加熱変化が起こり、黒い鬘がちりちりと燃えて秋の黄葉を思わせたり、竹櫛が燃えてタケノコの断面のように見えることがある。その不可逆性を表すことこそあり得ないこととされ、そのあり得ないことが起こることは国つ罪に当たる。すなわち、穢れた世界である。最たることは、亡くなったはずのイザナミ自身が蘇ろうとしている点である。「且与黄泉神相論。」(記上)と試みていた。命あるものはみな死ぬと決まっており、埋葬されてから復活することは思念するだけでもけがらわしいとされたのではないか(注31)。この黄泉国の話(咄・噺・譚)はそのような考えを根底にして作られている。「易子之一木乎」(記上)と整序を欠いたことがそもそもの問題であった。そしてまた、当時、いったん竈のある暮らしに移ったら、再び竪穴建物の真ん中に炉を設けることがなかったことに通じるところがある(注32)。竈の話は不可逆性を語るのにふさわしい。
 黄泉国から逃げるイザナキを、イザナミは予母都志許売よもつしこめ(泉津醜女)、くさ雷神いかづちのかみ千五百ちいほ黄泉軍よもついくさを派遣して追わせている。また、黄泉比良坂で言い合いをする場面では、記に、イザナミが「ひと千頭ちかしらくびり殺さむ」と言うのに対して、イザナキは「一日に千五百ちいほうぶを立てむ」と返している。紀一書第六では、イザナミが「ひとひ千頭ちかうべくびり殺さむ」と言うのに対して、イザナキは「日に千五百頭ちかうべあまりいほかうべ産ましめむ」と返している。千五百は、限りなく多い年月を表す千五百ちいほあきのように使われ、千五百の黄泉軍も無限にたくさんの軍勢の意味である。千に対して千五百とずれが生じていてディスコミュニケーションとなっていることを示している。差し引き五百いほであり、イホは廬、つまり、仮小屋のことを示唆したいための活用でもある。イザナミは恒常的な居宅となる「殿」と言っていたが、死と誕生の仮小屋が真の姿ということを主張していて、この点でも話が食い違っている。そのようなイホとは喪屋、あるいは産屋に当たる。
 殯をする喪屋に遺体は安置され、墓に葬られるまでそのなかにあった。出産は産屋で行われ、一度産屋に入ったらお産が終わるまで出て来られない決まりであった。産屋は母屋の土間や納戸が当てられる場合もあるが、母屋とは別に産小屋を作り、そこで炊事も行って暮らし、産婦が完全に別居する風習も広く行われていた。産小屋は喪屋同様、必要ごとに建てられ、用が済めばすぐ壊された。妊婦はその隔離された空間で出産に及び、その間男性は決して見てはならないとされていた。臨月、出産の時期は母子ともに死亡率が高かったから、特にふだんから危険のある山仕事や漁業に従事する人たちは、厳しい禁忌を守らなければならなかったという(注33)
 産屋では、母屋とは別火を熾して食事の煮炊きをしたり、産湯を作ったりした。(ヘは乙類)を別にして、別のへつひが形成されていると認識されるようにしていた。民の家や戸籍を表すに到ったの意味の真骨頂である。

 秦人はだひと漢人あやひと等、諸蕃となりのくに投化おのづからまうけるひとを召し集へて、国郡くにこほり安置はべらしめて、戸籍へのふみた編貫く。(欽明紀元年八月)
 たちばなは おのが枝々 れれども 玉にく時 同じ緒に貫く(紀125)

 わが国で最初の戸籍の記事、欽明紀の条において、竈をもたらした渡来人という存在そのものに「」的なものを感じとっている様子が窺える(注34)。それぞれの(ヘは甲類)にそれぞれのがある状態を、橘の木の枝それぞれに実がついていることで表した紀125歌謡も、白村江の敗戦後に多数渡来した亡命百済人のことを念頭に詠んだものである。
 記に「黄泉よもつぐひ」、紀に「飡泉之竈よもつへぐひ」とある。産屋と同じく、黄泉国の「へ」を食べているからにはそこに籠って外へ出るわけにはいかない。「殿」のなかで韓竈を使い調理された食事を摂ったということだろう。初期の掘立柱住居には竈の痕跡が見られず、移動式の韓竈が日常的に使われていた証左と考えられている。その例の起源の一つに産小屋が位置づけられるのではないか。イホ(廬)には煙道のない韓竈がふさわしい。
 イザナキを追って来たのは「予母都志許売よもつしこめ」(泉津醜女)である。和名抄に、「醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古女しこめ〉は或る説に黄泉の鬼なりといふ。今、世の人、かしこみて小児のたたへ許々女こごめ〉と為るは此の語の訛れるなり。」とある。紀では、泉津醜女のことを「泉津よもつ日狭女ひさめ(ヒは甲類)」ともいうとする。母屋から外れた細長い一間をひさし(廂)(ヒは甲類)といい、韓竈の焚口部分の外縁の庇状のデザインをも連想させるから、別火の焚かれた小屋のことを示したいための別名なのだろう。
 記では「桃子三箇みつ(ミは甲類)」と断られている。竈のなかで甕を据えるために置かれた支脚石を見立てている。桃の実はみずみずしくて水気が多い。洪水を起こして攻め返すことができている。神代紀第五段一書第六では桃の話はなく、代わりに放尿ゆまりによる巨川おほかはが防いでいる。ピーチジュースの効果と同じである。桃は実でも花でもピンク色である。上代には鳥類のトキの羽毛の色から桃花鳥つき(キは甲類)と呼んでいた。三つあるからミツキ(ミ・キは甲類)で、水に浸かることは水浸みづき(ミ・キは甲類)という。

 …… 海かば 水浸みづかばね〔美都久屍〕 山行かば 草す屍 ……(万4094)

 竈跡の遺構には、坏が伏せられた形で出土するところがあり、竈が廃棄するに当たって祭祀が行われた痕跡と考えられている。語学的立場からすれば、黄泉国の桃の件が案出されたから祭祀の形がそのように決まったのだと考えられる。飲食物を盛る丸みのある器をつき(キは甲類)といい、サカヅキ(盃)、タカツキ(高坏)など各種ある。水の入ったつき(ミ・キは甲類)という語も想定可能で、それをひっくり返して水浸みづき(ミ・キは甲類)にしたうえで封鎖している。言葉はロゴスである。ヤマトコトバの辞書の便にもなっている黄泉国説話に従って祭祀が執行されている。

おわりに

 記紀に載る話(咄・噺・譚)には、記上や神代紀に限っても、ウキジマリ、アマヒノミなど、今日なお不明な語が用いている。多義性のもとに言い込めてしまうような工夫を、言葉自らのなかに凝らしたゆえと考えられる。そのような言葉づかいの傾向から、ヤマトコトバは論理学的な難しさを伴いながら発達していったものと考えられる。今日の我々にとっては取っ付きにくく、誤解が生じることになり、すっきりした理解がなお得られていないのである。
 記紀に残されている説話は、他の諸民族が持つ世界の創生譚、神話の語り口が平板であると思えるほど、高度な言語活動を伴った複雑にして独創的なものであり、異次元のレベルにある。話そうとする内容、趣旨が異なっていることが根本に控えている。上代の人たちが語りたがったであろうこと、すなわち、身の回りの生活に大転換をもたらして話題となっている外来の革新的な技術(注35)について、自分たちが理解し自家薬籠中のものにするために、換言すれば、ヤマトコトバ化するために頓知術を駆使して創り上げた喩え話なのである。黄泉国の話にしても、生活を一変させた竈について物語るにあたり、常世や橘、天狗などの外来の観念を絡め、主役の一人の死後の世界を表しながら、渡来した文物、思想をヤマトの人にもわかりやすく理解できるように工夫された話なのであった。
 それを読み解くために必要なのは、今日考えられているようないわゆる神話の要素分解ではない。中古以降の日本語とは異質で、無文字時代に隆盛したヤマトコトバの癖に従いながら、テキストの経糸、緯糸のあやをひとつひとつ見ていけば、自ずと何を語りたかったのか、その真相に辿り着くことができるだろう。

(注)
(注1)次の万葉歌では、菟原処女をイザナミ、壮士をイザナキに見立てて一話として歌としている。

 …… 倭文手しづたまき いやしきゆゑ 大夫ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉よみに待たむと 隠沼こもりぬの したへ置きて うち嘆き いもぬれば 血沼ちぬ壮士をとこ その夜いめに見 取りつつき 追ひきければ 後れたる はら壮士をとこい ……(万1809)

