万葉集には絶唱と称されるほどの名歌がいくつかある。近代歌壇が写実主義を重んじ、万葉集を理想として崇拝するなかで評価され、現代の研究者の修正を経ながらもなお人口に膾炙している。ここにあげる大伴家持の三首も歌人たちに好まれた。

  二十三日、興に依りて作る歌二首〔廿三日依興作歌二首〕
 春の野に 霞たなびき うらがなし この夕影に うぐひす鳴くも〔春野尓霞多奈毗伎宇良悲許能暮影尓鴬奈久母〕(万4290)
 我がやどの いささ群竹むらたけ 吹く風の 音のかそけき このゆふべかも〔和我屋度能伊佐左村竹布久風能於等能可蘇氣伎許能由布敝可母〕(万4291)
  二十五日に作る歌一首〔廿五日作歌一首〕
 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば〔宇良宇良尓照流春日尓比婆理安我里情悲毛比登里志於母倍婆〕(万4292)
  春日は遅遅うらうらにして、鶬鶊ひばりまさに啼く。悽惆のこころは歌に非ずははらひ難し。仍りてこの歌を作り、ちてむすぼれしこころぶ。ただ此の巻の中に作者の名字はず、ただ年月・所処・縁起のみをしるせるは、皆大伴宿禰家持の裁作つくれる歌詞なり。〔春日遅々鶬鶊正啼悽惆之意非歌難撥耳仍作此歌式展締緒但此巻中不稱作者名字徒録年月所處縁起者皆大伴宿祢家持裁作歌詞也〕

 今日的な理解を多田2009.(注1)の現代語訳を見てみる。

 春の野に霞がたなびいて、どこかもの悲しい。この夕べの光の中に鶯が鳴くことよ。(万4290)
 わが家の庭のわずかな竹群たけむらを、吹き抜ける風の音のかすかなこの夕べであることよ。(万4291)
 うららかに照っている春の日射しの中に雲雀が真一文字に翔け上がり、心は悲しいことよ。ひとりものを思うと。(万4292)(222~224頁)

 端的に言えば、自然景を歌いながら自らの悲傷感、孤独感を重ね詠んでいるものと読まれている。その間に隔たりがあるため、私的な心情をうたったとする但し書きが「依興作歌」という題詞、また、詩経の詩句を使った左注に現れているとも言われている(注2)
 モノローグの歌と見るこのような通説は肯定できるだろうか。
 現代の我々がではなく、上代の奈良時代の人たちがである。
 万葉集も終わりの頃になると家持の歌ばかりたくさん載っている。見方によっては家持個人のメモ帳のような様相を呈していて、「歌日誌」として捉えられることも多い。誰かに見られることはないものとして独り妄想めいたことを歌に作っていたのだと言ってしまえばそれまでのことではある。だが、そうなると、それはもはや人々に共有されることを前提とした「歌」という概念から外れる。中古の歌の萌芽と見るなら、これらの歌は文字で書かれることを前提とした「和歌」であり、使われている文字も万葉仮名の形をしていながらすでに平仮名と同等の役割を果たしていることになる。
 筆者は、そのような歴史的転換を、万葉集の巻の続くなかで捉えることはできない。「歌」の姿をしているのだから従来どおりの「歌」であったと考える。すなわち、当時の人々が耳にしたならば、ほとんどの人、高位の人ばかりでなくその召使、一般民まで含めた、要するにヤマトコトバを使っている人たちが確かに理解できる意を伝えるものであったと考える。

 春の野に 霞たなびき うらがなし この夕影に うぐひす鳴くも(万4290)

 万4290番歌では次のようなことを言っている。春の野に霞がたなびいていると、霞んでしまって見たくても見えなくなる。見ようとしても霞んで見えないのは、目が霞目になっているのと同じことである。だから霞のことを話題にしている。同じような状況としては、夕方、暮れなずんでしまうと、鶯が鳴いても姿は見えないことがある。この日は二十三日、太陰暦だから下弦とわかり、夜中にならないと月は出ないから薄暗がりである。「この・・夕影」と限定しているのは、月が煌々と照ることはないことを印象づけるためだろう。
 題詞によれば、歌われたのは天平勝宝五年の旧暦二月二十三日である。現在の暦では四月一日に当たる。ハル(春)といっても春の初めではなく十分に春になってしまっている時期である。ハル(という動詞があるならばそ)の已然形、ハレであるはずである。つまり、天気はハレ(晴)であるべきなのに霞がかかっている。それを大げさに「うら悲し」、痛切なことだと表現している(注3)。ジョークを言っているだけなのだから素直に楽しまなければならない。
 ハル(春)も押し詰まってハレでなければならないのだから、そこに登場する鳥はハレ(腫)に似通っているのが望ましい。もってこいの名をした鳥がいる。ウグイスである。膿んで膨らみ腫れものになることを古語でウグヒ(墳)という。俗語をよく伝える日葡辞書に次のようにある。

 Vgu i,gǔ, ǔta. ウグイ,ゥ,ゥタ(うぐい,ふ,うた) ……灸の跡がただれ広がる,または,うんで膿汁が出る.(日葡辞書690頁)

 ウグヒスのスは語尾のスで、カラス、カケス、ホトトギスに同じである。ハレているはずのウグイスが鳴いているのに、夕べの光は乏しくてその姿ははっきりしない。霞目と鳥目はどちらもよく見えない。
 大伴家持は駄洒落を思いついて、より正確に言えばヤマトコトバの連環の妙に気づかされて、「依興」して歌を作っている。言葉のあやを織り成すことを「興」と言っている(注4)
 近代の和歌の世界では、この歌について「気分」(注5)といった語を使いながら勝手に幻想し、称揚した。現代の研究者は訂正しながらも、古代の歌のなかで見れば新しい表現であると評している。洒落、語呂合わせ、地口の多様な詠み合わせが万葉集の言葉づかいであり、その表れであることが読めていない(注6)

 我がやどの いささ群竹むらたけ 吹く風の 音のかそけき このゆふべかも(万4291)

 万4291番歌では次のようなことを言っている。我が家の庭にはいささかの群竹がある、そこを吹き抜ける風の音のか細いことが目立つのは、今宵ならではのことなのかもしれないなあ。前の歌に続き、同じ二十三日の作である。ここでも夕べのことが歌に歌われており、「この・・夕かも」と断っている。
 二十三日の月はなかなか出てこない。十五日は満月で十六日は十六夜、それ以降、立待月、居待月、寝待月、更待月というように、なかなか現れない月を待っている。二十三日であれば、いざいざと待っていてもなかなか出ずに待ちくたびれている。自邸に植えたわずかばかりの竹の植え込みがあってその景色を窺おうにも暗くて話にならない。音だけで気配を知ろうにも風が弱くて音は消え入りそうなほど小さい。なぜなのか。それは、いざいざと月を待っていても月の出る気配はいっこうになく、いざいざと声を出す気も薄れてか細くなって濁音も清音化していくのがふさわしい、それが二十三日である。「いささ群竹」と称するわずかな竹の群生から生ずる風の音が小さいのは当然のことなのであった。いざいざ→いさいさ→いささ、の洒落を言っている。
 枕詞や玉にする素材も含めた竹関連の歌は二十一首二十二例にのぼるが、植生の竹の歌は当該歌以外には二首しかない。当時の人にとっては、竹の景をもって人の情と通じるとは認められていなかった。

 梅の花 散らまく惜しみ 我がそのの 竹の林に 鶯鳴くも(万824、阿氏奥島)
 みそのの 竹の林に 鶯は しば鳴きにしを 雪は降りつつ(万4286、大伴家持)

 万4286番歌で、竹は貴族の邸宅に植えられ、竹苑を形成している。万4291番歌で言っているのは、大伴家持の屋敷にはそれほど大層なものはなく、ちょっとした竹、おそらくは竹は竹でも竹垣が設けられていただけということのようである。歌は「我がやどの」で始まっている。「やど」という言葉には前庭の意だけでなく、家の戸、戸口の意味がある。「屋外やど」から生まれた系列と「屋戸やど」から生まれた系列の語が合体した言葉であると考えられている。ここでは門前にあって目隠しにするもの、あるいは竹製の戸口や境界が竹の生垣などを見ながら戯れに歌っている。一貫してとぼけている。聞いていた召使たちは喜んだ。おもしろいことを仰いますね、ご主人様。

いささ群竹(?)(竹の生垣、一遍聖絵(写)、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591580をトリミング)
 今日の我々の感覚からすればただの戯れ言のように聞こえるが、大伴家持にとって見れば興味を引く内容であったということになる。合理性のもとに論理を展開していく言葉づかいとは異なって、一語一語についてその語に何か隠されている意味はないかと探りに行っている。言葉が音でしかなかった時代の感覚を反映していて、ヤマトコトバの特性を示した使い方である。
 ただそれだけのことを歌にしている。近現代の人が汲み取ろうとした心象表現とは縁もゆかりもない。通説のように、家持が中国詩文(注7)を学び、その思潮に基づいた思いを述べようと吹聴したものでもない。そのようなことをしても聞く相手が戸惑うばかりになる。家事労働に勤しむべき召使が、給仕の都合で歌の席にたまたま同席してしまうからといって勉強を強いられることはなく、むろん、学校というものもない。コミュニケーションのために言葉を発するものなのに、コミュニケーションを蔑ろにして何をしているというのか。歌が歌われるのは一度きり、問い返しているようでは無粋である。今日の研究者でも意見が分かれるようなよくわからないことを、声を張り上げ、抑揚をつけ、歌い上げ始める人がもしいたとしたら、檻にでも入れて置く必要が出てくる。
 この部分、家持が個人的な日記を書き残したものであるとする立場もあるが、後の人が目にした時に伝わらない可能性のある内容を、限られた資源である貴重な紙を使って綴ることはあり得ない。伝わることを想定するとは、その時の人がふだん使いで使っている言葉を使ってわかりやすく伝えようと意図することに他ならない。コミュニケーションにおいて何が難しいと言って、伝わるかどうかほど難しいものはない(注8)。伝わってはじめて言葉であり、歌である。

 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば(万4292)

 この歌は二日後に歌われている。
 前の歌二首との共通項は同じ春の歌であること、そして、春の鳥として「鶯」に並び「ひばり」が歌われている点である。特に断らずに同じような題詞のもとに並べられているから一応、一連の作とみなすことはできるが、この歌では「廿五日作歌一首」と題されているだけで「依興」とは記されていない。家持が思いついた地口による戯作歌とは少し違うということだろう。左注についてどこまでを範囲とするか議論されるが、微妙に異なる題詞を越えて及ぶとは考えにくい(注9)
 「心悲し」と情意を述べている(注10)。ひばりが飛び上がったのは、春の日が照り「うらうらに」、うららかな陽気に誘われてのことである。どうしてひばりを採りあげているかといえば、ハルヒ(春日、ヒは甲類)の音の転倒になるからである(注11)。春の鳥として違和感はなく、野や田畑などから高く舞い上がる特徴があるから持ち出して齟齬はない。叙景歌としてひばりを見ているのではなく、地口としておもしろいから詠み込んで戯れている。
 この上の句と下の句は連用形中止法で結ばれていながら意味合いに断絶があり、どう続いているの疑問視されている(注12)。「うらうらに」とある「ひばり」の表現と「心悲し」とある「独り」の表現は対立している。「ひばり」に対してヒトリ(ヒは甲類)という新種の鳥を登場させているようである。万4920番歌で「うら悲し」と言っていたが、ここでは「心悲し」に変えている。変えなければならないからである。ひばりには翼があって、翼には裏があり、裏を見せながら羽ばたくことによって空を飛ぶことができている。翼が左右に二つあるから「うらうらに」とダブった言い方で正しいわけである。対するヒトリの場合は人のこと、翼を持たないから裏を見せることはなく、なんとなく悲しいことは「うら悲し」とは言えずに「心悲し」と当てている。倒置を戻せば「独りし思へば 心悲しも」、一人でもの思いに耽ればなんとなく悲しくなることよ、という意味である。上句とつながらないようでいながら、言葉(音)では続いて行っている。
 二十五日のこととして歌われている。二十五日はハツカアマリイツカのほか、十四日を二乗の数と見てフタナヌカと訓む例に照らせばイツイツカとも訓むことも可能である。何時になったらか、何時になったらか、と月待ちの極みのような思いを体現する表現である。
 ひばりの風情に対して自分は「独り」「思」いに耽っていて「心悲し」いと言っている。どうして悲しくなるのか。ヒトリという名の鳥を想定してみると、気分は鳥でも体は人間だから空中に飛び上がることはできない。能力的に劣るのである。
 「ひばり(ヒは甲類)」と「ひとり(ヒは甲類)」という言葉が洒落として成立したきっかけは、機織り用具のヒ(杼、梭 Shuttle、ヒは甲類)にまつわるものと思われる。仁徳記歌謡にすでに見える。

 雲雀ひばりは あめかける たかくや 速総別はやぶさわけ さざき取らさね(記68)

 女鳥王めとりのおほきみが夫の速総別王はやぶさわけのおほきみに対し、つきまとってくるさざき大雀命おほさざきのみこと=仁徳天皇)を捕まえてくれと言っている。この歌には前段があり、彼女が機織りをしているところへ天皇がやってきて愚鈍な問いかけをしたことに始まっている。

 どりの 我がおほきみの ろすはた たねろかも(記66)
 たかくや 速総別はやぶさわけの 襲衣おすひがね(記67)

 女鳥の君が織っておられる機物はどなたの着物の素材ですかねえ、と天皇が問いかけ、高く行く速総別のオーバーオールですよ、と女鳥王が答えたという問答歌である。天皇は女鳥王に気があり、媒酌人に弟の速総別王を立てて召し入れようとしていた。女鳥王は嫌だから速総別王と一緒になった。二か月経過して本人が機屋へ出向いて歌いかけている。あまりののろまさに女鳥王は呆れている。
 織っていたのは襲衣おすひと呼ばれる通常の着物の幅が二倍になっている上っ張りである。織るのに高機を使い、(杼)を使い、伸子針を使っている。伸子針で横幅が狭くならないように工夫していたのである。ヒ(梭、杼)+ハリ(針)だからヒバリである(注13)。当時の人々が皆知っていて常識化していた記歌謡の言葉づかいを典故として大伴家持は歌を作っている。

 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば(万4292)

 うららかに日が照って昼の時間が長くなり、ヒ(梭、杼)とハリ((伸子)針)を使った機織りは順調で、どんどん織り上がっていく。一方、ヒ(梭、杼)の調子が悪いので手に取って、中に入れた緯糸を巻いているクダ(管、筟)と呼ばれる部品を点検し、作業が遅々として進まず悲しくなってくる、と対比して歌にしている(注14)。ヒバリはシュルシュルとすばやく左へ右へ行き交っているが、ヒトリは音もなくクダクダと思い悩んでいることに相当する。アガル(上)に対してクダル(下)である。この対比は、前者が高機、後者が日本在来の織り方、倭文しとりを言っているようである。「倭文神、此には斯図梨俄未しとりがみと云ふ。」(神代紀第九段本文)、「倭文しとり」(垂仁紀三十九年十月)とある。倭文は高機のように独立した機構によらず、腰機のように織り手の体を織機の一部として使うやり方らしい。高機ならパタパタと音を立てながらすばやく織り上げることができるが、倭文では背を丸めて静かに織り進めて行くしかない。織り幅は自分の体(腰)の幅を超えることはなく、肩幅程度のなかで梭を左の手から右の手へと渡し取っている。この調子ではイツイツカ(二十五日)、何時になったら織り上がるのかわからない。ああ、うららかな春なのに気分は暗くなってくる。
 左注にある「春日遅々、鶬鶊正啼」は詩経の字面を引いたものである(注15)。小島1964.ほか、雰囲気が通じるので典拠としているまでであると捉えている。おおよそ正解である。詩経は女の悲しみを訴えるものでもある。しかし、そう解するだけではほとんど関係のないことを無理に左注に示していることになる(注16)
 万葉集の左注などの漢籍引用は、その多くは漢籍の内容を理解して思想を伝えるために行われたものではなく、ヤマトコトバの意味合いを確かに文字表記として定着させるための方便であった。この左注においても事情は同じである。「春日遅々」と引いて何がしたかったのかはその訓み方に自明である。「春日は遅遅うらうらにして」という例文を引きたいがための注である。歌で「うらうらに 照れる春日」と歌ったのだから、「うらうら」がどういう意味なのか、漢字で書くとどうなるかを如実に語ろうとしてあげている。名義抄に「遟々 ウラ\/」とある。この部分を「遅々ちちとして」と音読みしていてはせっかくのヒントがつかめない。何が遅いと言って二十五日の月の出は遅く、倭文織では仕事がなかなか捗らない。意味を二重に詠み込むことができている。
 「うらうら」は柔らかい日ざしがあふれて明るくのどかなさまをいうが、上代では他に確例は見られない。ここでは春の日が暮れるのが遅い様子を表している。日暮れが遅くなるとせわしく仕事をしなくても一日分の仕事量をこなせ、気持ちにゆとりができて喜ばしい。だから良いこと尽くめのようでありながら、作者には「悽惆之意」があるという。月の出が遅く、手に取る梭を見てはなかなか進まない機織り仕事を悩ましく思うのである。高機ではなく昔ながらの倭文織はとにかく遅い。効率が悪くて嫌になっている。
 大伴家持の「春愁三首」は地口を駆使した歌であった。上代の「歌」は人々にお披露目されることで成り立つ口頭言語芸術である。コミュニケーションのために言葉はあるという当然の前提に立ち返れば、その意義は計り知れないことに気づかされる。近現代どころか中古以降の人々が使うのとは違う形、発せられた音を即座に悟ることだけしか意思疎通のチャンスがない緊張感をもって言葉が使われていた。万葉集は、無文字文化という異文化に触れるための数少ないチャネルである。にもかかわらず、言葉のあり様の違いから真相には気づかず、見えているのに控え置かれたままになっているのである。

(注)
(注1)多田氏は補注として「表出の位相」について詳述している。解釈に定まらないところがあるため理屈を付け足すことになっている。
(注2)「春日遅遅、卉木萋萋、倉庚喈喈、采蘩祁祁、」(詩経・小雅・出車)や「春日載陽、有鳴倉庚、……、春日遅遅、采蘩祁祁、」(詩経・豳風・七月)があげられている。「春日遅遅、秋風颯颯、情往似贈、興来如答。」(文心雕龍・物色篇)ほかをあげる説もある。
(注3)「うら悲し」の語義については拙稿「上代語「うら悲し」について」参照。三句目の「うら悲し」が終止形か連体形か問われ、どちらも落ち着かず、挿入句であるとする見方がある(黒田2006.)。「霞たなびき」と連用形中止法をとっているのは二つの事態の並立を表し、「春の野に霞たなびき」と同時に「この夕影に鶯鳴くも」「うら悲し」いと言っている。
(注4)「興」については中国詩文における六義の一つの「興」によるものか、それ以外の感趣、興趣などの意によるものか、また、家持はその語をどのように扱っているかなど、見解はさまざまである。
(注5)窪田空穂氏の主張に述べられている。
(注6)この真実は言葉というものの本質に近づく好材料なのであるが、歌詠みにとっても研究者にとっても快くは思われないだろう。万葉集の歌に対して、一つの歌でも多様な読みが可能であるとする考え方とも相容れない。だが、もしそのようなことがあり得たら、何を言っても恣意的に、都合よく受け取ることが可能となり、言葉がコミュニケーションから締め出された存在ということになってしまうがどうなのだろう。
(注7)次の詩が、竹の葉擦れの音を詩的素材としてとりあげた詠物詩の例として引かれている。
  
 窓前一叢竹 青翠独言奇 南條交北葉 新筍雑故枝 月光疎已密 風来起復垂 青扈飛不礙 黄口得相窺 但恨従風籜 根株長別離(謝朓・詠竹詩(藝文類聚「竹」所収))

 この詩は「形似之言」の典型で「言外之言」のなかった例とされている。万葉歌の解釈では、この詩の「一叢竹」を翻訳して「いささ群竹」という言葉ができたのだという説も現れている。また、懐風藻からも竹には交友への志向が読み取れるとし、この歌でもそうなのだと唱えられている。竹林の七賢の交わりを理想とする風潮が奈良朝文人にはあったというのである。いずれも印象論で、万葉集には竹の葉擦れの類歌さえ見られない。
(注8)誰でもわかること、それが相手の心に最も響く言葉である。CMの言葉がわかりやすいのは、お客さんになる可能性のある聞き手をして、その商品やサービスを手に取るようにさせるためである。たとえわからない言葉が一語含まれたとしてもそれはおまじないの言葉に当たるものであって、それ以外はすべてわかる言葉を使っている。伝えようとするから伝わるようにやさしくアピールしている。笑えるほどくだらなくていわゆるお勉強とは無関係なことほど相手に通じやすく、コミュニケーションの実態にかなっている。言葉とは使用である。
 なお、それでも家持が個人的な寂寥感を述べたと主張することは可能である。もし仮にそうだとして、たった一人の古代の人のそのときの気分について一生懸命に取り沙汰し、心の病に罹患した人の竹妄想から来る錯誤した表現を解明したからといってはたして何になるのだろうか。
(注9)中西1980.は両者は連続した作品と扱うべきではないとしたが、峻別すべき積極的な理由を見出しているわけではないようで、以降の諸説も決め手を欠いたまま折衷案を講じて打開しようとしている。この点は、歌の内容がわかれば自ずと整理がつく。結論を述べれば、「春愁三首」、「絶唱三首」という括りは、そもそも「春愁」でも「絶唱」でもないから意味がない。
 問題はその点に止まらない。左注が漢詩文((注2)参照)をもって説明されているために、歌自体にまで漢語の影響下にあるとする指摘が絶えないのである。例えば鉄野2007.は、「「春日遅々、鶬鶊正啼」は、家持が、春、生動する外界に刺激されて、他者との交流を志向していることを示すと見られる。かつ、それが「悽惆之意」を導いていることは、その他者がいないことによって、明るい外界がかえって悲哀を惹起していることを表す。」(359頁)と説いている。歌に付けられている左注は歌の理解を深めるうえで役に立つが、歌を置いてけぼりにして解釈を展開しても得られるものはない。中国詩文との関連を重視する考え方に見られる盲点は、歌というものは歌を一生懸命に捻り作った人の頭の中を覗き込んでも半分ぐらいしかわからないというところにある。歌われて、聞く人がいて、聞いた人が理解できて、はじめて歌として成り立つ。歌を聞いていた家持の館にいる召使たちが、ご主人様はおもしろいことをいうねえ、と喝采したとき、記し残すに耐えると判断して家持は録っているのだろう。中国詩文にも見られる感慨、例えば孤独感を述べたいのであれば漢詩を作ればいいわけで、それでは思いが伝わらない(「悽惆之意、非歌難撥耳、仍作此歌)からヤマトコトバで物申している。ヤマトコトバのあやを楽しみたいからである。
(注10)春はなんとなく悲しく感じられることを指しているとする見方が大勢を占めている。そのようなモノローグを声をあげて歌われたら聞いている方は弱ってしまう。ノイローゼ患者を相手にできるのはその手の専門医か、共感力の強い人に限られる。歌い手と聞き手が持ち合う形でできている古代の歌のあり方に合致せず、解釈する前提、歌に対面する立ち位置に誤りがある。
(注11)音の語呂合わせによる安直な言葉遊びである。複雑になれば音をたどることが難しくなって誰の耳にも明らかとはならなくなる。言葉遊びとして通用しないことは白けるから最初から行われない。
(注12)上と同様に、その点をもって新しい表現が模索されているとも曲解されてもいる。上句から下句へ順接していると考えるのも誤りである。
(注13)拙稿「女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─」参照。
(注14)和名抄に、「杼 通俗文に云はく、緯を受くるを䇡〈今案ふるに即ち杼の字なり、〉と曰ひ、亦、之れを梭〈蘇禾反、莎と同じ〉と謂ふといふ。説文に云はく、杼は機の緯を持つ者なりといふ。」、「繀筟 説文に云はく、筟〈芳無反、敷と同じ、楊氏漢語抄に云ふ筟、久太くだ〉は繀糸の管なりといふ。弁色立成に云ふ管子〈和名は上に同じ、新撰万葉集に亦、之れを用ゐる〉。」とある。

ヒ(梭、杼)からクダ(管、筟)を出したところ
(注15)「鶬鶊」の種について難しく考える向きもあるが、和名抄には「雲雀 崔禹食経に云はく、雲雀は雀に似て大といふ〈比波利ひばり〉。楊氏漢語抄に云ふ鶬鶊〈倉庚の二音、訓は上に同じ〉。」とある。
(注16)大谷2024.は、家持が春に友(大伴池主)の不在を悲しむ男の情を描くために、春を悲しむ女の情を語る詩経の文言を引き合いに出したものであるとし、この歌が近代に高く評価されたのは、人間としての孤独と春愁の発見をそこに見出したからであるとまとめている。我田引水の議論の一つの到達点である。

(引用・参考文献)
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小島1964. 小島憲之「万葉集と中国文学との交流」『上代日本文学と中国文学 中』塙書房、1964年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(五)』岩波書店(岩波文庫)、2015年。
鈴木2019. 鈴木崇大「「春愁三首」の読みの現在」『大伴家持歌をよむⅡ』笠間書院、平成31年。
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鉄野2024. 鉄野昌弘「『万葉集』巻十九末歌について」『国語と国文学』第101巻第12号、令和6年12月。
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山﨑2017. 山﨑健司「うら悲しき景─大伴家持の春愁歌の表現をめぐって─」『国語と国文学』第94巻第4号、2017年4月。
加藤良平 2026.6.2初出


 「うら悲し」という言葉は万葉集に八首見える。
 「うらがなし」の語義については、「心がなしい」(時代別国語大辞典)、「心の中で悲しく思う」(岩波古語辞典)などと釈されている。「うら」+「悲し」の語構成からなり、「かなし」(悲・哀・憐)には、①心をうたれる、痛切に心が動かされる、悲しい、②いとしい、あわれだ、かわいい、の二つの意があると解されている。一方の「うら」(裏・心)には、①裏、内側、オモテの対、②心、思い、の二つの意に使われているとされている。心は内にこもっているものとしてうらというのであろうと考えられている。それが神の心、神意にかかわる場合のことでは、同じく「うら」(占・卜)という言葉に結実しているという。神の心自体はあずかり知らないことであり、だから占いによって知ろうとする。「こころ」に明示性、「うら」に暗示性を認めることができる。
 その暗示性を汲んで、「うら悲し」はなんとなく・・・・・悲しいことを言うと理解されてきた。
 他に「こころがなし」や「ものがなし」という言葉がある(注1)。ほとんど同義の言葉であるとされ、作者の気分によって、あるいは音数によって使い分けているという。そのようないい加減な使い方をしていると言葉があいまいになりかねない。誤謬や錯誤が生じ、言語体系にほころびが生じてしまう。
 すなわち、「うら悲し」という言葉は、「心悲し」や「もの悲し」などとは異なる意味合いを伝えるべくして使われた言葉であると考えられるのである。これまでの研究でも「うら悲し」という場合には特別な意味合いを含んでいるとして、「静まりかえった中で内省して懐かれる悲哀感」(山﨑2017.)や「「表立ってその場にふさわしい感情を示しながら、それとはうらはらに人を求める、切ない思慕の情を抱いている様」を意味する語」(石原2007.)といった解釈が行われてきた。
 飽き足らない。万葉集に見られるいわば歌語である。言葉の成立条件としては聞いただけですぐわかることが求められ、また、その言葉を使うことで興趣を誘う効果があるから使われているのだろう。
 石原氏も指摘しているように、「うら」という言葉は時代を経て「うらはら(裏腹)」という言葉を派生させている。反対、あべこべ、の意である。「うら悲し」という言葉は「うら」という言葉の持つ深みをよく表している。隠されていてよくわからない心、思いは、結局のところよくわからない。きっとAなのだろうと見ていたところ、実は~Aであるということは間々ある。折り紙のだまし船のように転じてしまうのである。他者の心のことはわからず、当初見立てていたこちらの解釈が実は正反対のことがある。振れ幅は大きくなって定まらないが、かといってそこに何らかの思いがあることだけは確かである。その裏腹なる機微を伝える言葉として「うら悲し」という言葉が組み立てられ、「心悲し」とは異なるニュアンスを意味していると考えられる。「うら悲し」は一本調子の「悲し」ではなく、二つの異なる気持ちが綯い交ぜになりながらそのどちらも「悲し」なのだと言うために創られた言葉なのではないか。いわば、両価的アンビバレント(ambivalent)な「悲し」である。そもそも「悲し」という言葉は、悲しいとも愛しいとも受け取れるナイーブな感情を表している。「悲し」に相反する感情を込めることは条件的にもあり得ることで、人間の精神活動の深いところを表出しようとする高度な言語活動なのだろう。



 「うら悲し」がアンビバレントな「悲し」を示すか具体例で確かめていこう。
 最初にあげる例はとてもわかりやすい。

 紫草むらさきは をかもふる 人のの うら悲しけを を終へなくに〔牟良佐伎波根乎可母乎布流比等乃児能宇良我奈之家乎祢乎遠敝奈久尓〕(万3500)

 大意は、紫草はを最後まで取り尽くしてしまうのか。同じネという言葉でも、愛しく思う人の児とはまだることはないのに、である。「」と「」の掛詞が歌の妙味である。染色に使うムラサキのネ(根)は取りつくすほど取ることができるのに、愛しいあの子の場合となると一度もネ(寝)を経験できずにいる、と対比している。ネを求めていてムラサキでは最大限得られているが、彼女に対しては最小限さえ得られていない。その状況を詠むのに「うら悲しけ」と形容している。ムラサキの栽培農家らしいこの東歌の歌い手は、相手が植物なら思うようにできるのに、相手が人の子となるとにわかにままならなくなっている。ネのアンビバレントな様相をもって思うに任せない心を表現するのに「うら悲し」という言葉を使っているわけである。

 別れなば うら悲しけむ 我が衣 下にを着ませ ただに逢ふまでに〔和可礼奈波宇良我奈之家武安我許呂母之多尓乎伎麻勢多太尓安布麻弖尓〕(万3584)
 わぎ妹子もこが 下にも着よと 贈りたる 衣の紐を あれ解かめやも〔和伎母故我之多尓毛伎余等於久理多流許呂母能比毛乎安礼等可米也母〕(万3585)

 遣新羅使の贈答の歌である。女の歌に男が返している。
 大意は、お別れしたらきっと悲しいことでしょう、そこで私の衣を形見として下にお召しになってください、直接お逢いする機会まで、と言うのに対して、あなたが下にでも着けなさいと贈ってくれた衣の紐を、私は解いたりして他の女性と好にすることなどあるでしょうか、いやいやありません、と誓いを立てたというものと解されている。
 女性を思うよすがとなるよう形見に衣を渡し、身に着けてもらうことで互いに身近にあると感じられた、そういう習慣があったらしいと考えられている(注2)。ただ、この万3584番歌の構造からすると、この受け取り方には文法的に齟齬が生じている。
 「別れなば」の「な」は助動詞「ぬ」の未然形、「うら悲しけむ」は形容詞「うら悲し」の未然形に助動詞「む」が下接した形である。別れてしまうことがあるならば「うら悲し」いことにきっとなるだろう私の衣を、下にでも着てください、と言っている。「うら悲し」の主格を誰にとるかによって意が変わってくる。妻の側が歌っている歌だから、第一候補としては妻が「うら悲し」い気持ちになることが想定される。ところが、新編全集本では「うら悲し」の主格を夫とし、阿蘇2012.では両者として共に味わうはずのうら悲しさを推測していると見ている。ともに無理がある。
 三句目に「我が衣」とある。この歌は衣を中心に据えた歌である。衣を下に着よ、直に逢うまでは衣を着けていよ、と言っている。上の句でも「別れなば」の対象は「我が衣」である。そうあるからそのままに捉えるのが正しいだろう。旦那と別れることが悲しい云々ではなく、大切にしている私の衣と別れると悲しくなりそうだと歌っているのである。
 なかなかに味のある遣新羅使関連歌である。ただ衣を形見として渡したというのではなく、大切にしている一張羅の着物を質草に入れるように夫に渡し、ああ、渡さなければよかったと後悔するに違いないと言い、大切にして必ず持ち帰って来てくださいねと願っている。ああ、わかった、身に着けたままにしていて帰って来る、途中で紐を緩めて売り飛ばし、金に換えていい思いをするようなことはしない、と答えている。相手に対する愛情表現において、衣を利用してワンクッション置いた巧みな言い換えが行われている。着物なんてどうだっていいわ、あなたが帰って来てくれたら、というような若造の表現ではない。
 それを反映して「うら悲し」と言っている。あなたと別れてしまったならば「悲し」くなるだろう。少なくとも言葉上はそういう使い方が慣用化されているからそういうことに決まっている。決まり事である以上、両義性の生まれる余地はない。ところが、大切な着物と別れるということになると、旦那が出征するのだから持たせてあげたくもあり、とはいえ惜しいと思う心も芽生えてしまう。アンビバレントな「悲し」として「うら悲し」はある。そして、着物を持ち帰ってくださいと言うことで無事で帰って来てくれと訴えている。こう捉えたとき、この歌は名歌の輝きを放つ。



  大伴家持の橘の花をぢて坂上大嬢に贈る歌一首〈并せて短歌〉〔大伴家持攀橘花贈坂上大嬢謌一首〈并短歌〉 〕
 いかといかと ある屋前やどに ももさし ふるたちばな 玉にく 五月さつきを近み あえぬがに 花咲きにけり 朝にに 出で見るごとに 息のに が思ふいもに まそ鏡 清きつくに ただ一目 見するまでには 散りこすな ゆめと言ひつつ ここだくも 吾がるものを うれたきや しこ霍公鳥ほととぎす あかときの うら悲しきに 追へど追へど なほし来鳴きて いたづらに つちに散らせば すべをなみ ぢて手折たをりつ 見ませわぎ妹子もこ〔伊加登伊可等有吾屋前尓百枝刺於布流橘玉尓貫五月乎近美安要奴我尓花咲尓家里朝尓食尓出見毎氣緒尓吾念妹尓銅鏡清月夜尓直一眼令覩麻而尓波落許須奈由米登云管幾許吾守物乎宇礼多伎也志許霍公鳥暁之裏悲尓雖追雖追尚来鳴而徒地尓令散者為便乎奈美攀而手折都見末世吾妹児〕(万1507、大伴家持)

 上代の人は、霍公鳥という鳥について、ホトトギスという名に鳴き声の重ね合わせを見い出し、ほとんど時は過ぎる、ほとんど時は過ぎると鳴いているものとして洒落を楽しんでいた(注3)。つまり、「慨きや 醜霍公鳥」以下は、嘆かわしいことよ、融通の利かない霍公鳥めは、暁の瞬間が愛しいと思うのに、追っ払っても追っ払ってもなおやって来て、ほとんど時は過ぎる、ほとんど時は過ぎると鳴いては何の足しにもならないのにどんどん橘の花を地に散らしてしまうことになるので、仕方なく引き寄せ枝折ったことです。御覧ください、あなたよ、というのが大意である。夜明け時はとどまることなくどんどん明けて行くように橘の花もどんどん散っていく、そのように促進しているのは時の経過をあたかも倍速で進めるかのような鳴き声を発する霍公鳥の仕業なのではないかと詩的に歌っているわけである。暁という時間は落ち着くところがなく、刻々と変わっていって切なくなるが、実はその変化していく光景こそがいとおしみの対象なのでもある。アンビバレントな「悲し」を表して「うら悲し」と言っている(注4)

