最近インスタで目に止まった投稿があった。

それはパレスチナのジェノサイドに関する内容だった。


幼い子どもたちから夢や希望を失わせ、狭い世界の中で生きなければならないことを憂いているものだった。


ジェノサイドとは、『国民的、民族的、人種的、または宗教的な集団の全体もしくは一部を破壊する意図をもって行われる集団殺害や迫害行為のこと』

今を生きる日本人のわたしたちには、想像すらできないことではある。

それはニュースやドラマの中で見かけるような、遠い世界の話のように感じられるものかもしれない。

実際に目の当たりにしたら、大半がその投稿記事と同じような気持ちになるだろう。

ただわたしは、それを別の視点で見てみたいと思う。


わたしの目に止まったのは、小さな子どもをもつ母親の『3歳の娘は一度もおもちゃを手にしたことがない。テントのそばにある石と砂としか遊べない』ということばだった。

外に出れば爆弾が飛び交い、食事もまともに得られず狭くて暗いテントの中での暮らし。

それは確かに、幼い子供にとっての人格形成に多大な悪影響を及ぼすであろうことはわかる。

だが、おもちゃで遊べないことがそんなにかわいそうなことなのか?

逆にわたしは、きれいに形作られた既成のおもちゃが必要だと思わない。

子どもは、どんな場所でも無垢な心で楽しく遊びを見つける天才だ。

子どもたちにとって、石や砂は最高の遊び道具だ。

それが不憫だとかかわいそうだとかいうのは、大人の固定観念にすぎない。

逆に都会に住んでいて、泥団子も作った経験がないことの方がもったいないとわたしは思う。

確かに、死体がいつも横たわっているような環境は異常だ。

でもその環境でも夢や希望を失わないように、大人たちがどういう姿勢をもって子どもたちに接するのかが重要なのではないか。


発展途上国の小さな村の子どもたちの目は澄んでいるし、確実にわたしたちよりも物資がなく不便な生活をしている人たちの方が幸せに暮らしている。


大きな家に住むことや、物や食べ物が豊富に揃っていることが幸せなんじゃない。

どんな環境に於いてもいかに心豊かに生きられるか、それを自分の生き方で子どもたちに伝えていくのが大人の役割ではないのか。


わたしが車中泊放浪生活をしていた時、お金も家もなかった。

シャワーも週に一度浴びられれば良い方だった。

一日にパン一個とかお菓子だけの日々もあった。

でもわたしは不幸ではなかった。

きれいな海が目の前にあったし、出会った人たちがとても親切でいろいろお世話にもなった。

食べれないことは不幸なことではないし、今現在一般的な生活をしていても一日一食以下で充分足りている。

わたしは不幸にはなり得ない。

なぜなら不幸だという概念がないからだ。


いろんな物がたくさんありすぎると、人は本当に必要なものがわからなくなってしまう。

そして物やお金が幸せの象徴だと思い込んで生きている。

本当の幸せとはいったいなんなのか、思い出してほしい。