(注2)口承で伝えられた場合、意外なことに、書記されて伝えるものよりもずっと正確性が求められる。話のすみずみ、はしばしにおいて誤謬がないように努められるのである。辻褄が合わない所があれば、そこからその話はほどけていって体を成さなくなる。口伝えに伝えられる形で話された時、話し手と聞き手が理解の一致を見ない限り伝わることはない。換言すれば、誤解したまま伝わることがあるのは情報に過ぎず、誤解の上では話のオチはわからないから伝達はそこで途切れるのである。
(注3)拙稿「古事記、黄泉国の桃三箇の話─カマドの内部構造─」参照。以下、古事記の訓読について真福寺本をもとにした正しい訓み方に従っている。
(注4)小林1976.、白石2011.、土生田1998.、中村2000.、車崎2005.など参照。
(注5)黄泉国は地下にあるとする一般的な説に対し、佐藤1982.に勢いを得た神野志1986.は、「「黄泉国」が「黄泉つひら坂」を通じて「葦原中国」とかかわる」(84頁)と捉えている。今日まで、黄泉国がどこにあるものなのか一致した理解は得られていない。勝俣2009.、谷口2018.の図解参照。
(注6)カグツチの話において、大系本日本書紀に、「火が女陰から得られるという話はニューギニアを中心とするメラネシアと、南米に多くあり、火切杵と火切臼とを使用する発火法が、男女の交合を連想させる所に起源するものであろうという。また、火を生むことによって、女性が死に、男性と別れるに至るのも、右の発火法からの連想によって解釈される。軻遇突智神話中に多い死体化生のモチーフは東南アジア・メラネシア・南米に広がっており、焼畑耕作を背景としている。」(339頁)と近いところをかすっている。拙稿「蜻蛉・秋津嶋・ヤマトについて」参照。
(注7)上代の人がヤマトコトバに洒落を言っていると仮定して、アハキがツハキと同類の語構成であるとしている。話し言葉の世界は、どこまでが真面目なことでどこからが洒落なのか峻別することはできないし、言語に見られる思考の多重性も否定してはならない。言語とはその使用だからである。無文字の言語に関して言葉とは何であるかについての理論を、言語学はこれまで用意できていない。
(注8)武井1978.参照。また、若尾2012.に、「修験者も護摩をたき、火防の行事を行う。……[三河の]花祭に見られるように釜も焚く。つまり古代鉱業の先駆者でもあって、火の取扱いについては熟練者であった。……秋葉山は修験道場であり、しかも銅山という鉱山地帯である。」(404~405頁)とある。神代紀第五段一書第四に、「伊弉冉尊、且火神軻遇突智之時、悶熱懊悩。因為吐。此化-為神。名曰金山彦。次小便。化-為神。名曰罔象女。次大便。化-為神。名曰埴山媛。」とあることも証左かもしれない。金山彦は鉱山神である。
(注9)必ずしも中央とは限らないが、隅ではない。屋根材に燃え移るからである。
(注10)横浜市歴史博物館2012.に、「古墳時代中期(5世紀ころ)には、伝来してまもないカマドの普及率は全国でも10.0%、関東ではわずか4.0%だったが、続く古墳時代後期(6世紀ころ)には全国平均で72.4%、関東地方では90%を超える爆発的な普及率だったといわれる。」(9頁)とある。古墳時代の近畿地方中央部における時代別の火処の様相、深さについては、中野2010.に整理されている。
(注11)近代まで続いた竈は竪穴建物から掘立柱建物へ変わったこともあり、煙突を伴わない。設置される場所も壁際に限らず、かなり自由である。煙突を立てれば茅葺き屋根に火の粉がかかり火事になる。茅葺きの燻蒸のためにも煙突がなくて煙が屋内に充満したほうが好都合であった。ただし、焚口付近の様子に大きな変化は見られない。
(注12)紀の記事には、先んじて「時伊奘冉尊、為軻遇突智、所焦而終矣。其且終之間、臥生土神埴山姫及水神罔象女。」とあり、続いて「此神頭上、生蚕与_桑。臍中生五穀。」とある。
(注13)紀第五段一書第十ではアハキハラと見立てていない。火除地の発想がない話になっている。

 但しみづか泉国よもつくにを見たり。此既に不祥さがなし。故、其の穢悪けがらはしきものすすはらはむとおもほして、乃ちきて粟門あはのみと及び速吸はやすひ名門なとみそなはす。然るに、此のふたつしほ既にはなははやし。故、橘之小たちばなのを還向かへりたまひて、はらひ濯ぎたまふ。

(注14)本居宣長説に、「垢離」は川降りの転の当て字とするが、いかがなものであろうか。白川1996.では、垢離にクリとルビを付けている(644頁)。垢は呉音ク、漢音コウで、「離垢りく」の語は無量寿経等にあり、もとは呉音のはずである。仏教で香を焚きこめることは、古代のインド人が香油を塗って穢れを去っていたのと同様、身を清浄にする方法であった。わが国において禊をして身を清めることに似ている。
 「こり」という語については、時代別国語大辞典上代編に「コリを「香」の字音から転じたとする説があるが、[ng]の韻尾をラ行に転じて用いた例を知らない。……字音語ではなく和語であろう。」(313頁)とある。一方、「垢離こり」という語は当て字とされている。「(凍)る」、「る」という語は万葉集に見える。

 …… たへの穂に 夜の霜降り 磐床いはとこと 川の凝り 寒き夜を いこふこと無く 通ひつつ ……(万79)
 吾が屋戸やどに 韓藍からあゐ蒔きおほし 枯れぬれど 懲りずてまたも 蒔かむとそ思ふ(万384)

 「(コは乙類)る」という語は凝集や氷結を意味する。また、「(コは乙類)る」という語は苦い経験をして考えを二度と同じ過ちをしないようにと思うことをいう。水垢離のさまを見ると、「凝る」状態になって悔い改めて「懲る」ことになっている。悔過のヤマト版の謂いのようである。推測の域を出ないものではあるが、コリ(コは乙類)という言葉で「香」も「垢離」もヤマトコトバに括られたのではないか。正確に言うなら、いわゆる和訓として言葉が作られたということである。
(注15)他方、神前に花を飾る習俗としては、ふだんは榊を供え、小正月には削り掛けが飾られている。丹後半島の浦嶋神社(宇良神社)では、三月十七日の延年祭に、削掛神事が行われる。コブシの皮を剥いだ白い小枝で、俵や繭玉のような形に削り掛けを作る。これを「立花たちばな」と呼んでいる。
 紀一書第五には、「土俗くにひと、此[伊奘冉尊]の神のみたまを祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又つづみふえ幡旗はたて、歌ひ舞ひて祭る」とある。体裁は有馬村の風俗のルポルタージュ記事であるが、花がないときは削り掛けを以て祭ることを示しているようである。鼓吹幡旗からは仏教の飛天の図が思い起こされる。仏教音楽や灌頂幡などを表しているのだろう。上代の人々の観念において、神仏はそれなりの形で習合していたといえる。そうでなくては「他神あたしかみ」(用明紀二年四月)について理解できるものではない。経典に盛んに訓点が付されるのも、ヤマトコトバで考えて理解しようと努めていたことを物語っている。
(注16)上代語のシキヰは、茣蓙や莚のように、座るために敷く物のことをいう。「席」(武烈紀八年三月、斉明紀五年是歳)、「座」(敏達紀十二年是歳)、「床席」(天智紀三年十二月是月)、「班」(欽明紀六年十一月)とある。単位は枚である。シキミのほうは、「閾」(仁徳記)、正倉院文書には「敷見」、「敷弥」などとあり、単位は枝である。両者の区別ははっきりしていた。
(注17)窪1996.参照。庚申信仰として今日に伝わる有名な文句がある。抱朴子・内篇・微旨篇に、「又言ふ、身中にさん有り。三尸の物る、形無しと雖も実に魂霊鬼神の属なり。人をして早く死せしめんと欲す。此尸は当に鬼とることを得て、自づから放縦遊行して、人の祭酹まつりくべし。是を以て庚申の日に到る毎に、すなはち天に上りて司命に白して、人のつくる所の過失をふ。又、月つごもりの夜には、竈神も亦天に上りて人の罪状を白す。大なれば紀を奪ふ。紀とは三百日なり。小なれば算を奪ふ。算とは三日なり。吾亦未だ能く此の事の有無を審らかにせざるなり。然れども天道は邈遠はるかにして、鬼神は明らかにし難し。(又言、身中有三尸。三尸之為物、雖無形而実魂霊鬼神之属也。欲使人早死。此尸当得作鬼、自放縦遊行、享人祭酹。是以毎到庚申之日、輒上天白司命、道人所為過失。又月晦之夜、竈神亦上天白人罪状。大者奪紀。紀者三百日也。小者奪算。算三日也。吾亦未能審此事之有無也。然天道邈遠、鬼神難明。)」とある。
(注18)平川2000.310頁、352~353頁、373頁。芝山町庄作遺跡五八号住居跡の土師器坏の底部外面に「竈神」とある墨書土器が出土し、その状況からそのように考えられるとしている。竈と冥府とが、ヤマトの人の観念において近しいと考えられていた証左としては、これら文字資料によるしかなく、無文字時代にいかに考えられていたかの確証とはむろんならない。また、時代の経過とともに祭祀形態に変化もあろうから、詳しいことは推測の域を出ないものである。荒井2006.参照。とはいえ、竈が外来文化であることと竈神についての抱朴子の思想が知られている状況から見て、モノだけを受容したと定めるほうが難しいことも事実である。さらに、窯も含めた竈ですべてを焼き尽くすことと火葬とが似ていると考えられて、ある地域で一時期、火葬骨蔵器を天地逆さにして伏せて埋葬されていた形跡もある。後考を俟ちたい。
(注19)山上憶良は、その沈痾自哀文に抱朴子を引いている。一方、推古紀二十一年十二月条には、聖徳太子が片岡に遊行した折の路傍の飢者とのやりとりが記されている。太子は食べ物と自分の衣裳とを与え、次の日に使者を遣わして様子を見に行かせたところ亡くなっていたので埋葬させた。数日後、太子は、先日の飢者は「凡人ただひとに非ず。必ず真人ひじりならむ。」と言って再度確認させたところ、遺骨はなくなり衣裳だけが棺の上に畳まれていた。そこで、その衣裳をまた身に着けた。人々は、「ひじりの聖を知ること、それまことなるかな。」と言ってますます畏れかしこまったとある。神仙となって肉体が消え去る解仙かいせんは、抱朴子・内篇・論仙篇に同様の例が載る。そして、「按ずるに仙経に云はく、上士は形を挙げて虚に昇る、之を天仙と謂ふ。中士は名山に遊ぶ、之を地仙と謂ふ。下士は先づ死して後にもぬく、之を尸解仙と謂ふ。(按仙経云、上士挙形昇虚、謂之天仙。中士遊於名山、謂之地仙。下士先死後蛻、謂之尸解仙。)」と解釈されている。増尾2008.によると、中国では、尸解仙になるためには道教の修行だけでなく儒教的な徳行が求められ、仏教でも僧侶の徳仙を列挙する例があって、儒仏道の習合があった。そのような思想的な基底から、推古紀に見られる伝承が生じたとする。山上憶良が用いた「可麻度かまど」(万892)は、実体としてのカマドだけでなく、その思想的背景を読み取って積極的に使っていたということになるのかもしれない。
(注20)ヘツヒという語が類カマドから起こったとする説は、語学的な思考から成り立っているものではない。消去法として、大陸伝来の「竈」をカマドとするなら、ヘツヒという語はどこから起ったか、当てずっぽうをしているに過ぎない。「豊竈とよへつひ 御遊びすらしも ひさかたの 天の河原に ひさの声する ひさの声する」(神楽歌81)とあるのが古い用例で、はたして弥生時代に出現をみたものの名称であると言えるか、再考の余地がある。
 最近の考古学の知見からは、朝鮮半島南部地域で竈が普及・定着するのは二世紀後半~三世紀以降のことで、定着に数百年の年月がかかっているという。本邦においても、竈の普及期である五世紀後葉でさえ、炉の住居は残存しており、炉から竈への転換は漸移的なものであったことが確認されている。高久2016.に、「竈に適合した煮沸具への交換など、火処にとどまらない生活様式の大きな変化がともなうためであったこともその要因のひとつであったと予想される。」(57頁)とする。つまり、今日の考古学的な整理による炉、類カマド、竈が並立しているなかで、ヘツヒとカマドという語を識別することは困難なのである。釜のあるところがカマドという概念形成と、ヘ(瓮)+ツ(助詞)+ヒ(霊)の約かともされるヘツヒの概念形成は同等ではない。特に、ヘ(瓮)とヘ(戸)との親近性は、「戸籍へのふみた」の必要性が渡来人の掌握のために始められたであろうこと(欽明紀元年八月)から考えると、類カマド由来説は矛盾を来している。
(注21)本邦の住居の火処が、炉から類カマド、竈へと変遷を遂げていった様相については、合田2013.にまとめられている。地域差や漸移性はあるものの、古墳時代中期から竈が広がりをみせている。
(注22)石川2002.によれば、楚辞九章に、橘と天狗の観念との間にはつながりがあるとしている。橘頌篇で橘の美しさを称えた結果、非回風篇の最後に主人公は崑崙山と岷山に達して飛翔能力を獲得したのであり、橘は異次元世界の世界樹に相当するという。楚辞の詩的世界について上代のヤマトでどのように受け止められていたか不明である。「天狗」の語の初出は、舒明紀九年二月条である。「大きなる星、ひむがしより西に流る。便ち音有りていかづちに似たり。時の人曰はく、「流星ながれぼしの音なり」といふ。亦は曰はく、「地雷つちのいかづちなり」といふ。是に、僧旻僧そうみんほふしが曰はく、「流星に非ず。是天狗あまつきつねなり。其の吠ゆる声雷に似たらくのみ」といふ。」。ここでいう天狗は、天空を飛び、天と山とをつなぎ、大声を発し、異変をもたらす妖怪的な動物とされている。史記・天官書に、「天狗は、かたち大奔星だいほんせいの如くにして、声有り。其のくだりて地にとどまるときは、狗にたり。(天狗、状如大奔星、有声。其下止地、類狗。)」と、流星として記されているものに由来する。隕石の落下現象を指すのだろう。僧旻が舶来思想を披瀝した記事のようであるが、紀の編纂者が、なぞなぞを解く鍵として残したものかもしれない。
 天狗のような立ち鼻は、同音の橘が香気の高い果実をつけることに通じるかのように、香りを嗅ぐのに打ってつけである。