  河内かふちの大橋をひと娘子をとめを見る歌一首〈并せて短歌〉  
 しなてる 片足かたし川の さ丹塗にぬりの 大橋の上ゆ くれなゐの あかすそ引き 山藍やまあゐもち れるきぬ着て ただ独り い渡らすは 若草の つまかあるらむ 橿かしの実の 独りからむ 問はまくの しき吾妹わぎもが 家の知らなく〔級照片足羽河之左丹塗大橋之上従紅赤裳数十引山藍用揩衣服而直独伊渡為児者若草乃夫香有良武橿実之独歟将宿問巻乃欲我妹之家乃不知久〕(万1742)
 大橋の つめに家あらば うら悲しく ひとに 宿やど貸さましを〔大橋之頭尓家有者心悲久独去児尓屋戸借申尾〕(万1743、高橋連虫麻呂歌集)

 「うら悲しく 独り行く児」の「うら悲しく」について、心なしか切なそうに、あるいは、どこか悲しげに、と訳すのは誤りだろう。歌の作者は歩いて行っている見知らぬ娘子の姿を見ても傍観するしかなかった。それでも思うことは、遠くへ行くのは疲れるだろうからと橋のたもとに設けられている宿場さながらに自分の家を貸しましょうかと声を掛けたい。自分の家は街道沿いにないからそのようなことも口にできないからなあと慨嘆している。その時、道行く娘子の風情が「うら悲しく」見えたとしている。
 一人で歩いているところを見て独りぼっちだから悲しそうだと思ったけれど、他方では愛する夫のところへ向って歩いて行っているのかもしれないとも思う。つまりは彼女はどこか見知らぬところへ行くところか、愛する人が待つ我が家へ帰っているところかさえわからないのである。そのことは前の長歌、万1742番歌で叙述されている。その裏腹感を表すために「うら悲し」という言葉を使っている。大橋のたもとに家があったらお疲れでしょうと声をかけ、事情を尋ねるべく宿を貸すことができるのに、残念ながら世の中そういうふうにはなっていない。「うら悲し」と思う主体は歌の作者である。その主観を起点として述べ始め、間主観性、客観性へと導こうとする物言いとして「うら悲し」という語は使われている。そのことは、これまで見てきた万3500番歌の作者、栽培農家の視点、万3584番歌の作者、衣の持ち主の視点とも、言われてみて初めて知る見方である。巧みな表現をするために「うら悲し」という言葉は編み出されている。



 朝日照る 島のかどに おほほしく 人音ひとおともせねば まうら悲しも〔旦日照嶋乃御門尓欝悒人音毛不為者真浦悲毛〕(万189、皇子尊宮の舎人)

 この歌は、皇太子であった草壁皇子が亡くなった時に舎人たちが歌った「皇子尊みこのみことの宮の舎人等のかなしびいたみて作る歌二十三首」の中の一首である。
 朝日に照り輝く島の宮の御殿では、人の気配もしないので「まうら悲し」いことだなあと言っている。「ま」は接頭語で、かたに対して両手まてというように、セットで二つ揃っていることをいう。つまり、本当に「うら悲し」いことだと強調している。「おほほしく」はぼんやりしているさまを指し、ぼんやりしていて明らかではなく、先行き不透明感があると気持ちが晴れず判断も鈍くおろかなことになる。
 草壁皇子は日並皇ひなみしのみと讃え称されており、島の宮に住んでいた。ということは、朝日が照ってきたら「島のかど」は当然、並皇子がいてその名の示すとおり輝いていなければならないのだが、間抜けなことにお隠れになってしまってそうはなっていない。そして、宮仕えの人もお暇を頂くこととなって閑散としている。歌の作者は舎人で本来ならそこにいなければいけないやつこである。ヤツコというぐらいだから、やつ、たくさんの人であろうはずが、間抜けなことに人っ子一人おらず「人音ひとおと」がしていない。「おほほし」いことに館の主がおらず、「おほほし」いことに召使いたちもいない、両方で悲しいことになっている。この歌の作者である舎人の一人はそういう見方を発見して歌にしている。

 春の日の うら悲しきに おくて 君に恋ひつつ うつしけめやも〔波流乃日能宇良我奈之伎尓於久礼為弖君尓古非都々宇都之家米也母〕(万3752、狭野茅上娘子)

 この歌は倒置されている。「春の日の うら悲しきに 顕しけめやも」が主題で、条件として「後れ居て 君に恋ひつつ」を加えている。一人置いてけぼりにされていて、あなたのことを恋い慕いながら、という条件下で、春の日は「うら悲しきに」正気でいられるか、いやいやいられないと反語で言っている。どこがアンビバレントかといえば、春の日はうららかだから悲しむべき要素はないはずなのだが、一人にされてしまったら少しもいいことがないのである。「うら悲しきに」の助詞「に」は、順接(ので、から)、逆接(のに、けれど)のいずれの場合もある。両義的な意を含んでいるからどちらにでも取れる助詞を取っている。うららかのことは上代に「うらうらに」と言っていた。

 うらうらに 照れる春日に 雲雀ひばりがり こころ悲しも 独りし思へば(万4292)

 万3752番歌では縁語のように「春の日の」は「うら○○」という語へ続くようにしている。ぽかぽかしてくるとつい昼寝をしてしまう。詩的に言えばお日さまとの共寝であるが、所詮は一人寝である。連れ合いはどこかへ行ってしまい置いてけぼりになっている。あの人を恋い焦がれていると夜も寝られない。代わりに昼間、日向ぼっこをして寝ている。昼夜逆転、自律神経によくない。常態化すれば病んでしまう。
 「うつし」のウツは目に見えてこの世に存在しているもののことを指し、「顕し」は現実存在の確からしさを表している。「宇都志伎うつしき〈此四字以音〉青人草あをひとくさ」(記上)、「顕見蒼生、此云宇都志枳阿烏比等久佐うつしきあをひとくさ。」(神代紀第五段一書第十一)、「宇都志意美うつしおみ」(雄略記)という複合語はこの世に人の姿をして現れた目に見える存在という意味である。そこから「顕し」は、人間世界に生きている、また、正気でいる、の意となっている。一例あげておく。

 いつはりも 似付につきてそする うつしくも まことわぎ妹子もこ われに恋ひめや(万771)

 偽りごとも本当らしくするものだよ、本当にあなたは私に恋しているのか、どうにもそのようには見えないよ、というのが大意である。「顕し」という言葉を、気持ちに現実感があるかの問いに使っている。万3752番歌の場合は反語表現で、気持ちに現実感が薄れること、精神の不安定要素を詠んでいる。一人置いてけぼりにされていて、あなたのことを恋い慕いながら浴びている春の日は、暖かいからその温もりで満たされるようでありながら気持ちは満たされることはなく、とても正気でなんていられないの意である。



  二十三日、興に依りて作る歌二首〔廿三日依興作歌二首〕
 春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも〔春野尓霞多奈毗伎宇良悲許能暮影尓鴬奈久母〕(万4290、大伴家持)

 春の野に霞がたなびいていると、霞んでしまって見たくても見えなくなる。見ようとしても霞んで見えないのは、目が霞目になっているのと同じことである。だから霞のことを話題にしている。同じような状況としては、夕方、暮れなずんでしまうと鶯が鳴いても姿は見えないことがある。この日は二十三日、太陰暦だから下弦とわかり、夜中にならないと月は出ないから薄暗がりである。だから「この○○夕影」と限定して歌っている。
 歌われたのは天平勝宝五年の旧暦二月二十三日である。現在の暦では四月一日に当たる。ハル(春)といっても春の初めではなく十分に春になってしまっている時期である。ハル(という動詞があるならばそ)の已然形、ハレであるはずである。つまり、天気はハレ(晴)であるべきなのに霞がかかっている。裏腹だから「うら悲し」と大げさに表現している。
 ハル(春)も押し詰まってハレでなければならないのだから、そこに登場する鳥はハレ(腫)に似通っているのが望ましい。もってこいの名をした鳥がいる。ウグイスである。膿んで膨らみ腫れることを古語でウグヒ(墳)という。俗語をよく伝える日葡辞書に次のようにある。

 Vgu i,gǔ, ǔta. ウグイ,ゥ,ゥタ(うぐい,ふ,うた) ……灸の跡がただれ広がる,または,うんで膿汁が出る.(日葡辞書690頁)

 ウグヒスのスは語尾のスで、カラス、カケス、ホトトギスに同じである。ハレているはずのウグイスが鳴いているのに、夕べの光は乏しくてその姿ははっきりしない。霞目、鳥目はともによく見えないことをいう言葉である。それをまとめて、ウグイスが鳴くのもひょっとして「うら悲し」いことなのかなあと慨嘆している(注5)
 「依興」とは大伴家持が駄洒落を思いつき、それはすなわち、ヤマトコトバの連環の妙に気づいたということで、それにより歌を作っている。万葉集の言葉づかいはヤマトコトバをいかにそれ自体のものとして操るかにかかっており、洒落、語呂合わせ、地口の多様な詠み合わせがおもしろがられ尊ばれて四千五百余首を成している。

  四月三日に、越前こしのみちのくちの判官じよう大伴宿禰池主に贈る霍公鳥の歌、ふるきをづるこころへずしておもひを述ぶる一首〈并せて短歌〉〔四月三日贈越前判官大伴宿祢池主霍公鳥歌不勝感舊之意述懐一首〈并短歌〉〕
 我が背子と 手携てたづさはりて 明け来れば 出で立ち向ひ ゆふされば け見つつ 思ひべ 見和みなぎし山に やつには 霞たなびき たにには 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば 霍公鳥ほととぎす いやき鳴きぬ 独りのみ 聞けばさぶしも 君とわれ へなりて恋ふる 波山なみやま 飛び越え行きて 明け立たば 松のさえだに 夕さらば 月に向ひて 菖蒲あやめぐさ 玉くまでに 鳴きとよめ やす眠寝いねしめず 君を悩ませ〔和我勢故等手携而暁来者出立向暮去者振放見都追念暢見奈疑之山尓八峯尓波霞多奈婢伎谿敝尓波海石榴花〓(口へんに笈)宇良悲春之過者霍公鳥伊也之伎喧奴獨耳聞婆不怜毛君与吾隔而戀流利波山飛超去而明立者松之狭枝尓暮去者向月而菖蒲玉貫麻泥尓鳴等余米安寐不令宿君乎奈夜麻勢〕(万4177、大伴家持)

 この歌の「うら悲し」は連体格で挿入句とされている(注6)。どうして「うら悲し」いと思ったかについては、歌を聞いている人が耳にして即座に了解されるものでなければならない。なぜならそれは歌において行われた表現だからである。歌を歌っている間だけ空中を飛んでいてすぐに消えてしまうから、瞬時にわからなければ体を成さないのである。「春し過ぐ」ることとはハル(春)が動詞としてあるならば、已然形のハレとして展開しているはずだという洒落である。ハレ(晴)であるとは見晴るかすことができてさぞかし見ごたえがあるだろうに、「八峰には 霞たなびき」していてよく見えない。「椿花」が咲いているならツバの音を含む花なのだからさぞかし余すことなくはっきりと詳しく「委曲つばらかに」見えるはず(注7)、したがって咲く場所は「つばくむ」ところであるべきなのに、なぜか凹んだ谷のところに咲いていてやはりよく見えない。ハルというには裏腹なところがあるから「うら悲し」と言い当てているのである。家持独特の感慨であるという評言があるが、個人的な情感を個性的な言葉で表そうとしたのではなく、主観的な見方を提示しておいて聞き手を巻き込み間主観性を得ようと試みたものであった。それが可能となる条件は、駄洒落という言葉遊びにある。
 以上見てきたように、上代語の「うら悲し」は、「悲し」と思われる心情のうち一本調子に悲しいのではなく、情景、情感において裏腹感を言い含めるために考案された言葉であり、主観的なものの見方を開陳して歌の聞き手に及ぼし巻き込もうとする歌語、歌言葉であったといえる。そのような表現が可能となっているのも、万葉集の表現が言語ゲーム(Sprachspiel)に徹することによって惹き起こされ展開していった言語空間だったからである(注8)

(注)
(注1)「心悲し」、「もの悲し」の例を一つずつあげておく。

 波のうへに うきせしよひ あどへか 心悲しく いめに見えつる(万3639)
 春まけて もの悲しきに さ夜更よふけて 羽振はぶき鳴くしぎ が田にか住む(万4141、大伴家持)
 
(注2)形見を渡すことを歌った歌の例を示す。

 吾妹子が かたの衣 なかりせば 何物もてか 命がまし(万3733、中臣宅守)
 白栲しりたへの が下衣 失はず 持てれ我が背子 ただに逢ふまでに(万3751、狭野茅上娘子)
 逢はむ日の 形見にせよと わやの 思ひ乱れて へる衣そ(万3753、狭野茅上娘子)

(注3)拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。
(注4)この「うら悲し」を「妹を思って悲しい」(中西1980.192頁)、「大嬢への思いと関わっていることを示すもの」(阿蘇2008.568頁)とするのは宙に浮いた捉え方である。また、「夜明け方は、逢えない恋人との魂逢いを受感する時間。よって、もの思いが萌す」(多田2009.234頁)とするのは、徹夜明けでしか暁を知らない人の言い分だろう。野良仕事に出かける人ばかりでなく、朝廷も文字どおり早起きを前提としていた。
(注5)拙稿「大伴家持「春愁三首」について」参照。
(注6)「八峰には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲き」という情景において「春し過ぐ」ることについてどう感じるかコメントを施していて、「春を愁いの季節とする家持独自の心情を示す表現。」(伊藤1998.132頁)、「春は本来喜びの季節だが、家持はそこに、外界の景から疎外された自己の心情を見出した。」(多田2010.132頁)などと説かれている。誤りである。
(注7)その主題で歌われた歌を家持は歌っている。

 奥山の やつの椿 委曲つばらかに 今日けふは暮さね 大夫ますらをとも(万4152、大伴家持)

(注8)もともとのヤマトコトバは言葉と事柄とを一致させようと極端なまでに追い求めて具体に即した言語であり、そこから離陸することはなかった。つまり、言葉のなかでのなぞなぞに興じていたのであって、現在の日本語で行われる言語ゲーム、際限なく記号変換してクイズと化すような様相とは異なっている。

(引用・参考文献)
阿蘇2008. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第4巻』笠間書院、2008年。
阿蘇2012. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第8巻』笠間書院、2012年。
石原2007. 石原純子「大伴家持 四二九〇・四二九一番歌について」高知言語文化研究所・愛知大学国語学研究会編『日本語の語義と文法』風間書房、2007年。
伊藤1998. 伊藤博『萬葉集釈注十』集英社、1998年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳 『新編日本古典文学全集9 万葉集4』小学館、1996年。
黒田2006. 黒田徹『万葉歌の読解と古代語文法』万葉書房、平成18年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解7』筑摩書房、2010年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳 日葡辞書』岩波書店、1995年。
山﨑2017. 山﨑健司「うら悲しき景─大伴家持の春愁歌の表現をめぐって─」『国語と国文学』第94巻第4号、2017年4月。
山﨑2019. 山﨑健司「萬葉の歌ことばと古代人のこころ─「かなし」をめぐって─」『古代学研究所紀要』第27号、2019年2月。明治大学学術成果リポジトリhttp://hdl.handle.net/10291/20551
加藤良平 2026.6.1初出
 多武峰は日本書紀に次のように記されている。

 身嶺むのみねに、かがふらしむるにめぐれる垣をもちてす。〈田身は山の名なり。〉ここには大務たむと云ふ。またみねの上のふたつのつきの樹のほとりに、たかどのを起つ。なづけてふたつきのみやとす。亦天宮あまつみやと曰ふ。(斉明紀二年是歳)

 「観」とは何か。軍事施設とする説(石母田正)、道教の道観とする説(黒坂勝美、瀧川政次郎)、単なるタカドノ、すなわち楼観とする説(那波利貞、窪徳忠)、神仙思想に基づく宮とする説(和田萃)など諸説ある。タムノミネは現在、武嶺うのみねと呼ばれ、談山神社が所在する。紀に記述の「田身嶺」については、もう少し広く捉えて比定すべきとの意見がある。
 門脇2005.に次のようにある。

 「田身嶺」の比定には、前提として次の点を確認しておく必要がある。①「田身山」は、7世紀の諸宮があいついで営まれた飛鳥を、東から南に曲って巡る山並みをいった。当然、その山並みには幾つもの嶺(峰)々があった。②今の談山神社のある一画が、〝多武峰(岑)〟と固定して意識され、呼ばれるようになったのは9世紀末葉よりあと、とくに院政期の12世紀より以後のことであった。……「田身嶺」は、その〝田身山〟の一嶺であり、酒船石遺跡の地(両槻宮)からも東南に望見できるし、また同時代の鳳凰塼・天人(飛天)塼像を彫る塼が出土した岡寺旧本堂の載る嶺あるいはそれより少し下った治田神社の嶺に比定するのがやはり妥当、と考える。但し、その「嶺の上の両つの槻の樹の辺に」起てられた「観」は、決して道観─道教寺院などではないと思う。壇上に立つ仏塔としての高い重層の建物であったとみられる。そして、この一画も付属させたのが、後岡本宮より一段高地に築かれた「両槻宮」であり、「天宮」ともいわれたのである。(150頁)

 両槻宮の「観」を仏塔ではないかとの推論に共感する。場所の比定については筆者の力の及ぶところではない。ここでは名前の比定に注力したい。
 下出1972.は「観」とは何かを探ることから始めている。古訓にタカドノとある点、観という字の使われ方、宮殿をどう表現しているかについて日本書紀の用例を検証している。そのうえで霊異記にある「大観」(下巻廿二)から、「観」という字に含まれたニュアンスを探っている。
 わたくしは、春日和男氏の「つきのき」にあてる考えが妥当と思う(26)[岩波日本古典文学大系『日本霊異記』三七七頁頭注一〇]。樹木の名称としての槻の国字は「欟」である。春日氏は、ここにあらわれる「観」は、この国字の「欟」の省文であろうとされるのであるが、まことに卓見だと思う。つまり「観」には、楼観や道観以外に、日本においては「槻」の意もあったのである。とすれば、書紀が両槻宮の説明に「観ヲ起ツ」としたうちには、観に槻をかける意が含められていたのかもしれない。書紀の編者が漢籍の知識に通じ、衒学的というのに近いほど中国文献の語句を援用していることは、河村秀根以来現在に至るまで、諸先学のすでに明らかにせられたところである。観に、表1・2・3を通じて考えたことに加えて、欟=槻の国字の意をも含めていたのではないかと推量することも、あながち荒唐無稽とばかりはいえないのではなかろうか。(281頁)

 播磨風土記に「欟折山」、「欟弓」と見える。ケヤキの木があったから観(觀)の字を使ったのではないかというのである。その個所はそのとおりと筆者も考えるものの、上代の人はさらに突っ込んだなぞ掛けをしているように感じる。
 木村2009.は「タムの峰(談山)の古義」について次のように述べている。

 ……仁徳記歌謡……万葉一二八二……同二九〇……等の「倉橋山」とは多武峰を指している。……倉橋山には、……古事記(仁徳記)歌謡の頃から、倉のかけはしのように、垂直に切り立って段も成した岩場をもつ山のイメージがあった。一方、タムの山の呼称は、日本書紀斉明紀二年の記事[から、]……タムの嶺が何らかの聖域とされた気配を窺わせる。……タムの峰(山)は、実は、全国各地に同音・類音での呼称の山(峰・岳)が存在する、いわば普通名詞的な地名であったと見られる。現伝の文字表記による音は、タム・タン(ダン)・タフ・トウ(ドウ)と、若干のゆれをもつが、おおむね助詞「ノ・ガ・ケ」を介して、峰・山・岳にかかる名称が、……関東や近畿・四国・九州とほぼ列島全域にわたり点在している。……宛てられた文字は、塔・堂・談・段・丹など様々だが、助詞ノ(ガ・ケ)を介して、山(峰・岳)の性格を特示するありようからも、類同の音と意味をもつ所(地名)だったことは、容易に見てとれるだろう。……それらに共通する特徴とはおおよそつぎの様なところである。①何らかの聖所(土俗信仰・修験道・神道・仏教・道教)であるらしいこと。②墓所とされる所でもあること。③その地域第一の高山か、嶮しい岩場があること。なお、墓所と岩場とは古代しばしば一体である……④近辺に、他に聖地らしい地名があり、それらとも何らかの関係があるらしいこと。(72~76頁)

 要約すると、「田身嶺」は、倉橋(倉椅、椋橋)山(記69・70、万290・1282)のことで、高床式倉庫にかける梯のような垂直に切り立って段を成した岩場があるイメージがあったとする。そして、タムの峰(山)については全国的に同類の呼称があり、普通名詞的な地名であると捉えている。塔・堂・談・段・丹+助詞「ノ・ガ・ケ」+峰・山・岳の形である。その意味するところは何らかの聖所であり、墓所とされ、高山か険しい岩場で、近くに聖地らしい地名があるものとする。蓋し卓見である。
 紀は、タムノミネという名にこだわっている。仏塔や仏堂がある場所の壇や段、修験者の問答の談と関連する地名である。最終的に「天宮」になっており、今、アマツミヤと訓まれている。伝本の傍訓に次に述べるような例は見られないが、おそらく、タムノミネをテムノミヤと訛って言い換えた洒落なのだろう。古語に訛ることをタム(訛)という。タムの地を言い表すには地口をもってすることこそ必要にして十分なのである。今日、談山神社には十三重の塔が建っている。塔は仏舎利塔ストゥーパで天竺の墓のこと、つまり、ひつきである。くわんくわんと同音である。すなわち、タカドノと訓読されている「観」とは仏塔のことである。
 ヤマトにおける宮の記述は、記紀において神話とされる箇所でスサノヲ(須佐之男命、素戔嗚尊)の指示によってヤマタノヲロチ(八俣遠呂知、八岐大蛇)が退治され、クシナダヒメ(櫛名田比売、奇稲田姫)と結婚するに当たり清々しいところ、須賀すが(清地)の地に宮を作ることが嚆矢である(注1)。記紀ともに一番歌が記されている。

 八雲立つ 出雲八重垣 つまみに 八重垣作る その八重垣を(記1)
 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣ゑ(紀1)

 垣根讃歌が歌われている。宮がふつうの家と異なるのは垣が添えられている点にある。宮には主人とその家族だけでなくお手伝いさん、使用人の掻き添えが住む。宮の宮たるところは、垣根を添えることと従者たる介添人がいること、すなわち、建造物、住人ともにカキゾヘ(キは甲類)を伴っている点にある。垣根があると外からも内からも見えない。目が不自由で見えないと介添人が必要になる。みやはミ(霊)+ヤ(屋)、つまり、お墓の意でもある。目が閉じてしまってよく見えない主人をあの世へ送るには、お練供養のように介添えの舎人が必要である。本邦では、やがて極楽浄土への旅立ちをモチーフにした阿弥陀来迎の話へと発展していった(注2)。先頭を一人で大胆に動きながら行く観音様にあやかりたい。観世音菩薩、観自在菩薩のような観る力がほしい。それが田身嶺でも展開された。「於田身嶺冠以周垣。復於嶺上両槻樹辺、起観。号為両槻宮。亦曰天宮。」である。めぐらされた垣根を越えて遠く望むには観覧台が必要となったのである。
 「」と同音のタムノキは別名をトネリコという。和名抄に「石檀 蘇敬本草注に云はく、秦皮、一名は石檀〈止禰利古乃岐とねりこのき、一に云ふ太無岐たむき〉、葉は檀に似る、故に以て之れを名くといふ。」とある。秦皮はとねりこの樹皮で漢方薬になり、また、膠の原料にもする。淮南子・俶真訓に、「夫れ梣木しんぼくは青翳をやして、れい燭睆しよくくわんやす、此れ皆目を治するの薬なり。人故無くして此の物を求むれば、必ず其の明を蔽ふ者有り。(夫梣木已青翳、而蠃瘉燭睆、此皆治目之藥也。人無故求此物者、必有蔽其明者。)」とある。梣の字は木偏にみねに作る。「田身山名。」なる分注は字形の頓智を言っている。今いう山の意まで含んでいる。また、いま、すなわち、渡来人のことを思わせる。仏教を伝えたのも渡来人である。雄略即位前紀の「ひとつ」の話に「いまきのあや」とあって、唐櫃のことを語っている(注3)。舎人は「左右もとこひと」とも呼ばれる近習の人のこと、モトコは喪床、つまり、ひつき(キは乙類)のことにも当たり、つき(キは乙類)と同音である(注4)。天はあの世でもあり日月の通うところである。この発想の流れに「天宮」は誕生している。仏教の他界観が入りこんでいる。
 「両槻ふたつき」は二つ(キは乙類)と同音である。キ(乙類)にはがあり、洒落て「一文字」とも呼ばれた。葱の特徴は葱坊主である。斎宮忌詞では「塔を阿良良岐あららぎ(ギは乙類)」と言っている。あららぎはノビルのこととされているが、ノビルの零余子むかご、ネギの葱坊主、すなわち、擬宝珠ぎぼしを仏塔の先端の宝珠に見立てているのだろう。「あきいやふた〈双は重なり。〉ごもり」(仁賢紀六年是秋)とあって、一茎の中に二本の茎が入っていることを指している。「秋葱」は二つ棺なのである(注5)。棺は塔であると納得できる。
 フタツキはまた、二月、キサラギのことである。キサラギは、来ては去ること、つまり、来迎の仏である。如来も如去も仏のことをいう。貞観二十年(646)に成った玄奘三蔵・大唐西域記に、「天竺てんぢくの称は異議糺紛たり、旧に身毒しんどくと云ひ、或はけんと曰ふ。今正音に従はば印度と云ふべし。」とある。彼の地を「印度」と呼ぶことを推奨しつつ、「印度は唐に月と云ふ。」ともあり、Indu の対音のことを記している(注6)。クシャン朝の大月氏のことを言い含めたものかともされ、大月氏、小月氏の二つの月氏から仏教盛んな天竺はフタツキのことになっているのだろう(注7)。ヤマトの人がいかに理解したかのみが問題である。
 「天竺」の語は紀ではいわゆる仏教公伝の記事にある。

 かつれ遠くは天竺より、ここみつのからくにいたるまでに、みのりしたがたもちて、たふとうやまはずといふこと無し。(欽明紀十三年十月)

 竺とは竹が二つ分もある孟宗竹のような竹のことである。節のある形は月の字形に相当する。それが二つあるとすると朋の字になる。ドモ、つまり、吃ってなまることとは「む」ことである。田身嶺のタムと同音である。
 また、記では筑紫を「竺紫」と表す。「つくむかたちばな小門をど」(記上)、「竺紫の日向のたか」(記上)などとあり、ツクシはヒムカと密接なつながりがあると捉えられている。確かに土筆つくしは土手の日の向かう南斜面によく生える。「土筆誰の子、杉菜の子」といわれるように地下茎をたどっていくとツクシはスギナの胞子茎だとわかる。形状は仏塔さながらである。古語にツクヅクシといい、ツクツクボウシといえば蝉の一種で、法師も仏教用語である。槻はまた「つくゆみ」(紀28)とあるようにツクとも訓む。「両槻」はツクシが必ず群生していることを思わせる。「冠以周垣」した垣とは土手のことである。土手を築いたらツクシが顔を出した。牆、垣、籬はいずれもヤマトコトバにカキ(キは甲類)である。記紀万葉の槻の木は土手と関係することがあり、複数本生えている。

 …… はしりの つつみに立てる つきの木の こちごちのの 春の葉の ……(万210)
 池のの つきもとの 細竹しのな苅りそね それをだに 君が形見に 見つつしのはむ(万1276)
 いけのへのなみつきのみや(用明紀)

左:ツクシ(食するにはハカマをきれいに取り除いてから鍋に入れる必要がある)、右:瓦塔(東京都東村山市多摩湖町出土、奈良時代、8世紀、東博展示品)

左:スギナ、右:松明用松(粉河寺縁起絵巻、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/粉河寺縁起絵巻)
 今日まで、槻の木と土手(堤)との関係は考察されていない。たまたま土手(堤)に槻の樹が植えられていた、あるいは、聖なる樹種であると見られている。わからないことがあると聖なるもの、祭祀に関連するとすることで違和感を解消しようとする傾向にある。筆者は、語学的に認知されていたからだと考えている。つつみ(ミは甲類)はつつみ(ミは甲類)と同根の語で、土を高く築いて溜池の水が流れ出ないように包み込んだものを言っている。プレゼントをあげる際、包み紙をして渡すのは、中身が上等で大切なものだからである。古代、政府への貢納品のことは調つき(キは乙類)と呼ばれていた。包んで献上されていたのだろう。ならば、土手の堤にまつわる樹種としては同音のつき(キは乙類)がふさわしい。結果的に、堤建設の杭打ち工法の際、実用面からも堅い槻の木を使うのがいいということになっていたのではないか。
 スギナ(杉菜)は接松つぎまつとも呼ばれる。続松つぎまつとは松明たいまつのことである。松明は「焚き松」の音便形であるが、「手火たひ」とも関係があるのだろう。行事としては東大寺などの修二会、また、民俗では葬式の先松明さきたいまつが知られる。万葉集には、「……天皇すめろぎの 神の御子の いでましの 手火たひの光そ ここだ照りたる」(万230)とある。夜は暗いから辺りは見えず、盲人と同じく不自由である。介添が果たす役割と同じことを松明が果たしている。聖武天皇の眼病平癒を願って建立された新薬師寺のおたいまつはしずしずと進む松明行列である。すなわち、ツクシとは舎人の成り代りである。雄略即位前紀の分注に、「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」とある箇所では、主人と舎人とが一つの棺に合葬されることを問題視している。康煕字典が引く類篇に、「槻、……一に曰く、樊槻とねりこの木の皮は、水に漬け墨に和すれば、色脱けずといふ。(槻……一曰。樊槻木皮。水漬和墨。色不脱。)」とある。「槻」字は必ずしもケヤキと同一視してはいなかったとわかる。ツキ(槻)はツクシの親であるかという洒落をも語っていた。それとわかる理由は土手(堤)には槻の木がつきものだからである。
 原文に、「起宮室、……号曰後飛鳥岡本宮。……起観、号為両槻宮、亦曰天宮」とある。「為」の字は何のために入っているのか。斉明二年是冬条は公共事業の作為性を示している。山の上に垣をめぐらし「冠」るなどというもったいぶったことをしている。山の頂上に冠垣を作った史上初の珍事である。比叡山や高野山にどこまで垣根はあるのか。古代の人がとりたててそのようなことをしようとした動機について探る必要がある。「冠」なのだから山の嶺上でないと辻褄が合わない。そして、山に登っているのに垣根がめぐらされて見晴らしが利かない。人のすることは何と愚かなことか。司馬遷のような批判的精神を持つ紀の編者は、輪をかけて愚かなことに展望台まで作っていると伝えたかったようである。日本書紀を書物として捉えた場合、国家的な編纂事業や天皇支配の正統性の主張、記述された文字表記に目が行きがちであるが、伏字の歌謡(紀122)が記されるなど、史官の智恵のたくましさについて見直す着眼が求められている。
 以上、「両槻宮」、「天宮」と名づけられたその名づけに潜むヤマトの人の心性を展望した。「観」は従来、道観や神仙思想と関わりがあると論じられてきたが、仏教思想に関わるものである。思想は言葉に宿っている。ヤマトコトバの研究なくして古代史研究はあり得ない。

(注)
(注1)拙稿「舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─」参照。
(注2)拙稿「お練り供養と当麻曼荼羅」参照。
(注3)拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字、未詳。蓋是槻乎」の「𣝅」は、ウドである」参照。
(注4)溝口2009.は山田1989.などを引きながら、「「天」と「太陽(日)」、そして「日月じちげつ」との同一視である。同一視というより、置換可能な概念といったほうがいいかもしれないが、要するにこの三者を、……高句麗や北方遊牧民族の間では、王の権威の源泉として、区別することなく用いているのである。そして日本の初期の天孫降臨神話にも、その痕跡がみられる。しかし中国の古代思想で、「天」と「太陽」、あるいは「天」と「日月」を同一視することはない。」(52頁)とする。しかし、天と日、月との関係において、天孫降臨神話と北方遊牧民族が王権を表すこととに共通性を見出しても、記紀に語られる話と遊牧民との関連性を探れるはずはない。記号を操作する抽象的な議論をしても古代の思考と相容れない。天上に日や月はある。中国の「天観」にない考えだからといって珍しがる必要もない。本邦の天とはテンではない。アメ、アマである。天照大御神(天照大神)はアマテラスオホミカミであって、テンショウイン(天璋院≒天照院)ではない。記紀の説話が、概念的、抽象的に王権の祖先神話を表そうとしただけなのなら、なぜあれほど訳の分からぬものに仕上げる必要があったのか。神さまと契約を交わした形跡もない。何らかのイデオロギーに基づいて神さまの話を作るとして、記紀の説話のように複雑、乱雑、煩雑に終始することはないだろう。抽象的で難しい話をしても相手に通じないのでは意味がない。具体的な事柄を譬え話としてしていったら、例えばアマテラスとは天で照らすものだから太陽が筆頭で、それに比べ、月も照らすとは言おうと思えば言えるかもしれない程度のわずかな力しかなく、さらに星となると照らすのではなくて輝くというのがふさわしい、といった話をずるずるとしていき、ぐだぐだになってしまったものと考える。
(注5)拙稿「仁賢紀「母にも兄、吾にも兄」について」参照。
(注6)大唐西域記・巻第二に、「詳夫天竺之称。異議糺紛。旧云身毒。或曰賢豆。今従正音。宜云印度。印度之人。随地称国。殊方異俗。遥挙総名。語其所美。謂之印度。印度者唐言月。月有多名。斯其一称。言諸群生。輪迴不息。無明長夜。莫有司晨。其猶白日。既隠宵燭斯継。雖有星光之照。豈如朗月之明。苟縁斯致因而譬月。良以其土聖賢継軌。導凡御物。如月照臨。由是義故。謂之印度。」とある。
(注7)日本書紀の記述されたとき、大唐西域記が参照されたのかわからない。後漢書・西域伝第七十八に、「天竺国、一名身毒、在月氏之東南数千里。俗与月氏同、而卑溼暑熱。其国臨大水。乗象而戦。其人弱於月氏、脩浮図道、不殺伐、遂以成俗。従月氏、高附国以西、南至西海、東至盤起国、皆身毒之地。身毒有別城数百、城置長。別国数十、国置王。雖各小異、而俱以身毒為名、其時皆属月氏。月氏殺其王而置将、令統其人。土出象、犀、玳瑁、金、銀、銅、鉄、鉛、錫、西与大秦通、有大秦珍物。又有細布、好毾㲪、諸香、石蜜、胡椒、薑、黒塩。和帝時、数遣使貢献、後西域反畔、乃絶。至桓帝延熹二年、四年、頻従日南徼外来献。世伝明帝夢見金人、長大、頂有光明、以問群臣。或曰、「西方有神、名曰佛、其形長丈六尺而黄金色。」帝於是遣使天竺問仏道法、遂於中国図画形像焉。楚王英始信其術、中国因此頗有奉其道者。後桓帝好神、数祀浮図、老子、百姓稍有奉者、後遂転盛。」とある。

