この記事からの続き
となります。
***
先の「零細の狼狽え」を閉めてからもいろいろ苦悩は続きました。
特にしんどかったのは、東京の友人が脳内出血で倒れたこととリーマンショックでしたね。
嫌なことはすぐに忘れる性分なので、もう遠い過去のような想いがしていますが、実はまだそんなに経っていないんですよね。
2008年でしたから、ほんの二年前だったわけです。
東京の心の友は、かれこれ長いおつきあいです。
最近は私も不義理をしていますが、彼ほど私のことを理解して応援してくれた方は今も昔もいません。
彼は今もリハビリ中だとのことですが、私が今がんばれているのは、彼のおかげでもあります。
彼は、私のビジネスを通じて、社会貢献をするということを、彼なりに実践していた方で、むしろ私の方が彼からの影響を受けています。
知り合ったのは、私が創業する前ですから、もうかれこれ10年以上前だと思います。
私が雇用を何とかして産み出そうとしていた時に東京に出向いたことは以前書いたと思いますが、当時私は、せいぜい自社内程度しかイメージ出来ていなかったが、彼はもっと社会全般を考えていらした。
彼のスタンスは創業支援を実践的行うことで、自らが犠牲となってやっていました。
彼とは、このシリーズでも少しふれましたが、知人の副社長の自殺も共通して目の当たりにして、それが契機となって、Venhooというプロジェクト構想つくり、今では形と規模を変えてこの間立ち上げた社団にこの構想が受け継がれているのですが、彼ともう一人元日立製作所だったかの方に相談をしながら1999年に創ったその時から、それぞれがそれぞれのやり方で何とか実現しようとしていた。
私の場合は、既にお解りの通り、あっちにぶれこっちにぶれ、気がついたら世のため人のためどころか、結局は自分のために奔走し、そして翻弄されるのですが、彼の場合は一貫してそれを体現していました。
そんな私を彼は、前職時代からも、私が離職創業してからも、影となり日なたとなって精神的に応援してくれ、その彼が倒れたことは、私には衝撃でした。
今ではこのvenhooプロジェクトを最初から知っている人間は私の周りには、私と沖縄のアメリカ人の社長さんしかいませんが、当時は社会起業家なんて言葉もなかった頃からのこの施策を、私は、この中小企業支援構想をやり遂げるのが使命なのかも知れません。
彼と毎月のように東京で接して、漸くvenhooPJの構想をやろうとして動き出したのが社団の前進の異業種交流会でした。彼のがんばりや声援がなければ、私は今でもぶれまくり、確実に行動に移して実践することはなかったように思っています。
なんせ、交流会を発足させても、私はぶれまくっていましたからね。覚悟が出来ていなかったです。
そんな私が、今はっきり言えるのは、彼が倒れたことが、皮肉にもぶれまくる私を原点に戻してくれたのは間違いありません。
今では年賀状のやりとりしか出来ていませんが、今度また連絡してみようと思っています。
***
2008年には確か北京オリンピックがありましたね。
当時も中小企業は決して景気が良かったわけではありません。
自民党政権下で、かなりの財政出動してくれましたが、小泉改革で広がった地方と都市部の格差は極限にまでいっていたし、消費も低迷して久しかったと思います。
現在にも及んでいる最大の政策は、こと中小企業からすれば、2008年10月31日から実施された緊急保証制度(五号認定)でしょうが、これがなかったら多くの会社が倒産して、社会不安に陥っていたことだと思います。
***
話は横道にそれますが、この政策の開始時期は麻生さんですが、おそらくこの政策決定過程では福田康夫さんがかなりかかわってくれたと思います。
今思えば、この二人の総理大臣はかなり中小企業の為に尽力して頂いたと思うし、福田さんの功績はかなり大きいと思う。(※福田康夫fWiki参照)
彼と小沢さんの大連立をしていたら今のようにはなっていなかったと思うし、民主党ももっとマシな政党になっていたと思う。
***
弊社のご多分にもれず厳しかったですが、なんとか凌いでいました。
ほんと、なんとか凌いでいたという感じですが…
きつかったですね。