 沈水ぢむ淡路島あはぢのしま漂着れり。其の大きさ一ひといだき。嶋人、沈水といふことを知らずして、たきぎてて竈にく。其の烟気けぶり、遠くかをる。則ちなりとしてたてまつる。(推古紀三年四月)

 記事に竈が登場している。黄泉国のなぞなぞのヒントになる。「其烟気、遠薫。則異献。」とある。火のないところに煙は立たず、火のあるところに必ず「烟気」は立ち上るはずで、近くは咽るほどにして、遠くは棚引いたら淡くしか感じられない。囲炉裏式の場合はそうだっただろう。ここでは「遠薫」ばかり述べられている。そういうことは珍しいから「異」としているが、その秘密は本文中に記されている。「以交薪焼於竈。」とある。古墳時代に作られ始めた竈は焚口から薪をくべるが、背後に煙道がついていて家の外へ抜けている。コンロの口には甕が嵌め殺しで据え付けられ、湯を沸かして、その上に甑を置いて蒸し調理が行われた。空気の流れは一方通行で、「烟気」は漏らさず煙道を通って外へ排気されて「遠薫」することとなっている。
(注23)飯島2007.に、「魔除けの魔というのは、いわばマ(間)であって、この[産屋に産婦が籠って出産に臨む]空虚な時空という人間の認識にとってこの上もなく恐ろしい不安な状態を無事に通過し、日常的な社会秩序の中に一定の状態を確保するために火が焚かれるのである。」(124頁)との指摘がある。しかし、産小屋の火は、母屋の火とは別にする火である。魔、ないし、間には、変化の兆しを生むイメージがある。
(注24)「古典基礎語辞典に、「「黄泉」の表記は漢語の借用で、地下(黄色は土を表す)の冥界を意味する。」(1303頁、この項、古川のり子)とする解説は、水の湧き出る泉の意について無頓着である。古事記の黄泉国説話で黄泉比良坂の坂本で水が湧いていることは、桃の実を火にあぶったからであるとする考えからである。(注3)に同じ。
(注25)供膳具としての坏形の須恵器にご馳走を盛ったらしいことは、閻魔王への賄賂と捉えることも可能ではあるものの難しいだろう。
(注26)陶質土器の整形において、庇の部分は陶土を折り曲げる方法と、板状の粘土を貼り付ける方法が確認されている。
(注27)大年神おほとしのかみの系譜として語られる。

 [大年神おほとしのかみ、]又、あま知迦流美豆比売ちかるみづひめを娶りて、生む子は、おく津日つひ子神このかみ。次におく比売命ひめのみこと、亦の名は、おほ戸比へひ売神めのかみ。此は、諸人もろひとが以ちをろがかまの神ぞ。(記上)

