§心の天秤 11
バタバタと病院内を走ると、すれ違う看護婦に怒られるのだがそんなことを構っている余裕はなかった。
事故にあった連絡が会社に来たのは、奏江が社員証を持っていたからだった。
たまたまそこに蓮とキョーコがいただけだったのだが・・・。
『有理!?』
蓮は、ナースステーションで聞いた奏江のいる病室を勢い良く空けるとそこには見慣た人物がいた。
『かい・・と!?・・・なんでお前がここに・・』
弟の飛鷹がここにいることに驚きを隠せない蓮だったが、事故にあったと聞かされた奏江の様子の方が心配で病室をさらに覗き込んだ。
すると、奏江は右頬と右手首に包帯が巻かれているがベッドに腰をかけた状態で今、まさに帰ろうと靴を履いているところだった。
『え!?小崎さん・・・・・それに・・・美沙・・・・』
蓮の後に入ってきたキョーコの姿を確認して、奏江は払拭しようとしていた気持ちがまた湧き上がってくることを防ぐことは出来なかった。
『出てって・・・みんな・・出て行ってください・・・海斗君も・・ごめん・・・ありがとう・・・』
蓮や、飛鷹が口を開きかけたが奏江は誰からも顔を見られないように横を向き俯いてその長い髪で顔を隠した。
『・・・っ・・最低だな・・兄さん・・』
『え?・・』
『こんなところにまでその人と一緒に現われるなんてっ、有理さんがどれだけ』
『やめて!海斗君!!』
物凄い剣幕で睨みつける飛鷹に、蓮は度肝を抜かれた。
『一体何のことだ?・・・俺たちは今まで会社にいて仕事をしていただけだ・・そこで連絡を受けたから・・・』
蓮は困惑しながらも真実を伝えた。
それでもなお、不信感を顕にしようとした飛鷹の代わりに奏江が口を開いた。
『・・・主任には・・休日変更してまでの急ぎの仕事は無かったと・・思ったんですが、それは私の勘違いですか?』
先程まで勢いよく噛み付いてきた飛鷹と違って、奏江のそれは酷く落ち着いていた。
その落ち着きが、奏江の心の沈みこみを物語っているようだった。
『っ!・・・それ・・は・・・』
奏江の問いに蓮は口ごもった。
それを飛鷹は抗議しようと口を開いた時、キョーコの声が病室に木霊した。
『私が!・・・私の仕事が・・・もう、時間がなくて・・・主任に手伝ってもらっていたの・・』
『美沙・・の?』
キョーコの抱える仕事にそんな急ぎの仕事は無いはずと奏江は、眉間に皺を寄せた。
『・・・ごめん・・・有理・・・主任にも黙っててもらったの・・・・今月末には私が会社を辞めること・・』
『!?・・・ど・・・いうこと?』
『実家の旅館を継ぐことにしたの・・・父の具合が思ったよりも回復しなくて・・・・』
そう言われて奏江は、驚きで目を見開いた。
『もしかして・・・最近、忙しくて会えないって言ってたのは・・」
『うん、父の様子を見に実家に・・・だけど・・退院はしても旅館の仕事には出れなくて・・・母一人じゃ無理で・・・・だから、私が帰って継ぐことにしたの・・・だけど、有理には言い出しにくくて・・・主任には話しておかなきゃいけないし・・だけど、主任から有理に伝わるのはもっと嫌だったから日にちが近くなったら言おうって思ってたの・・』
『それならもっと早くに言って!?今月末ってもう明後日だよ!?知ってたら私、何でも手伝ったのにっ』
『ほんと・・・ごめん・・・』
申し訳なさそうに頭を下げるキョーコに、奏江はボトボトと涙を落とした。
『ああ・・・だから・・そうやって泣かれるのが嫌だったの・・・私、アンタのその泣き顔に弱いんだから・・・』
キョーコは自分の目尻にも浮かんできた涙をさっと拭って奏江の頭を抱きかかえた。
『私・・酷い奴だよ・・・美沙がそんなに大変なことも知らないで小崎主任のこと疑って・・・』
『ううん・・私が口止めしてたんだし・・・当然だよ・・・でも、大丈夫。主任はアンタに完全に堕ちてるから』
『へっ!?』
『っ・・浅田さん!』
真っ赤になる蓮に驚いたのは、奏江と飛鷹でキョーコはイタズラっぽく舌を小さく出して奏江に笑いかけた。
『アンタをずっと守るって私に約束してくれたから心配しないで?もし、なにかあったら私の旅館にいつでも引きこもりにおいで?うんと反省させて仲直りすればいいから』
『美沙・・・・・・ありがとう』
『さて、怪我も大した事なさそうだし・・・お邪魔虫は退散するわよ!』
『うわ!?引っ張るなよっ』
飛鷹は勢い良くキョーコに引っ張られ、病室から出されたのだった。
『・・・本当にずるいのは・・・私よ・・・』
ほんの少しの間だけでも、奏江のことをよりも自分のことを考えて欲しかった。
例えそれが、一部下として。恋人の友人という立場でも・・。
キョーコは、大きく息を吐き出した。
『よし!!今日は仕事も何とかなったし飲みに行くわよ!付き合いなさい!!』
『なっ!?なんで俺が!?』
『有理に失恋したんでしょう?今日は私が愚痴を聞いてあげるわよ!』
『いいよ、別に』
『いいから!付き合いなさい!!』
『いてててっ!?引っ張るな!!』
騒々しく廊下で騒いだ後、病院を後にした二人と違って病室に残った奏江と蓮は沈黙の中にいた。
『・・・つまり・・・君は俺を疑っていたということ?』
蓮の低い声が、奏江の肩を震わせた。
