帰国間近になると、忙しくなる、という先輩隊員の話はどうやら本当だったらしく、のんびりしていたら、帰国前の仕事の整理やら、必要書類の提出やら、お別れ会やら、なんだかんだで、全くブログもアップできませんでした。


帰ったら帰ったで(実は6月末には帰国してたんです・・・)、これまたなんだかんだで忙しく、なかなか帰国したことすら報告できず・・・。


というわけで、2年間のパラグアイ生活を終え、無事帰ってきました。


振り返ってみると、長かったようで短かった2年間でした。


日本のいいところもいっぱい見えたし、反対にパラグアイのいいところもいっぱい見えました。

日本を離れてみないと見えなかったこともたくさんあったかも。


仕事に関していうと、日本は本当にシステムがしっかりしていて、これは帰ってきた時に東京での帰国報告会なるものでも話していたんですが、私たちが当たり前だと思っているピラミッド型の仕事のシステムがないと、仕事は全然まわらない、ということは本当に感じました。


仕事において、きまりがきちんと守られるかどうか、仕事を評価するシステムがあるかどうか、これが一番大きな違いでした。特に仕事を評価するシステム、というものの重要性は本当に痛感・・・・。何度ここでつまづいたか。


仕事をがんばったら、いい評価をもらえる、という仕組みがないと、ひとはやる気を保てないんですよね。パラグアイでも、一生懸命やろうとしている人にはたくさん会いました。でもモチベーションを保つのはそれこそ、本当に大変。「パラグアイ人は仕事をしない」と一概には非難することはできないですよね。


自分の活動分野についても、私は助産師で母子保健分野でおもに病院で、妊婦健診率の向上と、妊産婦教育の推進を、ずっとやってきたんですが、結論としては「病院だけでは問題は解決できない」し「母子保健だけからのアプローチだけでは解決することは難しい」

ということでした。

いろんな問題が複雑に絡まってるんですよね。それこそ、極端なことをいうと、私の任地にいた保健師隊員の友人が「最終的には経済的な問題に行きつくんだけど・・・」と話していたように。


お金の問題あり、意識の欠如の問題あり、衛生教育の欠如の問題あり、地理的な問題もあり、医療機関のシステムの問題もあり、社会保障の欠如の問題あり、文化的な背景もあり。


それにパラグアイは日本も含め、いろんな国際機関、アメリカなどのいろんな国から、本当にたくさんの援助を受けていて、いろんなプロジェクトが行われているのですが、結局私が見た感じでは、「技術協力」を受ける末端は、アップアップしている感じがとてもしました。どんどん国レベルからはいろんなマニュアルが下りてくる、でも末端はそれをうまく活用できるだけの、余力はないん(ないように見える)ですよね。これは一個人としての意見なので、なんとも分かりませんが。


JICAがやっている「継続看護助産教育プロジェクト」とかだと、国レベルから下りてくる講習会にしては、めずらしく講習会をやる時のスタッフへの援助だとか、フォローにすごく力をいれてくれてるんだけど、そういう風にしようと思うと、あたりまえですが、やっぱり時間と経費がかかるんですよね。


技術協力とか、国際協力とか、すごく難しいな、と思い続けた2年間でした。


自分自身はそんなに大したことはできなかった感もありますが、それでも時には3歩進んで4歩下がる(笑)ようなこともありながら、少しは前進したのかな、と感じました。

母親教室は続いているかな、とか、梅毒の治療率は下がってないかな、とか、妊婦外来はちゃんとまわってるかな、とか、保健ポストとの連携はうまくいってるのかな、とか今でも心配なことはだいぶたくさんありますが、ちゃんと続いてなかったらどうしよう~と思うと怖くて聞けない(笑)。とっても小心者なので・・・・。


こんなかんじで、ずっとやってきたんですが、こうやって書くと、パラグアイって結構大変な国・・・って感じなんですが、パラグアイ人は案外、とっても幸せに生活してるんです。生活に漂う深刻感は、あんまり、というかほとんど、ない・・(笑)。反対に任地でみていたNHKニュースの暗さったら・・・・。


