戦略PRプロデューサー・片岡英彦【公式】ブログ

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誰が演出・プロデュースしたか分からないセレモニーについて酷評するのもしんどいのですが、イヤ〜酷かったですね…閉会式。

若い方も読まれるので、記録としてアレコレ書いておこうと思います。

ところで、

私が子供時代にはドリフターズの「8時だョ!全員集合」という公開生放送のバラエティ番組がありました。私は1970年生まれです。物心ついた時にはすでに毎週視てました。志村けんさんが登場する前の荒井注さんがメンバーにいらした頃から少し記憶があります。毎週毎週、何年間も見続けていました。番組自体は1982年まで続きますが、私が小学3年生か4年生頃にはもう視なくなっていた。良い意味で「成長」したのだと思います。

この番組(公開生放送、生バンドの歌唱込み、セットチェンジあり)を10年間、毎週放送し続けることが、どれだけスゴい(狂気じみた)ことなのかが分かるのは、さらに10年以上経って、自分がテレビ局に入社した後になります。

ただ、子供の頃からドリフには、ある意味「洗脳」されていますから、身体に染み付いてしまう「フォーマット(型)」みたなものができるのです。

それがどういう「型」かというと…

「最初(オープニング)と最後(エンディング)は"マジメ"にやらないといけない」という"ケジメ"です。こういう根本的な「型」というものを子供の頃に身につけるのは本当に重要です。

「8時だョ!全員集合」は生放送ですから、本番中のハプニングで時間が押してしまうことがあります。ゲストの歌唱シーンを省くわけにいかない。後半のコントのオムニパス部分はマルっと省略されることもありました。

ところが、エンディングだけは絶対に省かないです。

私の記憶にある限りですが、どんなに超ハイスピードのエンディング(ババンバ バンバンバン!あ〜ビバビバ!)になっても、エンド合わせ(テレビ用語で言うと、確定CMに向けてバンド演奏を確定時刻に見切りでスタートさせて、最後は指揮者が演奏スピードを調整して辻褄合わせたのでしょうか??)を行うのです。

散々、不謹慎だ、子供の教育に悪い、くだらない…などと言われ続けた番組ですが、オープニングでは出演者がみんな出てきて、結構マジメな顔をして"セレモニー"(エンヤー コーラヤット!ドッコイジャンジャン コーラヤ!)をするのです。「これから面白いことテレビで始めるから楽しんでね!(これからのは全部コントだからね!)」という意味だったのでしょうかね。

そして、エンディングでは同じく出演者が全員再登場して、加藤茶さんが「お風呂入れよ!歯磨けよ! 顔洗えよ! 宿題やれよ!風邪ひくなよ!また来週!!」と子供たちに向けて"セレモニー"で畳み掛けたのです。「番組終わるけど、これ全部ギャグだったからね!(いつもの生活に今すぐ戻れよ!)」という意味だったのでしょうかね。

始まりと終わりが"キッチリ"しているからこそ、親も「毎週1時間ならしょうがない」と視せてくれたのかもしれません。「あんな番組視るとバカになる」と親からは脅されましたが、お陰様でそれほど「バカ」にはならずに済みました。

ドリフターズさんを含む作り手側がどこまで、そのようなメッセージを織り込んでいたかは分からないですが、どんなに時間が押してもあれだけエンディングに固執したのは、そういう「意味(思い)」もあったのではないかと勘ぐったりもします。

長くなりましたが、何が言いたかったかと言いますと…

かように「始まりと終わり」のセレモニーは重要であるということを、今朝は一番に言いたかった。

以下はどうでもいいことです。

[経営がやるべきだったこと]

■ 五輪は「開催する」と決まった前提で、最初と最後のセレモニーを「やる/やらない」の判断

■ 「やる」のであれば、世界に向けた東京(日本)ブランドを背負った儀式として、「ちゃんとやる」ことの確認

■ 「ちゃんとやる」のでやれば、「多くの人に理解して(楽しんで)もらう」のか「鎮魂に特化した厳粛な儀式とする」のか大きなコンセプト(目標)の提示

■ 開幕式と閉会式を通して何を伝えたいのか
・震災復興・コロナ禍に立ち向かう力強さとか
・日本の伝統と日本芸術の今昔とか
・「平和の祭典」を通して被爆国から世界に向けた「平和」メッセージとか
・最先端テクノロジーと環境保護など持続可能社会に果たす日本の力とか

