強迫性障害を治したいと思いましたが、昔、信用金庫時代に心療内科に罹った時、軽い症状でもとにかくまず薬を飲むようにと言われたことがあり、薬の副作用が恐かった為、心療内科にはなるべく罹りたくありませんでした。
なので、自分で治そうと、医学論文を一般向けにした強迫性障害の本を4冊読みました。(森田正馬さんの本)
その本を読んで、強迫性障害になる人は、完璧主義で自己内省が強くて気づきの深い人だと知りました。
お釈迦様も強迫性障害に苦しんでヘトヘトになって、悟りを開けたということも知りました。
それを知って嬉しく思って、その論文を辞書を引きながら頑張って読み進めました。

そして強迫性障害が一番苦しい時、普通に生活もできず、もうこの世で生きていけないと思うほど苦しんだ時、その本とヨガの教科書を読んでいて突然、はっ!!と、「自分の感情や感覚は自然の摂理の一部だ」と、気づきました。
そして強迫性障害はほとんど治ってしまいました。
それは、それまで逆上がりができなくてずっと逆さまに見ていた景色が突然できてぐるっと回転して正しい方向から見えるようになったような、そして正しい方向から景色を見たらこの世界の何がどうなっているのかが前よりよく分かるようになったような、そんな体験でした。
それからだんだん、さらに景色がはっきり見えるようになっていきました。

そして、体の機能も心の機能も自然の摂理の一部だと気がついたことで、不安や恐怖は危機回避をして生きていく為に備わっている必要な機能だから、あるがままで良かったんだと分かりました。
不安や恐怖は無くすべきだと、必要な機能を義務的に無くそうとしてしまったから、おかしな良くない方向にずれていってしまっただけなんだと分かりました。

そしてこの世は何でも表と裏がセットになっていて、「より良く生きたい」という欲望の裏には必ず恐怖や不安があるんだと、だから「汚いのは嫌だ」という感情や感覚も、病気にならず清潔に健康に生きていく為に備わっている機能のひとつだから、そのままで良かったんだと気づきました。

ただ、やりすぎると全体で見ると逆になる法則があって、例えば潔癖になりすぎると、逆に1箇所だけしか綺麗にできず他に全く手が回らなくなって、全体で見ると逆に不潔で不健康になってしまうから、だめなのはマイナスの感情や感覚ではなくて、極端にやりすぎることや偏ることなんだということにも、気がつきました。

そして、やりすぎたり偏ったりしないようにするには、完璧主義を変えようとせず貫き通して、全てを完璧にしようとすれば、1箇所だけが完璧で他に手が回らないということも無く、全てがほどほどに調整されるんだと、それが本当の完璧だったんだと気づきました。
だから何も変える必要はなくてあるがままで、完璧主義を良い方向に伸ばしていけば良いだけなんだと分かりました。
逆に、「完璧主義は疲れてしまうからそういう性格は変えていくべき」みたいに、「こうあるべき、こうあるべきではない」と義務的になると、強迫性障害になったり、良くない方向にずれていくんだと分かりました。

ただ自分の中の本当に正しい欲望に従って、「より良く生きたい」という正しい欲望があるから、不安や恐怖や完璧にしたいという気持ちもあるんだと、あるがままの事実を認めて生きていくのが、きっと一番正しいんだと思います。
あるものはある、無理なものは無理だと、事実を受け入れればそれで良くて、義務感や強迫観念で事実を捻じ曲げようとしてしまうと、強迫性障害になったり間違った方向へずれていってしまうんだと、自分の体験から良く分かりました。

そう気づいたことで、ネガティブな感情も、この世で生きていく為の大切な必要装備だから、それを無くそうとしたり否定するんじゃくて、そのネガティブな感情を超えて、「今はこの危機回避の為にこの感情が働いてくれているんだな」みたいな感じで、感情に支配されるのではなく更に上から全てを俯瞰できるようになるのが、一番目指すべきところだなと、思うようになりました。
(その3へ続く)