戦略PRプロデューサー・片岡英彦【公式】ブログ

戦略PRプロデューサー・片岡英彦【公式】ブログ

戦略PRプロデューサー/コミュニケーションプロデューサーの片岡英彦の公式ブログです。

マーケティングコミュニケーションやメディアに関する情報のほか、キャリアデザインや時事ネタについて掲載します。

NHK朝ドラ「風、薫る」の件ですが、、、

私は面白いと思ってずっと視ていますが、残念ながら視聴率はすこぶる悪いようですね。。主人公が2人ということもあって、場面展開とストーリーが複雑になりがちす。最近の視聴者には少し分かりにくいのでしょうか。

ということで、、頑張って欲しいという思いを込めて、敢えてもっと小難しく「文学部唯野教授」風のトンマナでメタな感じで、勝手に番宣協力致します。

何よりお二人ともステキな女優さん。

ーーー

【この二人の出会いは何を説明してしまうのか】

ええ〜、まず最初に断っておきますが、脚本家や演出家が本当にそこまで考えて人物を配置し設計しているかどうかという問題は、文学研究においてはそれほど重要ではありません。重要なのは、作品がそのように読めてしまう構造を持っているかどうかです。作品とは作者の意図ではなく、読解可能性の体系として存在するからです。従って、これからここで扱う二人の人物は、「近代から現代に至る主体のあり方」を説明するための、たいへん都合のよいテキストとして読むことができるんです。

まず、りんという人物について考えてみましょう。

彼女は士族の娘として生まれ、「家老の娘」「妻」といった役割によって自己を規定されていました。つまり彼女は、自分が何者であるかを自分で決める必要のない世界に生きていたわけです。ところが明治維新という制度の転換によって、その役割が突然消滅してしまう。ここで起きているのは個人の不幸ではありません。歴史的構造の変化による「役割の剥奪」です。

近代というのは、まさにこのようにして人間を役割から切り離し、「あなたは誰か」という問いを個人に返してしまう時代です。つまり、りんは単に没落した女性ではなく、「構造から追放された主体」として読むことができます。

では、もう一人の主人公の直美はどうでしょうか。

彼女はむしろ逆のベクトルで登場しています。孤児として育った彼女は、何の後ろ盾も持たない状態、つまり最初から「裸の主体」として出発しています。ところが彼女はそこから、「士族のお嬢様」という役割を虚構ではありますが自分で構築し、構造の内部へと入り込んでいく。ここがとても近代的です。近代とは、人間が役割を与えられるのではなく、役割を演じるようになる時代だからです。

しかし問題は、役割を獲得した瞬間に始まります。第15回で直美は、小日向から交際を申し込まれます。それは破綻や露見ではなく、拍子抜けするほど自然な形として受け入れられてしまいました。自分が「お嬢様」として疑われることなく扱われ、このまま行くと「奥様」にまでなれてしまうかもしいれない。そのとき彼女が漏らしたのが、「こんなに簡単なんだ。お嬢様だと奥様になるの。私なのに」という言葉でした。

この場面は、彼女が思いがけず「お嬢様」として自分が受け入れられてしまうことへの戸惑いとして描かれています。

ここで重要なのは、彼女が拒絶されたことではなく、むしろあっさり受け入れられたことです。受け入れられたからこそ、社会が承認しているのは彼女自身ではなく、彼女が演じている役割なのではないかという疑念が生まれる。

「私なのに」という短い言葉は、社会が見ている私と、私が知っている私とが実は一致していないというこれまで感じていた違和感が、思わず口をついて出た瞬間です。短いセリフですが、近代的な孤独が表れています。

さて、この二人が出会うと何が起きるでしょうか。

文学というのは、対照的な人物が並んでしまったときには、そこに意味が生まれてしまうものです。「本来の身分を失った人物」と「身分を獲得した人物」。この二人は、互いがいなければ自分の輪郭すら見えなかったはずの存在です。片方は旧き構造から追放され、もう片方は新しい構造へと入り込んだ。しかし両者ともに同じ問いにいずれ到達するのです。

つまり「役割とは何か」という自分自身への問いです。

二人の出会いは単なる友情の物語ではなくなります。二人は互いを通して、「身分とは社会が作った記号にすぎない」という事実に気づくことになります。

正と反が出会うことで、新しい理解が生まれるというわけです。

りんは直美の嘘を通して、自分が失ったものが絶対的な価値ではなかったことをやがて知るでしょう。直美はりんの転落を通して、自分が手に入れようとしているものの不安定さをきっと知ることになるのでしょう。このお互いの認識が自覚的に成立したとき、主人公の二人は役割としてではなく、この時代を生きる新たな主体として独立した関係を結ぶことになります。

この二人が出会う場面は、単なる人物関係の深化などというミクロの展開ではありえません。近代社会が作り出した「役割としての人間」から「主体としての人間」への移行が、まさにここで哲学史的水準において展開し始めるのです。この構造は、二人の人物が同じ時代に配置された時点ですでに動き始めています。物語の方がそれに気づくのは、むしろあとのことなのです。

