https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/column/16/092700035/121800019/

 

2019年12月13日に中外製薬は、2012年12月以来7年ぶりとなる抗体技術の説明会を開催した。まず登壇したのは2012年に設立された100%子会社であるシンガポールChugai Pharmabody Research(CPR)社の責任者を務め、現在は中外製薬の研究本部長である根津淳一。続いて2017年4月から根津に代わってCPR社のCEOを務めている井川智之がプレゼンテーションを行った。

 CPR社は発足時、「5年後までに4、5個の候補抗体の創出」を目標に掲げ、抗体エンジニアリングで確立したリサイクリング抗体とスイーピング抗体に関する候補抗体の探索研究を行ってきた。2019年10月までにCPR社が関わった抗体候補として、既にERY974、SKY59、AMY109、GYM329、NXT007の5つの品目の臨床試験が始まっている。このうち、CPR社が創製したのは発作性夜間ヘモグロビン尿症を対象にフェーズI/IIの臨床試験を実施中の抗C5リサイクリング抗体SKY59(クロバリマブ)と、神経筋疾患を対象にフェーズI実施中の抗潜在型ミオスタチンスイーピング抗体GYM329。どちらもRoche社と共同開発を行っており、順調に開発が進めばシンガポールで創製した初めての医薬品として、世界市場に出て行くことになりそうだ。

 

改変抗体を生かすプラットフォームも充実

 

 2012年からの7年間に、中外製薬では抗体候補を創出するためのプラットフォーム技術を大きく進化させてきた。

 まずは動物に免疫して抗体を取得する部分にもハイスループットの自動化技術を導入。また、動物への免疫では取得できないような抗体を作れるよう、ファージディスプレーのライブラリーも充実させてきた。ファージディスプレーというのはバクテリオファージというある種のウイルスに様々な遺伝子を導入したライブラリー(図書館)を作って、その中から目的の蛋白質(抗体)を作る遺伝子を探し出す手法。動物に免疫しても取得できないユニークな抗体の遺伝子を数多く設計してライブラリーにしておくことで、ユニークな抗体をスピーディーに入手できるようになる。ここにも自動化技術を導入し、独創的なリード抗体分子を取得するプラットフォームを構築した。

 圧巻は、開発候補となるリード抗体を決定した後、最適化するためのプラットフォームの構築だ。ヘムライブラの開発を通じて、遺伝子を設計した後、細胞への遺伝子導入、抗体精製、安定性や溶解性、免疫原性、非特異的結合などに関する多面的な抗体評価までの1つのサイクルを1週間かけて行う仕組みを構築したことは既に述べた。ここにハイスループットな自動化システムをふんだんに導入して、ヘムライブラの開発時には1週間に50個の改変抗体を作製するのが限界だったところを、1週間に数百から数千の抗体を設計、作製、評価して、最適化の作業を行えるようにした。過去の実験データを機械学習させることで、今や配列の設計は人工知能(AI)がやってくれる。ヘムライブラを開発した当時から、10年で1桁から2桁近く、スループットを向上させた。

 「最初に、抗体候補の安定性を改善できないかと角田さんとアミノ酸の改変をやり始めたときは、3カ月で5個の抗体しか作れなかった。だからどのような変異を入れるべきか、慎重に検討する必要があった。だけど今では、『全部作って試してみればいいのではないか』という話になる。職人のようなセンスが求められる場面は減ってしまったけれど、それだけ能力は向上した」と井川は言う。

 また、抗体エンジニアリング技術を駆使しようとすると、懸念されるのが免疫原性の問題だ。天然には存在しないようなアミノ酸の改変を行うわけだから、生体内で異物と認識されて抗体に対する抗体ができてしまう可能性が危惧される。そうなるとせっかくの抗体医薬が体内から排除されてしまい、効果を発揮できなくなる。この事態を避けるために中外製薬では、T細胞を用いた免疫原性の予測技術や、コンピューターによる免疫原性予測技術を充実させてきた。「免疫原性を予測する技術があるからこそ、勇気を持って抗体を改変できるようになった」と井川は話す。これらプラットフォームをシンガポールと日本の研究所にそれぞれ整備。中外製薬の抗体候補創出の強力なエンジンとなっている。

 さらに井川は2017年4月、40歳でCPR社のCEOに就任すると、リサイクリング抗体とスイーピング抗体を適用した候補抗体の探索と同時に、新しい抗体エンジニアリング技術の開発にも着手した。「2008年からの抗体エンジニアリングで取り組んだのは、二重特異性抗体やリサイクリング抗体など、独自の作用機序を持たせるための技術だったが、2012年以降は単に抗原にくっつくだけでなく、特定の場所、特定の細胞でだけ抗体が働くようにする技術に取り組んできた。最近はさらに、抗体がアクセスできる場を広げる技術開発にも取り組んでいる」。12月9日の技術説明会で、井川はこう説明し、2017年以降はCPR社でも技術開発を行っていることを紹介した。