社会保障システムがなければないなりに、なんとな~くコミュニティの中で、なんとな~く助け合ってみんな生きてます。すごく、人のこと気になるらしく、お節介な人もいっぱいいるし(笑)。なんだかんだいって、何よりも、みんなやさしかった。帰るのすごいさみしいな、と本当に思うほど、相変わらず、出会い運の良さは健在でした(^-^)/


というわけで、2年間、とってもいい経験ができました。

ほんとよかった。


日本に帰ってきて、人の歩くのの早さについていけなかったり、変なジェスチャーは相変わらずでるし、方向音痴には拍車がかかったような気もしますが(今日なんて京都駅で荷物をあずけたコインロッカーを探せなかった・・・(笑))、でも、2年ぶりに、会いたかったたくさんの人に会えて、やっぱりすごい幸せを感じてしまう。


ぼちぼち日本社会に復帰していきます。

muchas gracias por todo.

先週は水曜からセマナサンタ(イースターの前の一週間)。

学校も職場も全部おやすみ。

というわけで、ホームステイ先の家族と一緒にどいなかのママ方のおばあちゃんの実家にいってきました。


朝は5時から乳しぼりからはじまります。

助産師かっしーのパラグアイ日記


水曜日はチパ(パラグアイの伝統的なパン?みたいなもの)を作ります。


ひき肉をつくる機械で、大量のチーズをミンチ状にし

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15キロのアルミドン(マンディオカの粉、かたくりこみたいなもの)を使います(ちょっと多すぎだよね・・・)。

助産師かっしーのパラグアイ日記


「次は~」

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半日かけてできあがったチパ(焼く前)

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タタクワという大きな窯で焼き上げます

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できあがったチパ!!

この週の金曜日はお肉を食べれなくて、火も使えない日なので、その日の非常食用に作り始められ、今ではパラグアイの伝統です。各家庭、それぞれのチパがあって、金曜日にはみんなでおすそわけしあいます。

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マテドゥルセ(ココを砕いたものに、甘いミルクをかけて飲むマテ)用のココを砕いてる子どもたち
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田舎では今でもガスではなく、たきぎをくべて料理しています。
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私たちのキャンプ
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近くの教会にあった日時計。ただいま11時。これはステイ先のママの頭かな?
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パラグアイで一番きれいな街アトゥラにあったカサデレティロ
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家族写真をパチリ。大人数だなあ・・・・・。
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トバティという街の観光名所。
助産師かっしーのパラグアイ日記


虹が太陽の周りにでていました。
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次の週はみんな学校あるから、もう出発。

大移動です。
助産師かっしーのパラグアイ日記


パスクワ(イースター)にもらったイースターエッグ(チョコでできてます)をもってにんまり(笑)
助産師かっしーのパラグアイ日記

暑さもセマナサンタまでということで、これが終わったら、そろそろ秋風が吹き始めるかなあ~。












最近仕事の事あんまり書いてなかったかも・・・。というわけで、学校関係の仕事がちょこちょこあったのでアップします。


カウンターパートが最近近くの高校で保健の授業を受け持つことになり、なぜか私も動員・・・。

これはエイズ教育です。

グループワークしてもらって、発表してもらってるところ。

これは、駒ケ根の訓練所時代にエイズ対策隊員の人が模擬授業をしてくれて、ずっと任地でもしたいなあって思ってて、念願かなって実施。

助産師かっしーのパラグアイ日記



所変わってこちらは、テレビ局。

パラグアイの学校は日本みたいに養護教諭がいません。

おなじみの健康診断なんて夢のまた夢。

妊婦検診にきて、うまれて初めて背をはかった、なんて人もざらにいます。

で、知り合いの看護師が、これじゃあ!ってことで、任地で一番大きな高校で、保健室を開くことに決めました。

日本の学校保健システムについても話していたりしたので、せっかくだから、そのオープンする日に一緒に学校保健の重要性について、話にいってきました。
助産師かっしーのパラグアイ日記

私たち日本人にとって、学校に保健室があって、養護教諭が保健管理をしてくれて、健康教育もきちんと受けれて、っていう環境は実は本当に本当に恵まれています。


うまく機能してくれるといいなあ。