「余は常に諸氏の先頭にあり」
この言葉、立派ではあるけど、言うは易く行うは難し。
まして、それが生死に関わる戦場であれば、
指揮官は一歩下がった安全な場所にいるなんてことは珍しくない。
しかし、それを実践し、部下から絶大な信頼を得て、
日本の運命を変えた戦いを演じた男がいた。
陸軍大将、栗林忠道。
大東亜戦争末期、米軍が5日で落とせると思っていた硫黄島の戦いを指揮し、
一ヶ月以上も戦い抜き、米軍が「もう二度と日本と戦争はしたくない」と
思うほどの損害を与え、その後の日本の運命を変えた、偉大なる軍人。
学校の歴史で学ぶことはなく(僕は学んだ覚えはない)、
その名前すら大人になってから知ったが、
数年前にクリント・イーストウッドが「硫黄島の手紙」という映画を作ったことで、
一般にも多少はその名が広がったのではないかと思う。
今回は、その栗林忠道大将(硫黄島の戦いのころは中将)はどんな人物だったか、
硫黄島の戦いが、その後の日本にどう影響したか、この本から見ていく。
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栗林は、明治24年(1891年)に、長野県松代町で生まれた。
1歳のとき、近くに住む倉田七左ヱ門の養子となって、倉田性を名乗った。
18歳で栗林家に戻り、陸軍士官学校と東亜同文書院を受験して、ともに合格。
中学の教頭の勧めもあって、陸軍士官学校に入学した。
卒業後、陸軍大学校への進み、陸軍機関誌「偕行社記事」に寄せた論文に、
将校が「軍事以外の知識が著しく低級」であることを問題とし、
下士官以下に対しても礼儀を失わず、身分人格を尊重して敬意を払うことを提言。
硫黄島の戦いで生き残った兵士たちが、中将が驚くほど対等に接してくれたと
口をそろえて語っていることから、言葉だけでなく、極限状態の戦場でも
それを実践し、貫き通したことがわかる。
陸軍大学校を2番の成績で卒業し、以後5年間、アメリカに留学、ヨーロッパ視察、
カナダ公使館勤務などの海外生活を送り、その間にアメリカ中を見て回り、
その工業力と豊かさを実感し、アメリカ人気質まで知り尽くして帰国した。
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硫黄島は、小笠原諸島の父島から270キロほど南西にある。
東京都小笠原村硫黄島。
面積は、約22平方キロ、周囲約22キロ。
その小さな島で、かつて日米合わせて5万人の戦死傷者を出した戦いがあった。
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真珠湾攻撃で始まった日米開戦。
奇襲と言われているが、本来は宣戦布告のあとに攻撃が行われるはずだった。
それが奇襲になったのは、ワシントンの日本大使館の人間が、
同僚の送別会を行うために、夜になったら一人の当直も置かずに帰ってしまった。
前日に、外務省から「これから重大な外交文書を送るから準備をしておくように」と言われていた上、すでにいつ戦争になってもおかしくないような情勢だったにもかかわらず、である。
翌日出勤して、電報の束を解読すると、それは断交の通告だった。
そしてその文書を、現地時間の午後1時にアメリカに渡せとある。
緊張のあまりタイプの打ち間違えが多く、いっこうに捗らず、断交通告を届けたのは
真珠湾攻撃から55分も経ってからだった。
つまり、真珠湾攻撃が奇襲になったのは、大使館員の怠慢のせいである。
アメリカをそれを戦争の大義名分に利用し、戦争を開始した。
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快進撃を続けた日本だったが、ミッドウェー海戦で形成は逆転する。
その背景には、ドーリットル空襲があった。
昭和17年(1942)4月18日、米航空母艦ホーネットから発信したドーリットル中佐率いるB25十六機が、東京・名古屋・神戸などを爆撃した。
被害は微少といえるものだったが、これが司令長官だった山本五十六の心理に
絶大な影響を与えた。
当時、日本は連戦連勝だったし、海軍は本土(本州、内地)の防空に絶対的な
自信をもっていると宣伝していた。
にもかかわらず、空襲されてしまった。
山本五十六は大狼狽し、アメリカ航空母艦が二度と日本を襲えないように、
北のアリューシャン列島と南のミッドウェー島を取ってしまおうと考えた。
しかし、その当時、ミッドウェーやアリューシャンから日本まで飛んで来られる
航空距離(一回の積載燃料で航空を続行できる距離)のある飛行機はなかった。
そんな島をとったところで仕方ない。
しかも、陽動作戦の名の下、ミッドウェーと同時にアリューシャンにも部隊を
向かわせた。ダッチハーバーを空襲し、アッツ島、キスカ島を占領したが、
ダッチハーバーにはアメリカの援助部隊は一隻もこなかった。
そして、戦略的に無意味な島だったにもかかわらず、グズグズして撤退が遅れ、
その間に米軍が一個師団を上陸させ、日本軍は玉砕。
わずかに残った部隊が辛うじて撤退した。
ミッドウェー海戦は、ドーントレス急降下爆撃機(機首を下に向けて急角度で
高空から降下して爆弾を落とす飛行機)による4000発の弾丸に、
日本の航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」はあっという間に撃沈された。
俗にいう「運命の5分間」である。
米空母の気配なしと判断した南雲忠一司令長官は、ミッドウェーの陸上基地攻撃を行うべく、攻撃機の艦船攻撃用魚雷を陸上攻撃用の爆弾に換装するよう命じた。
それが終わる直前、敵空母艦隊発見の報が入る。
南雲司令長官は陸上用爆弾から魚雷への再換装を命じたが、その間に攻撃を受け、
攻撃機は次々に誘爆し、どうにもならなくなってしまった。
あと5分早く敵を発見できていれば、ということだが、
実はこのとき、空母飛竜にいた山口多聞少将は、再換装せずに攻撃機を発進させるように進言したが、南雲長官に却下された。その結果、その間にいいように攻撃されてしまった。
山本五十六は、戦艦大和のすごさに完全に魅了されてしまい、
沈んだらもったいないというしょうもない考えで、航空母艦の後ろにいた。
もしこのとき、大和ほか日本の戦艦が前線に出て戦っていたら、結果は違っていた。
山本五十六が愚将と言われる最大の理由は、ここにある。
真珠湾攻撃のとき、第二波、第三波攻撃をしなかったこともよろしくないが、
戦艦大和の虜になって、どこかおかしなことになってしまったことが一番の問題だった。
これ以降、日本は劣勢が続き、徐々に追い詰められていく。
マリアナ沖海戦では、マリアナの七面鳥落としと形容されるほど、
日本の戦闘機は次々に落とされ、敗戦濃厚になっていった。
そして、ついに新型爆撃機B29が登場する。
サイパンとグアムに、B29の滑走路が建設され、
B29は、そこから飛び立って東京を空襲できる性能を持っていた。
しかし、日本にわずかに残っていた熟練パイロットたちの必死の戦いにより、
なんとB29を1000機も撃ち落とした。
B29は、1機製造するのに、当時の金で60万ドル以上かかる。
1000機も落とされたアメリカは、大恐慌に陥った。
サイパンから日本本土を空襲するには、長距離飛行を余儀なくされるから、
その間に故障したり被弾したら、帰還途中で不時着することになる。
考えた結果、サイパン島から約1380きろ、東京まで約1250キロ、沖縄まで西に約1380キロの海上にある、硫黄島にB29の中間基地を建設するという結論に至ったのである。
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もし硫黄島を取られたら、B29に致命傷を与えても不時着されてしまう。
そこから本土に空襲されたら、もはや防ぐ術はない。
硫黄島は、なんとしても死守しなければならなかった。
そして、小笠原各地から寄せ集められた様々な部隊が混在し、
組織と指揮系統が複雑になっていた硫黄島の部隊をまとめるべく、
昭和19年6月、父島に到着。
師団司令部は父島に置かれることになっていたが、
栗林中将は実際に戦場になる硫黄島で自ら指揮をとるために、司令部を硫黄島に移した。
中将という肩書きをもつ指揮官が、自ら前線に赴き、
「余は常に諸氏の先頭にあり」といって、部下と困苦を共にしながら指揮をすることは、異例である。
それだけではない。
当時の日本軍は、将校と兵隊は食べ物から違っていた。
師団長と一兵卒が同じ物を食べるなどありえなかった。
しかし、栗林中将はそれをまったく平等にした。
さらに、兵隊一人ひとりに親しく声をかけて接した。
そのため、全兵が栗林中将の顔を知っていた。
アメリカ軍が捕虜に「栗林はどんな顔をしているのか」と聞くと、全員が答えられた。
これには米兵も驚いたようである。
師団長の顔を、下っ端の兵隊が全員知っているなど、通常ありえないからである。
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全体が平坦で、南端に摺鉢山(すりばちやま)が盛り上がっているだけの単調な地形である、硫黄島。
摺鉢山に登れば全島が見渡せる上、谷もなければ逃げ場もない。
その島で、一日でも多く生き延びて、相手を倒すには、穴を掘って地下に潜るしかないと、栗林中将は考えた。
