***かすたの日常BLOG***

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たわいもない日常や思っていることなどを綴りたいとおもいます。

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村上春樹さんの短編集を空いたときに読んでいるのだけれど


この人の作品は無秩序なものが多くて、よく分からないものが多い

断片的なアイデアをつなぎ合わせて作品を作るのはポストモダンなんちゃらとか

いう手法らしい

これはストーリー性とかはあまり重要していなくて、雰囲気を味わうようなものらしいです


好きな人もいれば、あまり合わない人もいるでしょう


パン屋再襲撃という短編があるのですが


これは夜中にお腹がどうしようもなくすいてしまった新婚の2人が

パン屋を襲撃しようとしたところ

パン屋が開いてなくて

仕方なくマクドナルドを襲撃して

30個のハンバーガーを作らせ

車の中でハンバーガーを食べておしまいというお話です。

読んでみたら分かると思うのですが、どうでも良い話なのに

雰囲気は独特な綺麗な描写なのです

映像美みないな作品ですね









葬式で長い間会っていなかった人に、久しぶりに会ったことはありませんか?

長い間顔を合わしてなかったのに、葬式で何十年かぶりに知人に会うというのはそう珍しいことではありません。

「また、会いたいですね」「今度、会いましょう」

そんなセリフを最後に何年と月日は流れ、死んだ人間を囲んでたくさんの知人が集まるのは死んだ後。

生きているうちにはいつかまた会いたいと思っていても、日々の生活に追われる中ではなかなか行動に移さない、移せない。

会いにいけたのは死んだという知らせを聞いたとき。

まるで生きている人間よりも死んだ人間のほうに価値があるかのようです。

そんなことを思っていても、またいつもの毎日が過ぎていくのです。



年末に近くの居酒屋で火事がありました。

たくさんの消防車が来ていたようです。

また、それに伴い人も集まりました。

何が起きたのか興味本位の人もいたことでしょう。

ただ、お祭りとは違うのです。

なぜか、面白そうだから見に行こうという人の行動をみると

すこし厭な気持になります。

なぜでしょうか。

見世物ではないという気持ちが起こるからなのでしょうか。

よくわかりません。


日本ではよく新聞、テレビの記事などで名前の横に(20)のように年齢が付加されることが多い。

とても不思議に思った。年齢を加えることは必要なのでしょうか。

年齢があることによってテレビなどで芸能人が出ていて見た目が年相応だなと思うこともあった

り、何かの事件でこんな若い人が事件を起こしたのか!