(引用・参考文献)
門脇2005. 門脇禎二「「田身嶺」について」納屋守幸氏追悼論文集刊行会編『飛鳥文化財論攷 納屋守幸氏追悼論文集』同会発行、平成17年。(『邪馬台国と地域王国』吉川弘文館、2007年。、『邪馬台国と地域王国(読みなおす日本史)』吉川弘文館、2026年。)
木村2009. 木村紀子『ヤマトコトバの考古学』平凡社、2009年。
下出1972. 下出積與「斉明紀の両槻宮について」坂本太郎博士古稀記念会編『続日本古代史論集 上巻』吉川弘文館、昭和47年。(野口鐵郎・酒井忠夫編『選集 道教と日本 第一巻』雄山閣、平成8年。下出積與『日本古代の道教・陰陽道と神祇』吉川弘文館、平成9年。)
溝口2009. 溝口睦子『アマテラスの誕生』岩波書店(岩波新書)、2009年。
山田1989. 山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』東京大学出版会、1989年。
和田1978. 和田萃「〈論説〉薬猟と『本草集注』─日本古代の民間道教の実態─」『史林』第61巻第3号、1978年5月。京都大学学術情報リポジトリhttps://doi.org/10.14989/shirin_61_333(『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 中』塙書房、1995年。)

加藤良平 2026.5.28改稿初出
(承前)


 真床追衾について、紀第九段本文に「高皇産霊尊たかみむすひのみこと真床追衾まとこおふふすまを以て、皇孫すめみまあま彦彦火ひこひこほの瓊杵尊にぎのみことおほひて、あまくだりまさしむ」と「追」字で表されているが、紀第十段一書第四に「内床うちつゆか真床覆衾まとこおふふすまの上にあぐみたまふ」、「真床覆衾とかやとを以て、其のみこつつみて浪瀲なぎさに置き、即ち海に入りてぬ」とあるところから「覆」うものと考えられている。一書第四の前者は、天孫が海神の宮、すなわち、豊玉姫の家に入ってのこと、後者は、豊玉姫が皇孫との子を産むときのことである。延喜式には「衾・ひとへを大嘗宮の愈紀殿に置き奉り」とある。今日では、座布団に代用されているおくるみについて、大嘗祭に用いられるかとする象徴的な意味合いばかりが検討の対象になっている(注22)。しかし、具体的に解釈し直さなければ、記紀の話が作られた飛鳥時代当時の人が納得していた次元に到達することはできない。
 紀一書の「真床覆衾」の字面をもって、真床オフ衾は一段高くなった床を覆う敷布団のことかとされている。大嘗祭に用いる衾は、フス(伏)+マ(裳)を表すとされ、袖や襟のない大きなサイズの掛布団、ないし敷布団というのである(注23)。けれども、今に伝わる近世の夜着には掻巻かいまきを多く目にする。上代の掛布団が掻巻であったかどうかは不明である。「遂に真床覆衾とかやとを以て、其のみこつつみて波瀲なぎさに置き、即ち海に入りてぬ」(紀第十段一書第四)という表現からすると、イズメ(嬰児籠)の籠はないように見受けられる。置き去りにするのだから寝返りが打てないようにしておかないと窒息してしまう。うまくくるまなければならない。

左:いずめこの幼児(狩野永徳筆、上杉本洛中洛外図屏風左隻二扇部分、「伝国の杜だより」Vol.30.https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/fc-newsletter.htm)、右:ふすまの袋で藁がくるまれている(板橋区立郷土資料館展示品)
 建具のフスマには襖の字を当てる。襖障子のことで、なかに木の骨を格子に設けて下張し、上からきれいな紙を張っている。別名を唐紙という。ふすまは、小麦などを挽いて粉にしたときにできる皮の屑、小麦の糠をいい、家畜の飼料や洗粉にし、また、食べ物に混ぜて嵩増しに使うこともある。別名を、からこ、もみじという。以上から、フスマという言葉には、なにかしら膨らませたもののことを指すとわかる。米を玄米で食べるとは、米と米糠の両方を食べることである。栄養価が高くなってかえって良いともされる。米の場合、ふすまと書く。そのような言葉の使い方に従うなら、衾とはわた入れの夜着である。皇孫が被せられているところを考えると、掻巻になっていて赤ん坊が寝ることに使うもの、すなわち、ねんねこ半纏のことである(注24)。ねんねこのぶかぶかに「其の児」を入れ、隙間に「草」を詰め込んで帯を回せば、赤ちゃんは寝返りを打とうにも動けない。お漏らししてもすべて「草」が吸ってくれ、やがては田んぼの肥やしになる。姿は奴凧に緊縛されたような感じである。「覆ふ」という語には形のピッタリ感が備わっているようである。カイツブリが子どもをおんぶしていたことが思い出されるだろう。

左:紀伊國名所圖會二編六之巻上、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2563489/1/20をトリミング、右:掻巻(喜田川季荘・守貞謾稿、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2592405/1/12をトリミング)
 それが本当に「真床追(覆)衾」なのか。マドコオフフスマのマドコオフは、フスマ(衾)にかかる枕詞なのかもしれない。とこ(ト・コは乙類)は一段高くしたところのことをいう。オフは、「追」という用字からは先払いのことが、「覆」という字からは被せておおうことが思い起こされる。「覆ふ」は「負ふ」と同根の語である。背中におんぶすることである。きちんと「覆」ひながら「負」うためには、二人羽織式にするのがいちばんである。それこそがねんねこ姿である。一段高くしながらおんぶするとは、何のことはない、赤ん坊はおしめをあてがわれ、帯を締めた上の高いところにいるのである。古代の大人はふだん下着を着けなかったらしいが、赤ん坊は別である。この状態は、湿田に一段高くしている台(=トコ)を作ったうえにニホに積んでいくのと相同である。穂を内側、藁部分を外側にしている。稲積みのニホの内に通気孔とすべく穴を開けることがあった。それは、新生児の頭蓋骨にはひよめき部分の穴があって、いまだに接合しておらずひよひよと脈打つことに相同である。カイツブリのニホの子もひよひよ鳴くひよこである。ねんねこで背負われている子どもの姿こそ、皇孫とされる番能邇邇芸命をよく示していると言える。
 ねんねこがねんねこと呼ばれる故は、ねんねこで子どもをおぶったとき、姿形が猫背になっているように映るからだろう。ネコ(猫)という言葉は、和名抄に 「猫 野王案ずるに、猫〈音は苗、禰古麻ねこま〉は虎に似て小さく能く鼠を捕り粮と為すとす。」とあるものの上代の用例は乏しい。文献上では記紀万葉に用例がなく、ネコを飼っていたのか、家の周辺にいたのか未詳である。ただ、骨の発掘事例としては弥生時代の壱岐のカラカミ遺跡が古く、古墳時代の須恵器には足跡を残していて存在は確かである。そしてまた、猫背の姿勢は背の曲がったお年寄りの姿として卑近なものだっただろう。古語にクグセ(傴)という。「背傴〈世奈加久々世尓せなかくぐせに〉」(霊異記・下・二十)と見える。クグセのクグはクグム・クグマル(屈)、クグル(潜)と同根と見られ、セは背の意とされている。クグルはもと清音で、水が漏れ流れたり、狭いところを通り抜けること、また、水のなかを潜り行くことを表し、クク(漏)と同根とされている(注25)
 クグムの清音形ククム(褁)は覆って包むことをいい、おくるみに赤ん坊を包むことである。

 敷栲しきたへの 枕ゆくくる 涙にそ うき宿をしける 恋のしげきに(万507)
 いもが寝る とこのあたりに 岩ぐくる 水にもがもよ 入りてまくも(万3554)
 水泳みなくくる 玉にまじれる 磯貝の 片恋のみに 年はにつつ(万2796)
 山吹の 繁み飛びくく うぐひすの 声を聞くらむ 君はいともしも(万3971)
 子の中に、手股たなまたよりくきし子ぞ。(記上)
 泳宮くくりのみや、此には区玖利能弥揶くくりのみやと云ふ。(景行紀四年二月)

 お年寄りとは長く久しくこの世にある方のことである。ヒサシ(久)にかかる枕詞に「みづかきの」(瑞垣)があった。久しい人であるお年寄りの背中は曲がっている。ヒサシは廂・庇と同音の言葉で、廂・庇のもともとの義は日差しのことである。日が差すこととは日が向かうことである。方角としてできた言葉はひむかしであり、それと似た地名にむかがある。「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」とあるヒムカ(日向)とは日差しのことである。音声言語でしかなかったヤマトコトバにとって、話としてわかり合うためには、ヒサシ(日差・廂・久)はお年寄りの猫背のことに意が通じなければならない。お年寄りの猫背とは、お年寄りが立っているのか寝ているのかさえわからない姿勢で散歩していることをいう。そのような枯れた人たちと同じ状態にあるのが、刈り取って植物としては枯れている稲穂をある程度乾かした上で積み上げたニホの形である。いちばん上は廂(庇)となる蓋で覆われた。もうしばらくすると脱穀されて舎利になる。人は動物であり、命あるものとして骨と化すことは逃れようがない。そのお年寄りに与えられている仕事は孫の子守をしながら落穂拾いをすることである。農作業の中心となる根株刈りの稲刈りはスピード仕事で慌ただしく、動作が鈍く作業が遅くなってしまった老人には与えられない。ねんねこで赤ん坊を背負いながら、邪魔にならないところで収穫から漏れた分を拾ってもらうしかない。補助的な仕事ではあるが集めれば案外量は多い。
 ヒサシなのは、日当たりのいい場所に設けられた稲積みのニホに覆蓋を被せて雨除けにすることと悟ることができる。湿って発芽したりカビが生えたりしないようにしている。鼠の害を防ぎたいとの願いから猫背と形容して正しいことになる。むろん、完全に防ぐことはできない。それでも猫がいたり、また、鼠落としを設置しておけば効果的である。鼠落としはネズミをぺしゃんこに圧死させる。警蹕がオシオシと言いながら先払いをしていたのと同じことである。天気のいい日に老人がねんねこを羽織り孫をおんぶしながら散歩をするのは家の周りである。すなわち、ニホの周りである。孫を猫かわいがりするというのは、猫背でかわいがることでありつつ、ネズミを捕るネコと同じ役割の先払い役を担っているからである。加齢臭に赤子のおしめが加わってとてもよく臭う。ニホフ(臭・匂)という語は、色が赤く発色することを指すのが第一の用法である。いま、赤子をおんぶしている。第二の用法は、嗅覚を刺激する香り、臭みが感じられることを表す。「卆茸くじふるたけ」なるキノコは何ともいえない匂いを伴っているとの仮説は着眼としても正しかった。

 橘の にほへるかも 霍公鳥ほととぎす 鳴くの雨の 移ろひぬらむ(万3916)
 君は、万に物の香臭くにほひたるがわびしければいとあさましきには、涙もいでやみにけり。(落窪物語・巻一)

 記に「韓国からくに」とある伽羅からの地を占領したのは新羅である。米をシラグことが想起されていた。新撰字鏡に「精……  米志良久しらぐ」、和名抄に「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与禰しらげよね、上の音は傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米なりといふ。」、「𥽦米 唐韻に云はく、𥽦〈臧洛反、作と同じ、漢語抄に云ふ𥽦米、末之良介乃与禰ましらげのよね〉は精細米なりといふ。」、「糲米 崔禹食経に云はく、烏米、一名は糲米〈上の音は剌、比良之良介乃与禰ひらしらげのよね〉、烏米は一斛の糲を舂きて八斗の米を成すを謂ふなりといふ。」とあって、精白することが記されている。お米を精ぐ際には杵で搗き、食べる方は銀舎利で、食べない残骸は糠、つまり、ふすまである。シラク(白)には髪が白くなる意がある。

 ぬばたまの 黒髪かはり 白髪しらけても 痛き恋には 逢ふ時ありけり(万573)
 …… 若かりし 肌もしわみぬ 黒かりし 髪も白斑しらけぬ ……(万1740)
 黒髪の 白髪しらくるまでと 結びてし 心一つを 今解かめやも (万2602)

 いずれも加齢の話である。お年寄りと精米の関係は、ともにヒサシにしてニホなるものなのである。



 真福寺本古事記の「真米○○通笠沙之御前而」は、米の脱穀、脱稃、精白作業のことを言い表していると考えられる。のぎのついた籾状態の米粒は、羽根突きの羽子と似て固い実に二つの翼がある姿をしている。「通」字はトホル、トホスのほか、カヨフの意にも用いられる。カヨフの義に、行き来する、他方へとどく、出入りする、物事に通じる、のほか、意味が通じて似通う、の意がある。説文に、「通は達なり。辵に从ひ甬声。」とある。

 夫婦をふとめの道は、いにしへも今もかよへるのりなり。(景行紀四年二月)

 したがって、「まことよねかささきかよひて」と訓む。「まこと」とは、誠尤もなことということである。真偽を問うたときに真であるという意味ではなく、よくよく知恵をめぐらせてみたところ、まさに本当に間違いなくそうであったと気づくこと、それを強調するためにマコトという副詞を使っている。

 聞くがごと まことたふとく くすしくも かむさびるか これの水島(万245)
 たらちねの 母を別れて まことわれ 旅のかりに やすく寝むかも(万4348)
 譡 丁蕩帝當二反、貞實辞也。太々志支己止ただしきこと、又、万佐之支己止まさしきこと、又万己止まこと也。(新撰字鏡)

 同じ稲作とは言っても、熟した稲穂を順次穂首刈りしていた採集生活の延長上の様相とは異なり、まるまる株ごと鋸鎌で刈り取っていく先端的な稲作が一部で始められていた。品種が均一化されていて、田植えして育てられ、株刈りにより収穫が一気に進められた。稲作が産業化し、藁も大いに生活資材として活用するようになった。藁とは製品名である。稲の茎、稲柄いながらを水に浸して叩くなどして柔らかくしたもので、藁化することで綯う加工ができるようになり、さまざまな生活用品に作られた(注26)。生活全般が田んぼの稲作に絡めとられていくことで、農耕生活という新時代が始まった。地面に貯蔵穴を掘って埋めておくリスのような貯蔵法もニホという大量の稲束の山積みへと変化した。そして、年間を通して安定してまずくない米を食べること、また、おそらくはこちらの方が重要と考えられただろうが、酒造に適した米が収穫できるようになった。元肥として藁や籾殻を鋤きこみ株を踏みにじることで常湛の田は毎年、稲作をくり返すことができた。田が工場と化し、循環型農業という魔法を手に入れた。年間作業のルーチンワークをこなせば食料と酒が自給できたのである。余剰米も生れて先払いが可能になるほどの技術革新であった。稲作法の大転換を示す言葉がニホとオシである。
 天孫降臨の説話に、サルタヒコやサルメの話が絡んでいた第一の所以は轡と猿轡のもじりである(注27)。猿と関連する語にサル(戯)がある。周辺の音を見てみると、ジャル(戯)はザレル(戯)の変化形で、方言に「じらける」といえばジャレル(戯)ことを意味する。また、シャル(曝・晒)とはサレル(曝・晒)の変化形で、長い間風雨にさらされて色褪せること、特に白っぽくなることをいう。ニホンザルの毛は背側は暗褐色であるものの、腹側、特に顔の周りには灰褐色で白っぽいものが多い。子どものことを砂利といい、米粒のことを舎利という。精米のために臼で搗いていると、米粒は杵にまとわりつきながらじゃれ回っている。天孫降臨の話に猿田毘古神や猿女君の話がまとわりつく第二の所以である。
 ホノニニギの降臨は、稲穂がニホに積まれることを物語ったものと理解される。紀本文に「槵日の二上の天浮橋」(注28)とあるのは、刈り取った稲をハザ(稲架)懸けしている様子を表していると想定できる。稲架は、ハサ、ハセ、ハデ、ホギ、ハッテ、イナグヒ、イナキ、イネカ、イネカケ、ウシとも呼ばれている。刈り取った稲を天日干しにして乾燥させるために、間隔をあけて斜めに組んだ竹竿の足場を建て、上にもう一本の竹竿を横架させて結びつけ、そこに稲束を渡し懸ける装置である。掘っ立て柱に何段も竿を渡した高いものや、脚をいくつも建てて横に長いもの、畔に並べて植えたトネリコなどの木を利用するものなどさまざまである(注29)。そのやぐらのようなハザに懸けるときや外す際、まるで猿のように高いところを行き来して稲束を操っている。天孫降臨と猿との関わりの第三の所以である。
 「槵日」とは、クシブ(奇)の連用形に、「日」を当てて乾燥させる意を加えて固有名詞にした語のようである。天日干しは今でもおいしいと評判である。「稜威の道別に道別きて」というのも、稲束を半分に分けるようにして跨らせることの謂いと推察される。記に、「此地は、……朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚吉き地」とあるのも、天日の下での乾燥、保存に絶好の場所ということだろう。収穫された稲はハザ懸けしてある程度乾燥させてからニホに積んでおき、食べる分だけ稲穂から脱穀し、脱稃し、精米し、調理する。その一連の工程を「槵触之峯」と譬えたようである。
 「天の石位を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天浮橋に、うきじまりそりたたして」(記)、「皇孫、乃ち天磐座をおしはなち、且、天八重雲を排分おしわけて、稜威の道別に道別きて」(紀本文)の「天の石位」、「天磐座」のイハは堅牢な、の意である。天上世界に堅固な場所を求めようとすると論理矛盾が生じる。それでも高いところのクラ(座)である。稲穂を高い座に懸けさせることだとすれば、容易にハザ(稲架)のことを指しているとわかる。そこから、オシはなち、オシわけて来る。オシオシと警蹕の声が聞こえる。「いつのちわきちわきて」、「稜威の道別に道別きて」とあるのは、段重ねのハザが櫓のように組まれているところを鳶職のように行き交うことの謂いではないか。
 「天の八重たな雲」、「天八重雲あめのやへたなぐも」とある。雲海が棚になっているように見えるとは、稲を段々に干し懸けているところを形容していると受け取ることができる。「水田種子たなつもの」は「陸田種子はたつもの」の対義語である。

 乃ち粟稗麦豆あはひえむぎまめを以ては、陸田種子はたけつものとす。稲を以ては水田種子たなつものとす。(神代紀第五段一書第十一)

 水稲がタナツモノと呼ばれていた点について、大系本日本書紀は「タナは種。ツは助詞ノにあたる。種のものの意。稲についていう。」(61頁)とするが、粟稗麦豆や他の植物も多くは種のものである。タナの意は、段重ねにしたハザ(稲架)のことをタナ(棚)と言っている可能性がある。粟・稗・麦・豆類も干すが、本邦において櫓のように段重ねの架に懸けて干す光景が広範囲にわたって行われたのは稲をおいて他にはない。収量の多いものを効率的に干すための方法として伝来した新技術だったのだろう。
 五世紀、大陸から新技術がまとまってやってきた。それぞれの要素は相互に絡み合いながら、倭の人、すなわち、ヤマトコトバを母語とする人たちは受け入れていった。ただし、それは、読み書きすることによってではなく、話し聞くことによって伝えられたものであった。なかにわずかにリテラシーのある人もいたが、彼らも文字という記号に絡め捕られずになぞなぞを駆使して言葉のなかで理解の完結するメタ言語的な頭脳を持っていたと考えられる。そうでなければ周囲の無文字の人たちとコミュニケーションをとることができない。そのような彼ら、人口比でいえばほんのわずかな限られた人が記紀の基となる話を構想、構成していたものと考える。筆者は、その人たちの後ろ姿をおぼろげながら見ることができる。朝廷の中心にいた厩戸皇子や蘇我馬子である。話をまとめるに当たって天皇代ごとに寄せ集めていったため、表面上、天皇制の正統性を主張するかに見える形態になっているが、事の本質は、技術革新を誰でもが理解でき、伝達していくことができるものである。文字を持たない人たちが、技術革新の意味するところを共有するために、話として楽しめる仕掛けが必要とされたのである。皆が知っておかなければならない大事なことだから、ヤマトコトバのなかに深く刻まれ、語り継いでいくことが可能な話として構成された。ところが、多くの人たちが文字を持ってしまって以降今日に至るまで、記紀の話は意味不明のままお蔵入りすることとなってしまった。時に読み返されることがあってもよくわからず、神話として片付けることで認知的不協和から逃れてきたのだった。

(注)
(注1)「天孫降臨」という言い方は一条兼良・日本書紀纂疏に見え、章句立てとして使われている。「神話」という語は明治以降に造られた漢語である。ギリシャ神話のことをいうMythos(ドイツ語綴り)の訳語として造られたとされる。①神々についての物語、②民衆間に信仰をもって語り伝えられた物語、③宗教性・呪術性を存し、社会を規制する力をもった物語、という要件を満たしているものという。
(注2)(2)・(3)については、拙稿「猿田毘古神と猿女君」参照。また、ホノニニギの名義については別に論ずる。
(注3)記の「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命」については、「高」字をタカと訓む説とコと訓む説があるが、「日高」はヒコと訓むのが正解である。拙稿「古事記の「天津日高日子」・「虚空津日高」の「日高」はヒコと訓むべき論」参照。
(注4)西郷2005.に、「この「此地は韓国」にかんしても、同じこと[本文のコラプション]がいえよう。いっそう悪いのは、ここでは本文の乱れと、伝承の間におのずと生じた崩れとがかさなっているらしいことだ。これは記紀時代すでに意味不明の、だがおろそかならぬ聖句として伝えられていた部分であり、そしてその故に本文の乱れをも誘ったのに相違ない。」(78頁)とある。そういうことではない。
(注5)新釈全訳日本書紀には「「槵」はムクロジを指すが、古訓がクシに宛てるのは「串」の訓をとったものか(『通証』が指摘するように、槵の異体字に梙がある)。クシヒは「奇霊」の意。「二上」は頂が二つに分かれた状態をいう。」(203頁)とある。
(注6)当該個所は意味不明として、本文に脱落や竄入があるとする説が多い。諸説は伊藤2010.にまとめられている。
(注7)新編全集本古事記に、「現実[の地名]との厳密な対応を求めることは問題」(118頁)とある。
(注8)西郷2005.はこの説に「賛成」(57頁)という。先払い役の存在は、紀本文に、「先遣我二神駆除平定」、一書第一に、「先往平之」、「先行駈除」、「先駆者」、一書第四に、「立天孫之前」とあることからも意識されていることがわかる。
(注9)高木2008.には、「[神道儀式における]「警蹕」とは、現況からの一例として現代日本語の「オ」の音を同音高で長く引いて「オー」と、平伏または馨折して唱える音声のことで、「ミサキオイ」とも称す声のマジックである。神霊や尊い方の入御、出御の際等に唱えて、声を出すことによって、まわりをいましめ先払いをするのである。神道の祭儀中で最も神秘の行事の折に発声され、現在の神社祭式では普通一声または三声唱えるとされる。……又、現況においても、歴史的にも「警蹕」には「オーシー」、「ケーヒー」等、既述以外にも異なる発声音が存在する。」(53頁)とある。
(注10)拙稿「「かがなべて」考」参照。
(注11)「卆」字は法華義疏や文祢麻呂墓誌銘に残る。拙稿「三輪山伝説」参照。
(注12)紀一書第六に、「竹島」とある個所、傍訓にタカシマとあるが、筆者はタケシマではないかと考える。キノコはタケである。シイタケ、マツタケ、ヒラテケ、ワライタケ、エノキダケ、などなどである。和名抄に「菌 爾雅注に云はく、菌〈音は窘、太介たけ、今案ふるに数種有り。木菌、土菌、石菌。並びに兼名苑に見ゆ〉は形、きぬがさに似る者なりといふ。」とある。なお、塔には五重塔のように層を重ねるものがある。ツクシに見えることがあって、それが「竺紫(筑紫)の日向」という設定を呼んでいるのだろう。ツクシは土手の日の当たる斜面などによく生える。養分の少ない酸性土壌に顔を出す。拙稿「多武峰の観とは何か─両槻宮・天宮という名称から見えてくるもの─ 」参照。
(注13)柳田1978.に、「……この稲の堆積には一つの様式の共通があることで、すべて稲のたばを、穂を内側にして円錐形えんすいけいに積む以外に、最後の一束のみはかさのように、穂先を外に向けておおい掛ける者が今も多く、さらにその上になお一つ、特殊な形をした藁の工作物を載せておくふうが今もまだ見られる。」(256頁)とある。そこに稲の霊が降りて来て宿り籠もると指摘されているが、時代が下ってから行われた後付けの信仰のように感じられる。言葉が先にあり、その言葉に従って思考を広げていくのが常である。言葉がなければ考えることはできない。
(注14)土屋又三郎・耕稼春秋(『日本農書全集4』)に、農作業が解説されている。

 ……稲干〈ほすとハ、稲一把宛四方へ株を上にしてひろけて、堅田ハ其田に干、野川原これ有所ハ田より持出て干なり〉。……稲刈六把宛立置也……。是を束立と云也。雨天に見ゆれハ、其間に穂を外へなして算に積、則三束程有により三束にうと云、堅田ハ其田に積、泥田ハ疇の上に積、四五日過れハ雨降晴の時分風にて干る。後はそうけにうにする〈そうけとハ、二ツを一ツに積、穂を内へするを云、是穂をぬらすましき為也〉、天気続て能れハ三日四日にて能干る。惣して稲ハから能干れハ、おのつから干る。からぬれて、穂ぬれすといへとも籾やわらかに成物也、是稲のから穂にかへる故也。皆泥田にて野河原なき所ハ、稲をはさに懸る〈はさとハ二品有、地はさ、作はさ、かけ木、立用品々あり〉。はさの稲天気能時分は七日程にて能干る。雨天の時分ハ十二三日にて大方よく、但作りはさ多ならさる故、積替とて稲六七束のにうを疇にして、からを能風にふかせ、二三日立て積直す、又風にふかせ七八日程にて能干る。但川原近辺惣して嵐つよき所ハ猶能干る。稲にう大豆小豆にうする。大豆ハ所により木の枝なとに懸置所も有。けらバをする時ハ大ににうを所々にひろけ、風に吹せ取入てけらバとする物也。下旬晩稲稲刈。中稲にうにする、稲数、にう一ツに五百束より千六七百束迄、又ハ弐千束迄もする、比にうをけらバと云。小百姓ハ百四五十束より弐三百束にうとする也〈蓋にハ藁のま大唐藁又ハ常のわらにてする也〉。……(28~31頁、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838302/34~35参照)

(注15)食べたからかもしれないが、おいしくないという感想も聞かれる。
(注16)古い記録として、古今著聞集・巻二七に、「各々相議して、かの水鳥とらんとて、もち縄の具など用意して行き向はんとするを、……」とある。また、農商務省編『狩猟図説』(明治25年)に、「[下総手賀沼]……黐縄ハ方言「ボタ」縄ト唱ヘ秋分ノ頃葦穂ヲ苅リ採リ花ノ実子ヲ脱シ其ノ袴ヲ日光ニ曝シ竹箆ヲ以テ細裂シ之ヲ沸湯中ニ入レテ一煎シ再ヒ之ヲ乾燥シテ綯ヒタルモノニシテ径一分ニ充タズ長サ一千尋ヲ以テ一縄ト唱ヘ之ニ煎黐ヲ塗リ「ヲダ」巻ト名クル滑車ニ絡ヒ置クナリ」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/993625/1/49)とある。
(注17)本居宣長・古事記伝に、「○水垣ミヅガキ宮、凡て水垣と云は、みづみづしき垣と、美称ホメタタヘたるなるを、【水は借字なり、書紀に瑞字を書れたるは、さらにアタらぬことなるを、美豆ミヅに用ふる字なき故に、アマネく此字を書ならへり、】宮号ミヤノナとせられたるなり、【必しも此宮の御垣の、水垣なりし由のには非ず、なほ水垣の事、師の冠辞考に委し、さて歌に、水垣のヒサしとつゞけよむは、は、此号につきてのことと、昔より心得つれども、よく思ふに、然には非ず、抑如此カクつゞけよむことは、萬葉十一に、処女等乎袖振山水垣久時由念来吾等者ヲトメラヲソデフルヤマノヒサシトキユモヒキツアレハ、これ始なり、此歌を四巻には、人麻呂の歌とて載たれど、人麻呂よりは古く聞ゆ、石上イソノカミフル社は、いと上代よりの神社にて、其水垣は、ヒサしき世々をたる故に、ヒサしの枕詞にせしなり、かくて後は、振山フルヤマといはで、たゞ水垣の久しとのみもよむは、右の歌にユダネて、ハブけるなり、若号にツキていはば、水垣宮のとはいはでは、言たらず、水垣とのみにては、宮号にはなりがたかるべし、】」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/933885/1/57、漢字の旧字体は改めた)とある。明解とは言えない。
(注18)弥生時代の穂首刈りについては、均質でない穂ごと、また、熟す時期に合わせた採取法であったという説や、イネは多年草だから湿地にそのままにしておいて、二期作ないし翌年にひこばえから収穫を得たとする説(「禰島ねのしま……粳稲いね常に豊かにして、一たびふたたびをさむ。」(天武紀十年八月))、田植えではなく種を蒔いていたからとする説など、いくつか理由づけされている。
 他方、株もとで刈る方法(根刈り法)は古墳時代から見られはするが、鎌の出現によって一斉に行われたわけではなく、十一世紀になってようやく定着するもので、それまでは穂刈りと根刈りが共存していたとされている(寺沢1991.50~69頁)。そこに、「穂首を竪臼に入れて舂く作業は、脱穀から脱稃までを一度に行えるといった作業の簡略化以上に、根刈りでは収穫に引き続いて集中して行わねばならない乾燥・結束→脱穀・脱稃の多大な労働力を一気に日常的な消費レベルでの家内労働に分散することができる。また、逆にいえばそうした労働力を集中しなければならないはずの脱穀・調整作業が技術的にみて非能率的な段階であったからこそ頴稲としての収穫・貯蔵も意味をなしえたとみることができよう。」(62~63頁)とある。生育の度合いが一定でないから根刈りが困難であること、種稲にする際の品種管理に困るから穎(頴)納が求められたり、湿田の直播のために雑草との共存から穂首刈り以外方法がないこと、藁の大量使用の時代を迎えていなかったことなどを理由としてあげている。しかし、稲積みのニホが乾燥・貯蔵方法として優れていること、なにより選別作業が煩わしいこと、竪臼で舂くことはとても時間のかかることから考えると、穎稲での収穫の事情について通り一辺倒に説明しつくすことはできなだろう。
 安藤1951.は、「穎稲(束)の制度が平安時代まで及んでゐることは何故であるか。……穂首刈と根刈とその刈取る稲茎の上部であるか下部土ぎはであるかの相違に過ぎないけれども、収穫後の作業に可なりの開きがあることがその主因であると思はれる。即ち根刈では穂首刈に比べて貯蔵上遥かに多くの倉を要することであり、臼で脱穀を行ふことも困難であるから穎稲を臼で舂くより便利な脱穀方法が現れぬ限り旧慣が維持せられることは当然であるまいか。」(79~80頁)、「根刈に進むべき機会は早くからあつたのであるが、脱穀の方法としての籾扱が現れなかつたからその実行が著しく遅れたのであらうと想像せられるのである。」(90頁、漢字の旧字体は改めた)とする。また、古島1975.は、「『枕草子』に始めて「扱く」という作業を見るのである。」(167頁)として、「……稲と云ふ物多く取り出でて、若き下衆女どもの汚なげならぬ、其の辺の家の娘、をんななどひきゐて来て、五六人してがせ、見も知らぬくるべき物、二人して引かせて、歌謡はせなどするを、珍らしくて笑ふに、……」(枕草子・第104段)といった記事を紹介している。
 比良野貞彦・奥民図彙に、「コキ竹 長サ三寸計 太サ如図 是ハ稲ノ穂ヲコク具ナリ」とある。『日本農書全集1』には、「古代においては、稲は穂首刈をしたので、稲の穂は木製の臼に入れ、木製の杵で搗いて脱穀と籾摺りとを同時に行った。……その後根刈りになってから、「こき箸」「扱竹」などと呼ばれる脱穀専用の農具が現われて、籾摺りとは別個の作業になった。これは二本の竹の一方の端に節をつけて結び合わせ、これを直立させ、稲株を棒の間に挟んで扱くものである。ふつう棒の長さは四五センチ程度のものである。この図の扱竹は長さが一〇センチていどのものであるから、ふつうの扱竹にくらべて、著しく低能率で実用性にとぼしい。たぶん、農家の片隅に置いてあったものを、見つけ出して紹介したものであろう。」(235~236頁)とある。
 枕草子の「見も知らぬくるべき物」は籾摺臼のことかとされている。そのような先端技術を見るまで、稲扱き具が残っていないからといって脱穀は竪臼で行った、だから穂首刈り指向にあったとは考えにくい。民俗に、千歯扱きに先んじて扱き箸があるのだから、道具を使ったとするなら永らくそれを使っていたと考えるのが妥当だろう。和漢三才図会の「稲扱」の項には「扱竹」と千歯扱きが図示され、千歯扱きは、「其のちかみち扱竹の十倍にして、故、孀婆ごけばばなりはひを失ふ。因りて後家倒しと名づく。」とある。
 飛鳥、奈良、平安時代に根刈りが進まなかった理由は、深い常湛田の場合どうすることもできなかったし、品種が混在して稔りの時期が異なっていたことに大きな理由が求められよう。穂首刈りといっても当然のことながら穂に茎はついていて、そのままに竪臼に入れていては杵を振り下ろす人にとって酷というものである。臼は杵の重さをもって圧としている。ひどい肩こり、腰痛に悩まされる。扱いてから舂くほうがよほど楽である。また、扱き箸をどのくらいの長さにするかや、竹を二本使うヌンチャクタイプにするか、それとも割り竹にするかについて、生産効率から一定の寸法に収斂されると考えるのは誤りである。穂首刈りしたものや落穂拾いをした束ねにくいものには小さな扱き箸が使いやすいし、まとまって大株束になっているものには大きな扱き箸が使いやすい。機械ではなく道具について標準化されていくとは考えにくい。例えば、鑿や台鉋の大きさや形状はバラエティに富んでいる。使う人が使う場所によって使い勝手の良いものに細工する。扱き箸の場合、相手が竹なのだからものの半時もすればできてしまう。そして、サルもしているように手でじかに扱くこともあり、手袋を嵌める方法も考えられる。脱穀の全行程(稲穂から籾粒を外すこと、籾粒から籾殻を外すこと、玄米から糠層を外す精米)を一緒くたにして、すべて竪臼・竪杵で行ったとは言えない。
 万葉集などには、「く」(コは甲類)、「扱入こきる」(コ・キは甲類)の例がある。

 引きぢて 折らば散るべみ 梅の花 袖に扱入こきれつ まば染むとも(万1644)
 秋風の 吹きき敷ける 花の庭 清きつくに 見れど飽かぬかも(万4453)
 椾稲 伊祢古久いねこく(新撰字鏡)
 稲舂けば かかが手を よひかも 殿の若子わくごが 取りて嘆かむ(万3459)

