趣味は中国 | 松山市はなみずき通り近くの漢方専門薬局・針灸院 春日漢方

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趣味は中国

 

私の仕事は、漢方屋ですから、中国から輸入した生薬を、中国古代の医学書に書いてある処方に基づいて、患者さんにお出しするの、を、日々のなりわいとしています。

 

そもそも、漢方医学、言い方は中国医学でもいいんですけど、それは、現代に生きている、「古代の医学」です。

 

どの民族、どの文明にも、「医学」というものは、ありました。

古代ギリシャ、アラビア、インド、チベットなど、高度の文明のあるところ、必ず、体系的な、生理・病理学、診断学の理論に基づいた、古代の医学が存在していました。

 

しかし、そこに、「客観的」で「実証的」な、現代的な「科学」が入ってくると、古代の医学の「理論」は、「迷信」として否定され、かろうじて生き残るのが、「有効成分」の探索をするための「生薬学」だけです。

 

それなのに、漢方医学は、古代の医学大系のまま、現代まで生き延びてきました。

生き延びて来られた大きな理由の一端は、漢字という「象形文字」を使う、言語体系にあったと思います。

 

そういうわけで、漢字そのものにも、ずっと興味がありましたし、漢和辞典も、その文字の本来の意味を知るために、よく引きました。

 

 

漢方の勉強は、そういう古代の中国人の書いた医学書を、書き写すことに尽きます。

中国人のものの考え方に、古ければ古いほど、ありがたい!というのがあります。

そういう考えに基づけば、もっともありがたい漢方医学の本が5種あります。

 

左上から、『黄帝内経 素問』『黄帝内経 霊枢』『八十一難経』『傷寒雑病論』『神農本草経』 の小曾戸丈夫先生による和訳本

 

黄帝とか神農とか、伝説上の半神半人の皇帝の名前を冠していますが、この五種の医学書は、いつ書かれたのか、誰が書いたのかも不明。

中国医学の基原をたぐっていくと、深い闇の中から、この五種の書物が半身を現わしてくるのです。

私の感じでは、古い所は紀元前1~2世紀に書かれ、その後、紀元後1~2世紀くらいにまとめられたのではないかと思います。

漢の時代の図書館の目録が残っていて、それによると、もっと多くの医学書が有ったようですが、結局、今日まで残ったのは、この五種の書物でした。

それは、印刷術の始まる前、手書きの写本しかない時代だから、元から評価が高くて、多くの写本が作られたものが、今日まで残ったということでしょう。

 

これ以降のすべての中国医学の書物は、この5種の書物を引用し、その解釈から、新たな理論を拡張することで、出来あがっていったのです。

 

そういう私の商売柄、いつも「中国」に興味があります。

いまの「中国」にも、「中国人」や「中国料理」「中国経済」、そして「中国の歴史」にも興味があります。

 

さいきん、中国のある時代の歴史の本をいくつか、まとめて読むことがありました。

 

今年の初めころ読んだのが、『三国志 Ⅰ』

『三国志』といえば、諸葛亮孔明が、超人的な活躍をするのは、ずっとあとに出来た小説仕立ての『三国志演義』

こちらは、3世紀に書かれた正式な歴史書

そのⅠは、曹操から始まる魏の歴史書ですが、文字が小さいのと、内容がプロ仕様というか、編年体の歴史だから、何年、何月、どこそこに出兵、敵の誰それを破る、などという、素っ気ない記述がずっと続いています。

そのシンプルな記事を、頭の中で組み立てて理解できない素人には、面白そうな物語性に欠けるもので、これは、ちと歯が立ちませんでした。

 

その中で、諸葛亮孔明は、蜀に仕え、その兄、諸葛瑾は、呉に仕えて弟とも協力した。その従弟の諸葛誕は魏に仕えた。

「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た」と、でてきました。

これは上手いことを言うなあ、と感心しましたが、この評語は、『世説新語』という書物に出ているというので、それを読んでみることに。

 