 

特定の組織、細胞でだけ働くスイッチ抗体

 

 その成果として実現した新しい抗体エンジニアリングの1つはスイッチ抗体だ。標的の分子だけを選んで結合する抗体の弱点は、正常な組織に存在する標的にも結合してしまうことだ。例えば、癌細胞に特に多く見られる分子を標的に選んでも、正常組織にもわずかでもその分子が存在すれば、抗体が結合して副作用を生じさせてしまう。こうした副作用の結果、実用化には至らなかった抗体医薬は数多くある。

 この問題を克服するために考えたのは、ターゲットとする疾患や組織にだけ存在している代謝物を介して機能を発揮するようにすることだ。目を着けたのはアデノシン三リン酸(ATP)という物質。生命活動をする際のエネルギーの供給源として知られる物質で、細胞内には豊富に存在するが、細胞外にはほとんど存在いていない。ところが急速に増殖している癌細胞からはATPが外部に漏れ出し、癌細胞周辺では細胞外に高い濃度で存在することが知られている。

 そこでATPが存在する場合にのみ、抗原に結合する抗体の作製を目指した。その際に力を発揮したのが前述のファージディスプレーライブラリーだ。まず、ATPに結合する抗体を取得し、その構造を解析して、可変領域の先端にATPがすっぽりとはまる抗体を作製した。次に、このATPに結合する構造を持ちながら、その周囲をランダム化した抗体遺伝子を数多く作製。この抗体遺伝子を利用して、ファージディスプレーライブラリーを作製した。ライブラリー化した遺伝子の数は1000億種類に上る。このライブラリーを利用すれば、動物への免疫では得られない、ATPに結合した上でないと抗原に結合できない抗体を取得できるというわけだ。

 

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正常組織では働かず、ATPの濃度が高い癌組織周辺だけで働くようにしたスイッチ抗体(中外製薬資料より)

 

 実際、これまでにこのファージディスプレーのライブラリーを用いてヒトインターロイキン(IL)6受容体(R)に結合する抗体を取得した。このスイッチ抗体は、ATPが無いとhIL6Rには結合せず、ATPの濃度に比例して作用が高まることを確認した。さらに全身にhIL6Rができるように遺伝子改変したマウスを用いて、スイッチ抗体ではない通常のhIL6R抗体は全身のhIL6Rに結合するものの、スイッチ抗体は癌細胞のhIL6Rだけに結合することを確認できた。このスイッチ抗体の技術Switch-Igを利用したプロジェクトの1つは2020年中に臨床試験を開始する予定で、それ以外にも6つのプロジェクトを進めていることを、12月9日の説明会で井川は紹介した。また、現在はATP存在下で機能を発揮する抗体のファージディスプレーを作製したところだが、他の物質でオン・オフするスイッチ抗体を作り出すことも技術的には可能であると説明した。

 

二重特異性抗体設計の自由度を高める技術も

 

 12月9日の技術説明会ではこの他、次世代バイスペシフィック抗体、次世代T細胞リダイレクティング抗体も紹介された。次世代バイスペシフィック抗体を創製するFAST-Ig技術は、ヘムライブラの後継品として、現在血友病Aを対象にフェーズIを実施中のNXT007に使われている。ヘムライブラでは製造の課題を克服するために、抗体の第IX因子に結合する側の軽鎖(L鎖)と、第X因子に結合する側のL鎖を共通化することで、細胞内でできる抗体の種類を3つに減らして製造しやすくしたことはこれまでに述べた。L鎖を共通化しなければ、細胞内では10種類の抗体ができてしまう。

 しかし、FAST-Ig技術は、抗体エンジニアリング技術によって重鎖と軽鎖のFabと呼ばれる部分にプラスとマイナスの電荷を入れて、第IX因子に結合する重鎖と軽鎖、第X因子に結合する重鎖と軽鎖とががうまく会合できるようにした。この結果、L鎖を共通化する必要がなくなり、抗体設計の自由度は増した。第X因子に結合するL鎖のみに変異を導入することができ、ヘムライブラよりも第VIII因子としての作用が強い抗体を作製できた。

 ヘムライブラは健康成人が持つ血液凝固の能力の十数%の力しか持たないため、手術を受ける際や、強度の運動をする際には、ヘムライブラの上乗せで組換え第VIII因子製剤を投与した方がいいと考えられていることをかつて紹介したが、この技術を基に開発したNXT007は、その投与により健常な成人レベルの血液凝固能にすることを目標に開発が進められている。