 この稲扱きは脱粒である。稲を刈り取り、乾かし、もっぱら家の近くまで運んでから、必要な分だけ米にしてご飯やお酒の原料にする。その最初に行う手順である。作業としていえば先払いを担っている。動作としてもはらう姿に見える。後代に遺物が残っていない理由は、手でじかに扱いたり、道具としてなら割竹のままの姿であったため認識されないからとも思われる。手で直接するとあかぎれができるが、それを詠んだ歌が万3459番歌ではないか。「稲舂けば」は「稲[ヲ扱キテ]舂けば」という一連の作業を言うから手が荒れるのである。竹をつかった扱き箸の場合、論理学的に言い表すなら挟み竹と呼ぶことができる。挟み箱の前身の名称と同じである。オシオシと警蹕の声が聞こえてくる。理屈が循環しており、文字を持たない上代の人の考え方に合致している。ことことの一致を極めようとしていたヤマトコトバにあって、語学的証明になっている。

稲を扱く(左:宮崎安貞・農業全書・巻1、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2558568/1/27をトリミング)、右:橘守国・絵本通宝志、享保14年(1729)刊、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200023033/20?ln=jaをトリミング)
(注19)古墳の副葬品に鉄の武具が多数納められているのは、実際の戦闘が少なくて平和な時代であったからとする説がある。ニホが積まれるに足る条件は揃っていたようである。
(注20)稲作の伝播について、江南からの直接か、朝鮮半島経由かといった議論がある。それは第一次稲作伝来の話である。筆者は、その稲作のやり方の新方式、いわば第二次稲作伝来に、新羅由来の技術があずかっているのではないかと考えている。
(注21)新羅を導く枕詞に「たくふすま」、「栲綱たくづのの」など、たくが関係する言葉もある。栲はこうぞの古名で、樹皮から繊維を取った。丈夫なため、綱や領布、衾の材料に用いられ、後には紙の原料ともされた。コウゾ(カウゾ)はカミソ(紙麻)の変化した語とされている。色が白いので同音の新羅にかかるという。拙稿「神功皇后の新羅親征譚について─新羅(しらき)・百済(くだら)の名義を含めて─」参照。

 栲衾 白山風しらやまかぜの なへども 子ろがおその ろこそしも(万3509)
 栲衾 新羅へいます 君が目を 今日けふ明日あすかと いはひて待たむ(万3587)
 栲綱の 新羅の国ゆ 人言ひとごとを よしと聞かして 問ひくる ……(万460)

(注22)折口信夫は大嘗祭と真床追衾との関連を論じている。『折口信夫全集3』に、「日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、床襲衾ドコオフスマと申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此床襲衾ドコオフスマこそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすが・・・ともなり、皇太子ヒツギノミコの物忌みの生活を考へるよすが・・・ともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。」(188頁)とある。大嘗祭の祭式は日本書紀の記述を参考に作られたものかもしれないが、神代紀第九段の記述は大嘗祭を描いたものではない。紀の解釈の早い時期のものとして、釈日本紀に「真床追衾 私記曰。問。此衾之名、其義如何。答。衾者、臥床之時覆之物也。真者、褒美之辞也。故謂真床追衾。一書文、追字作覆也。訓読相通之故、並用。今世、太神宮以下、諸社神体、奉御衾。是縁耳。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100085022/145?ln=ja)とある。大嘗祭との関わりについては、岡田1990.やそれに対する反論として榎村1991.がある。筆者は、大嘗祭について議論するものではない。日本書紀に登場する「真床追(覆)衾」とはどのようなものを指していっているのか、具体物のありさまについて考えている。無文字文化においては具体的思考しか起こり得ないことは、発達心理学における知見から敷衍されるところである。
(注23)田沼善一・筆の御霊前編巻之六(『新訂増補故実叢書第九』)に、「中右記、台記などにも、夜るの物を、直垂と云ふ事見え、兵範記、保元三年二月九日の条に、聟取の事を記して、男女相伴テ被帳中ニ、下官覆衾、〈直垂也、〉ともみゆ、直垂也とことわり注るは、袖なきふすまとまぎれざらむ為なり 江家次第、新甞祭の条には、内侍率縫司ヲ、供メ寝具ヲ於神座ノ上ニ、退出、〈御衾也、〉とあり、そは直垂ならで、打まかせたる衾なるよしを断れる者なり、」(158頁)とある。
(注24)喜田川守貞・守貞漫稿に、「又小児を負ふ者冬月は半身の掻巻を用ふ者左図の如くす 江戸に有之京阪不之 江俗号之てねんねこ半天と云江俗嬰児赤子をねんねこと云により号之也」とある。
(注25)モルというヤマトコトバには「漏(洩)る」、「る」、「る」があり、漏れ出ることと後二者とどのような関係にあるのか不明である。ただ、そこに籠という媒介が入るとすべてにおいてカバーする概念が浮かび上がる。いずめの姿を見れば、排泄物が漏れることも、収穫物を盛ることも、子守りのために籠らせていることも包含する意が認められるだろう。それは、けっして語源的につながっているということではないが、意図的か偶々なのかはさておいて、言葉の体系としてうまくできていると感心せざるを得ない状況にある。「る」は「」と関連ある語であるとされているが、籠には目があって尿を漏らすから赤ん坊はそこに居続けることができている。言葉のあり様から、子守こもり(コは甲類)とはこもり(コは甲類)なのだと知らされている。拙稿「無目堅間(まなしかたま)とは」参照。
(注26)同時に莚機も舶来したのではないか。
(注27)拙稿「猿田毘古神と猿女君」参照。
(注28)「天浮橋」の浮橋とは何かについて、諸説行われている。寺川2009.にまとめられている。

 Ⅰ 道にあって渡る橋ながら、天地の間なので形態は梯子とする説
1 天地の間を神たちが昇降する道に架かる橋で、天に通う橋なので梯子状であり、神代にはあちこちにあった。〔本居宣長・西宮一民〕
 Ⅱ 基本的には天から地上に降る橋とみる説
2 天から地上に降る橋であった。〔倉野憲司〕
3 高天原から天降る橋であるが、常に「立たして」と表現されているのは、降臨の祭式に由来することを暗示する。〔西郷信綱・荻原浅男〕
4 聖なる世界の辺境には、聖なる世界の一部として俗なる世界に向かってさし出された接点としての構築物で、地上に支える場所がないので浮橋という。〔金井清一〕
5 天に浮く橋で、『古事記』では高天原から地の側に特別な神が天降る、いわば世界関係において、意味をつ特別の場。〔神野志隆光〕
 Ⅲ 天地を結ぶ梯子説
6 天への梯(橋)と観想された大きな岩石。〔松村武雄〕
7 天へ向けてかかる梯子。〔井出至・石母田正他・益田勝実〕
8 古くは二つのものを繋ぐものはすべてハシであるが、ここでは梯子。〔中西進〕
 Ⅳ その他の説
9 戦艦をいう。〔新井白石〕
10 磐船をいう。〔平田篤胤〕
11 虹をいう。〔アストン〕(324~325頁、出典は省略)

(注29)稲野、前掲書や浅野2005.参照。ハザ(稲架)がいつから行われていたか、不明である。記録としては、類聚三代格第八・承和八年(841)閏九月二日太政官符「稲を乾す器を設くべき事」に、「大和国宇陀郡人、田中に木を構へ種穀をかけせり。其の穀の𤍜かはくこと火炎に当るに似たり。俗名、之れを稲機いなばたと謂ふ。今、諸国往々有る所在り。宜しく諸国に仰せて広く此の器を備はすべし。専ら人を利する縁なり。疎略なるを得ず。」とあるのが早い記事ではないかとされている。やっているところではやっているが、やっていないところではやっていないから、やるようにと勧められている。
 立てた木のはざまに稲の束を挟み懸けるからハザなどと言うのかもしれないが、未詳である。

(引用・参考文献)
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稲野1981. 稲野藤一郎『ハサとニホ』ハサとニホの会、昭和56年。
榎村1991. 榎村寛之「古代皇位継承儀礼研究の最新動向をめぐる一考察」『歴史評論』489号、校倉書房、1991年1月。
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岡田1990. 岡田荘司『大嘗の祭り』学生社、1990年。
尾崎2016. 尾崎友光『古事記續考と資料』新典社、平成28年。
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『折口信夫全集3』 折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集3』中央公論社、1995年。
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『三巻本枕草子』 岸上慎二編『三巻本枕草子』武蔵野書院、1961年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
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新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
『新訂増補故実叢書第九』 故実叢書編集部編『新訂増補故実叢書第九』明治図書出版、昭和30年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
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高木2008. 高木英理子「警蹕(警蹕)音楽─数千人による江戸中期春日若宮おん祭神事のチャント─」三田芸術学会編『芸術学』12号、同発行、2008年。
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『日本農書全集1』 森山泰太郎・稲見五郎「奥民図彙・解説」山田龍雄・飯沼二郎・岡光夫・守田志郎編『日本農書全集1』農山漁村文化協会、昭和52年。
『日本農書全集4』 堀尾尚志・岡光夫校注・執筆『日本農書全集4』農山漁村文化協会、昭和55年。
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加藤良平 2026.5.27改稿初出


 いわゆる天孫降臨神話(注1)は、(1)天神の命令で平定された葦原中国あしはらのなかつくににホノニニギ(あま津日子番能邇つひこほのに々芸命にぎのみことあま彦彦火ひこひこほの瓊杵尊にぎのみこと)がお伴の諸神とともに行くこと、(2)あめ八衢やちまたに立っていたサルタヒコ(さる田毘たび古神このかみ猨田彦大神さるたひこのおほかみ)が先導して降り立つこと、(3)アメノウズメ(天宇受売命あめのうずめのみこと天鈿女命あまのうずめのみこと)の子孫が名をもらって猿女君さるめのきみと称したこと、(4)海鼠の口が裂かれることなどが一連の話になっている(注2)
 (4)のナマコの口の話は古事記にしかなく、ナマコの口の起源譚をされている。それが何を意味しているのか、何の話なのか了解されることなく放置されて今日に至っている。人は大人になると、ナマコの口の話は寓話か童話の類としか捉えず相手にしなくなる。しかし、(1)~(4)は一連の経過として編まれているから同列に扱わなければならない話(咄・噺・譚)である。本稿では、(1)のいわゆる天孫降臨の主話について古事記を中心に考察する。該当する記紀の主な部分を、訓の定まらないところは原文のまま記す。

 かれしかくして、天津日子番能邇々芸命にのりたまひて、あめ石位いはくらを離れ、天の八重やへたな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、あめの浮橋うきはしに、うきじまりそりたたして、つくむかたか千穂ちほ久士布流多気くじふるたけ天降あまくだす。故、爾くして、あめの忍日おしひのみことあま久米命くめのみことの二人、あめ石靫いはゆきを取りひ、頭椎かぶつち大刀たちを取りき、あめ波士はじゆみを取り持ち、あめ真鹿児矢まかごやばさみ、さきに立ちてつかまつる。故、其の天忍日命、〈此は大伴連等がおやぞ〉。天津久米命、〈此は久米直等が祖ぞ〉。是に詔はく、「此地者向韓国真米通笠沙之御前、朝日のただす国、夕日の日照ひでる国ぞ。故、此地ここは、いとところ」と詔ひて、そこいはに宮柱ふとしり、高天原たかあまのはら氷椽ひぎたかしりています。(記上)
 時に、高皇産霊尊たかみむすひのみこと真床追衾まとこおふふすまを以て、皇孫すめみま天津彦彦火瓊瓊杵尊におほひて、あまくだりまさしむ。皇孫、すなは天磐座あまのいはくら〈天磐座、此には阿麻能以簸矩羅あまのいはくらと云ふ。〉をおしはなち、また天八重雲あめのやへたなぐもおしけて、稜威いつわき道別ちわきて、むかたか穂峯ほのたけに天降ります。既にして皇孫の遊行いでまかたちは、くし二上ふたがみあまの浮橋うきはしより、浮渚在うきじまり平処たひらに立たして、〈立於浮渚在平処、此には羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志うきじまりたひらにたたしと云ふ。〉しし空国むなくにを、ひたから国行去とほり、〈頓丘、此には毗陀烏ひたをと云ふ。覓国、此には矩貳磨儀くにまぎと云ふ。行去、此には騰褒屢とほると云ふ。〉吾田あたの長屋のかさ之碕のみさきに到ります。(神代紀第九段本文)
 [猨田彦大神]こたへて曰はく、「天神あまつかみみこは、まさつくの日向の高千穂の槵触くしふるたけに到りますべし。吾は伊勢のなが五十すず川上かはのへに到るべし」といふ。……皇孫、ここに、天磐座を脱離おしはなち、天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、天降ります。つひに先のちぎりの如くに、皇孫をば筑紫の日向の高千穂の槵触くしふるたけに到します。(第九段一書第一)
 故、天津彦火瓊瓊杵尊、日向の槵日のたか千穂之ちほのたけ降到あまくだりまして、膂宍の胸副国むなそふくにを、頓丘から国覓ぎ行去り、浮渚在うきじまり平地たひらに立たして、乃ち国主事勝国勝長くにぬしことかつくにかつながしてひたまふ。対へてまをさく、「是に国有り、取捨ともかくもおほみことまにまに」とまをす。(第九段一書第二)
 一書に曰はく、高皇産霊尊、真床覆衾まとこおふふすまを以て、あま彦国光彦火ひこくにてるひこほの瓊杵尊にぎのみことせまつりて、すなは天磐戸あまのいはとを引き開け、天八重雲を排分けて、あまくだり奉る。時に、大伴連の遠祖とほつおや天忍日命あまのおしひのみこと来目部くめべの遠祖天槵あまくし津大つのおほ来目くめひきゐて、そびらには天磐靫を負ひ、ただむきには稜威いつ高鞆たかともき、手にはあまの梔弓はじゆみ天羽あまのは羽矢はやり、八目やつめの鳴鏑かぶら副持とりそへ、又かぶ槌剣つちのつるぎきて、天孫あめみまみさきに立ちて、遊行降来くだりて、日向の襲の高千穂の槵日の二上峯ふたがみのたけの天浮橋に到りて、浮渚在之平地に立たして、膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去りて、吾田あたながの笠狭の御碕に到ります。(第九段一書第四)
 是の時に、高皇産霊尊、乃ち真床覆衾を用て、皇孫あまひこほの瓊瓊杵ににぎねのみことに裹せまつりて、天八重雲を排披おしひらきて降り奉らしむ。故、此の神をたたへて、天国饒あめくににぎ彦火ひこほの瓊杵尊にぎのみことと曰す。時に、降到りましし処をば、呼びて日向の襲の高千穂の添山峰そへやまのたけと曰ふ。其の遊行いでます時にいたり、云々しかしかいふ。吾田の笠狭のさきに到ります。遂に長屋の竹島たけしまに登ります。乃ち其の地を巡りませば、そこに人有り。(第九段一書第六)

 古事記の話の概要は次のようなものである。天照大御神あまてらすおほみかみ高木神たかぎのかみは、太子おほみこ正勝まさかつ勝々速かつかちはや天忍穂あめのおしほ耳命みみのみことに対して、今や葦原中国は平定し終わったから、委任に従って天降りして統治するようにと詔した。すると、彼は、自分が降りようと準備していたら子どもが生まれた、名はあめ邇岐志にきしくに邇岐志にきしあま津日高日子番能邇つひこひこほのに々芸命にぎのみこと(注3)といい、この子を降ろすのが良いでしょうと言った。この御子は、高木神の娘の万幡豊秋津よろづはたとよあきつ比売命ひめのみことと結婚して生んだ子で、長男は天火明命あめのほあかりのみことで次男に当たる。奏上したとおり天照大御神と高木神は日子番能邇々芸命に命じ、豊葦原水穂国とよあしはらみずほのくにはお前が統治する国であると委任する、命令どおりに天降りしなさいと詔が下った。
 日子番能邇々芸命が天降りしようとした時、天の八衢に、上は高天原を、下は葦原中国を照らす神がいた。天照大御神と高木神は天宇受売命あめのうずめのみことに、お前はか弱い女だが、眼力の強い神と面と向かってもにらみ勝つ神である、ちょっと出かけて行って、我が御子が天降りしようとする道で通せん坊をしているのは誰かと問いなさいと仰った。そのとおりすると、自分は国つ神で名はさる田毘たび古神このかみだ、天つ神の御子が天降られると聞いたので先導しようと出迎えたのだと答えた。
 そこで、天児屋命あめのこやのみこと布刀玉命ふとたまのみこと・天宇受売命・伊斯許理いしこり度売命どめのみこと玉祖命たまのおやのみことの計五人の部族長を分け添えて天降りした。そして、天の石屋戸の話で招き出した八尺の勾玉・鏡・草薙剣と、また、常世とこよの思金神おもいかねのかみ手力男神たぢからをのかみ天石門別神あめのいはとわけのかみを副えた。この鏡は私の御魂として私を祭るように祭り仕えるようにと言い聞かせ、また、思金神は今言ったことを弁えて祭事をしなさいと仰った。以下、神の鎮座所と祖先伝承へと続く。
 日子番能邇々芸命は仰せを受け、天の堅固な神座を離れて、天の幾重にもたなびく雲を押し分け、威風堂々と道を選んで、天の浮橋に「宇岐士麻理蘇理多多斯弖うきじまりそりたたして」、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気くじふるたけに天降りした。天忍日命・天津久米命の二人が天の堅固な靫を背負い、柄頭が握り拳のように膨らんだ太刀を腰につけ、天の黄櫨はじの木で作った弓を手に持ち、天の光り輝く矢を挟んで天孫の御前に立ってお仕えした。
 日子番能邇々芸命は、ここはからの国に相対し、笠沙の岬に通じていて、しかも朝日のまっすぐにさしこむ国、夕日のよく照らす国である。だからとてもいいところだと仰って、岩盤の上に宮柱を揺るぎなく太く立て、高天原に届くほど千木を高くそびえさせてお入りになった。以上が、今日まで解釈されているところの話のあらすじである。気宇壮大な話が構成されている。
 記紀の諸書の間で表現が微細に違っている。焦点を絞ると次の四点である。

①クジフルタケ(クシフルノタケ、クシヒ)
 つくむかたか千穂ちほ久士布流多気くじふるたけ(記)
 くし二上ふたがみあまの浮橋うきはし(紀本文)
 つくの日向の高千穂の槵触くしふるたけ(紀一書第一)
 日向の槵日の高千穂之峯(紀一書第二)
 日向のの高千穂の槵日の二上峯の天浮橋(一書第四)
 日向の襲の高千穂の添山峰そへやまのたけ(一書第六)

②カラクニ(ソシシノムナクニ)+国覓ぎ
 韓国からくにに向ひ、真米通笠沙之御前(記)
 しし空国むなくにを、ひたから国まぎ行去とほる(紀本文)
 膂宍の胸副国むなそふくにを、頓丘から国覓ぎ行去る(紀一書第二)
 膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去る(一書第四)

➂カササノミサキ(アタノナガヤノカササノミサキ)
 かささき(記)
 吾田あたながかさみさき(紀本文)
 吾田の長屋の笠狭の碕(紀一書第四)
 吾田の笠狭の御碕……長屋の竹島たけしま(紀一書第六)

➃ウキジマリソリタタシテ(ウキジマリタヒラニタタシテ)
 うきじまり、そりたたして(記)
 浮渚在うきじまり平処たひらに立たして(紀本文)
 浮渚在うきじまり平地たひらに立たして(紀一書第二)
 浮渚在之うきじまり平地たひらに立たして(紀一書第四)

 どこでどう混線しているのかわからなくなっている。天孫降臨の経路は一つの詞章になっており、暗記して語られたものと考えられている。行程の順序さえ異なるところがある。バイアスがそのままに載っている。とはいえ、どの話でもそれぞれの話で辻褄が合うのであれば、それぞれに意味のある筋立てということになる。表現として不思議な言葉が登場している。その形容語について、それぞれの詞章をまたいで意味の一貫性を求めるのは必ずしも賢明とは言えない。どれが正しい、どれが間違っているとは一概に決め難いのである(注4)
 記紀では話を展開して行く時、一気に述べていったのち振り返る形で事情を再度確かめるような語り口が取られることがある。天孫降臨の話においても紀本文に、「既而皇孫遊行之状也者、……」と説明を追加している。先に話した様子について後講釈が行われている。このスタイルが本来の形であるとすると、天降りしたところは、上にあげた①クジフルタケ(クシフルノタケ)であるが、そこを説明し直すと、②カラクニ(ソシシノムナクニ)、➂カササノミサキ(アタノナガヤノカササノミサキ)、➃ウキジマリソリタタシテ(ウキジマリタヒラニタタシテ)といった言葉で表すことが可能であると言っていることになる。本稿では①クジフルタケ(クシフルノタケ)が何を示しているのかを主題に据えて検討し、表現の全体像を把握できるようにする。
 今日まで、天孫とされるホノニニギのことは稲穂と関わりのある神さまであると思われている。「高千穂」については近代になって意が込められていると考えられるようになり、大系本日本書紀の補注は「タカチホのタカは、高、チは数量の多い意。ホは稲の穂。従って稲を高くつみあげた所の意が、最も古い意味であろう。」(372頁)、新編全集本古事記は「高く積み上げられた稲穂の意。現在のどこに比定するか、説が分れるが、現実の地名である必要はない。」(117頁)、新釈全訳日本書紀は「高く積み上げられた多くの稲穂を象徴する名。そこへ新生の力を持った神としての瓊瓊杵尊が降臨する。」(203頁)としている。また、倉野1977.は「「高千穂」は、本来高く積み上げた稲穂(稲積ニフ)で、神降臨の目標と農民の間に信ぜられてゐたものであらう。」(175頁)とする。柳田国男らの主張を踏まえ民俗信仰のレベルからの言説である。この稲穂説についてはほとんど異論が出ておらず、既定化している。そのとおりに解釈できるか、それぞれの筋立てで上の①~➃について一語一語調べ、諸本で意味が通るなら検証できたことになり、そうでなければ覆されることになる。話は言葉でできている。



 記において、天孫降臨の設定は、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気くじふるたけに天降りしたことになっている。紀の「槵触之峯」(紀一書第一)の槵の字は国字である。新撰字鏡に「槵 胡慣反、無槵」とあり、無患子と書かれるムクロジをいう。記の「久士くじ」は紀にクシと清音である。新編全集本日本書紀に「「無患」だからクシ(奇)で、それに霊性を表わす「日」をつけて「奇霊〈くしひ〉の二上山」としたもの。」(120頁)と短絡化されている(注5)
 ムクロジの硬い核は羽根突きの羽根の玉にした。穴を穿ち二枚の鳥の羽をつけたものが羽子(胡鬼の子)で、それを突き合った。江戸時代にはお正月の女の子の遊びとされたり、押絵を貼った飾り羽子板を作って浅草寺の羽子板市で売られるようになった。羽子板は中世の遺跡から出土するが、文献上は室町時代までしか遡れないという。下学集(1444年頃)に「羽木板 コギイタ ハゴイタ〈正月ニ之ヲ用ユ〉」、黒本本節用集(室町末期)に「胡鬼板 コギイタ〈小児正月之を翫ぶ〉」とある。貞成親王・看聞御記に「女中近衛・春日以下、男長資・隆富等朝臣以下、こきの子勝負分方、男方勝、女中負態まけわざ則ち張行、殿上に於て酒宴深更に及び、……」(永享四年(1433)正月五日)、「……宮御方ヘ球杖三枝、玉五〈色々綵色〉、こき板二〈蒔絵置物、絵等風流〉、こきの子五、進められえし言語道断殊勝、目を驚かし了んぬ、御自愛極み無く、若宮まで入られ思し食し、此の如き物進められし条、殊く喜悦珍重也」(永享六年(1435)正月五日)などとあるのが古い例とされる。
 万葉集に、筑波山にかけてツクバネという言葉が出てくる。古くから行われていたものと推測される。筑波山は男体山、女体山の二峰から成り、男女の歌のかけ合い、嬥歌かがいの行われるところとも知られている。紀に、「二上」、「二上峯」と出てくるのは、羽根突きからも連想される事柄と考えられる。そして、意図的に「槵」という文字で表記することにこだわっているから、「槵触之峯」とはどこかという設問よりも「槵触之峯」とは何かを問う方が有意義である。天孫降臨の話は羽根突きと何らかの関係がありそうである。

左:羽子板(今小路西遺跡出土、鎌倉時代、鎌倉歴史文化交流館展示品)、右:ムクロジの実(神代植物公園)
 番能邇々芸命はその地のことを次のように評している。

 此地者向韓国真米通笠沙之御前而(記)

 この部分、「此地ここは、韓国からくにに向ひ、笠沙の御前を真来まき通りて」と訓む説が有力視されている。真福寺本古事記の「米」字を「来」の誤写と見ている。道祥本・春瑜本に「真来通」とあり、紀の該当部分に「国行去とほりて」とあるところから、清音ではあるもののマキトホリテと訓むものとされている(注6)
 伊藤2010.は、真福寺本にある「米」について、「訓字として処理しなければならなくなるのだが、その際に適当な意味を見出すことはできそうもない。」(192頁)とし、澤瀉1940.の言うように「真来」を正しいとしている。そして、記の記述は紀の「国覓ぎ」にあたるのではなく、「国見」なのであるとする。次の木花之佐久夜毗売との結婚の話へと続ける際の「天皇による統治の正当性を説く神話の目的の達成度を高めるため」(211頁)に記紀の間で脚色上の差異が生じているのだという。しかし、万葉集には「国見しして あまり坐し」(万4254)とあり、雲の上に船を浮かべて国見をしている光景が詠まれている。記では天降りした後、「底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて坐す。」ことになっていて、そこから国見をしたとも受け取れる。情景がはっきりしないままでは言葉で表現したことにならない。「真来」説には限界がある。
 「米」字を訓字として考える場合には、稲の粒、ヨネと訓むのがふさわしい。新撰字鏡に「稞 胡買反、穀實也、粳米也、精米也、又莫代反、禾之死也、志良与祢しらよね」、 和名抄に「米 陸詞切韻に云はく、米〈莫礼反、与禰よね〉は穀実なりといふ。」、「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与禰しらげよね、上の音は傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米なりといふ。」、 「糙米 唐韻に云はく、糙米〈上の音は造、漢語抄に云ふ糙米、毛美与禰もみよね、一に云ふ加知之禰かちしね〉は米穀雑るなりといふ。」とある。「真米通笠沙之御前而」を「まことよねかささきかよひて」などと訓んで意味が通じるなら、「真」をマコトと訓む例は記には他に見られないものの万葉集には見られるから、それが正解に近いということになる。
 今日まで、「笠沙之御前」を地名のこと、九州南部の笠沙岬のこととする考えに囚われている(注7)。記は、ヤマトの人、特に奈良盆地の人が作った話である。夷の地名を持ち出してもどこのことかわからない。そうではなく、ただ語の音が洒落につながるから利用されているのだろう。「御前」とあるのは、当該個所近くに先払い役のいることを示すために用いられている。記では、「猿田毘古神……仕-奉御前」、「天忍日命・天津久米命二人、……立御前而仕奉」などとある。紀では「先」という字で表わされている。海岸の突き出たところの意を装いながら、先払いにして賊をはらう役の謂いのようである。だから夷の地名を出して喜んでいる。
 カササ(笠沙)という音はわざとらしい。笠を被った先払いの姿は江戸時代には参勤交代でよく目にする。陣の先頭を行く者が挟み箱という衣裳ケースをかついでいる。先箱ともいう。どうして衣裳ケースが先頭を進むのか筆者には合理的な理解はできないが、歴史的な理解は可能である。飛鳥時代にまで遡り、警蹕けいひつのことを指すと考えられるからである。紀には次のような例がある。

 兵仗つはもの夾み衛り、容儀よそひいつくしく整へて、前駈みさき警蹕ひて、奄然にはかにして至る。(継体紀元年正月)
 仍りて平旦とらの時を取りて、警蹕みさきおひ既に動きぬ。百寮つかさつかさつらを成し、乗輿きみおほみかさして、以て未だ出行おはしますにいたらざるに、……(天武紀七年正月)

左:先箱(歌川広重、保永堂版東海道五拾三次・日本橋 朝之景、天保4~7年(1833~37)、木版刷、メトロポリタン美術館蔵、ウィキペディア東海道五十三次之内 日本橋 朝之景-Stations One- Morning View of Nihonbashi MET DP122174.jpg)、右:挟み竹(?)(狭衣物語絵巻、紙本着色、江戸時代、17世紀、東博展示品)

 警蹕とは、先払い、先追いのことである。名義抄に、「先駈 オホムサキオヒ、サキバラヒ」とある。先頭に立ってそこのけそこのけと邪魔者を散らしていく。「稜威いつわきに道別きて」について、鈴木重胤・日本書紀伝は、次のように説明している。

 [忌部正通・日本書紀]口訣に、稜威道別道別者警蹕払御前謂也と注され、[一条兼良・日本書紀]纂疏に、稜威可畏之意、天孫行幸、警蹕前導、行叱且呵、故曰道別道別と注させ給へる、共に甚奇らしき説なるに就て思ふに大に其謂有り、……唯に雲路を排分させ給ふのみならむには稜威云々とは云ふべからざるを、此は警蹕の所なるが故に実に其語は有るなりけり、(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1047562/1/166、漢字の旧字体は改めた)(注8)

 その先駆の者が江戸時代に衣裳ケースを担っている。挟み箱の前身は挟み竹といい、ズボンプレッサーのように二枚の板で衣類や袴を覆ったものを竹で挟みつけ、持ち運んでいた。寺島良安・和漢三才図会に次のようにある。

 挟箱 波左美波古はさみばこ、二折、大二折、一寸高、二寸高、三寸高等の数品有り。
 按ずるに、挟箱は近代の制なり。古は板二枚を用ゐて、衣服の上下を覆ひ、竹を以て之れを挟み、僕をして之れを担がさしむ。挟竹と名づく。慶長年中より始めて箱を以て棒を挿し、之れを担がさしむ。挟箱と名づく。平士及び庶人は一箇を用ゐ、高官は一人を双び行かしめ、一対の挟箱と謂ふ。〈相伝ふるに、慶長中、秀吉公の僕、布施久内と名づくる者、始めて之れを作り出すといふ。〉

 挟み竹はオールのような形状をしていたと推定される。江戸時代の挟み箱のはこ(コは甲類)の上代音は、羽子はこ(コは甲類)と同音である。つまり、羽子板形をしているのが挟み竹、挟み箱である。羽根突きは厄払いの意味があるとされており、よって同形の挟み竹、挟み箱は、先払い役の者が担うことになっていて違和感がない。行列を見ていると、先頭が通過してだいぶ経ってから主人(陛下、将軍、殿様)がお通りになる。時間軸へ置き換えることができるのが、先払いの「先」の意味である。挟み竹は板に挟んでなかの衣類を押して平らにする。平らげて平定してしまうことを祈念、予祝してのことだろう。記紀のなかでは「葦原中国をことやはたひらげつるかたち」(記上)といった言い方が常套的に用いられている。戦う前に先陣が相手を服従させてしまったと言っている。
 警蹕が先払いをする時にかける掛け声は、オシ、オシオシなどという(注9)。枕草子に、「警蹕など「おし」といふ声聞ゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、……」(『三巻本枕草子』27頁)とある。挟み竹が衣類を押しているのと同じである。その謂いにふさわしくなるように、先払い役は妙なものを担がされていた。オシという声を発する理由は「おし」というもの、すなわち、押機おしに由来する。クマなどの獣を捕まえるのに上から押さえつける罠や、踏むと圧死させられる鼠取り(鼠落し)も圧機おしと呼ばれる。寺島良安・和漢三才図会の「棝斗」の項に、別名として「鼠弩 和名於之おし」とある。人間に対しても、戦で相手方が罠を仕掛けておくと、先頭を行く先払い役は押機によってぺしゃんこにされてしまう。逆に先払い役がオシ、オシと声をかけながら行けば、賊の顔色が変わって押機を仕掛けていると知れ、ならば先にご自身で殿中へ入られよという交渉問答となる。「其の殿の内に押機おしを作りて待ちし時に、」・「乃ち己が作れるおしに打たえて死にき。」(神武記)、「殿おほとのの内におしきて、」・「乃ちおのれ機を蹈みておそはれ死ぬ。」(神武前紀戊午年八月)などとあるのはその例である。羽子板に押絵を貼ることの淵源である。

左:圧機おし(木村孔恭・日本山海名産図会の「陸弩捕熊」(寬政11(1799)年刊、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018806/65?ln=jaをトリミング接合)、中:鼠落とし(寺島良安・和漢三才図会の「棝斗」、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569715/1/54をトリミング)、右:「圧伏」(山田清慶・服部雪斎ほか筆・薏苡仁図解飢饉予備、紙本着色、明治5~18年(1872~85)、東博展示品、ハトムギの耕作法で株を踏みにじっている)



 カササと聞けば、蚊を笹(篠)で除けることも思い起こされる。蚊の忌避法である。和漢三才図会に、「又、酒を篠の葉にそそぎて傍隅かたすみに挿せば、則ち蚊皆其の篠に集まる。」とある。お酒を呑むととりわけ蚊が寄ってくることからの発想か。あるいは、発酵過程で生ずる二酸化炭素に蚊が反応するということか。本当に効果があるかは知れないが、お呪いとしてそういうことが行われていた(注10)。無患だからクシとの考えに符合するように酒のことをクシとも言う。百薬の長である。世にも珍しいことを表す「奇し」から来ているともいわれる。新撰字鏡に「槵 胡慣反、無槵」と自己矛盾する説明があるのは、酒はクシであるが、酒の臭いに誘われて蚊が寄ってくるから体を洗い流したい、その際、石鹸成分のサポニンをムクロジ(槵)の実は含んでおり、奇しくもそれを使って臭いを洗い流すことができるから、いずれの場合でもクシであるといっている。自己撞着を冒しながらすべてを定義してかかるように、ムクロジの実は「槵」に相応している。
 蚊除けのお呪いとして他に羽根突きがある。蚊が出る夏に行うのではなく、予め先立ってお祓いする意味合いがあった。やはり先払いの意である。紀の「槵触之峯」にあった「槵」はムクロジだから羽根突きの羽子の材料である。節用集の「胡鬼こぎ」(コ・ギの甲乙不明)の字は後の当て字だろうが、蚊を食う蜻蛉の姿に似せて作られているとされている。一条兼良・世諺問答(室町後期)に、羽根を蚊を食うトンボに見立て、夏に蚊に食われないお呪いとしてつかせたとする説がある。「[問]曰、おさなきわらはのこきのこといひてつき侍るは、いかなることぞや、答、是はおさなきものの、蚊にくはれぬまじなひ事也、秋の始に、蜻蛉と云虫出きては、蚊を取くふ物也、こきのこと云は、木連子などを、とんばうがしらにして、はねをつけたり、是をいたにてつきあぐれば、おつる時蜻蛉返りのやうなり、さて蚊をおそれしめんために、こきのことてつき侍る也、」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2539229/1/6)とある。世諺問答の説はにわかに謬説とすることはできない。第一に、追い羽の姿が蜻蛉の頭と羽によく似ている。第二に、列島と韓国からくにとの間のやりとりに譬えるのに意味深長である。第三に、羽子板の形と挟み竹の形が似通っている。
 記の、「韓国」は朝鮮半島のうち列島から見て対岸に当たるところを指すと考えられる。海外の国のことを指すカラ(韓・唐)という言葉は、「もとは三~六世紀ごろ、朝鮮半島南部にあった小国「伽羅」を指したが、のちに朝鮮半島全部、やがて隋・唐と国交を開くようになると中国、そして中世以降は南蛮などの外国のことをも指していうようになった。」(古典基礎語辞典388頁、この項、我妻多賀子)。ならば、対馬海峡のこちら側に「槵触之峯」があることになる。両者の間で羽根突きをしている姿を想定することができる。当時の人の発想としてそのような観念が生じていたか、それが問題である。まつ浦佐用比売らさよひめの逸話では、海峡を挟んだ海外のことを指す「韓国」に向かって別れを惜しんでいる。彼女は、大伴佐おほとものさ提比古でひこが朝命により朝鮮半島へ出帆するとき領布ひれを振った。