朝ドラというのは一つの戦後日本の文学的作品でもあります。テキストはどこにでも転がっている。読む者がいるかどうかの問題です。

本日の講義は以上です。

そうそう言い忘れました。「風、薫る」は分かりにくいのではありません。分かりやすい物語だけを受け取ることに慣れてしまった視聴者の側が、少し急ぎすぎているのです。

今の視聴率が低いのは、まだ、このドラマの読み方が共有されていないだけです。
木野花という演出家が、この30年で何を失わず、何を変えたのか

4月4日土曜日。東京芸術劇場シアターイーストで『岸辺のアルバム』を観た。最初に思ったのは、これは名作ドラマの舞台化ではない、ということだった。

倉持裕の脚色と木野花の演出によって、山田太一の原作が現在の観客に再接続されている。公演は2026年4月3日から26日まで。木野花が演出を担っている。

私にとって演出家・木野花はもともと「整える人」ではなかった。もっともっと尖っていた。不穏で、意地悪で、人間の未整理な部分を舞台の上に剥き出しで平気で置ける人だった。

90年代初頭に観た『○×式ゴドーを待ちながら』と、同時期に彼女が脚本・演出した『カラマーゾフの兄弟』(フォーズ・カンパニー)の何とも言えない手触りは、今でも忘れられない。ベケットをずらし、ドストエフスキーを自分の言葉で書き直す。木野花には、古典に対してそれだけの胆力があった。作品をきれいに見せるよりも、作品の中にある神経のささくれを前面に出す。壊して、ずらして、観客に「居心地の悪さ」を提供してくる稀有な演出家だと当時思った。

今回の『岸辺のアルバム』を観て思ったのは、その資質が消えたのではなく、成熟の仕方を変えたということである。現在の木野花は、名作の内部に潜む毒やひび割れを、多くの観客が受け取れるように翻訳する方向へ進んでいる。

1974年に女性だけの劇団「青い鳥」を結成し、80年代小劇場ブームの旗手となった。のちに劇団を離れ、俳優・演出家として越境的に活動してきた。近年は『阿修羅のごとく』で読売演劇大賞優秀演出家賞を受けている。出発点は小劇場の異端者でありながら、現在は名作を現代へ通す演出家として社会的評価も固まってきた。

ただ、その変化を私は単なる円熟とは思っていない。かつては観客の足場を崩すことで不穏さを生んでいた木野花が、今は足場は残したまま、その上に立つ人間の危うさを照らし出している。これは90年代とは別のラディカリズムなのだ。

この30年で演劇界、とりわけ小劇場をめぐる環境は大きく変わった。当日は、劇団そのものがブランドだったといえる。演出家も俳優も、「どの劇団に属しているか」がまず先にあった。作品は各劇団の文脈の中で読まれていた。我々のような観客もまた、その劇団の美学を求めて劇場に通った。

だが今は違う。公共劇場やプロデュース公演が編成の中心になり、作品ごとに脚色家・演出家・俳優が組む形が主流になっている。特にコロナ禍以後は、舞台としての上演だけでなく、観客との関係、地域との共創、デジタルとしてのアーカイブのあり方まで再設計を迫られてきた。かつては「どれだけ尖っているか」が価値だった。現在ではさらに「どれだけ社会とつながるか」「どれだけ古いテキストを現在の問題として読み替えられるか」などが重なって求められる。

山田太一の『岸辺のアルバム』は1977年放送のテレビドラマで、ギャラクシー賞やテレビ大賞を受賞している。1974年の多摩川水害を背景に、家族の崩壊と再生を描き、当時のホームドラマの概念を内側から壊した作品として記憶されている。

なぜこの作品が2026年に木野花によって“翻訳”される必要があるのか。

今日の日本社会において、家族はもはや安定の器ではなく、最も壊れやすい脆くて危険なインフラになっている。1977年の原作が突きつけたのは、「家庭の中には、外から見えない欲望、欺瞞、孤独がある」という事実だった。そして、当時それは衝撃だった。

2026年に生きる私たちは、そのことをすでに知っている。だが、知っているにもかかわらずなお処理できていない。

家族の持つ意味は小さくなり、関係は流動化し、共働き、ケア、孤立、再婚、無縁化、貧困、メンタル不調など、家庭をめぐる負荷は昔より遥かに複雑になった。山田太一が当時描いた「家族の崩壊」は、今では一部の衝撃的な例外ではなく、多くの人にとって目の前の現実でもある。

今回の舞台でも、感情を激しく噴き上げるというより、言えないままのみ込み、沈黙のままやり過ごす、その抑制の中に家族の“圧”がにじんでいた。その見せ方が、この作品を上演する理由を逆に浮かび上がらせていたように思う。

木野花はそこをよく知っている演出家なのだと思う。

こうした人間の綻びを見逃さない。昔はその綻びを剥き出しのまま舞台に置いていたが、今は違う。その綻びを、観客が自分の問題として舞台から自宅に持ち帰れる最適な温度に調整している。

だが彼女は決して丸くなったのではない。長い間の表現者としての葛藤の中で、届かせ方を覚えたのだと私は思っている。

ただ、正直に言えば、少し物足りなくもある。

昔の木野花なら、あの頃の役者なら、もっと壊していたはずだ。もっと露悪的に、もっと不安定に、もっとふしだらに観客の足場を奪う方向へ転がっていったのかもしれない。

山田太一という強い原作を前に、本作品での彼女は壊すことよりも「照射する」を選んでいる。その彼女の判断の成熟は成熟でありよく分かる。だが今のその抑制もまた、単に守りに入った結果ではなく、観客や時代の条件を引き受けた上で、令和の今ならではの別種の攻め方なのかもしれない。 