海軍は、水際で敵の上陸を迎え撃つ水際作戦を主張し、栗林中将の作戦に猛反対したが、圧倒的に優勢なアメリカと戦うには、それしかないと、栗林中将はその作戦を断行した。
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硫黄島は火山島である。地下の温度は摂氏50度以上にも達する。
さらに、硫黄ガスが噴き出す。
また、地盤は砂岩のように柔らかく、10メートルほど掘り下げて、
粘土が固まったような岩盤をさがし、そこに突き当たるとツルハシで掘った。
地下10~15mの深さに、陣地とそれをつなぐ連絡壕を掘る。
大変な作業量である。
だが何よりも苦しいのは、水がないことである。
川もなく、井戸を掘っても硫黄臭く、塩辛い水しかでない。
支給される水は、一人あたり1日半リットル。
雨も滅多に降らない。
栗林中将は、その過酷な環境での工事を、地下足袋に杖をついて視察し、杖であちこちを計測したり、細かな指示を与えたりした。
それだけでなく、兵隊一人ひとりに親しく声をかけて労い、ときには恩賜の煙草を与えたりもした。
そして、一日にアルミコップ一杯の水で洗面と手洗いをし、飲み水も食べ物も一兵卒と同じだった。
採れたての野菜と真水が大本営から届けられたときは、部下たちを呼んで、みんなで分け合った。
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栗林中将は、本土防衛のために一日でも多く戦うために、
「敢闘ノ誓」を作成し、全軍に配布。
その中に、有名な「一人十殺」がある。
当時の日本軍がよく行った、刀を抜いて突撃するバンザイ突撃をやめさせるためのもので、そんなことをせず、地下陣地に隠れて、一人でも多くの敵を倒せということである。
言ってることは正しいが、水も食糧もなく、死んだほうがマシだと思うほどの悪環境の中で、これを守らせることは、容易なことではない。
しかし、兵隊たちはこの心得を手帳に書き、常に朗誦して肝に命じた。
困苦をともにし、常に先頭に立って導いた栗林中将の人徳あってこそ、できたことだと思う。
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昭和20年2月19日。
ついにアメリカ軍が硫黄島に上陸。
しかし、上陸した海兵隊がどこを見渡しても、日本軍の姿が見えない。
前日まで3日に渡って行った艦砲射撃で、全滅してしまったのかと思うほどだった。
しかし30分後、どこからともなく砲弾や銃弾がものすごい勢いで降り注いだ。
どこから撃ってくるのか分からない。砂が柔らかく、塹壕も掘れない。
上陸部隊は大混乱に陥った。
上陸当日、米軍の戦死者548名、負傷者1755名、行方不明18名を出し、
戦車15両を破壊される大損害を被った上、海岸から1000mぐらいしか進めずに夜を迎えた。
バンザイ突撃による夜襲に備えたが、砲弾が飛んでくるだけでそれもなく、
今までと違う日本軍の戦い方に、米軍は戸惑った。
地下から攻める日本軍の反撃は凄まじく、5日で落ちると思っていた硫黄島が、
いつ占領できるか全く分からなくなってしまった。
上陸開始から3日目時点で、ノルマンディー上陸作戦での死傷者数を上回り、
アメリカの世論は沸騰し、轟々たる非難が巻き起こった。
5日目にして摺鉢山を占領し、あの有名な、米兵5人が旗を立てようとしている写真が撮られた。
その後、日本軍は、栗林中将の一人十殺を守り、ムダな突撃もせず、闘い抜いた。
米軍が5日で落とせると言った硫黄島の戦いは、36日間続き、死傷者は、
<日本軍>
戦死者19900人、戦傷者1033人で計20933人。
<アメリカ軍>
戦死者6821人、戦傷者21865人で計28686人。
戦傷者の数では、アメリカ軍は日本軍よりも多かった。
圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、この数字は奇跡である。
勝ったはずのアメリカが、「勝者なき死闘」と呼ぶ理由も、このことが大きい。
後に、アメリカのニミッツ米太平洋軍事最高司令官は、自軍の兵士を讃えて、
「硫黄島で戦った者の間では、類稀なる勇気こそが一般的な美徳であった」と語った。
勇猛で知られる海兵隊が、更に考えられないほど勇気を振り絞らなければ、
硫黄島の日本兵と戦えなかったのである。
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この硫黄島の戦いが、その後の日本の運命を変えた。
あんな小さな島ででの戦いで、3万人近い戦死傷者を出したアメリカは、
沖縄戦でも、アメリカは凄まじい反撃にあった。
そして、もし本土に侵攻したら、少なくとも260万人は殺されるだろう。
アメリカは、そう計算した。
その後、アメリカは原爆を落とし、日本はポツダム宣言を受諾して戦争は終わった。
原爆を落とされたことは、確かに悲惨な結果をもたらしたが、
客観的に見ると、原爆が落ちたことで、日本はまだまだ戦えたが、
止む無く降伏したという印象を残した。結果、日本は強いという印象を、
米軍とアメリカ社会に残すことになった。
そしてそれは、アメリカだけじゃなく他国にも影響した。
アメリカの原爆によって、日本は降伏したわけで、
負けたのはアメリカ一国にのみ。
不可侵条約を一方的に破って侵攻してきたソ連は、アメリカの手伝いも
ほどんどしなかったから、発言力がない。
だから、「北海道を占領させてくれないか」と言った時、マッカーサーにあっさり断られた。
実際、日本はアメリカ以外の国に負けたことはないのである。
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原爆まで落とされ、ミッドウェー以降はボロボロになった日本だったが、勝つチャンスはあった。
さらに言えば、戦争を回避することもできた可能性もある。
戦争は、始めたら絶対に勝たなければいけないが、
しないで済むならそれが一番いい。
当時、大和や武蔵のような凄まじい戦艦を造れたのは、日本だけだった。
陸奥や長門ですら、アメリカの戦艦よりはるかに強かった。
もし、この戦艦たちの強さを大々的に発表していたら、戦争しても敵わないと思って、外交が有利に進み、戦争せずに済んだかもしれない。
核兵器と同じようなものである。
戦争したら、被害が大きすぎて国益を損なうと思えば、戦争をしようとは思わない。
相手に、戦ったらヤバイと思わせることができればいいのである。
だから、兵器は使うだけが能じゃない。ある、持っているということ自体が抑止力になり、外交を有利に進めることにつながるのである。
次に問題だったのが、軍隊の年功序列。
戦争のような極限状態でさえ、年功序列を通したのは、いただけない。
有能な人間がいれば、適材適所でどんどん入れ替えていけばいいものを、
先輩だからという理由でそれをせず、結果的に戦闘に負け、
それが集まって戦争に負けることにつながった。
その点、アメリカはそのあたりのフットワークが軽い。
適材適所にすばやく人材を配置し、結果を出す。
当時の日本軍もそれができていれば、と悔やまれる。
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戦争に負け、骨抜きにされた日本人は、軍人(今の日本で言えば自衛隊)に対する敬意がほとんどない。
日本では一部の人にしか知られていないが、大空のサムライこと坂井三郎飛行士。
彼は大東亜戦争時、敵機64機を撃墜し、列機も一人も死なせなかったという日本の撃墜王である。
アメリカでは、宇宙船アポロのアームストロング船長らとともに、「空の英雄二十傑」の一人にも選ばれ、今も敬意を表されている。そして栗林中将も、アメリカが選んだ世界の猛将十傑の一人に選ばれている。
アメリカは歴史が浅く、中世が抜けているから、おかしなこともするが、
たとえ敵でも素晴らしい人物であれば正当に評価し、敬意を表し、追悼行事もやる。
2000年に坂井三郎氏が亡くなられたとき、アメリカのテキサスで弔意を表す儀式が行われた。
参列した坂井夫人は、感動的な光景に涙が止まらなかったという。
日本では、栗林中将や坂井三郎氏のような名誉ある兵士のために、何の追悼行事もしない。
軍人は、名誉があるからこそ、命を賭けて国を守れる。
金がいくらあっても、死んでしまったら意味がない。
生きてこその金。金のために命は投げ出さない。
だから、君主論の中でマキャベリが言っているように、
いざというとき傭兵ほど頼りにならないものはいないのである。
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<まとめ>
栗林中将は、「余は常に諸氏の先頭にあり」の言葉どおり、
自ら先頭に立って戦い、困苦を共にし、部下からの信頼を得る一方で、
戦いについても、従来の常識に捕われず、柔軟な思考で作戦を考え、実行した。
もし、硫黄島で従来どおりの水際作戦を実行していたら、
日本軍はあっさり負けていただろうし、バンザイ突撃を容認していたら、
米軍の予想通り、5日ぐらいで終わっていたかもしれない。
それをせずに、かつ部下たちにそれを守らせることができたのは、
柔軟な思考と人間力によるもの。
リーダーというものは、こういう人物のことをいうのだと、つくづく思う。
現在の日本は、以前より良くなったとはいえ、まだまだおかしな歴史認識に染まっている。