 とほつ人 松浦佐用比売 夫恋つまごひに 領布振りしより 負へる山の名(万871)
 山の名と 言ひ継げとかも 佐用比売が この山のに 領布を振りけむ(万872)
 万代よろづよに 語り継げとし このたけに 領布振りけらし 松浦佐用比売(万873)

 領布はひらひらする細長く薄い布で、女子が首から肩にかけた。羽衣、長いスカーフの類である。万871番歌の題詞に、「因りて此の山をなづけて領巾ひれふりみねと曰ふ」とある。今日、唐津市の鏡山に比定されている。欽明紀二十三年七月条に歌謡が載る。

 韓国からくにの に立ちて おほ葉子ばこは 領布振らすも 日本やまとへ向きて(紀100)
 韓国の 城の上に立たし 大葉子は 領布振らす見ゆ なにへ向きて(紀101)

 新羅が任那、もと伽羅からと呼ばれたところを滅ぼしたので倭は参戦したが、戦いに敗れて捕虜になったときに歌った歌とされる。ほかに、「蜻蛉あきづ領布ひれ」(万3314)、「あきづ羽の袖」(万376)といった表現もある。蜻蛉の羽のような薄い領布を振ることで、蜻蛉が海峡を渡るように自分も海峡を渡りたいという願いを祈った歌である。
 天孫降臨の話では、領布振る峯ではなく「槵触之峯」となっている。世諺問答で、羽子が蚊を食う蜻蛉の姿に似せて作られているとあった。ヤマトは「蜻蛉あきづしま」である。看聞御記では「こきの子勝負」と言っている。遊びの名前がコギノコ、道具名がコギイタという呼び方について、漢字の「胡鬼」という当て字以外に求め、コギという語の由来が古代に遡る言葉であるとするなら、動詞の「ぐ」の連用形「漕ぎ」(コは乙類、ギは甲類)と関係して、船の漕ぎ板、オールのことと理解されるだろう。形がよく似ていて、また、海峡を渡る船を漕ぐことはリスクの高いチャレンジである。「韓国からくに」を目指して対馬海峡を渡るとき、みな一心に漕いだことだろう。帆船であったとしても、当時の帆はマストに向きは固定されているから順風ならともかく逆風では話にならず、横風には斜め斜めに少しずつしか利用できない。とにもかくにも漕ぐことが大事である。「漕ぎの子勝負」で海峡を渡った。
 「槵触之峯」はどこかではなく何かが問題である。お酒のことを「し」と言ったように、霊妙であるという動詞からクシフル(クシブル)という。紀の訓み方はその点で合っている。記では「久士布流多気くじふるたけ」と清濁が入れ替わっている。このクジフルという語は、上代において馴染みにくい音で素直ではない。筆者は、太安万侶による音読みを使った造語ではないかと推測する。「くじふるたけ」のクジフルについて、クジ(籤)+フル(振)という洒落である。振る籤は算木や筮竹も考えられるが、紀に「短籍ひねりぶみ」という方法が記されている。

 短籍ひねりぶみを取りて謀反みかどかたぶけむ事をうらなふといふ。(斉明紀四年十一月或本)

 細い紙片に別のことを書いて捻っておき、探り取って占いとしたものとされる。捻文には立て文の語義もある。包紙の上下を捻るのでそう呼ばれた。タテブミと聞けば立って踏むことであると聞こえる。立って踏むためには足首から下をぎゅっとねじり捻って踏みつける所作が必要となる。どこを利かせるか。クルブシ(踝)である。紀にあるクシブルに音がよく似ている。太安万侶の洒落のきつさが伝わってくる。踏みにじることを謂わんとしているらしい。
 稲作において踏みにじることは、前年の収穫残の株を泥田に踏みこみ入れて肥料とすることである。いなしびおし(稲株圧)とも呼ばれる。イネという栽培植物は連作障害が少なく、水田を維持管理しておくことが翌年の稔りにつながる。植え付けの直前に代掻きをして田を整える。先んじて先払いをしておくわけである。

 埼玉さきたまの さきの沼に 鴨そはねきる おのが尾に 降り置ける霜を はらふとにあらし(万1744)
 …… いそふる すがの根取りて しのふくさ はらへてましを く水に みそぎてましを ……(万948)
 …… いぎつつ 国見しして 天降あもし 掃ひことけ 千代かさね ……(万4254)

 音読みのクジフは「じふ」のこと、「九十」は続けて書いて「卆(卒)」、亡くなることに当たる(注11)
 亡くなって残るものは骨、仏教にいう舎利である。仏舎利を納める場所は塔であり、塔の形はきのこによく似る。クジフルタケとは「卆茸」のことだと洒落たのだろう。とてもいい臭いがするキノコだけれど毒キノコかも知れず、実態はわからない。傘のあるキノコの形である(注12)

左:池上本門寺宝塔、中:ニホ(一遍聖絵模本、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591577/23をトリミング)、右:カイツブリ(ニホ)とその浮巣のようなもの(井の頭自然文化園、2015.6.10)



 同じく舎利と呼ばれる米粒を納める場所も、籾を扱き落とすまでの間は塔のような形をした稲積みのところである。稲積みのことは民俗に、ニオ、ニュウ、ニョウ、ノウなどといい、沖縄ではイナマズン、シラと呼ぶところもある(注13)。バリエーションはあるが、標準的なやり方としては、刈り取って少しく乾燥させた稲束を、台を設けて穂のほうを内側、株もとのほうを外側にして塚のように積み上げる。そして、一番上には藁で雨避けの笠を作って被せている。ニオは古語でニホである。新種の巨大なキノコに見える(注14)
 ニホという言葉には二つの意味がある。円筒形の稲積みのことと水鳥のカイツブリの古名である。両者にはともに同じ性質を示す点がある。第一に、カイツブリが浮巣、いわゆる「にほの浮巣」を作ることである。水面の浮遊物を集めて厚い山のような巣を作っている。葦ばかりで作ることが多かったが、今日のような環境下では浮かぶものは何でも、木の枝葉であれ、水草であれ、ビニール袋や布類などのごみであれ利用して作り、その産座に卵を産む。卵の大きさは約3.7×2.5cm、白からクリーム色、茶褐色で、籾粒よりは大きい。雌雄ともども抱卵するが、巣を離れるときには卵の上に巣材で覆いをかける。稲積みに笠がかけられているのとよく似ている。
 カイツブリは淡水の湖沼、河川にごくふつうに生息する。巧みに潜水して小魚を捕食する。足についている水掻きは、カモ類に見られるような指の間に膜のついた蹼ではなく弁足と呼ばれるものである。前方にある三つの指と後ろにつく小さな指にも船の櫂のようなものがついている。漕ぐときはそれを広げて後ろへ掻き、戻すときは畳んで捻るようにする。人間の平泳ぎに譬えられる。この弁足のために地上ではうまく歩行できない。櫂があり、小さな鳥でツブ(粒・頭)と言えるほどに丸くまとまっている姿のため、カイツブリと呼ばれるのかもしれない。また、浮巣の様子から、記に「宇岐士麻理うきじまり」、紀に「浮渚在うきじまり」とあるのではないか。田は古く常湛であったから、まるで湖沼のなかに稲積みのニホが浮かんでいるように見える。その後ろにつづく記の「蘇理多多斯そりたたし」は隆起している、すっくと高くなること、紀の「平地たひらに立たして」は田の平のなかに立っていることを示しているのだろう。
 現代人とは異なり、ニホドリが身近な存在として感じられ、よく観察されている。人々の生活目線は水面の位置にあった(注15)。小さな水鳥である。竹棒や小枝などに鳥黐を塗っておいて捕まえた。それをハガ・ハコ(擌、黐擌)という。 和名抄に「黐〈擌附〉 唐韻に云はく、黐〈丑知反、毛知もち〉は鳥を黏する所以なり、黐擌〈所責反、漢語抄に云ふ波賀はが〉は鳥を捕ふる所以なりといふ。」、和漢三才図会に「擌〈山責切〉 擌、黐擌、和名波加はが、今に云ふ波古はことりもちは灌木類に出づ。をとりは鳥類下に出づ。黐擌は鳥を捕ふる所以の者なり。按ずるに、黐を用ゐ蘆竹及び縄に伝ふは之れをはこと謂ひ、囮の傍に置けば鳥、囮に誘はれ、頡頑とびあがりとびさがり往来して、終に擌に罹る。水禽の如きは、しべを以て擌とし、之れを田沢に設け、名けて流れ擌と曰ふ。」とある。ベタベタするものを縄に結んで流しおいて再び見に行くと獲物がくっついているという仕掛けである(注16)。ハコという音は羽子はこはこと同じである。
 ニホドリは羽子板、漕ぎ板のような、船の櫂のような弁足を持っている。それが擌によって絡めとられてしまう。彼らにとっては手に当たるところが黐でベタベタになっている。解消するにはシャボンを使って洗うしかない。サポニンはムクロジの実の外皮に含まれていて、擦れば泡立つ。すなわち、ニホドリ自体が羽根突きの事柄のすべてを物語っている。そして、多くの水鳥が冬に渡ってくるなか、河川湖沼において留鳥としてすでにいて先払い役を買っている。
 カイツブリの最大の特徴は弁足の水掻きである。「みづかきの」という枕詞は、「ひさし」にかかる。

 処女をとめらを そで布留ふるやまの 瑞垣みづかきの 久しき時ゆ 思ひけりわれは(万2415)
 楉垣みづかきの 久しき時ゆ 恋すれば が帯ゆるぶ 朝夕あさよひごとに(万3262)

 時代別国語大辞典は「神社の玉垣の久しく栄えつづく意で、久シにかかる。」(708頁)としている(注17)。「瑞垣みづかき」については、「玉垣。神社の周囲にある垣を讃めていう。」(同707頁)とする。和名抄に「瑞籬 日本紀私記に云はく、瑞籬〈俗に云ふ美豆加岐みづかきと、一に云ふ以賀岐いがき〉といふ。」とある。家々で使われる垣根にはいろいろあり、神社の垣根にもいろいろある。伊勢神宮の場合、門が五つも続いており、それぞれに垣をめぐらせている。内側から、瑞垣のかど蕃垣ばんがきの御門、内玉垣(玉串)の御門、外玉垣(中重)の御門、板垣の御門と呼んでいる。いちばん内側の最後の砦的な垣根が瑞垣ということになる。伊勢神宮や春日大社では板で、石上神宮では石でできていて、びっしりと隙間を開けずに張られている。一方、出雲大社では、隙間が空いている代わりに屋根がついており、屋根つきの垣根を瑞垣と呼んでいるようである。
 瑞垣が音でミヅカキである以上、水掻きにふさわしい形態でなければ無文字のヤマトコトバを使用する上で適切ではない。カイツブリの持つような船の櫂の形をした、先の三角形に尖った板を並べているのが伊勢神宮や春日大社、石上神宮である。確かにびっしりと並べてあるから、一見、漏れなく垣根でめぐらされているようであるが、重なりを持たせているわけではなく、スリットが入ったように向こう側が透けて見える。屋根のことを考えてみれば、家の母屋をこけら葺きで葺いたときには、重なりを持たせているから雨漏りは起こらない。しかし、そこから張り出して作ったひさし(庇)の部分は屋根もぞんざいに作ってあり、一応は雨を防げても完全とは言えない。雨を防ぐ目的よりも日差しを防ぐために設けられていた。問題は日差しだからヒサシ(廂・庇)というのだろう。よって、ミヅカキノはヒサシにかかる枕詞となっている。
 ニホという稲積みについては技術革新の象徴だったのではないか。弥生時代は石包丁で穂首刈りされていた。穂首刈りした稲穂(穎稲)は、縄文時代以来、クリなどを貯蔵していたフラスコ状の土坑に納められていたとされている。古墳時代、鋸歯のついた鉄鎌が伝来して株ごと刈り取ることが始まった(注18)。その全体を結束し、地干しやハザ(稲架)などで乾燥させてから稲積みにした。稲野1981.は、ニホという「稲干方式は他の方式で乾燥させた後に、一定の方法で集積し、乾湿の繰り返しを防ぎながら徐々に乾燥する方法である。」(99頁)とする。安定的な乾燥と貯蔵にかなっていて有効な方式である。そして、自給用には必要な分だけ脱穀して食べていった。地租分は稲刈り後すぐに大忙しで脱粒し、俵(叺)に詰めて出荷し、残りは積んだままである。なにしろ、脱粒、脱穀には手間ひまがかかる。千歯扱きはないから扱き箸や横槌やくるり棒を使い、唐箕がないから箕を振り大うちわなどを使って飛ばして選別した。土磨臼もないからもっぱら竪杵を使ってひたすら搗いた。現在もよく知られていることであるが、精米してから時間がたつと味は落ちる。乾燥しすぎないようにし、かといって湿るとカビが生える。食べるときに食べる分だけ精米するのが効率的にも実質的にも賢いことになる。よって、生産者である農家は、戦国時代のように刈り取ってまで持って行くような略奪の恐れがない限り(注19)、大量の米をすべて一気に籾にして米倉に鍵をかけて仕舞う必要はなかった。ニホに積んでおく光景がよく見られるものとなっていた。
 稲積みのニホの諸相を見るとさまざまな工夫が施されていることが知れる。地域により、時代により、さまざまな形態が行われていた。基本的には、真ん中に風通しをよくする空洞を設けながら稲束を上へ上へと円筒形に盛り積んで行く。最後に雨除けの笠を被せている。古語にカヅク(被)である。カイツブリのニホ(鳰)がカヅク(潜)のと同じである。白川1995.に、「かづく〔潜(潛)〕」は、「「かづく」と同根の語で、もと頭上に物をせる意。」(234頁)とある。
 枕詞の「にほどりの」は、その生態から「かづく」や同音の「葛飾かづしか」にかかる。

 鳰鳥にほどりの 潜く池水 こころ有らば 君にが恋ふる 情示さね(万725)
 鳰鳥の 葛飾早稲わせを にへすとも そのかなしきを に立てめやも(万3386)

 万3386番歌は新嘗祭を示す歌として有名である。稲積み、水鳥、どちらのニホも、頭が水を突き抜ける事柄となっている。
 稲積みのニホは稲束をることでできている。カイツブリのニホも水鳥の先払い的な意味合いから、やはりモル(守)と感じられたかもしれない。子育てで卵を巣に置いたまま出掛けるときには、蓋(笠・傘・覆)を被せていた。また、雛が孵ってから羽が生えてきてもまだ小さいうちは、我が子を自分の身の上に乗せて運ぶようにして守っている。羽毛にくるまれて背負われている様は、ねんねこにくるまれ背負われた子守の姿に相同である。カイツブリはカモ類より小さく、さらに小さな子をおんぶしている。子どもが赤ん坊を負ぶっているように見える。小さいからツム(粒)のようであり、赤子を積む「船舶つむ」(皇極紀元年八月)のようでもある。親子とも水に浮くから大型船に救命ボートが備えられているようにも見立てられる。そして、櫂のような水掻きで掻いて進んでいる。
 垣根のことをいうカクという語は動詞「く」の名詞形とされている。白川1995.は、「かく〔掻〕」は、「「く」「書く」「く」など、みな同根の語である。」(210頁)とする。

 大君の 八重やへ組垣くみかき 懸かめども を編ましじみ 懸かぬ組垣(紀90)
 恋ひつつも 稲葉掻き別け いへれば ともしくあらず 秋の夕風(万2230)

 水掻きをもってオール(漕ぎ板)とすることは、先払いの役を担うことになる。侵入者を防ぐ垣根も先払いと同様の役目を果たしている。瑞垣で囲まれたなかにニホのあるのは、寺の伽藍内に仏塔が建てられているのと同じであるという謂いのようである。出雲大社の瑞垣と寺院の回廊は構造上よく似ている。稲積みのニホは仏教とともに入ってきた新技術だったのかもしれない。

 また、秦造はだのみやつこおや漢直あやのあたひが祖と、酒をむことを知れる人、名は仁番にほ、亦の名は須々許理すすこり等と、ゐ渡り来たり。かれ、是の須々許理、おほ御酒みきを醸みて献りき。是に、天皇、是の献れる大御酒をうらげて、御歌にのたまはく、
 須々許理が 醸みし御酒みきに われひにけり ことぐし ぐしに 我酔ひにけり(記49、応神記)

 応神記の「仁番にほ」という名は稲積みのニホを意識している。新醸造技術の伝来は、稲の品種、栽培、収穫、保存、精米法においても新しかったということだろう。根刈り法は新醸造法と密接な関係にあったらしいのである。均質な酒米品種が伝来したということかもしれない。
 この記事で仁番は「参渡来也」となっている。その前の百済朝貢の記事では、百済王が文物と人を「貢上」したとあり、論語や千字文を伝えた「和邇吉師わにきし」は貢上されている。さらにその前の記事では「新羅人参渡来」とある。すなわち、「参渡来」は自発的に渡来したことを示しているのだろう(注20)
 臼で舂いて籾を取った。古代において、米は、常食時には玄米で食べたと考えられている。一方、酒に醸造する時はきちんと精米しようとする傾向があったと思われる。今日でも、精白歩合によって味に違いがあることが知られている。うまい酒が飲みたければ上手に精白しようとする。その精米作業のことをシラグ(精)という。銀舎利は白くしていくものだからシラグといわれる。それをシラギ(新羅)からの渡来人が伝えている(注21)。ヤマトコトバはその事情を秘かに伝えているわけである。
(つづく)
 けころもを 時かたけて いでましし 宇陀うだおほは 思ほえむかも〔毛許呂裳遠春冬片設而幸之宇陁乃大野者所念武鴨〕(万191)
 この歌は、「皇子尊みこのみことの宮の舎人とねり等のかなしびいたみ作る歌二十三首〔皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首〕」のうちの一首である(注1)
 現在では、一句目にある「けころもを」は「褻衣を」と考えて普段着のことを指すという説が大勢となっている。「けころも(けごろも)」については「毛衣」と「褻衣」の二通りがある(注2)

A.名詞(けころも)
①毛衣・裘 (衣服のように覆っているところから)鳥の羽毛、また、羽毛で作った衣服、羽衣。
 とせをかねて遊ぶ鶴のけごろもに思ひまがへらる。(源氏物語・若菜上)
 氅 ケコロモ 昌両反、鶖鳥毛也(色葉字類抄)
②毛衣 毛皮で作った衣服。かわごろも。また、獣の体をおおっている毛皮。
 けさの冬 よき毛衣を 得たりけり(蕪村句集拾遺)
 Ke-goromo ケゴロモ 毛衣 n. Fur-coat, fur clothes.(和英語林集成)
➂褻衣 (「褻」はふだんの意)ふだん着。日常着。けぎぬ。
 すべ神は よき日祭れば 明日よりは あけの衣を けごろもにせむ(神楽歌・神上、或説)(注3)
 故郷ふるさとへ 秋はかへりぬ ぬさひける 山の錦を けごろもにして(賀茂保憲女集104)
 このきぬの 色白妙しろたへに なりぬとも 静心しづこころある けごろもにせよ(和泉式部集431)
 Kegoromo ケゴロモ (cont. of kegare koromo) n. Common or ordinary clothes.(和英語林集成)
B.枕詞(けころもを)
➃褻衣を 着古した普段着を洗うために解くところから、動詞「解く」の連用形「解き」と同音の「時」にかかる。
 けころもを〔毛許呂裳遠〕 時かたまけて いでましし 宇陀うだおほは 思ほえむかも(万191)

 説文に「褻 私服なり。衣に从ひ執声。詩に、是れ褻袢なりと曰ふ。」とある。普段着のこと、褻は、なれる(慣・馴・狎)意味である。「褻狎」は、なれること、「褻瀆」は、なれけがすこと、「褻器」は、なれた容器、つまり、おまるのことである。名義抄に、「𮒸 俗通褻 須列反 ケカル」とある。➂の意をもって万191番歌を解すると、ケガレ(穢)のケは万葉仮名にある「毛」、つまり乙類であるとみなされることになる(注4)
 だが、その解釈には強引なところがある。
 ➃の用例に即し、着古した普段着を洗う時に縫いを解くことはないことはないが、解かないでそのまま洗ってしまった場合も多かった。上等な着物の場合は生地を大切に扱うために、とても面倒ではあるが、ほどいてから洗い、張って皺をなくし、再び縫って仕上げた。一方、着古してしまったものをほどいてまた縫うとなると、すでに弱っている縫い目から裂けてしまうリスクが高い。そんなこともあってかそのまま洗って物干竿に左右の袖を通して奴凧のような形で干されることも多かった。➃「褻衣を」とする解釈では枕詞として意を表すのに不十分な言葉づかいなのである。
 そこで、①②の例にある「毛衣」の意として考えてはどうか。
 歌において、宇陀の大野のことが思い出されることになるだろうと言っているのは、狩猟に出掛けたことを思い出すに違いないという意味である。「時片設けて幸し」とは、狩りの行幸に出掛けるのは今か今かと待っていたというのであるから、その情景に近いことを表現して掛詞、ないしそれと同様の修辞で表しているのだろう。高貴な人なのだから狩りの行幸へは馬に乗って赴いたとするのがふさわしい。馬に乗って遠行する時には両足を覆うようにして安全、防雨の用とするため、また、狩猟の際には獣が騎乗の人めがけて襲ってきても傷を負わないように行縢むかばきを着けた。行縢は毛皮を使って作られている(注5)。すなわち、上着にしていた「ころも」の縫い合わせているところを解き、行縢にリメイクしていつでも遠出の狩りに出掛けられる準備を整えていたという歌なのである。

 こも敷き 蔓菁あをな煮持にも うつはりに 行縢むかばき掛けて 休むこのきみ(万3825)
 行縢 釈名に云はく、行縢〈音は騰と同じ、行縢は無加波岐むかばき〉は騰なりといふ。言ふは脚を裹み以て跳騰し軽便とすべきなればなり。(和名抄)
 武官の礼服 ……錦の行縢。(養老令・衣服令)
 錦の行縢。〈謂ふこころ、騰は緘なり、股脛を覆ひ衣をして飛揚せざらしむ所以の者なり。〉(令義解)

 行き先は宇陀の大野となっていて、そこへ赴いたことがあったのだろうと推測されている。この歌は舎人の歌であり、随伴したことがあってその記憶が今後とも蘇るだろうという意味にとれないことはないが、その事実を知らない人が聞いてもわかるから歌として成り立っている可能性のほうが高い。亡くなったご主人様の思い出を皆で言い合って往時を偲ぼうとするだけでは歌は内輪に終始してしまう。声をあげて歌うとは、知り合いのなかだけの閉じたコミュニケーションではなく、耳にすることの可能な多くの人たちに開かれているということである。狩りの行幸の記憶を共有しなくても歌の中身に賛同、共感できたから、結果、万葉集に収載されていると考えられるのである。
 「毛衣」によって作られた行縢のことからウダノオホノへと言葉が流れていっている。行縢は、中に人が入るように筒状にくるむ形に成形されている。脛に巻く脛巾はばきとは違って大腿部をくるみ覆う。両手で抱えるくらいの大きな径である。その大きさはウダク(抱)という言葉で表される。ウダク(抱)からウダ(宇陀)、オホフ(覆)からオホノ(大野)が導かれている。

 大きなる樹有りて大井河より流れて河曲かはくまに停れり。其の太さ十囲とうだき。(仁徳紀六十二年五月)
 れ、天の下に君として万民おほむたからを治むるひとうだきおほふこと天の如し、うけいるること地の如し。(仁徳前紀)

 毛衣を とき(注6)かたけて いでましの(注7) 宇陀うだ大野おほのは 思ほえむかも〔毛許呂裳遠春冬片設而幸之宇陁乃大野者所念武鴨〕(万191)
 毛皮の胴衣の縫い合わせを解き─時を今か今かと待ちうけて狩りのための行幸をする、そのために行縢を準備したわけで、大きさはひとウダきもあって下半身が完全にオホわれる─宇陀ウダオホ野は、いつまでも思い出されることになるだろうなあ。

 掛詞を駆使して念を入れた言い回しの歌となっている。万葉集で「宇陀」の地が詠まれている歌は他に二首ある。

 やまとの 宇陀の真赤土まはにの さ丹着につかば そこもか人の ことなさむ(万1376、「寄赤土」)
 宇陀の野の 秋萩しのぎ 鳴く鹿も 妻に恋ふらく 我にはさじ(万1609、「丹比真人歌一首〈名闕〉」)

 万1376番歌では、思いをかける人の前に出て顔を赤らめることがあり、ために噂が立って弱るものだが、赤土が付いたことでも同じように噂となるのだろうか、と言っている。これまで見てきたように「宇陀」がうだくと関連がある語として用いられているのであるとすれば、ひとうだきもあるような「真赤土のさ丹」の土塊としてのということになり、強調の意を果たしていることになる。
 万1609番歌では、秋萩を押し伏せて鳴く鹿でさえ、妻を恋い慕うことが私以上になることはない、と言っている。「しのぐ」は踏みつけ、押さえる意が原義である。程度の比較をしているから、「宇陀」がうだくと関連がある語としてひとうだきもあるたくさんの秋萩のことを指していて、数量の多さを比喩するのにふさわしい。秋萩が束になっていると折れにくくて撓って反発力があり、鹿はすぐには押さえつけることができず手間取ってしまい、高らかに鳴き声をあげることなどできないだろうというのである。
 これら二例は比喩表現のために地名、「宇陀」が用いられている。万191番歌の場合、実際に狩りに行ったことはあったのだろうか。
 草壁皇子(日並皇子)が宇陀へ行ったことがあるとする傍証として、「そのに、菟田うだ吾城あきに到る。」(天武紀元年六月)という記事があげられている。また、万45~49番歌、「軽皇子宿于安騎野時、柿本朝臣人麿作歌」のなかの万49番歌がそれを証明すると考えられている。安騎の野は宇陀地方にある。

 なみしの 皇子みこみことの 馬めて 御猟みかり立たしし 時しむかふ〔日雙斯皇子命乃馬副而御猟立師斯時志来向〕(万49)

 この歌の存在から否定はできないが、経験していない人にとっては所詮そらごとである。歌が歌本来の役割、聞く人皆が共有できるものとなるには実状を知らない人にまで説得力を持たなければならない。歌の技巧はそのためにも凝らされる。
 数多くの舎人のなかには、側近くに仕える者だけでなく屋敷の清掃などに携わってほとんど主人の顔を知らない者もいたことだろう。題詞に「皇子尊舎人」とあって「皇子尊舎人」とはない。それが二十三首も採られている。そんな舎人等にとって皇子はどういう存在だったか。宮の主人であって名をクサカベ(草壁皇子)、また、ヒナミシ(日並皇子)ということぐらいしか知らなかったのではないか。他所の人と知っていることの点で実は変わらないと、かえって歌が人々に開かれた作りになることにつながって好都合である。
 クサカベ(草壁)と聞いて思い浮かぶのは草の壁、土手のことである。防護壁となる土手を築くと草が生えてくる。壁用の土手として築かれたものとしてはアヅチ(アムツチ)がある。射芸の際に的の後方に築かれ、飛んでくる矢が人に当たって怪我しないようになっている。飛鳥時代当時どのように行われていたかわからないが、笠懸の例から推察することができる。射手は馬に乗って笠状の的に向かって射る。その後ろにアムツチがあり、騎乗の人は行縢を履いている。

 射垛 唐韻に云はく、垛〈他果反、字は亦、𨹃に作る、楊氏漢語抄に云ふ射垛、以久波止古路いくはどころ此間ここに云ふ阿無豆知あむつち、今案ふるに、又、堋の字を用ゐる、音は朋〉は射垛なりといふ。四声字苑に云はく、垜〈音は上に同じ、又、都波反〉は埾なりといふ。」(和名抄)
 天の下造らしし大神のあむつち立ててゆみいたまひし処なり。かれしろといふ。(出雲風土記・大原郡)

笠懸の図(男衾三郎絵巻、鎌倉時代・13世紀、東京国立博物館蔵、e国宝 https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100332&content_pict_id=0をトリミング)(注8)

 ヒナミシ(日並)と聞いて思い浮かぶのは月のことである。記紀の配役として、「日にならぶ」存在としてツクヨミは形作られている。時にツクユミとも訛っている。「次生月神。〈一書云、月弓尊、月夜見尊、月読尊。〉」(神代紀第五段本文)。月弓尊は弓術に関係がありそうである。弓を構えるためには弓弦をかけなければならない。弓弦をかけることは「はき(キは甲類)という。「はき(佩・着・穿、キは甲類)」という語は、細長い本体に取り付けたり嵌め込んだりすることをいう。具体的には、①太刀を身に着けること、②弓弦を弓にかけること、③袴や靴を着用することを指している。②の意が「日にならべてしらすべし」(神代紀第五段本文)とされる月弓尊の名義に関わり、③の意として行縢むかばきという言葉が成っている。弓術の実践に際して穿かれるのだから、ヒナミシ(日並皇子)と呼ばれた方を弔うのに行縢をとり上げるのはふさわしい。
 行縢むかばきを穿いて馬に跨り弓を射るのにあむつちが造られていた。射芸としての騎射で、平安時代には大内裏内の射場の馬場殿(武徳殿)に天皇の行幸を仰いで天覧に供された。

 五月の乙卯の朔にして己未に、河内国の依網よさみの屯倉みやけの前にして、げう岐等きらびて、射猟うまゆみしむ。(皇極紀元年五月)
 辛巳、山背国賀茂祭の日、もろひとあつめて騎射うまゆみすることをいさむ。(続紀・文武二年三月)

 それをおもしろおかしく宇陀の大野へ狩りの行幸に出掛けたことと見立てているようである(注9)。供養するには大げさな方がいい。歌では往年の栄光として皇太子時なのに宇陀行幸○○と讃え、その一地名、安騎野の狩りのことを言い募っているらしくもとれるが、作者の舎人がお伴したかどうかはわからない。嘘をついているのではなく、ものの譬えとして大仰なことを言っている。皇太子は東宮から近くへ、ひょっとすると宮中へ「行幸」したとして、距離的には近くて行縢を着けるに当たらないもののそこで騎射をしたのであれば行縢もドレスコード違反ではなく、宇陀へ行くほどの遠出の行幸に値するものだと見立てたのだろう。
 このように読み取ることによって、皇子尊宮舎人等慟傷作歌は真相に一歩近づけた。誰もが享受できるものがヤマトコトバで綴られた歌である。翼賛的な主張を説いた言説など、お上の御用の者にしか持て囃して喜ぶことはない。言語表現の楽しさの点で雲泥の開きがある。研究者によるこれまでの理解は、万葉集の歌としての神髄について評価し切れていない、ないしはそれに背を向けているきらいが強い。

(注)
(注1)二十三首の歌をひとつひとつきちんと理解しないまま、登場する語彙を表面的に捉えて有徳の君子像を描いているとみたり、その前に記載されている柿本人麻呂の「日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」(万167~170)とで位置づけを考えてみたところで得られるものはない。吉井1970.、身﨑1987.、渡瀬2003.、井実2012.、影山2024.、菊地2025.参照。
(注2)日本国語大辞典参照。万191番歌の「けころも」については菊池1935.に諸説の整理があり、「毛衣を 春冬はるふゆけて」とも訓めるという。萬葉集正義では、鳥の羽でつくった防寒用の服、動物の毛皮の服、褻衣から晴れ着へ着替える、とさまざまな説が入り乱れ解釈が混乱している。
(注3)神楽歌の例は諸説あって歌意は定まっていない。神事の衣を褻衣に下ろしたとする説、神事の衣から普段着に着替えたとする説、「千歳の命」に比する「鶴の毛衣」ととる説がある。なお、「あけの衣」については五位の人が着た緋色の袍、アケゴロモとは別とされているが、混同があってもおかしくないところである。衣服令の規定にある「錦の行縢」は、儀式(大祀、大嘗、元日等)に着用したもので、五位以上相当の武官に五位以上の者が任じられている時に着用が認められる正装の一つである。神楽歌の例は、五位の人が明日は精進落としの狩りに出かけるぞという決意表明なのかもしれない。
(注4)白川1995.参照。名義抄に諸字をあげて訓があり、ケガレ、ケコロモが意の通ずるものと見られたかに思える表記となっている。ただ、普段着がすべからく穢れているとは認められないだろう。本稿では万葉集の「けころも」が毛衣の意であることを確認し、上代においてごろもの意とする例はなくなった。ごろもという語、ならびにそれを穢れた衣であるとするのは、少なくとも中古以降の言葉づかいにしか見られないわけである。

名義抄(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2586898/1/26をトリミング)
(注5)延喜式・左右近衛府には「行騰」(行縢)と「脛巾」の着用の別が定められている。騎射うまゆみは行騰、大射おほいくはは歩射だから脛巾、行幸時にはある程度の人は行騰を着けたが、近ければ地位によりくわのくつがまの脛巾に替えるように指示されている。行縢は、宇陀の大野への遠行や騎射の行事にはふさわしいと見受けられる。
 鈴木2014.は、奈良時代の行縢は短甲附属の小振りのものとしている。この万191番歌では舎人が行縢を用意していると言っていて、それは皇子尊が着するためのものではなく、舎人が自分自身でも身に着けるために胴衣にしていた毛皮を行縢に仕立て直したと戯れていると考える。もちろん、舎人の分際では着用は認められない。
(注6)原文に「春冬」とあるのをトキと訓む点について、狩猟時期が春や冬だったからとする説がある。宮廷人が薬猟の際に美装したことと絡めて述べられるが、恒例の五月五日の薬猟は季節では夏に当たる。筆者は、表記においてもパロディ性を追求した結果としてこのように書かれていると考える。
(注7)万葉集の本文で「いでまし」という言葉が現れるのは、当該万191番歌以外には八例あり、類例とも原文表記とその訓みをここに記す。

「行幸能」(万5) いでましの
「御駕之」(万230) いでましの
「幸行處」(万295) いでましどころ
「行幸處」(万322) いでましどころ
「行幸之宮」(万315) いでましのみや
「幸而」(万196) いでまして
「行幸之随」(万1032) みゆきのまにま

 「行幸」とあるような場合、「いでまし」と訓むのが通例である。万191番歌に「幸之」とあるのを万4番歌の題詞にあるような漢文訓読調に「いでまし」と訓むことは、不可能ではないが草壁皇子の生前の行事であったと見ようとして生まれた訓みであり的外れである。上に述べたとおり、行幸時に身に着けることにしていたと認められる行縢のことを歌に詠んでいるのだから、「行幸いでまし」と訓むのが正解である。
(注8)年中行事絵巻の騎射の絵には行縢姿は描かれるが垜は描かれていない。画面のこちら側の埒上に的があり垜を描く構図、スペースにない。
(注9)拙稿「人麻呂作歌、安騎野の歌、万49番歌の「来向ふ」について」参照。飛鳥浄御原宮当時、どこで騎射が行われていたか不明である。

