お盆が近いので、試みにご先祖様、讃岐高松家の系譜を考察してみた。

自分の代から祖父、曽祖父までは分かるが、そこまででだいたい戸籍制度の開始された

明治初期か江戸末期になる。それ以前を調べるとなると菩提寺の過去帳、墓碑銘などから

だろうか。残念なことに江戸時代中期から末期の讃岐高松家の詳細は明治期に菩提寺で

内紛があったそうでよく分からない。南北朝時代の高松頼重から数えると自分で26代目位の

末裔と聞いている。現在もどうにかならないものか調べてはいるのだが(^_^;)・・・。

 

天正年間の高松城主(喜岡城)高松頼邑

 

 江戸中期頃に高松家の子孫が書いた『高松内匠武功』を中心に『全讃史』、『南海通記』、

『翁媼夜話』、『古今讃岐名勝図絵 』、『讃岐人物伝』、『讃岐人名辞書』などを参考にする。

『姓氏家系大辞典』では「讃岐朝臣姓」「清和源氏多田氏流」が採用されているのでこれが通説であろう。ここでは『翁媼夜話附録』にある「藤姓高松氏系図」は採用されていない。この系図は藤原家成を始祖とするもので、羽床、新居、福家、新庄と代を経て姓が高松に変遷

するものだが、個人的にそのようなことがあるのかはなはだ疑問を持った。従来の讃岐の

歴史書の説にも符合しない。天正十三年(1585年)の羽柴秀吉の四国攻めで、高松頼邑は

長宗我部元親に味方した。その後に頼邑の子の憲重は秀吉の家臣小西行長や生駒親正、一正に仕えることになるのでこの系譜は江戸初期に創作されたものと観る。落ち武者狩りを逃れるために高松から新庄に一時的に変名する必要があったと推測する。頼邑の妻の旧姓が新庄だったのかもしれない。なぜなら高松憲重(長重)の代のみが詳細で、それ以前が

あまりに簡略化されているからだ。慶長三年(1598年)に秀吉が他界し、影響力が弱まったので新庄から元の高松姓に改めたと考えるのが妥当ではないだろうか。

 

高松家系譜

 

景行天皇神櫛王 ・ ・ ・讃岐朝臣直高―高松元頼(高松氏祖、奈良時代) ・ ・ ・ ・ 

※この辺りまでは伝説の域であろうか、屋島軍団との関連を推測(^_^;)

高松(舟木)頼重(南北朝時代)―頼春―頼冬―頼包―頼持―☐―☐―☐―☐―

 

某(六郎)―某(左近)―頼邑(天正年間で頼重から12代目、左馬助、嘉重、長光)―

 

憲重(慶長年間、長重、内匠)―久重(長次、内匠)、弟に御宮丸・・・・・・曾祖父―祖父・・・自分

・又五郎、遊誓坊のち改め沙門順誓 六条邑一向宗(浄土真宗佛光寺派)長専寺開基

・女子 喜田総太夫某妻

兼盛 高松孫蔵のち改め孫右衛門・・・・・・曾祖父―祖父・・・自分

・女子 同(岡?)七郎右衛門某妻

・某 高松次郎兵衛

・某 高松次郎右衛門

 

 高松憲重には弟が四人、妹が二人いて、子供が久重である。『高松内匠武功』によれば、

憲重が他界した時、久重が讃岐を出奔して家督を継ぐものがいなかったので生駒甚助正信

を養子にしたとある。御宮丸がまだ幼少で家督を継ぐことができなかったのであろうか。

御宮丸というのは高貴な感もあるので生駒甚助正信のことなのかもしれない。大阪の陣では高松久重を頼って生駒甚助正信も豊臣方として出兵している。大坂の陣の後、高松久重は

讃岐を離れ、伊勢桑名藩松平家に番頭(大名警護の長)として代々仕えることになる。一方、生駒甚助正信は讃岐と阿波の「境目の大イチョウ」の下で切腹したとも、殺害されイチョウ下に葬られたとも言われる。後世ここでは祟りや怪異が生じたとの伝承もある(||゚Д゚)怖ァ・・・。

 このようなことから推測すると讃岐高松家の末裔は長専寺を継いだ沙門順誓の一門、久重の弟である御宮丸か、兼盛を筆頭とする憲重の弟3人の内の何れかが家督を継ぎ今日に

至っている一門なのではないかと推測するのである(-∧-)合掌・・・・・・

今後もライフワークとして調査していこうヽ(^o^)丿

 

・『翁媼夜話附録』にある源姓高松氏系図

 

・『翁媼夜話附録』にある藤姓高松氏系図の一部拡大

全体

 

・『讃岐人物伝』にある神櫛王系譜