(注28)日本書紀同様、古事記でも複数本をもって撰上していた可能性があるということになる。
(注29)拙稿「蜻蛉・秋津嶋・ヤマトについて」参照。
(注30)拙稿「上代におけるケガレについて」参照。
(注31)古墳の被葬者にミイラ化を目指した例がある。復活を志向しているのかもしれないが、古事記の話ではそのような考え方を否定的に見ていることになる。大自然のなかで暮らしていくには生と死をそのままに受け入れることは必須要件であった。ミイラ化を志向するのは文明の産物、古事記は無文字文化の末に成立している。
(注32)合田2013.に、「古墳時代、炉から竈へと火処が交代したことは、生活における一大画期であった。古墳時代に導入された竈は、東アジアからの文化の導入の経路とともに、その後の日本列島における文化の受容のあり方を示す興味がつきない資料である。」(103頁)とある。高久2016.にいうとおり、炉の生活から竈の生活に変えることは、生活様式全般を変えることに当たるから、とり入れるには例えば新築する必要があって、それに合わせた新しい暮らしを始めたら、元に戻るには中古物件を居抜きするぐらいしかない。そして、竈を使うとなると、ご飯を蒸して食べるようになったと考えられる。その際、栽培するイネの品種についても調整が行われ、耕作の仕方もいくらか変わったに違いあるまい。というように、ドミノ式に生活全体が変わってしまうのである。なお、特に東日本の民俗に、竈よりも囲炉裏が好まれる傾向がある。絵巻物の資料にも、煙道を持たない竈があっても使われずに、その前で五徳を用いて調理する様子が描かれることもある。そのとき、住居は竪穴建物ではなく、掘立式であることが多い。民俗建築の茅葺屋根は、囲炉裏を焚いて起こる煤煙が虫や黴の駆除に役立ち、三十~四十年も長持ちしていた。家の構造が掘立式になれば、煙突を立てると火の粉が屋根にかかってしまうのである。幾度もの生活様式の変遷を経て今日に至っている。
(注33)大藤1968.に、「産の忌は血忌であることから、これを単にさけるだけでなく、一種の畏怖の念をもって見られていた。ことに漁民や狩猟者がこれを忌みきらった。」(41頁)、「群馬県勢多郡東村でも、岩手県和賀郡沢内村でも、産後一週間は夫はもちろん、家の者が山仕事をすることを禁じられていた。狩猟に出る者、狩小屋、炭焼小屋などはすべて産火を極端にきらう。」(42頁)、「タタラ師(鉄鉱から鉄をとる仕事)も、狩猟者に劣らぬほど産の忌をやかましくいう。産婦は六十一日過ぎねばタタラ場へ行くことはできなかった。」(42頁)とある。炭焼きや金山彦との関連が窺われる。
(注34)継体紀三年二月条に、「任那の日本やまと県邑あがたのむらはべる、百済の百姓たみの、浮逃げて絶えたること、三四世みつぎよつぎなりたる者をさへき出して、並に百済に遷して、貫に附く。」とある。、つまり、カマドの盛んなる朝鮮半島情勢である。貫の字が使われているのは、戸籍が木簡を貫くものであったためである。紀125歌謡に、橘を貫くものとして描写されているのは、本貫地を表す戸籍と同等であるとの譬喩である。
(注35)ヤマトコトバは外来技術を表すために自らの言語体系内に新しい言葉を生み出していった。他の言葉との間でネットワークを乱すことなく、体系内に新たな言葉がきちんと位置づけられるべく包括的に考えられていた。今日、和訓と呼ばれている。当時は無文字時代だったから、誰一人取り残さないために、言葉(音)の意味に齟齬がないように苦心して作りあげている。必然的に頓知の才が冴えていくことになる。
 記上や神代紀の説話は、技術革新の世紀、五世紀に訪れた目新しい技術や思想を、肌感覚で自らのものにしようとした結果生まれた産物である。確実に伝承しなければならないと思うモチベーションがある事情について説話化している。個々に発生したそれぞれの話が、おそらくは少し遅れて飛鳥時代にオムニバス風にまとめ上げられたのだろう。無文字の人たちにとってよくわかるように創話されているから、聞く耳と伝える心を獲得するに至っていて、無文字のままに広汎に流布してヤマトコトバの原典になるまでになっている。無文字社会の人にとっての理解は、文字社会で記号操作に慣れ親しんだ人にとっての理解とは位相が異なる。すべてをなぞなぞのなかに入れ込み、塗り込めていく知恵ある工夫が随所にみられ、枚挙に暇がないほどである。その点に気づけば、現代とは別筋の豊かな文明が築かれていたことが知れ、大いなる畏敬の念を抱かずにはいられない。壮大な譬え話の例は仏教経典に見られ、説話化するに当たっては一つの参考とされたかもしれないものの、すべてをヤマトコトバで言い表す点で完全にオリジナルな文化である。

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2025.10.21改稿初出
はじめに

 黄泉国(よみのくに・よもつくに)の話は、イザナミ(伊耶那美命、伊弉冉尊)の死、イザナキ(伊耶那岐命、伊弉諾尊)の黄泉国訪問、黄泉国からの脱出と訣別、禊ぎの話から成る。本稿では、黄泉国という舞台設定は何を表すものか検討する。今日までのところ、黄泉国=死の国のことと考えられてきている。実際、上代において、黄泉は死者のゆくところ、あの世というイメージで認められていたことが万葉集の歌から読み取れる(注1)。しかし、だからといって、黄泉国の話から、上代人の死後世界の観念はすべからくそのようなものであったと確定させたり、後の人たちにそれを語り継ぐことを目的としてイザナキとイザナミの黄泉国譚は作られていると捉えるのは短絡に過ぎるだろう。記紀に残される他のさまざまな話と同様に、創話するに当たって即物的に表しておいて多少肉付けて良しとしたとは考えにくい。あの世のことを意味すると目される表現でも、「黄泉国」、「根の国」、「根のかたくに」(記上)、「遠き根国」(神代紀第五段一書第二)、「常世郷とこよのくに」(神代紀第八段一書第六)、「泉国したつくに」(欽明紀二年七月)などと複数の言い方があって、分かち書かれている。また、かづら(鬘)や櫛や桃の実といった小道具を持ち出して興に入り、ともすれば荒唐無稽に捉えられかねない話にあえて加工されている。大人を相手に話すには途方もない話は譬え話であり、説明文や紀行文ではない。無文字時代、言葉を巧みに操って一話を成し、相手が一度聞いただけで納得するうまい語りっぷりが達成されているから広く流布、伝播したのだろう。エピソードのひとつひとつ、言葉の端々にいたるまで、首尾一貫して了解されたからこそ伝承がつながり(注2)、太安万侶や日本書紀の編纂者によって書き起こされるに至った。ここでは、記紀の黄泉国の様子、ならびに、そこにイザナミが現われた次第について記された個所を中心に読解し、黄泉国の話の根底には、古墳時代に普及した竈の作りを言い表そうとする試みが横たわっていることを明らかにする。