よく分かった上で、あの90年代初頭の不穏さを知っている者としては、何か一か所くらい、崩してほしかった気持ちが残る。

その未練が残るのは、たぶん今回の舞台が良かったからだ。
今朝、朝ドラ「ばけばけ」が最終回を迎えた。
そして同じ日に、「マンガ大賞2026」の結果が発表された。

この二つ、一見無関係に見えるが、実はかなり私の中では繋がっている、今、私たちが求めている「物語」がくっきり表れているからだ。

共通しているのはひとつ。

かつては「みんなが同じ話を信じていた」大きな物語から、
「自分の身の回りの話」を描く物語へのシフトである。

▪️ マンガ大賞に見える“日常の強さ”

今回の上位作品を並べてみると、ある傾向がはっきりする。

『本なら売るほど』は古本屋の話だが、実際に描かれているのは「本」ではない。本を手放す人の事情や、そこに宿る様々な記憶である。

『「壇蜜」』も、いわゆる芸能人の話ではない。
「夫婦の距離感」という、誰もが抱く思いだが言葉にしづらいものを、淡々とすくい上げている。

『邪神の弁当屋さん』は設定は奇抜だが、読んでみて気になるのは、弁当の中身と、それを受け取る「人との関係」である。

つまり、どの作品も、「大きな出来事」は起きない。代わりに、生活の中でしか見えないものを、かなりの粒度で描いている。

恐らく審査の際に評価されたのは、作品のスケールではない。“どれだけ細かく人間を描けているか”だったのであろう。

ただ、ここは補足しておきたいのですが、小さい話をしているようでいて、必ずしもそうではない。実は外の世界とちゃんとつながっている。

日常の中に、社会との接点や役割が自然に織り込まれている。たとえば本の売買や弁当づくりといった行為を通じて、人と人との関係や役割が立ち上がる。

これが大事である。だから読者は、狭い世界に閉じた話としてではなく、「自分の延長線上の話」として受け取る。

▪️ 「ばけばけ」は、もう一段だけ深い

一方で「ばけばけ」は、マンガ大賞受賞作品と同じ方向にありながら、もう一段だけ構造が深い。

表面上は、家族や個人の話である。ただ、その背後には明治維新と近代化という日本の長い歴史の中でも稀有な「大きな物語」がある。

これが効いている。

作中では教科書に載るような歴史についてはほとんど説明されない。それでも、人物の選択や葛藤には確実に影響している。つまり、表では日常を描きながら、背後では時代が人物を動かしている構造になっている。

だから、ただの生活の話で終わらない。例えば同じ「家族のための選択」でも、近代化の大きなうねりの中で何を守り、何を手放すのか、その迷いが伝わってくる。

ただし、これは「ばけばけだけが特別」という話ではない。違いがあるとすれば、「ばけばけ」はその構造がよりはっきり見える形で描かれている点である。マンガもドラマも含めて、今の時代の物語は、日常の話をしているようで、その奥にはちゃんと社会がある。

▪️ なぜ、物語は小さくなるのか

理由はいくつかあると思うが、ひとつは「中間層の揺らぎ」である。

昔は、ある程度「普通の人生」という物語が多くの人々に共有されていた。学校を出て、就職して、家庭を持つ。多少の差はあっても、この「普通」から誰もが大きくは外れない。だから、大きな物語でも自分ごととして読めた。

だが、今は違う。

働き方も、暮らし方も、価値観もバラバラである。たとえば同じ「成功」の話でも、会社で出世することを思い浮かべる人もいれば、地方で自由に暮らすことを思い浮かべる人もいる。同じ物語を見ても、同じようには誰も受け取らない。

このとき、人は「理解できる物語」よりも、「自分の生活に重なる物語」を選ぶ。気がつくと、物語は遠くの話ではなく、自分のまわりの話になっていく。

ただ、この流れは中間層にだけ起きている変化ではない。

SNSや配信サービスの影響も大きい。

人は自分に近いものばかりを見るようになった。作り手も“確実に刺さるもの”を選ぶ。こうしたことが重なって、自分の身の回りの話を描く物語が増えている。

▪️ それは「分断」なのか

確かに、共感は広がりにくくなっている。
自分の生活に近い話には強く共感できるが、少し離れると途端にピンとこなくなる。

ただ、それが「悪いこと」だと言うつもりは全くない。

日常を細かく描くということは、自分がどう生きているかを、ちゃんと言葉にするということでもある。

そうやって自分のことが分かってくると、
「じゃあ違う人はどう生きているんだろう」と考えるきっかけにもなる。

なので、問題は、物語の大きさではない。
小さいか大きいかではなく、それが他の現実につながっているかどうかである。

▪️ PRにとっては、かなり難しい時代

この話は、そのまま企業のコミュニケーション戦略に跳ね返ってくる。

いまは、ブランドのメッセージも、生活者の日常に入り込まないと届かない。しかし、その場の体験だけで終わると意味がなくなる。

日常に寄り添うだけのブランドは、好かれるが、記憶には残らない。「便利だった」「気持ちよかった」で終わる体験だけでは、そのブランドがなぜ存在しているのかまでは伝わらない。