などと思うこともある。


日本語で兄、弟というところを英語ではbrotherと言う。日本では年下なのか年上なのかを気に

するのだ。おもしろいとも思うけれど、年齢なんてどうでもよいと思うことだってある。


年上だからこうしようだとか、年下だからこう接しようなどと年齢という情報を知ることによっ

て失うことも多い。もし、年齢という概念がなかったら社会生活は全く異なったものになると思

う。ただ、そうなることはありえないけれど。


でも、本当は年齢という概念を突破らいたいと思ったりする。
私たちが今生きている現代社会において、マスメディアの果たす役割は大きい。

さまざまな情報が驚くほど多く飛び交い、その中に真実はどれだけあるのか。

マスメディアの問題点の一つに商業主義(コマーシャリズム)がある。

これはもうけを優先するために、テレビの視聴率や新聞や雑誌などの発行部数を重視することによって起こる問題だ。

テレビタレントや政治家の行動を、特にあまり良くない情報を、マスメディアは時に事実よりも過大に伝えることがある。

しかしそのことは私たちにはわからない。

そうすることで、私たち大衆は興味を持ち、テレビや新聞、週刊誌などの情報を鵜呑みにしてしまうものだ。

その報道の仕方で私たちは価値観まで変えてしまうことさえある。

マスメディアの報道の仕方次第では、小さな出来事もかえって大きな事件になるおそれもあるのだから恐ろしい。

そうなってしまうと、マスメディアがお金を設けるために故意に事件を作ったと言われても仕方がないのだ。


大きな本屋に行くと本の数の多さに圧倒されることがある。ジュンク堂や紀伊国屋など大きな本屋が

僕は好きだ。見渡す限りの本、本、本。通路を歩けばあらゆる分野の本が並んでいることがわかる。

それと同時にこんなにもたくさんの分野の本が、誰かの手によって書かれていることに驚いてしま

う。自分はこのたくさんの本の中のうちどれくらいの本を読むことができるのだろうか。おそらく

十分の一も読むことができないだろう。それでもなお、新しい本は絶え間なく発行されていくのだ。


しかし、それが人生だ。本に限ったことではないが、出逢うものもあれば出逢うこのないものもあ

る。自らの意志で出逢うこともあるし、偶然に出逢うものもある。そう思うなんだかわくわくしてく

るような気がする。

あなたが涙を流すのはどんなときですか。

悲しいとき、悔しいとき、嬉しいとき、そのようなときに感情が高まると人は涙を流す。


涙を良く流す人は感情豊かと言われる。

涙をほとんど流さない人は冷たい人と言われることもある。

しかし、それは時と場合による。会社で上司に怒られて人前で泣いたとする。

それを見て、誰も感情豊かな人だとは思わないだろう。

特に社会的な場面において涙を流すことは、弱い心の人間だと受け止められてしまうこともある。

その反対に、社会的な場面であっても場面が変わると印象は変わることもある。

例えば仕事が転勤になって別れてしまう人に対して別れの場面で涙を流してしまったとき、周りの人間は弱い心だとその人のことを思うどころか、綺麗な心だと思うかもしれない。

涙を流したときに周りが感じる印象は「どんな時に」「どのような意味の」涙を流すかでまるで異なるのだ。

あなたの流す涙がその場に相応しければ、人は心を打つ。

多くの人がそのような涙を流すことを願う。
子供の時、ドラえもんとかジブリなどをよく見ていました。ことあるごとに繰り返し繰り返

見ていたような気がしました。時間をもてあましていたのもあると思いますが、なぜ同じも

のを何度も見ることができたのか・・・今となっては不思議です。よく飽きもせず、ストー

リーの落ちもわかっているのに何度も見ることができたなものです。


今では、同じ映画を何度もみるよりも、まだ見ていないものを見たいという気持ちの方が大

きくなっているような気がします。時間は有限だからです。でも、ときには心に残ったもの

は期間を置いてまた見てみるのもまた感じるものは違うのでしょうね。それは映画に限らず

小説、漫画、音楽でもそうです。


新しいものを見たいという探究心と、同じものを再び見るという愛着心。バランスよく味わ

い人生の楽しみがより豊かになることを願います。
テレビを見るときは部屋を明るくして離れてみてねというテロップは、何かが起こるのを防ぐために必要だ。

これは1997年に起こったある事件がきっかけだったと思う。ポケモンのテレビ番組を見ていた子どもたちが「光過敏性発作」というものを発症し病院に運ばれる人がいたのだ。

この症状は光点滅により子どもたちに発症する恐れがあるそうだが、大人にとっても暗いところで明るいものをみることがあまりよくないとされている。

そのため、その事件以後は特にアニメ番組でテロップがでるようになった。


では、映画館で映画を見るときはどうだろうか。そもそも映画はスクリーンに映写機の光を映し出すものなのだから、部屋を明るくしては映像そのものが見えなくなってしまう。

そして、それ以上に僕が思うのは映画館は部屋を暗くすることによって、外部の世界を閉ざす効果があるのではないだろうか。

スクリーン以外に何も見えないことは、映画の世界に没頭して入り込むことができる。これは貴重な体験だ。だから、映画館で映画を見終えたあとというのは、部屋でDVDを見たときとは違う余韻が残ることがある。映画のストーリー世界から出てこれた感覚というのか言葉で表すのは難しいのだが。

とにかく、休みの日にたまに映画をみるのはいいものだと最近思った。

『年を経るにつれ、私はこの世が取り返しのつかないものやこぼれおちたものばかりであふ

れていることを知った。自分の目で見、手で触れ、心に残せるものなどごく限られた一部に

過ぎないのだ。』(永遠の出口/森絵都 から)


人生のあらゆる場面において、私たちは選択すること強いられる。それは朝ごはんに何を食

べようかなどという軽いものから、大学はどこにするか、この人と結婚すべきかなどという

重大な選択まで、実に多くの選択が私たちの身に幾度となくせまってくる。


そのたびに私たちは選択する権利を与えられるが、また放棄する義務ももたなければならな

い。それは当然のことだが、そのことによって私たちはどれほどのものを放棄、つまり手放

してきたのだろうか。いつでも一挙両得なら良いが、片方を得る代わりに他方を失うという

のが人生だ。


それはどうしようもない。そのかわりその一つ一つの選択を大事にしたい。それがとても長

く考えた末の選択でも、ときにはそのときの直感であってもよい。どちらにしても自分の意

志で行うことが大切だ。どんな小さなことであっても。その選択によってどんな結果になろ

うとも笑って生きていけるような人生を送りたい。