 ここに、其のいも伊耶いざ那美命なみのみことあひ見むとおもひて、黄泉よもつくにに追ひく。しかくして、殿とのさしより出でむかふ時に、伊耶いざ那岐命なきのみこと、語りてりたまはく、「うつくしきがなにみことあれなれと作れる国、未だ作りをはらず。かれかへるべし」とのりたまふ。爾くして、伊耶那美命こたへてまをさく、「くやしかも。ずて。吾は黄泉戸喫よもつへぐひしかれども愛しき我がなせの命、入り来坐きませる事かしこし。故、還らむと欲ふ。しまら黄泉よもつかみ相論あげつらはむ。我をな視たまひそ」とまをす。如此かくまをして、其の殿の内に還り入るあひだ甚久いとひさしくして待ちがたし。故、左のみづらに刺せる湯津々間ゆつつまくし男柱をばしらひとを取りきて、ひとともして入り見たまふ時、うじたかれころろきて、かしらには大雷おほいかづちり、胸には火雷ほのいかづち居り、腹には黒雷くろいかづち居り、ほとには析雷さくいかづち居り、左の手には若雷わかいかづち居り、右の手には土雷つちいかづち居り、左の足には鳴雷なるいかづち居り、右の足には伏雷ふすいかづち居り、あはせてくさの雷神いかづちのかみ成り居り。
 ここに、伊耶いざ那岐命なきのみこと見畏みかしこみて逃げ還ります時、其のいも伊耶いざ那美命なみのみこと言はく、「吾にはぢを見さしめたまふ(注3)」といひて、すなは予母都志許売よもつしこめつかはして追はしむ。しかくして、伊耶那岐命、黒き御縵みかづらを取りて投げてたまへば、乃ち蒲子えびかづらのみる。是をひりむ間に、逃げきたまふに、なほ追ふ。亦、其の右のみづらに刺せる湯津々間ゆつつまぐしを引ききて投げてたまへば、乃ちたかむな生る。是を抜き食む間に、逃げ行きたまふ。また、後には、其のくさの雷神いかづちのかみに、千五百ちいほ黄泉軍よもついくさへて追はしむ。爾くして、御佩みはかしせる十拳剣とつかのつるぎを抜きて、後手しりへでにふきつつ逃げ来たまふを猶追ふ。黄泉よもつ比良ひらさか坂本さかもとに到りたまふ時、其の坂本に桃子もものみ三箇みつを取りて持ちあぶりもの(注3)にしたまへば、ことごとかへ(注3)。爾くして、伊耶那岐命、其の桃子にりたまはく、「なれあれを助けしがごと葦原中国あしはらのなかつくに所有あらゆるうつしき青人草あをひとくさの、苦しき瀬に落ちて患惚たしなむ時、助くべし」と告りたまひて、名をたまひて意富加牟おほかむ豆美命づみのみことなづけたまふ。
 最後いやはてに、其の妹伊耶那美命、身自みづから追ひ。爾くして、びきいはをもて其の黄泉よもつ比良ひらさかに引きへて(注3)、其の石を中に置き、おのもおのもむかひ立ちて、ことわたす時、伊耶那美命言はく、「愛しき我がなせの命、如此かくば、が国の人草、ひと千頭ちがしらくびり殺さむ」といふ。爾くして、伊耶那岐命、りたまはく、「愛しき我がなに妹の命、汝がしか為ば、は一日に千五百ちいほうぶを立てむ」とのりたまふ。是を以て、一日に必ずたり死に、一日に必ず千五百ちいほたり生まるるぞ。故、其の伊耶那いざなみの神命かみのみことなづけて黄泉津よもつ大神おほかみと謂ふ。亦云はく、其の追ひしきしを以て、道敷大神ちしきのおほかみと号くといふ。亦、其の黄泉よもつさかへる石を、道反大神ちがへしのおほかみと号く。亦、黄泉よもつ戸大神とのおほかみと謂ふ。故、其の所謂いはゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜いふやざかと謂ふぞ。(記上)
 しかうして後に、伊奘諾尊いざなきのみこと伊奘冉尊いざなみのみことを追ひて、黄泉よもつくにに入りて、きて共に語る。時に伊奘冉尊ののたまはく、「夫君なせみことなにおそいでましつる。われすで湌泉之竈よもつへぐひせり。しかれども、吾まさやすまむ。ふ、なましそ」とのたまふ。伊奘諾尊、聴きたまはずして、ひそか湯津ゆつ爪櫛つまぐしを取りて、其の雄柱ほとりばきて、秉炬たひとして見しかば、うみうぢたかる。今、世人よのひとよる一片之火ひとつびとぼすことむ、又、夜擲櫛なげぐしを忌む、これ其のことのもとなり。時に伊奘諾尊、大きに驚きて曰はく、「吾、おもはず、不須也いなしこ汚穢きたなき国ににけり」とのたまひて、すなはすみやか廻帰かえりたまふ。時に、伊奘冉尊、恨みて曰はく、「何ぞちぎりしことを用ゐたまはずして、吾に恥辱はぢみせます」とのたまひて、乃ち泉津よもつしこたりあるに云はく、泉津よもつ日狭女ひさめといふ、をつかはして追ひて留めまつる。故、伊奘諾尊、剣を抜きてしりへできつつ逃ぐ。因りて黒鬘くろきみかづらを投げたまふ。此、即ち蒲陶えびかづら化成る。しこ、見て採りてむ。噉みをはりて則ちまた追ふ。伊奘諾尊、又、湯津ゆつ爪櫛つまぐしを投げたまふ。此、即ちたかむなに化成る。醜女、亦以て抜き噉む。噉み了りて則ち更追ふ。後に則ち伊奘冉尊、亦自らおひでます。是の時に、伊奘諾尊、已に泉津よもつ平坂ひらさかに到ります。一に云はく、伊奘諾尊、乃ちおほむかひて放尿ゆまりまる。此、即ち巨川おほかわと化成る。泉津日狭女、其のかはを渡らむとする間に、伊奘諾尊、已に泉津平坂にしましむといふ。かれ、便ち千人所引ちびき磐石いはを以て、其のさかふさひて、伊奘冉尊と相向きて立ち、つひ絶妻之誓ことどわたす。
 時に、伊奘冉尊の曰はく、「うるはしき夫君なせのみことし、如此かくのたまはば、われまさいましが治す国民ひとくさひとひ千頭ちかうべくびり殺さむ」とのたまふ。伊奘諾尊、乃ちこたへて曰はく、「愛しき吾がなにものみことし、如此言はば、吾は当に日に千五百頭ちかうべあまりいほかうべ産ましめむ」とのたまふ。因りて曰はく、「此よりな過ぎそ」とのたまひて、即ち其のみつゑを投げたまふ。是を岐神ふなとのかみまをす。又、其のみおびを投げたまふ。是をなが磐神はのかみと謂す。又、其のみそを投げたまふ。是を煩神わづらひのかみと謂す。又、其のはかまを投げたまふ。是を開囓神あきくひのかみと謂す。又、其のくつを投げたまふ。是を道敷神ちしきのかみと謂す。其の泉津よもつ平坂ひらさかにして、或いは所謂ふ、泉津平坂といふは、またこと処所ところ有らじ、ただまかるにのぞみていきゆるきは、是を謂ふか。所塞ふさが磐石いはといふは、是、泉門よみどふさがります大神おほみかみを謂ふ。亦の名は道坂大神ちがえしのおほかみといふ。(神代紀第五段一書第六)
 一書あるふみに曰はく、伊奘諾尊、其のいろもを見まさむとおもほして、乃ち殯斂もがりの処にいます。是の時に、伊奘冉尊、なほ生平いけりしときの如くにして、出で迎へて共に語る。已にして伊奘諾尊にかたりて曰はく、「吾が夫君なせみこと、請ふ、吾をな視ましそ」とのたまふ。のたまふことをはりて忽然たちまちに見えず。時にくらし。伊奘諾尊、乃ち一片之火ひとつびともしてみそなはす。時に伊奘冉尊、脹満太高たたへり。上にくさ雷公いかづち有り。伊奘諾尊、驚きてげ還りたまふ。是の時に、雷等いかづちどもちて追ひきたる。時に、道のほとりに大きなる桃の樹有り。故、伊奘諾尊、其の樹のもとに隠れて、因りて其の実を採りて、雷にげしかば、雷等、皆退走しりぞきぬ。此桃をて鬼をふせことのもとなり。時に伊奘諾尊、乃ち其のみつゑなげうてて曰はく、「此より以還このかた、雷じ」とのたまふ。是を岐神ふなとのかみまをす。此、本の来名戸くなと祖神さへのかみまをす。やくさの雷と所謂ふは、かしらに在るは大雷おほいかづちと曰ふ。胸に在るは火雷ほのいかづちと曰ふ。腹に在るは土雷つちのいかづちと曰ふ。そびらに在るは稚雷わかいかづちと曰ふ。かくれに在るは黒雷くろいかづちと曰ふ。手に在るは山雷やまつちと曰ふ。足の上に在るはつちと曰ふ。ほとの上に在るは裂雷さくいかづちと曰ふ。(神代紀第五段一書第九)
 一書に曰はく、伊奘諾尊、追ひて伊奘冉尊の所在す処に至りまして、便ち語りて曰はく、「いましを悲しとおもふがゆゑつ」とのたまふ。答へて曰はく、「うがら、吾をなましそ」とのたまふ。伊奘諾尊、従ひたまはずして猶みそなはす。故、伊奘冉尊、恥ぢ恨みて曰はく、「汝已に我があるかたちを見つ。我、また汝が情を見む」とのたまふ。時に、伊奘諾尊、亦ぢたまふ。因りて、出で返りなむとす。時に、ただもだして帰りたまはずして、ちかひて曰はく、「うがらはなれなむ」とのたまふ。又曰はく、「うがらけじ」とのたまふ。乃ちつはく神をなづけて速玉はやたま之男のをと曰す。次にはらふ神を泉津よもつ事解ことさか之男のをと号く。すべふたはしらの神ます。其のいろも泉平坂よもつひらさかあひあらそふにいたりて、伊奘諸尊の曰はく、「始め族の為にかなしび、思哀しのびけることは、是、吾がつたなきなりけり」とのたまふ。時に泉守道者よもつちもりびとまをしてまをさく、「のたまふこと有り。のたまはく、『吾、汝と已に国を生みてき。奈何いかにぞ更にかむことを求めむ。吾は此の国に留りて、共にぬべからず』とのたまふ」とまをす。是の時に、菊理媛神くくりひめのかみ、亦、まをす事有り。伊奘諾尊、きこしめしてめたまふ。乃ち散去あらけぬ。(神代紀第五段一書第十)

 黄泉国にイザナミが現れた次第については次のように記されている。

 …… 次に火之夜芸ひのやぎ速男神はやをのかみを生む。亦の名は、火之ひのかが古神このかみと謂ひ、亦の名は火之迦ひのか具土神ぐつちのかみと謂ふ。此の子に因りて(注3)、みほとかえて病み臥在せり。……かれ、伊耶那美神は、みづから火の神を生みて(注3)、遂にかむす。……故爾かれしかくして伊耶那岐命のりたまはく、「愛しき我がなに妹の命や、子の一つ木にへむと謂ふや」とのりたまひて、すなは枕方まくらへ匍匐はらばひ、あとに匍匐ひて哭く時に、御涙みなみたに成れる神は、香山かぐやまうね木本このもといます、名は泣沢女神なきさはめのかみ。故、其の神避れる伊耶那美神は、出雲国いづものくに伯伎国ははきのくにとのさかひ比婆之ひばのやまはぶるぞ。(記上)
 時に伊奘冉尊、軻遇突智かぐつちが為にかれてかむさります。其の終りまさむとするあひだに、しながら土神つちのかみ埴山姫はにやまびめ水神みづのかみ罔象みつはのとを生む。即ち軻遇突智、埴山姫をきて、稚産わくむすを生む。此の神のかしらの上にかひこくはと生る。ほその中に五穀いつくさのたなつもの生る。(神代紀第五段一書第二)
 一書に曰はく、伊弉冉尊、むすを生む時に、子の為にかれて、かむ退りましぬ。亦は云はく、かむるといふ。其の神退りまさむとする時に、則ち水神罔象女、及び土神埴山姫を生み、又天吉葛あまのよさつらを生みたまふ。(神代紀第五段一書第三)
 一書に曰はく、伊弉冉尊、火神軻遇突智かぐつちを生まむとする時に、悶熱あつか懊悩なやむ。りてたぐりす。これ、神と化為る。名を金山彦かなやまびこと曰す。次に小便ゆまりまる。神と化為る。名を罔象女とまをす。次に大便くそまる。神と化為る。名を埴山媛はにやまびめと曰す。 (神代紀第五段一書第四)
 一書に曰はく、伊奘冉尊、火の神を生む時に、かれてかむ退去りましぬ。故、紀伊きのくにくま有馬村ありまのむらはぶりまつる。土俗くにひと、此の神のみたまを祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又、つづみふえ幡旗はたて、歌ひ舞ひて祭る。(神代紀第五段一書第五)

