カイザリヤ(1)
テルアビブの北約40㎞の地中海沿いに
カイザリヤという遺跡の町があります。
カイザリヤはイスラエルの北端の町
ピリポ・カイザリヤと区別するため、
「マリティマ・カイザリヤ」
と呼ばれています。
「マリティマ」は「海沿いの」の意味です。
↑現在のカイザリヤの海岸
カイザリヤは元々フェニキア人が
建てた小さな港町でしたが、
ヘロデ大王がアテネに匹敵するような
大きな港町を築くために、BC25年から
12年かけて大規模な工事をしました。
800m沖にコンクリートを流し込んで
大規模な防波堤を建設しました。
それによってカイザリヤは
この地方で最も安全な港となり、
交通の要所として発展しました。
さらにカイザリヤは円形劇場、競技場、
導水橋、皇帝礼拝の神殿などを備えた
一大都市となっていきました。
↑カイザリヤの復元図
①宮殿 ②円形劇場 ③競技場
④アウグストの神殿 ⑤港 ⑥灯台
⑦水道橋
↑現在のカイザリヤの衛星写真
ヘロデ大王はこの町をローマ皇帝
カイザル(アウグスト)に献呈し、
「カイザリヤ」と命名しました。
カイザリヤはローマ帝国で
最も麗しい町の一つと言われ、
ローマに次ぐ港湾都市として発展し、
政治的にも軍事的にも
重要な都市となりました。
↑カイザリヤの港の復元図
ヘロデ大王の死後、カイザリヤは
ローマ帝国のユダヤ州都として
直轄されてローマ総督府が置かれ、
総督が派遣されるようになりました。
そのためローマから遣わされた総督は
カイザリヤに住むようになりした。
イエスに死刑判決を下した総督
ポンテオ・ピラトもカイザリヤに
住んでいた記録が残っています。
1961年にピラトの名前が記された
石碑が発掘されたのです。
「皇帝ティベリウスをたたえ
カイザリヤに神殿を献堂した」
と書かれた石碑には
ピラトの名前が刻まれていました。
考古学的な発見によって、
聖書の記述が証明されたのです。
↑ピラトの名前が記された石碑
現在、この石碑はエルサレムにある
イスラエル博物館に展示されています。
石碑のレプリカ(複製)はカイザリヤの
ヘロデの宮殿跡の近くに置かれています。
ピラトは普段はカイザリヤに駐在し、
エルサレムでのユダヤ人の祭りの時は
アントニア要塞に移動しました。
石碑から海に向かって進んでいくと、
海に突き出ている岩場が目に入ります。
そこがヘロデの宮殿跡です。
↑ヘロデの宮殿跡
ヘロデ大王の死後、この宮殿には
ポテオ・ピラトが住んでいました。
その後、歴代の総督たちペリクスや
フェストもここに住んだのでしょう。
(使徒23:23-24、24:27-25:1)
パウロは第三回伝道旅行の後、
エルサレムで捕らえられ
カイザリヤに連行されました。
その時にパウロが監禁されていた
「ヘロデの官邸」(使徒23:35)とは
このヘロデの宮殿のことです。
↑ヘロデの宮殿の復元図
この宮殿は三方を海に囲まれ、
専用の船着場も備えていて、
中央には列柱付きのプールがあり、
長さ35m、幅18m、深さ2.5mがありました。
大理石のモザイクの床がありました。
現在、ヘロデの宮殿の一部は
海の中に沈んでいます。
↑ヘロデの宮殿の一部
パウロはここで約2年間過ごした
と考えられます(使徒24:27)。
その間パウロは総督ペリクス、フェスト、
そしてアグリッパ王2世の前で
大胆に弁明しました(使徒24-26章)。
フェストの前で弁明していたパウロは
皇帝カイザルに上訴しました。
パウロの訴えを受理したフェストは
パウロにローマに行くことを命じました。
(使徒25:11-12)
↑カイザリヤから地中海を望む
パウロはこのカイザリヤの海辺に立ち、
はるか海の向こうにあるローマを
見つめていたことでしょう。
(つづく)
シャローム!!
パスター
春日部グレイスチャーチ