それは学校で教える歴史教科書がおかしなことになってる影響が大きい。
硫黄島どころか、日本は悪い国だったという罪悪感を植え付けるような歴史しか学べない。
それは子供にとって、そして、まともな歴史認識をもった教師にとっては、悲惨な現実だと思う。
歴史は、民族の背骨であり、アイデンティティ。
歴史を学び、日本という国のすごさを知れば、外国人を相手にしても、
自然と堂々とした態度でいられるようになる。
歴史を学ぶことは、祖先への感謝の気持ちも、自然な形で芽生えされることになる。
今の日本の反映は当たり前ではなく、命がけで国を守るために戦った人たちのおかげ。
バカな周辺国の戯言に振り回されるのは終わりにして、歴史を取り戻そう。
日本はすばらしい。
Good Luck
54年ぶりに、公園のベンチでたまたま再会した、
幼馴染のマックスとジム。
仕事も財産もなくし、途方にくれるジムに、
マックスは祖父から聞いた物語を語る。
それは、幸運にまつわる話だった。
2004年に発売された本で、2時間もあれば読めてしまうぐらい読みやすく、
ページ数もそんなにない。
でもその内容は、ものすごく大切なことが書かれている。
簡単に言えば、どうやって幸運を引き寄せるかという話だが、
シンプル過ぎて、実際にはほとんどの人がやろうとはしない。
幸運に好かれる人はいつも好かれ、
好かれない人はずっと好かれない。
その違いはなにか?ということについて、
物語を通して分かりやすく教えてくれる。
よく、運が悪いと口にする人は、原因を外に見出す。
しかし、運がいい人は、原因を内側に見出す。
結果、運が悪い人は、自分の行動を変えようとしない。
外に要因があるから、自分ではどうしよようもないと思っている。
運がいい人は、自分の行動や思考を変える。
そうすることで、環境も変わると考えるためだ。
実際、自分が変わらない限り、自分に起こる出来事は変わらない。
姿が違うだけで、本質的には同じようなことに悩み、苦しむことを繰り返す。
運がいい人は、運が良くなる、幸運に好かれる状態を、自分で作っている。
結局は、自分のあり方がすべてを決める。
育った環境や親の影響は、確かに大きい。
でも、それがどうであれ、自分の人生は自分で選ぶことができる。
幸運を作るのに、特別な才能はいらない。
お金もかからず、誰でもできるし、すぐに始められる。
そのことを、この本は教えてくれる。
環境や時代のせいにしてる暇があったら、一歩でも前に進む。
「幸運が育つ土壌=自分の中の前提を変えること」が、人生を変えるカギなのである。
Good Luck
http://www.amazon.co.jp/Good-Luck-%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%A9/dp/4591081451/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1362129346&sr=8-1
54年ぶりに、公園のベンチでたまたま再会した、
幼馴染のマックスとジム。
仕事も財産もなくし、途方にくれるジムに、
マックスは祖父から聞いた物語を語る。
それは、幸運にまつわる話だった。
2004年に発売された本で、2時間もあれば読めてしまうぐらい読みやすく、
ページ数もそんなにない。
でもその内容は、ものすごく大切なことが書かれている。
簡単に言えば、どうやって幸運を引き寄せるかという話だが、
シンプル過ぎて、実際にはほとんどの人がやろうとはしない。
幸運に好かれる人はいつも好かれ、
好かれない人はずっと好かれない。
その違いはなにか?ということについて、
物語を通して分かりやすく教えてくれる。
よく、運が悪いと口にする人は、原因を外に見出す。
しかし、運がいい人は、原因を内側に見出す。
結果、運が悪い人は、自分の行動を変えようとしない。
外に要因があるから、自分ではどうしよようもないと思っている。
運がいい人は、自分の行動や思考を変える。
そうすることで、環境も変わると考えるためだ。
実際、自分が変わらない限り、自分に起こる出来事は変わらない。
姿が違うだけで、本質的には同じようなことに悩み、苦しむことを繰り返す。
運がいい人は、運が良くなる、幸運に好かれる状態を、自分で作っている。
結局は、自分のあり方がすべてを決める。
育った環境や親の影響は、確かに大きい。
でも、それがどうであれ、自分の人生は自分で選ぶことができる。
幸運を作るのに、特別な才能はいらない。
お金もかからず、誰でもできるし、すぐに始められる。
そのことを、この本は教えてくれる。
環境や時代のせいにしてる暇があったら、一歩でも前に進む。
「幸運が育つ土壌=自分の中の前提を変えること」が、人生を変えるカギなのである。
Good Luck
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高橋是清伝
口述:高橋是清/筆録:上塚 司/現代語訳/矢島裕紀彦/解説:吉野俊彦
を読んでみた。
高橋是清(たかはしこれきよ)
日露戦争時、ユダヤ人の富豪、のジェイコブ・シフと親交を深め、
見事戦費を調達したことで有名。
日銀総裁、内閣総理大臣も務めた。
この本は、高橋是清本人が残していた日記やメモをもとに口述し、
それを文字に起こした『高橋是清自傅』を現代語訳にしたもの。
ちなみに、高橋是清自傅が発刊されたのは、昭和11年2月9日。
2・26事件で暗殺される17日前だった。
是清は、安政元年(1854年)、江戸幕府お抱えの絵師、河村庄右衛門守房と、その侍女、北原きんとの間に生まれ、すぐに仙台藩の足軽、高橋家に里子に出された。
3歳のころ、子供の遊び場になっていた仙台中屋敷の北東にあった稲荷の祠に、
藩主の奥方が参詣するという知らせがあった。
皆その祠の周囲から離れたが、是清は一人、神殿の後ろに取り残されたしまった。
奥方が拝殿に上がって礼拝するところへ、神殿の後ろから出てきた是清が、
奥方の着物を掴み、「おばさん、いいべべ(着物)だ」と一言。
「どこの子だか、かわいい子だね」
と言った奥方の膝の上に這い上がってしまった。
その日の夜、高橋家に使いの者がきて、
「奥方様が、明日あの子を連れてくるように、と仰せである」
と伝えに来た。
父親はお叱りを受けると思い、翌日行ってみると、
奥方は大喜びし、いろいろな品物を頂戴して帰ってきた。
周りはこれをみて、「高橋は幸福者よ」と大層羨ましがられた。
幸福者だという評判は、是清の耳にも残り、自然と自分は幸福者だと思うようになった。
さらに5歳のとき、道を走っていて転んだとき、騎馬武者が馬を飛ばしてきて、
是清は馬蹄に踏まれた。周りにいた人間が驚いて駆け寄ると、羽織の紋の上に
馬の蹄のあとがあるだけで、本人は無傷だった。
このときも周囲は「高橋の子は運のいい子だ、幸福な子だよ」と言った。
それも、是清の耳に入った。
そういう環境にあったから、自分は運がいい、幸福者だと深く思い込み、
どんな窮地になっても前向きに乗り越えられたと語っている。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
是清が住んでいた仙台屋敷に、留守居役として大童信太夫(おおわら しんだゆう)という人物が赴任してきた。
時流にも明るかった大童は、
「藩内から、英仏の学問をする若者を横浜に出さなければならない。
さもないと、時流に取り残されてしまう」と考え、顔なじみになった是清と鈴木六之助(のちの日本銀行出納局長、鈴木和雄)の2人を横浜へ出した。
これがきっかけになり、是清は英語を扱うようになった。
その後、アメリカへ勉強しにいく機会を得た是清は、他の何人かとアメリカへ。
そこで、ヴァン・リードという人の家にやっかいになることになる。
最初こそ歓迎してくれたものの、徐々に小間使いのような扱いになり、勉強をする時間もない。
憤慨した是清は、「これでは約束が違う。おれはもう働かないぞ」といっていうことを聞かなかった。
そうしていると、ヴァン・リードのほうから「オークランドにいる若夫婦はとても親切で、主人はサンフランシスコの銀行員で昼間はいない。昼は奥さんが暇だから、勉強を教えてくれるそうだが、いくか?」と言われ、「そういうことなら行ってもいい」と応じた。
まもなく、ヴァン・リードに役所に呼ばれ、そこで書類にサインをした。
内容がよく分からなかったのもあるが、ろくに確認せず、サインしてしまった。
しかしそれは、是清を3年間の契約で買ったというものだった。
つまり、知らない間に奴隷契約がなされ、是清はそれに気づかずにサインしていたのである。
その後、仙台藩の富田鉄之助に相談し、奴隷の身から解放され、日本に戻った。
このとき、15歳であった。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
日本に戻ってきた是清は、大学南校の英語の教師として働き出すが、
芸者遊びを覚えて放蕩がつのり、学校も欠勤しがちになる。
さらには、芸者の長襦袢をきて桟敷の上で痛飲しているところを他の教師に見られてしまう。
もう学校へはいられないと判断した是清は、すぐに辞表を提出。
馴染みの芸者である東家桝吉(本名はお君)が自分の家に引き取ってくれたが、
家の者には厄介者扱いされ、箱屋(芸者にお供して三味線などを運ぶ男)もやった。
