『2重の私』を考える『無常、無我』vs『自性、自己』

この世で、四苦八苦する『自我』と、
もともと涅槃の世界にいる『自己=プルシャ』

自己と自性は、同一次元にいるので、

空という自性の本質を悟ると
自己に目覚める。

仏教では、『無常、無我』という。
サーンキャ哲学では、『自性、自己』という。

自性とは、無常である。
自己の本質は、無我である。

『自己』とは、人のなかに眠る『仏性』であり、
『自我』が眠り、『無我』となると、
真実の自己『仏性』が目覚める。

凡夫にとって、仏性とは、熟睡状態の意識といえる。
意識を保って、熟睡状態に至ることができれば
悟りをえる。

結局、五蘊の実相にたいしての、
説明の方法が、反対方向の視点というだけで、
同じことを言っいる。

アートマン(自己)についても、
スコトーマ(盲点)になっている『自己』
対象として、認識することは、
永遠に不可能であるという状態を、
無我というか、自己と言うかの違いでしかない。

空性、を悟り、五蘊がすべて消滅したとき
そこに残るものは、なんだろう!?

そこには、仏としての自己があるのであって、
決して、何も無くなってしまうのではない。

なぜなら、『空』と『無』とは、
全く別の概念であるからである。

無と有は、
『空』に包含される上位概念と言えるものであり、
全く異なるものだからだ。

『空』とは、無常なる五蘊の本性であり、
彼岸に立った者が、この世のすべて
をみたときに見える『無常』という五蘊の本性である。

★無常なる五蘊の本性である、空の世界は、
 永遠不滅であり、

永遠不滅の空の世界から、無常なる五蘊(万物)
が、生まれ帰滅する。

ヒンドゥー教では、その『永遠不滅の空の世界』を
『自性、プラクリティー』と言う。

宇宙全体のなかでは、沢山のものごと、生命、世界が
生まれては、滅するを繰り返している。

しかし、宇宙全体では、その内部が生成と
消滅を繰り返していても、何の変わりもない。

宇宙全体を一つの生命として見たとき、
それは、『空』として永遠に存在する。

 『涅槃』彼岸に立った者の、『意識』が、
無常なる五蘊(万物=宇宙全体)をみたときに、
『空』であると照見する。

この意識を『真如』『仏性』と言う。

これをサーンキャでは、『自己=プルシャ』という。
他のヴェーダ哲学では、『アートマン』という。

ヒンドゥの立場としては、

『自性=プラクリティー』の本性といえる『不滅無常』を
 悟ることでは解脱しないと言う。

これが、ナーガアルジュナの自性の定義とは、
異なる点である。

ナーガアルジュナは、自性は、永遠不滅の実在原理
と定義して、それはありえないものとして否定する。

しかし、
サーンキャも上座部も、自性を無常なる五蘊の本性
と考えていて、永遠不滅の実在原理とは定義していない。

空性というあり方において、五蘊の本性は、
永遠不滅の実在原理である。と言い換えることは可能である。
それは縁起によって、永遠に無常というあり方をする。

ヒンドゥー教では
解脱するためには、自性を悟るのみでは、不充分であり、
アートマンに到達する必要がある。
という。

仏教との言う『無我』とは、文字通り、
『意識を上昇』させ、
『我を消滅させる』こととなる。

そして、ヒンドゥー教では、
『自性=プラクリティー』の本性と言える
『空性』と同一の意識レベルにある
根元的意識の本性としての『自己=アートマン』に
合一する事で、解脱する。と言う。

もし、
自己が、無くなった場合、
誰が、悟って、涅槃に至るのか!?

熟睡時に、意識は消えている。
もし、
涅槃において、意識が、消えるなら
それは、熟睡と何ら変わりはない。

究極の根元的の世界に至って全てが、
空性に消え去ったときに
残っているのが、
覚醒者の意識、つまり、
『仏陀==覚者』である。

そこでは、確かに日常的な自我は、
消えるのだから、
それは、仏教の『無我』といえる。

しかし、
そこには、覚醒した者、仏陀の意識は、存在する。
それは、空性に在する、不生不滅の意識である。


何度も言うが、空とは、無ではない。

意識が、『空性』にいたって、
全てが、『無』に帰すといえば、
『空イコール無』と言う意味になる。
それは、間違えである。


は、くなって、無我となり
その時、
『真実の自己』がたち現れる

これが、仏教の言う、『真如』であり、
『仏性』である。

ヒンドゥー教では、『2重の私』を考える。

一つは、『自我』としての『私』。
苦しむのは、この『私』である。

もう一つは、『自己』または、『真実の自己』
としての『私』を超越した『私』
プルシャ、または、アートマン

両方の思想を知っていなければ、
公正に比べることはできない。

片方を熟知していて、
もう一方はよく知らない。
のでは、意味の有る比較は無理である。

それは、例えば、
道元より、親鸞が、優れているとか、
バラタナティヤムの方が、
オディッシーより難しいとか、
日本画の方が、油絵より難しいとか、
日本画の方が繊細であるとか、
と言う、無意味な、
水掛論と同じことと言える。

2つの見解とは、2つの視点であり、
3つの見解とは、3つの異なる視点である。

上から、見ると同じ形でも
横からみたら、違うかもしれない。

同じ山でも、違う人が登ったら、
違うルートだったかも
知れない。
そうしたら、その山についての説明は、異なるだろう。

その人の、縁起にしたがって
山を選び、山を上る。

人は、その人の仏縁にしたがって、
それぞれの、仏法の道を歩む。