(引用・参考文献)
井実2012. 井実充史「複合作品としての日並皇子尊哀悼歌」『国文学研究』第167号、2012年6月。早稲田大学リポジトリ http://hdl.handle.net/2065/45271
影山2024. 影山尚之「勤しみ、嘆き、うたう舎人─舎人等慟傷作歌二十三首について─」去来草の会編『論集 上代文学の明日を拓く』翰林書房、2024年。
菊池1935. 菊池壽人『萬葉集精考』中興館、昭和10年。
菊地2025. 菊地義裕「草壁皇子の宮の「舎人等慟傷作歌」の性格と意義」『万葉時代の思想と表現』翰林書房、2025年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
鈴木2014. 鈴木敬三「むかばき考」『武器と武具の有識故実』吉川弘文館、2014年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第四巻』小学館、2001年。
萬葉集正義 萬葉集正義編集委員会編『萬葉集正義 第1』八木書店、2024年。
身﨑1987. 身﨑壽「日並皇子舎人慟傷歌群試論」『北海道大学文学部紀要』通巻60号、1987年1月。北海道大学学術成果リポジトリ https://hdl.handle.net/2115/33507
有識故実大辞典 鈴木敬三『有識故実大辞典』吉川弘文館、平成8年。
吉井1970. 吉井巖「舎人の嘆き」『国文学 解釈と鑑賞』第35巻第8号、昭和45年7月。
和英語林集成 J.C.ヘボン、松村明解説『和英語林集成』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
渡瀬2003. 渡瀬昌忠「舎人慟傷作歌群」『渡瀬昌忠著作集 第六巻 島の宮の文学』おうふう、平成15年。
2026.5.18 加藤良平
 大化改新後の政争において、大化五年(649)、左大臣蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかはまろは讒言によって殺された。石川麻呂の娘、みやつこひめは中大兄に嫁いでいて、父親の後を追って自殺している。彼女は名前がいろいろと変わっていて、ちのいらつめ美濃津みのつこのいらつめとも記されている(注1)。造媛が父親の石川麻呂が斬首にされたことを聞いて、刀を使って実行した人物の名が「塩」といったために salt のシホという言葉を聞くのも嫌がった。

 皇太子ひつぎのみこみめがの造媛みやつこひめかぞ大臣おほおみしほの為に斬らると聞きて、心をやぶりて痛みあつかふ。塩の名聞くことをにくむ。所以このゆゑに、造媛に近くつかへまつる者、塩の名はむことをみて、改めて堅塩きたしと曰ふ。造媛、遂に心を傷るに因りて、死ぬるに致りぬ。皇太子、造媛徂逝ぬと聞きて、愴然傷怛いたみて、哀泣かなしぶること極めてにへさなり。是に、野中のなかの川原かはらのふびとみつ、進みて歌を奉る。うたよみして曰はく、
 山川やまがはに 鴛鴦をし二つ居て たぐひよく たぐへる妹を たれにけむ 〈其一それひとつ〉(紀113)
 本毎もとごとに 花は咲けども なにとかも うつくし妹が また咲きぬ 〈其二それふたつ〉(紀114)
皇太子、慨然頽歎なげ褒美めて曰はく、「善きかな、悲しきかな」といふ。乃ち御琴を授けて唱はしむ。絹むら・布二十はたむら・綿ふたかます賜ふ。(孝徳紀大化五年三月是月)

 造媛の近侍の者たちは、奥方に気を使ってシホと言わずにキタシと言ったという話である。新編全集本日本書紀に、「父を殺した人の名が「塩〈しほ〉」なので、娘造媛は「塩」という言葉を忌み、「堅塩〈きたし〉」といったというのである。キタシはキタシ(堅)シホ(塩)の縮約。キタシとカタシは音通。「堅塩〈きたし・かたしほ〉」は、塩のにがりを除くために土堝に入れて焼き、固い塊となるので「堅塩」という。」(178頁)とする。

堅塩焼き資料(鳥羽市立海の博物館展示品)
 注釈として間違ってはいない(注2)が、思慮の浅い解説である。その程度のことをわざわざ後世に伝えようとするほど、無文字時代の上代人の言語能力は低くない。言葉としてずっと込み入った事情を伝えているものと思われる。第一に、忌む言葉として有名な斎宮忌詞に関係する点があげられる。斎宮忌詞(注3)に「涙」を「塩垂しほたれ」と言っている。延喜式に載る斎宮忌詞がいつからあるかはわからないが、上の記事に、「涙」を流す→……→「塩」というつながりで記されているように感じられる。「傷心痛惋、悪塩名」という記述は、「塩」という名を聞くことはそもそもが斎宮忌詞にいう塩垂、涙を流すことを連想させるのに、さらに輪にかけて、物部二田造塩という名の人に父親が首斬られたのだから、悲しみが倍増している。造媛自身、困ったことに自分の名はミヤツコである。物部二田造塩にあってはミヤツコはかばねに当たり、悪い奴と同じ名を負っている。なぜ姓が同じぐらいで深刻になるかと言えば、カバネとはシカバネともいうように、亡骸、骨の意だからである(注4)。父親が亡くなっていて、屍の骨がおもちゃにされてしまった。物部二田造塩については人斬り以蔵的なイメージがある。大化五年三月二十六日の出来事は、造媛にとって痛ましく辛かった。

 庚午[二十六日]に、山田大臣やまだのおほおみ妻子めこ及び随身者ともびと、自らわなきてみうする者おほし。穂積臣ほづみのおみくひ、大臣の伴党ともがら田口臣筑たぐちのおみつく等をかすあつめて、くびかししりへでにしばれり。是のゆふべに、木臣きのおみ麻呂まろ我臣がのおみむか・穂積臣嚙、いくさひきゐて寺をかくむ。物部もののべの二田ふつたのみやつこしほして、大臣のくびを斬らしむ。是に、二田塩、仍ち大刀たちを抜きて、其のししを刺し挙げて、叱咤たけ啼叫さけびて、いまし斬りつ。(孝徳紀大化五年三月)

 とんでもない話を聞かされてしまった。父親、家族、召使一家、首を括って自害している。それだけではない。当初、審問官であった穂積臣嚙は凶暴な物部二田造塩を喚び寄せている。息絶えている父親の遺体をたてて(注5)、大声をあげながら首を斬り落とした。それが律にいう斬首の刑(注6)に当たり、はじめての斬として公然と執り行われている。「叱咤啼叫」だから「咄嗟やあ」とでも言って大刀を揮っている。自分の夫が実家の父親を殺させている。指図したわけでなくても不作為にしてそうなっている。自決しているのにさらに死者に鞭打つどころか首を斬り落とさせている。自分の夫である中大兄は、乙巳の変の時に蘇我入鹿を殺させるために掛け声を発していた。「中大兄なかのおほえ子麻呂等こまろらの、入鹿いるかいきほひおそりて、便旋めぐらひて進まざるを見てのたまはく、『咄嗟やあ』とのたまふ。」(皇極紀四年六月)。心を持つまともな人にとっては耐えられることではなかった。造媛は気が狂って父親の後を追ったのではなく、まともだから生き続けることができなかった。
 この「造媛」という人は、蘇我倉山田石川麻呂の娘であるが、そのうちの二番目の子であろう。最初に登場するのは、中大兄に嫁ぐときのことである。今回、皇太子中大兄に讒言して蘇我倉山田石川麻呂を殺すように仕向けた首謀者、蘇我日向、あざなざしという人物は、そのときにも登場している。中大兄は蘇我蝦夷・入鹿のいわゆる蘇我本宗家に対するため、蘇我氏の別流の倉山田石川麻呂の長女を嫁に迎えたらいいのではないかと中臣鎌足の提案を受けて政略結婚が取り決められた。ところがその「長女」は蘇我日向(身狭)に誘拐された。ピンチヒッターに「少女」が立っている。それが造媛、親孝行な娘である。話として、二回とも蘇我日向(身刺)は、中大兄と蘇我倉山田石川麻呂との間の関係を壊す役柄となっている。

 是に、中臣鎌子連なかとみのかまこのむらじはかりてまをさく、「大きなる事を謀るには、たすけ有るにはかず。ふ、蘇我倉山田麻呂の長女えひめめしいれて妃として、婚姻むこしうとむつびを成さむ。しかうして後にべ説きて、ともに事を計らむをおもふ。いたはりを成すみちこれより近きは莫し」とまをす。中大兄、聞きて大きに悦びたまふ。つばひらかはかれるに従ひたまふ。中臣鎌子連、即ち自ら往きてなかだかため訖りぬ。しかるに長女、ちぎりしやからぬすまれぬ。〈族は狭臣さのおみと謂ふ。〉是に由りて、倉山田臣、憂へかしこまり、仰ぎ臥して所為せむすべを知らず。少女おとひめ、父の憂ふる色をあやしびて、きて問ひて曰はく、「憂へ悔ゆることぞ」といふ。父其のゆゑぶ。少女曰はく、「願はくはな憂へたまひそ。おのれを以て奉進たてまつりたまふとも、亦復またおそからじ」といふ。父、便ち大きに悦びて、遂に其のむすめたてまつる。つかへまつるに赤心きよきこころを以てして、更に忌むること無し。(皇極紀三年正月)

 結局、倉山田石川麻呂の「少女」の方が自ら進んで中大兄に嫁いでいる訳であるが、彼女の名前をきちんと記した報告書としては天智紀の皇統譜によるしかない。

 二月の丙辰の朔戊寅に、古人大兄皇ふるひとのおほえのみみむすめ倭姫王やまとのひめおほきみを立てて皇后きさきとす。遂によはしらみめめしいる。蘇我山田石川麻呂大臣の女有り、遠智娘をちのいらつめと曰ふ。〈或本あるふみに云はく、美濃津みのつこのいらつめといふ。〉ひとりひこみこふたりひめみこを生めり。其の一を大田おほたの皇女ひめみこまをす。其の二を野皇女ののひめみこと曰す。天下あめのしたしらしむるにいたりて、飛鳥あすかの浄御原宮きよみはらのみやします。後に宮を藤原に移す。其のみたりたけるの皇子みこと曰す。おふしにしてまこととふこと能はず。〈或本に云はく、遠智娘、一の男・二の女を生めり。其の一を建皇子と曰す。其の二を大田皇女と曰す。其の三を鸕野皇女と曰すといふ。或本に云はく、蘇我山田麻呂大臣の女をぬのいらつめと曰ふ。大田皇女と娑羅羅さららの皇女ひめみことを生めりといふ。〉次に遠智娘のいろど有り、めひのいらつめと曰ふ。御名みな部皇女べのひめみこ陪皇女へのひめみことを生めり。阿陪皇女、天下をしらしむるにいたりて、藤原宮にします。後に都を乃楽ならに移す。〈或本に云はく、姪娘をなづけてさくらゐのいらつめと曰ふといふ。〉……(天智紀七年二月)

 嬪四人のうちの二人が石川麻呂の娘である。「遠智娘(美濃津子娘、芽淳娘)」と「姪娘(桜井娘)」である。一般的には、「美濃津子娘」は「三野津子娘」などと記されていたのを誤って写したもので、「造媛」のミヤツコがミノツコとなっていると考えられている。ミヤツコを「三野津子」などと表記したのが誤読されてミノツコに変じたという。筆者は、単なる誤写ではなく、意図的、作為的な改変ではないかと考える。彼女は、自分の父親を斬首した物部もののべの二田ふたたのみやつこしほが許せない。しほにまみれて喜んでいた奴が死んでも許せないと感じていた。きっと物部二田造塩は、血潮のことを斎宮忌詞流に、いい仕事をして「汗」をかいたと笑っていたのだろう。だからこそ、シホという言葉は侍者に忌み言葉として扱われている。後を追って死んでしまった造媛を、名前を同じミヤツコ(ヒメ)と呼んでいてはかわいそうである。浮かばれないではないか。名前を変えてあげよう。ミヤツコヒメ→ミノツコヒメ(ミ・ノ・コはともに甲類)である(注7)
 「三野津子」などと記したことによって生じた訓から生じたことを否定するつもりはないが、それだけの理由で積極的に名前を変えることは上代の言霊信仰下において疑問である。大化改新前の騒動の時、「赤心」(注8)を抱いて自らをいわば犠牲にして政略結婚に応じて中大兄に嫁いだのは、嬪の筆頭にあげられている「遠智娘」で間違いない。誠なる性根だからこそ父親の死にショックを受けて後を追っている。
 「遠智娘」という名がいつからあったかはわからない。女の子が何人もいて、最初の子は「長女」で、二番目の子の呼び名である。年下の子はオト(弟・娣)である。さらに三番目の子が登場してしまったので、二番目のオトを叔、オトヲヂ(叔父、伯父に対する語)と捉え直して三番目をそれに対するメヒ(姪)として定めた。すると二番目の娘は女の子だからヲヂではなくてそれに近いものとしてヲチとして落ち着かせたと推定することができる(注9)
 最初の婚姻の個所では、「長女」対「少女」という並びであった。名前などどうでもいい扱いと思われていた。より正確にいえば、呼ばれるもの、それが名前であって、どう呼ばれたかが問題なのである。結果的に、ヲチ(ノイラツメ)と呼ばれている。ヲチといえば、遠いところのヲチ(彼方)の意があり、彼岸へ逝ってしまった人であり、以後のことを示すヲチ(遠)の意がある。結婚騒動で善後策をとってくれた人であるし、元に戻って若々しくあることをいうヲチ(復若)の意があり、若い良い人を亡くしたのでそう呼んで悼んだものと思われる。つまり、死後に授けられたいみなである。忌み名の意である。近侍者はシホ(塩)をキタシ(堅塩)という忌み名で呼ぼうと取り決めていた。天皇でもないのに諱で呼ばれ、「遠智娘」という名で呼ばれることとは忌み名の人という意味である。最初に「少女」として登場した時も、「奉以赤心、更無忌。」とある。厭うことなく寛容であった。日本書紀編纂者の通念として、彼女は「忌」の人、くだけて言えば恨みっこなしの人と認識されている。最終的に、恨みっこなしにはできない事態に遭遇し、看過できずに自らこの世から出て行くこととなった。自己循環的に、名前がそのものとしてから名づけられている。上代の言語論理の特徴に合致していて正しいと知れる。言葉に依って立つ意味をそれ自体に含めてしまう二重化が起こっている。
 ミヤツコはミ(御)+ヤツコ(奴)の約とされる。ミノツコはミ(御)+ノ(野)+ツ〈助詞〉+コ(子)、つまり、野辺送りのノ(野)の意味合い、墓守の奴の意へと転化可能である。そしてまた、後追い自殺した人の名とするのにも相当である。それも、彼女の人生の節目の原因をことごとく作った人物、蘇我日向、あざなを身刺(身狭)という人物が、ヒムカ(日向)、ムザシ(武蔵)という国の名を負っていることに対抗して、ミノ(美濃)という国の名を当てたということだろう。追号されて美濃守を賜っているのに相当する。遠国の日向国や武蔵国ではなく、ずっと都に近い美濃国を与えられている。日向の方、つまり、蘇我日向は左遷されている。「即ち日向臣ひむかのおみ筑紫つくしの大宰帥おほみこともちのかみす。世人ひとかたりて曰はく、『これ隠流しのびながしか』といふ。」(孝徳紀大化五年三月是月)(注10)。大宰府は筑紫国にあり、古くは日向も筑紫国の一部であった。神代紀第九段一書第一に「筑紫の日向の高千穂の槵触くしふるたけ」とある。
 では、なぜ、美濃国が選ばれたか。ミヤツコを「三野津子」などと記されたのが契機となって、「三野」は美濃国の字に用いていた(注11)からそういう流れからそうなったことに違いはない。ただし、それを積極的に支持する上代人の思想がありそうである。野というのは、武蔵野というように台地のことである。それが三つあるのが「三野」である。三つ野があるとは、川が流れて間を区切っていることをいう。河岸段丘になっている。すると、川の流れは字形としてY字、または、人字である。造媛は無実の父親の死に殉ずるに準じた形になっている。漢字の国の儒教道徳に照らしてまことあっぱれな「人」であると認められる(注12)。万葉集でも、「人」という言葉は立派な人のことを指して使われることがある。

 …… あれきて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば …… (万892)

 つまり、ミヤツコという名を表記するに当たり、書記者は意図して「三野津子」というように記してミノツコへと改変しようとしたものと考えられる。

三野と人の関係地図
 実際の美濃国については、古代から紙が特産品として知られていた。美濃紙である。延喜式・内蔵寮式に、「年料に造るところの色紙四千六百張……毎年図書の長上一人を差し、美濃国に遣はして造らしめよ。」とある。古代の紙の需要に一番多かったのは経の書写である。蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いで追討されたのは山田寺である。経の書写には色染めした紙が使われている。防虫効果を狙ったものともいわれる。斎宮忌詞に経のことを「染紙そめかみ」という。忌詞つながりでも、ミヤツコヒメ(造媛)を改めミノツコヒメ(三野津子媛)とすることに矛盾がない。
 また、美濃国の特産品にはあしぎぬもあげられる。延喜式・大蔵省式に、「蕃客に賜ふ例 大唐皇。〈銀大五百両。水織絁・美濃絁各二百疋。細絁・黄絁各三百疋。……〉。」とあって、渤海王や新羅王に渡す規定のない上等品扱いされている(注13)。唐への朝貢品とするのに、名前にあるアシギヌなる粗悪な絹のイメージは払拭されよう。なぜかアシギヌと言われて通っているが、悪くないのにアシギヌである。そんなキヌと言えば濡れ衣のことである。濡れた衣服を言うことから転じて、無実の罪を受けること、冤罪を示す言葉である。決して悪くないのに悪いように思われてしまった。蘇我倉山田石川麻呂の孝行娘を偲ぶのに、美濃はふさわしいお国柄なのである(注14)
 そして第三に、美濃国という内陸国にして塩を産する。森2009.は、可児市宮之脇遺跡や関市重所遺跡から美濃式製塩土器が出土していることに関して、「付近の土場で荷揚げされた粗塩を再加熱して堅塩を製作する「二次生産地」として機能していた可能性が高い。」(12頁)とする(注15)。つまり、「堅塩きたし」の生産が美濃国で行われていたわけである。この堅塩は、今日でも伊勢神宮に清めの塩として見られる。粗塩を三角錐の土器に詰め込み、忌火を熾して五~六日かけて焼く。堅塩は、その実体そのものが忌みを表し得るものなのである(注16)。忌みの人、造媛に聞かれないように忌詞として「堅塩きたし」と呼んでいたのは、言葉が言葉へと、これでもかと畳みかけるように返ってくる表現となっており、自己循環的な説明を好んでその証明としていた上代の言語感覚に合致した言葉づかいである。
 近年、大化五年三月条の「造媛」と天智紀七年二月条の「遠智娘(美濃津子娘)」とは別人ではないかという意見が提出された。「遠智娘(美濃津子娘)」の皇子とされる建皇子の年齢問題を取り沙汰されている。遠智娘の子の建王(建皇子)が斉明四年(658)に八才で亡くなっているとすると、生れたのが白雉二年(651)ということになり、造媛は大化五年(649)に父親の蘇我倉山田石川麻呂の死に落胆して亡くなったはずの記述と合わないからその母親は別人であろうというのである(注17)
 日本書紀の年齢記事には「年○○」といった記述もあるが、ここでは「○○歳」のみとりあげる。年齢をきちんと記すのは実はとても例外的であやしいものばかりである(注18)。同級生や定年という概念の生じることのない社会体制では何歳なのかは問題とならなかったのだろう。通常、天武天皇のような有名人でも年齢を記す習慣はなく、今日の研究者は何年生まれかわからずに憶測を飛ばしている。

 次生蛭児。雖已三歳、脚猶不立。(神代紀第五段本文)
 次生蛭児。此児年満三歳、脚尚不立。(神代紀第五段一書第二)
 及年卌五歳、謂諸兄及子等曰、……(神武前紀)
 七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮。時年一百廿七歳。(神武紀七十六年三月)
 至卌八歳、神日本磐余彦天皇崩。(綏靖前紀)
 天皇年十九歳、立為皇太子。(崇神前紀)
 天皇、践祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。時年百廿歳。(崇神紀六十八年十二月)
 廿四歳、因夢祥、以立為皇太子。(垂仁前紀)
 九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮。時年百卌歳。(垂仁紀九十九年七月)
 六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩於高穴穂宮。時年一百六歳。(景行紀六十年十一月)
 六十年夏六月己巳朔己卯、天皇崩。時年一百七歳。(成務紀六十年六月)
 六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩於稚桜宮。〈時年一百歳。〉(神功紀六十九年四月)
 摂政六十九年夏四月、皇太后崩。〈時年百歳。〉(応神前紀)
 卌一年春二月甲午朔戊申、天皇崩于明宮、時年一百一十歳。(応神紀四十一年二月)
 天皇年五十七歳、八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩。(継体前紀)
 〈百済本紀云、高麗、以正月丙午、立中夫人子王。年八歳。〉(欽明紀七年是歳)
 令司馬達等女嶋、曰善信尼〈年十一歳。〉 (敏達紀十三年是歳)
 年十八歳、立為渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩。卅九歳、当于泊瀬部天皇五年十一月、天皇為大臣馬子宿禰殺。(推古前紀)
 五月、皇孫建王、年八歳薨。(斉明紀四年五月)
 百済僧常輝封卅戸。是僧寿百歳。(天武紀十四年十月)
 甲寅、常陸国貢中臣部若子。長尺六寸。其生年丙辰至於此歳、十六年也。(天智紀十年三月)

 斉明紀の建王の薨去年齢は示し方に殊更感がただよう。天智紀七年二月条の皇統譜の本文に、「其三曰建皇子。唖不語。」とある。唖者で言葉が喋れない。「坊や、いくつ?」と聞かれても答えられない。答えられなければわからない。わからないのに「皇孫建王、年八歳薨。」と書いてある。紀は歴史書だから「八歳」とあれば eight years old に決まっているだろうと考えるてはならない。書いてあるのは噺である。百歳以上の天皇が大勢いるのは噺家の口先三寸による。古代に八歳が何かの区切りであったとは知られない。噺としてなら、建王の母親は天智紀にある「遠智娘」、「美濃津子娘」、「芽淳娘」という人であるが、それは、孝徳紀にあった「造媛みやつこひめ」と同一人物である。上に諱であると示した。その証拠を加えると、ミヤツコ(ヒメ)のミコ(御子、皇子)なのだから、差し引きヤツ(八歳)である。ミヤツコ(造)、ミコ(御子、皇子)のミ・コはともに甲類である。いわゆる精神年齢として、ヤツ(八歳)、今日の小学校二年生以上に育つことはないという噺である(注19)
 以上、「造媛」についての考証した。「遠智娘」、「美濃津子娘」、「茅渟娘」は同一人物であり、蘇我倉山田石川麻呂の娘「少女」のこと、父親思いで、「赤心」をもって生きた人であり、政略結婚をして相手の皇太子、中大兄の非道に苦しんだ。産んだ子の一人は持統天皇として即位している。社会制度上どのように扱われようが、一人一人は一人の人間として生きている。紀に非業の死を遂げた造媛の記述があり、人物像が確かに描かれている。人間が生きるということを捨象して時系列に事件を並べて整理して、合理的に理解できて歴史がわかるということはなく、もしそれがあるのなら、もはや「人間の学としての歴史学」ではない。紀の編纂者の筆致から大切なことを学ぶべきだろう。

(注)
(注1)記載のある日本書紀の叙述は話が前後するところがある。
 先に話の顛末を言い、それはどのような事情からそうなったのか、と振り返る語り口が、古事記に代表される上代の話に数多く認められる。歴史を時間軸に従って見るのではなく、事柄の解説のために前後して話している。話(咄・噺・譚)の醍醐味が優先された。口頭でやりとりするのにそのほうがずっとわかりやすい。無文字文化のなかに暮らした人たちのものの考え方であった。
(注2)液状のにがりを捨てずに土堝に入れて二度焼きすることでMgCl2をMgOへ変性させるのと、にがりを自然に落として塩とするのと、ほかにもいわゆる「藻塩」のヨード分のための色合いなどにより種々の「塩」の存在が想定されている。和名抄にも、「塩 陶隠居に曰はく、塩に九種有り、白塩は人の常に食する所なりといふ。崔禹食経に云はく、石塩、一名は白塩、又、黒塩有りといふ〈余廉反、之保しほ、日本紀私記に云ふ堅塩、岐多之きたし〉。」とある。古代における塩は大別するとシホ(塩)とキタシ(堅塩)の二形態があったようである。拙稿「角鹿の塩を呪詛忘れ」参照。
(注3)延喜式・斎宮式に、「凡そ忌詞、内七言は、仏をなかひ、経を染紙そめがみと称ひ、塔を阿良良伎あららぎと称ひ、寺をかはらふきと称ひ、僧を髪長かみながと称ひ、尼を髪長かみながと称ひ、いもい[斎食]を片膳かたじきと称ふ。死を奈保留なほる[治]と称ひ、病を夜須美やすみ[慰]と称ひ、なく塩垂しほたると称ひ、血を阿世あせ[汗]と称ひ、うつなづと称ひ、宍をくさひら[菜・きのこ]と称ひ、墓をつちくれと称ふ。」とある。
(注4)「姓」をカバネと読むのは、新羅で同様に社会的な地位の上下を示す際、「骨品」という語を用いていたことから、その「骨」に相当するヤマトコトバ、カバネ(骸骨)が当てられたと考えられている。ヤマトコトバのカバネについては、白川1995.に、「かばね〔屍・尸〕 もと骨をいう語であろう。やがて残骨となるものであるから、屍体をもいう。のち「しかばね」という。「ね」は「ほね」の「ね」であろう。」(241頁)とある。
(注5)なぜ横たえたまま首を斬り落とすのでは駄目なのか。おそらく、それではすでに死んでいることを認めることになるからだろう。起こし立てて生きていることにして斬首している。どの程度まで起こしたかについては、筆者は、原文に「宍」に通用する「完」字が使われることから、完全に、まるごと、立っている状態に持ち上げられたのではないかとも考える。実際にそうしたかどうかではなく、紀の編纂者の意図としてそういう意味で書いているものと考える。医心方・巻二十二に、「録験方に云はく、妊娠にて体るるを治する方。生けるぎよ、長さ二尺なるもの一頭を、さながら・まろながら水二斗を用て煮て五升取り、魚を食ひ、汁を飲めといふ。(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1064408/1/211を読み下した)」とある。鯉を一匹づけで煮込んでいて、それをマロナガラ、サナガラと訓んでいる。とても興味深い訓である。起こし立てられたのは蘇我倉山田石川麻呂という人で、名前は麻呂である。ほかは氏に当たる。マロという語は男の名に付けられることが多いが、「人」であることも指す。サナガラという訓は、今日的感覚では、まるで○○のようだ、の意へとも転じている。死んでしまっているからもはや人ではないのだが、まるで本物の人のようであると伝えたくてこのような通字の「完」字が選ばれているのではないか。しかも、時の都は難波長柄ながらの豊碕宮、ナガラなのである。翻って考えるなら、本邦でのみ「完」字を「宍」字の通用させた契機、上代人の言語の感性について、考察の対象を広げられる糸口ともなり得るだろう。通用発生のメカニズムは研究テーマの一つになるとのである。後考を俟つ。
(注6)養老律・名例律に、「死罪二 〈絞斬二死 贖銅各二百斤〉」とある。
(注7)そもそもの最初の名とされる「造媛」という命名にしても、いつからそのように呼ばれているのか確かではない。皇極三年三月条では「少女」とのみ記されている。彼女は中大兄に嫁いだ。そこで奴婢同然に扱われていたとしたら、ミヤツコと綽名されて周囲の人にわかりやすい。また、「物部二田造塩」という人物について、蘇我氏の一系統が石川氏であるように、物部氏の一系統の二田氏を表しているようである。それがフツタと呼ばれていたことは注目される。フツタとブツタ(仏陀)は似て非なるものである。世の中は澄むと濁るの違いにて、真逆の性格を持つことがあるという洒落と理解できる。仏陀を大切にしていた石川麻呂は、謀反の疑いがかけられて軍を差し向けられた時、茅渟道を通って大和へ向かい、山田寺に入った。一族に正しい道を説き、仏殿を開けてご本尊に、「願はくは我、生生世世よよ君主きみを怨みじ」と誓っている。輪廻転生を思うほどに信仰心が篤い。その信仰に支えられて忠義にも篤い。すべての問題は道徳である。正しい道を求めており、石川麻呂が通った道は「渟道ぬのみち」(大化五年三月)であった。その後を追った造媛(遠智女、美濃津子娘)が「或本」に「茅渟娘」とあるのは、moral のことと load のことがヤマトコトバに同じミチ(道)という言葉で用いられており、「道」字に「首」字が含まれていることを思って斬首の謂いを含めて考え抜かれた命名なのだろう。
 一方のフツタ(二田)については、剣の名に、「韴霊ふつのみたま」(神武前紀戊午年六月)とあり、ものを切断する時の擬音語とされている。シホ(塩)については、血潮の意との関連を匂わせる点はすでに指摘した。続日本紀に、「庭の中にして天地あめつち四方よもとを礼拝をがみ、共に塩汁しほしるすすり、ちかひて曰はく、……」(天平宝字元年七月)とあり、謀反を起こす時の盟約としている。血が流れて良いのだね、と約束しているようである。反対に、服従を誓う時には蝦夷の記事がある。「是に、綾糟あやかす等、懼然おぢかしこま恐懼かしこみて、乃ち泊瀬の中流かはなかおりゐて、三諸岳みもろのをかむかひて、水をすすりてちかひてまをさく、「やつこ蝦夷えみし、今より以後のち子子孫孫うみのこのやそつづき古語ふること生児うみのこ八十やそ綿連つづきと云ふ。〉いさぎよあきらけき心をて、天闕みかどつかへ奉らむ。……」(敏達紀十年閏二月)。真水で行っている。
(注8)「赤心」は古訓にキヨキココロと訓まれている。岩崎本の朱書で少なくとも十世紀からそう訓まれている。字面は漢籍の引用である。荀子・王制に、「功名の就る所、亡を存し危を安んずるのしたがふ所は、必ず将にいんなる赤心の所に於いてせんとするなり。(功名之所就、存亡安危之所墮、必将愉殷赤心之所。)」、後漢書・光武紀上に、「蕭王、赤心を推して、人の腹中に置く。(蕭王推赤心、置人腹中。)」とある。日本書紀編者は巧みで、血の色を思い出させる用字を採用しているわけである。
(注9)嬪の二人目である「姪娘」は「桜井娘」とも名づけられている。名前について、「……曰遠智娘。」と「……名姪娘桜井娘。」と書き分けられている。名づけ方の流儀、深謀の差を示すものではないか。「桜井娘」という名前の由来も検討しなければならない。後考を俟つ。
(注10)「隠流」については、当時の大宰府長官は菅原道真のような待遇ではなく、けっして左遷のようなものには当たらないとも論じられている。けれども、筑紫国は美濃国よりもずっと都から遠い。それどころか、シノビナガシとは、シノブ(忍・隠)ことを目途とする転勤である。問題を追及せずにこらえ、露わにして事立てることなく、ただただ事件の鎮静化をはかるものであった。言い換えれば、なかったことにしようというのである。当事者の蘇我日向が都からいなくなれば、事の真相、特に皇太子中大兄の暗愚さについては、証人喚問も参考人招致もされないから噂程度で済んで闇に葬られる。では、どうして真実がばれてしまって「世人相謂之曰、是隠流乎。」という文言が日本書紀という公文書に残されているのか。期日が経ったから機密文書が公開されたのではなく、中大兄(天智天皇)や斉明(皇極)天皇、天武・持統天皇などの世代まではただ単に字が読めなかったからだろう。日本書紀は天武天皇のお達しで、本邦の正しい歴史を編纂するようにということで編まれているが、時の政権に不都合なことでも読まれる可能性はないのだから、とにかく完成させることを優先させてまとめられ、持統天皇の治世の終わりを待って撰上される運びとなっている。その後も講書されることは古くからあり、テキスト批判が行われることが新しくあっても、政権批判の種と認められたことはない。紀の編纂者の意図が読めていないのである。
(注11)国名のミノ(ミ・ノは甲類)には、紀には「美濃」、記では「美濃」、「三野」、万葉集では「美濃」(万1034題詞)、「三野」(万3242)と当てられている。
(注12)春秋左氏伝・文公十三年に、「子秦に人無しと謂ふ無し。(子無秦無人。)」、史記・夏本紀に、「是に於て帝尭、乃ち人を求め、更に舜を得。(於是帝尭乃求人、更得舜。)」とある。
(注13)実際には、高麗国使を含め、各国の国使に渡していることが続紀に記録されている。
(注14)早川2000.参照。
(注15)森2009.に、「[東海地方]海岸部で生産した堅塩を運び込まずに現地生産する理由としては、安価な粗塩を購入して現地生産した方が、堅塩の価格が有利であったり、流通ルートの問題などが想定される。」(17頁)とある。流通ルート的には、木曽川、長良川舟運の終港付近に美濃式製塩土器の大量出土遺跡があり、運搬上最も効率的なところまで遡上していることがわかる。塩を作るために大量の燃料材を必要とするため、森林資源のそばまで半製品を運ぶのが合理的だと考えたからだろう。
(注16)西宮1974.参照。
(注17)以前、建王の母親は造媛であるという考えに疑問を呈することは少なかった。大化五年三月条の「造媛」と天智紀七年二月条の「遠智娘(美濃津子娘)」とは同一人物であると解されてきた。直木1985.、青木2003.を参照。ところが、笹川2016.は、遠智娘の子であるはずの建王の生れた年が死後になってしまうから大いに疑問であるとしている。建王の祖母の斉明天皇が、不憫に思って亡くなった時に「不哀、傷慟極甚。詔群臣曰、萬歳千秋之後、要合葬於朕陵。」とあり、歌を歌わせたり、同年十月に紀温湯へ行く途中でも「憶皇孫建王、愴爾悲泣。」して再度歌わせている。それほどなのに同じ墓に入ったとされる資料は見当たらないと指摘する。そこから、日本書紀編者は、建王に関する実情を聴取できずに適当に記事を按配したのではないかと推測している。
(注18)「○○歳」記事ではないが、天智紀十年三月条のみ、年齢が主題になるため正確を期しているように思われるために追記した。
(注19)今般の社会情勢を鑑みたとき差別的な考えは捨てられるべきであるが、日本書紀の記述を研究するうえでのみ述べたものである。

(引用・参考文献)
青木2003. 青木和夫『白鳳・天平の時代』吉川弘文館、2003年。
笹川2016. 笹川尚紀『日本書紀成立史攷』塙書房、2016年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
直木1985. 直木孝次郎『持統天皇』吉川弘文館、1985年。
西宮1974. 西宮一民「「堅塩」考─万葉集訓詁の道─」『萬葉』第83号、昭和49年2月。萬葉学会ホームページhttp://manyoug.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/03/manyo_083.pdf
早川2000. 早川庄八『日本古代の財政制度』名著刊行会、2000年。
森2009. 森泰通「古代美濃における堅塩の生産・流通・消費」木曽川研究協議会編『木曽川流域の自然と歴史─木曽川学論集─』同会発行、平成21年。

加藤良平 2026.5.1改稿
 ここにあげる二首の歌については、ほとんど論じられていない(注1)