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このままではいかんと思っていた矢先、小花万司(おはな まんじ)という維新前に横浜で知り合った人物と再会し、肥前の唐津藩で英語学校をつくって、そこが教師を探しているから、やってみないかと言われ、そこで英語教師となる。
その後、大蔵省で翻訳の仕事をしたり、文部省入ったり、学校の校長、さらには相場に手を出したこともあった。
その後、新しくできた農商務省の所轄事務の中に、発明専売、商標登録保護の規定の仕事に抜擢され、初代特許局長(現代の特許庁長官)となり、明治22年(1889年)には、農林学校長を兼務したが、そのすぐあと、ペルー銀山で失敗し(ペルー銀山事件)、無一文に近い状態になり、田舎に引きこもろうと決心する。
ペルー銀山事件・・・
田嶋晴雄理学博士の報告を元に、南米の高峰アンデス山で一大銀山を経営しようという話が持ち上がり、日本代表として是清はペルーへ。スペイン人のヘーレンと共同経営のような形で交渉を重ね、協議はまとまり、正式な調印を交わすのを待つばかりとなった。
しかしその直後、その銀山はすでに掘り尽くされたものであることが判明。
最初に派遣された田嶋晴雄の調査不足・・・ペルーの鉱山学校にあった雑誌を英語で読み聞かされたものを、そのまま翻訳して報告書として送り、自分で現地調査はしていなかった・・・であった。
交渉は決裂し、是清の提案でなんとかことを収めたものの、このために立ち上げた会社の株主にもなっていた是清は、自分の持ち株の未払い分を家の売却と手元のお金を足して後始末をしなければならず、ほとんど無一文状態になった。
世間ではヤマ師などと言われ、誹謗中傷の的になった是清だったが、事情を知っていた西郷従道、品川弥二郎、松方正義、前田正名などが気の毒がり、時の日本銀行総裁、川田小一郎に話をしてくれたことで、川田と話す機会を得る。
川田と会った是清は、川田に促され、ペルーでのことの顛末を事細かに話した。
それを聞いた川田は、「君がすっかり後始末をして悶着の種を残さないようにしたのは、立派だった。
私が君の立場であったとしても、そこまでが精一杯だっただろう。実によくやったもんだよ」と褒めた。
ここで、川田から実業界へ入ってみないかと誘われ、是清は、実業界はまったく初めてのことなので、丁稚小僧から仕上げていただけるのであれば、という条件のもと、話を受けた。
明治25年(1892年)4月のことだった。
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その後2回ほど川田と話すうちに、
「山陽鉄道の社長の椅子が空いたから、そこに入る気はないか?」
という話がでてきた。
しかし是清は、
「私は実業界に転じるにあたっては、丁稚小僧から叩き上げねばならないと考えております。
私は鉄道にもなんの経験も知識もありません。ですから、社長として過ちなくやっていけるという信念が持てません。もし万が一その職を辱めるようなことがあっては、推薦者たる川田さんにご迷惑をかけるばかりでなく、私自身も信念なくその地位に座ることは良心が許しません。
どうせご推薦くださるなら、やはり丁稚小僧からお願いします」
と言って即座に断る。
これを聞いた川田が、半分関心したような、半分あきれたような顔をして、
「ではたとえば、君、私が玄関番になれと言ったら、それでも引き受けるかね?」
と言えば、
「喜んで、やらせていただきます」
と是清。
その後、5月半ばごろになって、川田から「目下、銀行の新築をやっているところだが、そこに建築所というのがある。
総監督は安田善次郎さんだが、その下の辰野金吾くんが技術部の監督をしている。
その下に事務部というのがあるが、その支配人をやってみる気はないかね?
聞くところによると、辰野はかつて君が唐津で教えた生徒だというが、その下で働くことになる。それでも差支えなければの話だがな」
という話がきた。
是清は、「そんなことは少しもかまいません。喜んで働きます」
と答え、6月1日から日本銀行で働くことになり、
明治26年(1893年)9月1日、40歳のとき、日本銀行支配役に取り立てられ、
同時に西部支店長になった。
その後、42歳で横浜正金銀行本店支配人となり、腕をふるった。
明治32年(1899年)の1月末、是清が46歳のころ、日本銀行の河上、鶴原らの一派と、総裁である山本の不仲から亀裂が生じ、それを正すために山本を辞任させようという流れになっていた。是清は松方大蔵大臣のもとを訪問して、
「日本銀行はわが国の中央銀行であり、イギリスで言えば英蘭銀行に等しいものです。
その日本銀行で、理事や従業員が政府任命の総裁に反対して、いわば業務を放棄したのです。
その結果、政府が総裁を取り替えるようなことがあったら、海外の人たちはこれを見て日本の中央銀行をどう思うでしょう。
もし時の総裁に捨ておきがたい過失があれば、従業員の業務放棄とは関わりなく政府は総裁を罷免すべきです。なんら過失がないのにも関わらず、行員たちの感情から
総裁排斥ということになり、政府がそれらの意見を容れて総裁を辞めされるのでは、筋が通りません」
といって松方を説得し、井上馨や桂陸軍大臣、山県総理(山縣有朋)のところにも訪れた。
そのかいあって、山本はそのまま据え置かれることになったが、総裁と理事一人では日本銀行の重役会が成立せず、副総裁を置く必要が生じたから、君が副総裁になれと松方に言われ、辞退したものの、内閣で決定したと言われ、それを承認、日銀副総裁となった。
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明治36年(1903年)12月、いよいよ日露戦争が現実味を帯びてきた。
政府はロンドンで二隻の軍艦を買い入れることにしたが、正金ロンドン支店の手違いでその代金の支払いができなくなってしまったから、なんとかならないか?
という相談を受け、是清は公使の資格において約束手形を振り出して先鋒に渡すという方法を提案し、これを解決。
ちなみにこの二隻の軍艦とは、日進と春日である。
この二隻の購入に関しては、「明石元二郎大佐 落花流水を読み解く」でも触れられている。
この二隻は、明治36年12月に、イギリスのギブス社から
「イタリア・ジェノバで建造中のアルゼンチン巡洋艦二隻を153万ポンドで買わないか」と持ちかけられた。
海軍省は予算がないのを理由に断ったが、この二隻は当時の最先端の性能を誇り、
日本、ロシアの主力艦を凌駕していた。
この二隻を、ロシア側が購入を計画しているという情報が海軍省に伝わると、日本側は態度を一変。
小村外相は同23日、林駐英公使に「153万ポンドの言い値で購入せよ」訓電し、30日に林駐英公使がロンドンで、アルゼンチン側との契約書にスピードサインし、危うくロシアの手に渡るのを防いだ。
この契約書のサインの前日の29日に、是清は大蔵大臣に呼び出され、上記の相談を受けたのである。
後に、艦隊の作戦参謀だった秋山真之中佐は、
「日本が主力艦12隻をすべてを戦線に出せなかったら、勝敗はどうなっていたか分からない。
日進、春日、この2隻がいなかったらと思うと、私は今でも戦慄せざる得ない」と語っている。
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明治37年(1904年)2月8日、日露戦争勃発。
是清は、井上、松方両元老に、日銀副総裁の資格において、外債募集を任される。
是清はまず、横浜出航の便船で渡米。
ニューヨークへ直行し、3、4名の銀行家に面会して様子を伺った。
戦争そのものに関しては、一般に日本に対する同情が強かったが、
この時代のアメリカは、まだ自国産業発達のために外国資本を誘致しなければならない立場にあって、外国公債を発行するのは経験も乏しく、とても無理ということだった。そして3月初め、ロンドンへとむかった。
ロンドンに到着し、英貨公債一千万ポンドを募集したいと交渉をするが、誰もが日本に対する同情はあっても、公債の発行は容易ではないという反応だった。
そのつち、パンミュール・ゴールドン商会のレビタという人の紹介で、有名なロスチャイルド家を訪問し懇意となり、一番末の弟のアレフレッド・ロスチャイルドと
もっとも親しくなし、ロスチャイルド家と並び称される金融業者のサー・アーネスト・カッセルとも交際するようになったが、2人には公債の話はせず、ロンドンやパリの経済市況を聞くに留めた。
銀行家たちと交渉を重ねた結果、4月10日ごろになって、銀行業者たちは以下の条件を示してきた。
1、発行公債はポンド公債とする
2、関税収入をもって抵当とする
3、利子は年6パーセントとする
4、期限は5年
5、発行価額92ポンド
6、発行額の最高限度三百万ポンド
これを受け、是清は早速、本国政府と電報で連絡をとり、
発行額の最高限度を三百万ポンドから五百万ポンド(政府希望の一千万ポンドの半額)に、期限を5年から7年に、発行価額を92ポンドから93ポンドにするよう、それぞれ条件修正を強硬に主張し、銀行家たちを説得した。
こうして、仮契約を結ぶところまで漕ぎ着けたのが、4月23日か24日だった。
これで政府希望の一千万ポンドまで、あと半分。
それをどうしようかと思っているところへ、ちょっとした偶然から大きな幸運が舞い込んだ。