 黄泉国は死者の国と思われるように描かれている。イザナミが黄泉国へ行ってしまったのでイザナキが後を追って行き、ひと悶着あった後、イザナキは逃げ帰って来ている。イザナミはどうして「黄泉」へ行ったのか。両者による国生み、神生みの最後で、火の神カグツチ(火之迦ひのか具土神ぐつちのかみ軻遇突智かぐつち)を生み、イザナミは陰部から焼け死んでしまったからである。紀一書第九に「殯斂之処」と明記され、記ではイザナキによる「匍-匐御枕方、匍-匐御足方而哭」というもがりの儀式を思わせる記述も行われている。そののち、イザナミは、記では出雲国と伯伎国ははきのくにの境の比婆之ひばのやまに葬られている。葬られた後の記述だから黄泉国は死者の国そのもののことであると解釈されている。
 考古学の一派からは、記紀の神話にあるイザナキがイザナミを黄泉国に訪ねる話は、横穴式石室をもった古墳の真っ暗な内部で亡骸が腐敗していくあり様を目にしたことから、その時代の葬送儀礼を反映して神話化されたものであるとする説が唱えられている(注4)。大系本日本書紀は、「洞窟を含めて地下から人類が出現し、死すればそこに戻って行くという観念は未開農耕民の間に世界的に分布している。」(342頁)といい、洞窟説を支持している。他にも諸説あるものの、冥界のような他界の観念を表そうとしたものと考えるのが一般的である(注5)
 しかし、死者がゆく世界や古墳の内部のことを黄泉国であるとして話が作られ、その話が長く保たれ続けたといった状況は起こり得ない。第一に、創話の目的が理解されない。人が亡くなったら黄泉国へ行くとされていたとするのであれば、イザナミに限らず命あるものは皆行く。国生みをした登場人物を取り立てたのには何らかの必然性が認められなければならないだろう。ともに国生みしたイザナキのほうは帰って来ており、後に死んだ時にも黄泉国には行っていない。死んで黄泉国へ行った人は他に語られておらず、イザナミ一人の死後の国なのである。
 第二に、古墳を造営していた時代の背景をもとに黄泉国神話が成り立っていると考えられているが、それを話し伝えていくことに積極的な意義を見出すことができない。話の内容を細部にわたり見ていくと、現代人には荒唐無稽に聞こえる。だから時代背景を強調して考えようと主張されるが、古墳時代に生きた人はその生涯において折に触れて古墳へ埋葬する葬式を経験する。飛鳥時代においても、古墳は崩れることはなく残っていて、見に行けば見ることができるものである。実物があるなかでこの黄泉国の話が実体験につながるものとするなら、真面目に聞いていられるものではない。神話だからかまわないとして思考を停止すれば、当時の人々の心に寄り添う機会は失われる。逆に宗教的な世界観として確立していたものなら、大化の薄葬令をもって立ち消えになるはずはないだろうし、不可思議な話だけ伝わるというのも不可思議なことである。
 問題の根底には古事記の話を神話的要素として、古の人の世界観の表明と捉えて疑わない点がある。もとより筆者は、黄泉国の話がいわゆる神話であるとは考えていない。複雑で不可思議な話を仕立てて伝えていくだけのモチベーションがあり、無文字時代に世代を超えて伝達していく持続性があった末に記紀に記されて残っている。上代の人々が重要なことだから譬え話にして伝えていこうと思って作り、伝えるたびに伝言ゲームの当事者たちは納得していたということである。その理由、理屈が理解されたとき、はじめて黄泉国の話は「読めた」と言えるのだろう。聞き耳を立てて聞いていた人たちは言葉に敏感で、「黄泉比良坂」とあるだけでも坂がヒラ(平)なはずはないと突っ込むべき自己撞着に気づく。その時、ああ、おもしろい話の一席であったと感心して自らが今度は伝える側に立ったということである。言葉づかいから論理学的真実を見極めなければならないのである。

アハキハラ、天狗、タチバナ、カマド
 岩波古語辞典に、「よもつ【黄泉】《ヨモは、ヨミの古形。ツは連体助詞》」(1395頁)とある。ヨモをヨミの古形とする考えには、ヨミをヨモの音転とする考えがあるのかもしれないが、根拠は不明である。用字に使われている漢語「黄泉」は、①地下の泉のこと、②死者のゆくところ、の二義がある。「みみずは、上槁かみかうじやうくらひ、しも黄泉くわうせんを飲む。(夫蚓、上食槁壌、下飲黄泉。)」(孟子・滕文公章句下)、「公のたまものけ、之れを黄泉くわうせんに殺さば、死すとも且つ朽ちず。(応公之賜、殺之黄泉、死且不朽。)」(管子・小匡第二十)とある。ヤマトコトバにヨモツクニと言っていたものに、文献を目にして「黄泉」という字(熟語)を当てたと考えられる。また、「泉国」だけでもヨモツクニと訓んでいるので、地中の湧き水の意を加味して用字を整えたものだろう。後述する。
 当初、イザナミは、火の神であるカグツチ(迦具土神、軻遇突智)に焼かれて死に、黄泉国へ来たことになっている。国生みの話のなかで、イザナキとイザナミは火鑽杵と火鑽臼に見立てられている(注6)。「成り成りて成り余れる処」を「成り成りて成り合はぬ処」へ「刺し塞ぎ」右に左に廻らしている。火種を採っては国や神を生んでいったということである。カグツチによってイザナミが焼け死んだ話もモチーフは火で一貫している。黄泉国の話はその後日談として展開されている。黄泉国という言葉で表すところも火と関係する場所のはずである。
 イザナキは黄泉国から帰ってきて禊祓みそぎはらへ祓除みそぎはらへ)をしている。

 是を以て、伊耶那いざな伎大神きのおほかみりたまはく、「あれはいなしこめ、しこめききたなき国に到りて在りけり。かれ、吾は、御身みみみそぎむ」とのりたまひて、つくむかたちばな小門をど阿波岐あはきはらに到りして、みそはらへたまふ。(記上)
 伊弉諾尊、既に還りて、乃ち追ひて悔いてのたまはく、「吾さき不須也いなしこ汚穢きたなき処に到る。かれ、吾が身の濁穢けがらはしきものあらてむ」とのたまひて、則ちきてつくむか小戸をどたちばな檍原あはきはらに至りまして、みそはらへたまふ。遂に身の所汚きたなきもの盪滌すすぎたまはむとして、乃ち興言ことあげして曰はく、「上瀬かみつせは是はなははやし。下瀬しもつせは是太だぬるし」とのたまひて、便ち中瀬なかつせすすぎたまふ。(神代紀第五段一書第六)

 原っぱのようなところへ出て禊祓をするとはどういうことか。アハキハラは、紀に「檍原あはきはら」とある。檍とは、和名抄に、「檍 説文に云はく、檍〈音は億、日本紀私記に阿波岐あはきと云ふ。今案ふるに又、櫓木の一名なり、爾雅に見ゆ。〉は梓の属なりといふ。」とあり、アズサないしカシの木の一種ではないかとされている。もしそうなら、「梓原」や「橿原」と書けばいいがそうしていない。アハキハラと言いたいからそう書いている。
 アハキに似た言葉(音)にツハキがある。白川1995.に、「つはく〔唾〕 四段。「つ」は唾液。唾を飛ばす。「く」の意。「つはき」はその名詞形。」(517~518頁)とある。同様に考え、アハキのアは、熱(暑)い、暖(温)かいなど、熱気を表すアを口から噴き出している様子を示そうとしていると推定される(注7)。したがって、アハキは、後に転訛してアキハというのと同じだろう。秋葉原は、火伏せの神として崇められる秋葉神社の秋葉の原っぱ、すなわち、火除け地である。
 秋葉信仰は、特に関東や中部地方によく見られ、静岡県西部の秋葉山を火伏せの神としてまつる信仰である。修験道の山として知られる秋葉山は、もとは神仏習合であったが、現在では秋葉神社と秋葉寺しようようじがあり、ともに十二月十五、十六日に火祭りが行われる。秋葉神社の祭神は火之迦具土神で、弓・剣・火の舞が奉納される。秋葉寺では護摩がたかれて火渡りが行われる。また、秋葉山やその奥院とされる竜頭山が修験道場の中心で、修験者の三尺坊権現が一千日参籠して火生三昧の法を修して、神通不思議の験力を得て飛行昇天したとされる。合祀されて秋葉三尺坊といわれ、その存在は天狗と見なされ、秋葉信仰の火伏せの神としての性格と結びついている。山の頂で清水が湧いていることも、霊験のあらたかさを表すものと考えられたようである。
 天狗は、仏教で夜叉、羅刹といった悪魔とされていたものが、中国では南北朝期の神仙世界の考えと融合して半鳥半人化して受容されたという。山海経・西山経に、「[陰山に]けだもの有り、其のさまは狸のごとくにして白首、名けて天狗てんこうと曰ふ。其の音は榴榴のごとし。以て凶をふせぐべし。(有獣焉、其状如狸而白首、名曰二天狗。其音如榴榴、可以禦一レ凶。)」とある。さらに本邦に入って、修験道と結びついてイメージされ、鬼子母神や毘沙門天といった産育神の周囲に配されることの多い鬼神とも関係するという。山の神、ないし、山の妖怪の一種の性格も付与されており、大きく分けて二つのタイプがある。一つは山伏姿をベースにしたもので、高下駄を履き、顔が赤くて鼻が高く、手足の爪が長く、金剛杖や太刀を持ち、羽団扇を使って自由自在に空中を飛翔する姿で描かれる。もう一つは、鵄に近い鳥の姿で背に翼を備え、嘴を持っているもので、烏天狗と呼ばれることもあるが、両者折衷の姿もしばしば見られる。秋葉三尺坊権現は白狐に跨った烏天狗の姿である。烏相有翼の姿はもともとはヒンズーの神、龍の天敵とされたガルーダに発し、仏教に入って雷神の性格を持った迦楼羅かるら天となり、修験者がそれを奉じたために天狗と称されたのではないかという(注8)
 黄泉国の話はインドや中国、また、秋葉山のような遠いところの話をしているのではないだろう。人々の関心の薄いことは伝わらない。身近なことで日々かかわりがあるなか目新しいことにつき、伝承されるべき事柄として創話されている。当初は違和感を覚えていたからおもしろい譬え話を作り、流布に堪え、馴染めるようにしている。秋葉山と同じようなことがそれぞれの家のなかで行われていることを指して言っている。それは何か。竈に火を熾して煮炊きをしたその現場である。火の気のあるところの前は物を置かずに延焼しないように注意していた。縄文〜弥生時代の火処、コンロは炉である。竪穴住居内の床面中央をくぼめ、四方すべて火処の前面となっている(注9)。古墳時代になると、朝鮮半島南部から新しいコンロ、すなわち、壁際に造り付けた造付竈がもたらされた。従来の炉は一部地域を除いてほぼ一掃されてしまう(注10)。竈の場合、焚口のほうだけ火が見えるから、その方だけ気をつければいい。その土間の空きスペースを火除け地に見立てて秋葉原ならぬアハキハラ(「阿波岐原」・「檍原」)と記している。狩野2004.は、「[民俗に]土間を掘りさげたカマドというのは決してめずらしいことではなく、古いカマドほどこの形式のものが多い。わざわざ地面を掘りくぼめるのは、竪穴住居の土間につくられた炉との関連が考えられるし、カマドは炉から分化してつくられたという遠い昔の名残りが感じられる。」(125頁)とする。延焼防止のための火除け地を、アハキハラとして意識していたのである。

