東洋では 伝統的に、
私とは、3人います。 

神道でも、かがみに例えます。 


神(カ)我(ガ)身(ミ)
です。


 瀬織津姫も、ハタレをおさめ、

我を張ること戒めるためにヤタノカガミ

を置いたと言われています。 


 3人の私とは? 


 認識主体⇒アートマン真我の私。 


 認識された情報の流れを私だと

思い込んでいる私⇒アハンカーラ⇒自我。


 情報を収集する器官としての

私⇒アンナマヤコーシャ⇒肉体。





 ❬自我と言われる認識情報の流れを

 静観しているのが本当の私である❭


体験することが、悟りへの第一歩です。


それを教えているのが、観察する瞑想

マインドフルネスですね。 


全ての想念に気づいているのは、日常的な自我とは違う視点であり、これを❬サティー❭と呼びます。 


 心に浮かぶ想念を自分だ、と言う思い、にしたがって行動し、その流れに巻き込まれて行くのが、日常的な❬私❭つまり、自我です。 


 そして

 自我と言われる認識情報の流れに飲み込まれ、支配され、振り回されて、苦しみ疲れ果てているのが我々、凡夫です。


自我とは、単純なもので、基本的に
三つの極性をグルグル回っているだけです。
一つ目は、貪り。
二つ目は、怒り。
三つの目は、無知です。

この動きが全ての執着とそれに対する強い欲望を生み出します。
煩悩は、無限ノヨウデスガ、分類すると1500しか無いのです。
❬自我が、大事だ!❭と、言ったところが、
1500の煩悩をグルグル回っているにすぎない訳です。



 仏教では、自我は、因縁仮和合であり、思いの集積に付けられた、ラベルにすぎず、実際には、存在しないから無常無我と言います。


 上座部仏教でも大乗仏教でも、
諸行無常 五蘊無我→諸法無我、
であり、自我だけではなく、
アートマンをも否定します。 

何故なら、アートマンという概念は、

属性が有るのだから、作られた概念です。

また、相対する概念によって成り立つ

二元性の概念だからです。


因みに、アートマンは、スピリチュアルでは、ハイアーセルフとして知られる概念です。


 仏陀の瞑想法を実践すると
誰でも、自我が存在しない事を
発見し、体験できると言われます。


 まあ、
言葉を定義しなければ議論は
成り立たちませんが、、。 


 私をどの様に定義するのか? 

自我をどの様定義するのか? 


は、哲学によって異なるのだから、
それを踏まえ無ければ議論は成り立たず、

平行線です。 




 普通どんな宗教もアプリオリを
持っています。

それは検証出来ないから信じるしか無いと言う教義の事です。仏教では、そう言うものを真理とは呼ばず、ファンタジーとみなします。 


 アプリオリについても、
検証するのが仏教の態度です。

例えば、
西洋では、私とは証明する必要のない
周知の事実と定義して話を始めますが、仏教では、これについても疑問を持ち検証していきます。 


自我のあるところに、愛はなく、

愛のあるところに自我はありません。

自我と愛は正反対です。


自我があるのが人間。 

自我が、無いのが、神です。 

これは、
サティアサイババの言葉です。 



 全ての生命は、有無の区別、
私と他人の区別、存在と非存在の区別のある現世から、区別の無い世界へ
進化して行きます。


鉱物は、植物に 

植物は、動物に 

動物は、人間に 

人間は、神仏に進化していきます。 


 蛹が殻を破って飛び立つ様に
人は、自我と言う殻を破って
二元的存在世界から飛び立つのです。 





 自我は、私をどんどん世界から分断し
切り離し、孤独にし、更に自我にしがみついて、追求すると自我は、アートマンから離れて、分裂し悪魔に転落するとも言われます。


 実際、ほとんどの精神病は、自我と呼ばれる無明が引き起こしているのです。 


 心が、生存本能の貪瞋痴→三毒で
回転している状態が自我と呼ばれる心の状態です。 


 三毒とは、全ての生命に共通する
生存本能です。

 むさぼり、怒り、無知のことです。 


 人間の全ての苦しみは、三毒によって回転する心つまり、自我によって生じます。


 ☆仏教では、
自我を別の言葉で{無明}と呼びます。 


 心を三毒の貪瞋痴ではなく、
布施、慈悲、智慧で回転させる為の
経文が慈悲の瞑想です。 


 慈悲の瞑想は、
自我によって苦しめられ、分断された心を
癒す為に非常に効果のある瞑想です。