かつて日本にきていた是清の友人であるヒルという人が、仮契約を結ぶところまで運んだことを聞きつけ、夕食に招いてくれた。そのときヒルの家で、米国人のシフという人物を紹介された。
シフはニューヨークのクーンロエプ商会の首席代表者、そしてこの人物こそ、あのジェイコブ・シフである。
食卓で、シフは是清の隣に座り、さかんに日本の経済状態や開戦後の人心について細かく質問した。
是清は、その一つひとつにできるだけ丁寧に応対し、その上で、ようやく五百万ポンドの公債発行について銀行と内約できたこと、政府からは一千万ポンドの募集を申し付けられていることなども話した。
そして翌日。
パース銀行のシャンドという人が是清のもとにやってきて、
「パース銀行の取引先の銀行家で、ニューヨークのクーンロエプ商会のシフという人がいます。
その人が、日本公債の残額五百万ポンドを自分で引き受けて、米国で発行したいとの希望をもっているのですが、あなたのご意見を聴かせて下さい」
と話した。
是清は驚いたが、ロンドンの銀行家たちが仲間に参加しても差し支えないというなら、異存はありませんといって話を進めてもらった。
こうして、第一回の公債募集は大成功に終わった。
その後、第五回まで公債発行が行われるが、ジェイコブ・シフの助けもあり、すべて成功させている。
四回目の3億円の公債募集のときは、こんなことがあった。
シフの勧めで、ドイツのワーバーグという人物に電報を打ち、
「ドイツで1億円だけ引き受けることは可能か?」という意味の照会をした。
ワーバーグがその電報を受け取ったのは、ハンブルクのヨット競技会に参列してドイツ皇帝の御召艦に乗り合わせているときだった。
その艦には、中央銀行総裁をはじめ、ベルリンの財界巨頭も多くいて、ワーバーグが
その電報を皆に披露し、皇帝陛下のご意見をうかがおうと言上に及んだところ、即座に「やってやれ」という答えがあった。
そういうわけで、ワーバーグからはただちに「承諾」の返事があった。
タイミングがいいというか運がいいというか、おもしろい話である。
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高橋是清が口述で語った内容は、ここまでで終わっている。
その後、日銀総裁となり、7度の蔵相も任され、内閣総理大臣も2度務めた。
ダルマ宰相と言われ、2・26事件で暗殺されるまで、83年の人生を最期まで活躍した。
昭和2年(1927年)には、金融恐慌による銀行への取り付け騒ぎの最中、急遽、蔵相に駆り出され、まず支払い猶予令(モラトリアム)を発動し、その間に裏白のお札まで印刷して(裏面を刷っている時間的余裕がなかった)、日銀から全国の銀行へ大量のお金を送り込んで窓口に積み上げ、世間に安心感を植え付け、一気に騒ぎを収束させるという荒技をやったこともある。
昭和になり、統帥権干犯問題で軍部が政府の言うことを聞かなくなっていたときも、
是清は蔵相として、軍事予算に歯止めをかけ、制御しようと務めたが、結果として2・26事件で、首相、岡田啓介、内大臣、斎藤實(さいとう まこと)、前内大臣、牧野伸顕らとともに襲撃され、その生涯に幕を閉じた。
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是清は、物事の本質を見抜いて改善するのがうまい。
そもそも・・・と考え、抜本的な解決策を見つけ出す。
そして、譲るところは譲り、譲らないところは譲らず、
落とし所を考えて交渉し、ことを前に進める。
もし是清がいなかったら、日本は日露戦争に負けていたかもしれない。
以前書いた明石元二郎にしてもそうだが、奉天会戦や日本海海戦などの有名どころだけではなく、あまり見えないところで活躍した人物がいたことを忘れてはいけない。
高橋是清伝
http://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85%E4%BC%9D-%E5%9C%B0%E7%90%83%E4%BA%BA%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E7%9F%A2%E5%B3%B6-%E8%A3%95%E7%B4%80%E5%BD%A6/dp/4092510322/ref=sr_1_21?ie=UTF8&qid=1361254392&sr=8-21
口述:高橋是清/筆録:上塚 司/現代語訳/矢島裕紀彦/解説:吉野俊彦
を読んでみた。
高橋是清(たかはしこれきよ)
日露戦争時、ユダヤ人の富豪、のジェイコブ・シフと親交を深め、
見事戦費を調達したことで有名。
日銀総裁、内閣総理大臣も務めた。
この本は、高橋是清本人が残していた日記やメモをもとに口述し、
それを文字に起こした『高橋是清自傅』を現代語訳にしたもの。
ちなみに、高橋是清自傅が発刊されたのは、昭和11年2月9日。
2・26事件で暗殺される17日前だった。
是清は、安政元年(1854年)、江戸幕府お抱えの絵師、河村庄右衛門守房と、その侍女、北原きんとの間に生まれ、すぐに仙台藩の足軽、高橋家に里子に出された。
3歳のころ、子供の遊び場になっていた仙台中屋敷の北東にあった稲荷の祠に、
藩主の奥方が参詣するという知らせがあった。
皆その祠の周囲から離れたが、是清は一人、神殿の後ろに取り残されたしまった。
奥方が拝殿に上がって礼拝するところへ、神殿の後ろから出てきた是清が、
奥方の着物を掴み、「おばさん、いいべべ(着物)だ」と一言。
「どこの子だか、かわいい子だね」
と言った奥方の膝の上に這い上がってしまった。
その日の夜、高橋家に使いの者がきて、
「奥方様が、明日あの子を連れてくるように、と仰せである」
と伝えに来た。
父親はお叱りを受けると思い、翌日行ってみると、
奥方は大喜びし、いろいろな品物を頂戴して帰ってきた。
周りはこれをみて、「高橋は幸福者よ」と大層羨ましがられた。
幸福者だという評判は、是清の耳にも残り、自然と自分は幸福者だと思うようになった。
さらに5歳のとき、道を走っていて転んだとき、騎馬武者が馬を飛ばしてきて、
是清は馬蹄に踏まれた。周りにいた人間が驚いて駆け寄ると、羽織の紋の上に
馬の蹄のあとがあるだけで、本人は無傷だった。
このときも周囲は「高橋の子は運のいい子だ、幸福な子だよ」と言った。
それも、是清の耳に入った。
そういう環境にあったから、自分は運がいい、幸福者だと深く思い込み、
どんな窮地になっても前向きに乗り越えられたと語っている。
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是清が住んでいた仙台屋敷に、留守居役として大童信太夫(おおわら しんだゆう)という人物が赴任してきた。
時流にも明るかった大童は、
「藩内から、英仏の学問をする若者を横浜に出さなければならない。
さもないと、時流に取り残されてしまう」と考え、顔なじみになった是清と鈴木六之助(のちの日本銀行出納局長、鈴木和雄)の2人を横浜へ出した。
これがきっかけになり、是清は英語を扱うようになった。
その後、アメリカへ勉強しにいく機会を得た是清は、他の何人かとアメリカへ。
そこで、ヴァン・リードという人の家にやっかいになることになる。
最初こそ歓迎してくれたものの、徐々に小間使いのような扱いになり、勉強をする時間もない。
憤慨した是清は、「これでは約束が違う。おれはもう働かないぞ」といっていうことを聞かなかった。
そうしていると、ヴァン・リードのほうから「オークランドにいる若夫婦はとても親切で、主人はサンフランシスコの銀行員で昼間はいない。昼は奥さんが暇だから、勉強を教えてくれるそうだが、いくか?」と言われ、「そういうことなら行ってもいい」と応じた。
まもなく、ヴァン・リードに役所に呼ばれ、そこで書類にサインをした。
内容がよく分からなかったのもあるが、ろくに確認せず、サインしてしまった。
しかしそれは、是清を3年間の契約で買ったというものだった。
つまり、知らない間に奴隷契約がなされ、是清はそれに気づかずにサインしていたのである。
その後、仙台藩の富田鉄之助に相談し、奴隷の身から解放され、日本に戻った。
このとき、15歳であった。
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日本に戻ってきた是清は、大学南校の英語の教師として働き出すが、
芸者遊びを覚えて放蕩がつのり、学校も欠勤しがちになる。
さらには、芸者の長襦袢をきて桟敷の上で痛飲しているところを他の教師に見られてしまう。
もう学校へはいられないと判断した是清は、すぐに辞表を提出。
馴染みの芸者である東家桝吉(本名はお君)が自分の家に引き取ってくれたが、
家の者には厄介者扱いされ、箱屋(芸者にお供して三味線などを運ぶ男)もやった。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
このままではいかんと思っていた矢先、小花万司(おはな まんじ)という維新前に横浜で知り合った人物と再会し、肥前の唐津藩で英語学校をつくって、そこが教師を探しているから、やってみないかと言われ、そこで英語教師となる。
その後、大蔵省で翻訳の仕事をしたり、文部省入ったり、学校の校長、さらには相場に手を出したこともあった。