逆に、理念ばかり語るブランドは、共感されない。どれだけ正しいことを言っても、自分の生活に引き寄せられなければ届かない。

ここがいちばん難しい。

企業のマーケティングや広報の現場では、目の前の接点はとにかく具体的に作る必要がある。
店頭でも、広告でも、体験でも、すべてが生活者の実感に触れていなければ届かない。
しかし、その一つひとつが、ちゃんと大きな意味につながっていないといけない。

ここを設計できるかどうかで、ブランドの強さは決まる。

半径数メートルの物語が支持される時代である。これまで見落とされがちだった日常の細かい気持ちや関係が、ちゃんと描かれるようになったという点では、確かに前に進んでいるのだと思う。

一方で、私たちは「同じ物語を共有すること」が難しい社会に入っている。

そして気がつくと、自分とは違う現実を、うまく想像できなくなっている。たとえば同じ「働く」という言葉でも、会社で働く人と、フリーで働く人とでは、見えている世界がまったく違う。だからこそ、その想像力をどう育てるかが問われている。

「ばけばけ」は、その難しさに一つの答えを出していた。身近な話を描きながら、その奥にある時代の流れまで感じさせる。

結局、我々が問われているのは、小さな話の中にどこまで大きな意味を通せるかだと思う。
言葉に魔法があった時代が、あった。

作為を排した一文が、社会の空気を変えてしまったことがあった。ハイコンテクストな社会という前提の中で、言葉は「授かるもの」として機能していた。その時代に生まれた言葉の力は、本物だったと思う。

だが、その前提はすでに崩れている。

かつて成立していた「言わなくても伝わる」という感覚は、共有された文脈の上に成り立っていたにすぎない。

前提が分断された社会において、それを普遍的な価値として扱うこと自体に無理がある。

にもかかわらず、いまだに「自然体であれば伝わる」「作為を感じさせないことが価値だ」といった発想を無条件に正しいものとして扱っている。

それはもはや標準でも正統でも美徳でもない。構造の変化を無視したただの思考停止だ。

価値が届かない理由を、受け手の感性や時代のノイズに帰責するのは簡単だ。だが本質はそこにはない。設計されていないから届かない。それだけのことである。

実際、ある企業の広報方針を整理していると、「いいことをやっているのだから、きっと伝わるはずだ」という言葉で議論が止まることがある。私はそれを「ちょっと思いつき論」「ジャストアイデア論」「何となくいいよね論」などと呼んで揶揄している。

だが、それでは何も動かなかった。伝わる設計がなければ、価値は存在しないのと同じだと、そのときはっきり理解した。

感性の純度だけでは、価値は届かない。それは、もう何度も確認してきたことでもある。

求められているのは、情緒に依存した共感ではない。

不確実な要素を含めて設計し、価値を社会に実装することだ。不確実な中での再現性であり持続可能性でもある。

目的から逆算する。
論理を組み上げる。
その上で、物語を構築する。

言葉は、表現であると同時に設計でもある。

ナラティブとは、かつての一方向的な情報投下とは異なる。
正解を与えるのではなく、文脈を設計し、受け手が意味を構築できる状態をつくること。そのプロセスそのものだ。

受け手に委ねるのではない。構造を設計するのである。

コピーの季節は、確かにあった。今も価値はある。
しかし、それを普遍化した瞬間に、言葉は大切な機能を失う。

作為を否定する感性は、歴史として保存すればいい。今必要なのは、作為を引き受ける覚悟である。

沈黙も含めて設計する。
伝えることだけでなく、伝えないことも含めて設計する。

それが言語化だ。

情緒の魔法に頼るのではなく、設計図を手に未来を構築する。

その意思が、この時代における誠実さである。

朝ドラ『ばけばけ』の件ですが、、、

熊本編。せっかく舞台が新天地に移ったというのに、一週間近くも「トーストを焼く金網(焼き網)がなくなった!」と大騒ぎする展開でした。私は途中から海外に出てしまったので、しばらく視聴ができなかったのですが、「なぜ今、網一枚でこんなに時間をかけるの?」と首をかしげる視聴者を多くSNSなどで垣間見ておりました。

ただ、私は思うのです。この一見「ドラマの本筋に関係なさそうな小騒動」こそが、実はこのドラマの核心だったのではないか。

■ 「網」が教えた、日本人の不思議な優しさ

ヘブン先生が金網探しを通じて発見したのは、西洋的な「正義」や「真実」とは違う、日本人に特有の「空気」でした。それは、疑われた女中(クマ)を救うために、周囲がこぞって「優しい嘘」をついて場を収めようとしたことです。

ヘブンはそこで初めて、理屈では割り切れない「情」に触れます。この「網」の騒動がなければ、彼は日本を単なる「観察対象」として客観的に俯瞰するだけだったかもしれません。しかし、この騒動で自分が巻き込まれてみて初めて、彼は「この矛盾に満ちた優しい人々の中に、自分も混じって生きたい」と心から願ったような気がするのです。

