私はたまにですが、「どうしてあの人とお付き合いしてるのですか?」とか「あの方とお知り合いなんですね」とか「仲いいんだあ?!」とか言われることが多い。どちらかと言うとネガテイブなニュアンスですが、意外だからか、それとも私とその方々の距離感を測っているのか、そう言うことを言われることがたまにある。


もっともこう言うことを私に直接確認できる人たちですから、私に対しては好意的で、私も近しく感じている方には間違いありません。そんな方でさえ、そう確認したり聞いたりするわけですから、世間ではもっとそう感じている人が多いのだろうと予想はつく。


恐らく、私にとってその質問の対象の方が余程好ましくないか、或いは、その方が余程妙なのかだろうとはわかりますが、私にはさして問題のあることはされないし、私も断る理由が見つからないから、誰に関係なく普通にただ接している。


そう言えば、私は中学生の頃からそういう傾向がありましたね。

世間で言うところの「ツッパリ」や「嫌われ者」、「はみご」な方達との付き合いも、多かったですね。だから、そのグループと周りから見られたことがありました。

それは高校になってもその傾向があって、それぞれに加えて「オタクな方」や「気難しい方」など、最近で言うところのウザいとされてしまった方や面倒な人たちも加わりました。


そうなると面白いもので、私を遠巻きにしてみている周りが、彼たちが私との接触を望まないか、好ましくないと思う人たちを都合よくグルーピングしたグループが多くなり、複雑になっていき、私のそれぞれの人との関係性が複雑になり、整合性や論理性が見つからなくなり、やがて理解できなくなるようで、結果、「あいつ(私のこと)はああ言うやつ」と言うことで初めて私が普通に接しているだけという事が理解されるようになります。


大学に入ると、以前も書いたかも知れませんが、耳の不自由ないわゆる障がいをもった人や在日の方々や被差別部落の方々など社会から差別を受けた人たちにさらに広がるわけですが、周りからの目はかなり先鋭され、また特殊なものを見るような目になるのですが、こちらも結局は、私が「ああ言うやつ」と括られるようになり、中にはそれが「ちょっとすごいかも、あいつ」と勘違いしてくれる人も出てくるようになり、これが面倒かと言えば全くそれはなく、かえってこれは私にとってありがたい性質で、お陰で、誰とでも気兼ねなく話をすることができるようになりました。


ですから、世間から少し「ういている」人(あえてこの表現を用います)たちとお話しすることがとても、当時の私の周りからすると多かったかと思います。


もちろん、当時は今ほどダイバーシティな雰囲気はありませんでしたから、そんな私のそれを見て、いろんなことを囁く方もいましたが、私は単に人の話を聴くのも好きで、それに対して意見も普通に言ってしまってるだけで、来るもの拒まずでお話ししたり、来ない方も私の側にいたら声かけることもあり、そうやって会話をしてきて、誰彼のためにはなくて、ただ会話を楽しんできただけでした。


私は周りから「ういた」人もそうでない人気者の方も、普通に接しています。

こう書くと良人善人に誤解されそうですが、それしか出来ないだけで、使い分けられないだけなのですが、結構昔から口が悪く(これも昔からの性質です、かなり抑えてます)、ズケズケと言ってしまいます。

たまたま見た校閲ガールの河野悦子見ていて、そう感じました。丁度あんな感じのところが昔若い時はありました。

ただ悪意があるからではなく、関心がある方にそう言う傾向があり、逆を申せば、言わなくても良いような人にはわざわざ言わないところもありますので、自分自身の中には好意があっての言動なのです。


ですから、冒頭記したような、「どうしてあんやつと?」と言うような意見も私への好意だろうと思い、聴いてます。

ですから、言う方もとても大切な方たちに変わりなく、かと言って、「ういた」方々とのお話を止めるわけでもない。

むしろ、最近では、そんな世間からは少し「ういた」方をなんか出来ないかなぁとか、一緒に仕事したいなぁとか感じるようになってます。

それは無駄なことだと忠告してくれる人もたくさんいますし、言っていることも確かなのですが、無理のない範囲で、私は彼たちとも何かしたいと思ってます。


人は、付き合ってみると、大して変わりがなく、違いを見つけて、好き嫌いしているのは、当人自身の場合が多いですから、自分には取り柄がなくて出会いが全てのきっかけと思う私みたいな人からすると、出会いはやはり財産ですから、大切にしたいなぁと、いつも思ってます。


と言うことなんです。