その後、新しくできた農商務省の所轄事務の中に、発明専売、商標登録保護の規定の仕事に抜擢され、初代特許局長(現代の特許庁長官)となり、明治22年(1889年)には、農林学校長を兼務したが、そのすぐあと、ペルー銀山で失敗し(ペルー銀山事件)、無一文に近い状態になり、田舎に引きこもろうと決心する。
ペルー銀山事件・・・
田嶋晴雄理学博士の報告を元に、南米の高峰アンデス山で一大銀山を経営しようという話が持ち上がり、日本代表として是清はペルーへ。スペイン人のヘーレンと共同経営のような形で交渉を重ね、協議はまとまり、正式な調印を交わすのを待つばかりとなった。
しかしその直後、その銀山はすでに掘り尽くされたものであることが判明。
最初に派遣された田嶋晴雄の調査不足・・・ペルーの鉱山学校にあった雑誌を英語で読み聞かされたものを、そのまま翻訳して報告書として送り、自分で現地調査はしていなかった・・・であった。
交渉は決裂し、是清の提案でなんとかことを収めたものの、このために立ち上げた会社の株主にもなっていた是清は、自分の持ち株の未払い分を家の売却と手元のお金を足して後始末をしなければならず、ほとんど無一文状態になった。
世間ではヤマ師などと言われ、誹謗中傷の的になった是清だったが、事情を知っていた西郷従道、品川弥二郎、松方正義、前田正名などが気の毒がり、時の日本銀行総裁、川田小一郎に話をしてくれたことで、川田と話す機会を得る。
川田と会った是清は、川田に促され、ペルーでのことの顛末を事細かに話した。
それを聞いた川田は、「君がすっかり後始末をして悶着の種を残さないようにしたのは、立派だった。
私が君の立場であったとしても、そこまでが精一杯だっただろう。実によくやったもんだよ」と褒めた。
ここで、川田から実業界へ入ってみないかと誘われ、是清は、実業界はまったく初めてのことなので、丁稚小僧から仕上げていただけるのであれば、という条件のもと、話を受けた。
明治25年(1892年)4月のことだった。
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その後2回ほど川田と話すうちに、
「山陽鉄道の社長の椅子が空いたから、そこに入る気はないか?」
という話がでてきた。
しかし是清は、
「私は実業界に転じるにあたっては、丁稚小僧から叩き上げねばならないと考えております。
私は鉄道にもなんの経験も知識もありません。ですから、社長として過ちなくやっていけるという信念が持てません。もし万が一その職を辱めるようなことがあっては、推薦者たる川田さんにご迷惑をかけるばかりでなく、私自身も信念なくその地位に座ることは良心が許しません。
どうせご推薦くださるなら、やはり丁稚小僧からお願いします」
と言って即座に断る。
これを聞いた川田が、半分関心したような、半分あきれたような顔をして、
「ではたとえば、君、私が玄関番になれと言ったら、それでも引き受けるかね?」
と言えば、
「喜んで、やらせていただきます」
と是清。
その後、5月半ばごろになって、川田から「目下、銀行の新築をやっているところだが、そこに建築所というのがある。
総監督は安田善次郎さんだが、その下の辰野金吾くんが技術部の監督をしている。
その下に事務部というのがあるが、その支配人をやってみる気はないかね?
聞くところによると、辰野はかつて君が唐津で教えた生徒だというが、その下で働くことになる。それでも差支えなければの話だがな」
という話がきた。
是清は、「そんなことは少しもかまいません。喜んで働きます」
と答え、6月1日から日本銀行で働くことになり、
明治26年(1893年)9月1日、40歳のとき、日本銀行支配役に取り立てられ、
同時に西部支店長になった。
その後、42歳で横浜正金銀行本店支配人となり、腕をふるった。
明治32年(1899年)の1月末、是清が46歳のころ、日本銀行の河上、鶴原らの一派と、総裁である山本の不仲から亀裂が生じ、それを正すために山本を辞任させようという流れになっていた。是清は松方大蔵大臣のもとを訪問して、
「日本銀行はわが国の中央銀行であり、イギリスで言えば英蘭銀行に等しいものです。
その日本銀行で、理事や従業員が政府任命の総裁に反対して、いわば業務を放棄したのです。
その結果、政府が総裁を取り替えるようなことがあったら、海外の人たちはこれを見て日本の中央銀行をどう思うでしょう。
もし時の総裁に捨ておきがたい過失があれば、従業員の業務放棄とは関わりなく政府は総裁を罷免すべきです。なんら過失がないのにも関わらず、行員たちの感情から
総裁排斥ということになり、政府がそれらの意見を容れて総裁を辞めされるのでは、筋が通りません」
といって松方を説得し、井上馨や桂陸軍大臣、山県総理(山縣有朋)のところにも訪れた。
そのかいあって、山本はそのまま据え置かれることになったが、総裁と理事一人では日本銀行の重役会が成立せず、副総裁を置く必要が生じたから、君が副総裁になれと松方に言われ、辞退したものの、内閣で決定したと言われ、それを承認、日銀副総裁となった。
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明治36年(1903年)12月、いよいよ日露戦争が現実味を帯びてきた。
政府はロンドンで二隻の軍艦を買い入れることにしたが、正金ロンドン支店の手違いでその代金の支払いができなくなってしまったから、なんとかならないか?
という相談を受け、是清は公使の資格において約束手形を振り出して先鋒に渡すという方法を提案し、これを解決。
ちなみにこの二隻の軍艦とは、日進と春日である。
この二隻の購入に関しては、「明石元二郎大佐 落花流水を読み解く」でも触れられている。
この二隻は、明治36年12月に、イギリスのギブス社から
「イタリア・ジェノバで建造中のアルゼンチン巡洋艦二隻を153万ポンドで買わないか」と持ちかけられた。
海軍省は予算がないのを理由に断ったが、この二隻は当時の最先端の性能を誇り、
日本、ロシアの主力艦を凌駕していた。
この二隻を、ロシア側が購入を計画しているという情報が海軍省に伝わると、日本側は態度を一変。
小村外相は同23日、林駐英公使に「153万ポンドの言い値で購入せよ」訓電し、30日に林駐英公使がロンドンで、アルゼンチン側との契約書にスピードサインし、危うくロシアの手に渡るのを防いだ。
この契約書のサインの前日の29日に、是清は大蔵大臣に呼び出され、上記の相談を受けたのである。
後に、艦隊の作戦参謀だった秋山真之中佐は、
「日本が主力艦12隻をすべてを戦線に出せなかったら、勝敗はどうなっていたか分からない。
日進、春日、この2隻がいなかったらと思うと、私は今でも戦慄せざる得ない」と語っている。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
明治37年(1904年)2月8日、日露戦争勃発。
是清は、井上、松方両元老に、日銀副総裁の資格において、外債募集を任される。
是清はまず、横浜出航の便船で渡米。
ニューヨークへ直行し、3、4名の銀行家に面会して様子を伺った。
戦争そのものに関しては、一般に日本に対する同情が強かったが、
この時代のアメリカは、まだ自国産業発達のために外国資本を誘致しなければならない立場にあって、外国公債を発行するのは経験も乏しく、とても無理ということだった。そして3月初め、ロンドンへとむかった。
ロンドンに到着し、英貨公債一千万ポンドを募集したいと交渉をするが、誰もが日本に対する同情はあっても、公債の発行は容易ではないという反応だった。
そのつち、パンミュール・ゴールドン商会のレビタという人の紹介で、有名なロスチャイルド家を訪問し懇意となり、一番末の弟のアレフレッド・ロスチャイルドと
もっとも親しくなし、ロスチャイルド家と並び称される金融業者のサー・アーネスト・カッセルとも交際するようになったが、2人には公債の話はせず、ロンドンやパリの経済市況を聞くに留めた。
銀行家たちと交渉を重ねた結果、4月10日ごろになって、銀行業者たちは以下の条件を示してきた。
1、発行公債はポンド公債とする
2、関税収入をもって抵当とする
3、利子は年6パーセントとする
4、期限は5年
5、発行価額92ポンド
6、発行額の最高限度三百万ポンド
これを受け、是清は早速、本国政府と電報で連絡をとり、
発行額の最高限度を三百万ポンドから五百万ポンド(政府希望の一千万ポンドの半額)に、期限を5年から7年に、発行価額を92ポンドから93ポンドにするよう、それぞれ条件修正を強硬に主張し、銀行家たちを説得した。
こうして、仮契約を結ぶところまで漕ぎ着けたのが、4月23日か24日だった。
これで政府希望の一千万ポンドまで、あと半分。
それをどうしようかと思っているところへ、ちょっとした偶然から大きな幸運が舞い込んだ。
かつて日本にきていた是清の友人であるヒルという人が、仮契約を結ぶところまで運んだことを聞きつけ、夕食に招いてくれた。そのときヒルの家で、米国人のシフという人物を紹介された。
シフはニューヨークのクーンロエプ商会の首席代表者、そしてこの人物こそ、あのジェイコブ・シフである。
食卓で、シフは是清の隣に座り、さかんに日本の経済状態や開戦後の人心について細かく質問した。
是清は、その一つひとつにできるだけ丁寧に応対し、その上で、ようやく五百万ポンドの公債発行について銀行と内約できたこと、政府からは一千万ポンドの募集を申し付けられていることなども話した。