北京オリンピックで日本は好景気になるとマスコミはほぼすべて、このオリンピック景気を予測していましたが、私はそれは中小企業にはないと明言していました。
それを覚えている読者もいらっしゃると思います。良く書きましたから(笑)
むしろ危機が起こるとまで書いたような記憶があります。
ですから、弊社も対策をしていましたが、なんのことはないリーマンショックには負けましたのは私でした(ガクン…)
それくらいの大危機でしたね。
あれからの約3ヶ月間、ぱったり仕事がなくなりましたからね。
倒産の危機というか、廃業の危機でした。
なんせ、大学の先輩の顧問税理士さんも「もうあきません」とはっきり言われましたからね。
おまけに緊急保証制度も弊社には適用業種ではないと判断され、資金繰りにも窮しましたね。
もう完全にアウトな状態でした。
ここで一つ余談。
五号認定で指定業種じゃないということで申請すら出来なかったのですが、実は、同業者は出来たと後で聞いたときはショックでした。
私には運がないというか、神様が「おまえはもう会社経営やめろ~」といわれたと、その時は思いました。
2008年12月の最終営業日に税理士さんから引導を渡されて、暗い正月を迎えた記憶があります。
で、正月明けから、また、廃業の挨拶廻りをまたしたのですが、その時に助けてくれた方がUPSさん という方です。
私に気を遣わせないようにと、仕事を創ってくれました。決して彼も楽ではないはずなのに…
とは申せ、私がいい加減なのは、私はそれに未だに応えていないところです。
これは本当に申し訳なく思って反省しきりです。
彼のブログからは、みじんも感じないかも知れませんが(笑;許してねー)、彼も日本の将来を真剣に考え、明るい未来を考えつつも、最近の日本を憂えている一人です。
彼のおかげで、私の会社は生きながらえたといっても過言ではありません。
それくらい助かりました。
かといっても事業の将来は暗澹たるもので、せっかくの支援も、当座の会社を閉める準備金になったのですが…
長くなったので続けます。
つづく…
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先の「零細の狼狽え」を閉めてからもいろいろ苦悩は続きました。
特にしんどかったのは、東京の友人が脳内出血で倒れたこととリーマンショックでしたね。
嫌なことはすぐに忘れる性分なので、もう遠い過去のような想いがしていますが、実はまだそんなに経っていないんですよね。
2008年でしたから、ほんの二年前だったわけです。
東京の心の友は、かれこれ長いおつきあいです。
最近は私も不義理をしていますが、彼ほど私のことを理解して応援してくれた方は今も昔もいません。
彼は今もリハビリ中だとのことですが、私が今がんばれているのは、彼のおかげでもあります。
彼は、私のビジネスを通じて、社会貢献をするということを、彼なりに実践していた方で、むしろ私の方が彼からの影響を受けています。
知り合ったのは、私が創業する前ですから、もうかれこれ10年以上前だと思います。
私が雇用を何とかして産み出そうとしていた時に東京に出向いたことは以前書いたと思いますが、当時私は、せいぜい自社内程度しかイメージ出来ていなかったが、彼はもっと社会全般を考えていらした。
彼のスタンスは創業支援を実践的行うことで、自らが犠牲となってやっていました。
彼とは、このシリーズでも少しふれましたが、知人の副社長の自殺も共通して目の当たりにして、それが契機となって、Venhooというプロジェクト構想つくり、今では形と規模を変えてこの間立ち上げた社団にこの構想が受け継がれているのですが、彼ともう一人元日立製作所だったかの方に相談をしながら1999年に創ったその時から、それぞれがそれぞれのやり方で何とか実現しようとしていた。
私の場合は、既にお解りの通り、あっちにぶれこっちにぶれ、気がついたら世のため人のためどころか、結局は自分のために奔走し、そして翻弄されるのですが、彼の場合は一貫してそれを体現していました。
そんな私を彼は、前職時代からも、私が離職創業してからも、影となり日なたとなって精神的に応援してくれ、その彼が倒れたことは、私には衝撃でした。
