病院の相談職についていた頃、よく言われたことの一つに、人の話しや相談に乗っていて疲れないか…?ということがありました。

 正直なところ、普通に表面的な話しや、楽しい話しをしているより、私は、人の悩みごとや、人生の話しを聞かせてもらう方が、よほど心地よかったような気がしています。


 それはいまだに変わっていなくて、順風満帆の方の話しを聞いたり、楽しい話しを聞いているより、苦しかった話しや悩みごとの方が、熱心に聞いてしまうような気がしています。


 一応、資格職で職業として、相談員をしていましたが、半分はそういう立場で、半分はひとりの同じ人間として、話しを聞かせてもらっていました。


 何かのコラムで、あるカウンセラーさんが、「不安や苦しいというものに囚われずに、生きることが出来るんですよ!」と書かれているのを読んだことがあるのですが、「それは本当なんだろうか???」と、もの凄く、疑ってしまいました😅


 確かに、線維筋痛症で、痛みや体調不良があっても、別に不安でどうしようもない…ということも、最近はあまりなくて、精神的にはいちばん落ち着いてきているように感じるんですが…、それが「不安や苦しみに囚われずに生きている」ということなのか?…と言うと、ちょっと違うような気がするんです🤔


 あえて言うなら、「私は苦しかったことも、痛いことも、忘れずに生きていきたい」と思っていて…それを全部忘れて、幸せだと思うことはないだろうなぁと思っています。


 「もう一度、この人生を生きてみますか?」…と言われたら、「いえ、もう一回だけで十分です😅」と答えるとは思うんですが、じゃあ、「新しい人生で、痛みも苦しみもない人生を生きますか?」と問われたら、「いえ、この人生を最後まで生きてみます」と答えるような気がしています。


 最初は、こんな痛みや様々な葛藤に苦しむような人生など、望んではいなかったので、手放せるものなら、とっくの昔に手放したかった…けれど、何度か死ぬに死ねないと思った時、自分の痛みや苦しんだことを、何も伝えることも出来ずに死ぬのは無念だ…と感じたのを覚えています。


 例えば、戦争や、虐待や、貧困や差別といった悲惨なものを経験した当事者は、被害者だけではなく、時に加害者も大きなトラウマを抱えて生きることになります。もう、誰も自分を傷つけることはない、時代は変わったのだと思っても、心の根底に、地獄を生きたことが痕跡として残ってしまいます。


 そうしたものをPTSDとして、治療することは可能ですが、忘れて生きることとは違うんだと思います。そうした過去や痕跡が自分のなかに残っていることを、直視して、受け入れた上で生きる…というのが、恐らくPTSDの治療ではなかろうかと思います。


 ですから、私は、過去のことも含めて、丸ごと自分の上に起きたことを、大切にしたいと思っていて、哀しかったことも、自分が醜かったことも、苦しくてどうしようもなかったことも、全部、私を形づくっていったものとして、その上に自分が今を生きていて、「不安も苦しみもない人生」などというものを歩むつもりがないんだなと、思っています。


 そして、私はできる限り、素直な言葉で、子供のような真っ直ぐな心で、自分に起きたことや、私がこれまで沢山のことを教わってきた人たちの物語を語りたいと思っています。


 蝉が必死で生きている間に、叫ぶように鳴いているように、私も、生きて語れる間に、語っていきたいこともたくさんあり、そして、まだまだ沢山の方々の話しを聞いていきたいと思っています☺️ なぜなら、私だけが預かるには、あまりにも勿体無さすぎる宝物を、たくさんの方々からいただいてきているので、そうせずにはいられないから…なんだと思います☺️


 日々の拙いブログを読んでくださる方々と、宝物のような人生の軌跡を共有してくださる皆さまに、心より感謝を申し上げるとともに、悩み痛み苦しむ方々には、少しでも安らぎが訪れますように{emoji:661_char4.png.スター}