■ 改名という名の、静かな抹消

ですが、その日本社会に「混じりたい」という願いの前に、厳しい現実が立ちはだかります。それは、親友の錦織によるあの鋭い警告(焚き付け)です。

「日本人になるということは、外国人としてのアイデンティティを捨てることだ」

のんびり・まったりだった日常のコメディが一転しました。「個人の尊厳」を問う重厚なテーマへと踏み込みます。このあたりは『虎に翼』の「憲法14条」ともつながります。さらに、かつて『マッサン』のエリーが、日本に帰化したことで故郷スコットランドとの繋がりを断たれ、戦時下で「どちらの国の人でもない」という孤独な淵に立たされたように、名前や国籍を変えることは、魂の一部を削り取る「代償」にほかなりません。

「なぜ、愛する人と共に生きたい」という思いを貫くために、自分の一部を殺さなければならないのか。この問いは、令和になった現在の私たちも直面している夫婦別姓や国際結婚の課題とも繋がっています。このあたりの現代性の取り込みが、朝ドラチームは本当に上手いです。

■ 守りたかったのは、権利ではなく「朝の匂い」

結局、ヘブンは錦織が指摘するようなリスクを覚悟の上で、「小泉八雲」になる道を選びました。これはなぜか?

脚本家が「金網」という道具にこだわった理由が、ここにあるんじゃないかと思います。彼が自分のアイデンティティを削ってまで守りたかったのは、「戸籍上の権利」といった記号的なものではない。

彼が欲しかったのは、朝の食卓で金網から漂うトーストの匂いであり、女中のクマさんと毎日交わす他愛もない会話であり、何より、妻であるトキちゃんと一緒に「笑い、泣き、歩む」という「ささやかな日常」そのものだったのでしょう。

自分の名前を捨てて新しい姓を名乗る。

彼にとってそれは権利や自由の「喪失」ではなく、愛する人と普通に生きるための「パスポート」を手に入れることだったのかもしれません。

これから最終回に向けて描かれるであろう「怪談」の誕生ストーリーには、こういった二人の血の通った決断が垣間見えるのではないかと思います。130年も前に彼らが守り抜こうとした「当たり前の毎日」の大切さが、世知辛い毎日を送る令和に生きる私たちの心にも刺さる理由かもしれません。

テレビを見ていると、不思議なことに気づく。 お笑いの世界では、誰かの言葉や表現を真似しても、むしろ笑いになることがある。


例えば、明石家さんまがトークの途中で突然「どんだけ〜」と叫んでも、観客は笑うだろう。 モノマネ芸人が歌手の声やしぐさをそっくりに再現して歌うのも、立派な芸として成立している。


どちらも、誰かの表現を借りているという意味ではコピーである。 それでも問題にならないのはなぜだろうか。


理由は、そこに新しい意味が生まれているからである。


モノマネは単なる再現ではない。 観客は「本人ではないのに似ている」というズレを楽しんでいる。

つまり意味は元の表現から生まれるのではなく、 元の表現と現在の状況のあいだのズレから生まれる。


同じ言葉でも、誰が言うか、どこで言うかによって意味は変わる。 モノマネやパロディが成立するのは、その文脈の差が新しい意味を生むからである。


コピーが許されるのは、コピーそのものではなく、 コピーによって新しい意味が生まれているときだ。


では、私が日々関わっている企画の現場ではどうだろうか。


企画とは、ある状況のために体験を設計する仕事である。 そこには必ず「その場にいる人」がいる。

もし前年と同じ内容をそのまま繰り返したらどうなるだろう。 新しい意味は生まれない。 ただ「去年と同じこと」を再現しているだけになる。


モノマネが成立するのは、元の表現と現在の状況のズレが新しい意味を生むからだ。 前年と同じ企画をそのまま繰り返しても、そこにズレは生まれない。 だから、それは企画ではない。


型は共有できる。 しかし作品は共有できない。


形式や手法を参考にすること自体は問題ではない。 問題になるのは、そこから新しい意味が生まれないときだ。


企画とは、目の前の人のために考えるものだからである。


形式は借りられる。だが、意味は借りられない。

りくりゅうの演技を観た。とにかく泣けてきた。

 

ジブリの物語には、"静かな決意"が流れている。登場人物たちは「世界の大きさ」に怯えながらも、最後は「誰かを信じる」ことで未来へ一歩を踏み出す。その心の揺らぎと覚悟が入り混じる瞬間が、りくが氷上を跳ぶときの、あの何とも言えない表情と重なった。

 

恐怖は消えない。恐怖を抱えたまま、飛ぶ。

 

はるか昔、人生のどこかで自分が経験したはずの感覚を思い出す。「誰かに預けた」身の重さ。母親の抱っこ。父親の高い高い。りゅうがりくを受け止める動作には、ジブリの男性キャラクターが持つ"静かな強さ"が重なる。彼は声を荒げない。思いや誓いを語らない。ただ相手の未来を支えるために、そこに立っている。

 

「支える」とは、ただ相手を「守る」ことではない。相手が自由に飛べるように、手を差し出すことだ。彼は身体でそれを示している。

 

ジブリの物語では、何も奇跡は起きない。描かれるのは「関係の継続」だ。この「信頼」というものは簡単には完成しないし、永遠に安定することもない。毎日揺らぎ、毎日作り直す。これが繰り返される。実は、ひどく儚いものなのだ。

 