そして翌日。
パース銀行のシャンドという人が是清のもとにやってきて、
「パース銀行の取引先の銀行家で、ニューヨークのクーンロエプ商会のシフという人がいます。
その人が、日本公債の残額五百万ポンドを自分で引き受けて、米国で発行したいとの希望をもっているのですが、あなたのご意見を聴かせて下さい」
と話した。
是清は驚いたが、ロンドンの銀行家たちが仲間に参加しても差し支えないというなら、異存はありませんといって話を進めてもらった。
こうして、第一回の公債募集は大成功に終わった。
その後、第五回まで公債発行が行われるが、ジェイコブ・シフの助けもあり、すべて成功させている。
四回目の3億円の公債募集のときは、こんなことがあった。
シフの勧めで、ドイツのワーバーグという人物に電報を打ち、
「ドイツで1億円だけ引き受けることは可能か?」という意味の照会をした。
ワーバーグがその電報を受け取ったのは、ハンブルクのヨット競技会に参列してドイツ皇帝の御召艦に乗り合わせているときだった。
その艦には、中央銀行総裁をはじめ、ベルリンの財界巨頭も多くいて、ワーバーグが
その電報を皆に披露し、皇帝陛下のご意見をうかがおうと言上に及んだところ、即座に「やってやれ」という答えがあった。
そういうわけで、ワーバーグからはただちに「承諾」の返事があった。
タイミングがいいというか運がいいというか、おもしろい話である。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
高橋是清が口述で語った内容は、ここまでで終わっている。
その後、日銀総裁となり、7度の蔵相も任され、内閣総理大臣も2度務めた。
ダルマ宰相と言われ、2・26事件で暗殺されるまで、83年の人生を最期まで活躍した。
昭和2年(1927年)には、金融恐慌による銀行への取り付け騒ぎの最中、急遽、蔵相に駆り出され、まず支払い猶予令(モラトリアム)を発動し、その間に裏白のお札まで印刷して(裏面を刷っている時間的余裕がなかった)、日銀から全国の銀行へ大量のお金を送り込んで窓口に積み上げ、世間に安心感を植え付け、一気に騒ぎを収束させるという荒技をやったこともある。
昭和になり、統帥権干犯問題で軍部が政府の言うことを聞かなくなっていたときも、
是清は蔵相として、軍事予算に歯止めをかけ、制御しようと務めたが、結果として2・26事件で、首相、岡田啓介、内大臣、斎藤實(さいとう まこと)、前内大臣、牧野伸顕らとともに襲撃され、その生涯に幕を閉じた。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
是清は、物事の本質を見抜いて改善するのがうまい。
そもそも・・・と考え、抜本的な解決策を見つけ出す。
そして、譲るところは譲り、譲らないところは譲らず、
落とし所を考えて交渉し、ことを前に進める。
もし是清がいなかったら、日本は日露戦争に負けていたかもしれない。
以前書いた明石元二郎にしてもそうだが、奉天会戦や日本海海戦などの有名どころだけではなく、あまり見えないところで活躍した人物がいたことを忘れてはいけない。
高橋是清伝
http://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85%E4%BC%9D-%E5%9C%B0%E7%90%83%E4%BA%BA%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E7%9F%A2%E5%B3%B6-%E8%A3%95%E7%B4%80%E5%BD%A6/dp/4092510322/ref=sr_1_21?ie=UTF8&qid=1361254392&sr=8-21
CG技術が発達して、いまや本物か作り物か分からないくらい、
リアルな映像が当たり前のように見られるようになった。
映画もゲームも、一昔前であれば、ひと目で作り物と分かったものが、
今は本物を見間違うぐらい美しい。
最初は、そのグラフィックの美しさに感動した。
でも、慣れてくると、それが当たり前になる。
そうなると、グラフィックに対する感動はなくなる。
どんなに美しくなっても、「限りなく本物に近い作り物」でしかないから。
では、人は何に感動するのか。
それは、世界観である。
映像が美しいかどうかというより、
そのストーリーの世界観が表現されているかどうかが重要になる。
ゲーム機と言えばファミコンだった時代、グラフィックはゲームそのものだった。
今のゲーム機に比べれば、システムもグラフィックも見劣りすると言わざる得ない。
しかし、ファミコンのゲームは、今やっても面白いものがたくさんある。
ホラー系のゲームでも、グラフィックは荒く、まったくリアルじゃないのに、怖い。
それは、世界観がきちんと表現されているからだと思う。
また、荒っぽいグラフィックが、想像力を活発にするからというのもあるかもしれない。
グラフィックに限界があったから、そこに頼ることができず、
その中でそのストーリーの世界観を表現するために試行錯誤を繰り返した結果、
今でも面白い、怖いと思えるものが出来上がったのではないかと。
今の製作者が昔の人より劣っているとは思わない。
ただ、比重が世界観より技術に移ったために、技術があれば
それだけで表現できると錯覚しているのではないかと思う。
本来は、世界観を表現するための技術であり、
技術だけあっても世界観がしっかりしていなければ、表現はできない。
少なくとも、人の心には届かない。
ファイナルファンタジーというゲームがある。
ドラクエと並ぶ、2大RPGの一角。
個人的な感想になるけど、Ⅹ-2までは、世界観と技術が
ちゃんとマッチしていたと思う。
ゲームシステムの好みは分かれるだろうけど、
作りこまれたストーリー世界観、それを表現するグラフィック。
このバランスがとれていたから、引きこまれた。
映画も、3DにしようがCGにどれだけ資金を投入しようが、
技術だけに頼ったものには感動しない。
ストーリーがあり、演出があり、それがうまく表現されるからこそ感動する。
人は3Dに感動するわけじゃない。
そこに感動するのは最初だけで、2Dで見て面白くないものを3Dにしたところで、
目が疲れるだけである。
技術力があると、それがあればなんとかなると思ってしまうのは、
これまでの日本という国にも言えること。
どんな世界観をもっているかということが、もっとも現実に反映されるのだと思う。
世界観とはなんなのか?
ということをより深く知りたい方は、この本がオススメです。↓
世界を変えたいなら一度”武器”を捨ててしまおう
リアルな映像が当たり前のように見られるようになった。
映画もゲームも、一昔前であれば、ひと目で作り物と分かったものが、
今は本物を見間違うぐらい美しい。
最初は、そのグラフィックの美しさに感動した。
でも、慣れてくると、それが当たり前になる。
そうなると、グラフィックに対する感動はなくなる。
どんなに美しくなっても、「限りなく本物に近い作り物」でしかないから。
では、人は何に感動するのか。
それは、世界観である。
映像が美しいかどうかというより、
そのストーリーの世界観が表現されているかどうかが重要になる。
ゲーム機と言えばファミコンだった時代、グラフィックはゲームそのものだった。
今のゲーム機に比べれば、システムもグラフィックも見劣りすると言わざる得ない。
しかし、ファミコンのゲームは、今やっても面白いものがたくさんある。
ホラー系のゲームでも、グラフィックは荒く、まったくリアルじゃないのに、怖い。
それは、世界観がきちんと表現されているからだと思う。
また、荒っぽいグラフィックが、想像力を活発にするからというのもあるかもしれない。
グラフィックに限界があったから、そこに頼ることができず、
その中でそのストーリーの世界観を表現するために試行錯誤を繰り返した結果、
今でも面白い、怖いと思えるものが出来上がったのではないかと。
今の製作者が昔の人より劣っているとは思わない。
ただ、比重が世界観より技術に移ったために、技術があれば
それだけで表現できると錯覚しているのではないかと思う。
本来は、世界観を表現するための技術であり、
技術だけあっても世界観がしっかりしていなければ、表現はできない。
少なくとも、人の心には届かない。
ファイナルファンタジーというゲームがある。
ドラクエと並ぶ、2大RPGの一角。
個人的な感想になるけど、Ⅹ-2までは、世界観と技術が
ちゃんとマッチしていたと思う。
ゲームシステムの好みは分かれるだろうけど、
作りこまれたストーリー世界観、それを表現するグラフィック。
このバランスがとれていたから、引きこまれた。
映画も、3DにしようがCGにどれだけ資金を投入しようが、
技術だけに頼ったものには感動しない。
ストーリーがあり、演出があり、それがうまく表現されるからこそ感動する。
人は3Dに感動するわけじゃない。
そこに感動するのは最初だけで、2Dで見て面白くないものを3Dにしたところで、
目が疲れるだけである。
技術力があると、それがあればなんとかなると思ってしまうのは、
これまでの日本という国にも言えること。
どんな世界観をもっているかということが、もっとも現実に反映されるのだと思う。
世界観とはなんなのか?
