死後、地獄に落ちるか否かは?
答えは、【正見】か【邪見】で決まる。
【貪瞋痴】で動く【自我】の言う通り生きるとは、悪行為であり、それは、悪業(負のカルマ)を産む邪見である。
凡夫の場合はじめに、感情的な好き嫌いの判断がある。その主観に都合の良い理屈を思考する。
論理的思考を感情的な好き嫌いの判断の為に使用するのだから、導かれたものは【邪見】である。
その状態を、無知という。自分自身にも、他者、他の生命にも【苦しみ】をあたえる行為は、悪行為であり、【苦しみ】を除く行為は、【善行】である。
凡夫の場合、その【自我】は、貪瞋癡と言う生存本能で行われるので、結果的に、常に、自分自身にも、他者、他の生命にも【苦しみ】をあたえる。
良かれと思って、全てを行うが、【無知】故に、自分自身にも他者にも【苦しみ】を与えてしまう。
また、信じるしか無いような、【検証できないアプリオリ】を元に組み立てられた、形而上学や、神学や、哲学、スピリチュアル、占いなどを基準に物事を見ることは【邪見】である。
【現実は心に従って生じる】と言う言葉に従えば、それら【邪見】の見解の実現力は、それを信じる集団(その文化圏の集合無意識)の心の力に依存している。
どちらにせよ、【自我】による主観的な概念による認識の殆ど全ては【邪見】である。
【邪見】は、結果として→地獄に堕ちる。
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では、どの様に【邪見】を離れ、それが生み出す【苦しみ】を止める事が出来るのだろうか?
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八正道の【正見】とは【気づき→サティ】であり、それが【あるがまま】に見る視点である。
偏り見ることのない、完全なる客観的視点が、【気づき=サティ】でありそうする事で、【自我】に依る【邪見】と言う【悪行為】を避けることが出来る。
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輪廻転生とは?
現在、活動している【自我】の保有する肉体が、死ぬと、それに依存して生じていた日常的意識=【普段の私】は消える(死ぬ)。
一年草の場合は、春先に種を蒔くと、季節とともに成長し、発芽し、茎を伸ばし、葉を茂らせ、ぐんぐん成長する、その後、開花し受粉し、種をつける。
そして、冬が来ると、枯れて死ぬ。
草は、成長して開花し枯れて死んだ。
草の場合、種に遺伝データが残されているので、発芽し成長すると、ほぼ、同じ草が育つ。
次回の人生における私は、今の【自我】ではなく、再生された【新しい私】である。
今生の記録は脳とともに失われるのだから、新しい六根に依存して【新しい私】が生じる。
しかし、何かか行為を、したいという衝動 (やり残した)をカルマという形で持ち越して来るので、殆どの場合、前回の続きからの人生が始まる。
唯識派や、ヨーガや、現代のスピリチュアルでは、阿頼耶識=原因体というものを考えて、そこにデータが、保存されていると考える。
★阿頼耶識には、前世からの全てのデータがあると考える者もいるが、意志がカルマ(行為)を作るのだから、基本的には、未実行の意志が、種として残っている。
これが心の汚れであり、これによって我々は、輪廻する。意志は、際限なく働くため永遠に行為の種を蒔き続ける。
★原始仏教では、
検証できない哲学となった仏教の唯識派や、ヨーガ、スピリチュアルの物質的思考→タマス思考を否定する。
阿頼耶識や、コーザル体(アートマン)という、何か破壊できない永遠不滅の玉は、無い。
◎因縁仮和合で、一時的に成立している状態があるのみ。という。
なぜ、意志は、際限なく行為を続けるのだろうか?それが、苦を避け、より良いを求める生命の根本的な働きだからだ!
仏陀は、これを執着と割愛であるとする。
凡夫の意志とは、主観的感情であり、それに導かれて行為をする。その状態が、無知である。
俺の本当のやりた行ことはなんだ?
私の使命はな何だ?
と言って、自我は、常に現状の苦しみを見て、これを消すための【より良い】を探し求めて行為を行う。
自我は、貪瞋癡に導かれて、苦を避け、楽を求め、終わりのない活動をして輪廻する。
それ【邪見】から脱出する為の【正見】とは、【気づき=サティ】である。【貪瞋癡】の【自我】の活動から、別の方向に【心】を回転させる方法が、【慈悲の瞑想】である。曼荼羅真理 と一緒に歌って覚えよう【慈悲の瞑想!】