きょう、「未来」の仲間である岩田儀一さんのご葬儀に行ってきました。
岩田さんは、ALSという難病と闘っていて、発症から9年7ヶ月、人工呼吸器をつけてから7年、今月17日に64歳の生涯を終えました。
この日が来ることが近いことはわかっていて、覚悟はしていたものの、現実となるとやはりなんともいえない悲しみがあります。

新宿から中央線の青梅行きに乗って、長い長い時間をかけて青梅に向かいました。
青梅は、15年くらい前に「zo・zo・rhizome」という同人誌の合宿で行ったことがあります。まだ「未来」に高島裕さんがいて、中澤系さんも存命の頃です。夜通し飲んで喋って、翌日は御岳山で吟行をしたことを覚えています。そういえば、中澤系さんも、似たような病気で亡くなったのでした。

葬儀場に入ると、岩田さんの遺影を中心に、若い頃からの写真がいくつか飾られていました。遺影は、トライアスロンのレースのゴールの瞬間の写真でした。満面の笑顔と、漲る筋肉の。その写真を見た瞬間に涙がどっと溢れてしまい、そのあとはもう泣きっぱなし。

喪主として奥様のご挨拶は本当に暖かく、このひとが岩田さんを支え続けていたことを僥倖のように思いました。最後まで、短歌が彼の支えであったことを、しみじみと伺いました。花入れのときには岩田さんに、「お疲れ様でした」「ありがとうございました」とだけ言いました。そのあと、奥様と少し話して、大学時代の友人たちのおかげで短歌を続けることができたことを聞きました。呼吸器をつけたあともしばらくはキーボードを打つことはできたものの、だんだん指も動かなくなり、最後はわずかな眼球の動きだけで入力できるシステムをつかっての作歌でした。そうやってつくった短歌は、「未来」の角田さんのところに送られ、角田さんが岡井さんのところに送っていました。毎月届く「未来」は、大学の友人たちがかわるがわるボランティアで朗読してくれて、岩田さんに聞かせていたのでした。写真の飾られたいたところには「未来」の2月号の岩田さんのページが開かれて置かれていました。岩田さんの作品は、4月号までは掲載されます。先日、3月号の「未来」を校正していて、もうほとんど短歌のかたちにはなっていない、断片のような作品を読んだとき、祈るような気持ちになったものでした。

これまで、入院されていた病院にお見舞いに行こうと何回も思ったのですが、結局行けずじまいだったことは悔やんでも悔みきれません。ただ、行っても何もできないし、話すことはおろか、なんの反応もない岩田さんを見て辛くなるだけだから、と角田さんに言われていました。何回かメールのやりとりをしたり、お手紙を書いただけで、逆に岩田さんから励まされたことや力をいただいたことのほうが多かったです。

第一歌集『内線二〇一』を上梓されたのは2007年のことで、その頃はすでに発症されていたので、大急ぎで歌集批評会をやったことを覚えています。

<方法>が先か<意志>かと問うている二十歳のノート読めば苦しも

いま、その日の日記を読み直して、懇親会で岩田さんがビールを飲んでいてはらはらしていたことや、学生結婚で籍を入れる前に子どもがふたりもいた話を聞いたこととか、岡崎裕美子が酔っ払って会計を何回もしようとしたこととか、ああ、ああ、と、思い出してはまた涙が……。

わたしと岩田さんはちょうど10歳違うので、岩田さんが発症したのはちょうど今のわたしくらいの歳なんですね。この先の10年が、もしも岩田さんと同じ運命だとしたら……。その残酷さを思うと本当に言葉を失います。
でも岩田さんは、希望を失うことなく、前向きに、貪欲に、命を全うされました。

7年ぶりに呼吸器とその他彼を繋いでいたすべての管を外されて、自由になった岩田さんは、きっと今頃思い切り伸びをして、走ったり歌ったりしているのかもしれません。
岩田さん、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。