りくりゅうの演技に私が胸を打たれたのは、彼らがその不安定さを一切隠さず、その不安定さの上に堂々と立っているからだろう。二人の間に流れているのは、技巧を凝らしたスケーティング技術やメダルのために人生を賭けた悲壮感ではなく、彼らが積み重ねてきた時間の密度だからだ。

 

この二人の一瞬の輝きには、偶然も奇跡もない。あるのは、二人がここに至るまで選び続けてきた必然だけが、ただ積み重なっている。

「日本人であること」に誇りを持つのは、とても自然なことだと思います。

私自身もその一人です。ただ、日本人であること「だけ」が誇りの拠り所になってしまうと、個人としても社会としても、少し心配だなと感じます。

その空白感が少しずつ目立ってきている。国籍以外に、自分を支える“説明できる能力や実績”がない空白です。

公共の場、特にSNSやコメント欄のような“誰でも参加できる場”では、その傾向がより強まっているようにも見えます。

国籍を理由に自尊心を保とうとしたり、他者を見下したり。

「自分は安全な場所にいる」という幻想に包まれ安心してしまう。努力不足や学びの遅れを無意識に正当化してしまう。

そうしているうちに、気づけば世界の議論にも仕事にも参加できないまま、「日本はすごい」と強弁してしまう。

これは誇りではない。ただの衰弱だと思うのです。

語学でも、プログラミングでも、編集でも、デザインでも、営業でもPRでも構いません。「説明できる成果物」を持つこと。作品、数字、実績、ポートフォリオ、プレゼンテーション。ただの国籍ではない、成果物で自己紹介できる状態を目指すこと。

円安ですから、バックパック背負って無理に海外に行く必要はありません。でも、英語の一次情報を読んでみたり、海外の求人票で求められているスキルを確認したり、DeepLやGrokを使ってもいい。世界の同世代が何を議論しているのかテーマを追ってみる。

日本国内や住んでいる地域の空気感だけでなく、外の尺度に自分を置いてみる。それだけで、今やるべきことが少しずつ見えてくると思うのです。

出不精ならば旅行に行かなくても大丈夫です。オンラインチャットだって十分です。海外の人と週に一回は話してみる。海外向けに文章を一本書いてみる。匿名アカウントでもいいから、英語でXで質問を一つ投げてみる。やがてこれが特別なイベントではなく、日々の習慣になります。

少しずつ外に出ることで、内向きの誇りが、もっと普遍的な誇りへとブラッシュアップしていくと思います。

国籍は、自分のスタート地点として大切にしていいと思いますが、それが自分自身の成果にはなりません。

日本人であることを誇るなら、日本語だけで完結しない場所で、自分の価値を、自分の外の基準でコミュニケーションしてみる。身の回りの“知り合い”ではない、まだ知らない誰かから認められていく。

その姿勢が、本当の意味での誇りにつながっていくのではないでしょうか。
小松怜奈風のネオソバージュで、ふわっと空気を抱えるみたいな髪型の女性がいた。年齢は20代くらいに見えた。あくまで後ろ姿の印象である。

その隣には、60代後半から70代に見える中村梅雀風の男性が、寄り添うように座っていた。こちらも後ろ姿からの印象である。

私はブレンドコーヒーを受け取ったあと、その二人の横を通り越して回り込み、対面の席に座る必要があった。そこしか空いていない。つまり、その二人がすぐ正面いる配置になる。

で、私は勝手に物語を作る。
これは長年に渡る職業病である。

明らかに「訳アリ」に見える。親子かもしれないが、距離感とやり取りの温度が、いわゆる普通の親子とか、普通の上司と部下とか、そういうジャンルの温度感ではない。“イチャイチャ”が過ぎるのだ。私は勝手に、勝手にだが、これはメロドラマだと思い込んだ。イヤ、不倫ドラマだ。『失楽園』? イヤ古い、『昼顔』だ。

こういうとき、私の視線は“加害者の視線”になり得る。だから目を上げない。スマホに集中する。見てない体で時間をやり過ごす。数十分。

その間も二人は仲良くチャイチャイしていた。幸せそうである。事件は私の脳内だけで起きている。

そして、そろそろ店を出ようかと思って、最後に一度だけ、正面からきちんと見た。

男性は、私より少し上くらいに見える。UNIQLOでコーディネートした税理士風の、60歳手前の中村梅雀風。これは後ろ姿の印象と変わらない。

一方の女性は、私と同じくらいか、55歳前後に見える。ネオソバージュがドンピシャ似合うYOUさん風のステキな方だった。声も見た目も。要するに普通に仲の良いご夫婦であった。

疑ってごめんなさい。

というより、勝手に物語を作って勝手に盛り上がって、勝手に「訳アリ」に仕立てた自分が、いちばん訳アリな55歳である。

最近の私の世代の女性は、良い意味で本当に年齢不詳だ。“若作り”という話ではない。ああいう髪型が“似合ってしまう”ことで、こちらの脳内の年齢推定装置が簡単にバグる。

結果、関係性の想像(創造?)まで芋づる式にしてしまう。情けないが、現実としてそうなる。

こういうとき、コラム書きの職業病が再発する。髪型だの服だの、つい描写したくなる。そこを省くと、私の早合点がただの陰謀論になる。またはただの“うっかりオジサン”になる。