左:古墳時代のカマドの模式図(横浜市歴史博物館展示パネル)、右:アハキハラ図解(川崎市立日本民家園復元展示)(注11)
 アハキに似た音の言葉に「あはく(発)」がある。古く清音であったとされる。下二段活用の自動詞のときは剥げ落ちる、剥落する意、四段活用の他動詞のときは、土中に埋もれて隠されている物を取り出す意である。

 塗れる金、榹〈阿波計あはけ〉落つ。(霊異記・中・第十七)
 造平城京ざうへいぜいけいし彼の墳隴つかあはき掘られば、随即埋すなはちうづをさめて、あらはてしむことなかれ。(続紀・元明天皇・和銅二年十月)

 竈の前の地面を掘り下げていることは暴かれているということになる。暴かれて掘り下げられていれば窪んでいるから原ではない。アハキハラという言葉には自己撞着がある。梓原や橿原と称さなかった理由の一端が窺える。ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂、泉津平坂)という言葉がサカ(坂)なのにヒラ(平)であるとする自己撞着と呼応している。今日の秋葉原という地名は秋葉神社に由来しつつも、秋葉神社が山の頂にあることの矛盾を忘却することで成り立っている。はらであって原でない、または、原でなくて原であるのがアハキハラということである。その語義矛盾の関係が解消される時がある。竈の中にたまった灰をかき出すと、手前の掘り下げているところまで平らな原になる。
 アハキハラは、「つくむかたちばな小門をど」(記)、「つくむか小戸をどたちばな」(神代紀第五段一書第六)にある。暗いところから明るいところへ出ている。竈の奥から竈の焚口のところへ出て来た。家屋敷には大門が付く。家のなかにありながら竈は背後で煙道によって外に通じている。その門だから「小門をど」である。筑紫の日向とのつながりは、焼畑の延焼防止を願う防火の神札として秋葉札が使われていたことによるものか。野本1998.によれば、三河、信濃、遠江国境山地の焼畑農民の民俗文化は、同じく焼畑の盛んな日向山地において、東臼杵郡北郷村宇うなの全長村地蔵堂の地蔵尊のお札を使うのと似通っているという。神代紀第五段一書第二に、「軻遇突智娶埴山姫、生稚産霊。」とあり、火と土の結合が語られており、焼畑農耕の起源を示すものと説かれている(注12)。「焼畑農民は延焼による火の危険を熟知し、延焼防止に殊のほか心をくだいてきた。」(23~24頁)。すなわち、家のなかでコンロに竈が使われるようになった時、その火廼要慎の習俗は焼畑農耕民のそれと同等なものと認識されたとわかるのである。
 アハキハラは原っぱのような平坦地として見立てられているが、禊の実際は水のあるところ、河原や海辺で行われる。身についた罪や穢れを水によって清める儀式を伴うからである。すなわち、アハキハラとは海原にも変化する、ないし、見立てとして語られているところである(注13)
 地名に「橘」と断られている。橘は、コウジミカンなど柑橘類の総称ともニホンタチバナ(ヤマトタチバナ)の別称ともされる。ニホンタチバナは常緑の小高木で、高さが三~五メートル、枝は緑色、葉は光沢があって互生する。五~六月に白い五弁の花をつけ、芳香を放つ。冬に黄色い果実を結び、果皮は薄く剥がれやすい。酸味が強いため生食には向かない。
 橘は万葉集にも記紀にもとり上げられている。常世国とこよのくにの話で出ていて黄泉国の話と関係がありそうである。垂仁天皇代の多遅摩毛理たぢまもり(田道間守)の逸話にある「登岐士玖能迦玖能ときじくのかくのこの(非時香菓)」である。橘か、古名をアヘタチバナとするだいだいかを指すとされる。垂仁天皇は、タヂマモリという人を常世国とこよのくにへ遣わし、トキジクノカクノコノミを求めさせた。彼はその木の実を採ってきて、葉がついたままの枝と葉を取り去った実だけの枝をそれぞれ八枝ずつ持ち帰った。ところが、帰国してみるとすでに天皇は崩御した後だったので、半分を皇太后に献上し、残りを天皇の御陵の戸に献り置き、泣き叫んで殉死している。この話は記紀に発して万葉集に及んでおり、伝承を詠みこんだ歌が載る。

 たちばなは 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見がし(万4112)
 橘は 実さへ花さへ その葉さへ に霜降れど いやとこの樹(万1009)
 常世物 この橘の いや照りに わご大君は 今も見るごと(万4063)
 大君は 常磐ときはさむ 橘の 殿の橘 ひた照りにして(万4064)

 常世国は常住不変の国のことである。「常世郷とこよのくに」(神代紀第八段一書第五)ともある。他界思想に通じ、中国の神仙思想と結びついて不死の国のことと考えられていた。浦島子伝説としては「蓬莱山とこよのくに」(雄略紀二十二年七月)とあり、海の向こうのことと想定されている。晋の郭璞の注した山海経・海内北経に、「蓬莱山は海中に在り。(蓬莱山在海中。)」とあるのによるとされる。体系的ではないにせよ道教思想の流入を物語っている。
 橘と黄泉国のつながりの第二はその芳香である。強い香りがすることで他界思想と結びついているところは仏堂である。斎宮忌詞では仏堂のことを「香燃こりたき」(延喜式・斎宮寮式)と呼ぶ。お香を年中焚いているからである。こりのコの甲乙は不明である。

 我大臣がのおほおみ、手にかうりて、こりきてちかひおこす。(皇極紀元年七月)

