私と娘と孫 妹夫婦と孫達でのディズニーリゾートの旅行だ。


飛行機がついてバスに乗りディズニーシーへ向かった。

私と娘は25年ぶりのディズニーランドだ。

みんなわくわくしながら、人、人、人で混雑した中でパーク内を見て回った。

 

歩く 歩く 歩かないと目的地に着かないからだ。

 

アトラクションの列に並んだ。その時間が休憩時間となった。

 

アトラクションが終わると、又 歩いて歩いて目的の場所へ。

私は遅れないようにみんなについていった。


ディズニーシーの夜の花火がきれいだった。

 

次の日はディズニーランドだ。

人混みの中、見失わないように今日も皆についていった。

楽しみにしていたパレードやパーク内を見る事が出来て感動する事ばかりだ。


私は、スピードのあるものは心臓に悪いから乗れない。刺激がある乗り物に乗ると楽しいと言ってる孫達を見守るだけだ。。。

私はゆっくりの乗り物に乗って楽しんだ。

 

1日終ってホテルに戻った。

私「ああ今日は疲れたわ。万歩計1万五千歩になってる。エー驚いた。こんなに歩いた事はないわ。』


私はよほど疲れていたのか、みんなより先にイビキをかいて寝てしまった。

 

 

そして、三日目の帰る日

夕方の飛行機に乗る予定だ。バスの時間が、まだ一時間ある。

せっかく来たんだからと、ギリギリまで見る事にした。。

 

娘「あと1つアトラクション見れるね。それがすんだらバス停へ行こう」

 

私「そうだね待ち時間の短いのにしよう。」

 

そして、最後のアトラクションが終って、時計を見ると時間がせまつている。

 

娘「もうバス停へ向かわないと間に合わないわ。みんな 走るよ。

母さんも走って。」

 

みんな、走る。走る。みんな速い。

私も走った。

ハアハア 息切れがする。私は立ち止まった。

みんなが遠くなってゆく。私だけおいて行かれる。

男子孫が戻って来て「ばあちゃん もっと走って」と手をひいた。

 

私は又、走った。これ以上走れないほどに。

やっと出口を出た。

出口を出ると、荷物を預けたロッカーに行かなければならない。

 

娘「母さん違う ここじゃない。

場所が分からなくなった。

時間に間に合わない どうしよう。」

 

私「えっ ここじゃないの?」


そう言えば、覚えている景色と何となく違う

みんなでパニックになった。

行ったり来たり 困ってウロウロし始めた。

 

バスに遅れると飛行機に乗れなくなってしまう。

 

私「ウロウロしててもダメだから、あそこの係の人に聞いてみよう」

 

係の人によると、ここ以外にもう1つロッカーが坂の上の方にあると言われた。


ここから戻らなければならない。

 

今度は昇る坂道を走った。

太ももが痛くなって来た。。けれど止まるわけにはいかない。

ここで止まるとバスに乗り遅れてしまうのだ。何がなんでも足を動かさなければならない。。

顔は汗でびっしょり、顔がほてった。心臓はバクバクして破れそうだ。


先に行った娘がロッカーを見つけたようだ。


娘「みんな 荷物持って。」


 

娘「母さん あと3分しかない。急がないとバスに乗れないよ。。みんなバス停まで走るよ。」


今度は重い荷物を持って走った走った。

又、みんなが遠くなっていく。取り残されてゆく。

気持ちは (みんな待つてー)と言いたい。

だけど (先に行って、私が着くまでバスに待ってもらってー)が正解だろうね。

 

何とかバス停まで着いてホッとした。

顔と体が、ポッポッとほてって熱い。


バスがバス停に入って来た。

 

娘「あ~良かった間に合ったね。

母さん凄く走ったけど元気そうだね。まだまだ大丈夫だわ。」


妹達は先に来ていて、私達を心配して待っていてくれた。


私「あーやっと着いた。こんなに走った事ないわ。ころはないで走れてよかった」

 

 

みんなの足手まといに、ならないように必死で走った、走った。

こんなに歩いたりこんなに走ったのは若い時いらいだ。

 

思わず私は、♪行きはよいよい~帰りはこわい~こわいながらも♪~と口ずさんでいた。


それにしても、夫が亡くなった後に患った、脊柱管狭窄症で歩けなくなったのは、どこへ行ったんだろう?

こんなに走っても全く痛くならなかったのだ。


そんな事はすっかり忘れて走っていた。

 

 

 

 

 

 

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