  冬十二月十二日に、歌儛所うたまひどころ諸王おほきみたち臣子等おみのこたちの、葛井連広成ふぢゐのむらじひろなりが家につどひてうたげする歌二首
  比来このごろ古儛こぶさかりに興り、さいやくやくれぬ。ことわりに共に古情こじやうを尽して、同じく古歌こかを唱ふべし。かれ、此のおもぶきなずらへて、すなは古曲こきよく二節を献る。風流意気の士の、たまさかに此のつどひの中に在らば、あらそひておもひおこし、心々にたいに和へよ。〔冬十二月十二日謌儛所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴謌二首/比来古儛盛興古歲漸晩理宜共盡古情同唱古謌故擬此趣輙獻古曲二節風流意氣之士儻有此集之中争發念心々和古體〕
 わが屋戸やどの 梅咲きたりと 告げらば と言ふに似たり 散りぬともよし〔我屋戸之梅咲有跡告遣者来云似有散去十万吉〕(万1011)
 春されば ををりにををり うぐひすの 鳴くわが山斎しまそ まずかよはせ〔春去者乎呼理尓乎呼里鶯之鳴吾嶋曽不息通為〕(万1012)

 この二首の歌は、歌の前文に「古儛」、「古歳」、「古情」、「古歌」、「古曲」、「古体」と、「古」が強調されている。現状では、古い歌曲にふさわしいように作った歌であろうとされながら、それがどのようなものなのかについては不明なままになっている。
 題詞には、十二月十二日に葛井広成邸に歌儛所(注2)の人たちが集まったとあり、作歌の事情を語っている。現状の解釈では、歌儛所に人たちの集まりだったから、昨今の古儛ブームにあやかって歌でも古歌を歌ってみてはどうかという趣向となり、この二首が披露されたかのように捉えられている。
 一首目では、私の家では梅が咲いたと告げ知らせたら、いらっしゃいと言っているのと同じことで口惜しい、むしろ散ってしまってかまわない、二首目では、春になるとたわみにたわむほどに鶯が鳴く我が庭なのだから、欠かさずにお運びください、という意であるとされている。これらの二首が歌い交わされた歌、「古體」として「和」した歌なのだというのである。雲をつかむような話で納得には至らない。
 理解の鍵はすぐそこに潜んでいる。
 二首目の「ををりにををり」は枝が撓みに撓むという意味で、そこへ直接、鶯が続いているから、枝の撓みは鶯がたくさん止まっているからとも受け取れる。しかし、一首目からの続きとして、梅の花が枝にたくさん咲いているので撓んでいるようだという表現である。その梅の花に誘われて鶯が来て鳴いていると歌っている。鶯の合唱を詠んだ歌ではない。
 すなわち、この二首は呼応の歌として密接に絡み合っている。それぞれに明示こそされないものの、いわゆる梅に鶯の取り合わせの歌が続いている(注3)
 一首目に尋ねれば、「と言ふに似たり」は、主人が友を招くこと、参集した歌儛所の諸王・臣子等に向けて梅の便りを葛井広成が知らせているように擬しているばかりではない。二首目に登場している「鶯」が「と言ふに似たり」の鳴き声を上げている。
 今日、ホーホケキョと聞きなしている鶯の鳴き声は、中古にはヒトクヒトク、すなわち、「ひとひと」と鳴いていると思われていた。

 梅の花 見にこそつれ 鶯の ひとくひとくと いとひしもをる(古今1011)
 すだれ巻き上げてなどあるに、この時過ぎたる鶯の、鳴き鳴きて、木の立ちれに、「ひとくひとく」とのみ、いちはやく言ふにぞ、簾おろしつべくおぼゆる。(蜻蛉日記・中)

 この聞きなしが万葉時代に遡ることは万1890番歌からも知れる。

 春日かすがの ともうぐひすの 鳴き別れ 帰りますも 思ほせわれを〔春日野友鴬鳴別眷益間思御吾〕(万1890)

 春日野というだけあって、濁っている酒を絞ってかすと清酒とに別けたことを題材としている。澄んだ酒ができたからというので鶯は「ひとひと」と鳴いて呼んでいる(注4)。そのとおり人が来て宴となり、終わってから帰る時、せめて帰路の間だけでも私のことを思ってくださいね、と歌っている。御酒が目当てでやって来た友は、飲んでいい気持ちになったら最後、私のことなど忘れて帰途につくが、帰り道だけでも思っていてほしいものだと興じて歌っている。
 同様に、当該二首でも鶯の鳴き声が歌の興趣となっている。

 わが屋戸やどの 梅咲きたりと 告げらば と言ふに似たり 散りぬともよし(万1011)
 我が家の庭の梅が咲いたと告げ知らせたら、ウメはウメでもすでに膿んでしまったことをいう已然形のウメに誘われて、同じく膿んで腫れることをいうウグヒと同音から成る名の鳥、ウグイスがやって来て「ひとひと」と言っているのは、まさに招待しようとして告知しているのとよく似ています。そういうことかと謎が解けた今となっては、もはや散ってしまってもかまいません。
 春されば ををりにををり うぐひすの 鳴くわが山斎しまそ まずかよはせ(万1012)
 春が来れば、枝が曲がるほどまで梅の花がたわわに咲き、そこへ鶯がやって来て鳴くのが山斎を設えた私の庭です。山斎は膨らんでいてまわりが水で囲まれ、まるで膿んだところを表しているようだからウグイスは寄って来たのでしょう。皆さんも怪我をして治りが悪くなること請け合いです。

 梅に鶯の取り合わせは、音を等しくする語である腫れ物の譬えから生まれたものであった。ウメ(メは乙類)は梅、むの已然形、ウグヒはウグフ(墳)やウグヒス(鶯)というように、語呂合わせの音つながりから歌語として興じられている。そして、膿んで水膨れして盛り上がっている様子を水が周りをめぐる築山の様子に見立て、両者よく似ているとの妙を言いたいがためにわざわざ「山斎しま」を詠み込んでいる(注5)。誘い文句というよりも悪い冗談を言っている。

山斎(平城宮東院庭園、奈良時代後期)
 このようなとち狂った歌い交わしの例としては「嬥歌かがひ」(歌垣)がよく知られている。春や秋に野辺に集まり、未婚既婚を問わずにお見合いパーティを開き、歌い掛けに対して即興で機知に富んだ歌い返しをすることで場を盛り上げて享楽していた(注6)
 前文に「理宜共尽古情、同唱古歌。」とあるのは、歌儛所の舞が古儛で今年も暮れて古歳に成りなんとしているのだから、作るべき歌も古い形式の歌、つまりは嬥歌風のものであれと言っている。その際、古情であること、つまり、古くからそう思われていたに違いないと思われていることを内容とする歌が求められている。言葉が新しく造語されたものではなく、昔からあってみればそのように仕組まれ作られていているのであって、古いこころを伝えていると思って正しかろうとされたのであった。
 前文に「争発念、」とあるのは、互いに歌を競い合って、と同時に嬥歌風に作ればその二首は互いに競い合うような作になるからそのように作れという二重の意味を重ね合わせている。また、「心々和古体。」とあるのは、古い形式の嬥歌風の体裁をとって、歌のこころにも言葉の謂れが古に遡ることになるようにと、二重の意味を重ね合わせている。その一例としてあげているのが万1011・1012番歌で、「古曲二節」と呼んでいる。
 歌の大意を振り返ってみれば、古くからの習いとして鶯は「ひとひと」と鳴いている。鶯は、この世にあるようになったときからそのように鳴いていた。誰かがその鳥にウグヒスと名づけ、ヒトクヒトクと聞きなすようにし始めたのかもしれないが、その端緒のことなど誰も知らない。だから「古」がテーマとなっている。
 十二月十二日、おそらくはその年の最後の歌儛所の練習が開けた後、葛井広成の家に集まり打ち上げの宴会をしている。やっていることは忘年会である。今年という「歳」を忘れるために、時計の針を早巻きに巻いて、まだ十二日なのに年が明けたかのようにしてしまおうという企てであった。十二月十二日までをもって今年は終わり、振り返ってみたときにすでに「古歳」となるとしている。十三日以降仕事はしないのか。とち狂った宴の席での戯れであった。

(注)
(注1)中西1968.、近藤2017.など見られるが、何を言おうとしているのか不明である。
(注2)阿蘇2007.は、「歌儛所」を、「宮廷の歌舞を管理する役所。雅楽寮と……別とすれば、……日本古来の歌舞を伝え演じるために、楽器を管理し、楽人、歌人、舞人をおいて教習や演奏を行ったものと考えられる。天平六年(七三四)の二月に朱雀門前で行われた歌垣で歌われた[の]……も、歌舞所で伝習された歌舞であった。」(411頁)と説明している。「二月癸巳朔、天皇御朱雀門、覧歌垣。男女二百三十余人、五品已上有風流者、皆交-雑其中。正四位下長田王、従四位下栗栖王・門部王、従五位下野中王等為頭。以本末唱和、為難波曲・倭部曲・浅茅原曲・広瀬曲・八裳刺曲之音。令都中士女縦観。極歓而罷。賜歌垣男女等禄差。」(続紀・天平六年(734)二月)記事に当たる。
(注3)梅に鶯の取り合わせがなぜ起こったかについては、拙稿「「春日野の 友鶯の 鳴き別れ」(万1890)歌」参照。
(注4)鶯の鳴き声の聞きなしについても、拙稿「「春日野の 友鶯の 鳴き別れ」(万1890)歌」参照。
(注5)懐風藻には「山斎」詩がいくつか採られている。
(注6)嬥歌(歌垣)の歌も恋の歌ではあるが、相聞の歌とは違い、嬥歌という場の設定に多く負うものであった。切なる心情を明かすような歌ではなく、狂宴的、反秩序的、挑発的、反発的な性格を有していて、どんちゃん騒ぎのお祭り気分にかなうものとなっていた。「辛卯、葛井・船・津・文・武生・蔵六氏男女二百卅人供-奉歌垣。其服並著-青摺細布衣、垂紅長紐。男女相並、分行徐進。歌曰、乎止売良尓 乎止古多智蘇比 布美奈良須 尓詩乃美夜古波 与呂豆与乃美夜。其歌垣歌曰、布知毛世毛 伎与久佐夜気志 波可多我波 知止世乎万知天 須売流可波可母。毎哥曲折、挙袂為節。其餘四首並是古詩。不復煩載。時詔五位已上、内舎人及女孺、亦列其歌垣中。歌数闋訖、河内大夫従四位上藤原朝臣雄田麻呂已下奏和儛。賜六氏哥垣人商布二千段、綿五百屯。」(続紀・宝亀元年(770)三月)と見え、歌垣の歌が「古詩」であるとしている。

(引用・参考文献)
阿蘇2007. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第3巻』笠間書院、2007年。
伊藤1990. 伊藤博『萬葉集釈注 三』集英社、1996年。
近藤2017. 近藤健史『万葉歌の環境と発想』翰林書房、2017年。
中西1968. 中西進『万葉史の研究』桜楓社、昭和43年。(『中西進 万葉論集 第五巻 万葉史の研究(下)』講談社、1996年。)
                                 (加藤良平)
女鳥王説話

 仁徳天皇時代の話として、女鳥王(雌鳥皇女)と速総別王(隼別皇子)が天皇との確執の末に敗れる話が記紀に残されている。両者で少し言い回しが異なるが大筋に変わりはない(注1)

 亦、天皇すめらみこと、其のおと速総はやぶさ別王わけのおほきみを以てなかたちて、庶妹ままいも女鳥めどりのおほきみを乞ひたまふ。しかくして、女鳥王、速総別王に語りて曰はく、「大后おほきさきおずきに因りて、田若郎女たのわかいらつめを治め賜はず。かれ、仕へ奉らじと思ふ。吾はみことらむ」といひて、即ち相婚ふ。是を以て、速総別王、復奏かへりことまをさず。爾くして、天皇、ただに女鳥王のいます所にいでまして、其の殿とのしきみの上にいまします。是に、女鳥王、はたに坐してはた織る。爾くして、天皇、歌ひて曰はく、
 女鳥の 我がおほきみの 織ろすはた たねろかも(記66)
女鳥王、答へて歌ひて曰はく、
 たかくや 速総別の 襲衣おすひがね(記67)
故、天皇、其のこころを知りて、宮に還り入ります。此の時に、其の速総別王の到来きたれる時に、其の妻、女鳥王歌ひて曰はく、
 雲雀ひばりは あめかける たかくや 速総別 さざき取らさね(記68)
天皇、此の歌を聞しめして、即ちいくさを興して殺さむとおもほす。爾くして、速総別王・女鳥王、共に逃げ退きて、倉椅山くらはしやまのぼる。是に、速総別王、歌ひて曰はく、
 はしたての 倉椅山を さがしみと いはきかねて 我が手取らすも(記69)
又、歌ひて曰はく、
 はしたての 倉椅山は 嶮しけど いもと登れば 嶮しくもあらず(記70)
故、其地そこより逃げせて、宇陀うだ蘇邇そにに到る時に、御軍みいくさ、追ひ到りて殺す。(仁徳記)
 四十年の春二月に、雌鳥皇女めとりのひめみこれてみめむとおもほして、隼別皇子はやぶさわけのみこを以てなかだちとしたまふ。時に隼別皇子、ひそかみづかめとりて、ひさ復命かへりごとまをさず。是に、天皇、をうと有ることを知りたまはずして、親ら雌鳥皇女の殿よどのいでます。時に皇女の為に織縑はたお女人をみなどもうたよみして曰はく、
 ひさかたの 天金機あめかなばた 雌鳥が 織る金機かなばた 隼別の 襲衣おすひがね(紀59)
ここに天皇、隼別皇子の密にたはけたることを知りたまひて、恨みたまふ。然るに皇后きさきことはばかり、亦、干支このかみおととことわりあつくまして、忍びて罪せず。しばらくありて隼別皇子、皇女の膝に枕して臥せり。乃ち語りて曰はく、「鷦鷯さざきと隼といづれき」といふ。曰はく、「隼は捷し」といふ。乃ち皇子の曰はく、「是、我がさきだてる所なり」といふ。天皇、是の言を聞しめして、更に亦、うらみを起したまふ。時に隼別皇子の舎人等、歌して曰はく、
 隼は あめのぼり 飛びかけり いつきが上の 鷦鷯取らさね(紀60)
天皇、是の歌を聞しめして、勃然はなはだ大きにいかりてのたまはく、「われわたくしの恨を以て、はらからうしなはまほしみせず、忍びてなり。何ぞきずますとして私の事をもて社稷くにおよぼさむ」とのたまひて、則ち隼別皇子を殺さむと欲す。時に皇子、雌鳥皇女をて、勢神宮せのかむみやまゐらむと欲ひてす。是に、天皇、隼別皇子、逃走げたりときこしめして、即ちびのほむべのふな播磨はりまの佐伯さへきのあたひ阿俄能胡あがのこつかはして曰はく、「追ひてかむ所に即ち殺せ」とのたまふ。爰に皇后、奏言まをしたまはく、「雌鳥皇女、まことに重き罪に当れり。然れども其の殺さむ日に、皇女の身をあらはにせまほしみせず」とまをしたまふ。乃ち因りて雄鯽等にみことのりしたまはく、「皇女のたる足玉あしだまだまをな取りそ」とのたまふ。雄鯽等、追ひて菟田うだに至りて、珥山にのやまむ。時に草の中に隠れて、わづかまぬかるること得。すみやかげて山を越ゆ。是に、皇子、うたよみして曰はく、
 はしたての さがしき山も 我妹子わぎもこと 二人越ゆれば 安蓆やすむしろかも(紀61)
爰に雄鯽等、兔れぬることを知りて、急に伊勢の蔣代野こもしろののに追ひきて殺しつ。(仁徳紀四十年二月)

 本稿では、古事記の話を中心に考える。女鳥王は天皇ではなく速総別王と結婚して歌を歌った。すると天皇は軍隊を動員して殺害しようとしてきた。ともに逃げたが、追いつかれてあえなく殺された。その一連の出来事が語られており、実際、それしか書かれていない。今日の人の先入観を排し、言い伝えられたお話を、文字がわからないから聞くしかなかった当時の人々にどう映っていたか明らかにする(注2)

頓智話(咄・噺・譚)としてのアプローチ

 多妻制が当たり前の時代であったが、女鳥王は天皇の妻になることを拒んだ。前妻の皇后が嫉妬深いから嫌だと言い、仲人として来ていた隼別王と結婚した。女好きの大雀王(仁徳天皇)が嫌なのか、皇后の石之日売命いはのひめのみことが嫌なのかといった痴話話ではない。頓智話(咄・噺・譚)が書いてある。
 言い伝えの話 story は歴史 history そのものではない。おもしろい話が創られている。そうしないと覚えられず、伝えられず、世の中に広まることはないからである。稗田阿礼はよく覚えていたとされるが、勉強が得意で科挙に合格したというような人物ではない。天武天皇が話して聞かせた言い伝えをよく諳んじただけで、おそらく字の読み書きはできなかっただろう。未だヤマトコトバを漢字で書く方法が定まっていなかったから、太安万侶は苦労しながら工夫して書いている。記録する術を持たなかったから、言語空間はすべて記憶により再構成される代物であった。言い伝えは広く知られていて、ヤマト朝廷に関係のあるほとんどすべての人々の共通認識となっていた。人々が話を共有してはじめて無文字社会は成り立つ。皆が知っている言い伝えが底流にあるから社会は意味を成し、存立し続けられる。その関係が形成されている空間がヤマトコトバの語圏、すなわちヤマト朝廷の版図、勢力圏ということになる。記紀に残されている説話群は、非識字率がほぼ100%の当時の様相を伝えている。
 記紀に、女鳥王の、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」(記68)、隼別王の舎人の、「隼は 天に上り 飛び翔り 斎が上の 鷦鷯取らさね」(紀60)という「歌」を天皇が聞いて、二人を殺そうとしている。記では軍隊を興し、紀では刺客を送っている。女鳥王(雌鳥皇女)、速総別王(隼別皇子)側に謀反の動きは記されていない。女鳥王(雌鳥皇女)は機織り、速総別王(隼別皇子)は天皇の媒酌人の使いの立場で描かれている。二人とも、皇族といえどもいわば部屋住みの身分である。天皇がひとり怒って殺しにかかっている。そう記されているのだからそう捉えなくてはならない(注3)
 話の主役たち三人の名は鳥に関係している。
 仁徳天皇の名、大雀命おほさざきのみこと(大鷦鷯天皇)のサザキについては、新撰字鏡に「鷯 聊音、鷦、加也久支かやくき、又佐々岐さざき」、和名抄に「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼の二音、佐々岐さざき〉は小鳥なり、蒿莱の間に生じ、藩籬の下に長ずといふ。」とある。現在いうミソサザイのこととされる。他方、速総別王はやぶさわけのみこ(隼別皇子)のハヤブサは、現在いうハヤブサである。和名抄に、「鶻 斐務斉切韻に云はく、鶻〈音は骨、波夜布佐はやぶさ〉は鷹の属なり、隼〈音は笋、和名は上に同じ〉は鷙鳥なり、大は祝鳩と名くといふ。」とある。では、女鳥王という女鳥の種類は何か。話は、どちらの妻になるかということである。当たり前のことだが、サザキの♂、ハヤブサの♂と番いになれるのは、それぞれサザキの♀、ハヤブサの♀である。すなわち、何の種類かわからないが鳥の♀であることを示すから「女鳥王」となっている。女鳥王はサザキの♀にはならずに、ハヤブサの♀になることを選んだ、というお話である(注4)
 女鳥(王)については、メドリ、メトリと清濁通用していたのだろう。女鳥(王)の訓みがメトリと清音で訓まれれば、なるほど「めとり」の話であると納得される。「娶り」は取りの意であるとされ、名義抄に「娶 メトル」とある。トリ(取)のトは甲乙両方あり、トリ(鳥)のトは乙類である。り、と言っても通じる。記66番歌の「売杼理」の「杼」の字は通常ド(乙類)と濁音であるが、「明かしてとほれ(阿加斯弖杼富礼)」(記86)、「言挙げせずとも(許登安氣世受杼母)」(万4124)といった用例もある。乙類のト・ドの両方に当てられている(注5)。紀59番歌の「謎廼利」はメドリ(ドは乙類)と濁音で訓まれている。いずれにせよ娶りの話だから、メトリ、ないし、メドリという名前に仕立ててあると考えられる。笑い話としてうまくできている。

のろまな天皇

 最初、天皇は、自分の奥さんになってくれないかと女鳥王に打診するに当たり、異母弟の速総別王をなかたち(注6)として使いに寄こしている。異母妹に対して自分で求婚に行かず、弟を媒酌人として立てている。叔父ぐらいの立場の人を寄こすならともかく、年下の弟を寄こして恥ずかしくないのか。女鳥王は、「大后のおずきに因りて、八田若郎女を治め賜はず。」などと理由をつけて断っている。古訓のオズキは「おずし」という形容詞で、殺伐なほど気の強い様を表す(注7)。天皇の夫婦関係だから、大后の気が絶対的に強いということではなく、相対的に天皇の気が弱いということを物語っている。継妹の女鳥王にしてみれば、直接、告白できない気弱な男などこちらから願い下げということになる。古語拾遺に、「天鈿女命あめのうずめのみこと〔古語に、あめ乃於須女のおずめといふ。其の神、おずあらたけく固し。かれ、以て名と。今のに、強き女を於須志おずしと謂ふは、此のことのもとなり。〕」とある。オズシはまた、オゾシともいい、オゾマシイという形にも展開している。そのオゾシは、人に対して畏怖と嫌悪の思いを持たせるような性格をいう。とともに、オソシ(遅・鈍、ソは乙類)という形容詞の、頭の働きが鈍いこと、気づくのが遅いこと、愚かなことを表す用法にも通用した。オゾシに上代の文献的用例は見られず、ゾの甲乙を決め難いが、音転から考えて乙類であろう。つまり、女鳥王は、そもそもからして天皇が、自分の腹違いとはいえ妹に対しておっかなびっくり弟を介してしか話ができない気弱さが嫌になっているのである(注8)。だから、後で何を言って来たってそれはもうオソシ(遅)であり、言ってくるような間抜けはオソシ(鈍)なのである。その状況を一気呵成に進めて固定化する働きとして、速総別王と一緒になることとなっている。だから、総別王と書いてある。わかりやすいように太安万侶は工夫している。
 時間の進むのが、天皇は遅く、女鳥王は速い。まどろっこしいことしないで頂戴と思って速総別王と結婚している。周回遅れで天皇は女鳥王のもとへやって来る。「爾、天皇、直幸女鳥王之所__坐而、坐其殿戸之閾上。於是、女鳥王、坐機而織服。」という状況である。男として、本当にアンポンタンなのだろう。タダニ(直)というのは直接来たということである。最初からそうすればいいことである。このタダニは、何の思案もせずに、阿呆面さげて、という意味にとれる。呆れてものも言えない相手だと思われている。天皇は歌いかけてくる。「女鳥の 我が大君の 織ろす服 誰がたねろかも」(記66)。この歌については、これまで、天皇を称賛しないはずはないとの思い込みから疑念が抱かれていた(注9)。しかし、事は男女の仲のことである。身分は必ずしも影響しない。いわゆる殿のお手がついた場合でも、逃げられたり、逆に刺し殺されたりすることもある。男女の関係が地位や名誉や金で何とかなるとは限らないには、古今東西を問わない。
 記では、はじめから、のろまな男を語るためにそういう歌い方に仕立てられている。見事な台詞づけである。あなた様が織っていらっしゃるハタ(服)は、どなたのためのものですかだって。呆れるではないか、うすのろ間抜け。「高行くや 速総別の 御襲衣がね」。新編全集本古事記は、「速総別王の襲衣を織っているのだと答えるのは結婚したことを明らかにするもの。そこには天皇への反発と、挑発的な語気がある。」(300頁)と解している。ただし、この挑発的な語気は、あんたはずいぶん鈍感ね、と馬鹿にしているのである。天皇の問い掛けの言葉に、機織りで織られた布帛を指すハタという言葉が使われている(注10)。天皇の、「誰がたねろかも」に対して、女鳥王は、「速総別の 御襲衣がね」と畳みかけ返している(注11)。「速総別のたね」という答えではない。タネ(料)はもと「種」と同じ語、ガネ(料)は、もと「兼」に由来する語である。「種」はまだ芽が出ていないが、「兼」はすでに予定されたことを示す語である。白川1995.は、「国語の「かぬ」には合せる意と予測の意とがある。〔万葉〕「豫〓(兼の旧字体)而知者」〔九四八〕は「あらかじねて知りせば」とよみ、ことを予知する意である。」(239頁)と的を射た用例をあげている。もう行き先は決まっているの、あなたのではないの、ほとんど終わりにさしかかっているでしょ、見ればわかるじゃない、ふつうとは少し違う織り上がりでしょ、スケベ根性丸出しの人の肌着じゃないのよ、ということである。本当にオソシと思うから、仕上げる衣服の名も襲衣おそひ(ソは乙類)なのである。襲衣は、旅や神事に使う、衣服の上から被り着るマントのような上着である。
 延喜式・神宮太神宮式の太神宮装束に、「帛意須比おすひ八條〈長さ二丈五尺、広さ二幅〉」とある。広さが「二幅」とあるのは、織物として機織り機で織り上げた布を二つ、倍の幅につなげていることを表すのだろう。長さが二丈五尺とあるから、その分縫いあわせたということらしい。上着だから厚地の生地で、幅も広く、機織りに相当な時間がかかった。機織りしていた数か月間、もうとっくに速総別王とラブラブな関係なのに、今頃になって天皇は現れて、誰のために機織りをしているのかと宣った。ばかばかしくなる。オソシ(遅・鈍)→襲衣である。道具仕立てとして骨の折れる機織り仕事が設定されている(注12)。紀では、この襲衣に焦点を当て、用途が旅と神事にあることから伊勢神宮へ逃げる話にしている。小道具から筋立てを決めている。
 それに対して天皇は還っていく。「故、天皇、知其情、還-入宮。」ちょうどそのとき、速総別王が来たので、「其妻」と既成事実化している女鳥王は、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」と歌っている。天皇はこの歌を聞いて、すぐに軍隊を興して殺そうと思ったとある。どうして「還-入宮」と書いてあるのに「聞此歌」できるのか。それは、天皇が、すべてにおいてオソシ(遅)だからである。お還りになって宮に入られていたと思ったら、まだ、そこら辺をうろうろしていて聞かれてしまった。
 天皇がぐずぐずしているとも知らずに女鳥王のところへ速総別王が「到来」した。原文に、「此時、其夫速総別王到来之時、其妻女鳥王歌曰、」とある。新編全集本古事記に、「「時に」が重なるのは異例の構文となる。「到来之」の「之」は文末助辞とみ」(301頁)る解釈をするが、そうではない。「時」という言葉を俎上に上げている。時計の針は人によって進み方が違うことを表す言葉としてオソシ(遅)と言っている。二つのものを比較する際には、前を基準にして後のものをいうのがオソシ(遅)であり、反対に前のものはハヤシ(速)やトシ(疾・捷)である。つまり、ふつうの時間の進み方である女鳥王や速総別王タイムでなら天皇はもう宮入りしているはずなのにまだ残っていた。だから「時」がダブって書かれており、歌を天皇に聞かれてしまったと教えている。太安万侶の書きぶりは冴えている。
 紀のほうでは、「乃語之曰、孰捷鷦鷯与__隼焉。曰、隼捷也。乃皇子曰、是我所先也。」と説明されている。最後の部分は、「是、我がさきだてる所なり。」と訓まれてきた。「隼は捷し」だから自分のほうが先に行くのだと言っていると解されている。そのような当たり前のことを念を押すためにわざわざ述べるだろうか。この部分は、「是、我がさきだたるるなり。」と訓み、ハヤブサの口の先が嘴縁突起と呼ばれる形をしていて、口の先で獲物を捕らえ肉を断つのに適しているという特長を有しているからサキダツのだと論証しているものと考えられる。

立ち聞きされる建物

 「時」がダブり、天皇が還った「時」と速総別王が到来した「時」とが同じとはどのような状況か。人々が容易に想像がつかないようでは伝達されないから、具体的に起こりえない設定は行われていないはずである。すると、出入口で鉢合わせにならない造りの建物を想定していることになる。女鳥王が機織りをしている機殿(機屋)の出入口が一つの場合、「時」は重なることはないが、二つあるのなら、天皇の出て行った口と速総別王が入って来た口とが異なり、出くわすことはない。そのような建物は考古学で検証されている。
 浅川2013.に、「戸口の復元は、これまで高床倉庫で試みられてきたが、平地土間式の大型建物では高床倉庫の戸口を採用するのが難しく、一般的には突き上げ戸や外し戸などを用いた復元が少なくない。しかし、今回[青谷上寺地遺跡]は幸運にも角柱と戸口の材に恵まれ、本格的な片開戸を復元することができた。」、「青谷上寺地遺跡の蹴放(もしくは楣)は、必ずしも完全な姿をとどめているわけではない。しかし、両端の角柱にはめ込む仕口を備え、扉板両脇の方立を納めるしゃくり溝や扉の軸受穴も確認できる。この蹴放(もしくは楣)が角柱と複合しているのはあきらかであり、……蹴放(もしくは楣)の正面側には、同心円状の模様が刻みこまれている。」(70頁)とある。
青谷上寺地遺跡建物復原イメージ(Lablog 2G様「アイアンロード」http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2166.html、2026年3月31日閲覧)
 建物の妻側に二つの片開きドアがついている。内部はワンルームである。復元モデルでは、3.84m×8.12mと広いから、今考えている機殿(機屋)そのものと俄かには定められないものの、機の道具や製糸にまつわる道具(紡錘車や桛)、材料(麻、苧麻、巻子)が保管されていたとも考えられる。建物の妻側に開き戸となる扉が二つついている。どちらの妻になるかという意を暗示する設定である。開き戸はパタパタと開け閉めする。機はパタパタ織っているからハタである。古代音では、ハタは pata に近いものがあるとされている。高機は中国を起源として伝わった。中国でと呼ばれていたものが、ヤマトコトバにハタと言っている。文字がないのだから、これは何ですかと隣村の人に聞かれた時、キですと答えても相手に意味は伝わらない。パタパタして織るものだからハタというのだよ、と新語を造って答えたのだろう。むろん、言葉の語源はわかるものではなく、他の説もある。筆者は、語源説ではなく、この女鳥王の話において、ハタという言葉をそのように捉えて創作していると考えている。
 ハタという語には、「はた~、はた~」という言い方で使う副詞がある。あるいはまた、それともまた、と仮設しておいて、一方を選択するために使う言葉である。AかそれともBかという選択の意味に発し、もし、あるいは、おそらく、などの意へ展開する。漢語の用例では中国六朝時代の俗語として見られる。ヤマトコトバのこのハタについては、時代別国語大辞典に、「語源的にハタホトリなどに関係のある語であろう。」(580頁)とある。筆者は、語源という立場に立たないものの、上代の語感として「はた」や「はた」との洒落も見て取れる。左右のどちら側にもあって二つあるのが魚の鰭である。機は、左右のどちらからもを入れて反対側の端を通り抜けさせ織り進める。足を踏みかえて経糸を上下させて緯糸をくぐらせるのである。その動きのなかでパタパタと音がする。擬音語、擬態語から、ハタという語が生まれているように感じられる。機の場合、梭を追いかけて頭を左右に振り見ながら織っている。

 いましはた我に先だちてかむ。はた我や汝に先だちて行かむ。(神代紀第九段一書第一)
 為当はた此間ここに留らむと欲ふや。為当本郷もとのくになむと欲ふや。(欽明紀十六年二月)
 かむさぶと いなとにはあらね はたやはた かくしてのちに さぶしけむかも(万762)
 す痩すも けらばあらむを はたやはた むなぎを捕ると 川に流るな(万3854)

 二つドアの建物は「はた~、はた~」という言い方にふさわしい。建物の一面に二つ扉のある建物は、ハタ(服)を織るハタ(機)を置く機殿(機屋)と言葉の上で通じている。つまり、天皇が還ったというのは右側の扉を出て行ったということ、速総別王が来たというのは左側の扉から入ってきたということである。扉をパタパタと開け閉てしている。その際、絵巻物に知られる異時同図法で見ると、出て行った図を描いた右側の扉部分を見てから巻き直して左側の扉部分を見ると入って来たところとなっている。だから「時」という語がダブっている。両方を見渡せるように俯瞰してみると、天皇はまだ還り切っておらず、速総別王はすでに入って来てしまっている。そこで歌を歌ってしまったから、天皇は還る間際に聞いてしまい、怒って軍勢をたてて攻めようという気を起こしている。
 古事記は冗談話をくり広げている。機織りをして左右に送っているものは、緯糸を入れてあるシャトル、(杼)(ヒは甲類)である。同音の(ヒは甲類)は毎日、東から昇って西に沈んでいく。機殿(機屋)での機織りは室内作業で、部屋のなかは明るくなり暗くなるの繰り返しである。南を向いて機織り機に座っていると、織り手から見て日は、朝は左の戸、夕は右の戸を行き来している(注13)。日がな一日織り続け、日はどんどん経過し、がんばって左、右、左、右へと梭を送ってもなかなか織り上がらない。ヒ(日、梭)は飛ぶように進んでしまう。つまり、将~将~などという言い方は、パタパタと、どちらかどちらかとばかり言っているだけで、なかなか決められない優柔不断なところを表しており、それが機織り作業とよく対応しているからおもしろがられている。ハタというヤマトコトバは、この説話のなかで自己言及的に概念構築されている。
 機屋に扉は二つある。どちらも片扉で、パタパタ言っているばかりの扉である。引戸ではなく開き戸である(注14)。つまり、記に「しきみ」とあるのは、建築用語の蹴放ちのこと、戸が当たって戸締りになるための下部の押さえである。横は方立、上は楣で囲まれ、そこに扉があって戸が構成され、枢構造で支えられている。「坐其殿戸之閾上」という状態は、蹴放ちの上に腰を下ろしているということで、外開き扉であれば開いていなければ座ることができない。信貴山縁起の尼公は、糸作り作業中の土間の入口の敷居に座っている。戸が開いているから「坐」すことができている。室内で機織りをしているなら明るくないと仕事にならないから開けていたのだろう。見物のために機屋に踏み入ったとしても、相手の女性は機織りに熱中していてかまってはくれない。作業状況を具に見ても、素人にはどういう機構で織り上がっていくのか理解できず、近くにいても手持無沙汰である。
左:「閾(?)(土台)に坐す」(信貴山縁起模本、覚猷他写、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2574278/1/15をトリミング)、右:越後織布(木村孔恭著、法橋関月画、日本山海名産図会、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018806/158?ln=jaをトリミング合成)
 機屋に片扉が二つ離れてあることは、ハタヤという言葉をものの見事に語り尽くしている。神社の本殿などでは観音扉が採用され、扉を合わせ閉めて海老錠をもって戸締りとした。対して、機殿(機屋)では二つ離れて片扉を設け、開けることで採光の便にかなっている(注15)。建物の妻側を南に向けてその左右に板戸を分けることで、午前、午後それぞれに明かりが取れることになる(注16)。棟持柱のある建物で妻側に戸を作ると左右に二つとなるのは自然の流れである。「はた戸が有るや、将戸が有るや」構造の建物、機殿(機屋)が造られていることとなる(注17)。機は部材を持ちこんで機屋のなかで組み立てられ、形を保ったままでは戸口から出せない大きさだったのかもしれない(注18)
 歌に、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」とある。和名抄に、「雲雀 崔禹食経に云はく、雲雀は雀に似て大といふ〈比波利ひばり〉。楊氏漢語抄に云ふ鶬鶊〈倉庚の二音、訓は上に同じ〉。」とある。登場人物たちは皆鳥の名を負っていた。それに合わせる形でヒバリが出てきている(注19)わけだが、機屋のなかでは幅広い織物、襲衣に仕立てるべく機織りをしている。手先で操るのはヒ(梭、杼)(ヒは甲類)である。特に幅広の厚手の生地を織っていたから、横幅が狭くならないように安定させる伸子を使っていたと推定される。伸子は両端を張って広げる道具で伸子針とも呼ばれる。だから、ヒバリ(雲雀)となる。人物名の鳥に関わる洒落に仕立て、話をおもしろく、印象づけて覚えやすくしている。「雲雀は 天に翔る」は「高」、ないし、「高行くや」へと掛かっていく序詞とされている。ヒバリボネ(雲雀骨)という言い方も生まれており、雲雀の脚のように細々した骨格を表した。幅が狭くならないように骨を張っていると見立てている。
「簇削」(源三郎絵・人倫訓蒙図彙、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/945297/1/106をトリミング)
 伸子(箴)は、洗い張りの作業によく用いられる。和名抄に、「叉 六韜に云はく、叉〈初牙反、文選に叉簇を比之ひしと読む。今案ふるに簇は即ち鏃の字なり〉は、両岐の鉄柄、長さ六尺といふ。」とある。ヒシという訓みがあるのは、字鏡集に「簇、シヒシ」とある伸子と関連する。竹製の伸子の両先端は二股に分かれている。雲雀の脚の骨張りを連想させる。ヒバリによって織り上げているところだから、ハヤブサには仕事の邪魔をするサザキを排除して欲しいと言っていることになっている(注20)