 また、NXT007はFc部分に、酸性のエンドソーム内で胎児性Fc受容体(FcRn)への結合を強める改変技術ACT-Fcを適用することにより、血中半減期を長期化させることにも成功した。ヘムライブラは現在、4週間に1回の投与の製剤が承認されているが、数カ月に1回など、投与回数を大きく減らした製剤を開発することもできそうだ。

 FAST-Ig技術は二重特異性抗体作製の自由度を高め、中外製薬に多様な戦略を与えつつある。その1つがT細胞リダイレクティング(TRAB)という抗体の作製だ。二重特異性抗体の片方の腕で癌細胞に、もう片方の腕でT細胞に結合してT細胞に癌細胞を攻撃させるというTRABのコンセプトは、2012年の抗体技術説明会で発表。試験管内での実験や動物実験のデータを示し、少ない投与量で効果を発揮することや、これまでに標的にはできなかった発現量の少ない癌抗原を標的とする治療薬になる可能性があると説明した。また、その後、実際に癌細胞に多く見られるグリピカン(GPC)3という蛋白質とT細胞表面のCD3という蛋白質に結合する二重特異性抗体のERY974を作製し、現在、フェーズIの臨床試験を実施中だ。ERY974は中外製薬で初めてのTRABだ。

 今回の説明会では次世代バイスペシフィック抗体のFAST-Ig技術やSwich-Igの技術を適用することにより、TRABによる治療戦略を進化させつつあることを紹介した。ERY974ではL鎖を共通化させる必要があったが、次世代TRABではL鎖を共通化する必要が無いので、候補抗体作製までのスピードが上がる。加えてT細胞表面のCD3と癌細胞表面の蛋白質、すなわち癌抗原とに結合する二重特異性抗体のTRABと、T細胞表面にあるCD137という別の蛋白質と癌抗原とに結合する二重特異性抗原とを併用することによってT細胞をより強力に活性化することを狙った。CD137は共刺激分子と呼ばれ、CD3と同時に刺激することで、T細胞はより強く活性化されることが知られている。これに加えてATPが存在するところだけで抗原に結合するSwitch-Ig技術を適用することで、癌免疫療法の新しいモダリティとして確立していく考えだ。

 次世代バイスペシフィック抗体のFAST-Ig技術を利用して作製した抗体では、NXT007がフェーズIを実施している他、4つのプロジェクトで創薬研究を行っている。さらに、詳細は明らかにしなかったものの、第三世代のバイスペシフィック抗体の技術も開発しており、この技術を使って5つのプロジェクトを進めていることを紹介した。

 つまり中外製薬は10年近い時間をかけて、抗体エンジニアリングによって作り出したリサイクリング抗体、スイーピング抗体、バイスペシフィック抗体、スイッチ抗体といった技術を適用した抗体候補を、リード抗体の取得、リード抗体の最適化、免疫原性低減の3つのプラットフォームを利用して次々に創出できる体制を構築してきたのだ。リサイクリング抗体、スイーピング抗体、バイスペシフィック抗体、スイッチ抗体は、それぞれが1つのモダリティに相当するほどのユニークな挙動を示す。抗体エンジニアリングによって、中外製薬は抗体創薬の可能性を大きく広げた。

 

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プラットフォームの構築などを通じ、抗体エンジニアリングによる抗体候補が続々と生み出されつつある(中外製薬資料より)

 

 もっとも、核酸医薬や遺伝子治療、細胞医薬など、創薬の世界でモダリティはさらに多様化している。抗体医薬の競合となって、その市場を脅かす技術も登場してくるだろう。例えば、血友病Aに対しては、複数の遺伝子治療が開発されている。遺伝子治療は一度の治療で生涯にわたって効果が得られる可能性があり、ヘムライブラやその後継品のライバルとなって立ちはだかる可能性はある。

 その可能性を、井川、角田、服部にそれぞれ尋ねると、一様に肯定した。それでも「抗体医薬の技術が成熟したとは思わない。チャンスはまだまだある」と角田は言う。「遺伝子治療などに取って代わられる部分はあるだろう。でも、2001年に入社した当時、既に抗体医薬の標的には限りがあると言われていたが、新しい技術を開発することで、新しい標的を狙えるようになった。できることは目の前に広がっている」と井川は話す。モダリティが多様化する時代にここまで抗体に入れ込むことにはリスクがあるという見方もあるかもしれないが、ここまでやったからこそ見えてくる世界もあるのだろう。