『世説新語』は、6世紀、南北朝時代にまとめられた、有名人たちのエピソード集。

この時代は、政治・軍事・文化に関する、人物評が盛んに行われ、官僚の登用も、世間の人望が評価のポイントだった。

それで、こういうエピソード集も作られました。

 

面白かったのは、たとえばこんなお話し。

宰相の謝安は、弟の謝万の横柄、傲慢な性格を知っていて、この度の戦に、万が総大将に任命されたとき、こりゃ必ず失敗するとみて、心配してついて行った。

兄いわく、しばしば宴会を開いて、諸将軍のご機嫌を取らないと。

弟は、宴会ではなんの挨拶もなく、指揮棒をふるって、諸君は皆、強い兵士たちだ、と。

諸将軍はこの一言で、すっかり機嫌を損ねてしまった。

兄は、これはまずいと、各方面に謝って回った。

案の定、戦に大敗すると、軍人たちは、負け戦のついでに、謝万をやっちまおうかと言い始めたが、中に、あのあんちゃんに免じて、こらえてやろうじゃないかと取りなすものがいて、謝万は命拾いした。

 

この本の中には、王敦、謝安、恒温など、何度も出てくる人物がいるので、スマホで調べると、ウィキペディアなどですぐに教えてくれますが、しかし、この時代の歴史自体を知らないで、当時の文化人、政治家、軍人の断片的な評判をいくら読んでも、仕方のない話。

 

それで、『魏晋南北朝』という本を読んでみました。

時代は、三国志の次の時代。 三国を魏が統一したのもつかの間、家来の司馬氏に乗っ取られて晋となり、その晋も、遊牧民族に南に追いやられる。

南半分では、晋から数百年間で、宋・斉・梁・陳の4つの王朝が交代し、いっぽう北では、五胡十六国といって、5つの異民族による、16の国がつぎつぎ乱立、消長をくり返した。

 

こういう、ややこしい時代の歴史を、著者の川勝義雄という人は、実にバランスよく軍事に政治、文化面のエピソードを配しつつ、自分の学説から筋道を立てて、この時代の全体的な流れを、説明していました。

その筆さばきの見事さに、感心しました。

 

巻末の他の人の解説によると、川勝氏は、六十代のはじめに、ガンで亡くなっている。

だから、彼の著書をネットで調べても、数千円する専門書は別として、私らみたいな素人向けの一般書は二冊ほど。

 

 

そのもう1冊が、『中国人の歴史意識』 

しかし、この本は、彼が一般人のために書いたものではなくて、1970年代に、学会誌などに発表した論文を集めたもので、私には少し難しい本でした。

 

この2冊の、あとがきによると、川勝氏と「二人研究会」を開いて、独自の学説を鍛え上げていった相手として出てくるのが、谷川道雄氏です。

『世界帝国の形成』と、大きなタイトルがついていますが、扱った時代は、『魏晋南北朝』とほぼ同じ時代です。

南北朝、5百年間の混乱を経て、まず隋が統一を果たし、すぐに唐に取って代わられて、唐は数百年間の安定した時代を作りました。

これを、世界帝国の形成といったのでしょう。

 

『交感する中世』は、中国史の谷川氏と、日本中世史の網野善彦氏の対談。

この本で、谷川氏と川勝氏が、当時の中国史学会で、提唱した独自の考えが何なのか、少し分かりました。

私の理解できた範囲でいうと、腕力がいちばん強いヤツが、最高の権力者になれるわけではない、ということ。

人々の承認を得られる「権威」がないと、人々の支配はできない。

中国の南北朝時代なら、人々の「人望」が備わっていないと、権力者になれない。それは上流貴族の家名でもあるし、個人の器量として、発揮されるもの。

 

