『我思う、故に我あり』は、もう古い3~4次元の意識。

実際は、

我思う、故に 我を見失う。

では、5次元の意識とは?


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心を『私』考える人がいる。
自我(=私と言う意識)は、存在しない と考える人。

Q: では、『自己』と言う意識をもたずに、
神の意識に合一する=最高のサマディーに入るとは、
どういうことか?

A: それは、ただの熟睡状態である。

『我れ思う、故にわれあり。』ではなく、

ヨーガでは、
思い消滅すると『自己』が出現するという。

★『念、滅すれば、真我あり。』

想念滅するところに、真我が出現する。


統覚は、超越的統覚であろうと、
  認識対象である限り、
それは、『心』であって、『自己』ではない。

統覚=ブッディは、プルシャがプラクリティ干渉した結果
うまれる、認識対象である。

認識する主体が、『真の我=自己=神我』であり、

それが、プルシャ=モナド=アートマンである。
プルシャを神智学的に言えば、モナドとなる。

プルシャは、人の数だけ存在するのだから、
個別化されているのである。

★つまり、プルシャは、元々、個別化されているのである。


我執=アハンカーラは、『私のもの』意識をつくりだす。

アハンカーラ=我執は、プラクリティーに属するので、
『私のもの』という我執と、

プルシャの元々個別化された意識性
とは、ことなる。

『私のもの意識』とは、心であり、概念であり、想念である。
内部情報空間の情報のひとつである。

プルシャの元々個別化された意識性とは、

全く違うものであることを明確にするべきである。


プルシャは、その進化状況に応じた霊的な世界の階層に住む。

その為、人によって悟りの境地が、異なる。


自己=プルシャが、自分の心を照らした時、
認識対象として、生じるのが、
『私』という認識であり、
それは、自己=プルシャに属していない。

『私』が、認識対象である以上、
それは、真の自己=プルシャではない。

認識は、対象があって成立する。
認識主体は、永遠に自己を認識できない。

認識によっては、永遠に自己を認識できない。



認識主体は、認識対象をなくしたとき
心の鏡に映った自身の顔を見る。

心という鏡になしに、自分の顔を見ることはできない。


しかし、


それは、未だ認識対象である。



★意識性は、認識対象なく存在するため。

 『プルシャ』の属性。


★『私』は、認識であるから、『心』に属する。



☆この2つは、明確に区別するべきである。



◎意識性を維持したまま、

 無意識に入っていくことができれば

 それが、『サマディー』である。


▼意識を失って、無意識に入っているのが、

 夢のない眠り『熟睡』である。



プルシャとプラクリティーは、表裏一対である。

真我は、プルシャのみで存在せず、プラクリティーと
対をなす。

★瞑想時の境地が、超越的統覚=ブディにいたっても、
 それは、
 自性=プラクリティーの悟りであり、解脱できない。

アートマンに属する意識に到達すると解脱する。

『自己』とは、『真我=モナド』からの光である。

『真我=アートマン』が、神としての『自己』である。

ブラフマン=?=主なる神が、父なら、

『真我=アートマン』は、子なる神である。

それが、『自己』という『意識性』である。

『自己=神=真我=アートマン=モナド』には、
3つの属性がある。

サット=存在
チット=意識
アーナンダ=至福

つまり、『自己』という意識性は、
アートマンに属する。

『自己』の意識を維持して
『アートマン=神』に合一しなければ、悟りは開けない。

『自己』と言う意識を維持せずに、
『アートマン=神』に合一することを
夢のない眠り『熟睡』という。



Q:なぜ、アートマンと、ブラフマンという2つの言葉があるのか? 両方とも神なら、『神』一言でよかろう。

A:それには違いがあるから、言葉がちがう。

それから、

もうひとつ、ヨーガの先生でも、時々、

『意識を落とす』

と言う人がいるが、
『意識』は、プルシャの属性であるから、
この言葉の使い方は、間違い。

『想念を落とす』

と言えば、ヨーガ的に正しい。


意識


身体

を峻別して捉えるのが、
ヨーガ的である。