でも今は、その描写が危ない。良かれと思った説明のつもりが、“ラベル貼り”に見える。観察のつもりが、“品定め”に思われる。

文章というのは、こっちの善意だけでは動かない。

それでも私は、表現の自由の方が大事だと最近はさらに強く思っている。もちろん他者の人権を侵害しない範囲で、という条件付きだが。

ここで言っているのは、外見を勝手に裁く自由の話ではない。観察の結果として起きた自分の誤認を、誤認として書くという「自由」の話である。むしろ裁かれているのは私の認知なのだ。

ところで、私以上の世代でネオソバージュが似合うのは、なかなかハードルが高そうだ。正統派で整っているだけでは、たぶん弱い。何かしら、良い意味でのノイズ、気合い、メッセージが要る。

YOUさん、夏木マリさん、鈴木京香さん。ああいう方向での“意思が前に出る”感じになる。ヘアスタイルが、その人の人生を語り始めるのだろう。

最後は少し強引にまとめてみた。

ドトールコーヒー…今や300円台なのですね。
あけましておめでとうございます。紅白歌合戦の振り返りです。長くなります。

第76回NHK紅白歌合戦(2025年)のテーマは「つなぐ、つながる、大みそか。」でした。世代、国境、価値観、分断──それらを「つなぐ」こと自体に反対する人はいないでしょう。

しかし今回の紅白は、理念としての「つなぐ」は掲げられていたものの、番組全体としては調和した物語になりきれず、結果的に部分最適化の集合体にとどまった印象が強く残りました。

視聴率は前半が昨年よりもかなり高め。後半は同じか少し下がるのかもしれません。あえて世帯でざっくりですが、一部が30%、二部が32%といったところでしょうか。(私昨年はほぼピタリ賞でした)ただ、もはや視聴率ってどういう意味があるんですかね??

このあたりを明確に視聴者とコミュニケーションしていくこと自体が、NHKのみならず放送業界にとって大切になる。そんな一年だと思います。ここではタイムシフトとかエンゲージメント指標とかごちゃごちゃ書きません。ここ数年は「参考指標」としても、もはや意味がない(弊害しかない)ような気がしているだけです。(大河ドラマ「べらぼう」の数字が低いこととか)

矢沢永吉、Mrs. GREEN APPLE、ちゃんみな、米津玄師、Perfumeなど、出演したアーティスト個人に目を向ければ、ほとんどがそれぞれの立場で最善を尽くしていました。だからこそ、「何と何をつなぐのか」「世代をどう跨ぎたいのか」という編集・編成側の強い意思が見えなかったことが、より際立ってしまったのだと思います。とにかく残念です。

一方で、今年の紅白は「老い」とどう向き合うかという課題を、はからずも突きつけました。全盛期の声量やピッチが出ない出演者が多かったのは当然です。

問題は、それをNHKがどう料理するかでした。郷ひろみ、布施明、矢沢永吉、松任谷由実、TUBEは、自身の見せ方を熟知した超一流のセルフプロモーションでした。一方、岩崎宏美、高橋真梨子、松田聖子には、番組側の工夫が今ひとつ足りなかった印象です。

それでも救いだったのは、ちゃんみなの直後に岩崎宏美を配置した点でした。令和的な過激さと昭和的な抑制を静かにつなぐ意図は伝わった。郷ひろみからSixTONESへの流れも同様です。もしそれが狙いだったのなら、見る側のリテラシーも同時に問われているのだと反省させられました。

理解しきれなかったのは、Mrs. GREEN APPLEの後に松田聖子を「青い珊瑚礁」で置いた判断です。松田聖子には時代を超えた楽曲が多数あるのに、なぜ1980年の夏の曲なのか。年末の紅白で、大トリ後の特別な位置に置く必然性が全く見えなかった。

もちろん大前提としては、この選択は、松田聖子の「原点回帰」と放送100年記念を意識したものと思われますが、特別枠なら、松田聖子ならではのアイドルらしさと神々しさで、もっと客席の熱量をつなぐ構成があり得たはずです。

あるいは単にMrs. GREEN APPLEで終わっては、彼らに関心の薄い中高年が逃げるから、最後のダメ押しとしたかったのか。いずれにしても、制作者が、何をどう、「つなぎたかったのか」が意図が伝わらなかったことが、最大の問題でした。

テレビは今、大きな転換期、場合によっては終焉期に差しかかっています。近年のNHKに対する批判も、個人的にはすでに危機的な水準に達していると感じています。もはや「SNSのせい」で済ませられる段階ではありません。公共放送である以上、NHKには、他局とは異なる覚悟と気概を示す責任があるはずです。

だから応援しているのです。。

その点で情けなく象徴的だったのが、aespaをめぐる一連の対応でした。出さないなら出さない、出すなら徹底的にアーティストを擁護し、最高の条件でパフォーマンスしてもらう。どこの国籍でも出演者を公平に扱う。放送局として極めて基本的な原則が、今回は守られませんでした。

かつてNHKは、美空ひばりでさえ「干す」ことを厭わず、復帰の際には特番を組み、三顧の礼で迎え入れた放送局です。今回は事務所やK-POPファンへの配慮、忖度が透けて見え、一方でクレームや署名活動にはビクビクとし放送局側の事情ばかりが可視化されてしまった。その中途半端さが、非常に残念でした。