ちゃんと言語化してからクリエーターチームに引き継がねばなりません。

■ どのくらいの規模感(スケール)で行うのか、それに相応しいのはどういう体制(座組み)なのかを精査(過去の事例、複数の専門家からヒアリング)など。
ここまでは「クリエイティブ」の素養は必要なし。完全に経営者マターですね。

[経営とクリエイティブチームで協業すべきだったこと]

■ 開幕式と閉会式の役割(トーン)の違い
・開幕式は派手に、閉会式は厳粛に。とか、その逆とか。
・開幕式は「日本(東京)」を前面に出し、閉会式では「世界の中の日本」を強調するとか。
・開幕式は「震災・コロナに打ち勝つ」を全面に、閉会式では「パリへの引継ぎを和魂洋才で表す」とかコンセプト(大きな物語)メイキング。

[クリエイティブチームでやるべきだったこと]

■ 世界観、具体的なテーマ(小さな物語)、キャッチフレーズ

■ 具体的出演者、協力先、演出案など(色々政治案件、お約束案件もあるのでしょう。)

■ 進行案、タイムキープ、コロナ禍で何をどこまでできるのか?いくら費用がかかるのか、ステージ映えする演出なのか?テレビ映えを狙うのか?など以下、諸々。

風下の現場はもちろん大変だったと思うのですが、最大の問題は風上の経営層のレイアとクリエーターとの協業領域がザルだったのでしょうね。

「木を見て森を見ず」と言いますが、まさにそんな感じでした。「足し算」はできても「引き算」ができていない。全体感がない。ストーリー構成ができていない…。

大竹しのぶさん、DJ松永さん、スカパラさん始め出演者の個々が悪いはずもなく、やるべき仕事をキッチリこなされたのだと思いますが、世界的イベントのセレモニーでは演者もクリエーターも含めて「個々の技量」に頼ってはダメなのです。

「誰が演じても大丈夫」な鉄壁のフレームに、さらに「最高の演者」をぶち込むべきなのです。。そして最高の演者はそのフレームを(期待通り)ぶち壊していくのです。。

これだけの国家行事クラスの大規模な演出は、賛否両論があったとしてもワンマンで強いリーダーシップが必要です。緩い合議制だよ中間業者が力を持ってしまいます。隙あらば「持っていこう」としてしまうのです。

過去には浅利慶太さんが務められたが評判は芳しくなかった。個人的には、オペラやミュージカルの経験者でも規模感を出すのは難しいのだと思います。

リアル演出でのビルド&スクラップの経験のある映画監督でないと実際のところ厳しいのではないでしょうか。例えばゴジラのチームとか。戦争映画とか。そこにリアル&デジタル技術を持った専門家とステージ演出集団が複数協力していくのがベストだったでしょうかね。

誰がやられても難儀な仕事だったと思います。そのことをあれこれ文句言いたいわけではないのです。

五輪誘致の際にはトップに政治家が必要だったのかもしれませんが、実行段階においてはトヨタの役員経験者クラスのビジネスパーソンがいたらよかったかもしれません。大事なのは「実務処理」ですから。日本を代表する大企業であれば、事業部を一つ回すくらいの規模感だったでしょう。

演出サイドには、振り付けとかアイデアが得意のコンセプターの他に、大作映画のプロデュースチームと監督+優秀なデジタルチームが必要で、これに海千山千のステージングのプロと、狡猾なプロモーターが必要ですね。海外の歴代の五輪セレモニーには映画監督の参画が多いような気がします。そういえばロンドンでは女王陛下と一緒に007が出てきていましたね。昨夜の最後のフランスの映像を視る限りきっと映画制作者が入っていますね。

50年後くらいに、また東京で五輪をやることになれば、生まれ変わって次は映画監督として是非加わって見たいです。毒舌ごめんなさいね。まあ、今回のは“消化試合”だったのでしょう。

以上は全部が私の"勘"です。

はい。