ということをより深く知りたい方は、この本がオススメです。↓
世界を変えたいなら一度”武器”を捨ててしまおう
週刊現代という雑誌で、曽野綾子さんが、
『体罰で大騒ぎするこの国で
この人生、この世界、きれい事では済まない』
という記事を寄稿している。
その中で、イジメについても触れている。
イジメというものは、どんなに騒いでも制度によって解決できるものではない。
制度ではなく、イジメに耐えられる強さを持てるような教育をするほうがいい、
というような話を書いている。
イジメは、程度の違いはあれど、誰でも少しは受けたことがあると思う。
僕もそういうときがあったし、辛いのはわかる。
だから、イジメを容認する気はない。
でも、ダメだと言ったところで、イジメはなくならない。
曽野綾子さんは、
「人間には、イジメを楽しむような悪い部分がある。
それを踏まえて議論をしないといけない」
というようなことを言っている。
制度で、そういった人間の悪い部分をなくすことができるなら、
世の中から犯罪はなくなる。
でも実際にはそうはなっていない。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
そもそも、イジメについて論じるとき、
イジメられた側はただひたすら可哀想で、
イジメた側は絶対悪というスタンスで話をする。
そこが間違っている。
確かにイジメるほうに非はあるだろうけど、
イジメというものは大概、イジメられるほうにも
イジメられる要素がある。
それは、自分ではどうしようもないことだったりもするけど、
人間はみんな平等ではないのだから、そこに文句を言ってもしかたない。
だから、勉強がダメならスポーツで一番になるとか、
勉強もスポーツもダメなら、芸術で一番になるとか、
周りから一目置かれるようにしていけばいい。
イジメられない自分を作るのである。
そうすれば、イジメられることはなくなる。
まあ一番になれば、誰かの嫉妬を買うことにはなるかもしれないけど。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
イジメられたとき、先生に助けてもらおうとしても、あまり意味がない。
相談するのは、もちろんいい。
でも、先生が注意したところで、本人に変化がない場合、
先生が見ていないところで、さらに酷いイジメを受ける。
もっと言えば、自分で戦おうとしない人間を助けようと思うお人好しはあまりいない。
周りの生徒が助けてくれないと愚痴をいっても、
助けたことで自分もイジメの対象になるかもしれないと思ったら、
助けるにはそれなりの勇気がいる。
自分で何もせずに周りに助けを求めるのは、
自分は可哀想な被害者だから、自分のためにリスクを犯す
勇気をもって戦ってくれと言っているに等しい。
そんな人間のために戦ってくれるのは、せいぜい漫画のヒーローぐらいである。
親や教師は、本人が戦えるようにサポートしてあげることが大事なのであって、
可哀想可哀想といって過保護になるのは、成長の妨げでしかない。
ちなみに、こういう自分で戦おうとしない人間が、運良く先生なんかに守られて、
自分で解決するという経験をもたずに大人になると、
社会人になっても同じようなことをする場合がある。
職場で自分がイジメられていると感じたとき(実際には過剰な被害者意識からの反応だったりする)、より強い立場のものに助けを求め、その影に隠れて対象者を潰すという蛮行に出る。
自分の環境を変えるためには、自分が変化するしかないという思考が
欠落しているから、悪びれなくそういうことをする。
その結果、往々にして周りの人間に嫌われ、やがて誰も助けてくれなくなる。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
昔、日本テレビでやっていた伝説の教師というドラマのセリフで、こういうものがある。
「イジメは絶対悪や 絶対なくならへん!
あんなおもろいこと誰がやめんねん!
お前な、イジメられるってことはチャンスなんやぞ!?
なんで笑いにもっていかん!?」
イジメは悪いことである。
そんなことはみんな分かっている。
でも、だからなくなるものでもない。
イジメの問題をなくしたいなら、
イジメられない自分を作る教育をするのが一番。
自分が変わるしかないという気持ちをもてるかどうか、
結局は、ファーストイメージ(原因は自分にある)という考えに至れるかどうか。
単純に子供にそれを求めるのは酷だろうから、
親や教師がサポートして、イジメられない自分を作っていく。
それこそが最善のイジメ解決策だと思う。
『体罰で大騒ぎするこの国で
この人生、この世界、きれい事では済まない』
という記事を寄稿している。
その中で、イジメについても触れている。
イジメというものは、どんなに騒いでも制度によって解決できるものではない。
制度ではなく、イジメに耐えられる強さを持てるような教育をするほうがいい、
というような話を書いている。
イジメは、程度の違いはあれど、誰でも少しは受けたことがあると思う。
僕もそういうときがあったし、辛いのはわかる。
だから、イジメを容認する気はない。
でも、ダメだと言ったところで、イジメはなくならない。
曽野綾子さんは、
「人間には、イジメを楽しむような悪い部分がある。
それを踏まえて議論をしないといけない」
というようなことを言っている。
制度で、そういった人間の悪い部分をなくすことができるなら、
世の中から犯罪はなくなる。
でも実際にはそうはなっていない。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
そもそも、イジメについて論じるとき、
イジメられた側はただひたすら可哀想で、
イジメた側は絶対悪というスタンスで話をする。
そこが間違っている。
確かにイジメるほうに非はあるだろうけど、
イジメというものは大概、イジメられるほうにも
イジメられる要素がある。
それは、自分ではどうしようもないことだったりもするけど、
人間はみんな平等ではないのだから、そこに文句を言ってもしかたない。
だから、勉強がダメならスポーツで一番になるとか、
勉強もスポーツもダメなら、芸術で一番になるとか、
周りから一目置かれるようにしていけばいい。
イジメられない自分を作るのである。
そうすれば、イジメられることはなくなる。
まあ一番になれば、誰かの嫉妬を買うことにはなるかもしれないけど。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
イジメられたとき、先生に助けてもらおうとしても、あまり意味がない。
相談するのは、もちろんいい。
でも、先生が注意したところで、本人に変化がない場合、
先生が見ていないところで、さらに酷いイジメを受ける。
もっと言えば、自分で戦おうとしない人間を助けようと思うお人好しはあまりいない。
周りの生徒が助けてくれないと愚痴をいっても、
助けたことで自分もイジメの対象になるかもしれないと思ったら、
助けるにはそれなりの勇気がいる。
自分で何もせずに周りに助けを求めるのは、
自分は可哀想な被害者だから、自分のためにリスクを犯す
勇気をもって戦ってくれと言っているに等しい。
そんな人間のために戦ってくれるのは、せいぜい漫画のヒーローぐらいである。
親や教師は、本人が戦えるようにサポートしてあげることが大事なのであって、
可哀想可哀想といって過保護になるのは、成長の妨げでしかない。
ちなみに、こういう自分で戦おうとしない人間が、運良く先生なんかに守られて、
自分で解決するという経験をもたずに大人になると、
社会人になっても同じようなことをする場合がある。
職場で自分がイジメられていると感じたとき(実際には過剰な被害者意識からの反応だったりする)、より強い立場のものに助けを求め、その影に隠れて対象者を潰すという蛮行に出る。
自分の環境を変えるためには、自分が変化するしかないという思考が
欠落しているから、悪びれなくそういうことをする。
その結果、往々にして周りの人間に嫌われ、やがて誰も助けてくれなくなる。
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昔、日本テレビでやっていた伝説の教師というドラマのセリフで、こういうものがある。
「イジメは絶対悪や 絶対なくならへん!
あんなおもろいこと誰がやめんねん!
お前な、イジメられるってことはチャンスなんやぞ!?
なんで笑いにもっていかん!?」
イジメは悪いことである。
そんなことはみんな分かっている。
でも、だからなくなるものでもない。
イジメの問題をなくしたいなら、
イジメられない自分を作る教育をするのが一番。
自分が変わるしかないという気持ちをもてるかどうか、
結局は、ファーストイメージ(原因は自分にある)という考えに至れるかどうか。
単純に子供にそれを求めるのは酷だろうから、
親や教師がサポートして、イジメられない自分を作っていく。
それこそが最善のイジメ解決策だと思う。