「放送開始100年」という言葉も、番組内で何度も繰り返されました。PRの専門家として言えば、「周年」というのは基本的に顧客には関係ありません。局員にとっては重要な節目でも、視聴者にとっては50年でも100年でも本質的な意味はない。顧客に向けて語るのであれば、明確なメリット、つまり「なぜ今これを見るのか」という意味付けが必要です。

それができないなら、徹底的にキャンペーンとしてインセンティブ訴求するか、いっそ語らない方がいい。懐かしい番組や楽曲、アーティストが断片的に登場しましたが、それらは有機的に「つながって」はいませんでした。「あんぱん」や戦後80年と形式的に接続しただけで、全体観としては「大きな構成」に拙さが残ったと思います。

視聴者との「つながり」を演出したかったのでしょう。乃木坂46の歌唱中に番号を表示し、リモート参加させる企画は、その象徴でした。しかし結果は“最悪“でした。テレビを楽しんでもらうとは、料理人が料理を美味しく食べてもらうこと、教員が授業をきちんと聞いてもらうことと同じ、最も基本的な姿勢です。その場でリモコンを触らせる方向に誘導してしまった。企画の向きがズレています。

多くの人はいまもテレビが好きで、「大晦日くらいは画面に向き合いたい。」という本当のインサイトに対する価値提供、その理由を用意できなかったことが、瞬間的ではありますが視聴者離れとして数字に表れたのだと思います。みんながみんなリモコンでクイックに操作できないことは、「NHKプラス」の騒動で流石に気付いたと信じていたのですが。

司会についても、多くの課題が残りました。有吉弘行さんはおそらく3回目で一区切りでしょう。AKB48初期メンバーとの絡みは毒舌も含めて良かったですが、あれは過去の民放番組での共演や、身内に近い関係性があったから成立したものです。有吉さんの芸風は、親しい人との距離感の中で毒づくところに強みがある。

改まったゲストが並ぶ大舞台には、やはり基本的に向かない。その限界が今回は見えてしまったと思います。厳しいですが、こうして芸能界の頂点まで来ました。お疲れ様でした。私は「突撃!カネオ君」のそらちゃんとの絡みが昔から有吉さんらしくて好きです。

今田美桜さんは初司会として大健闘でしたが、やはり荷は重かった。「朝田のぶ」としては最高の主演女優でしたが、紅白司会としては厳しかった。貴重な一年と通過地点になったのだと思いました。

綾瀬はるかさんは過去の司会経験から壇上でのキャラクターは想像できましたが、期待されたほどの良い意味での「ボケ」はなく、タイムキープに長けてこなれたというわけでもなく全体に「拙い」印象でした。紅白の司会が、いかに難しいかを改めて感じさせます。

決して彼女たちが悪いわけではありません。一方で、改めて橋本環奈さんの司会者としての完成度の高さを実感しました。朝ドラの視聴率で評価を下げられた印象がありますが、ほとぼりが冷めたら再登板してほしい。そして次は高石あかりだと、個人的には踏んでいます。

米津玄師のパフォーマンス中、AR演出に起因すると見られる技術的な「つながり」の乱れが話題になりましたが、私はそれほど気になりませんでした。我々が見たいのは、すごい放送技術ではなく、すごいアーティストとパフォーマンスです。

裏方のトラブルに業界内で過度にこだわると、視聴者とのナラティブが失われてしまう。本当にレンダリングのスピードの問題なのでしょうか?とはいえもちろん気にはなります。ここは影の主役(縁の下の力持ち)技術さんたちの出番です。

個人的には、ここまで特別枠で過去を振り返るなら、最初から小林幸子という切り札を切り、テレビ100年を記念したテレビ史上最大級の衣装を最高の技術で、いっそ屋外からやってもよかったのではないかと思います。

シンプル&ボールドな分かりやすさはこの番組には絶対に大事です。これは「費用」(コスト)の問題ではなく「ブランド」(投資)の問題です。実際の現場では想像以上にお金を使いにくい空気なのでしょう。悔やまれます。

そして紅白は一度、1970年代、80年代の原点のフォーマットに立ち返って整理した方がいい。出演者も演出も盛り込みすぎです。オープニングで紅白それぞれの演者が一組ずつ歩いて登場し、中央で挨拶し、会場から一斉に拍手を受ける。Mステ特番がこんな感じでした。審査員が1人ずつ順番に紹介され、衣装対決や応援合戦を堂々と“コテコテ“にやる。

制作側が「古臭い」と思って排除してきた要素の多くは、Z世代にとってはむしろ新鮮です。最近は社内旅行や運動会を違う意味で開始する新しい企業もあります。

時代が変わっても人間はそんなには変わらないのでしょう。

紅白の強みは、「変えても変えても変わらない」部分にある。これは京都という街や日本という国の国柄にも言えることかもしれません。無理に空想上の「今風」に寄せるよりも、「本質」に立ち返ることは重要です。もっともその「本質が何か」が一番難しいのですが、そんな難しいことはNHKや放送業界の皆さんで、日々考えていただければ良いと思います。

編成権は局にあります。

その肌感覚を取り戻せるかどうかが、これからの紅白歌合戦の分かれ目だと思います。

今年もどうぞよろしくお願い致します。