お釈迦様の秘密
2024年7月13日(別ブログで投稿)
お釈迦様の一生。
高貴に生まれながら僧となり、自分を苦しめて答えを探した人。けれど、その答えは苦しみの後の人との関わりで得る事が出来た。
お釈迦様は、人は生きるだけで罪と言った。
悪魔の遺伝子と神様の遺伝子とは、何も人と人の関わりだけではない。私達の生きていく中で出会う、目にするたくさんの生命達との関わりでも顔を出す。
人は武勇伝を楽しそうに話す。
戦いは醜いが、楽しい話ならいい。そう思って面白おかしく盛って話聞かせる。けれどその武勇伝で、もし自分が勝った話を楽しく周りに聞かせたとして。周りはその楽しさに引き込まれて、話を聞かせた相手を称える。
その中に登場する負けた者は、当然悪役になる。
話した本人に悪気は無かったとしても、面白ければ面白いほど、物語は語り継がれる。
人は昔話で動物や鬼などを登場させる。でも大抵それは比喩であり、人間がモデル。
悪の行動は周りを騙す事、壊す事。正義の行動はそれを退治する事。
その言葉に惑わされる事なく、悪と正義の行動を見てみると。実はどちらも何かを殺していたり、痛めつけていたり。そして、現代ではそんな少し行き過ぎた物語を書き替えて世の中に出している。
ふと考えると、殺生や拷問、人を騙す事なんていつでも起こっている。食べる事。いじめ。研究。そして戦争。動物に対する虐待。
そんな人の醜さを、赤裸々に描いて伝えていたのが昔話だった。人が野蛮だったわけではない。人は嘘が下手で正直だった。
人の欲は当たり前かもしれない。けれど、必ずそれは何かの犠牲によって達成される。それを、はっきりと周りに解いて、お釈迦様は共感を得たのかもしれない。
けれど、人を許すというのは、その人の罪の責任を一緒に背負わなければならない。人がどんなに罪深いか知っていても許さなければならない。
本当に改心していない人間を許す事は出来ない。また繰り返すからだ。それは、誰よりも本人の為にならない。
それは苦しみも同じ。例え恨む相手が悪であっても、恨みの心も悪の遺伝子から起こる。
だから、無心になって邪気を払って、感情を抑えたのではないだろうか。そして、みんなが無になった時、本人が自分の邪気に気づく。
お釈迦様はそれを見て、その罪を自分で払えたのだと安心する。初めてその人を許せる。
でも、それを今の人達のどれくらいが気付いているだろう。
無心になる事。
瞑想する事。
それは、自分にある邪気に気付き、切り落として払う事が目的だと思う。
そして、その邪気を切り落として払うには、自分の中にある善意を信じなければいけない。心にある悪魔の遺伝子が、自分や周りを破滅させてしまう事を、お釈迦様は知っていた。
破滅とは、身体や精神が壊れる事ではなく、人として堂々と一生を終える生き方が出来なくなってしまうと言う事。それは、代々遺伝子に刻まれて残ってしまう事。
それを抑えるには、本当の自分を守らなければいけない。だから、精神を静かな場所へ置いて、本当の自分と向き合って欲しかったのではないだろうか。
苦しみを減らす事は、何も考えない事ではなく、考えて苦しみを減らす事だと思う。信仰や祈りとは、心の邪気を払う事を目的として行われていた。
神を信じるというならば、自分にある神様の遺伝子を信じる。育てる。自分を制御する。そして良い行いをする。
それが本当の、生き物全ての神様。
そして、その教えを伝える人達もまた、預言者となり神様となる。