内なるキリスト意識は、キリストや聖母マリアの
ハートチャクラとしての描かれています。

インドのカルカッタでのインド舞踊カタックの修行時代に、
ラーマクリシュナのカーリー寺院で良く見かけた、
イエス・キリストと聖母マリアの画像です。
ヒンドゥー寺院内にこれらの異なる宗教の画像が
あることがインド的には普通です。
ヒンドゥー教聖者のラーマクリシュナ的にも、
インド哲学的にも、正しいのです。

モチロン、正統派には、否定されるでしょうが、
グノーシス的には、正しいのです。


下の絵画は、『盲人の手を引く盲人の喩え』



マタイ福音書15章
14 彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。

それは、

実際は、目覚めていないのに、
目覚めていない人を落とし穴に導く者。
偽予言者、
現代風に言えば、暗黒に繋がる危険なチャネラー。

世俗的な、価値観、処世術を説く、
ビジネススピリチュアル、占い師などですね。

やはり、
人を導く者は、霊的に目覚めている者で
あるべきであり、最低でも、
世俗的な価値観ではなく、霊的価値観において
教えを説くべきです。
また、常に、本当の目覚めに向かって、
努力を怠らないことが重要です。


愛のチャクラ、ハートチャクラには、キリスト意識が宿ります。
無償の愛の実践によって開花します🎵



『目覚める』とは、
内なるキリスト意識と心を一つにすることです。



内なるキリストの言葉は、
『福音書』内の、改竄されていない
真実のキリストの言葉とLINKします。

『福音書』は、キリストの波動です。

イエス・キリストと大天使、天使軍と繋がっているかた、
は、是非、『福音書』を毎日読みましょう!!

伝統的、正統派キリスト教では、
天使は祈りの対象ではありません。

主なる神、イエス・キリスト、聖霊
差し置いて、
何故、その召し使いに、祈るのでしょうか!?

これを本末転倒といいます。

★世俗的な、価値観は結果的に人を幸福には導きません。
これは、仏教でも、キリスト教でも共通の認識です。

マタイ福音書6章
19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。
22 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
23 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。

24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

マタイ福音書4章
8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」


★キリスト教では、
『この世のすべての国々とその栄華』の支配者を
『サタン』と考えます。
この『サタン』とは、
世俗的な価値観のことです。

はじめは快楽を得られるが、
後に、それが原因で苦しみに巻き込まれる。

という結果をもたらすものすべては、
現世的価値観
つまり、『この世の君=サタン』と言えます。





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今日は、新約聖書を引用しましたが、
グノーシス的な観点から見れば、大乗仏教もキリスト教も
旧シャンバラ、ハイアラーキー起源であり、
内なるキリスト意識とは、
仏教における仏性となります。


本日は、袋井市の油山寺にお参りしてきました。
目を守護神さまでもある、薬師如来が、お祭りされています。
山頂には、三重の仏塔があります。