『す・・・すみません・・』
『しかも、海斗の話を信じた・・・』
『すみません!!だって・・・私よりもずっとしっかりしている美沙の方が主任とお似合いのような気がしてしまって・・・』
しゅん・・・と小さくなる奏江の前に、蓮はコツリと歩み出て立った。
『ショックだよ・・・俺はそんなに信用ならないなんて・・・』
『ち、違います!私が・・・ダメダメなだけです・・・』
しょんぼりと項垂れている奏江の頬につけられているガーゼを、蓮はそっと指先で撫でた。
『怪我・・・・大丈夫なのか?』
『あ、はいっ自転車とぶつかっただけで・・』
『他には・・・ここも?』
蓮は奏江の細い手首に巻きつけられている包帯を見つめた。
『これは・・手をついた時に捻挫してしまったみたいで・・・・』
手首をもう片方の手で隠しながら、小さな声で説明する奏江の頭上に蓮のため息が零れた。
『だめだね・・・君は・・・』
その言葉に奏江は泣きそうになった。
『は・・・い・・・』
『無鉄砲だし、勘違いも多いし・・・』
『はい・・・すみません・・・・』
『見張ってないと何をするのかわからない・・』
『はい!すみません・・!!』
『俺がいないとダメ・・・そうだろ?』
謝り続けていた奏江の体が、急に温かなもので包まれた。
それは、蓮の体だった。
奏江は、ぎゅっと蓮に抱きしめられていた。
『君は・・・俺の側にいないとダメなんだ』
『・・・・はい・・・』
『そして・・俺も君が側にいないとダメなんだ』
『!・・・・主任・・・』
『その呼び方・・この状況でする?』
蓮は奏江を抱きすくめたまま、苦笑した。
『っ・・・小崎・・さん・・・』
『それもね~?・・・他には?』
『っつ・・・・空也・・・さんっ』
『うん、合格』
そう、微笑んだ蓮は真っ赤になった奏江に唇を寄せたのだった。
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カットの声がかかると、奏江は大きく深呼吸をした。
(美形って・・・・至近距離の破壊力が半端ないわ・・・)
奏江はふらつきながら立ち上がると、目の前に手を差し出された。
「大丈夫?琴南さん」
先程までのシーンのことなど微塵も感じさせないほど、爽やかに笑っている蓮の手を奏江は掴まずに頭を軽く下げた。
「大丈夫です・・・ありがとうございます」
「うん・・・もう、あと少しだから頑張ろうね?」
ニッコリと笑う蓮に、奏江は内心うんざりした。
(これじゃ、あの子が振り回されても仕方ない・・・ううん・・共演者全員が今までこの人に振り回されてきたのが納得できたわ・・・・)
蓮の背中に『元祖共演者キラー』のレッテルを奏江は心の中で、べったりと貼り付けた。
そんなこととは露知らず、蓮はイソイソとキョーコの元へとやってきた。
「最上さん、次のシーンでクランクアップだね?」
「・・・へ?」
蓮に話しかけられ、キョーコはようやく異空間から戻ってきた。
「・・・もしかして・・・集中してた?」
「は?・・・」
「・・・違うのか?」
まだ呆然とするキョーコに、蓮が魔王の空気を出すとキョーコは覚醒した。
「いえ!集中してました!!それはもう!!」
「・・・・そう・・・」
「はい!!」
集中はしていた。
奏江とのキスシーンを見るまでは。
寸止めなんてしていなかった。
以前教えてもらった心の法則を、見ているだけだった自分が使いたくなるなんて思いもしなかったし今まで何度か蓮と他の女優のラブシーンを見慣れてきたキョーコでも奏江とのシーンは衝撃が強かった。
もう、天秤の主柱がぽっきりと折れてしまうほど。
しかし、それはおくびにも出さない。出せない。
蓮の気持ちに答えていないキョーコに、そんな資格は無いから。
蓮の手を取れなかった自分には・・・・。
「・・・最上さん?」
「へあ!?」
「・・・大丈夫?」
目の前で動く薄くて艶やかな唇。
先程、自分に告白してきた唇。
その直後に奏江にキスした唇。
触れたいと思うのは、蓮自身から発せられる色気のせいできっと内に潜む恋心のせいなんかじゃない。
心の天秤が崩壊したのは自分の役者根性が足りなかったから。
大丈夫。
なにが?
大丈夫。
これは恋をしていると錯覚しているだけ。
大丈夫。
本当に?
大丈夫。
敦賀さんはそういう人。
大丈夫。
どうして?
大丈夫。
私は敦賀さんに恋をしている役を植えつけられているだけ。
だから。大丈夫。
この役が終わったら・・きっと・・・・。
ダカラ、ダイジョウブ。
「はい!大丈夫です」
「・・本当に?」
「本当に」
「全然?」
「全然」
「・・・・・そう・・・じゃあ・・今夜、君がクランクアップしたお祝いをしよう・・だから、最後まで『美沙』をやりきっておいで」
「はい!」
ダイジョウブ。ダイジョウブ。ダイジョウブ。
きっと終わったら・・こう言ってくれるわ・・・。
『良く頑張ったね。これで、俺は君に好かれるよう努力しなくても済む』って・・・。
颯爽とセットの中に向かうキョーコの中でこんな考えが渦をなしていることなど、この時誰も気づかないのだった。
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