 イザナキが橘という、香りの良いはずの地名のところへ帰ってきて禊をしたというのも、垢離こり(コの甲乙は上代の用例が見られず不明)(注14)、すなわち、水垢離などという垢離のことを連想して作られた話のように思われる。
 タチバナという名の由来、いわゆる語源は一概に定めがたいが、その音から得られる印象としては、花を立てること、すなわち、仏前に花を供えることがイメージされる。後代には立花たてばなと呼んでいる。寺の大門のところではなく、仏像が安置されている仏龕の観音開きの扉付近に花瓶を据えて供えられる。「小門」と表してふさわしい。堂の中の厨子と竪穴住居の中の竈とはパラレルな関係にある(注15)。花を供える際、マンスリーに堪える緑の葉を添え、神前の榊に対して仏にしきみ(櫁)(キ・ミは甲類)を供えている。しきみという国字も作られ、その生枝をはなとも称する。モクレン科の常緑灌木で、春、葉のつけ根に黄白色の花を着ける。全体に香気があり、葉と樹皮を乾かして粉にして抹香を作る。香燃にふさわしい木といえる。「木樒は形白檀に似て微かに香気有り。(木樒者。形似白檀微有香気。)」(法華義疏・巻第四・方便品之二)とある。
 「小門の橘」に同格なものが樒であった。シキミには同音にしきみ(梱)(キ・ミは甲類)がある。門の内外を区切るために下に敷いてある横木のことで、現在では敷居(注16)という。敷居が高いという慣用表現や、敷居を踏んではならないとの躾もある。新撰字鏡に「〓(戸の下に閇)閾柣 三字志支弥しきみ」、「梱 苦本反、門具、止自支とじき」とあり、トシキミ、トシミ、トシキ、シキとも呼ばれた。竈でどこが当たるかといえば、焚口の境界に当たるところが閾になる。中で燃料を燃すようにしていて、点火した薪の火の様子も熱の保ち方の相違により異なっている。その境目が、イザナキがイザナミと絶縁するために「びきいは」を「へ」たところである。
 晋の葛洪・抱朴子(317年)には、竈神が晦日の夜、家族の功罪を天帝に報告するとある。そのため、今日でも中国本土や台湾の道教では、旧暦の十二月二十三日か二十四日に、竈神を祭って天に行ったら好いことだけを言い、悪いことは少なく報告してくださいと拝むという(注17)。六~八世紀当時の中国で、冥府についての考え方はすでに俗説や伝統的な信仰、道教、仏教などが綯い交ぜになっていた。ヤマトの人々はその混淆した形に触れながら自文化に馴染むようにしていったようである。八世紀前半の遺跡から、朱塗り土器の底部外面に「竈神」と墨書された坏が見つかっている。その発掘の状態から、竈を廃棄する際に竈神を封じ込めるために坏を伏せたのであろうと理解されている(注18)。火が二度と燃えあがらないようにとのおまじないで、火伏せを表すように坏を伏せるというロゴス的調和が見てとれ、竈と冥府との間に関連性があると思われていたようである。
 竈という語は、和名抄に、「竈〈窓附〉 四声字苑に云はく、竈〈則到反、躁と同じ、加万かま〉は炊爨の処なりといふ。文字集略に云はく、窓〈七紅反、久度くど〉は竈の後ろの穿あななりといふ。」とあり、万葉集には、山上憶良の貧窮問答歌に「可麻度かまど」(万892)とあって、上代にはカマ、カマドが混用されていたのではないかという(注19)。竈の意味にはヘツヒ、クドという言葉もある。クドのことは、和名抄の記述から、竈の煙突が外へ出ていることを指していたかと思われる。釜は、和名抄に、「釜 古史考に云はく、釜〈扶雨反、上声の重、輔と同じ、賀奈倍かなへ〉は黄帝、造るなりといふ。」とある。容器一般はヘと呼び、(ヘは乙類)、(ヘは乙類)の意を表した。イザナミが還れない理由として、すでに「黄泉よもつぐひしつ」からだと答えている。ヘ(乙類)はなべのヘで、ナ(食物)を入れるへ(瓮)のこと、それが戸籍を表すへ(戸)へと広がっている。「ヘツイは日本に古くからあるカマドのことをいったもの」(狩野2004.125頁)として列島において独自に炉から発達したいわゆる類カマドのことを表すとする説がある(注20)。対して、古墳時代に朝鮮半島からの渡来人が伝えた形態をカマド(注21)と言っているのは、新しい技術に新しい言葉を当てたいわゆる和訓の一種とするのが自然である。朝鮮語の kama を外来語として入れる際、ぐつぐつと音を立てて煮えるものだからかまびすしいものとして正当化され、釜のある処だからカマドと呼んで釜と竈とを区別しようと考えたのではないかと推測されている。
 竈は、延焼防止に心を砕いた点で秋葉信仰に譬えられていた。信仰の対象とされる秋葉三尺坊は天狗と見なされている。天狗は火伏せの神である。竈の焚口から火があふれ出てこないように願うなら、火除け地の秋葉原の「小門」の部分に、橘ならぬ立鼻の天狗が仁王のごとく居座って見張っていてくれるとありがたいと思ったことだろう(注22)。実物の竈と空想している天狗とが、古墳時代に軌を一にして到来したとする仮説に基づいている。静岡県の秋葉山の頂に泉があるように、古事記で「撃」字で表されている桃の実の炙りものによる果汁の溢れ出が竈の内部にあると想像すれば、「黄泉」と記したことは一気に腑に落ちるだろう。
 今日いう天狗のことは、上代にマと呼んだのではないか。江戸時代に魔は多く天狗を指して言う。日葡辞書に、「MA. マ(魔) Tengu.(天狗)悪魔.」(374頁)とある。魔は、梵語の māra の音訳、魔羅の略という。時代は遡り、万葉仮名に「鬼」をマと訓ませる歌(万3250)があり、魔(鬼)の語は通用していたようである。勝鬘経義疏には、悪神の意味で、「夫れ魔に四種有り。一に天魔、二に煩悩魔、三に陰魔、四に死魔。(夫魔有四種。一天魔、二煩悩魔、三陰魔、四死魔。)」、法華経義疏には、「少王は四魔に譬ゆ。(少王譬四魔)」とある。和名抄には、「魔鬼 内典に邪魔外道と云ふ。〈魔の音は磨、此間こここゑ〉」、名義抄に、「魔 音摩、俗云マ、オニ、ココメ、タマシヒ、禾マ」とある(注23)。平城宮東院庭園から出土の鬼面文の鬼瓦は、周りに波(水、雲、火の判別はつかない)の文様があり、顔つきとしては鼻が大きいのが特徴的である。
 竈の小さな門のところ、かどがいるからカマドと洒落ている。竈の焚口を見てみると穴のなかは火が燃え盛っている。炎が赤く湧き上がっていれば、「黄泉」と文字表記されているのは当たっている。古代、今日の紅葉の色を表すのに「黄葉」と書くことが多かった。地下の泉の意を含めて借用した用字として「黄泉」はあるものと考える(注24)
 「黄泉くわうせんに及ばざれば、相見ること無からん(不及黄泉、無相見也)」(春秋左氏伝・隠公元年)は成句として用いられる。地獄に行かなければ面会はしない、つまり、生前は決して会わないという誓いの言葉である。日本の仏教では、亡くなった人はお盆に地獄の釜の蓋が開いて還ってくると信じられている。「黄泉」という字面は、冥界を示しつつ、釜を載せる支脚石を桃の実に見立てて洪水が起こるとおもしろがっているから竈の譬えにふさわしい。地獄行きが決まるのは、亡くなった時の裁判である。最後は閻魔大王が裁く。竈の形状としては、奥に閻羅王がいて焚き口のところへ出てくるのは使いの鬼(魔)ということになる。霊異記・中巻には、「えんわうの使の鬼、召さるる人のまひなひを得てゆるししえに」(第二十四)、「閻羅王の使の鬼、召さるる人のあへを受けて、恩を報いし縁」(第二十五)という説話が載る。命を召し上げようとする閻羅庁の使いの鬼に対し、食べ物を施すことで許しを請おうとしている。本居宣長・古事記伝に、「世に十王経と云ものに、閻魔王国、自人間ルコト五百臾善那、名無仏世界、亦名預弥ヨミ云々と云る、此経はもとより偽経と云中にも、此邦にて作れるものなり、預弥ヨミ国と云も、神典に依て作れる名なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920805/1/139、漢字の旧字体は改めた)とある。宣長の言うとおり神典から仏典へ応用されたものではあるが、十王経がヨミノクニを閻魔王国の別名にしていることは興味深い。十王経に従う信仰は平安後期からのものとされているが、宣長ははからずも上代にその淵源があったことに触れている(注25)
 カマドには、作り付けの竈のほかに移動式の竈がある。正倉院文書に「辛竈」、「韓竈」と見える。渡来人の奥津城とされる横穴式石室の入口付近には、ミニチュア竈のセット、すなわち、竈、羽釜、甑が副葬されている。また、延喜式には、鎮魂祭などの宮廷祭式や各地の神社祭において韓竈は神饌の炊餐、神酒醸造のための蒸米作りに用いられている。冠婚葬祭や特別な儀式の供物を作るためだったから、韓竈は祭具として神聖視されていたともいわれている。形状としては、焚口の上部に帽子の鍔のような庇がつけられていて特徴的である(注26)。朝鮮半島の竈形土器にも日本の古墳時代のものとよく似た鍔状の横帯があり、渡来人が持ち込んだ文化であることが証拠立てられている。性能面だけではないデザインへのこだわりが感じ取れる。朝鮮半島の人たちが何を思ってそうしていたかはむろん不明だが、それを見たヤマトの人たちは、魔、すなわち、天狗の翼と見て取ったのではないか。焚口は天狗の赤い顔に当たり、ときどき伸びてきてしまう火炎は天狗の鼻に当たるものと見てとれる。
 本ストーリーの端緒として、火の神の迦具土神を生んだがためにイザナミが葬られる場面が描かれている。イザナミは、記では「出雲国いづものくに伯伎国ははきのくにさかひ比婆ひばの山」に、紀一書第五の宗教祭祀を思わせる記事では「紀伊きのくにくま有馬村ありまのむら」に葬ったとある。埋葬する意の「はぶる」は、水などが外にあふれ出たり雲や風波がわき起こることをいう「はふる」、ばらばらに解きほぐし切り離すことをいう「はふ(放、屠)る」と同根の語である。イヅモは、それを導く枕詞に「くもつ」とあるように、雲(煙)がもくもくと立ち込めるところとイメージされていた。ハハキは、箒のように細い柴がイメージされる。無文字文化において言葉は音声だけで成り立っていたからそう感じられることが理解の中心である。その両国の間にヒバ(ヒは甲類)の山があるとすると、アスナロともいうヒバ(ヒの甲乙不明)の木が旺盛な山の情景が思い浮かぶ。ヒバの葉は翼状をしていて、団扇にして煽ぐことが連想され、天狗の翻りをも思わせる。また、キノクニは木の国の意と見られている。クマノは道が隈状になるように入り組んであって、修験道のメッカと目されるにふさわしいところ、アリマノムラはその中心地、魔が群れをなしているところを指しているのだろう。いずれも竈の火の焚きつけの場面が表現されている。イザナミこと火鑽臼が火のついた燠になってしまい、仕方なく火種としてくべている模様である。イザナミが死んでイザナキが嘆いた言葉に、「うつくしきがなにみことや、子の一つ木にはらむと謂ふや」とある。親は火鑽の器具であり、子は薪の木であるという整理である。竈の神の名には「おく津日つひ子神このかみ」、「おく比売命ひめのみこと」、「おほ戸比へひ売神めのかみ」が与えられている。「奥」は「燠」のこと、「」は「」と同根であることを示して正しいのだろう(注27)
(つづく)