今ではこのvenhooプロジェクトを最初から知っている人間は私の周りには、私と沖縄のアメリカ人の社長さんしかいませんが、当時は社会起業家なんて言葉もなかった頃からのこの施策を、私は、この中小企業支援構想をやり遂げるのが使命なのかも知れません。
彼と毎月のように東京で接して、漸くvenhooPJの構想をやろうとして動き出したのが社団の前進の異業種交流会でした。彼のがんばりや声援がなければ、私は今でもぶれまくり、確実に行動に移して実践することはなかったように思っています。
なんせ、交流会を発足させても、私はぶれまくっていましたからね。覚悟が出来ていなかったです。
そんな私が、今はっきり言えるのは、彼が倒れたことが、皮肉にもぶれまくる私を原点に戻してくれたのは間違いありません。
今では年賀状のやりとりしか出来ていませんが、今度また連絡してみようと思っています。
***
2008年には確か北京オリンピックがありましたね。
当時も中小企業は決して景気が良かったわけではありません。
自民党政権下で、かなりの財政出動してくれましたが、小泉改革で広がった地方と都市部の格差は極限にまでいっていたし、消費も低迷して久しかったと思います。
現在にも及んでいる最大の政策は、こと中小企業からすれば、2008年10月31日から実施された緊急保証制度(五号認定)でしょうが、これがなかったら多くの会社が倒産して、社会不安に陥っていたことだと思います。
***
話は横道にそれますが、この政策の開始時期は麻生さんですが、おそらくこの政策決定過程では福田康夫さんがかなりかかわってくれたと思います。
今思えば、この二人の総理大臣はかなり中小企業の為に尽力して頂いたと思うし、福田さんの功績はかなり大きいと思う。(※福田康夫fWiki参照)
彼と小沢さんの大連立をしていたら今のようにはなっていなかったと思うし、民主党ももっとマシな政党になっていたと思う。
***
弊社のご多分にもれず厳しかったですが、なんとか凌いでいました。
ほんと、なんとか凌いでいたという感じですが…
きつかったですね。
北京オリンピックで日本は好景気になるとマスコミはほぼすべて、このオリンピック景気を予測していましたが、私はそれは中小企業にはないと明言していました。
それを覚えている読者もいらっしゃると思います。良く書きましたから(笑)
むしろ危機が起こるとまで書いたような記憶があります。
ですから、弊社も対策をしていましたが、なんのことはないリーマンショックには負けましたのは私でした(ガクン…)
それくらいの大危機でしたね。
あれからの約3ヶ月間、ぱったり仕事がなくなりましたからね。
倒産の危機というか、廃業の危機でした。
なんせ、大学の先輩の顧問税理士さんも「もうあきません」とはっきり言われましたからね。
おまけに緊急保証制度も弊社には適用業種ではないと判断され、資金繰りにも窮しましたね。
もう完全にアウトな状態でした。
ここで一つ余談。
五号認定で指定業種じゃないということで申請すら出来なかったのですが、実は、同業者は出来たと後で聞いたときはショックでした。
私には運がないというか、神様が「おまえはもう会社経営やめろ~」といわれたと、その時は思いました。
2008年12月の最終営業日に税理士さんから引導を渡されて、暗い正月を迎えた記憶があります。
で、正月明けから、また、廃業の挨拶廻りをまたしたのですが、その時に助けてくれた方がUPSさん という方です。
私に気を遣わせないようにと、仕事を創ってくれました。決して彼も楽ではないはずなのに…
とは申せ、私がいい加減なのは、私はそれに未だに応えていないところです。
これは本当に申し訳なく思って反省しきりです。
彼のブログからは、みじんも感じないかも知れませんが(笑;許してねー)、彼も日本の将来を真剣に考え、明るい未来を考えつつも、最近の日本を憂えている一人です。
彼のおかげで、私の会社は生きながらえたといっても過言ではありません。
それくらい助かりました。
かといっても事業の将来は暗澹たるもので、せっかくの支援も、当座の会社を閉める準備金になったのですが…
長くなったので続けます。
つづく…