どこに書こうかと、震災後一年の記事。悩んだ挙句に、ここに。
ただし、情報量は極端に減らしている。
むしろこっちの方が読みやすい?かも(苦笑)
一年たちましたね。
私は福岡市役所の横のふれあい広場での東日本大震災復興イベントに参加しました。
復興ボランティアの仲間がブースを出して、事務方やらもお手伝いしていましたし、私も参加したかったので。
報道できるだけ見てました。
私たちがボランティアに赴いた先も出てまいりました。
景色がわかるっていいですね。
なんか故郷を見ている気分になりました。
昨年は絆で締めくくった感じですね。今年もそんな雰囲気が報道からは、マスコミからは感じました。
しかし、何事においても行き過ぎは異臭を放つ。
それはたとえ甘美な、優雅な匂いであっても。
そう感じてしまう人もいるのではないだろうか?
だからかもしれないが、昨日見たニュースなどで、或いは私がいた会場で、昨日の14:46に黙祷もせず、立ち止まりもせず、行き交う人の多い事に、物凄い衝撃を受けた。
イベント会場の近くでなければ、その時刻に意識はせず、後で気がつく事もあるだろうが、半端ない人集りがあり、プラカードを持っているスタッフがいたりもしたり、或いはアナウンスがあったり、或いは手をつないでいたり、或いは合掌をしていたり、おまけにサイレンがなったりしていて、恐らく昨日がなんの日か確実に知っていて、その時刻に何があったのかも知っていた筈なのに、ただただ人の行き交うだけの光景を見た時に、もう日本人はいなくなったな、絆などはとうに感じる心根ももはやないなと、感じてしまった。
私はその日のその当日は、目をつむりてをつないでいたので、私のそばはどんなだったかは解らないが、帰宅して夜の報道を見たときそう思ったんだな。
もう絆って言わなくてもいいのかなと思う。
絆のない、求めない、そんな人たちに無理やり声かけしても解らないだろう。絆って、あるってわかりあっているもの同士で、初めてわかるものだから。
絆って、親子とかそんな感じのものだから。
誰でも絆があるわけではないんだと思っているし、そもそも。
絆ってもともと確固たるものだからさ。語源が確かそうだったから。
絆ってなかなかできないんだ。
だから契るんだよね。
だからさ、繋がって結ぶってのが、あっていると私は思っている。
でも、結ぶって面倒なんだな。
結ぶ方も結ばれる方も。
人もマスコミもそれをよく知っているから、多分使わないんだろうなとも思っている、最近。
でも、それだよなと思うんだな。
繋がって結ぶのが。
だから私はビジネスを構想するし、いつかそれが紡がれたら、もっと良いのかなと、そう言う意味でも、ビジネスを通じて、もっと端的にいえば、お金のやり取りを当事者同士で取り決めて、実際のお金のやり取りをやる事が大切だと思うんだな。
上手くは言えないけど、つまりなんというか、もう次のステージだよなって、つくづく思うんだな。
それを強く感じたんだ。
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