倉椅山くらはしやまのクラのこと

 速総別王は、記69・70番歌とつづけて三句目途中まで同一の歌を歌っている。倉椅山は現在の桜井市倉橋の地にある山のこととされているが、独特の枕詞「はしたての」が被さっている。高床式倉庫に梯子を掛けて登るから「はしたての」はクラの枕詞と考えられているが、その語は「はしたて○○の」であり、「はしかけ○○の」ではない。梯子はどこかへ掛けているのではなく自立していることを指す言葉としてある。つまり、脚立の様相を示している。そのような形をしていてクラと関係するものとしては、駄馬の背に置かれる荷鞍のことが思い浮かぶ。荷鞍は乗馬用の鞍とは異なり、中央が高く横から見ると三角形に突起しているから、馬は脚立を背に載せているように見える。女鳥王と速総別王とは山越えをして逃げ延びようとしている。天皇に対して反乱を起こそうとしたのではないから乗馬用の軍馬を準備していない。目には目を、歯には歯をという発想に基づき、聳え立つ荷鞍に掛け渡した籠に乗って身を任せるから急峻な山も越えられると言っている。片側に一人だけ乗るとバランスは取れないが、両側に乗れば荷鞍でも人は運ぶことができる。女鳥王と速総別王は荷となって運ばれようとしたのである。馬の高さのところへ登れば天皇は手が届かないと軽侮しているのである(注21)
左から、荷鞍(高岡市立博物館蔵、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282520)、米俵を運ぶ(石山寺縁起絵巻模本、狩野晏川・山名義海模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)、荷鞍につけた木製籠で人を運ぶ(二宝荒神、葛飾北斎(1760~1849)「四日市」『東海道五十三次』、江戸時代(1804年頃)、小判横絵(11.6×16.7㎝)、フィラデルフィア美術館蔵、アン・アーチボールド氏寄贈、受入番号1946-66-81o、https://philamuseum.org/collection/object/203263)、押機(蔀関月著・法橋関月画図「捕洞中熊」『日本山海名産図会』、江戸時代(1799年)、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2575827/1/40をトリミング)
 天皇が軍隊を興して殺そうと思った相手は、自分のことをオソシ(遅)と軽蔑した女鳥王と、彼女が織っていたオソヒ(襲衣)をプレゼントされた速総別王である。夫婦一体になって荷鞍の上にいる。荷鞍の上にくらを設け、その上に乗っている。オソヒとも言う。「就而熟つらつら視れば、皇后きさき御鞍おそひなり。」(欽明紀二十三年六月)とある。木を格子に組んで屋根板の押さえにするものもオソヒと言っていたから、縄などを使って木組みにして押さえるつけるものをそう呼んだのだろう。紀61歌謡に、「梯立の 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安蓆かも」とある。馬の荷鞍の山型を覆って両サイドに広げた駕をつけ、二人乗ればバランスが取れて良い具合の座席になるということだろう。「安蓆」とは安定して座ることのできる蓆であり、枠取りし、木を格子に組んだ上に敷物を置き、簡易座席としていることを指しているようである。そのような「はしたての」脚立状梯子の様子は、力の強い獣を逃がさない檻、捕まえるための罠である「押機おし」(神武記)と同じような造りである。オソと呼ばれることもあり、天皇は目には目を、歯には歯を、オソにはオソで対抗して捕らえにかかっていることになる。
 紀では、天皇と隼別皇子との間柄を「干支このかみおとど」(「友于」(前田本)(注22))としている。もともと、干は幹、支は枝を示す。天皇と女鳥王と速総別王とは、みな兄弟姉妹の間柄、木で言えば幹と枝、つまり、干支である。そして、干は杆に通じる。爾雅・釈木に、「棧木、干木」とあり、格子状の桟木を表す。屋根に瓦を載せるために縦横に組まれているのは瓦桟木である。「はしたての」という言葉は梯子格子を表していて捕り物にも使われる。「干」字を用いれば、兄弟姉妹の関係の話に重なり合ってわかりやすいと思っての用字なのだろう。
 話の後半では、言葉のなかにソ(乙類)の音がたくさん出てくる。「退く」のソは乙類である。ソ(背)と同根の語とされる。オソシ(遅、鈍)やオソヒ(襲衣)、オソル(恐)のソも乙類である。馬の背のことと山越えする稜線のことをいう馬の背のことを絡めながら創作している。「其地そこより逃げ亡せて、宇陀の蘇邇そにに到りし時に、御軍追ひ到りて殺しき。」と終っている。ソコ(其地)のソ、地名のソニ(蘇邇)のソも乙類である。紀では、菟田の珥山にのやまに追いつき攻めたがまだ逃れ、最終的に伊勢の蔣代野こもしろのので殺している。ソニとは今のカワセミのことで、記の天若あめわか日子ひこもがりの件に御食みけびとの役を演じている。死者に手向ける食べ物を用意した。それがコモシロというところにも関係するというのだから、コモに包まれて馬に載せ運ばれた米のことをイメージしながら創作されていると考えられる。御食人のふりをしてソ(背)+ニ(荷)の山越えには成功したが、馬上の荷であるはずのコモの代わりになっていたことが伊勢に至って露見したという話に構成されている。

まとめに代えて

 以上が女鳥王の話(咄・噺・譚)である。鈍くさいと言ってしまった兄弟喧嘩を鳥の話にし、鈍くさい駄馬を使った脱出劇に仕立てている。記紀の話は継ぎはぎだらけのパッチワークに見える。ただ、その語り口には一貫性が備わっている。おもしろい頓智を繰り出し、機知に富んだ話(咄・噺・譚)に構成している。
 今日の研究では、わずかに320字ほどの本文を後講釈して、古代天皇制の反逆物語であるとか、律令時代の儒教倫理を謳うものであるとか、女性の社会的な発言を物語るものであると唱えられている。荒唐無稽である。いわゆる史実を下敷きにしていると考えることも困難である(注23)。ヘロドトスや司馬遷は歴史 history を記した。文字があってはじめて可能である。無文字時代には口伝えに伝えて記憶にとどめつないでいた。唯一確実な手段は、story、お話(咄・噺・譚)として完成度を高めることである。洒落を数珠つなぎにつなぎあわせて最後にオチを持ってくる。自然と覚えられて伝えられ、聞く人を飽きさせない。語りのなかで当時の状況を表すのにふさわしい新技術を織り交ぜながら、聞く相手にまったくそうであったと悟らせることができる。無文字文化においてすべてを言葉で、言葉のなかに伝えるために、意味を塗り込めたヤマトコトバという代物を使い、巧みに知恵を働かせて伝承していたのであった。



(注)
(注1)藤澤2016.は、記紀両書の差異として、「①反逆の主導者の違い ②討伐後の宴に登場する皇后の違い の二つが大きな違いであろう。」(213頁)として議論を展開している。内藤2003.は、「ウタとその用い方には多くの異同が認められる」(245頁)と見ている。菊川2024.は、速総別王(隼別皇子)の歌を「苦難の中で情愛の喜びをうたっている」(92頁)が、日本書紀では「どこか違う所に関心があるような書きぶり」(93頁)であると取っている。本稿では微視的な差異から記紀の構想の違いを論うことはしない。まず、肝心の話(咄・噺・譚)を理解することに努めるものである。
(注2)今日の研究者たちは、古事記を完成された文学作品であると捉えたり、古代国家による王権制のプロパガンダであると勝手に思い込んでいる。根拠不明の先入観を排して、虚心坦懐に受け取らなければならない。その際には、文字を持たない民族文化を遅れたものとする偏見からも解き放たれなければならない。
(注3)先行研究について検討を加え、立脚しながら、あるいは批判を加えながら、新しい解釈を進めるのが作法であるが、一語一語の言葉を軽視していて女鳥王の話をきちんと読もうとする試みが見られない。いくつか簡単に紹介しておく。荻原1998.は、女性である女鳥王が主導性を担う理由について述べている。寺川1992.は、記紀は律令制社会に入ってから氏族の伝承を公開したものであると考え、反逆氏族の伝承が記されている理由と女鳥とは何を意味するかを検討している。山田2008.は、日本書紀に「鷦鷯」という字で記されている点から出発して、陰陽五行の変化に則っているという議論を展開している。孫1991.は、前田本仁徳紀の頭注に、「養老記云、隼鳥昇天兮 飛翔博衝 鷦鷯所執乎」とあることから、紀60番歌について漢詩の翻案である可能性を考えている。阿部2003.は、女鳥王が王権の論理の世界から離脱しようという主体性を持っているものと捉えている。都倉1975.は、古事記の一篇のお話を文学讃歌へと高めて評価している。猿田1990.は、この説話に歌われる歌謡から、歌謡と説話の結び付き方について分類を試みている。村上2013.は、女鳥王が天皇に仕えないことを、仲介者の速総別王ともども示しているとする。小林2008.は、隼別皇子は雌鳥皇女を妻としようとは思っても、皇位簒奪を狙う意識はなかったと指摘している。
(注4)荻原1998.は、女鳥王は雌の鳥を表示するのみだから何の鳥か同定しようとし、「雌鶏めとりをとりに化れり。」(天武紀五年四月)を引き合いに出し、鷹狩の獲物となる雌雉ではなかったかと考えている。
 けれども、女鳥王がニワトリやキジの♀のはずはない。有性生殖の生物に異種間の交雑は起こりにくく、ラバやレオポンの話を創っても聞き手に理解されない。自然が卑近に存在し、取り囲まれて従いながら生きていた古代の人にとって、ハヤブサの♂とキジの♀が番いになるという発想はむしろ大祓の対象になるだろう。生命、種族の存亡にかかわるから、野生の思考において動物は擬人化されず、人間の擬動物化以上のものではない。この点はトーテミズムの根本問題である。
(注5)トル(取)という語のトの甲乙の混在について、以前から議論されている。筆者は、トリ(鳥、トは乙類)との洒落の関係を探っている。上代語表記の清濁について、犬養1992.は、「文字のsystemは、伝達に支障のない限りにおいて、対応する音声言語の諸要素のうち、どこまでを捨象することが許されるか。……実用を旨とする場では、万葉仮名の濁音専用の字体を用いないこと、すなわち音韻の「清濁」を書きわけないことが経済であり、それが平仮名・片仮名への連続面をなす……。……平仮名・片仮名がなぜ濁音専用の字体をもたないsystemとして成立したかという問題は、音韻と文字の両面から考えなくてはならない。本書の筆者[犬養隆]の認識によれば、古代語の「清濁」についての議論は、一九七〇年代から後、基本線において前進していない。亀井孝……濱田敦……馬淵和夫……小松英雄……木田章義……[らの見解を]本書の筆者の理解によって約言すれば、今までのところ、phonemics の level ではなく、prosody あるいは phonetics の level でとらえる説が有力であるということになる。 本書の筆者は prosody の level と考えている。アクセントが統制的な性格を強めるにつれて「清濁」は prosodeme から phoneme に変わって行ったというのが筆者の考えであるが、……ここでは、古代語の音韻における「清濁」の別が、知的・論理的意味を弁別する phoneme ではなかった可能性が大きいことを確認するにとどめる。」(344~345頁)としている。
(注6)古訓に、「媒」はナカタチ(ナカダチ)のほか、ナカヒト(ナカビト)ともある。現在の記の解説書にナカタチ(ナカダチ)説を採る例は少ないが、紀では前田本傍訓にナカタチとあり従っている。筆者は、古事記でもナカタチ(ナカダチ)と訓むのが正しいと考える。今の仲人なこうどのことである。結婚相談所の人が依頼人の意向を無視して紹介相手を横取りして結婚してしまうということは、いかに相手方から求められたからとて世間の信用を失う。常識を欠いている。そのようなことは、ヒト(人)のすることではない。人のようで人でない。木のようで木でないのは、ウドの大木とも言われる山ウドである。ナコウドという言い方は、それを捩った言葉でおもしろい。拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論」参照。そして、速総別王は、間に入って両者の仲を断つことをしている。したがって、ナカタチ(ナカダチ)と訓むのが意味を伝達するのに必要十分となっている。
(注7)この部分の「因大后之強」に、「大后のコハキに因りて」と、コハシという形容詞による別訓も行われている。「オズキと訓むのが通説だが、『記』の用字法に照らしてコハキと読む。コハキは強くて扱いにくいの意。」(新編全集本古事記299頁)。同じ「強」という字を当てても、コハシというのは高句麗騎馬軍が「こは」いことを言うように、馬冑、馬甲、甲冑といった硬さを伴ったつよさを指す。こはいご飯とは、水が足りないか蒸らす時間が足りないかした硬いご飯のことである。皇后が嫉妬深くて気が強いからといって、高句麗騎馬軍や芯の残ったご飯の硬さを連想することはない。ねたまれて嫌になるのは気分の問題で、もっとおぞましい、ぞっとする、背筋の寒くなるような、感情の発露としての言葉がふさわしい。通説のオズキが正しく、清音でオスキと訓む説もある。オソシへと音が通じる点からも確かである。
(注8)日本書紀では雌鳥皇女の話は仁徳紀四十年にあり、磐之媛皇后はその五年前に亡くなっている。
(注9)山路1994.363頁。また、身崎2007.は卑屈なまでの天皇の求愛の態度とメドリの堂々とした拒否の態度を対照させようとしていると見ている(89~90頁)。
(注10)原文の「服」には、ミソ(御衣の意)という古訓もあるが、直後の記67番歌に、「織ろすハタ」とあり、ハタと訓むべきである。機織り機で織られた布帛をハタといい、機械の方もハタという。思想大系本古事記、古典集成本古事記、西郷2006.、多田2020.などに採用されている。地の文で「女鳥王にハタに坐してハタ織れり」とパタパタ言うことで、この話のテーマがハタの頓智からなっていることを示している。
(注11)荻原2003.に、「問いに対する答えとは、問いに従属するものではない。答えとは、一見、問いを受けた受動的なもののようでありながら、実は問いが掬いとった状況の質を判定し、方向づけるものなのである。だからこそ女鳥王の歌は、状況の現実にすら気付いていない仁徳天皇に、状況を判定し現実を突きつけて、以後の状況の方向を決定づけるはたらきをもつ。そこに女性の歌の一つの本質がある。」(11頁)とある。似て非なることを筆者は考える。問いは状況がわからないときに発し、方向性を示唆してもらうために行われる。馬鹿なふりして聞いてみた、という言い回しがあるように、答えによって導かれる。仁徳天皇は女鳥王に馬鹿にされているわけであるが、特に女性の歌だからというわけではない。
(注12)古代の衣装と一概に比較できないかもしれないが、一般に、着物を一着仕立てるために必要な布は反物一反が基準である。現在の着物の反物は、幅が約37㎝、長さが約12.5mとなっている。丸帯を織る場合には、70cmほどの幅で織って縦方向にふたつに畳み、かがり留めしている。延喜式の「長さ二丈五尺。広さ二幅」は、長さが約7.5m、広さが約1.32mに当たる。延喜式には「広さ二幅」という単位があり、「幅」の古訓にハタバリとある。
 幅広の織物を作るには地機よりも高機が操作しやすい。女鳥王の答え方が強い物言いになっていて、「料ろかも」の答えが「御襲料」となっていた。ふつうの着物じゃないことぐらい見ればわかるでしょ! ということは、見ただけで分かりそうな違いが機にあったということである。
 機の種類については用語に混乱が見られている。地面に尻もちをつけるタイプを地機と呼んでいるのか、身体で経糸を引っぱるのものを呼んでいるのか不明である。植村2014.は、「三種類の基本形について、錘を下げて張る織機を「錘機おもりばた」……、地面を利用して張る織機を「ばた」……、人体の腰で張る織機を「腰機こしばた」と表記する」(48頁)とする定義を試みている。経糸のテンションを何によっているのかの区分である。そこには、その地機の発展型として、インドによく見られる地面に穴を掘って足を入れ、足で綜絖を操作するタイプが現れ、それを木組みにして全体的に地面上へとアップさせたものが高機であろうという。ただし日本では、腰で経糸を引っぱる方式の腰機にも、天秤腰機のように機に一体型の腰掛に座って行うものも多い。インドに見られる掘りごたつタイプは、「穴織あなはとり」(応神紀三十七年二月)のことに当たるのではないかと指摘している。
 ほかに、「漢織あやはとり呉織くれはとり及び衣縫きぬぬひひめ弟媛おとひめ」(雄略紀十四年)という記事も見られ、それまでの「呉織」とは別種の「漢織」が来日しているので、あるいはそれが、機構をすべて機に委ねて体が解放された、いわゆる高機の移入に当たるのではないかと推測される。一方、「倭文しつおり倭文しつり)」という例も見られる。「倭文神、此には斯図梨俄未しとりがみと云ふ。」(神代紀第九段本文)、「倭文しとり」(垂仁紀三十九年十月)、「倭文しつはた〔之都波柂〕」(紀93)、「倭文、此には之頭於利しつおりと云ふ。」(天武紀十三年十二月)、「倭文しつはた」(万431)、「倭文しつ旗帯はたおび」(万2628)などとある。筆者はハタ(機)をパタパタという音と関係すると述べてきた。シツオリのシツは、シヅカ(静)の意と関係があるとされる。梭(杼)をそっとさし入れて静かに織っていく機とは何か。アンギンや、招木を持たない尻もちをついた形の腰機かと思われる。それらもハタと呼び出したのは、パタパタいう機織り機に対して後から名づけたゆえのことではないか。

 天照大御神、忌服いみはたいまして、かむ御衣みそを織らしめし時、其のはたいただき穿うかち、あめ斑馬ふちこまを逆剥ぎに剥ぎて、おとし入れたる時に、天の服織はとり、見驚きて、陰上ほとを衝きて死にき。(記上)

 この例や本稿の仁徳記の例は、「呉織」の類で、高機ではないかと推測されるが未詳である。詳しくは前田1992.、前田1996.などの労作を参照されたい。天照大御神の機織りの作業場は、母屋とは別棟の「忌服屋」、「服屋」である。また、雄略紀の織り手、縫い手が必ずペアで渡来している点も、パタパタ二つ扉のある機殿(機屋)での作業を示唆しているのではないか。
 ここで織られている「襲衣」は上着で生地は分厚く、幅広である。幅の広い織りのためには、狭まっていかないように両端を広げておく工夫が必要とされていた。前田1992.に、「経糸の幅出具[鋸状幅出棒]は日本ではアイヌの織機にしかない」(149頁)、「[天秤腰機では、]現在、緯打ちにも筬が使われているが、本来は幅出用で、長い緯打ち刀か杼を用いていた。」(185頁)とある。筆者は、記68番歌謡を聞くにつけ、ヒバリという名が唐突に出て来ている以上、伸子針を使って幅が縮まらないようにしていたと推測している。
(注13)例えば、近代に桐生市に建てられたノコギリ屋根織物工場群のように、北からの採光の方が一定するかもしれないが、屋根からの採光と壁面(戸や窓)からのそれでは光線量に大差がある。
(注14)建築史では、敷居に溝を掘ってレールとして走らせることは技法として新しく、引戸、襖障子が現れるのは平安時代になってからのことである。日本史大事典に、「回転式のいわゆる扉の形式が古く、これにはいたとびら桟唐さんからとがある。……同じ回転式であるが、扉とは異なって水平方向に回転軸を持つのが蔀戸しとみどである。寝殿造しんでんづくりでは蔀戸に対し、扉形式の戸はつまと呼ばれた。これは元来、建物の妻(棟の両端の側面)に設けられていたことから生れた名で、出入口として使われた。引戸はやりと呼ばれるが、その発生は扉よりも遅れ平安時代後期である。この時代の巻物まきものに見えるのは狭い間隔に横桟を打ったもので、のちにまい良戸らどと呼ばれる形式である。……平安後期にはふすまが登場し、明障子あかりしようじ(現在の障子)が現れるのも平安末期である。」(第五巻1頁、この項、清水擴)とある。
家形埴輪の戸ぼそ(美園古墳出土、文化庁蔵、橿原考古学研究所附属博物館「家形埴輪の世界」展展示品)
 高橋1985.に、「日本でいちばん古い建具」(2頁)として扉が紹介され、「奈良時代の住宅の建具は扉だけであった」(9頁)と刺激的なキャッチコピーが施されている。弥生時代の農村集落跡、伊豆山木遺跡から、軸釣(枢、とぼそ、くろろ)とみられる作り出しのある扉が出土しており、「古墳時代になると、……扉の出土例が増えるのみならず、扉用の軸受けをもったしきみも発掘され、さらに大阪府八尾市美園古墳から出土した埴輪屋には、開口部の上下に扉の軸を受ける穴が作られている。」ことから、「扉はすでに相当普及していたらしい。」(2頁)とある。
(注15)戸を閉めて明かりを灯しながら織っていたと考えられなくはないが、植物油の燃油は非常に高価である。魚油や松明を使って臭いがつき、火の粉が飛んで穴を開けかねないリスクを冒しはしない。だからこそ、囲炉裏に火を熾さない別棟の機殿(機屋)を設けて作業している。
 暑ければ屋外で行うことも考えられ、軒下に機を設置して織っている例も見られる。インドでは高床式の縁の下の例も見られる。中央アジアから中近東にかけては雨の心配がほとんどないから完全に屋外で行われている。それが通常の機織りの光景であった。
(注16)民俗事例としては、吉見1995.に、「この[湖東]町の民家にみられる特徴は機織窓の存在である。でいの前面の一間半を四分し、中央の四分の一の二つ分を窓とし外側に縦格子、内側に二枚の引戸をたて、これを「機織窓」と呼んでいる。」(74頁)とある。
(注17)二つ片開き扉の建物の用途については筆者の語学的推測によるものであり、考古学の考証を経ているものではない。
(注18)推古紀に、建物を建ててから仏像を入れようとしたら戸が狭くて入らなかったという記事がある。寄木造だったのかもしれない。

 又仏像ほとけのみかたを造ること既にをはりて、だうに入るること得ず。諸の工人たくみ、計ること能はずして、将に堂の戸をこほたむとす。然るに、戸を破たずして入るること得。(推古紀十四年五月)

(注19)新編全集本古事記に、「ヒバリだって空を翔る、ましてや天空高く行くハヤブサは…と対比的にハヤブサを引き出す。」(301頁)とあるが、ヒバリとハヤブサを比べ出したら焦点がぼけて肝心のサザキのオソシ点が霞む。
(注20)ヒバリダカ(雲雀鷹)という語もあり、六月頃、ヒバリの羽の生えかわる時に、ヒバリ専用に鷹狩をする鷹のことをいう。日葡辞書に「Fibaridaca」とある。なお、ハヤブサがヒバリを捕まえる鷹狩は行われるが、サザキ(ミソサザイ)を捕まえる鷹狩は知られない。人里近くにいるスズメなら練習用に捕まえさせることはあるが、小さな鳥は霞網を用いて捕えれば事足りる。鷹狩の獲物は、通例では、鳥類では、ツルやガン、ハクチョウ、カモ、キジ、ウズラなど、哺乳類では、ノウサギやリス、キツネなどである。わざわざ飼育、調教するのだから、ふだん捕れない大きな獲物を狙うのが鷹狩の醍醐味である。鷹狩に使うタカは短距離向きで、木の多いところでも使えるが、ハヤブサは比較的長距離に使えるが、木の少ないところに適するとされている。草の枝葉の間を飛んでいるサザキを捕ることは難しい。
(注21)仁徳天皇は脚が不自由だったらしく、屋根の雨漏りを直すことができなかった。拙稿「仁徳天皇は「聖帝」か?」参照。
(注22)誤写ではなく、当初から異本が存在していたものと筆者は考える。河村秀根・益根の書紀集解に、「按干原誤。舒明天皇即位前紀干支。晋書芸術伝戴洋曰、干、支。拠、借兄弟干支耳。未出。」(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1157913/1/21、漢字の旧字体は改め、句読点を付した)とある。舒明前紀には、「吾、汝がことよくもあらぬことを知れども、干支このかみおととことわりを以て、やぶること得ず。」とある。
(注23)歴史学からすれば、古墳時代に天皇家の兄弟姉妹間に事実としてあったかもしれない、あるいは、皇統譜に女鳥王や速総別王の母親が豪族出身者であることから氏族伝承が組み込まれたのかもしれないと見て取りたくなるだろう。しかし、それがどうして天皇家の三人の兄弟姉妹の喧嘩のことへと発展しているのか、検証不可能で説得力ある解釈が行われることは期待できない。氏族の祖先伝承がまとめられることがあったとしても、記紀に所載の話の内容とは関わりがない。今日でも余所の家のことを一度ならずとも聞かされるのには閉口する。ましてや、それをまるごと全部覚えるようにと言われてても、凡人には覚えられるはずもない。つまりは伝わらない。門閥重視でも貴族社会でもない時代のことを考えるのに、古代史学は氏姓のつながりを重んじすぎている。

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辰巳2014. 辰巳正明監修『古事記歌謡注釈─歌謡の理論から読み解く古代歌謡の全貌─』新典社、2014年。
土橋1972. 土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、1972年。
寺川1992. 寺川真知夫「雌鳥皇女・女鳥王伝承の性格と形成─反逆伝承の公開と氏族─」中村啓信・菅野雅雄・山崎正之・青木周平編『梅澤伊勢三先生追悼記念論集』続群書類従完成会、平成4年。
都倉1975. 都倉義孝「女鳥王物語論─古事記悲劇物語の基本的構造について─」日本文学研究資料刊行会編『古事記・日本書紀Ⅱ』有精堂、昭和50年。
鳥取県埋蔵文化財センター2008. 『弥生時代「最長の垂木」の発見と復元 山陰地方の大型掘立柱建物』鳥取県埋蔵文化財センター、2008年。(表紙画像http://www.book61.co.jp/book.php/N03678)
内藤2003. 内藤磐「記紀歌謡の織りなす世界─カタリにおけるウタの役割─」古事記学会編『古事記論集』おうふう、平成15年。
日本史大事典 『日本史大事典 第五巻』平凡社、1993年。
藤澤2016. 藤澤友祥『古事記構造論─大和王朝の〈歴史〉─』新典社、平成28年。
前田1992. 前田亮『図説手織機の研究』青人社、平成4年。
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身崎2007. 身崎壽「ウタとともにカタル─女鳥王物語論─」『萬葉集研究 第二十九集』塙書房、平成19年。
村上2013. 村上桃子『古事記の構想と神話論的主題』塙書房、2013年。
守屋1980. 守屋俊彦『古事記研究─古代伝承と歌謡─』三弥井書店、昭和55年。
矢島1991. 矢島泉「『古事記』下巻試論」『日本文学』第40巻第4号、1991年4月。
山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。
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山田2008. 山田純「『鷦鷯』という名の天皇─鳥名と易姓革命─」日本文学協会編『日本文学』第57巻2号、2008年2月。
吉井1992. 吉井巖『天皇の系譜と神話 三』塙書房、1992年。
吉見1993. 吉見靜子「近江の民家4 湖東の民家」『湖国と文化』第17巻2号(通号第63号)、㈶滋賀県文化振興事業団、平成5年4月。

※本稿は、2017年5月、2018年1月、2019年9月稿をまとめた2020年10月稿について、2024年1月に誤りを正しつつ論旨に不要な先行研究部分を大幅に割愛し、2026年4月に再改稿したものである。
 次の歌は、万葉集巻十、春の相聞としてあげられる七首の最初の歌である。柿本人麻呂歌集の歌とされる。
 文字の異同に、「春日野」は類聚古集などに「春山野」とあり、「友鴬」は西本願寺本などに「犬鴬」とあるのを類聚古集により改めている(注1)

 春日かすがの ともうぐひすの 鳴き別れ 帰りますも 思ほせわれを〔春日野友鴬鳴別眷益間思御吾〕(万1890)

 現代の注釈書では、一句目を「春日野の」とするか「春山の」とするかの二説がある。
「春日野の」説
 春日野で、友だち鶯が鳴いて別れて、お歸りになるあいだも、私を思つてください。(武田1956.70頁)
 春日野の友鶯の鳴き別れるように別れてお帰りになる間も、私のことをお思い下さい。(大系本68頁)
 春日野に鳴いて居る鶯の如く、泣いて別れて、歸り行かれる間も、お思ひ下さいませ。私を。(土屋1976.205頁) 
 春日野の妻を求めてなく鶯のようになき別れて、お帰りになる間でも、お思いください。私のことを。(中西1981.319頁)
 春日野で、友鶯が鳴いてゐる、それに因みある、別れを惜しんで泣いて別れて、家へ歸られる間をも、思ひ給へよと吾を。(窪田1985.254頁) 
「春山の」説
 春の山で鶯が友と鳴きながら別れるやうに、私逹も泣いて別れて、あなたはお歸りになりますが、その道󠄁の間でも思うて下さいませ。私を。(澤瀉1962.95頁)
 春山の 友うぐいすが 鳴き別れるように お帰りになる間も 思ってくださいわたしのことを(新編全集本46頁)
 春山の鶯が友と鳴く鳴く別れるように、泣き別れしてお帰りになる間も、思って下さいませ、私のことを。(稲岡2006.25頁)
 春の山でうぐいすが、友と鳴く鳴く別れるように、泣き別れしてお帰りになる間も、思ってください、私のことを。(阿蘇2009.389~390頁)
 春山の友鶯が鳴き別れをするように、泣き別れてお帰りになるその間もお思いください。私のことを。(多田2009.49頁)
 春山の仲間同士の鶯が鳴き交わして別れるように、泣く泣く別れを惜しむ私と別れてお帰りになるその道の間でも、思って下さい、この私のことを。(伊藤2009.371頁)
 春山の友鶯が鳴き別れるように、泣いて別れて、お帰りになる間も思って下さい、私のことを。(新大系文庫本127頁)

 いずれの場合も、友の鶯が鳴き別れるように泣き別れ、お帰りになる間にも私のことをお思いになってください、という意ととられている。鶯の友が別れるのに鳴くのと、人の友が別れるのに泣くのとをパラレルに扱って歌の修辞としている。ナクという言葉に「鳴く」と「泣く」があるからその結びつきから歌の序として鶯の話をしている。場所や時点を一句目でどう言っていたか、今となっては判断できないとされ、二つの説が通行している。
 近年では、「春山の」とあったほうが歌の風情としてしっくりくると思われて、その説をとる注釈書が目立つようになっている。春の相聞に採られているのだから「春山の……」とあって然るべきと考えられている。ただ、そうなると、鶯の友のあり様を語ることは人の友のあり様を導いているに過ぎず、比喩表現上、言葉の操り方として単調で、巧緻なものとはいえない。
 筆者は、もっとずっと言葉遊びのある歌であると考える。
 特定の地名、「春日野」をもって歌っているとすると、春日野でなければ表すことができない内情を語ろうとしているのだろう。他のどこの地の鶯でもなくて、春日野に限って「友鶯」であることが明瞭になるという意味である。
 カスガノという言葉の響きは、カス(糟)+ガ(処)+ノ(野)の意を彷彿とさせる。もちろん駄洒落である。カス(糟)とは酒糟(酒粕)のこと、酒を絞った残りである。酒と酒糟とは酒類の「友」であるという考えから発想している。酒糟としては酒が絞られてしまうと、それまでの濁り酒ならまだ人から望まれることが多かったが、糟だけになってしまうと持て囃されることはなくなり、人気は下火になって思いを寄せられることがなくなる。人は御酒にばかり気が行って捨て置かれてしまうのである。そんなことしないでください、と相手に言っている。「帰ります」、「思ほす」は「帰る」、「思ふ」の敬語表現である。相手は御酒のように貴い存在だからそう言っている。尊い酒類であれば「御酒みき」(ミ・キはともに甲類)といい、尊い人であれば「きみ」(キ・ミはともに甲類)と呼ぶ。帰るだけあって音が転倒している。転倒の理由は鶯の鳴き声の聞きなしによる。
 鶯の鳴き声は、今では「ホーホケキョ」が一般的に認知され、少し前まで「ホケキヨオ」ととって法華経との関係に関心が向かっていた。だが、中古には「ひとくひとく」と聞きなされた。人来人来、つまり、人が来るという意味に受け取っていた。

 梅の花 見にこそつれ 鶯の ひとくひとくと いとひしもをる(古今1011)
 すだれ巻き上げてなどあるに、この時過ぎたる鶯の、鳴き鳴きて、木の立ちれに、「ひとくひとく」とのみ、いちはやく言ふにぞ、簾おろしつべくおぼゆる。(蜻蛉日記・中)

 この聞きなしが上代に遡るのが当該歌である。万葉集1890番歌で、春日野で糟と別れてミキ(御酒)を絞った時、鶯は鳴いて「ひとひと」と呼んでいた(注2)。お帰りになる時、帰路の間も思い出してくださいね、キミ(君)よ、と歌っている。御酒が目当てでやって来た友は、飲んでいい気持ちになったら最後、相手のことなど忘れて帰途についてしまうことが多い。酒を酌み交わしてから帰って行くその間だけでも招待した人の顔を思い浮かべてほしいものだと歌っているのである。

(注)
(注1)「春山野」を「春山の」と訓むことは「の」の甲乙が異なり、本来は誤りで、意改している。また、「友鴬」ではなく「犬鴬」が正しいのかもしれないが、後考えを俟つことにする。
(注2)万葉集には鶯を詠んだ歌が五十一首あり、そのうち、鳴き声の「ひとひと」をもって歌にしたものも散見される。拙稿「万葉集、葛井連広成の宴の歌について」ほか参照。

(引用・参考文献)
阿蘇2009. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第5巻』笠間書房、2009年。
伊藤2009. 伊藤博『新版万葉集二 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡2006. 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。
澤瀉1962. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第十』中央公論社、昭和37年。
窪田1985. 窪田空穂『萬葉集評釈 第6巻』東京堂出版、昭和60年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集③』小学館、1995年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋『日本古典文学大系6 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 万葉集全註釈 八』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
土屋1976. 土屋文明『萬葉集私注 五(新訂版)』筑摩書房、昭和51年。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
                                 (加藤良平)