谷川道雄氏は、熊本の水俣市出身。

兄弟に、戦後もっともラディカルな左翼運動を追求した谷川雁と、民俗学者の谷川健一がいます。

この本は、「日本の古本屋」というサイトを通じて、熊本市の舒文堂という古本屋で入手しました。

上通りにあるその古本屋は、学生時代によく立ち寄っていました。

代替わりはしたでしょうが、40年後に同じ古本屋が続いていたので、驚きでした。

 

幾つかの本を読んでの、個人の感想ですが、「君主制」はダメだな、ということ。

いくつもの王朝が出来ますが、初代の王様は、前の時代の軍人あがりで、兵隊たちや平民どもの気持ちを掴んで、仲間を集めて反乱を起こし、前の王朝を倒したから、人民各層の心の機微や、世の中の暗黙の仕組みは、よーく分かっている。

 

ところが、2代目以降になると、生まれた時から王様だから、自分が偉いから、王様になった。

何故、私は偉いのか? それは、私が王様だから。

そういう考えしか出来ない人間が、最高権力者になります。

親父の代から仕えている、口うるさい大臣たちと、閣議で面倒な話をするのは、さっさと早く切り上げて、3千人の美女の待っている後宮で、宦官どもにチヤホヤされたい。

かくして国家運営の実権は、寵愛する姫の実家と、宦官が争うことに。

 

王朝の2代目以降のやることは、美女収集か、贅を極めた宮殿造営など、これは国の財政が傾くだけで、害は少ない。

すこし困るのは、気に入らない家来を、片っ端から首をはねる暴君。

もっと困るのは、戦争趣味。

家来だけでなく、大勢の男が兵隊に狩りだされ、食料が挑発されて飢饉にもなるし、よその国も迷惑する。

そのようにして、五胡十六国などは、多くは3代目で潰れます。

 

国の方針を決める権力が、王様ひとりに集中しているから、王様がバカなら、国ごと滅びます。

あちこちに権力が分散していれば、別の選択肢を考えることも出来るでしょう。

 

最後は現代の物で、『豚と会話のできたころ』 楊威理

楊氏は、戦前の台湾生まれだから、当時の国籍は日本でした。

成績優秀で、東北大学に進学、後に東大に進むが、日本の敗戦で、台湾に帰り、さらに大陸に渡って、共産党員となります。

 

ここでも、成績優秀だから、、共産党の出版宣伝部の図書館部門で、それなりの出世を遂げていきます。

彼は、台湾の福建語、日本語、北京語が自由に話せて、他に英語、ロシア語、独仏語が読み書きできたようです。

 

そんなインテリ人生を大きく狂わせたのは、文化大革命。

彼は、文革の初めには、人々の尻馬に乗って、気に入らない上司を吊し上げたりしますが、そのうち批判が中堅幹部の自分にも及んで、遠くの農村で、養豚業をさせられます。

「豚と会話」していたのは、そのころのこと。

 

文革騒動が10年後に終わって、鄧小平の改革開放時代が来ると、元のインテリ幹部に戻れますが、「中国」は、彼に再び大きな決断を迫りました。

1984年の天安門事件です。

言論や政治的な自由を求める学生たちの動きに、新たな中国の未来を夢見ていた楊氏ですが、軍隊が北京市内に進軍してきたその日に、全財産と「中国」を見捨てて、妻と娘を連れて、ロンドンに脱出。

 

いまは、東北大学時代の友人のつてで、日本の大学に職を得て、いくつかの日本語の書物を出しています。

この本で、文化大革命が、どんなモノだったのかについて、ある程度のことは分かりますが、何故、当時の中国人は、そんなことをしたのか?

そして、また同じことをする可能性があるのか?

 

それは、私たち日本人が、80年前、アラ人神を信じて、全土が焼け野が原になるまで、アメリカとの戦争を続けたのと、同じではないか?

日本人の感覚だと、もう二度とあんなバカなことはしない、ですが、豊かになった中国人も、習近平がいくら望んでも、もうあんなことは、ゴメンだ、と言うのではないでしょうか?